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Re: 「天皇がえらいんじゃない。どんな天皇でも国家統一のため、あがめつづけた日本民族がえらいんだ」
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/276.html
投稿者 ジーザスです 日時 2003 年 6 月 15 日 12:23:51:smKfFQRIiHxjA

(回答先: Re: 「天皇がえらいんじゃない。どんな天皇でも国家統一のため、あがめつづけた日本民族がえらいんだ」 投稿者 Ddog 日時 2003 年 6 月 15 日 02:40:36)

ジ−ザスです。

先の大戦(大東亜戦争)において、日本は「大東亜共栄圏」なるスローガンを前面に押し出しました。その意味は、「欧米列強による植民地支配
に代わって、共存共栄の新秩序を東亜(アジア)に樹立する」と言うものでした。言わば、アジア版「新世界(域内)秩序」と言ったものです。
そして、その一環として、昭和18(1943)年11月、東京において、アジア版サミットと言える「大東亜会議」が開催されたのです(『7.昭和18年
の「東京サミット」、大東亜会議』参照)。しかし、戦後、日本が提唱した「大東亜共栄圏」は軍部が戦争遂行の為に作り出した単なる「方便」
(プロパガンダ)に過ぎなかった等と一蹴されてしまいました。しかし、実態は全く異なり、「大東亜共栄圏」は軍部が独創したプロパガンダで
も何でもなかったのです。そして、この構想(「大東亜共栄圏」)には、軍部を先んずる多くの先達がいたのです。と言う訳で今回は、「大東亜
共栄圏」について書いてみたいと思います。

まずは、「大東亜共栄圏」の概略から ──。昭和12(1937)年7月7日の「廬溝橋事件」に端を発した「支那事変」(日華事変・日中戦争とも呼
ばれる)の長期化が決定的となった昭和13(1938)年11月、第1次近衛文麿内閣(1937.6.4-1939.1.4)は、「日満華(日本・満州・中華民国)
による『東亜新秩序』建設」声明を出し、第2次近衛内閣(1940.7.22-1941.7.16)発足に伴い、昭和15(1940)年7月に決定された「基本国策要
綱」(日本の国家プラン)で、日満華に加え、東南アジアをも含む「大東亜共栄圏」構想が提唱されました ── 。と、ここ迄が一般に言われる
所の「大東亜共栄圏」通史です。しかし、この構想には「雛形」(ひながた)が既に存在していたのです。

時は幕末。福井藩の政治顧問として、政治総裁職・松平春嶽(慶永 福井藩主)に仕え、将軍後見職・徳川慶喜(後に将軍)のブレーンとして
も、幕政改革に参画した政治思想家・横井小楠(しょうなん 1809-1869)。彼は当時、「攘夷」(日本に来る外国勢力を武力によって撃退排除
する)・「征韓」(韓国=李氏朝鮮を武力によって征圧する)を説いた松下村塾の吉田松陰らの思想とは異なり、列強の要求が理に叶っていれば
受け入れ、不合理であれば抵抗する ── と言う「是々非々論」を持っていました。又、彼はその為の方策として、列強に伍する為に、「日清朝
(日本・清国・朝鮮)三国による同盟・団結 ── 後の「東亜連盟」構想を提唱したのです。奇しくも、横井と同様の構想は、当時の朝鮮におい
ても「三和主義」(日清朝の東亜諸国が協力して列強の侵略に抵抗する)として唱えられました。しかし、この構想は、明治2(1969)年、横井
が暗殺され、日本が「日韓同盟」路線から「征韓論」へと国策を転換した事で幻に終わったのです。

続いて、時は明治。明治14(1881)年3月、外国の首脳として初めて来日し、明治天皇と会見したハワイ国王・カラカウア1世が、「日本とハワ
イが天皇の下に合邦(連邦)し、更に、日本を盟主に『大アジア連邦』を創設、一丸となって列強に対抗する」と言う提案をしました(『23.カ
ラカウア王の提案〜幻に終わった日本・ハワイ連邦構想』参照)。先程の横井構想だけを見れば、日本人による発想とも言えますが、朝鮮におけ
る「三和主義」や、カラカウア王の提案も踏まえると、後の「大東亜共栄圏」構想は、あながち日本政府や軍部が戦争遂行の為のプロパガンダと
して作り出した「方便」とは言えなくなるのです。つまり、「時代が要請したもの」と言えるのです。

更に、時は昭和。陸軍に「昭和陸軍最高の戦略・戦術家」と称された一人の奇才がいました。彼の名は石原莞爾。統制派の東条英機(陸相、後に
首相)と方針が対立し、予備役に編入(失脚)され軍の表舞台から逐われた石原は、世に「満州事変の立役者」として知られる人物ですが、彼自
身も独自の構想を持っていました。彼は先ず、「東亜諸国民(民族)の水平連合によって、欧米列強の覇道に対決する」と言う「東亜連盟」構想
を唱えました。そして、その一環として満州事変(1931年)を起こし、満州に「五族協和の王道楽土」を標榜する「満州国」を建設(1932年)し
たのです。更に石原は、来るべき「世界最終戦争」(日米両国による史上最大にして最後の世界戦争。一種のハルマゲドン)の準備の為に、アメ
リカとは少なくとも十年間は、決して矛を交えないと言う「十年不戦論」をも展開しました。しかし、時代は石原の意図しない方向へと進みまし
た。日本は支那事変が解決しないまま、南方への進出(仏印進駐)、更に最も懼(おそ)れていた対米開戦(大東亜戦争)へと突き進んでいった
のです。そんな時代の趨勢を見ながら、石原は、大東亜戦争に突入した日本が唯一、「必敗」を免れる為に、「蒋介石と和睦して支那事変を解決
し(日支和平)、次に東亜諸民族を糾合して「東亜連盟」を成立させ、東亜(アジア)が一丸となって英米に対抗する」 ── つまり、大東亜戦
争の戦争目的を名実共に「アジア民族解放戦争」に転化させ(「日本 VS 米英」から「アジア VS 米英」へ)、アメリカの戦争目的を喪失させる
べきと説いたのです。しかし、石原の意見は遂に叶う事無く、日本は米英に敗れさりました。ところが、結果的に日本は「肉を斬らせて骨を断っ
た」とも言えます。米英(ら列強諸国)は日本に勝利したとは言え、自分達の「ドル箱」であったアジア(及びアフリカ等)の独立を認めざるを
得なくなった訳で、列強諸国にとっては大いなる誤算だった共言えます(かの「大英帝国」は戦勝国にもかかわらず、戦後、植民地を次々と手放
す羽目になり、「帝国」を解体せざるを得なくなった)。

そして、時は現代。「軍事大国」日本は米英列強に敗れ、「大東亜共栄圏」構想は頓挫しました。しかし、日本は奇跡とも言われる高度経済成長
で焦土と化した国土を短期間で復興し、「経済大国」として復活しました。一方、目を東南アジアに転じると、そこは「東南アジア諸国連合」
(ASEAN)を結成し、東南アジア域内に独自の「共栄圏」を作り出していました。又、ヨーロッパは新機軸通貨「ユーロ」で統合され、アメリカ
に匹敵する政治経済圏 ── 「ヨーロッパ合衆国」の実現へと一歩を踏み出しました。そんな中、ドル・ユーロに続く第三の国際基軸ハ貨とし
て、日本の「円」に期待が持たれているのも事実です。時代は欧米に伍する為に、「大東亜共栄圏」から、「大東亜共円圏」へ ── 再びアジア
の統合を求めている共言えます。

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