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レイモンド・ロイヤル・ライフの軌跡(現在の微生物学は根底から間違っているかもしれない)
http://www.asyura.com/0304/health4/msg/234.html
投稿者 HAARP 日時 2003 年 4 月 25 日 05:08:09:oQGUNb5q8hjD.

1920-30年代のアメリカにはテスラやライヒ、フラーなど傑出した天才がいたが、彼等は皆抑圧され、その研究成果は政府に没収され隠蔽された。これらの天才たちの成果が今日まで発展していたら現在の工業文明は全く異なったものになっていたのは明かだ。

ここに微生物学の分野でまた忘れ去られた天才がいるが、レイモンド・ロイヤル・ライフという。
この人は現在でも解明されていない技術を用いたある種の電子顕微鏡を発明し、これは検体を生きたまま20000倍の精度で観察できるものだった。現在でもウィルスを生きた状態で見た生物学者はいない。
ライフはこの観察経験から独自の微生物理論を発展させ、1920年代からライフ・マシンと呼ばれる医療機器を開発した。

ライフは微生物には特有の共振振動数があることを発見し、この波長に対して干渉することによって特定の微生物を破壊しうることを発見した。この理論を用いたライフマシンは全く患部に接触することなく劇的な治療効果を発揮した。この機械は数千台生産されたらしいが、そのほとんど全ては破壊され、没収された。
これは、製薬会社及び医学的権威に対して脅威となったからであった。

現存するこの医療機器はロックフェラー一族が所有し使用していると言われている。

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Barry Lynes著 CANCER CURE THAT WOEKED!

前書き 
                    
量子力学は観察者と被観察者が不可分なことを示唆してきた。古典的科学の提唱者にとってこのことは苦い薬のようなものであり、日常的な科学研究の上ではこの現象を実際に応用するというようなことは、ほとんどもしくは全く行われて来なかった。
 
このような状況というものは多分驚くに当たらないものだろう。科学的な実践というものは常に人間の視覚認識の過度に簡素化されたモデルによって悩まされてきた。
多くの科学上の論議を巻き起こす現象や新しい発見に付きまとう偏見などは、その原因を辿ると、視覚というものが何らかの統一的な自然界の法則に従うものだという間違った仮定を容認することによって引き起こされていることがわかる。
事実、多様性こそは人間の視覚における自然な法則なのであり、これもまた種における多様性の一例に過ぎない。そして、この法則を変更することはできない。しかしながら、理解可能なこととして、この法則の特性は十分な明確さと知覚の解釈と科学研究上の倫理的な実践を広範囲に改善することによって定義づけすることができるものだ。

個人という個人において全ての五感は「定量的」に異なるものだ。
例えば、我々のうちの誰かは眼鏡を掛けなければちゃんと見ることができないとか、補聴器を付けないと聞こえない、微妙な味がわからない、バラの臭いがわからなかったり繊細な織物の感触がつかめないなどということになる。
それにも増して、「質的」な感受性というものは個人の獲得した知識や経験したことの性質によって大きく変化するものだ。眼と心の回路はそれ自体変化する。
ある心理学者は脳に損傷を受けた人々の研究をしているときに、ある男性を見つけたが、彼は妻のことを帽子だと思っていた。このような潜在的症例は私たちや科学者たちの中にさえあるのではないだろうか。
奇妙にもこの気まぐれな感覚は我々の大部分を占めているにも関わらず、殆どの人は気にも留めない。我々の誰が確信をもって以下のマゼラン航海記のなかにあるような原住民の役を演じてはいないと言えるのだろか。

「マゼランの探検隊がはじめてテラ・デル・フエゴに上陸したとき、何世紀も隔離されたカヌー文化を営んでいたフエゴ人たちは湾内に錨を降ろす船を「見る」ことができなかった。
巨大な船というものは未だ彼らの経験のはるか彼方にあり、大きな船体にもかかわらず、彼らにとって水平線はそのままに保たれた。船は不可視のものだったのだ。
このことは、この後に別の探検隊がこの地域を訪れた時に、フエゴ人たちのなかのあるシャーマンがどのようにして外国人たちが彼らの想像を越える「何物か」に乗ってやってきたかということに関して村人たちの関心を引き立てたたかを聞いたときにわかったことだった。
この「何物か」は彼らにも注意深く見れば実際に見えるものだったのだ。
我々はどうしたらあの明らかに「現実的」に明白な船が見えないということが起こるのか疑問に思う。しかし誰かしらは我々がなぜ物事をあるがままに見えないのかを疑問に思うのだろう。」

さて、ここからはこの視覚のはかなさというものが顕微鏡の世界ではいかにやっかいなものであるかという話になる。
最近になって、ある医学ライターが100年ほど前では顕微鏡というものは神秘的な機械であったと述べている。疑うべくもなく当時においてはそのようなものであったが、現代においてもこれはより一層神秘的な機械となっている。基本的に無限な道具や技術の多様性というものは人間の視覚を莫大に拡張するよう進化してきている。しかし、そこには必然的な複雑さが付きまとってくるものだ。
顕微鏡それ自体はレンズ配列の変更、拡大率、分解能や照明に関しての変化幅を持っている。また、何年にも亘って発展してきた何千もの染料や染色技術は顕微鏡の観察技術を非常に複雑なものにすることとなった。
この避けられない複雑さを容認しながら、顕微鏡観察者はとうとう厄介な未知の領域に足を踏み入れることとなってしまった。
しかし、顕微鏡としては単純に小さな対象物を目で見える大きさに拡大するだけだが、これは心の眼に対して形状や流動性の信じられないような複雑さを導入することになる。このことは見ている標本が生きていたり、かつて生きていたものの場合特に顕著になるものだ。
多分、いつかは微生物学者に対して宇宙旅行者のほうがこの複雑さに対処するより良い方法を見つけなければならなくなるだろう。
ここにおいて、一見驚異的な道具と見えた顕微鏡は一転して人間の視覚の多様性というものの考慮すらされない無限の混乱の宝庫のようなものになってしまった。
疑うべくもなく我々は進歩の成果の上に立っているわけだが、いつまでもここに立ちつくす訳にはいかないだろう。旧来の健康問題はより深刻になりつつあり、今では毎日のように我々に襲いかかる。レイモンド・ロイヤル・ライフの物語は新旧両方の知識に照らして焦点を当てられるべき決定的な情報を内包しているのだ。
顕微鏡と微生物学の歴史における数々の出来事は、ライフの辛苦を厭わない本性からの洞察力と多くの発見に信を負うところが大きい。

1870年頃、アントワーヌ・ビシャンプは自分の顕微鏡で小さな蠢く物を見て、これを「ミクロジーマ」と名付けた。20世紀が三分の一ほど過ぎる頃になると、ギュンター・エンダーレインが同様なものを発見し、これを「エンドビオンツ」と名前を付けた。1930年代の終わりになるとウィルヘルム・ライヒも同様のものを見つけたが、彼はこれが何かは特定できなかったので独自に「バイオン」と名付けた。この時期を通して他にも何人かが同様の発見をしていた。
今日においてはスウェーデンとカナダの研究者たちが同様の生命分子の研究を行っているが、彼らはそれぞれの想像力に従って独自の名前を付けているようだ。
これらの研究者グループによっていろいろな理論が発展してきたが、大部分は忘れ去られるか退けられてた。驚くべきことに、彼らの全てがダーク・フィールド・コンデンサーを使用している。これは知られてはいるが通常では使われていないものだ。
微生物学では他者に対して真実や通常でない観察方法で発見したことの価値を信用してもらうということは特に困難なことである。
ライフは1930年代に今日の顕微鏡学では知られていない照明システムを採用している。それは「通常でない」ばかりか「未知」のものであった。
このことはライフの顕微鏡と生物学的な発見を理解する上で第一にして最も基礎的な技術的要件である。未知への恐怖というものは馴染みのないものへのそれよりも大きいものだが、増してや科学者においてはこの人間の本能に対する免疫ができていない場合が多い。

少ないながらもライフの未知の照明方法に怖じ気づかなかった人たちがいたが、彼らはライフの仕事ぶりを見るなり彼ら自身のドグマという次なる壁に突き当たってしまった。
そのドグマとは単純に言って光学顕微鏡でこれほどの拡大率と分解能を実現することは不可能であり、従って我々の見ているものを信じることは出来ないというものだ。
ライフ氏よ、あなたは不誠実だ、目の前の綿毛を払おうとして我々はあなたの晩年の空に浮かぶ厄介な雲のなかに投げ込まれてしまったよ、というわけだ。ドグマは必要なものだが、それは時には不必要なまでに生き延び、余りにしばしば愚かな振る舞いをする。
 
近年の生物理学上の発見があってからようやく、ライフの顕微鏡が通常の光学顕微鏡の限界を遥かに越える拡大率と分解能をを生み出す理論が理解されるようになった。
驚くことには、これらの「新しい」発見の背後にある基本的な現象は、世紀の変わる直前に心理学者から物理学者に転身したグスタフ・ル・ボンによって記述されていたものだ。
今に至っては、才能ある個人が戒律的な境界線を往来するなどということは聞かれなくなってしまったよだ。
 
生物学者はここにおいて、自然界における生体組織とフォトンの間の紛れもない交流という事実に直面することになった。この過程はバクテリア的な細胞レベルで測定できるものだ。
他の研究では生体組織が非常に弱い電磁波に対して極度に敏感なことが明らかにされている。これは言うなれば、それぞれの細胞や微生物体は電磁スペクトラムの中の特定の周波数に反応するということでもある。ライフのシステムは様々な方法を用いてこの電磁スペクトラム中の周波数を特定することができた。いくつかの洞察によって、彼は光の周波数を対象とする微生物体の持つ特定の周波数に同調させることが出来るようにり、この時点で共鳴現象もしくはフィードバック回路が発生することを学んだ。実際、一度この状況が出来上がると微生物体はそれ自身で発光すると言いうるのである。

この新しく発見された生体組織の電磁的特性は、ただ生来的に恵まれた観察の才能のある高度に訓練された顕微鏡学徒にとっては肉眼で観察が可能なのだろうか。もしそうだとしたら、真実は受け取るべき者にだけ開かれる。
ウィルヘルム・ライヒは自分の顕微鏡で他の人間が見えないものを見ることができた、そして、良い顕微鏡学者は標本と共鳴することを学ばなければいけないと述べている。
ノーベル賞受賞者でトウモロコシの遺伝学者であるバーバラ・マクリントックは見えないものが見えるという能力によって何年にも亘る苦難の道を歩んできたが、そのような状態の時に彼女は「オーガズムを感じる時のような感覚を受ける」と説明している。
多分、ライフもまたこの二人のような見る才能や洞察力を持っていたのだろう。しかし、彼の場合はこの才能を生かして、全ての人々にもはるかな生命体の神秘を見れるようにと機器を製作したのだった。彼の機械はその性能を発揮した。しかしながら、世界は依然としてこの神秘には盲目のままであった。

ライフは彼の照明テクニックから推定したのだろうが、特定の電磁周波数が特定のバクテリア様態に対して破壊的な効果があるということを理解した。彼は多分間違いなく、自らの身体を使ってこの仮説が正しいということを示し、また少数の勇気のある人たちにも身をもってこれを体験させたに違いない。またこの分野の生物理学における近年の発見はライフの発光現象を説明するだけではなく、バクテリアの選択的破壊にも説明を与えている。後者の現象は周波数と波形のデリケートな選択性こそ違うが、超音波洗浄に似ている。また最近、同一集団のハツカネズミに対して電磁場を掛けることによってガンを発生させたり治したりすることを行っていた研究者たちの発見は継続的に抑圧されてきている。
ライフの研究はこれらのものよりも遥かに洗練されたものである。彼は特定の顕微鏡的目標を選択し、これらが爆発するのを肉眼で見ていたのだ。

ライフの業績は、バクテリアというものはそれぞれの形態が決まったものではなく、過疎的な形態を取るものだということを疑うべくもなく表明している。このことは、彼の研究生活のなかで直面したものでも最悪のたぐいの怒りをその権威筋から買ってしまった。これは病原菌理論という最も強固に打ち立てられた生物学上のドグマ、これが生物学自体の病因でもあるものを侵害してしまったのだ。
誰もがあれやこれやの病気はある特定の病原菌によって引き起こされるということを「知って」いる。このことはコッホの仮説とワクチン摂取の成功とによって完全に証明されている。

誰もアントワーヌ・ビシャンプのミクロジーマ理論、つまりは様々な疾病状態は、彼が全ての生きている組織や死んだ生体組織のなかに発見した微小な生命単位から成る特定のバクテリア形態の発生を促すという理論を思い出すことはない。彼が力説したこの事実はバクテリアが可塑的な形態を持つということに行き着くわけが、1800年代後期の科学界の政治を仕切る人々に満足を与えるものではなかった。ビシャンプの理論においては、バクテリアは「症候」であって疾病の「原因」ではなかった。今日では、このバクテリアの可塑性とバクテリアの内在的発生原因の概念は、ビシャンプの時代から繰り返し論証されてきたにもかかわらず生物学者にとっては理解不能のものとなっている。おそらく度重なる新旧の疾病に対する制御の失敗は、古典的な病原菌理論のドグマが良く言っても不完全なものだということを医学に認識させる圧力となるのだろう。

1800年代後期において医学における微生物学の成り行きは、概ねご都合主義と言うべきものであった。科学者たちは感染症に関してあらかじめの答えを用意していたが、このことは医療行為を行う上で政治的にも商業的にも都合のよいことであった。
ビシャンプの考えは奇妙で相容れないばかりか、複雑でもあった。実際、ビシャンプの理論はどちらかというと感染症よりも機能不全症に関連していたが、この時代には感染症のほうがより関心を持たれているものであった。

今日ではワクチンの実際の効果と持続性は疑われているものの、効き目はあった。病原菌理論は比較的分かりやすいものであり、これは大衆に対して病気の原因というものは眼には見えなくとも、身体の外側から襲う「物」であると信じさせることが容易なものであった。
このことは人々を本当の「原因」から遠ざけることになった。これは微々たることであっても、この時代には病気の本質が神秘的なものとなってしまったのだ。
ここにおいて病原菌理論は落ち着いて一息をつき、つまりは、なにも無いよりはましということになった。ライフとその賛同者たちは出来る限りのことをしたが、このドグマの色合いを変えることは出来なかった。

今日ではこのバクテリアの形態可塑性という事実は少数の微生物学者たちに認知されてはいるが、彼らもこの事実にどう対処していいのかわからないようだ。
この事実には理論が当てはまらなく、一方では進化や同化?という生物学的に自明の現象と共にあるわけだ。この形態可塑性の過程は理解を越えるような複雑さをもって現れる。
これは「物」というよりは「過程」そのものと言える。この現象を理解する上で障害となっていたこととしては微生物学者たちが稀にしか生きた標本を見たことがないという事実がある。
染色された標本と染色技術に気を取られていたことと、電子顕微鏡の導入によって、彼らは死んだ標本しか観察してこなかった。ライフの生きた標本による顕微鏡学は彼の評価を若干混乱させたようである。これは反対者たちがまさにバクテリアの可塑性を見てこなかったということであり、怒りを増長させることにもなったからだ。

バクテリアの可塑性を実際的に理解するためには、免疫システムと機能不全症の神秘を解明することが不可欠となる。もし伝統的な微生物学から一歩退いて、全ての不確かな論議と悲劇に彩られた後付け理論から自己を隔離できるならば、この命題に対して新しい光がもたらされるのだろう。形態可塑性(プレオモーフィズム)とは単純に言って「多様な異なる形態はある一つの生命形態や種族が変化したものであると認めること。もしくは二種またはそれ以上に結晶化する特性のこと。」(ドナルドの図解医学事典)。または、「1.一つのライフ・サイクルにおいて二つかそれ以上の形態を取ること。(生物学用語) 2.ポリモーフィズムと同じ。(動物学用語)」(ウェブスター辞典)である。

寿命が長かろうと短かろうと生命というものは可塑形態的である。長期生存する生命と言うとき、我々の意味するところは何だろうか。

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