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GLA高橋信次(高橋佳子の父)と東大教授の対談記事(昭和46年)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/357.html
投稿者 罰天使 日時 2003 年 6 月 13 日 14:30:42:nb8K0bGkofX/s

〜立教当時から対外的にも虚偽をかたっていた高橋信次〜

 ここに、1971年11月発行の『現代人と仏教-親鸞・蓮如・
新興宗教の七人の教祖たち』(シリーズ日本人の行動と思想21
・全346ページ・¥890)という一冊の箱入りのソフトカバー本がある。
著者は、東大教授・笠原一男氏。出版社は評論社。ちょうど高橋信次が
『心の発見・神理編』の初版を出版してから、一年も経っていない頃
である。

 この書籍の中で、インタビュアーの笠原教授が、七人の当時の新興宗教
の教祖と、それぞれ対談した記録を載せている。その中で、高橋信次が
六人目の教祖として対談している。
 ちなみに、一番目は「世界真光文明教団」の岡田光玉、二番目は「白光
真宏会」の五井昌久で、いずれも教祖が物故しているし、「2ちゃん」
の「心と宗教」スレでもよく取り上げられる「カルト色」の強い団体の
教祖たちだ。

 それでは、笠原東大教授と「GLA(神理の会)高橋信次会長」と
紹介された信次との「対談」(P303〜322)を抜粋し、『心の発見』
や講演会との食違いや虚偽の数々を摘出してゆこう。
(以下、「K」は笠原教授、「T」は信次、「U:」は梅仙人のコメント。
読みやすくするため四部構成にした)

<対談第一部 十歳の神童のウソ>

K:お歳は四十三歳でいらっしゃいましたね?
T:はい、そうです。(U:信次は昭和二年=1927年生まれなのを、
ここで確認)
K:それでお生まれはどちらでございますか?
T:長野の佐久で、野沢中学校へ行きました
(話は、信次が十歳のときに起こった、魂が抜け出す病気に移る)
T:毎日八時になるともう一人の自分があの世にいってしまうんです。
とにかくもうひとりの自分が、私の死体を眺めているんですね。それ
が三時間も四時間も続くと、おそらくこの子は死ぬであろうと、側で
みている医者はいいます
(U:医者が「死ぬかもしれない」と思っているのに、本人は「死体
となった自分を眺めている」と語る。こまかいことだが、「死体同然
になった」というべきところを「死体」と強調・断定してしまう所に、
信次の話術における「詐術」がありそうだ)
T:私が、そういう風に一年間、死んだり生きたりした体験をくりか
えした結果得たものは、もう一人の自分がなぜあるのだろうということ
です。そしてそれを証明するために私は物理や化学や医学、そういう
問題を突っ込んで研究しはじめたんです」
K:それはおいくつのときですか。
T:十歳のときです
K:はあー、それはまたずいぶん研究熱心ですね。
(U:「死んだり生きたり」というのは、著書・講演にないひどい
誇張である。この病気自体、『心の発見』の「神理編」P20-22
「現証編」P13では「六ヶ月近くも心配してくれた両親」「旅の僧
の予言通り半年ほどで治った」とあり、「一年間」などではない。
数ヶ月前に出した本に書いていることと、ここで言っていることが
ちがうのだ。
 また、「十歳のときから物理や化学や医学を突っ込んで研究し
はじめた」などとは、信次のどの著書にも書かれていない。むしろ、
もっと上の軍隊の学校(陸軍幼年学校・中学二年時)に入ってから、
理系の授業に刺激されて、探求をはじめたと「神理編」には書いて
ある。あきらかに、四〜五歳、サバをよんだウソを笠原教授に語っ
ている。
 講演会でも「十歳から物理・化学・医学の勉強をはじめた」など
とは語ってはいない。笠原氏が、感心というかなかば呆れて、
「十歳から研究開始とは、それはまたかなりのご熱心さで」と驚く
のも無理はない。
 こういう風に、信次という人間は、人の目の前でパッとウソが
つけて、それを通せることが、よくわかる)
K:(中略)イエス、釈迦が脳裏にひらめくというのは前々から
ですか。それともバイブルをお読みになったり、いろいろの勉強
をしてからですか
T:(語気を強め)いいえ全然そんなことはありません。私は宗教
に関する本は四十三歳の今日まで一切読んでいません。
K:その最初のひらめきは何歳ごろ現われたんですか。
T:それも十歳のころです。
K:ほおー。
(U:このエピソードも、どの著書にも講演会記録にもない。
信次が十歳のときからイエスや釈迦が脳裏にひらめくという話は、
これが初出で、おそらく最後である。信次の著書の内容と宗教遍歴
を考えれば、宗教関係の本を一切読んでいないというのも信じら
れない話。
 やたら「十歳」を強調するのは、東大教授という現役の最高学府
の権威を前に、おのれの「天才・神童」ぶりをアピールしたいかの
よう。かなりの学歴コンプレックスが、信次の中に潜在している
のが読み取れる)
T:集団生活をしてみようと思い、軍隊に入りました(中略)野沢
中学二年のとき、十四歳です。昔の軍隊の学校は中学一年二年から
入りました。
K:ははあ、それは----昭和何年ごろですか
T:昭和十四年だと思いました。十四歳です
K:そうすると幼年学校?
T:はいそうです
(U:ここでもウソをついている。冒頭で昭和二年生まれといって
いるので、十四歳のときならば、昭和十六年のはずである。これは
勘違いやいいまちがいではない。後述するが、実は、信次の「軍歴
詐称」のための「二年のサバ読み・事実の歪曲による丸め込み」
なのである)
K:軍隊といわれたので普通の入営では早すぎるなと思って(笑)
秀才だったんですね
T:いやとんでもないです
(U:笠原教授はだまされないで(笑)ですましたが、知らない人
なら、「軍隊に入りました」をそのまま受け取っただろう。信次が
十四歳で軍隊に入って戦争へ行ったと勝手に思いこみ、信次もそう
思いこませたまま、訂正もしないで話を続けたにちがいない。
ことばの誇張と断定と強調により、相手を思いこみへミスリード
する詐術を用いているのが、ここでも露呈されている)

<第二部 同じ体験のはずなのに>

(十歳のとき、霊魂が抜け出す病気をした直後からの話)
T:家の近くの鎮守の森の神社に雨が降ろうが雪が降ろうが、幼年
学校へ行くまでの間、三百六十五日毎朝通いました。そして自分
自身を神に祈りました(中略)その結果一年間で私の病気は治って
しまったわけです。
(U:『心の発見』「神理編」「現証編」の記述、講演会の内容と
ちがう。『心の発見』では前述したように「半年ほどで病気は治った」
と書かれているのだ。医者にも治せない病気と知り、「神社に毎朝
通って一年間で治った」というエピソードは、著書にも講演会にも
ない、ここだけのものだ。これがまず、この発言におけるウソの
一番目。
 しかも著書では、「毎朝毎晩お参りし、お堂で勉学し、掃除を
して瞑想にふけった」と書いてあるし、「神理編」編では、そう
いう毎日を「十歳から三年間」、「現証編」では「十歳から五年、
六年」続けたとあり、昭和45年8月の講演会では「六年間」と
説明している。
 これだけの食違いがある上に、「幼年学校入学(十四歳の四月
一日)まで続けた」とここでは発言している。
「神理編」にしたがえば、十歳の秋の九月三日が発病日だから、
九月が彼の誕生月として、翌年二月末まで半年ほど「病気」が
続いたとする。すると、十歳半の信次が、十四歳の四月一日に、
幼年学校に入学するまでの年月は、ほぼ「四年間」ということに
なり、「現証編」と「1970年8月講演会」の記述のように、
「六年間」ではありえない。
 さらに、決定的なのは、この笠原教授との対談本が発行される
のと同時期、1971年10月の講演会で、信次はこう発言して
いる。
「私は十才の時に原因不明の病気になりまして、夜の八時になる
ときまって、呼吸因難になり、意識が不明になりました。(中略)
約半年近くは、ほとんど夜になりますとそのような現象が起こります。
(中略)鎮守の森にあります権現様に十才の子供ではあったが、
毎朝早く、また夜通いまして一心に自分の病気を直してもらいたい
と、約六年間続けたのです。(中略)こうしているうちに肉体の方
はどうにか快復しましたが、もう一人の自分は、もう肉体から離れる
ことはなくなりました。このような謎が私の人生を大きく変えて
しまったのです。」
 つまり「半年で治った」と「一年で治った」。「自然に治った」
と「神社に祈って治った」、「神社通いは3年間」「幼年学校に
入学するまで神社通いをした」と「六年間、神社通いをした」と、
著書と講演とこの対談と食い違う。同一の体験のはずなのに、
それぞれが別々のことを書いたり言ったりしているのだ。こんな
体験談を信用しろという方が無理である)

<第三部 戦地にいった訳のない軍歴詐称>

T:戦地に行くときも奇跡が起きているわけですね。
K:戦地に行かれたのは何年ですか。
T:二十年の二月八日です。
K:大分危うくなったころですね。任官してですか。
T:いいえ、実地訓練です。(中略)自分は飛行機乗りですから
死に対しては、すでに恐ろしさは感じていませんでした。
K:その軍隊生活のかなで感じた奇蹟に近いような事実を、具体的
にお話し願えませんか」
T:私たちは陸軍の航空隊でしたが飛行機がほとんどやられてしま
ったので、再編成されて二月八日に海防艦と駆逐艦に守られ、二隻
の船で門司を出港したわけです。それが十二時に出航して八時に
沈められてしまったわけです。二月八日といえば海は冷たく波の荒
いときですが、沈められてから約十二時間、海の中に漂い海防艦に
救われたわけです」
(U:信次のこの「戦地へいった体験談」は、ぜんぶウソと思われる。
彼はこのような体験はしていないはずである。なぜなら、昭和20年
2月の信次は、陸軍幼年学校を3年で卒業し、その上の「陸軍予科
士官学校」の生徒になって5ヶ月目にすぎない。「飛行機乗り」と
名乗る以前の段階でしかなかった。
 もちろん、「陸軍の航空隊」の一員ですらなかった。「任官して
いない(つまり一士官としての正規兵ではない)」状態で、「私は
陸軍航空隊の一員で、飛行機乗りでしたので、覚悟はできていた」
というのは、あきらかに誇張であり、言う資格のない偽りの言葉だ。
 なぜなら、「陸軍航空隊の一員の飛行機乗り」と、名実ともに
名乗れるためには、信次は当時の軍制にあっては、さらに上級の
「航空士官学校」へゆかねばならなかったのである。 そこを卒業
しなければ「正規の航空兵」にはなれない。ましてや、海防艦と
駆逐艦に守られてという現役の実戦艦に乗務するなどありえない
ことだ。
 この対談の後では、信次は「輸送艦に乗っていて沈められた」
と述べている。まだ訓練用の飛行機にも乗せてもらえないヒヨッコ
が、「実地訓練」と称して、むざむざ敵に沈められる輸送艦に乗れる
わけがない。第一、そういう任務は「海軍」の仕事であって、陸軍
航空兵が、いかに飛行機がないからといって、再編されて「輸送艦」
任務につくなど、むちゃくちゃもいいところである。笠原氏も、
「なんか変だなあ」と思われたのではないか。
 また、信次は別の場所では、おのおの、こういう「戦争体験」を
語っている。

*信次の高弟だった園頭氏のサイトでの「証言」
「信次は陸軍幼年学校から士官学校に進んで航空士官となって出兵。
その時、十二時間、海に漂い海防艦に救われる。それは不思議と
イルカが信次のそばに寄って来てくれたので、米軍の機銃掃射を免
れたことによるが、信次の身体には弾丸の破片が残った」
「信次は、航空隊で沖縄に出撃したことがあると聞いた、と園頭氏」

* 『週間大衆』昭和50年2月27日号「シリーズ・新宗教の"生神
さま"は語る」(11)GLA(神理の会)の信次のプロフィール紹介(P56)
「小学校を出ると長野県立野沢中学に入り、軍隊時代は飛行士として
南方を転戦した」

 航空兵としての訓練を、ほとんどなにもしていない訓練候補生の
立場で、「航空士官として出兵」「沖縄に出撃」「飛行士として南方
を転戦」など、絶対にありえない。ぜんぶでたらめ、口からでまかせ、
もしくは他人の体験談を自分のものとして語っているか、いずれかである。
 もういちど、笠原氏への信次の言葉を見ていただきたい。信次は、
笠原氏の「任官していったのか」すなわち「正規の航空士官として
行ったのか」という質問に対し、「いいえ、実地訓練です」と答えて
いる。つまり「航空士官としてではなく、訓練生としてです」と語って
いるのだ。
 それなのに、弟子の園頭氏には「航空士官として出兵し、十二時間
漂流して海防艦に救われた」と言っている。笠原氏への言葉と矛盾
する。さらには、この対談の約四年後の『週間大衆』の記者には
「飛行士として南方を転戦」と書かせている。
 いうまでもないことだが、イルカに助けられただの機銃掃射だの、
弾丸の破片が残っただの、ぜんぶウソである。イルカに助けられた
話が本当なら、せっかく笠原氏が「軍隊時代の奇蹟のお話を」と水を
向けてくれたのだから、それこそ大いばりでしゃべってもよさそうな
ものではないか。それなのに、イルカの話は微塵も出てこない。
 この対談の時点では、そういう奇跡話を思いつけなかったのだろう。
 また、笠原氏に、あきらかに間違いの「昭和十四年で十四歳」と
答えたのも、その「六年後」の「昭和20年2月」に「訓練航海」
ということにすれば、年齢的にも帳尻が合うから、そのように語った
と思われる。確かにあと二年早く生まれていれば、大正十五年生まれ
となり、信次が果たせなかった「陸軍予科士官学校」「陸軍航空士官
学校」を卒業し、ぎりぎりのタイミングで「正規の航空兵」となれた
かもしれないのである。
 高橋信次という人物は、こういう対談の場所でも、堂々とこの種の
ウソがつける人だったとわかる。まったくあきれるほかはない。ウソ
をつくのに相手を選ばないのである)

<第四部 なおも続くウソ>

(対談は、信次の十歳のときの魂が抜ける病気のその後について
におよんだ)
K:その十歳のときに出たもう一人の自分は、その後もずぅっと
出ているんですか
T:毎日です
K:幼年学校のときも、輸送船が沈没のときもですか
T:はい。現在まで毎日です。一日たりとも出ない日はありません
(U:すでに、この対談の中でも著書でも講演でも、「一年」「半年」
のちがいはあるが、「魂の抜ける病気」は「治った」のではなかった
のか。ひどい自己矛盾である。治ったはずの病気が、その後、四十三
歳まで毎日起こったといっている。笠原氏、さぞ戸惑われたことだろう。
しかも、信次のどの著作にも「十歳以降、毎日、魂が抜け出していた
し、今も続いている」などとは一行も書かれていないし、信次が自身
の過去を語った講演会の記録にも、そのような告白はまったく見当た
らない。
「神理編」には「半年で魂が抜けることはなくなった」と書かれて
ある。先述したこの対談が出版される一ヶ月前の講演でも、神社参り
を続けている六年の間に、「もう一人の自分は、もう肉体から離れる
ことはなくなりました」としゃべっている。同時期に、聴衆には
「もうひとりの自分は少年時代にすでに出なくなった」と講演し、
インタビュアーには「もうひとりの自分は、いまだに一日も休まず
出つづけている」と語る。こんなウソが許されていいものだろうか。
 これはつまり、この対談で笠原氏向けに、とっさに思いついた大
ウソなのだろう。まったくとんでもない虚言家だ)
K:(極微と極大の世界を信次が追求して、物質とエネルギーの関連
がはっきりわかってきた、という発言をうけて)そのわかったという
点は、論理的に証明できる形でわかったのか、また悟りの形でわかっ
たのか。どちらでしょう
T:(語気強く)論理的にです。それと悟りの両方です。その分野が
はっきりしてきたのは三年前の七月六日からです。(中略)その当初
は霊的現象がなぜ現われるのか、私はまだ信用しなかったんです
(U:論理的にと強くいったすぐ後から、悟りと両方です、とあわ
てて言いなおしている。どっちかはっきりしろ、といいたくなる。
しかも、『心の発見』の「神理編」などでは、霊的分野については、
1950年代から予言が当たったり、生き神様あつかいされてアパート
じゅうが客でひしめいた、などと書いているくせに、そんなことなど
なかったかのように、しれっとして語っている。
 霊的現象が起こっても信用しなかった、などというのも、笠原氏
向けの「演出」であろう。著作や講演を見る限り、信次はすでに
この対談の二十年も前から、霊能・宗教・オカルト漬けだったこと
は明かなのだから)
T:話は変わりますが、私は事業家です。こういう研究をするには
まず自分が資金力を持っていなければいけません。ですから、私は
昭和二十五年に事業をはじめて、現在まで三百九十八件の発明品、
特許品を持っています。こうして経済力をつけながらもう一人の
自分を追及しつづけてきたわけです
(U:一介の小企業の社長が、昭和二十五年から昭和四十六年まで
の約二十年間に、個人で三百八十九件もの「特許」「意匠登録」を
取得できるものかどうか。常識で考えれば「虚偽」であることは、
もはや明白である。やはり、東大教授に対して「おれはアッタマ
いいんだぞー」「並の人間じゃないんだぞー」と主張したかった
のだろう)

<梅仙人のまとめ>
 対談はまだ続くが、あとは信次の著作でさんざんくりかえされた
「神理・転生の説明」についてなのではぶく。
 とにかく、これほどのウソつきであると、もはや呆れて言葉にも
ならない。彼の唇からこぼれる言葉は、ほとんどウソだけなのでは
ないだろうか。真実なぞ、なにもなく、彼の説く「正法神理」も
「ウソの結晶」とみなすのが、まともな人間の感性であろうと思
われる。
 それでもなお、「信次は偉大な覚者」と信じていたい盲信狂信の
人々も、世の中広くてまだまだいるようだが、少なくとも私はそう
いう人々を隣人にはしたくない。

<参考>
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/144.html

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