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GLA(高橋信次・高橋佳子)の「異言」は「演技性の伝染心理現象」の可能性有。
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投稿者 罰天使 日時 2003 年 7 月 30 日 15:22:42:.cqmwk1ePLJyg

GLA(高橋信次・高橋佳子)の「異言」は「演技性の伝染心理現象」の可能性有。

「梅仙人の告白:私の異言体験」


* 異言はGLAでの「ステータス」の証

 1969年4月8日の立教時より、GLAでは、高橋信次や信者たちの「異言」を「過去世
記憶の言葉」とする、ある種、それまでなかったユニークな教義が、大きな売りで
あった。

 注目すべきなのは、この教団の拡大の過程において、信次をはじめ、そのおもだった
弟子たちや、はては中学生だった娘の佳子にいたるまで、異言をしゃべる「異言者」が
大量に発生したことだ。それはまるで、信次を中心として次々と、なにものかが伝染病
のように広がっていくかのような観があった。

 そしてGLA教義では、「異言者」は「心の窓を開いた=霊道を開いて過去世記憶が
よみがえった」証人とされた。これを「現証」という。

(ちなみに、信次は「理証・文証、現証にしかず」と『心の発見・科学編』P172で書い
ているが、「理証・文証・現証」はもともと創価学会の教学用語であり、日蓮が語って
いることでもある。しかも、日蓮宗では「理証=理論、文証=文献、現証=実践」と
定義しており、信次のように「霊的現象で過去世を証す=現証」などという定義付けは
まったくなされていない。

 信次は著書や講演で、「自分は仏教・キリスト教はじめ、いかなる経典も宗教書も読
んでいない」と力説しているが、書物も読まずに、どうやって「理証・文証・現証」の
知識を得て、しかもその内容を自己流にアレンジして元来の意味とはちがった意義づけ
をなしえたのか。信次が「私は、仏教関係にまったく無知で何も学んでいない」などと
いうのは、ハッタリであるとしか思えない)

 このGLA式「現証」は、「悟りを開いた副産物としての霊道」の一環とされたが、回想
するに、「異言=悟りの証拠」とみなされていたようだ。「霊道は悟りの副産物」どころ
か、「異言者=覚醒者」というイメージが、GLA内部に信次時代からひそかに定着してい
たという印象が強い。

 すなわち、異言者は、そうでない者よりも優れているというイメージがあり、本音は
だれもが「異言者」になりたがった傾向が強かったと記憶する。「悟った証拠」「過去世
を思い出す霊道者の証拠」としての異言能力を、GLA会員の多くは、心のどこかで「過去
世の記憶」とともに獲得したがった。

 信次のビデオや講演テープを見ると、信次時代には「異言」は立派な「奇跡の印」扱い
だったようだ。佳子が80年代に、そういう霊道路線をはずれてからは、ひそかなステータ
ス・シンボルであり続けた。

 佳子の代になっても、「心の窓を開く」「過去世の言葉をしゃべること」には、特別
な「価値」がある。口にせずとも、先輩信者も自分も、そう思っていたと感じる。


* 恥をしのんで私の「異言」体験

 そして、1980年代中半〜後半のGLA在籍中、私こと梅仙人もまた、同じ若い会員たちと
ともに、「異言」が口から飛び出す経験をしたことがある。ただし、GLAの総合本部や
幹部たちの指導などは、まったく受けなかったし、相談しようがなかった。

 少なくとも、当時のGLAでは異言をはじめとする「霊現象」について、佳子も幹部も
公式には何も注意や警告をしていなかったと記憶する。ましてや、著作でも講演でも、
それについて、指導もフォローも何もなかったはずである。

 今でこそ機関誌のうしろに、「霊現象が起こったら総合本部に相談してください」など
と書いているが、当時はそれすらなかった。いわば、会員にそういう現象が起こったこと
がわかっても、総合本部が積極的に救済・抑制措置をとらず、結果的に異言・前世マニア
の会員を野放しにする体制にあったようだ。

 そして、私もGLA内で、過去世誇大妄想狂の女子大生会員や、性格改造セミナーの「洗脳」
とGLA活動を両立させる危険な年長会員らと知り合いになる破目に陥った。もちろん、彼ら
も「異言=特別なステータス」と信じこんでいた。私が異言をしゃべるようになったのは、
彼らとのかかわりによる。そうでなければ、決して異言などしゃべらなかっただろう。

 彼らとの交流と並行して、私は信次や佳子の「異言講演ビデオ」や、「異言講演テープ」
をさんざん見たり聞いたりしていた。古い先輩会員の中には、販売さえされていない内々
の講演録音テープを持っている人がいて、信次や佳子の異言や、佳子に神懸りしたと称する、
たどたどしい日本語による、天使、キリスト、賢者のメッセージなるものをたくさん聞いた。

 最初はこわがっていたものの、GLA内部の「異言=実は特別なステータス」という雰囲気
を察知するや、私も次第に「異言をしゃべりたい」と思うようになっていた。それが「特別
な自分になれる方法」と愚かにも思いこみだした。そうしたら、本当にしゃべれるように
なってしまったのだ。

 真似をされる懸念があるので、どういう背景で異言をしゃべるようになったか、きっかけ
についてはくわしく書けない。ただ、1985年のある春の日の夜、電話で夢中になって同じ
会員の若者と、前世やら過去世やらの話をしていたら、急に頭の中の半分と目の前が白熱
するような感じに襲われた。

 なにか白熱したエネルギーのようなものが、側頭部の内側から噴出して顔面を覆ったよう
な感じになった。私はある種のハイな酩酊状態になって、思わず目をつぶってしまった。
そして、その白熱したエネルギーに、意識の半分以上を取られてしまい、別の意識の感覚が、
むずむずと口を動かそうとするのがわかった。心理学でいうところの「変性意識(瞑想、
催眠、霊媒状態、臨死体験などの特殊な心理状態)」というものだろうか。

 そのとき、直感的に、「異言が出せる」とわかった。少し怖くはあったが、心ひそかに
体験してみたいと望んだことでもあるし、電話の相手にも「ちょっと待って、なんか異言
が出そうだ」とことわった。その上で、聞いてもらおうと、思いきってその白熱したエネ
ルギーを口にのぼせてみた。

 すると、わけのわからない言葉が、そのエネルギーの流れとともに、ぺらぺらと出てきた。
そうなるとあとは堰をきったような言葉の連なりだ。しかし、まったく意味がわからない。
少なくとも、白熱した感じだけは続いていた。案に相違して、前世の記憶も、守護霊の意識
も、何も思い浮かばなかった。ただただ、白熱したハイな酩酊状態のままに、唇から聞いた
こともない何語ともつかない言葉が出つづけるだけである。

 そのとき、もちろん思ったことはひとつだ。このわけのわからない言葉の意味を知りたい
ということ。もしかしたら、自分の守護霊のメッセージをもらえるかもしれないと思った
からだ。そこで、「異言から日本語への変換」をやってみようと意識した。なにしろ、異言
から日本語への変換は、高橋信次や佳子が講演会やビデオやテープでさんざんやっているの
を見ていたから、モデルにはことかかない。

 私は、異言の白熱するエネルギーを、そのまま日本語にシフトできると信じた。佳子や
信次や先輩会員たちが、すでに何度もやっていることだから。異言のエネルギーの流れの中
に、「日本語でしゃべる」という「変換の意図」を与えた。これは高橋親子の真似で、最初
の一語は、(顔から火が出るが)「ワタクシハァ○○○○○デゴザイマス」というカタコト
の日本語であった。つまり、「異言」は「すでに知っている形を真似する」という意味で
「コントロール」「形態伝染(コピー)」できるのだ。


* 異言状態では願望人格を演じることができる

 さて、ここで私の口が名乗った人物は、さる過去の有名人Eなのだが、その人物を私は
日頃から「もしかしてこの人物が、私の過去世かも。自分の守護霊かも」とひそかに
「半妄想」していたので、半ばびっくりもし、半ばやっぱりなあと思いもした。恐ろしい
ほどの愚劣さだが、相当に分別をなくし、無自覚な傲慢さを持っていた証拠である。

 今、思えば「日頃の願望が異言の形を借りて表現されただけだろ、バカ。ほんものの
Eなわけないだろ。思いあがるのもいいかげんにしろ」とののしるところだが、当時は、
異言はじめGLA教義を盲信していたので、白熱した酩酊状態に目がくらんでしまった。
まったくお恥ずかしいことこの上ないが、梅仙人製「擬似E」の人格の言葉として、たど
たどしい日本語で電話の相手と話したものである。

 電話の向こうの相手も、すっかり私が「E」になったと信じたらしい。「偉大なE」と
その教えを受ける友人、という構図がそこに一時的に形成されたことは確かである。敬語
で色々なことを質問したりしてきたが、何を答えたかよく覚えていない。ただ、自分で
思いもしなかったことや、予想外の情報は、ほとんどなかったと記憶する。

「E」の言葉の多くは、私の顕在意識内の記憶にある範囲内の事柄で、私自身の知識や
経験や判断力を超えるデータは何もなかった。意外なことといえば、既知の知識から派生
する思いつきの類くらいで、そういう事柄は、別に異言状態でなくとも考えつくような
もので、なんら顕著な特色を成すものではない。

 しかも、「E在世時」の「前世の記憶」なども、まったくなかった。すでにEの伝記に
あたる伝説や記録もあるし、それらを読んでいるのに、記録の真偽を証明するような
「思い出」「記憶」など皆無だった。「E」本人でなければ語れないことなど、何一つ
なかったのだ。

 くりかえすが異言時・日本語変換時を通じて、守護霊の記憶も感情も、生前の光景
も何も浮かばなかった。つまり、Eが本当にEであることを証明するデータは、自称Eが
白熱する異言のエネルギーとともにしゃべっている間、何一つ提示されもしなければ、
思い出されることもなかった。
 
 異言の日々は、過去世へのなつかしさなど、さらさらない状態で終った。あったの
は白熱したエネルギーと酩酊・興奮だけで、過去世意識・守護霊意識の感情や記憶など、
脳裏にも言葉にも微塵も現われなかったのだ。

 なんのことはない。私は日ごろから「過去世がEであったらいい(自信喪失や劣等感
から脱出したい)」という願望を持っていた。「信次や佳子のように異言をしゃべり
たい」という願望がかなったことで、両者をリンクさせて「Eを演じてみせた」だけだ
からだ。

 当時は、演じている自覚はなかったが、客観的に見れば「隠された願望の通りに演
じた」だけである。もちろん、私の前世がEであるはずもない。ささやかな願望に見え
て、実はコンプレックス由来の非常に思いあがった欲深な「過去世願望」が、異言現象
の興奮とともに、姑息に自分自身を惑わしたのだ。

 後にその友人や、同じGLA内で知り合った若者たち数名も、同様に異言が出せるよう
になったが、その人達のだれもが「異言」自体の内容はまったくわからないと言って
いた。もちろん、私も当時の異言について、いまもってそうである。 


* 異言の危険な落とし穴

 初めて異言が出てから数ヶ月間は、深酒したり興奮したりすると、すぐに異言が出
そうになったし、おさえきれずに出たりしたこともあった。しかも、かなり激しい興
奮や感情のたかぶりを伴う、「イッちゃってる」状態になって、日常生活の一部に支
障をきたすこともあった。

 それは同時に、「異言を出そうと思えば、いつでも出せる」という一種の「励起状態」
を日常的にともなっていた。「異言でしゃべりたい」と意識すれば、いつでも「唇のム
ズムズ」がはじまるのだ。部屋の中に一人でいるとき、ぶつぶつ出かかったことも何度
かある。思い返せば、冷や汗が出るような異常な状態が続いた。当時それを異常と思え
なかったのは、信次や佳子がすでにそれをやっていたし、彼らがまちがったことを教え
たり演じたりするわけがないと信じきっていたからだ。

 それはある種の「異言の回路」が精神内に形成されたといったほうが正しいだろう。
いつでも「異言をしゃべりたい」という「意志の電流」が走れば「異言」が発動する
のだ。その回路は、今は閉鎖されて固まったので、もうしゃべれないだろうし、そん
な異常心理を露呈する口走りなどしゃべる気もない。

 後に正常な感覚を回復したとき、「異言」が出るのと引き換えに、私はある大事な
感覚が麻痺していたのを知った。それは「羞恥心」「謙虚さ」である。「異言回路」
が機能していた間、私の心から「はずかしい」という気持ちや、「自分ごときが」と
いう美徳が失われていた。

 盲信狂信に走ると、人はだれでも、外部の人間に対し、恥知らずで非常識な言動を
とっても悪いと思わなくなる。また、自分たちと信仰を共有しないものや逆らうもの
は、みな「自分たち以下」とみなす傲慢さをも兼ね備える。少なくとも「異言」は、
その二つの欠点を増長させることはあっても、減衰させる役には立たないと思い知
った。
 
 すなわち、私にとって「異言状態は有害」であったということだ。特別視するなど
論外であり、望んだり神聖視するなどもってのほか。信次や佳子のような「異言パフ
ォーマンス」を信じこんで「過去世」「守護霊」を求めるのは危険きわまりないとの
結論を得た。私のように大火傷したり、高橋父娘や大川隆法や千乃裕子のようになっ
たりするのが関の山ではないだろうか。

 
 私の体験した「異言」について、特徴をあげれば次のようになる。

1.異言は、前世人格の言葉ではないし、悟りの副産物でも聖なる現象でもない。

2.前世人格の記憶・感情をふくんではいないし、正しさや真理真実の証拠ではない。
また異言は、人間の悪や偽りの意志をなくした結果、現われるものでもない。

3.仮に前世情報や神霊の意志をふくんでいたとしても翻訳不可能。

4.異言状態になっても意識状態が変わるだけで、別人格に支配されるわけではない。

5.擬似酩酊状態で自己暗示(自己催眠)など被暗示性の高い状態である。

6.日本語をはじめ異言状態に続く別人格のような意識の情報は、すべて顕在意識に
あるものに依拠している。

7. GLAでの異言状態に続くカタコト日本語の意識の語ることは、すべて顕在意識に
ある領域内のことであって、顕在意識がまったく意図しない情報、未知である情報
はほとんどない。

8.異言状態下でも、あたかも別人格が宿ったように演技をなし、ウソや思いつきを
語ることは十分に可能である。邪悪な虚言者・詐欺師でも「異言」現象は起こせる
し演じられる。

 そして、高橋信次や高橋佳子、またGLA古参信者たちの「異言」が、私の体験した
「異言」と異なるという証拠を、見出すことができない。また、私の異言状態より
も、彼等の異言状態が、すぐれていたり霊的記憶を含んでいるということも、まっ
たく証明することができないでいる。

 さらに言うなら、「使徒行伝第2章」〜五旬節に初期キリスト教徒に聖霊がくだ
って異言をしゃべるくだり〜と、GLAで高橋信次・佳子が盛んにおこなった異言パ
フォーマンスが、同一のものであるという証拠もないのである。(信次の著作『心
の発見』には、同じだと書いてある。しかし、客観的な信頼できる第三者によって
検証されたデータを見聞したためしがない)

 使徒行伝についてはともかく、GLAで高橋信次・佳子・信者たちがおこなった
「異言パフォーマンス」は、良く言っても単なる「集団性異常心理」の一種では
なかったか。いわば、「宗教的狂騒心理」であると定義することも可能かもしれ
ない。私の経験から類推するに、GLAにおける「集団異言」は、「異常な群衆心理
のひとつ」以上のものではないと思われる。


* GLAの「異言」の正体を剥ぐ

 1978年ごろまで、佳子は父・信次の「異言パフォーマンス路線」をひた走るが、
同年3月末の「ミカエルとは2度と言いません」と、ホテルに集めた記者会見の場
で、質問攻めに遭って泣き出したことにより、派手な「霊道・異言パフォーマンス」
はGLAの表舞台から消える。

 それが1987年ごろから、ちょくちょく講演会や指導の場で、異言パフォーマンス
を再開するようになった。会場で感極まって異言をしゃべりながら壇上に駈け寄る
信者と、佳子が異言で会話するという形式だ。最近まで、それは行われているようだ。

 その信者も佳子も、ともに異言を本当に過去世の言葉として理解・把握している
とは、私には思えない。信次・佳子の異言と私の異言経験が異なるという証拠がな
い以上、彼らの異言も私のと同じである可能性は高い。すなわち空虚かつ自分の頭
の中で組みたてたヤラセ・擬似人格を演じて見せているだけではないかという推論だ。

 佳子はおそらく、その講演会での「異言」会話を、正しい善いものだとは思って
いないのではないか。「演技」性のまずい側面を持っているのを、知っているかも
しれない。今、指摘した1987年以降の「異言」会話があった講演会の販売ビデオで
は、「異言」の部分がそっくりカットされているらしい。なぜ、信次が売り物にし
た「異言」を、そこまで隠すのだろうか。もし正しい霊現象ならば、むしろ堂々と
売った方がよいではないか。どこか「やましさ」があるから、売りにくいのだろう
と思える。

 くどいようだが、私の体験では、「異言」は前世の言葉ではないし、意味も全く
わからない。しかも、日本語への変換は意識的にできるし、そのときに自分がなり
たい過去世や、霊的存在になりきることもできる。もちろん、意図的に演じること
も可能だ。「過去世の言葉」とまわりの人間に思いこませればよいわけだ。一度
「異言回路」を開いた者にとって、そんな芸当はたやすいことである。

 信次在世当時のGLAのビデオでは、よく信次が「光を入れる」と称し、信者の頭の
上に手をおいて、異言でなにごとかを祈ってから、異言が出るというシーンがある。
しかし、私の経験からいえば、「光を入れる」「手かざし」をしなくても「異言状態」
は出せる。すなわち、本人の「異言を出したい」という強い願望と、その場の狂騒的
雰囲気があれば、別に信次の手を借りずとも「異言状態」になれるはずである。
 
 その証拠に、信次の過去の異言ビデオでは、異言パフォーマンスを見ていた観客
の中から異言を語るものたちが現われる。その人たちは信次に「光を入れる」行為
をしてもらわないのに、会場の真中でひとりでに興奮して泣き出し、「わたくしは
古代ギリシャで生きていた者でゴザイマス」とか「古代インドでブッタにお世話に
なったものでゴザイマス」と異言を語り出すのだ。信次が「光を入れる」という
行動は、それこそ何の効果もない「形だけのしぐさ」「なにかありそうなポーズだ
け」というのが実態だろう。

 おかしいのは、GLA式異言で、異言から日本語になおしてしゃべる人たちは、
みな判で押したように「わたくしは○○○でございます」というバカ丁寧な言葉
づかいしかしないことだ。私もそうだったから、これは信次がつくった前例の真似
ということがわかってしまう。

 GLAの異言者の「日本語変換」の主語は、常に「わたくし」、語尾は常に「ござ
います」。佳子も1977年当時、ミカエルはじめイエスだのガブリエルだのと、いろん
な異言的人格を演じわけているが、全部おなじ主語・語尾である。別々の霊的存在で
あるはずなのに、言葉の「個性」が感じられない。その理由は、異言意識が、霊でも
なんでもないからだ。陳腐なまでの同一の言葉づかいは、佳子や信者などの異言者
自身の(作為的か否かはともかく)演技にすぎない証拠、と考えるのが自然だろう。

 私は、高橋佳子が1977年当時に録音した「異言と日本語でしゃべるキリストの説教」
テープを、古参信者から聞かせてもらったことがある。1985年ごろのことだ。その
キリストがいっていたことは、思うに陳腐なことばかりだった。妄信していた状態
でも、さっぱり感動しなかった。ほんとにイエスなのかなあ、違和感をいだいた
記憶がある。

 GLAの異言者たちも、異言のしゃべっている意味を理解していたとは思えない。
自分で「こういう過去世だったらいいな」「こういう守護霊だったらいいな」など
の「日ごろの潜在的願望」が、異言状態の興奮のまにまに吐露されただけではない
だろうか。本人たちは、すっかりその気で「心の窓を開いたつもり」だが、実は
それを演じきっていただけではないかと推察できる。

 その証拠ともなるべき1977年当時のGLA機関誌の記事を、次にご紹介しよう。


*佳子が「異言人格(過去世)」を演じていたとしか思えない1977年の機関誌記事

『GLA誌』1977年2月号より
<関西本部から 天上界の祝福に満ちたイエス生誕の集い----つぎつぎと語られる
メッセージに心打たれる>(P80-81)

「(略)GLA関西本部。12月20日・・・最後は高橋佳子先生のお話。イエス様
が入られ(梅仙人注・佳子が霊媒状態となって降霊したという意味)『今日みなさま
がたにお話できる機会を与えてくださったことに感謝します云々(とイエスは語った)
・・・』
 次にはサンタクロースと呼ばれる方が、『私は、皆さま方とお話ができることを
とてもうれしく思います。好きだから孤児院や老人ホーム等をまわるのです。言わ
れてやるのではありません・・・・・』と。
 最後に、ミカエル様が、『イエス様のお話をお聞きすることにできたあなた方は、
世界じゅうのだれよりも幸福です・・・・あなた方はあまりにも幸福すぎるのでは
ないかと私は思います・・・・』」

 これは12月20日、イブに近いころのことだ。クリスマスイブに、孤児院や老人
ホームにプレゼントを配るという「サンタクロース」が、フィクションであること
は現代の子供でも知っていることだ。

 確かにサンタクロースのモデルは実在する。「聖ニコラウス」といって、4世紀
にトルコに生きたキリスト教の聖者である。しかし、セント・ニコラウスが毎年、
老人ホームや孤児院にサンタクロースの霊となって、実際にお見舞いに歩いている、
などという実話も伝説も存在しない。

 サンタクロースと聖者ニコラウスは、別物であることは論を待たない。同一者
と勘違いしたのは、1977年当時、二十歳の高橋佳子である。

 それなのに、フィクションであるはずの存在が「霊」として現われたということ
は、佳子の「演技」である明白な証拠といえよう。「サンタクロースは、実在して
今でもプレゼントを配っている」という、佳子のまちがった「既成概念」に従って
「サンタクロースを演じた」のだ。本当に神霊存在がかかっているなら、こうした
「フィクション」を「事実」として口走ることはありえない。

 もちろん、イエス、サンタクロース、ミカエルと、それぞれの人格が出現する
前には、ペラペラと「異言」がひと通り語られたことだろう。また、下記の『真
創世記』についての虚偽を、平然と異言とともに「大天使ガブリエル」の名において
語っていることなど、高橋佳子の異言パフォーマンスの演技ぶりは、まことに救い
がたいと言わざるをえない。

GLA教祖・高橋佳子の『真創世記』の真の作者はSF作家・平井和正氏
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/392.html
GLA高橋佳子の『真創世記』につき教団ぐるみの虚偽記載・1977年
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/464.html


*異言体験とGLA式異言パフォーマンスのまとめ

 信次は「異言」を前世の言葉としたが、それはウソであるとしか思えない。私が
自身で体験した異言状態を思い起こせば、それは翻訳不可能な言葉だった。異言
状態が、前世意識の顕在化であることを証明する徴候は何もなかった。むしろ、
被暗示性が強まり、自己催眠状態で「どんな人格でも演じられるようになる」と
いう感覚だった。

 信次はよく「既成概念を白紙にもどして」と教えた。これは信者にしてみれば
「自分で判断するのをやめなさい」と言われたに等しい。既成概念を白紙にする
といわれて、まず思いつくのは「思考停止」「自主性の停止」である。「自前の判断
力と価値観を捨てよ」というのが「既成概念を白紙にもどせ」という「教え」の
「真意」だったと思える。これはいいかえれば「私のいうことを鵜呑みにしなさい。
暗示を受け入れなさい」と語っているに等しい。

 信次は、別の場面では著書でも講演会でも「疑問追求しなさい。私の語ることにも
疑問を持ちなさい」と述べているが、これは「既成概念を白紙にせよ」という教えと
矛盾する。

 疑問追求するには「自前の判断力」がなければできないからだ。そして自前の判断
力とは、これまでの人生体験や知識など、「既成概念」に基づかなければ機能しない。

 つまり、信次は「既成概念の放棄(判断力の放棄)」と「疑問追求(判断力の継続)
」という、まったく両立しえない二つの「矛盾した教義」を提唱したことになる。
このような二律背反を平気で教義にする教祖が、なぜ偉大な釈迦だのイエスだのモーゼ
だのの霊と関係があるだろうか。

 だから、信次も佳子も、「異言」をその意味がわかってしゃべったわけではないと、
私は断言したい。はたから見ると、外国語なまりっぽい日本語で、あたかも別人意識
がしゃべっているかのようだが、実は顕在意識が「希望した人格」になりすまし、
そのつもりで演じているだけではないだろうか。

 おそらくは、異言というのは「眠っていた言語中枢の部分が活性化されておこる
言葉の無秩序な羅列現象」であろう。もし、本当に異言が本当に自己の過去世の言葉
ならば、なぜそれをしゃべる人達の多くが、私をふくめて、その意味がさっぱり理解
できなかったのだろうか。

 信次や佳子は、信者の頭に「光を入れて異言をしゃべらせる」ということをやって
いるが、その意味をわかって、自分で正しく翻訳して語っている人間はいないのでは
ないか。異言と、その後に移行する「へたくそな日本語」は別物である。

 異言が、ヘタクソな日本語による自己紹介に「翻訳」されたように見えるが、実際
は自己暗示による「思いこんだなりきり」で、翻訳でもなんでもないようだ。「その
ように見せかけている」または、「たぶん、そうであろう」と思いこみ、当て推量で
しゃべって、うけこたえしているにすぎない。


* 唖然とする「異言」という名の「共同幻想劇」

 GLAにおける「異言」というのは、被暗示性の高い「もうろう性興奮状態」が
基本心理だから、それを利用して、信次や佳子はいくらでも、信者の答えを「誘導」
できたはずである。

 まず、信次は「自分は釈迦の生まれ変わりである。自他の前世をみぬく力がある」
と日常的に信者たちに信じこませる。

 すると、信者たちは自動的に「自分と信次先生の縁は、前世からの縁であろうから、
きっと自分も釈迦時代には、釈迦の直接的関係者だったにちがいない」あるいは
「そうであったらいいな」という「期待と願望」を持つことになる。

 そういう状態にしておいて、信次はみずから「異言」を起こし、自分でも本当は
異言の内容を理解も翻訳もできないのに、自分は釈迦の生まれ変わりでありたいと
いう、個人的願望によって「釈迦でございます」とやる。佳子のように、異言状態
から「へたな日本語の自己紹介」を演じて見せればよい。

 こういうことを繰り返すと、はためには「異言をしゃべる人格が日本語に翻訳
してしゃべる」ように見える。信者たちは、「異言=過去世意識の発現」と信じ
こんで、それ以外のことは考えられなくなる。自分の過去世を知りたい、釈迦と
の関係があったえらい者であってほしいという願望から、信者たちはひそかに
「異言が出て、前世のことをしゃべってみたい」と強く思うようになる。

 はっきりいうが「異言」というのは「異言なる現象の実在を信じ、異言を体験
してみたい。自分の口から出してみたい」という強い願望と、極度の精神集中が
あれば、だれもが出せるけっこう安易な現象だと思う。別に「光を入れる」など
という儀式をやらずとも、出せるだろう。

 事実、私は佳子にも幹部にも、GLAのだれにも「光を入れてもらう」ことなく
「異言」が出るようになった一人である。本当はぜんぜん大したことのない、
つまらない現象としか思えない。 私の場合、異言がしゃべれたからといって、
苦しみが減ったわけでも、徳性が高まったわけでもなく、実生活にとって有益な
ことは物心両面とも何もなかった。

 しかし、信者たちは、そうは思わないから「光を入れてもらえば異言が出て
過去世を語りだす」という現象を頭から信じこんでしまう。それゆえに、信次や
佳子が「光を入れる」しぐさを自分にしたなら、「絶対に異言が出るはずだし、
出なければならない」と、すでに確信的な自己暗示がかかっているのである。
なにしろ「異言したい、その感動を味わいたい」と思っているのだから、ある
意味、いいカモではないだろうか。

「光を入れてもらう」と「いよいよ、自分にも前世意識開眼の感動的瞬間がやっ
てくる」と興奮し、喜びいさんで感激にふるえて極度の精神集中がおこなわれる。

「強い願望と精神集中」があれば「異言」は簡単に出せるから、そこでめでたく
「異言」がほとばしりでる、という仕組みである。あとは、異言状態に酔って、
信次や佳子の誘導にしたがって、適当な答えを口から出せば、「過去の仏弟子の
ひとり」のできあがりである。

 異言状態で激しい感動に泣いたり、釈迦よ、キリストよ、と叫ぶ劇的なシーン
がくりひろげられると、まわりでは本気にするが、あれだってただの自己暗示と
誘導の結果でないと、GLAで証明されたことはない。俳優が自己暗示で涙を出
せるように、人間にはもともと「感情を演じてなりきる」という能力がある。

 感動して泣いているのは過去世意識などではなく、「心の窓が開かれた」わけ
でもない。「あーよかった。私ってやっぱり釈迦の弟子だったんだ。すばらしい、
信次先生、ありがとう!」という「自己陶酔・達成感」の涙にすぎない。よくい
っても「洗脳による感情失禁状態」、私にはそうとしか思えない。

この「異言現象」を「文字化」すれば、それはただちに「霊言集」へとスライド
する。いうまでもなく、大川隆法が、かつて何十冊もの霊言集を出せたのは、
この「なりきり異言演技」を活字にしたせいであろうと思われる。


* 実演:「高橋信次」の1970年代の異言講演会がVCDとして販売されている。

「異言」がどのようなものか、実例が無料動画で見られる。私の「GLAの異言
についての推論」の是非を、次の2件の「サンプル画像」の光景を見て、問う
ていただければ幸いである。 (楽天フリマ出品中のCDより)

◆ 高橋信次 心と肉体の調和(1975年11月末・熊本研修会/阿蘇白雲山荘)◆
http://furima.rakuten.co.jp/item/8501433/
サンプル↓
http://211.115.218.180/mc/movie/200212270427496103_6951.asx

(このサンプル画像音声中で、信次の異言は、古代インド語の相手でも古代ギリ
シャ語の相手でも「ダア、ティアラソワラ、ソボロティア、スパラギー、ィエスパ」
の繰り返し、またはそのバリエーションである。当時の過去世の言葉なら、異なっ
た言語でなければならないのに、なぜか同じ言葉なのだ。

 古代インドなら尼僧「ビクシュニー」というべきところを、古代インド女性だった
という異言者の女性は「ビクニ」という「日本語」を織り交ぜている。信次も同じく
異言の中で「ビクニ」と言っている。これはいかにも不自然である。信次の異言
も女性の異言も、話す速度がちがうだけで、みな同じ信次の異言の語彙のバリエー
ションの域を出ていない。

 また、古代インド人の姉妹だった前世を思い出したという女性二人が、異言を
しゃべりながら抱き合って泣くシーンでは、信次は香具師の口調まるだしでこう
言い放つ。

「このようなことがはたして、演技でできるでしょうか!できるものではありま
せん。私たちはそれほどの演技者ではありません」

 私は、この信次の言葉にはっきりこう答えよう。

「こういうことは演技で十分にできます。まねしてできるのです。できないなど
ということはでたらめです。洗脳と自己暗示にかかれば、人は堂に行った演技で
異言と過去世人格を演じることなど簡単です。あなたもそうでしょう、信次さん。
私もそうだったのです」

◆ 高橋信次 ミカエル(信次の最期の講演・1976年6月はじめ・東北研修会/山形県)◆
http://furima.rakuten.co.jp/item/9522632/
サンプル↓
http://www5c.biglobe.ne.jp/~takay/mikae.wmv

(ここでも佳子は、ミカエルになりきって演じているだけだと思う。私の経験した
異言と、状態的に異なるところはないようだ。つまり、ミカエルを演じる「高橋佳子」
の自我意識は、ちゃんと存在している。本当にミカエル意識が降臨・顕在化したの
ではなく、佳子がミカエルのふりをしている。

 当時、日大文理学部の哲学科で、さまざまな書物を読んで勉強していた佳子が、
その知識をもとに「宗教的哲学的に博学なミカエル」というイメージを、無知な
信者たちに与えるのは造作もなかっただろう。GLAの「ミカエル」とは、あく
までも高橋佳子の知識の範囲でのみ表現される存在で、真実に霊界知識を披瀝
する存在ではありえない。

『真創世記』の虚偽を「事実」のように語るガブリエルを出し、サンタクロースと
いう虚構を演じる人間に、ホンモノの聖霊・大天使がかかるわけはない)

 最後に「霊道」に関する元幹部の証言をご紹介したい。

 下記の「元GLA講師・高森益次郎氏」の手記『神我顕現への道』(知花敏彦・
高森益次郎:共著 / 渇F宙環境保全センター 1991)の一部は、あるGLA研究者
の投稿を引用したものである。その研究者に、ここで謝意を表したい。

 高森氏は、引用の手記の中で信次在世時とおぼしい「大講演会」を振りかえり、
「霊道現象(異言=過去世記憶の開陳や悪霊祓い)」は、あとに白けたさびしい
気持ちしか残さなかったと書いている。

 また高森氏は、同書の中で、高橋佳子が教団を継承した当時、「新主宰者を信
じる熱狂的な一員」「新主宰者の親衛隊の一人」「ミカエル佳子の当時、三宝出版
の編集長」だったほどの幹部だった。

 現在、高森氏はもちろんGLA会員ではない。GLA幹部だった当時、すでに
「霊道=異言」現象に、白けた虚しさを感じ「霊道現象そのものに問題があった
と思う」という証言は重要である。
 やはり信次や佳子の「霊道」は、「過去世記憶」でも「悟りの副産物」でも
「正しい霊能」でもなかったのではないか。彼らの「霊道=異言=悪霊祓い」の
ほとんどが、自覚すると否とにかかわらず、「思いこみと演技」「フィクション」
だったからこそ、空虚になったのではないだろうか。
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『神我顕現への道』(知花敏彦・高森益次郎:共著/渇F宙環境保全センター1991)
 第三章 道をもとめて 「霊道と過去世」(p128-130) より

「……ただ年に二、三回、私自身どうにも形容しがたい思いに襲われることが
あった。それは大研修会のときである。

 教団では年に一、二回大研修会を開く。おもに山の温泉地で全国から数百人の
会員が集まる。たいてい二泊三日の日程だが、その中で必ず霊道現象がある。
大研修会のときは、とくにそれが熱のこもった形となる。

 その席では悪霊に憑依された人の現象やその除霊なども行われるが、メイン
となる霊道者たちの現象は、大研修会のような場ではとくに感動的な場面となる。

 大研修会が終了したあと、胸に残る深い感銘とともに参加者たちは山を降りて
家路をたどるのだが、途中でつぎつぎと仲間と別れ、最後に自分一人になったとき
どういうわけか私の胸になんともいえぬしらけた気分が広がるのだった。

 その寂しい気持ちは、大研修会のたびに私を襲うのである。「なぜだろう。
せっかく意味のある大研修会に参加していながら」と、私はうまく自分に説明
できなかった。

 宴のあとの虚脱感ともいえた。もしそうだとしたら大研修会は宴だったこと
になる。しかし、講話や体験発表は真摯なものであった。宴とはいいきれない。
どこかなにかそぐわないものがあったにちがいなかった。

 いまなら私はそれが説明できるように思う。大研修会での集中的な霊道現象
が私を興奮させたのであって、感動とはちがっていたということである。

もし感動であったのなら白けた気持ちがあとあと生じるはずがない。つまり
霊道現象そのものに問題があったと思うのである。

 当時霊道現象に関して、わたしは正しいものかどうかを判断する理性のレンズ
を失い、情念進行に陥っていたのだった。そこから興奮がさめたとき、寂しい気分
に襲われたのだと思わざるをえないのである……」


<関連ページ>
GLA(高橋信次と高橋佳子)の異言等に関する『文芸春秋』特集記事(1977年)
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/228.html
「異言」に関するアメリカ・カナダの専門学者の研究資料
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/233.html

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