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江戸期の思想の水脈を掘り下げる(2)[哲学クロニクル]
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投稿者 代木 日時 2003 年 6 月 10 日 18:58:15:


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哲学クロニクル 第383号
(2003年6月10日)
江戸期の思想の水脈を掘り下げる(2)
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ひさびさに日本近世思想の本格的な考察が発表されました。この大著『近世日本
社会と儒教』(ぺりかん社)の著者・黒住真さんに、数回にわけてお話をうかが
っています。今回は二回目です。

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著者と語る

江戸期の思想の水脈を掘り下げる
『近世日本社会と儒教』−−黒住真さんとの対話(2)

■習合という伝統
【中山】前の質問と関連するところですが、儒学が神仏と「習合」していった帰結(60)
と、国学との共通点は、日本の近世思想の重要な特徴と考えていいのでしょうか。

【黒住】要するに、やはり「習合」や回帰現象の問題ですね。ええ、様相の違いは
当然ありますが、大きくいえばその通りだと思います。そこには、先ほど弱点とい
う言い方で述べたような、思想的特徴がやはりあります。それは、その社会的機能
についてさらにいうと、一方で社会の「諸成員への開放性」をもつとともに、ある
「全体」を立ち上げる面があります。で、近世には、徂徠を過ぎたころから、それ
がナショナリズム的な原型をはっきり形成し始めます。それが、掲げるカノンとし
てのテキストを切り替えさせ、国学を押し出してくる訳です。だから、国学という
のは、儒学側からいえば日本儒学の変態なのです。

ただ、こういう原型・全体の形成というような部分は、(中国・朝鮮・ヨーロッパ
なども含めた)「近世」的特徴であるところと、日本における特徴であるところと、
両方あると思います。ちなみに、丸山さんの「原型」はそういう宣長的・近世日本
的な構成物を超歴史化しているところがあって、あれは皇国史観の裏返ったオブセ
ッションでもあります。そこまでよく取り憑いて格闘したことは評価したいと思い
ますが──。

■漢語の力
【中山】なるほど。丸山さんについても、のちほどぜひまとめてお聞かせいただき
たいと思います。ところで日本では「漢語が実用以上に特権性をもつことはあり得
なかった」(111)ということですが、儒学における「やまとことば」と哲学的な概念
の関係について、お教えいただけますでしょうか。漢語と和語の違いは、西洋哲学
の文脈でも類似の問題として考えられます。カントはまだラテン語を要所要所で使
っていましたが、その後のフィヒテ、ヘーゲルからハイデガーまでの流れでは、ド
イツ語の重要性が強調されました。近代以降、日本の哲学は、西洋哲学の概念の翻
訳から再度スタートすることになるので、それ以前の儒学との関係はとてもおもし
ろいと思います。

【黒住】「漢語が特権性をもたなかった」というのは、中国・朝鮮において、古典
漢語がキャノンを構成したのに対して、日本ではそれほどではなくて、いわば国民
語的なものへの「崩れ」を比較的早くからよく生じたということです。朝鮮では、
立派な儒者は当然漢文ですが、日本ではどんなに漢学者でも候文を書いたり和歌を
よんだりしますからね。まして一般人では、和語にもっと引っ張られます。漢語に
対する規範意識が薄くなるのです。とはいえ、では和語だけになってしまったかと
いうと、そうではなく、公共・宗教・学術などの「術語」としての漢語のテリトリ
ーはやはり残らず厳然としてあるのです。だから、「古典」語(漢語)と「固有」
語(和語)が二者択一にはならず、併存化して広がったというのが、日本の特徴だ
と思います。

そういう、両方に足を跨げているところが、哲学の面でいうと、先ほどいった「創
造性」を生んだところがあるのです。仁斎・徂徠がその典型でしょう。一般に、日
本儒者の、島の中にいながら、海の向こうをいつも意識している、その距離感覚は、
いろんな「方法意識」や工夫をもたらしています。たとえば、言語への注目が顕著
で、語学辞書のみならず、いろんな「概念」の整理や定義・再定義を一生懸命やっ
ています。中国本土や朝鮮の学者よりもっと意識的にやっている感じがします。他
方、その「距離」が、一種の観念空間を生じるというか、言葉を余計に難解なジャ
ーゴンにするところもあります。徂徠がその問題点を指摘していますが、内田義彦
さんでしたか、同じようなことを近代哲学の漢語訳語について言っていましたね。

それにしても、とにかく、「やまとことば」だけでは、やはり哲学も政治も出来な
い。『源氏物語』を掲げて、思弁的概念を構築したり明治維新をすることもできな
いですからね。漢語があるから、哲学・政治・学術が出来るのです。で、それを近
世から儒学においていろいろやっていた。だから、西洋哲学の翻訳も出来たわけで
す。しかし、大正期以後になると、そういう「遺産」は払拭されて新世代が出てき
ますが──。

【中山】はい、日本語には西洋の抽象的な概念を翻訳することのできる漢語があっ
たというのは、西洋の思想や科学を受け入れて、さらに発展させるうえで、とても
役にたったと思います。あと「文字の権力」(224)もおもしろいテーマですね。

【黒住】文字の権力の問題は、古代中世の「帝国」はいわゆる古典語とそのテキス
トの法的・宗教的権威、近代の「国民国家」は国民語のそれですよね。ただ、二〇
世紀になる と、画像や音をも含んだ表象の権力になっていきますね。日本みたいに、
文字の権力 の底が浅かったというか柔構造だったところでは、いっそうすぐにメデ
ィアにとって変わられているようです。また、西洋では、「音声」の問題が、重視
されますが、アジアの場合は、「文字」がずっと重要ですね。そのことの意味も考
える必要があります。

【中山】このテーマだけでも、一冊の本になりそうなおもしろい問題をたくさん含
んでいると思います。


■伊藤仁斎と生の哲学
【中山】さて、第二部についてです。仁斎はとくに生の哲学、自然の哲学の特徴が
強く、善と生を一致させていますが(263)、その他の儒学でも生の重視は共通してい
るようです。大正から昭和にかけてふたたび生と自然の哲学が、たとえば超国家
主義などにおいても、イデオロギー的な形で展開するのですが、江戸期の「生生
無窮」の哲学の特徴はどういうところにあるのでしょうか。

【黒住】鋭い質問ですね。鈴木貞美さんの「大正生命主義」の提起がよく知られて
いますが、近代日本哲学史・思想史でも、思想家たちを有機体的なものの魅惑が動
かしている部分は、良かれ悪しかれ、大きいのではないでしょうか。そこに、非合
理主義、合理主義に対するアンチテーゼの根強い流れがあることは紛れもないと思
います。それは江戸期からつながっている面がやはりあります。これは、共同体主
義的な傾向と結びついていますし、さらに大きくいうと、和辻哲郎風には「モンス
ーン」的、丸山真男なら「原型」、宗教学者なら「アニミズム」云々というかもし
れません。それもある程度当たっている面がなくはないでしょう。しかし、いずれ
にせよ、一概にどうこういうよりも、その含意や社会的機能を見る必要があると思
うのです。

古代・中世におけるvitalim(生気論)や生命観と、近世以後、それが〈大きな社
会〉構築に結びついて語られるものとは違います。また、近代的な〈国家〉が背後
にあっての有機体論となるとまただいぶちがってくる。近世の特徴は、基本的には
やはりまずは循環的・持続的なコスモスが想定されているということだろうと思い
ます。

しかし中期ころから社会的・経済的生産の拡大やそれに伴った統合の問題が〈生命
主義〉と絡まってきます。国学の「むすび」など、幕末には一種の生産力論になっ
てきたりします。そういうのが近代に流れ込んでいくところがあります。そうした
部分は、今回の本では全然書いていませんが、当然問われるべき問題圏になります
よね。

■道の概念
【中山】このテーマなどは、黒住さんの次のご本で展開を期待したいですね。次に
第二部と第三部で考察される仁斎と徂徠の二人の哲学について、次の三つの側面か
ら、違いと共通点を簡単にご教示いただけないでしょうか。

まず「道」についてです。徂徠の道の概念について「曖昧な盲目的威力のようなも
のが最後によどんでいる」(257)と指摘しておられますが、仁斎と比較した場合に最
後に「よどんだ」ものはどのようなものであり、それが徂徠の思想にどのような意
味を与えているのでしょうか。

【黒住】これは、先の、生の哲学が、調和的なものから、中期以後はみ出してくる
といったことと関係があります。徂徠では、いうなれば一種の規定できない「力」
のようなものが自然や社会に感じられるとともに、それを制御するようなカリスマ
的というか特権性を帯びた「主体」がイメージされるわけです。法や規範の根源が、
そのような主体に帰着されます──丸山徂徠論は、そこをとらえたのだと言えます。

徂徠にはたしかに一種のvoluntarism(主意主義)のようなものがあります。それは
彼の世界に偶然・破壊・増殖などの様相があり、また不可知論というか神秘主義み
たいな面が出てくることと関連しています。主体が不安定で多様に開かれた場に出
ているような基本感覚があるのです。とはいえ、だから絶対的な意志による決断的
世界になっているとか、自然の底が抜けて虚無が顔を現し出してくるかというと、
徂徠がそう展開しているわけではない。

やはり儒者だから、虚無とか無底というのではなく、「生」そのものは外さず、そ
れを「敬畏」すべきものとして捉えます。オットーに、ヌミノーゼ(聖なるもの)
という概念がありますが、それに少し似たものがあります。その定義できない霊的
次元みたいなものに「道」を関わらせる。ここから、仁斎のような直接的な倫理的
行為ではなく、儀礼・祭祀など象徴的儀礼で押さえるほかはない、というふうな考
えも出てくるのです。

しかし、だから道の内容が蒙昧になっているかというと、かえってそこから倫理的
内容が立ち上がってくるようになっている。徂徠では、自他の生は、基本的には共
感的に関わるものであって、相互作用において「群れ」「長養」されるもの、とさ
れている。丸山さんは徂徠にホッブズ的自然状態を考えるのですが、それは実際は
読み込み過ぎなのです。

また、知的な面でも、不可知論的な様相は、内部に浸透しているわけではない。道
についての知的な理解が要請ないし想定されていて、不確定さの部分は、そこに向
けての探求のプロセスのなかで解決されるようになっています。「無知の知」では
ないですが、不確定なものがかえって知性的探求を引っ張って可能にするような具
合になっています。

とはいえ、仁斎の場合、倫理的なものの理解やその実践がどこまでも率直に要請さ
れる形になっていた。そこからいうと徂徠はだいぶ違う。徂徠は不確定な力の領域
をイメージすることで〈踏み込んでいるもの〉がある。儒学では孔子について「子
は、怪・力・乱・神を語らず」といわれますが(『論語』)、それを語っちゃったと
ころがあるのです。その問題が、次の国学になると出て来るし、やがて神儒習合的
な国家構想も出て来て、それが近代日本の国家体制につながってきます。徂徠はそ
うしたものが生まれるドアを開けたようなところもあります。このあたりのことも
本には書きませんでしたが──。

■自然と仮構
【中山】生の哲学との関連で考えると、まだまだ深いところまで掘れそうですね。
これに関連するのですが、「自然と仮構」について教えていただけますか。「理」
をのりこえる感覚は、仁斎から徂徠がうけつぎ、本居宣長につながると指摘してお
られますが(410)、二人では同じ源泉から生まれたものでしょうか。また徂徠では
「活物」が仁斎の場合とはちがって「自己が世界と和解する図式とはなったおらず、
どこまでも無窮である」と指摘しておられますが(456)、これは徂徠の思想にどう
影響するのでしょうか。

【黒住】自然的な「理」ではない人為的領域を立ち上げていく、というのは、近世
日本的ともいうべき特徴で、その点では二人ともつながっています。先に調和的だ
といった仁斎の場合でも、「人の道」と「天地の道」を連続しておらず、両者は分
けねばならないとはっきり言っています。実定的なものと自然的なものを分けてい
るわけです。中世までの思想なら規範を自然的なものの中に見出せると考えるわけ
ですが、仁斎や徂徠は、それは直接自然において発見できるものではない、と考え
る。その意味で、彼らは、人間が作った仮構に注目してそれが成立する条件を探求
している。そして、そのように考えることの背後には、当然、種々の生産なり都市
なりによって前面化した彼らの近世的生活がある。縄文やアイヌの人だったらそう
は考えない。言語だとしても言霊だというでしょう。

「理」との関連についていうと、仁斎・徂徠などの近世日本儒者は、その構成物と
しての道を、たんに論理的なものとか言語(記号)だとはしない。そうではなく、
狭義での論理・言語には還元できないもっと「身体化された生活様式」だと考えま
す。かつまた、それが「先立つ主観によって与えられている/示されているもの」
だと捉える。だから、「道」だといい「聖人」とか「古え」だとか、いわば〈物語
的〉言い方をする。が、ともあれ、そういう仕方で、人為的な領域形成のあり方を
しかも具体的に求めているわけです。

で、その仮構に対する自然的生のあり方ですが、繰り返しになりますが、仁斎では、
vitalism(生気論)は、自足的・安定的なものとして、道の背景や実質をなしてい
る。つまり自分たちの道の根っこに流れている(彼らの言葉でいえば)「気」やそ
の相互作用に対して信頼があるのです。これに対して、徂徠では、生は、もっと偶
然的に縦横無尽に活動したり、多様で明暗善悪さまざまな次元に向かいうるもので
す。それが先述の不可知論・神秘主義のような様相にもなったわけです。そして権
力や儀礼なども呼び込んできたわけですね。ただ、徂徠の思想は、不透明なもので
はなく、知的にも実践的にも開かれた構造をもっていた。

ところが、国学の宣長になると、obscurantism(蒙昧主義)が前面に出てきてしま
います。宣長自身は大変明晰な人です。しかし、その思想においては、「生」や
その形式・力が即「神」ないし神のものと押さえられて来て、それに対する直接的
帰依が説かれるようになります。その「神の道」は(現代人からいうと)大変な「虚
構」というべきですが、しかし、宣長では主体はそこにきわめて自然主義的に──
それはnativism(土着主義)というかnaivism(素朴主義)というか──そこに埋
め込まれているのです。となると、そこにあるのは、自然と虚構というより、その
区別もないような多様なものの、その持続だけは確信されているような即自性であ
り、それが回帰すべきものとして提示されていることになります。このような情景
も──なかなか説明し難いものですが──生の思想から出てくる、歴史的・社会的
な「仮構」で、それは日本思想などには意外に根強く見られる重要なものだと思い
ます。

【中山】このテーマは本当に日本の近世−近代思想の根幹にまつわる問いですね。
生命・自然と人為・仮構の対立は、日本の思想史のキーポイントのひとつだと言
えると思います。


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著者紹介 黒住真(くろずみ・まこと)
専攻、日本思想史・倫理学・比較思想宗教。現在、東京大学教養学部・
大学院総合文化研究科教授。『新井白石の政治戦略』(共訳、東京大学
出版会、2001)、『複数性の日本思想』(ぺりかん社、近刊)など。


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(c)中山 元 黒住 真
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