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経済支配層や知的エリートも彼らの価値観や論理の奴隷
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投稿者 あっしら 日時 2003 年 3 月 21 日 04:50:47:

(回答先: 一庶民の疑問 投稿者 ルンペン 日時 2003 年 3 月 20 日 23:06:36)


ルンペンさん、こんばんわ。


>自分をはじめとする一般庶民が(読み書きの出来る)家畜に思えてきます。

家畜のように他者を見ているのは経済支配層や知的エリートですから、自分で自分のことを家畜のように考えることはありません。
あくまでも、彼らが勝手にそのように見ているという話です。

自分で自分を家畜と考えるのは、それこそ彼らの思う壺です。彼らは、あきらめや卑下に陥った人のほうが御しやすいと思っています。

経済支配層や知的エリートも、彼らの価値観や論理の奴隷状態にある人たちです。

以前も書いたことがありますが、自然を構成する存在である人は、神と違って、根源的に自由ではないのです。

自分は自由な存在だと思念することはできますが、それは、思い込みでしかなく、人がどのような存在であるかを知らないがゆえに信じることができるものでしかありません。

人は根源的には自由ではないと了解することが、「自由」への出発点だと考えています。
傲慢にも、自分は優れた存在であり自由だと信じている人こそ囚われた人です。


人は自由ではないからこそ、他者と関係しながら自分の感受性と思考力そして身体を駆使することで、自由でない度合いを減らしていく存在だと思っています。

そして、そのような活動を主として担っているのは一般庶民です。
金融理論や支配手法そして軍事理論は、ある歴史段階で重みを持つものであり金儲けや支配に役立つものであっても、「自由」の獲得に役立つものではありません。

生存に必要なものをつくり出す術を体得したり自分の身の始末をできるほうが、空虚な論理を振り回すよりも、より「自由」に近づくことです。

さらには、喜びや心地よさを目いっぱい感じられる感受性やそうなるために考え動く能力をもつことが、「自由」に近づくことです。

金融理論を知っていてお金を儲けられるよりも、自分や奥さんがつくった料理を食べて大きな喜びを感じられる力を持っているほうが「自由」なのです。

空虚な言葉で議論に勝つよりも、愛する相手とのセックスで大きな快楽を得たり、人の痛みに共感できるほうが「自由」なのです。

そのような「自由」を得る力を持っているほうが、他者を道具や家畜だとみなして利用する力を持っているよりいいとは思いませんか。


私が書いていることは、現実の認識でしかなく、現実とは違います。
そして、金融理論と同じように、現実を認識したからといって「自由」になるわけではありません。
現実のなかでできるだけ心地よく楽しく生きていくために、現実の認識はそれなりに持ちながらも、“のどかに”生きていきましょう。

現実認識に押し潰されたり自分に嫌気を催したら、それこそ支配層の思う壺です。
支配層を侮蔑しながら、楽しく生きていけばいいと思っています。

どうしても楽しく生きていけない現実に身を置くようになったら、そのときに現実認識に基づく行動を起こせばいいと思っています。
そのときには多くの人が同じ思いになっているはずですから、現実が変わることになるはずです。
(失業しても、病気になっても、現実認識ができていれば、そのなかで快楽を得ることができると思っています)

多くの人が今の現実では楽しみも喜びも得られないという現実がそれほど遠くないうちにやってきます。
そういう現実になったときに、現実認識が力を発揮することになります。
(それまでは、私の書き込みも物語として読んでいただければと思っています)


>もし彼らが「悪魔崇拝者」だとしても人間ならば「悪趣味なこと」は生理的に続けら
>れない(体に悪いヨ)と思うのですが。(実際そうしていると言われればそうなんで
>すが。)

趣味は人それぞれですから、同じことでも悪趣味かどうかは人によって判断が異なります。

断言できることですが、「悪魔崇拝者」は体に悪い悪趣味は微塵も行いません。
彼らは快楽主義者でもあります。ただ、それは知性優越主義的に偏っているだけで、感受性よりも知的に解釈して快楽を感じるという妙な傾向があるだけです。


>それとも彼らにとっては人間を痛め続けることが、真理であり善であり美的価値観に
>沿うことなんでしょうか?

宇宙の真理や法則だと信じていることを知らない人を同じ人間だと思わない人たちです。
真理を知らない人たちが惨めになることは仕方がないことだと思っています。

いないと困る人たちとは思っていますが、あまりにそばにいて欲しくないと思っています。

彼らは勝手に、被支配者は真理・善・美的価値観を知らない愚昧な存在だと思っているのです。

ざっくり言ってしまえば、被支配者でありながら今の現実をすばらしいと受け止めているような人は、真理・善・美的価値観を知らない愚昧な存在だと侮蔑しています。

>文学や音楽や映画も彼らにとっては支配の道具に過ぎないのでしょうか?

一概には支配の道具と言えません。
というのは、それらは重要な商売のネタになっていますから、人々が買うものを提供しなければならないという宿命を背負っているからです。

もちろん、意識的に支配の道具として作り上げ提供するものもあります。
とくに芸術として評価するものにはその傾向があります。映画でも、A級よりもB級のほうが内容があるものが多いと思っています。

文学や音楽や映画は“大型大衆消費財”になっていますから、購買者である我々の感受性が変われば、否応なくそれに沿った作品が多く生まれ出ることになります。

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