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紋章「双頭の鷲」と、もうひとつのDNA鑑定をめぐる日露協力
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投稿者 ファントムランチ 日時 2003 年 9 月 05 日 21:49:37:oswAM6lqBSCW6

(回答先: ロシアの国章:変異種の双頭の鷲からマンモスに替えては如何でしょう? [PRAVDA] 投稿者 ファントムランチ 日時 2003 年 9 月 05 日 20:25:33)

上図:紋章「双頭の鷲」 ハプスブルグ家/ロマノフ家

■紋章「双頭の鷲」と、もうひとつのDNA鑑定をめぐる日露協力

数年前からシベリアで氷付けのマンモスを発掘し、最新のバイオ技術で復活させようという日本の研究者の取り組みがあることは聞いていましたが、今年2003年7月に有望とされるマンモスの身体の一部が得られ本格的な実験が始まったようです。そこで思い出すのは、同じように日本の研究者が協力して行なったロシア最後の皇帝ニコライ2世のDNA鑑定です。彼はハプスブルグ王朝と並び、ロマノフ王朝の皇帝として紋章「双頭の鷲」を継承してきた人物でした。そんなわけでこれより先を前半と後半に分け、前半を第1部として「双頭の鷲」の歴史について、後半を第2部として皇帝一家殺害とニコライ2世のDNA鑑定への日本の協力についてまとめてみました。

◆第1部:「双頭の鷲」の歴史

「双頭の鷲」は帝政時代のロマノフ家の紋章ですが、その歴史を振り返って見ると、古代ローマ崩壊から現代ヨーロッパ形成に至る、様々な国家や民族の興亡、特に巨大帝国の繁栄と滅亡の歴史が見えてきます。ヨーロッパの人々にとってローマ帝国とはどんな存在なのでしょうか?また現在ヨーロッパ統合を進めているEU加盟国には、どのくらい地域としての歴史的一体感があるのでしょうか?ヨーロッパの王族の家系は複雑に絡み合っていますので、「双頭の鷲」の紋章も遠く離れて継承されたり、時期によって双頭から単頭に替えられたりと常に変遷してきました。以下の内容は「主流といえる4つの帝国」について、特にロシア・ロマノフ家を重点に、紋章「双頭の鷲」をめぐる歴史を略年表にして、俯瞰的にその繋がりを追ったものです。それぞれの帝国に分けて取り上げているので、多少は時代が重複しますが。

≪東ローマ帝国(ビザンチン帝国)≫

 * 古代ローマが金色の鷲をモチーフにした軍旗のもと、大帝国を築く
 *330年、コンスタンティヌス帝がローマ帝国の都をビザンティオンに移す
 *395年、テオドシウス帝が息子2人に帝国を東西に分けて継がせ、ローマ帝国分裂
 * 東ローマ帝国が東西融和の象徴として紋章に「双頭の鷲」を制定
 *476年、ゲルマン民族が西ローマ帝国を滅亡させ、西ゴート王国やフランク王国などを建国
 *800年、ローマ教皇レオ三世が、フランク王国のカール大帝をローマ皇帝に戴冠
 *1453年、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)がオスマン・トルコ帝国により滅亡

ローマ帝国は突然に消滅したわけではありません。早々とゲルマン民族に滅ぼされた西ローマ帝国に対し、東ローマ帝国は次第に縮小しながらもその後ギリシア文化とローマ文化の融合の中で、千年以上も続きました。その後半はオスマン・トルコ帝国をはじめとするイスラム勢力との戦いの連続でした。また西ヨーロッパのゲルマン民族は互いに争いながらも、いくつもの国家を形成し、やがてローマ教皇や皇帝の権威に野心を持ち、またキリスト教国として東方に軍を送るようになります。1095年教皇ウルバヌス2世が宣言し1096年から13世紀後半にかけて行なわれた十字軍遠征、そして陸海におけるオスマン・トルコ帝国との長い戦いは、ついにコンスタンティノープルの陥落によって、重要な防衛線とひとつの文明の中心を失いました。しかしその頃には中世は終焉を迎え、ルネッサンス期に入っていました。一方、滅亡したビザンチン帝国の紋章「双頭の鷲」は他の帝国(ロシア)に継承されてゆきます。

ちなみに東ローマ帝国以前の「双頭の鷲」が実はペルシアにあります。アケメネス朝ペルシアのペルセポリス神殿です。紀元前330年アレクサンダー大王によって破壊、炎上したことは有名ですが、それでも焼け残った儀仗兵の通路途中北側の柱に「双頭の鷲」の石像があるそうです。これは一本の柱の上で鷲の2つの顔が反対側を向き、胴体が繋がった状態に造られています。ところが「謁見の間」に何本か残ってる20メートルはあったという天井を支えていた円柱の上部には、実在あるいは空想上の動物の前半分が背中で繋がって組み込まれていて、牡牛、大カラス、ライオンなど、どの動物も「双頭」になっているそうです。つまりここでは鷲だけが特別に双頭として考案されたのではなく、建築様式の都合上たまたま「双頭の鷲」が誕生したと言えるでしょう。これが東ローマ帝国の紋章「双頭の鷲」の起源になっているかは分かりません。ただギリシア、ローマ時代には見られなかったので、始まりは意外とこんなところにあるのかも知れません。

≪神聖ローマ帝国 → ハプスブルグ家≫

 *743年、フランク王国が3つに分裂、フランス、ドイツ、イタリアの元となる
 *962年、ドイツのオットー1世がイタリア遠征、ローマ教皇ヨハネス12世より皇帝に戴冠
 *1273年、ルドルフ1世が、初めてハプスブルグ家から「選帝候」会議によって皇帝に選出
 *1401年、神聖ローマ帝国摂政ジギスムントが紋章を「双頭の鷲」に改定、皇帝に即位後制定
 *1493年、ハプスブルグ家のマクシミリアン1世が皇帝に即位、以後同家が独占
 *1516年、カール5世がカルロス1世としてスペイン国王に即位
 *1701年、プロイセン王国の成立、紋章は「単頭の鷲」
 *1796年、ナポレオンが2度ウィーンを占領、ハプスブルグ家は西ヨーロッパのほとんどを失う
 *1805年、プロイセンを除くドイツ諸侯がナポレオンの保護下に「ライン連邦」を結成
 *1806年、皇帝フランツの退位により神聖ローマ帝国が消滅、ハプスブルグ家が紋章を継承

西ローマ帝国滅亡後、西ヨーロッパでは各国の王が勢力争いを続けますが、広大な領域を征服した王は、イタリアを目指します。ここはかつてのローマ帝国の中心であり教皇庁が存在します。強大な各国の王は教皇の選出を含め常にここに影響力を持つことを意識します。そして大帝国を築いた暁には教皇によって、消えたはずの西ローマ皇帝に戴冠されることを望むのです。カール大帝のフランク王国が分裂後、勢力を拡大したドイツのオットー1世がローマ皇帝に戴冠されました。その後イタリアは都市国家に分裂してゆきますが、ドイツ一帯は「神聖ローマ帝国」と名乗り、皇帝の称号を継承してゆきました。マクシミリアン1世が神聖ローマ皇帝に即位してからはハプスブルグ家が代々皇帝を輩出するようになりました。さらにカール5世はスペインでカルロス1世として即位し、その後スペイン・ハプスブルグ家としてイベリア半島を統治し、やがて植民地帝国を築くことになります。

フランスでナポレオンが台頭し、勢力を広げてプロイセンと戦争、神聖ローマ帝国を離脱した南ドイツの16ヶ国でライン連邦が成立、同じ1805年、ナポレオンはローマ教皇ピウス7世によって皇帝に戴冠されました。翌年神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位し、神聖ローマ帝国は消滅しました。このような経緯からヨーロッパ、特にドイツの諸侯の紋章には単頭、双頭を問わず「鷲」のモチーフが多く取り入れられています。またナポレオンは金の「鷲」を紋章に使用していましたし、後のナチス・ドイツの紋章も鍵十字と「鷲」でした。ナポレオン1世没後、帝位に関しては1870年、ナポレオン3世のフランスがプロイセンに宣戦布告、プロイセンの勝利に終わり、1871年1月1日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間において、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位、ドイツ帝国が成立しました。

≪オーストリア、ハプスブルグ家≫

 *1282年、ハプスブルグ王朝(同家によるオーストリア支配)の始まり
 *1683年、第二次ウィーン包囲(キリスト教国の最前線)、オスマン・トルコ帝国に反攻開始
 *1718年、パッサロヴィッツ和約、ハンガリーの一部とセルビア北部をトルコから割譲
 *1740年、オーストリア継承戦争、マリア・テレジアによる「3枚のペチコート作戦」へ
 *1810年、ナポレオン、オーストリア皇帝フランツ2世の長女マリー・ルイズと再婚
 *1867年、北ドイツ連邦成立、オーストリア・ハンガリー二重帝国成立
 *1914年、サラエボ事件、大公にして皇太子のフェルディナンド暗殺、第一次世界大戦が勃発
 *1916年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ死去。カール1世即位。
 *1918年、皇帝カール1世が国外退去、ハプスブルグ帝国の解体、オーストリア共和国成立

オスマン・トルコに対するキリスト教国の最前線はビザンチン帝国滅亡後、オーストリアまで後退します。ウィーンは二度、トルコ軍に包囲されますが、その後反撃に転じ、ハプスブルグ家は徐々にオスマン・トルコから広大な領域を手に入れます。やがて巧み政治力を発揮し、諸国とも広く姻戚関係を結びつつ神聖ローマ皇帝を世襲するようになります。オーストリア継承戦争ではバイエルン、プロイセン等に対抗し、マリア・テレジアはロシア、フランスの協力を得て戦い、その後ハプスブルグ=ロートリンゲン家としてオーストリアを統治することになります。彼女の孫フランツ2世は神聖ローマ皇帝を退位した後も、1835年までオーストリア皇帝をつとめました。紋章「双頭の鷲」もオーストリアに受け継がれてゆきました。ウィーンの軍楽隊長だったJ.F.ワーグナー(1856-1908)が作曲した行進曲「双頭の鷲の旗の下に ― Unter dem Doppeladler.Op159」はこの軍旗のことを指しています。

近代から現代にかけて、バルカン半島を中心とした東欧諸国の不安定要因は、王制打倒や共産主義革命がまず思い浮かびますが、そのほかにやはり「多民族」であることに注目すべきです。つまり古代ローマに征服された多くの小国が、東ローマ帝国の衰退で数百年間イスラムの統治を受け、次はオスマン・トルコの衰退でキリスト教国に吸収・統合されたり、それに抵抗して独立状態になったりしました。オーストリア・ハンガリー帝国はそのすべてを支配する力はありませんでした。第一次世界大戦が勃発した1914年の地図を見れば、まさに「民族の火薬庫」だったことが分かります。第一次世界大戦によってハプスブルグ王朝は終わりを迎えましたが、紋章「双頭の鷲」はハプスブルグ家とゆかりの深かった家系や財閥などに今も受け継がれています。

≪ロシア、モスクワ公国 → ロマノフ家≫

 *988年、キエフ公国の王ウラジーミルがビザンチンからキリスト教を国教として取り入れる
 *1439年、フィレンツェ公会議で東西両教会の再統一に関する協定に調印、ロシア本国は拒否
 *1472年、大公イヴァン3世が旧ビザンチン帝国皇帝の姪と結婚、紋章を「双頭の鷲」に
 *1598年、大公としてロシアに700年以上も君臨してきたリューリク朝が断絶、混乱へ
 *1613年、ミハイル・ロマノフが全国会議でツァーリに推戴される、紋章を「双頭の鷲」に
 *1695年、ピョートル1世がトルコ軍に対してアゾフ遠征、その後スウェーデンと北方戦争
 *1712年、サンクト・ペテルブルクを建設し、モスクワから遷都
 *1812年、ナポレオンによるロシア遠征を撃退
 *1853年、クリミア戦争が勃発
 *1875年、アレクサンドル2世、樺太・千島交換条約(サンクト・ペテルブルク条約)
 *1891年、ニコライ2世訪日、大津事件
 *1905年、日露戦争に敗北、血の日曜日
 *1917年、第一次世界大戦中に二月革命、ニコライ2世退位、ロマノフ王朝は滅亡
 *1918年、7月18日エカテリングブルクでボルシェビキによって旧皇帝一家惨殺

さてロシアの東ローマ帝国との深い繋がりは、ギリシア正教を国教として導入したときから始まります。キエフ公国の王ウラジーミルはその決定の以前、ブガール人にイスラム教を国教として採用するように勧められたそうですが、この宗教が酒を禁止していることを聞いたウラジーミルは「ルーシ(ロシア人)は酒なしに生きることはできぬ」と言って断ったというエピソードがあるそうです。リューク王朝が成立し、ビザンチン帝国がオスマン・トルコ勢力によって衰退してゆくにつれ、ロシア正教は独立性を増してゆき、1453年、ビザンチン帝国が滅亡すると、モスクワ公国の大公イヴァン3世は、旧ビザンチン帝国皇帝の姪ソフィア・パレオローグと結婚し、紋章「双頭の鷲」を継承しました。

1515年、修道士フィロフェイは「第三のローマ」理念を唱え、モスクワをローマ帝国の第3の都と称しました。このころスラブ族(全東欧)は「タタールのくびき」から解放され、モスクワ公国は勢力を拡げます。1584年イヴァン4世は初めてツァーリとなり(イヴァン雷帝)、権力を強めますが、彼が死去すると混乱期に入り、モスクワがポーランドに占領されるまでの事態となります。その解放にロマノフ家が大きな役割を果たし、1613年、16歳のミハイル・ロマノフがツァーリに推戴され、ロマノフ王朝時代が始まりました。そして「双頭の鷲」がロマノフ家の紋章となったのです。

この時点で(正確に言うとイヴァン雷帝の時期からですが)、一度は失われた東西ローマ皇帝の帝位が、西は神聖ローマ帝国ハプスブルグ家、東はロシア帝国ロマノフ家として、ともに古代ローマの正統な後継者として肩を並べたことになります。そして両帝国の紋章は共に「双頭の鷲」でした。この2つの帝国はだからといって特に親密だったわけではありませんが、オスマン・トルコという共通の敵を持っていました。またロシアはオーストリア・ハプスブルグ家とも対プロイセンの7年戦争やポーランド分割などでたびたび協力関係を結ぶことになります。女帝エカテリーナの時代には念願の黒海進出も果たしました。

神聖ローマ帝国を滅亡に追いやったナポレオンは、たびたび離反するオーストリアを3度打ち破り皇女マリ・ルイーズと再婚しますが、もうひとつの「双頭の鷲」ロシアに遠征し、60万の大軍が焦土戦術や冬将軍によって壊滅させられました。そしてロシアは反攻を開始、オーストリア・プロイセンが同調して、1813年のライプツィヒの戦いでナポレオンを撃ち破り決定打を与えました。結局ナポレオンは2つの「双頭の鷲」に最後までてこずり、ついに反撃に遭って敗れたと言えるでしょう。アレクサンドル1世の妹にあたるロシア皇女アレクサンドラはハプスブルグ家ハンガリー総監ヨーゼフ・アントンに嫁いでいます。

19世紀も半ばのニコライ1世の時代になると、ギリシア正教とローマ=カトリックの対立は激化し、ロシアはギリシア正教徒の保護を口実にトルコ全土に干渉する権利を主張し兵を南下させます。1853年、クリミア戦争が勃発し、ナポレオン3世のフランスとイギリスは、なんとトルコと連合します。12万人近い戦死者を出したこの戦争はロシアがセヴァストニポリ要塞を奪われ勝敗が決したところで、中立を保っていたオーストリアとプロイセンの調停により講和が成立しました。このパリ条約によってロシアの黒海における艦隊の保有は禁じられ、トルコ領内のギリシア正教徒に対する特権も奪われました。

このころすでに西欧諸国はアフリカやアジアへの植民地支配を推し進め、北米・南米も次第に現代の勢力図を形成しつつある中、当時ロシアにとって最大のライバル国イギリスは英領インドからアフガニスタンヘの侵略を開始、1880年に保護領とします。1893年、パシュトウーン族地域の一部が英領インド(現在のパキスタン)に併合されました。一方、極東に広大なシベリアを領するロシアも強大な大清国の存在のため、数百年ものあいだ黒龍江を越えることはできませんでした。しかし皮肉なことにアヘン戦争以後の清の急速な弱体化によって、中国東北部に影響力を強めてゆきます。ロシアの南進を牽制するためイギリスは1902年、日本と同盟関係を結ぶことになります。

ロシア最後の皇帝ニコライ2世はまだ皇太子だった1891年、彼は日本を訪問し危うくサラエボ事件のようになり兼ねない目に遭っています。いわゆる「大津事件」で、ニコライ2世は大津に滞在したおり、遊覧の帰途に警備中の巡査津田三蔵に斬りつけられ頭部に軽傷を負います。明治天皇が事件の2日後には京都に駆けつけて見舞い、外交関係を考慮し政府の閣僚たちは、大逆罪を適用して津田三蔵を死刑に処すべきと主張しましたが、大審院長児島惟謙は、同条文は外国の皇族には適用されないとして、通常謀殺未遂罪で裁くことを主張、無期徒刑の判決を下しました。

この決定は児島惟謙が断固として「司法権の独立を守った」という評価があるいっぽう、裏で政治勢力の暗躍も囁かれています。また、明治天皇から直接賜った勅語が決め手となったとも言われます。「今般露国皇太子ニ関スル事件ハ国家ノ大事ナリ、注意シテ速カニ処分スベシ」というもので、その「注意シテ」とは、法律の適用を誤って国家の恥としてはならない、との意味であると児島は受け止めたということです。いずれにしてもこの裁判の判決は、明治、大正、昭和にわたって、日本の多くの政治事件(暗殺・疑獄事件)の判決に影響を残すことになります。

この事件の3年後、ニコライ2世は即位してロシア皇帝となり1904年、日露戦争に敗北。国内では血の日曜日事件が起こりました。行進に参加した者の総数はおよそ6〜7万人、死傷者は約4000人と言われ、その後皇室に対する憎悪は高まり、共産主義革命へと発展してゆきます。1914年、第一次世界大戦中が勃発、7月30日、ロシアが全軍に総動員令を発すると、ドイツはロシアに宣戦布告しました。オーストリアがセルビアに最後通牒をつきつけてからわずか10日ほどの間にヨーロッパの主要な国々が戦争に巻き込まれました。やがて同盟国側はドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリアの4カ国となり、連合国側は、イギリス、フランス、ロシアを主力にセルビア、日本、イタリア、ルーマニア、アメリカ、中国など計27ヶ国にも及ぶ、まさに初の世界大戦に発展しました。

オーストリア・ハプスブルグ家は第一次世界大戦敗戦の1918年、皇帝カール1世がオランダに亡命し、歴史の表舞台から姿を消しますが、もうひとつの「双頭の鷲」ロマノフ王朝は大戦中の1917年、二月革命によって滅亡することになります。皇帝ニコライ2世は革命が起こったときには前線の大本営にいました。事態の深刻さを認識し軍に首都進撃の命令を下した時にはすでに遅く、3月15日に退位の勧告を受け入れて弟のミハイルに譲位しました。ミハイルは翌16日これを辞退し、ロマノフ朝は崩壊しました。ニコライ2世は十一月革命後に監禁され、1918年、内戦中に家族とともにボルシェビキによって処刑されました。その後連合国は同盟軍と戦うと同時に、混乱期のロシアに干渉し白軍を支援します。日本もシベリア出兵を要請され3500名もの死者を出しました。「白軍」は1920年の春頃までにトロツキー率いる「赤軍」によって壊滅し、内戦は終了しました。

 
◆第2部:皇帝一家殺害とニコライ2世のDNA鑑定への日本の協力

退位したニコライ2世とその家族は、初めはペトログラード(ペテルブルグ)郊外のツァールスコエ・セロにあるアレクサンドル宮殿に軟禁されました。その後、皇帝一家は一旦シベリアのトボリスクに移され、最終的にウラル地方のエカテリンブルグに送られました。そこで一家は、大商人イパチェフの家に幽閉されました。そこは中心街に近い大通りに面した二階建ての大きな屋敷で、隣りはイギリス領事館だったといわれます。近くの小高い丘には教会が建っていました。この屋敷には地下室があり、そこに監禁されたロマノフ王朝最後の皇帝一家は、ほどなく差し向けられた処刑部隊によって抹殺されてしまいます。

エカテリンブルグはボルシェビキ党の重要都市で、チェコ連隊の決起により、白軍がエカチェリンブルグに近づくと、レーニンは皇帝一家全員の処刑をウラルソビエト軍事委員ゴロシチョキンに指示しました。1918年7月16日深夜から17日未明にかけて、エカチェリンブルグのチェカー(秘密警察)次席ユロフスキーに率いられた処刑団12名(ロシア人5名と金銭で雇われたハンガリー人投降捕虜7名)が、「イパチェフ館」の地下室に押し入り、皇帝一家7名と主治医や看護婦など合計10名を銃器で殺害したとされています。

 ニコライ二世 50歳
 アレクサンドラ皇后 46歳
 第一皇女オリガ 21歳
 第二皇女タチヤーナ 20歳
 第三皇女マリア 19歳
 第四皇女アナスタシア 17歳
 アレクセイ皇太子 14歳

処刑部隊は彼らの遺体をトラックで運んで近くの廃坑に放り込み、手榴弾を投下しました。しかし数日後ユロフスキーはそこが発見されるのではないかと不安になり、遺体を回収して再びトラックに載せ、遠くへ運ぼうしたところ、途中でトラックが泥濘にはまり動けなくなったそうです。そこでその場で遺体の顔をハンマーで叩きつぶし、身元を分からなくしてから近くに埋めたと伝えられています。この辺の経緯は実に曖昧で、殺害された情況や遺体が埋められた場所、そしてその時点での個別の死亡確認について、実行者たちからあまり語られることがなく謎のままになっています。皇帝一家という重要人物たちの殺害が、それほど杜撰に行なわれていたとすれば、当時のチェカー(KGBの前身)が只の盗賊並みに無能だったのか、それともより詳細な記録があるが秘匿されているのかのどちらかでしょう。
 
疑問のひとつは「殺害の場所とその時の情況」で、定説では処刑場所はイパチェフ舘の半地下の食堂で、皇帝一家に対し処刑部隊が一斉に銃撃を浴びせ、その後まだ息のある者を銃剣で突き刺したと言われます。しかし本当はここで殺されたのは皇帝だけで、皇后と4人の皇女達は皇太子アレクセイとも離されて別の場所に移され、兵士達に暴行されたあと、撲殺されたという説もあります。また遺体の運搬中、娘の誰かがまだ生きている声がしたという、その夜立ちあったひとりの赤軍兵士の証言もあるそうです。さらに地下室の壁の弾痕はみな下部に集中しており、全員の銃殺現場としては偽装の疑いがあるということです。もっともこの建物は観光名所になれば混乱の惧れがあるとして、すでにエリツィン前大統領によって取り壊されました。

レーニンは諸外国の批判を免れるため翌1920年、社会革命党員25名をデッチ上げで逮捕しうち4名を皇帝殺害の罪で処刑しました。皇帝一家を殺害した実際の処刑部隊のうち、ユロフスキーはウラルに止まり共産党内の安楽な地位を確保し1942年に病気で死亡。一方、ゴロシチョキンは栄達し1924年、カザフ共和国首長となりました。そこでカザフ人と対立し徹底的な弾圧策を実行、任期終了の1932年までにカザフ人の人口570万人は半分以下に減少したそうです。彼は1930年代のスターリンの粛清から逃れたものの、1940年に処刑されました。

もうひとつの謎は有名な「アナスタシア生存説」で、ここでは詳しく触れませんが、事件の2年後、ベルリンの運河に身投げして助け上げられたという若い女性が自分は「アナスタシア皇女」だと名乗ったことから始まりました。これがやがて肯定派と否定派に分かれて各国王室や親戚、廷臣その関係者を巻き込んだ大論争に発展しました。肯定派には皇帝の従兄弟大公アンドレイ、ロイヒテンベルク公爵、否定派にはヘッセン大公エルンスト、皇帝の妹オリガ大公女、マウントバッテン伯爵などがいました。ロシア皇帝が生前残したとされる架空の銀行口座の莫大な財産がからんだ真贋論争で、全世界を騒がせた裁判が行なわれましたが、アナスタシア本人であるとは認められませんでした。その最大の不利は答えられない質問があると、極度のショックや暴力による記憶喪失のせいにしてしまうこと、ロシア語を話さないこと、容貌が変わり果てていることなどでした。

それから時は経ち1979年、エカテリンブルグ郊外の森で、歴史家のグループが皇帝一家のものらしい遺体 (約900個の骨片や歯)を発見しましたが、ソビエト連邦時代は秘密にされていました。10年後の1989年、ソビエト連邦崩壊によりロシア国家に戻ると、この情報が公開されて西側の調査団も入り、DNA鑑定を含む最新の科学による検証が始まりました。そして1991年、法医学者らは皇帝一家の明らかな身体的特徴は不明でしたが、散乱した骨片から年齢、性別、身長を割り出し、写真などから推定した彼らの身長と比較して、それらが皇女のうち1人と皇太子アレクセイを除く皇帝一家5人と従者4人の遺体であるという一応の判断を示しました。

1994〜1996年に英国法科学局のギル博士らが皇帝一家のものであると疑われる遺骨からDNAを抽出し、以下の検査を行いました。アナスタシアと主張していたアンナ・アンダーソンについては、1984年に死亡後、火葬に付されていましたが、1979年の手術時に摘出された小腸の一部が組織標本として保存されていたので、そこからDNAを抽出して分析したそうです。

1.XY染色体アメロゲニン遺伝子の検出による性別判定。
2.STR (Short Tandem Repeatの略でマイクロサテライトの一種。四塩基の配列が反復し、
   反復回数に個人差がある遺伝子)の検査による親子鑑定。
3.ミトコンドリアDNA (mtDNA) による母系解析。

その結果、皇女3人のものとされるDNAは、皇帝と皇后の子が持ち得る型として矛盾しないことが分かりました。そしてその他は全員がこの5人と血縁関係が無いとの鑑定結果が出ました。つまりアナスタシアであると主張していたこのアンナ・アンダーソンについても、皇帝一家とは無関係で、1920年2月15日にドイツで失踪したポーランドの女工フランシスカ・シャンツコフスカであると断定されました。それは別の比較としてフランシスカの姉ガートルードの息子であるカール・マーシャルのDNAを鑑定したところ彼女と血縁が確認されたことによるもので、最終的に彼女は偽物だったことが証明されたそうです。

そしてあとは皇帝とされる成人男性の遺体がニコライ2世のものと証明される必要がありますが、ここで重要なのはミトコンドリアDNAによる母系解析でした。ミトコンドリアDNAは1個の細胞内に数千個存在するため古く傷んだ微量の資料からも検出しやすく、犯罪捜査で個人識別を行うためのDNA鑑定のひとつとしても重要視されています。ミトコンドリアDNAは細胞質遺伝をする特徴があり、卵子のミトコンドリアを介して母親から子へ遺伝しますが、父親からは遺伝しません。したがって父子の鑑定には使えず、母方へ遡る血縁の有無を調べることになります。

その検査として、ニコライ二世の祖母デンマーク王妃ルイーズの血縁である弟のジョージ大公の遺骨、遠縁のファイフ公及び妹の子孫ジーニア伯爵夫人の血液から採取したミトコンドリアDNAと比較し、同じ母系に属することを確認しました。また、アレクサンドラ皇后については祖母ビクトリア女王の血を引くエジンバラ公の血液から採取したミトコンドリアDNAと比較して同じ母系に属することが確認できました。その際、ニコライ二世とジョージ大公のミトコンドリアDNAにはヘテロプラスミーが見出されました。

ヘテロプラスミーとは異なる配列のミトコンドリアDNAが混在していることで、デンマーク王妃ルイーズ、ファイフ公及びジーニア伯爵夫人ではミトコンドリアDNA(HVR1) の16169番目の塩基がTだったのに対し、ニコライ二世とジョージ大公では同じ場所にCとTが混在していました。ヘテロプラスミーは少なくとも3世代以内に消失し、1種類のミトコンドリアDNAのみに戻るので、世代の異なる血縁者にヘテロプラスミーが無くても矛盾はない。その一方で赤の他人で偶然同じヘテロプラスミーが存在する確率は極めて低いので、ヘテロプラスミーの共有が、発見された遺骨がニコライ二世のものであることを示す決定的な証拠とみなされました。

そして更なる裏づけのために、思いもよらず注目を集めることになったのは、日本に残されている、「大津事件」の遺物に付着したニコライ2世本人の血痕でした。ニコライ2世は人力車で京都まで帰る途中,大津市中で彼に斬りつけられたのですが、額に傷を負ったものの命には別状はありませんでした。津田三蔵から皇太子の命を守ったのは二人の車夫で、皇帝が使ったハンカチと座布団には血痕が残っており、その後も大切に大津に保存されていたのでした。1998年にロシアの調査委員会は、大津市の博物館に保管されていたニコライ2世の着衣などを調べましたが、その遺品に残った血痕は長い時間が経過していて保存状態も悪かったので、DNAを取り出すことはできず、血液型の確認にとどまりました。そして一連の調査を通じて、遺骨は98.5%の確率で皇帝一家のものに間違いないという結果が出ました。

帝政ロシア時代を清算するための国家事業として同1998年、旧帝都サンクト・ペテルブルクで皇帝一家の国葬が行われ、遺骨は歴代皇帝が眠るペトロパブロフスク大聖堂に埋葬されました。葬儀には、海外在住のロマノフ家の親類約50人のほか、当初欠席を表明していたエリツィン大統領も含め関係者が参列し、式典はロシア正教会のしきたりにのっとって行われました。しかしその直前まで、発見された遺骨が皇帝のものでない可能性があるとの指摘が相次ぎ、埋葬反対論が沸騰しました。ロシア正教会の総主教アレクシー2世や政府の有力者の多くが埋葬反対の立場にまわり欠席しました。とくに共産党は敬遠気味で、国民も停滞する経済状況から、エリツィン大統領に冷ややかでした。

そんな中、2001年8月になって改めてニコライ2世の遺骨が「偽物だった」との日本の研究者の分析結果がニュースになります。これは北里大大学院の長井辰男教授(法医学)と岡崎登志夫助教授らが発表したもので、それまでとは別の人物からのDNA提供を受けた検査結果でした。それはニコライ2世の甥にあたるティホン氏の血液で、生前に採血されカナダに氷点下80度で保存されていたものでした。ティホン氏は兼ねてより「ニコライ一族に冷たかった英国やロシアには協力しない」との意向を明らかにしていたため、英露の鑑定には使われていませんでした。

長井教授らは交流のあったロシア科学警察研究所のポポフ教授から、ニコライ2世の汗じみがついた衣類、ニコライ2世の弟の毛髪、下あごの骨、つめの一部を提供してもらい、それとティホン氏の血液という3つのDNAデータを検査しました。その結果、ミトコンドリアDNAのある特定領域の塩基配列は3人ともすべて一致し、同じ家系と分かりましたが、英露の研究者が公表したニコライ2世の骨の塩基配列とは5カ所で違っていました。ミトコンドリアDNAの塩基配列が1ヶ所異なる突然変異は300年に一つ程度しか起きないため、埋葬された骨は別人のものと判定したそうです。

長井教授はこのことをドイツのミュンスターで開かれた第19回国際法遺伝学会で発表しました。マスコミで伝えられたような「偽物だった」という主張ではなく、英露によって報告されているミトコンドリアDNAの配列に誤りがある可能性を含めた疑問の提示でした。当時この検査を担当したギル博士は学会場で、この数年で塩基配列解析技術が向上したので、以前の技術で検査した自分たちのデータに2、3の配列の誤りがあるかも知れないが、結論に大きな問題はないとコメントしたそうです。

専門家によると、塩基配列の解析を行う場合、新鮮なDNAを試料としても時には非特異的な反応が生じ得るもので、骨中のDNAの分析は骨のカルシウムにより阻害されやすく、長年地中に埋まっているとDNAが腐敗・分解を起こすこともあり得るということです。毛髪のDNAも微量である上にメラニンの影響で分析が阻害されやすく、DNAの塩基配列が死後変性で変化することも考えられ、数塩基の違いが見られたとしても別人であるとは必ずしも断言できないそうです。

というわけでニコライ2世の遺体への疑問はまだ残されており、仮にそれが本物で無いとすれば、一家全員について見直さなくてはならなくなります。また遺体が発見されなかった当時14歳のアレクセイ皇太子ともう1人の皇女(マリアと言われている)はどこへ行ってしまったのか、灰になるまで焼かれてしまったという説もあるようですが、今後また新たな発見や証言が出てくるかもしれません。

 
◆おわりに:紋章「双頭の鷲」のその後

ひと昔前まで帝国主義時代というのがありました。これはもちろん古代ローマ帝国とは無関係の、海を越えて世界規模で拡がった植民地支配のことです。「帝国」という漢字熟語は、実は18世紀末に日本人が創り出し,19世紀の終わりごろ中国や朝鮮に輸出された「和製漢語」だそうです。もともと「帝王の国」という意味で作られた「帝国」を、19世紀はじめの長崎の洋学者が英語の empire の訳語に当てたということです。しかし Empire は imperium というラテン語が永い間に音韻変化を遂げたもので、この語は初め古代ローマン・エンパイアに使われましたが、その時ローマは共和制であり、よって「帝国」というものに必ずしも皇帝が存在する必要はないようです。そういう意味では帝国主義時代の「帝国」という語の使われ方も間違いではないのかも知れません。

百獣の王ライオンと並んで、翼をもつ大空で最強の「鷲」は、古くから帝国の象徴として紋章に用いられてきました。ナポレオンの登場には新古典主義が色濃くその背景にあり、古代ローマの共和制と皇帝が入り混じった幻想を具現化し、「鷲」の軍旗のもとヨーロッパを席巻しました。時代は下りヒトラーもナチス・ドイツを第三帝国と称して(第一は神聖ローマ帝国、第二はヴィルヘルム1世からのドイツ帝国)、ドイツに受け継がれてきた「鷲」の紋章を取り入れ、ヨーロッパ全域に勢力を拡大しました。興味深いことに共和制になって以後のオーストリアは国家の紋章を「単頭の鷲」に替えていたのですが、ナチス・ドイツ時代だけは再び「双頭の鷲」を用いています。「双頭」とはやはり融和や同盟の象徴というわけでしょうか。その後はまた「単頭」に戻しています。

一方、社会主義ソビエトで忘れられていた「双頭の鷲」は、その崩壊後もすぐには復活しませんでした。しかし旧連邦諸国と区別されたロシアとしての単独のアイデンティティーが次第に見直される中、プーチン大統領は2000年12月4日、「10月革命前後の国家の象徴を一切否定することは原則から見れば誤っている」と述べ、国旗を300年間使われてきたロシアの三色旗(白、青、赤)に、国歌を旧ソ連の楽曲に、同時に国章を伝統的な「双頭の鷲」に定め、ロシア軍の軍旗には紅旗を用いることを提案しました。そして12月9日ロシア下院での採決で、賛成371票と反対51票により、可決しました。最近マンモス復活計画が話題となっていますが、「双頭の鷲」も約80年ぶりに復活したばかりなのです。

もちろんその間も旧皇室の家系では紋章は受け継がれていますし、歴史上の4つの帝国とゆかりの深い団体にも「双頭の鷲」は使われてきました。中にはほとんど関係のない団体が勝手にデザインに取り入れるケースもあるでしょう。紋章は単純なものからかなり複雑なものまで、また創作的なものから既存の模様を結合させたものまで、一定の法則性の中でアレンジの自由度は高く、また世代や情勢によって変化し続けます。紋章がよく用いられる団体としては、氏族・家・国家・軍・公的機関・自治体・教会・結社・学校・銀行・商社などがあるそうです。国としてはアルバニアやコソボ自治区がビザンチンの名残で「双頭の鷲」を紋章として使っています。何故か近ごろは日本でも双頭の鷲を用いている団体があるようです。

1997年から始まった日本の研究者によるマンモス復活計画は、シベリアにおける氷付けのマンモス発掘から始まって、ついに2003年7月15日、DNAの採取が期待できそうな保存状態の良いマンモスの肉片が日本に運ばれ、本格的な実験段階に入りました。このことは、近現代史の中で、大津事件とニコライ2世死後のDNA鑑定への日本の協力を考えると不思議な因縁を感じます。仮にマンモス復活に成功したとして、氷河期でもなくむしろ温暖化している現在の環境で野生に帰せるのでしょうか、それとも巨大な冷却ドームでも建てて飼育するのでしょうか?そしてロシア人のマンモスへの関心はどの程度のものなのでしょうか?

太古に絶滅したとはいえマンモスもユーラシア北部の強大な動物としてロシアにとって象徴的です。最近、ロシアの国章を「双頭の鷲」から「マンモス」に替えてはどうかという冗談めいた記事がありました。そして「マンモスへの置き換えは、ロシアの復活を象徴することになるでしょう」などと書いていますが、かつての冷戦時代から、今やアメリカによる一極支配の時代となる中で、ロシアの人々がその国力の低迷をどう捉えているのか、その記事からは、物足りなさと一種の安堵感、そしてどうしても皮肉っぽさが感じられます。ちなみに現代の「帝国」アメリカの国章は「白頭鷲」で、これは先住民のイロコイ連邦のシンボルを元にしたものだそうです。

 
関連

ロシアの国章:変異種の双頭の鷲からマンモスに替えては如何でしょう? [PRAVDA]
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/647.html
投稿者 ファントムランチ 日時 2003 年 9 月 05 日 20:25:33:oswAM6lqBSCW6

生き残ったローマ帝国
http://www2.nkansai.ne.jp/users/mips/html/byz)1.html

「系図の迷宮」〜Labyrinthus Genealogiae〜
http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/

第一次大戦
http://www3.kiwi-us.com/~ingle/index.html

鷲が語るオーストリアの栄枯盛衰
http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-05.htm

ニコライ二世の遺骨のDNA鑑定
http://www3.kmu.ac.jp/~legalmed/DNA/romanov.html

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