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イラク:裏切られた人々
http://www.asyura.com/0304/dispute9/msg/710.html
投稿者 てんさい(い) 日時 2003 年 4 月 06 日 05:29:15:KqrEdYmDwf7cM

(回答先: 【非人道的】イラク.裏切られた人々【湾岸後の経済封鎖の実態】 投稿者 キャプテン 日時 2003 年 4 月 03 日 03:34:24)

イラク:裏切られた人々
ジョン・ピルジャー
2003年2月23日
ZNet原文

アル=アリ博士はイラクのバスラにある病院の癌専門医で、英国王立医師協会会員で
もある。端正な口ひげを蓄え、優しい皺のある顔立ちをしていた。糊のきいた白衣も、
シャツの襟首も、すり切れていた。

「湾岸戦争の前、癌で死亡する患者は月に3、4人でした」と彼は語った。「今では、
私の部局だけで、毎月30人から35人の患者が死んでいきます。癌による死者が1
2倍に増えているのです。私たちの調査では、この地域では、住民の40パーセント
から48パーセントが、癌になるでしょう。向こう5年のうちにの話です。こうした
状況は、その後も長く続くでしょう。人口の半分近くが、癌になるのです」。

「私自身の家族も、ほとんどが癌にかかっています。過去、私の家系に、癌の記録は
ありませんでした。正確な汚染源はわかりません。というのも、きちんとした調査を
行うための機材を入手することは、許されていないからです。私たちの体の放射能レ
ベルを調べることすらできません。劣化ウランが原因ではないかと強く疑っています。
湾岸戦争のときに、南部の戦場で、米英軍が使ったものです。原因が何であれ、ここ
は、まるでチェルノブイリのようです。この遺伝上の影響は、私たちには初めてのこ
とです」。

「キノコは巨大に育ちます。以前は美しかった川から採れる魚も食べられなくなりま
した。私の家の庭にあるブドウまでもが変異を起こして、食べられなくなってしまい
ました」。

廊下で私は小児科医のジナン・ガリブ・ハセン博士に会った。別のときだったら、彼
女は活発なと形容できる性格だったかも知れない。けれども、現在は、彼女も、持続
的な憂鬱を抱えたような表情をしていた。イラクの人々によく見られる表情である。
4歳くらいに見える衰弱した男の子の手をとって、「これがアリ・ラファ・アスワデ
ィです」と彼女は子供の名前を教えてくれた。「この子は9歳で、白血病にかかって
います。治療することができません。薬は一部しか手に入らないのです。2、3週間
分の薬を入手したあと、輸送がとまって薬が入手できなくなったりします。治療は、
継続しないと無意味なのです。輸血用バッグが足りないために、輸血さえできません」。

ハセン博士は、自分が救おうとして救えなかった子供たちの写真を収めたアルバムを
持っている。青いプルオーバーを着た輝く目を持つ男の子の写真を指さして、彼女は、
「タルム・サレです」と言った。「彼は5歳半で、ホジキン病[悪性リンパ腫]にか
かっています。通常ならば、ホジキン病の患者は生き延びて、95パーセント治療す
ることができます。けれども、ここでは、薬が手に入らないので、合併症を併発し、
命を失うことになります。この男の子は、すばらしく気だてがいいのですが、死にま
した」。

「歩いているとき、時々立ち止まって壁を向きますね」と私は彼女に語りかけた。「そ
う、感情的になったのです・・・医者ですから、泣いてはいけないのですが、毎日、
涙が出ます。これは拷問です。子供たちは、生きることができたのです。生きて、育
っていくことが、できたのです。自分の娘や息子が目の前で死んでいくのを見たとき、
人はどう思うでしょうか」。「子供たちの異常と劣化ウランの関係を否定する西側の
人々に対して、何か言いたいことはありますか」と私は尋ねた。「それは嘘です。ど
れだけの証明が必要だというのでしょうか。先天的形成異常と劣化ウランの間には強
い関係があります。1991年以前には、こんな現象はまったくありませんでした。
関係がないというのなら、どうして昔は異常が起きなかったのでしょうか。病気にか
かっている子供たちの多くは、家族に癌が発生した記録などないのです」。

「私は、ヒロシマで何が起きたかも調べました。こことほとんどまったく同じ事態が
起きていました。ここでは、先天性形成異常が増加し、悪性腫瘍、白血病、脳腫瘍が
増えています。ヒロシマと同じなのです」。

国連が適用した、今年で14年目になる経済封鎖のもとで、イラクは、1991年の
湾岸戦争で汚染された戦場の汚染除去に必要な設備も専門知識も手にすることができ
ないでいる。

クウェートの除染を担当した米軍の物理学者ダグ・ロッケ教授は私に次のように話し
た。「私もイラク南部の多くの人と同じような状態にあります。私の体は、基準レベ
ルの5000倍の放射能に冒されているのです。私のチームに参加したメンバーのほ
とんどは、すでに死んでしまいました」。

「私たちは、西洋の人々が直面しなくてはならない問題を抱えています。正と邪の観
念を備えた人々が直面しなくてはならない問題を、抱えているのです。その第一は、
米国と英国が大量破壊兵器である劣化ウランを使うと決定したことです。戦車の砲弾
一発ごとに4500グラムの固形ウラニウムが発射されます。湾岸戦争で行われたの
は、ある種の核戦争なのです」。

1991年、英国原子力局の報告は、湾岸戦争で使われた劣化ウランの8パーセント
を人々が吸入したとすると、「50万人の死者を生む」可能性があると報じた。米英
が現在計画しているイラク攻撃でも、米国は、ふたたび劣化ウランを使うだろう。そ
して、英国も。そのことを否定してはいるが。

ロッケ教授は、イラク政府関係者が米英の政府筋に、汚染除去と癌の検査のための機
材を輸入する点だけでも封鎖を緩和するよう求めたところを目にしたという。「彼ら
は、死と恐ろしい形態異常について説明したのですが、拒絶されました。・・・痛ま
しいことでした」。

経済封鎖を管理するために安保理が設立したニューヨークの国連制裁委員会は、アメ
リカに支配されており、それをイギリスが後押ししている。米国政府は、一連の決定
的に重要な医療器材、化学療法のための薬、さらには鎮痛剤の輸出すら、拒否したり
遅らせたりした。(「否定」世界の慣用語法では、「妨げる」ことは拒否することを
意味し、「待機中」は遅れるか、または妨げることを意味する。)バグダッドの、と
ある診療所で、私は、医師が両親と子供を診療するのを診ていたことがある。人々の
多くは灰色の肌をしており、髪の毛が抜け落ちていた。死にかけている人もいた。2、
3人診るごとに、腫瘍の治療を専門とする若いレカー・ファセー・オゼール博士は、
英語で次のように書いていた。「薬、なし」。私は、彼女に、病院が発注したけれど、
受け取っていないあるいはとぎれとぎれにしか受け取っていない薬を私の手帳に書い
てくれるよう頼んだ。まるまる一ページが、薬のリストで一杯になった。

イラクで、私は、「代償を支払う:イラクにおける子供たちの殺害」というドキュメ
ンタリー・フィルムを撮影していた。ロンドンに戻ったとき、私はオゼール博士が書
いてくれたリストをキャロル・シコラ教授に見せた。シコラ教授は世界保健機構(W
HO)の癌プログラムの委員長であり、英国医学会誌に次のように書いていた。「要
求された放射線療法の機材や化学療法の薬品や鎮痛薬は、[制裁委員会の]米国と英
国のアドバイザによりいつも阻止されている。こうしたものが化学兵器などの武器に
流用できるというのは、馬鹿げた考えであるように思われる」。

シコラ教授は、私に次のように説明した。「ほとんどすべての薬は、英国ではどんな
病院でも手に入るものです。極めて標準的な薬です。昨年イラクから戻ってきたとき、
私は専門家のグループとともに癌治療に必須の薬品17種類のリストを作成しました。
そして、国連に、これらの薬品を生物兵器物質に用いる可能性はないと言いました。
その後、国連からは何の連絡もありません」。

「イラクで私が目にした中でもっとも悲しいことは、子供たちが、化学療法を施せず
鎮痛薬もないために死んでいくことです。モルヒネさえないのは異様なことです。癌
の痛みにはモルヒネがもっとも効果的なのです。私がイラクにいたときに、痛みに悩
む200人の患者にアスピリンの小瓶を配るところを見ました。特定の抗癌剤を投与
されることもあり得ますが、それからときおりわずかな薬を得るだけだったりします。
何の治療計画も立てられないのです。グロテスクなことです」。

私は、シコラ教授に、国連の制裁委員会が亜酸化窒素を「武器への二重利用」として
禁止したことに、ある医師が非常に怒っていたと伝えた。亜酸化窒素は帝王切開時の
止血に使われるもので、これにより母体を救うことができるかも知れないものである。
「なぜそれを禁止するのかまったくわかりません」と彼は言った。「私は武器の専門
家ではありませんが、医療用に必要な量はとてもわずかですから、国中の医療用亜酸
化窒素を集めても、化学兵器を造ることができるとは考えられません」。

デニス・ハリデーは、34年の長いあいだ国連に勤務し、最近では事務総長補佐にも
なった、上品なアイルランド人である。彼は、1998年に、国連のイラク人道調整
官を辞任した。一般市民に対する経済封鎖の影響に抗議してのことであった。辞任す
る際、彼は、理由を次のように述べていた。「経済封鎖政策は、完全に破産している。
われわれは、一社会全体を破壊しつつある。そういうことなのだ・・・毎月5000
人の子供が死んでゆく。私は、こんな人数の犠牲を出すプログラムを担当したくはな
い」。

ハリデーに会って印象づけられるのは、その注意深い、けれども妥協しない言葉の背
後にある原則である。「私が実施するよう指示されたのは、ジェノサイドの定義に合
致するような政策でした。100万人をゆうに超す人々 −子供も大人も− を実質的
に殺害してきた意図的な政策なのです。私たちはみな、経済封鎖の代償を払っている
のは、イラクの政権 −サダム・フセイン− ではないことを知っています。逆に、彼
の権力は強化されたのです。きれいな水がないために子供を失ったり両親を失ったり
しているのは普通の人々です。国連安保理が現在、制御不能状態にあることは明らか
です。安保理の行動は、国連憲章に反し、人権宣言に違反し、ジュネーブ条約を犯し
ているのです。歴史が、責任者たちを裁くでしょう」。

国連内で、長いあいだ続いた集団的沈黙を破ったのがハリデー氏だった。2000年
2月13日には、ハリデーの後継としてバグダッドの人道調整官となったハンス・フ
ォン・スポネックも辞任した。ハリデー同様、彼も30年間国連に勤務していた。「自
分たちがしたことではないことについて、イラクの一般市民は、どれだけのあいだ、
これほどまでの罰を受け続けなくてはならないのでしょう」と彼は述べていた。その
二日後、イラクの世界食料計画(WFP)代表ジュタ・ブルガートが辞任した。彼女
もまた、イラクの人々に対してなされていることに耐えられないと語った。

一連の辞任は、前例のないものだった。3名が3名とも、口に出してはならないとさ
れていたことを語っていた。すなわち、ハリデーの推定で100万人以上にのぼる大
量の死に対して、責任があるのは西洋であるという点である。技術的に言えば、食料
と医薬品は経済封鎖の例外になっているが、制裁委員会は、頻繁に、乳児食や農業用
品、心臓病や癌の薬、重患ベッド用酸素テント、X線撮影機などの求めを拒否したり
遅らせたりしてきた。心臓と肺の治療に用いる16の機器が、コンピュータ・チップ
を含んでいるとして「待機中」扱いにされた。救急車の一群も、医用品の保冷用に真
空フラスコが含まれていたため差し止められた。真空フラスコは、制裁委員会により
「二重利用」品目に指定されていたのである。「二重利用」というのは、兵器製造に
利用される可能性があるという意味である。「差し止め」リストに頻繁に顔を出すと
ころを見ると、塩素のようなクリーニング用の物質も、鉛筆に使われるグラファイト
も、一輪車も、「二重利用」品目に数えられているようである。

2001年10月時点で、制裁委員会は、人道的物資に関する1010件の契約 −3
8億5000万ドル相当− を「差し止め」ていた。その中には、食料、保健、水道・
衛生、農業、教育に関わるものも含まれている。現在、差し止められている物資の額
は50億ドルに達している。このことは、西洋メディアではほとんど報道されない。

デニス・ハリデーがイラクで国連上級職員として勤務していたとき、彼のオフィスの
玄関広間に陳列棚が据えられていた。そこには、小麦一袋と固形の料理用油と、石鹸
など、いくつかの家庭用品が入っていた。「哀れな眺めです」と彼は語った。「これ
が、私たちが利用を許されている一カ月分の割り当てなのです。タンパク質摂取量を
上げるためにチーズを加えましたが、イラクが許された範囲の石油を売って得た収入
で得られる、使って良い予算に残っていた額は十分ではありませんでした」。

ハリデーは、食料輸出は「二枚舌の活動」であるという。この食糧供給について、米
国は一日一人あたり2300カロリーをまかなうと称しているが、実際には、せいせ
い多くて2000カロリーしかまかなうことができない。「不足しているのは、動物
性タンパク質、ミネラル、ビタミンです。イラク人の多くは、ほかに収入のみちがな
いので、食料が交換の媒体になります。食料以外の生活必需品を買うために、食料が
売られるのです。そのため、カロリー消費はさらに低下します。子供を学校にやるた
めに、服や靴も買わなくてはなりません。そのために食料を売って栄養失調になった
母親は母乳で子供を育てることができず、汚染された水に頼ることになります」。

「浄水と水道、食品の加工と備蓄、冷蔵のための電力、教育と農業が必要です」とハ
リデーは言う。ハリデーのあとを引き継いだハンス・フォン・スポネックは、「食料
のための石油プログラム」が提供するのは、一人当たり年間100ドルであるという。
この金額で、電力や水などの社会全体のインフラや必須サービスも支えなくてはなら
ない。

「これだけの額で生き延びるのはまったく無理です」とフォン・スポニックは私に語
った。「浄水もなく、1日22時間停電し、大多数の病人は治療を受けられず、毎日
を生き延びるだけの生活のトラウマを抱えた社会に、たったこれだけの収入。悪夢と
いうものを目にする思いです。そして、はっきりさせなくてはなりませんが、これは
意図的な政策なのです。これまで私は、ジェノサイドという言葉を使いたくありませ
んでした。けれども、今は、この言葉を使わざるを得ません」。

信じがたい程の人々の命が失われた。ユニセフの調査では、1991年から1998
年までに、5歳以下のイラクの子供たち50万人が死亡している。これは、通常の5
歳以下の子供たちの死亡率を差し引いての人数である。一月に、平均5200人の子
供たちが、失わなくてすんだはずの命を失ったことになる。

ハンス・フォン・スポニックは次のように述べている。「毎日、167人くらいの子
供たちがイラクで死んでゆく」。デニス・ハリデーは、さらに、「大人の犠牲を考慮
するならば、犠牲者が100万人をゆうに超えているのはほとんど確実である」と述
べる。憂鬱が人々を包み込んでいる。バグダッドのどの競りでも、それが感じられた。
そうした競りでは、食べ物や薬を買うために、大切な品々が売られていた。よくある
のはテレビである。二人の幼児を抱えたある女性は、何ペンスかを得るために、乳母
車を売っていた。15歳のときから鳩を飼っていたという男性は、最後の鳩を売りに
出していた。次に売りに出すのは、鳥かごだろう。

私と撮影スタッフは、見て回っているだけだった。けれども、人々は私たちを歓迎し
てくれた。中には、困難を抱えてしょんぼりしている人々がそうであるように、まっ
たく私たちのことを意に介さない人たちもいた。イラクで3週間撮影取材をおこなっ
ていて、怒りをぶつけられたのは一度だけだった。「おまえたちは何故子供を殺すの
か」とある男性が路上で声をあげた。「何故私たちを爆撃するのか。私たちがおまえ
たちに何をしたというのだ」。バグダッドにあるユニセフの事務所のガラス製の扉を
通して、ユニセフの職務宣言が見える。「何よりも大切なのは、女性と子供の、生存、
希望、発展、敬意、威厳、平等と正義である」。

幸いにして、路上にいる、棒のようにやせ細り、細長い顔立ちをした子供たちは、英
語を読めない。もしかすると、そもそも読み書きができないかもしれない。「私の経
験の中で、これほど短期間にこんな変化が起きたのははじめてです」。ユニセフのバ
グダッド事務所の上級代表を務めるアヌパマ・ラオ・シン博士は私にこう言った。

「1989年には、識字率は90パーセントでした。子供を学校にやらない両親は罰
せられていました。ストリート・チルドレンなど耳にしたこともありません。イラク
は、子供も含む国民の安寧をめぐる全体的な指数で言うと、世界で最良の状態にあっ
た国の一つでした。今は、最下位の20パーセントの中に入っています」。

長い間ユニセフに務めてきたシン博士は、小柄なグレー・ヘアーの女性であり、その
正確な話し方は、彼女が以前インドで教師をしていたことを思い起こさせる。彼女は、
私をサダム・シティにある普通の小学校に連れていってくれた。サダム・シティは、
バグダッドの大多数の、そして貧しい人々が住む地域である。学校へ行く道は水が溢
れていた。湾岸戦争の爆撃で、下水道と上水道が破壊されたためである。校庭の水た
まりを避けながら私たちを案内してくれた校長先生アリ・ハスーンは、校舎の壁を指
して言った。「冬には、水がこのあたりまで来ます。そのときには、避難しなくては
なりません」。

「私たちは、できるだけ長く学校を開いて授業を続けますが、机がないので、子供た
ちは煉瓦の上に座ります」。この話をしているときに、遠くで空襲警報が鳴った。学
校は、大規模な工業地帯の廃墟のはずれにあった。下水処理工場のポンプも移動用貯
水槽は、わずかに動くところの音がするだけで、あとは沈黙を守っていた。爆撃を逃
れた工場も、その後、崩壊した。イギリスやフランス、ドイツ製の部品が、永遠に「差
し止め」状態にあるからである。

1991年以前、バグダッドの水道は、先進国同様に安全であった。今では、チグリ
ス川から生水を引いており、死を引き起こす危険がある。1999年のクリスマス直
前に、英国通産省は、イラクの子供たちをジフテリアと黄熱病から予防する予防注射
の輸出を制限した。

キム・ホーウェルズ博士は、その理由を議会に次のように説明している。子供たちの
予防注射は、「大量破壊兵器に利用可能なものである」。「競争および消費者問題議
会内務補佐」という肩書きは、この人物のオーウェル風発言に、よく似合う。

米英の戦闘機は、イラクで、一方的に宣言した「飛行禁止ゾーン」を飛び回っている。
「飛行禁止」というのは、米英とその同盟国だけが飛行できるという意味である。北
部のモスル周辺からトルコ国境地帯までと、南部のバグダットのすぐ南からクウェー
ト国境までが「飛行禁止ゾーン」とされている。米英の政府は、この飛行禁止ゾーン
は「合法的」なものであると主張している。つまり、国連安保理決議688号の一部
であるとか、それにより支持されていると言うのである。

英国政府の主張が疑問に付されるときに、外務省は、この問題の周囲を霧で包む。安
保理決議には、飛行禁止ゾーンをめぐる文言は何もない。このことは、飛行禁止ゾー
ンには国際法的根拠が無いことを示している。

私は、パリに飛び、決議が採択された1992年当時国連の事務総長だったブトロス・
ブトロス=ガリ博士に会った。「飛行禁止ゾーンという問題は提案されませんでした
し、議論もされませんでした。一言も、話題に上りませんでした」と彼は私に説明し
てくれた。「決議は、どの国に対しても、戦闘機をイラクに派遣して攻撃することを
許容していません」。「つまり、飛行禁止ゾーンは不法だということでしょうか」と
私は訊いた。「そうです。不法です」と彼は答えた。

飛行禁止ゾーンで米英が行っている爆撃は、驚くべき規模である。1998年7月か
ら2000年1月のあいだに、米国空軍と海軍の戦闘機がイラク上空に3万6000
回出撃した。そのうち2万4000回は戦闘目的であった。1999年だけで、英米
の戦闘機は、1800発以上の爆弾を投下し、450以上の標的を爆破した。このた
めに英国の納税者が支払った金額は、8億ドルを超える。

ほとんど毎週、爆撃が行われている。第二次世界大戦以来、最長の、米英軍による空
襲攻撃であるにもかかわらず、米英のメディアではほとんど報道されない。ニューヨー
ク・タイムズ紙は、あるとき珍しくこの爆撃に言及し、次のように報じた。「実質的
に公衆の議論はなされないまま、米軍戦闘機は、整然とイラクを攻撃している。パイ
ロットは、ユーゴスラビアでの78昼夜におよぶ爆撃で行った使命の3分の2に達す
る出動を行った」。

米英の政府によると、飛行禁止ゾーンの目的は、北部のクルド人と南部のシーア派を
サダムの部隊から守ることにあるという。トニー・ブレアは、戦闘機が行っているの
は「不可欠の人道的任務」であり、「少数派に自由への希望を与え、自らの運命を決
する権利を与えるものである」と述べた。

イラクについてブレアが口にするレトリックの多くと同じように、この発言も単に嘘
である。北部イラクのクルド人居住地域で、私がインタビューしたある人は、「連合
軍」の航空機が飛来して、世話をしていた羊の群を爆撃したときに、祖父と、父と、
4人の兄弟姉妹を失ったと語った。バグダッドから現場へ出向いたハンス・フォン・
スポネックは、この攻撃を調査し、それが事実であることを確認した。家畜の群や農
民や漁民に加えられた同じような襲撃が何十件も、国連治安部が準備した文書に記録
されている。

ウォールストリート・ジャーナル紙は、米国が「純粋なジレンマ」に陥ったと報じて
いる。「イラクで・・・8年にわたり飛行禁止ゾーンを適用したのち、もう軍事標的
はほとんど残っていない。『われわれは最後の納屋まで破壊する』と、ある米国政府
官僚は述べている。『まだ多少は残っているが、多くはない』」。

まだ、子供たちが残っていた。バスラで最も貧しい地区アル・ジュモリアに米軍のミ
サイルが的中したときには、6名の子供が死亡した。そして、63人が負傷した。ひ
どいやけどを負った人々も多かった。ペンタゴンは、これを「付随的被害」と呼んだ。
早朝未明にミサイルが着弾した道を、私は歩いてみた。ミサイルは、家の並びに沿っ
て、一軒一軒の家を破壊していた。私は、二人の娘をもつ父に出会った。襲撃直後に、
結婚式を専門とする地元の写真家が、8歳と10歳の娘の写真を撮影していた。二人
は寝間着を着ていた。一人は髪にリボンを結んでいた。体は崩れた家の瓦礫に埋もれ
ていた。ベッドで寝ているあいだに爆撃で殺されたのである。この写真は、私の頭に、
こびりついて離れない。

国連事務総長のコフィ・アナンとインタビューするために、私は、ニューヨークに飛
んだ。別人に見えた。声が小さく、聞き取れない程であった。

「イラクを封鎖している国連の事務総長として、日々死んでいくイラクの子供たちの
両親に何かいうことはありますか」と私は訊いた。彼は、安保理は「スマートな制裁」
を検討中であると述べた。「子供に影響を与えるような荒っぽいものではなく」、「指
導者を標的とする」ような制裁を検討していると。国連が創られたのは、人々を助け
るためであって、害するためではないのではないか、と私は尋ねた。「イラクで起き
たことだけで、私たちを評価しないで下さい」というのが、彼の答えだった。

それから、私は歩いてペーター・ヴァン・ワルサムの事務所に行った。彼は、オラン
ダの国連大使であり、制裁委員会委員長である。地球の反対側にいる2200万人の
人々の生殺与奪権を握っているこの外交官の、まるで正反対の考えを同時に抱いてい
るような、西洋のリベラルな政治家にありがちな態度は、印象的だった。一方で、彼
は、イラクについて、まるでイラクの人々が皆、サダム・フセインであるかのように
話をした。もう一方で、ほとんどのイラク人は犠牲者であり、独裁者の捕虜となって
いると信じているようでもあった。

私は、サダム・フセインの犯罪で一般市民が罰を受けなくてはならない理由を尋ねた。
「むずかしい問題です」。「制裁は、安保理が利用できる対処法の一つであることを
知ってもらわなくてはなりません・・・そして、制裁は、ダメージを与えるものです。
軍事的手段と同様です」。「誰を傷つけるのでしょうか」と私は訊いた。「むろん、
それが問題です・・・けれども、軍事行動でも、必ず、付随的被害という問題は残り
ます」。「国民全員が付随的被害だというわけでしょうか。そう考えてよいですか」。
「いえ、私が言っているのは、制裁も[似たような]影響を与えるということです。
これについては、さらに調査しなくてはなりません」。

「どこに住んでいるか、どのような体制のもとに暮らしているかにかかわらず、あら
ゆる人には人権があるということを信じていますか」と私は訊いた。「もちろん」。
「あなたが適用している制裁は、何百万人もの人々の人権を侵害しているのですが」。
「イラク政権も非常に深刻な人権侵害を侵していることが記録されています」。

「それについては誰も疑っていません」と私は言った。「しかし、イラク政権が犯し
ている人権侵害と、あなたの委員会が犯している人権侵害との原理的相違はどこにあ
るのでしょうか」。「ピルジャーさん、それはとても複雑な問題なのです」。

「これだけ多数の死者を引き起こしている制裁措置は、化学兵器と同じくらい致死的
な「大量破壊兵器だ」と言う人々に対して何かご意見を下さい」。「それが公平な比
較だとは思いません」。「50万人の子供たちが死亡するというのは、大量破壊では
ないのでしょうか」。「それが公平な質問だとは思いません。私たちは、隣国を侵略
し、大量破壊兵器を所有している政府が引き起こした状況について話をしているので
す」。

「では、パレスチナを占領し、ほとんど毎日のようにレバノンを攻撃しているイスラ
エルに制裁措置が適用されないのはどうしてでしょうか。300万人のクルド人を家
から追放し、3万人のクルド人の死を引き起こしたトルコ政府に制裁措置が適用され
ないのはなぜでしょうか」。「好ましくない行為を行う国はたくさんあります。どこ
にでも出かけるわけにはいきません。繰り返しますが、事情は複雑なのです」。「あ
なたのイラク制裁委員会に、米国はどのくらいの権限を有しているのでしょうか」。
「私たちの委員会は、同意に基づいて活動します」。「アメリカが反対したら、どう
なるのですか」。「何もしないことになります」。

自分にとって政治的に有利になると見れば、サダム・フセインが、人々を飢えさせた
り人権を押さえつけるだろうということは、明らかである。彼が、自分自身と自分の
側近たち、そして軍と治安機構の維持だけに腐心していることは、まったく驚きでは
ない。

サダム・フセインの宮殿とスパイは、彼の肖像と同様に、イラクの至る所にある。け
れども、ほかの独裁者とちがうところは、彼は、生き延びているだけでなく、湾岸戦
争以前には、石油収入を使って人々の人気をある程度得たことである。敵対者を亡命
に追い込んだり殺害したサダム・フセインはまた、ほかのアラブの指導者よりも、社
会市民インフラを近代化し、先端の病院や学校、大学を建築するために、石油収入を
たくさんつぎ込んできた。

こうして、サダムは、比較的大きな、健康で食料を十分に取り、高い教育を受けた中
産階級をイラクに作り出した。制裁前のイラクでは、毎日3000カロリーが消費さ
れていた。92パーセントの人が安全な水を飲み、93パーセントが無料の医療サー
ビスを受けることができた。95パーセントという成人の識字率は、世界で最も高い
社会の一つであった。経済情報部によると、「イラクの福祉社会は、最近まで、アラ
ブ世界で最も包括的で豊かであった」。

制裁から利益を得ている唯一の人物はサダム・フセインであると言われることがある。
彼は、経済制裁を利用して国家権力を中央に集め、イラク市民への統制力を強めた。
ほとんどのイラク市民が国家が配給する食糧に依存している現在、組織的な政治的反
対派は、その存在を想像することすらむずかしい。いずれにせよ、ほとんどのイラク
人にとって、サダムに対する反対の気持ちは、西洋諸国の政府に対する不満と怒りに
よって上書きされてしまった。

1991年以前に存在していたイラク社会は、比較的開かれ、親西洋的であったが、
つねに蜂起の可能性はあった。このことは、1991年に起きたシーア派とクルド人
の蜂起からもわかる。現在のようにイラクが包囲された状態では、蜂起の可能性も、
ない。宣伝されないが、これも、英米の経済封鎖が達成したことの一つである。

イラクに対する経済封鎖は、とにかく、不道徳であり非人道的であるという理由で、
解除されなくてはならない。そのあとで為されるべきことについて、元国連武器査察
官のスコット・リッターは次のように述べる。「武器査察官はイラクに戻って、見直
しは必要でしょうが、使命を完遂すべきです。もともと量的な観点から、イラクに存
在するすべてのボルトやナット、ねじ、文書を対象とするような武装解除が定義され
ていました。それを提示しなければ、イラクは決議を遵守しておらず、進歩がないと
されたのです」。

「このミッションを、質的な武装解除に変更する必要があります。イラクは現在、化
学兵器開発計画をもっているでしょうか。もっていません。長距離ミサイル計画は。
これも否です。核兵器も、生物兵器も、計画は有していません。つまり、イラクは質
的に武装解除されたと言えるのでしょうか。その通りなのです。そして、私たちがし
なくてはいけないのは、大量破壊兵器を再開発することがないよう、監視することで
す」。

2002年10月と11月に国連安保理で陰謀が進められる以前から、すでに、イラ
クは国際原子力機構(IAEA)の査察官の再受入を認めていた。本原稿を書いてい
る2003年2月23日現在、ブッシュが賄賂と脅迫で国連安保理に提出した新決議
案は、イラクにおける武器査察団の活動が不明確であると見なしている。スウェーデ
ン人外交官ハンス・ブリックスが率いるこの査察団は、強大な権威をもっている。た
とえば、これまでの国連決議で禁止されたことのない武器についても、それを所有し
ているかどうか、イラク側に「白状」させるよう要求できるのである。ワシントンと
ロンドンが偽情報を連発しているにもかかわらず、査察団が発見した大量破壊兵器は、
ある査察官の言葉を借りると、「ゼロ」である。

次に、イラク攻撃が待ちかまえている。私たちには、これを「戦争」と呼ぶ権利は、
ない。「敵」とされている国の人口の半分は子供である。そして、この国は、われわ
れに何らの脅威にもなっていないし、われわれと対立してもいない。無数の罪のない
命は、いまや、いわゆる国際社会(アメリカは除こう)の自尊心がどれだけ残ってい
るかに、そして巨大な権力のプロパガンダを繰り返すのではなく、真実を伝える自由
なジャーナリストがどれだけいるかにかかっている。

イラクへの経済封鎖を求めた国連安保理決議第687号が、同時に、イラクの武装解
除は「中東地域から大量破壊兵器をなくすという目的へ向けた」第一歩であると謳っ
ていることは、ほとんど伝えられていない。つまり、イラクが大量破壊壁を破棄すれ
ば、あるいは破棄していれば、イスラエルもそうしなくてはならないということであ
る。2001年9月11日以降、イラクに絶え間なく要求を突きつけ、次いでイラク
を攻撃すると言いながら、イスラエルのことは見て見ぬふりをするならば、われわれ
の皆が危機にさらされることになろう。

元国連イラク人道担当官デニス・ハリデーは、次のように言ったことがある。「制裁
が長引けば長引くほど、サダム・フセインは穏健に過ぎ、西洋の言うことに耳を貸し
すぎると考える世代が育っていくのを、われわれは目にすることになるでしょう」。

イラクで過ごした最後の夜、私は、バグダッドの中心街にあるラバト・ホールに出か
け、イラク国立オーケストラのリハーサルを見た。指揮者のモハメド・アミン・エザ
トに会いたかったのである。彼の個人的な悲劇は、イラクの人々に対する罰を象徴し
ている。電力が頻繁に途切れるため、イラクの人々は、安い石油ランプを照明や暖房、
調理に使わなくてはならなかった。このランプは、よく爆発する。モハメド・アミン・
エザトの妻ジェナンも、この爆発の犠牲となった。火柱に包まれたのである。

「私の目の前で、妻は完全に黒こげになってしまいました」と彼は語った。「火柱を
消すために、彼女の上に被さりましたが、役に立ちませんでした。妻は死にました。
ときどき、私も、一緒に死ねばよかった、と思います」。指揮台に立った彼の、ひど
いやけどを負った左腕は動かず、指はやけどで癒着していた。

オーケストラのリハーサルは、チャイコフスキーの「クルミ割り人形」だった。クラ
リネットのリードとバイオリンの弦がなかった。「輸入することができないのです」
と彼は言った。「禁止すると決められたのです」。楽譜は古代の羊皮紙のようにぼろ
ぼろだった。音楽家も、紙を入手できないのである。

元々の団員で残っているのは2人だけだった。ほかの団員は、ヨルダン、そしてさら
に遠くへ向かう、長い、危険な旅に出ていた。「彼らを非難することはできません」
とモハメド・アミン・エザトは語る。「この国での苦しみは、大きすぎるのですから。
どうして、この苦しみが終わっていないのでしょう」。

私は、ある夕方、ニューヨークで、デニス・ハリデーにこの質問をしてみた。私たち
は、国連総会が行われる大きなモダニスト風のシアターに二人で立っていた。「ここ
が、現実の世界を象徴している場所です」と彼は言った。

「一つの国家に、一票。対照的に、安保理では、常任理事国5カ国が、拒否権を握っ
ています。イラク制裁の問題が国連総会で扱われていたならば、大差で、制裁は終了
していたでしょう」。

「私たちは、国連を変えなくてはなりません。自分たちのものであることを改めて主
張するために。イラクで行われているジェノサイドは、私たちの意志に対する試練な
のです。私たち全員が、沈黙を破らなくてはなりません。ワシントンとロンドンにい
る責任者たちに、歴史が彼ら/彼女らを断罪するだろうと、気づかせなくてはなりま
せん」。

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----2003年3月に改訂されペーパーバックで発売予定のJohn Pilger, The New Rulers
of the World (London: Verso) の一部を編集したもの。この本は、インドネシア、
イラク、米国/アフガニスタン、オーストラリアを取材した、抑えたトーンながら、
心と論理的情報のバランスの取れた、一人称で書かれた優れたルポです。一人称の訳
はしたことがないので、原文のそうしたトーンを上手く表現できていないのではない
かと危惧しています。訳にあたっては、固有名詞の読みをきちんと確認しませんでし
た。すみません。Drはこの文脈ではお医者さんかと思われますが、機械的に博士と訳
しました。「平和への最終の一押し」などと称して国連安保理に戦争許容決議案を提
出した国々がやってきたことは、こういうことです。日本が支持すると表明したのは、
こうした行為です。森住卓さんの写真集、『イラク 湾岸戦争の子供たち』(高文研)
も併せて見ていただければと思います。イラクの教室風景もご覧下さい。また、タニ
ザワソウイチロウさんのページには、現地の様子を伝えるタニザワさんの報告があり
ます。

イラク侵略に反対する行動を起こすためのヒントは、ワールド・ピース・ナウや、爆
弾はいらない、子供たちに明日をなどにあります。 -----------------------------
---------------------------------------------------

  益岡賢 2003年2月27日

イラク:裏切られた人々
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/persons/pilger7.html

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