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三菱こそフリーメーソンの牙城だ! No.3
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/604.html
投稿者 サム 日時 2003 年 6 月 26 日 11:04:31:

 さて次の章に移る前に、高橋是清が募集した第2回4分利付英貨公債がその後どうなっ
たか見ておこう。この第2回4分利付英貨公債が昭和5年5月に、5分半利付英貨公債な
らびに5分半利付米貨公債に借り換えられたことはすでに述べた。
 満州事変勃発以来終戦に到るまで、新規外債の募集は行われなかった。日本は国際資本
市場から隔絶するに到ったから、例え、募集の意志があったにしても、実現不可能な情勢
におかれたのである。言い換えれば、満州事変勃発時点で日本の敗戦への道筋は決定して
いたということになる。戦争に負けるであろう国に金を貸す程、英米銀行家もお人好しで
はあるまい。
 したがって、政府外債としてはこの昭和5年5月の5分半利付英貨公債ならびに5分半
利付米貨公債、また、民間債としては、昭和6年7月、台湾電力株式会社5分半利付米貨
公債の発行が最後であった。
 昭和16年(1941)12月太平洋戦争突発当時における外貨債の未償還額は、国債
においては米貨債1億5265万ドル余、英貨債7714万ポンド、仏貨債8934万フ
ランであった。これに地方債および社債の分を合わすと、米貨債2億8334万ドル、英
貨債8844万ポンド、仏貨債3億3716万フランであった。これを、仏貨債は除いて
、米・英貨債だけについて、当時の為替相場により換算すると、約27億円に上っていた
。しかし、このうち約半額の13億6000万円は日本人所有のものであって、他の半額
13億4000万円が連合国人所有のものと推定された。
 昭和18年(1943)年1月、第81議会に外貨債処理法が提出され、2月25日両
院を通過して、3月15日公布施行された。この処理法に基づいて、外貨債は大部分、昭
和18年9月15日をもって邦貨債に借り換えられるか、または政府においてその元利払
義務を承継し、したがって、物上担保等原契約の効力は抹殺されることになった。
 かくて、邦貨国債に借り換えられた外貨国債の額は、米貨債は1億3100万ドルで、
その未償還額の85.9%、英貨債は2500余万ポンドで、その未償還額の33.1%
にあたり、邦貨換算計7億400余万円が3分半利国庫債券に借り換えられたのである。

 外貨地方債および社債も、国債同様に、邦貨地方債および社債に借り換え、また、発行
者またはその承継者手持ちの自己債については消却されたのであるが、借換または消却さ
れなかったものは、一括して政府において元利払義務を承継した。
 以上に基づく承継額は表2の通りである。ややこしい表なので見方を簡単に説明してお
く。例えば、6分半利付米貨公債94068400ドルの内、第一次借換と第二次借換に
より82064500+89200=82153700ドルが邦貨国債に借り換えられ、
残り11761000ドルが未償還額として残されたことになる。かくて、外債の物上担
保その他の原契約の効力は消滅し、また、その後の利払(横浜正金銀行の特殊財産管理勘
定への払込)も停止されることになった。ただし、スイス払の選択契約のあるものについ
ては、戦時中も利払は継続された。
 かくして、外貨債処理法に基づき、借換または承継の措置を講じられた後の未償還額お
よび処理の対象とならなかった仏貨債の未償還額は、終戦年度末において、表3の通りで
あった。
 しかしこの金額は国債全体から見た場合、ほんの小額に過ぎない。終戦時の昭和20年
8月末の累計国債残高は1233億円(日華事変、太平洋戦争中の発行高は1059億円
)、昭和20年までは1439億7188余万円である。うち内国債は1399億244
6余円、国債総額に占める割合は97.2%、外国債は8億8742万余円、0.6%で
ある。内国債がいかに巨額な数字であるかは、当時の国民所得が900億円であることか
らも窺い知ることが出来る。
 ではこの内国債は終戦後、どのように処理されたのであろうか。結論を簡単に述べると
、戦後インフレ−ションによって、累積債務は目減りしたのである。表4をご覧頂きたい
。昭和20年度末から昭和26年度末の間に政府債務総額は3.24倍に増加しているが
、物価はおよそ30倍になっている。したがって、昭和26年度末残高の実質値は、昭和
20年度残高の11%の大きさに減少している。内国債だけについてみると、6.3%に
過ぎない。結局、政府は債務者利得を獲得し、国債保有層は大きな損失をこうむった。戦
後インフレ−ションは零細な個人保有層に大きな打撃を与えた。もちろん、金融機関も債
権者損失を被った。国債の大量保有がインフレ下の金融機関の浮沈の一因をなしたのであ
る。
 外貨債については、表5をご覧頂きたい。元本、利子共、支払時期を繰り延べて支払う
ことで、昭和27年9月26日にアメリカとイギリスの債権者代表との間で協定の調印を
みた。4分利付仏貨公債については、元利払いと平行して、500フラン証券一枚につき
9496フランで買い入れをおこなうこととして、昭和31年7月27日、日仏間で締結
をみた。英米仏ユダヤ金融財閥はやはりただ者ではなかった。貸した金はきちんと取り立
てているのだ。
 それでは、彼らは何故日本に金を貸すことをしたのであろうか。商売のためか。そうで
はない。この資金は日本政治のコントロ−ルに使われたのである。再び表4を見て欲しい
。外貨債として、国債、地方債の他に社債がある。台湾電力、大同電力、東邦電力、信越
電力、日本電力、東京電灯等、電力会社に外資が入っているのだ。このことの意味すると
ころは何か。
 普通、電力と聞けば電灯をつけることぐらいしか思い浮かばないかも知れないが、電気
は工業動力としても使われるのである。そしてこの時期に工業の発展を支えたのは、戦争
であった。つまり日本の電力事業は、戦争とともに発達したのである。逆にいえば、重化
学工業や電力事業を急発展させるためには、戦争という非常事態が必要だったわけである
。これは、兵器の進歩についても当てはまる。第2次世界大戦がなければ、原爆など開発
出来なかったに違いないからだ。
 英米両国が日本の電力会社に金を貸したのも、日本に戦争の準備をさせるためであった
のだ。この金は電力会社の人事も左右した。
 「当時財界の問題になっていた東京電灯株式会社の整理が行悩みとなり、6月15日払
いの同社外債利払いについて、来日中のアメリカ、ガランチ−・トラスト商会のウオ −カ
−から、はなはだ悲観的な通信があった。同社取締役会長にしてモルガン商会の首席パ−
トナ−たるラモント(当時ロンドン滞在中)から、右社債の利払が不能なときは新起債の
所作もむずかしいから、その利払確保に対し政府の責任ある言明を求めるという照会がき
た。井上蔵相は、ただちに東電当局その他関係方面の意見を徴したところ、利払送金の実
施はもとより、将来の会社経営の人的方面についても、蔵相は、ウオ −カ−から承認を得
た案にまとまり、また配当率についても、双方譲歩的な具体案が進められるに至ったこと
を知った。以上のほか、会社整理案関係方面から得た印象によって、井上蔵相は、関係者
が会社経営の改善、配当率の引下げ、将来に対する資金調達策につき全力を傾注していた
ので、その整理案の実現確実なりと認め、したがって社債の利払等にも支障をきたすこと
のないことを確信し、その旨ラモントの覚え書に対する回答文を送った。その結果、ウオ
−カ−ならびにラモントの満足を得、ようやく問題は解決の運びに至って、発行の所作を
再開しえた」(『国債』)
 この時東電に外資を導入するのに便宜を与えた人物が、三井の池田成彬であった。国債
や地方債への外資の導入も同様に、英米による日本政界のコントロ−ルに寄与したであろ
うことは、想像に難くないのである。


 連邦準備制度

 これまでの話で、太平洋戦争は某財閥とその手先である政治家が結託して引き起こした
ものであったことがお分かりになったと思う。そしてその財閥や政治家に海外から指令を
下していたのが、英米ユダヤ金融財閥であった。彼らは日本の外債を引き受け、日本に金
解禁を強要し、大恐慌を引き起こして日本を未曾有の不景気の中に投げ込んだ。そして愚
かな軍人を煽って、日本を地獄の戦争へと駆り立てていったのだ。
 彼らは顔の見えない透明人間ではない。日本の外債を引き受けた銀行名は分かっている
。パ−ス銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウ
ェストミンスタ−銀行、ベアリング・ブラザ−ズ商会、モルガン・グレンフェル商会、シ
ュレ−ダ−商会、J・P・モルガン商会、ク−ン・レ−ブ商会、ナショナル・シティ−商
会、ファ−スト・ナショナル銀行である。これらの銀行を動かしている人物を探ることで
、戦争犯罪人の名前を明らかにすることが出来る。
 その前に、ある重要な事実について述べなければならない。英米ユダヤ金融財閥は海外
にいて日本政治・経済を遠隔操作するだけではなくて、日本国内に自らのエ−ジェントを
しっかり送り込んでいたのである。1931年に満州事変が勃発したが、その翌年にジョ
ゼフ・グリュ−が駐日アメリカ大使として着任している。そして満州事変勃発の年に、ロ
ンドンから駐日イギリス大使として着任したのが、フランシス・リンドレ−であった。リ
ンドレ−は日露戦争の日本勝利の翌年に当たる1906年に東京へ来た経歴がある。シフ
やロスチャイルドが日本に大金を貸し付けたので、その返済の裏交渉に走りまわるため、
表向きはイギリスの外交官として2年間も滞在していた。そして1931年から34年ま
で、今度はグリュ−と欧米連合を組む形で、正式の大使として活動した。
 系図10をご覧頂きたい。満州事変直後に、日本はアメリカからモルガン家の一族グリ
ュ−大使を迎え、イギリスからロスチャイルド家の一族リンドレ−大使を迎えていたが、
その両人とも、「モルガン・グレンフェル」の代理人であったのだ。
 それでは、日露戦争時の第1回6分利付英貨公債1000万ポンドの半分、500万ポ
ンドを引き受けて高橋是清を喜ばせたク−ン・レ−ブ商会の首席代表者シフとは何者であ
ろうか。ク−ン・レ−ブ商会の創設者は、サミュエル・ク−ンとソロモン・レ−ブである
。この両家のファミリ−・ネ−ムを組み合わせてク−ン・レ−ブ商会となった。また、ク
−ン家の娘イ−ダと、レ−ブ家の息子モリスが結婚して一族となっている。このソロモン
・レ−ブの娘テレサと結婚したのが、ユダヤ人ジェイコブ・ヘンリ−・シフであった。
 シフはロスチャイルドの本家フランクフルトで1847年に生を受けた。シフ一族は早
くから金融業を営んでいた。
 ロスチャイルド家の初代マイヤ−・アムシェルがまだ40代の頃、引っ越した家が「緑
の楯」と呼ばれる建物で、内部が二つの区画に分かれていた。その一方に「赤い楯」ロス
チャイルド家が移り住んだ時、もう一方の隣家には、扉に「舟」の絵を掲げたユダヤ人家
族が住んでいた。舟をドイツ語でシフと言うが、この家族がジェイコブ・シフの祖先であ
った。フランクフルトのゲット−以来、ロスチャイルド家とシフ家ほど親密な家族はなか
ったという。
 シフは18歳の時アメリカへ移住し、ク−ン・レ−ブ一族となってからは、鉄道事業で
商会を成長させ、パ−トナ−(重役)としてオット−・カ−ン、ワ−バ−グ銀行のポ−ル
・ワ−バ−グ、フェリックス・ワ−バ−グらを迎えて、国際投資銀行としての地歩を築い
ていった。さてこの辺でシフの系図を描いてみよう。系図11をご覧頂きたい。シフはワ
−バ−グ家と姻戚関係にあるだけでなく、ワ−バ−グ家を通じてル−ズヴェルト大統領や
アスタ−家と繋がっていたのだ。
 この系図にあるワ−バ−グ一族のポ−ル・ワ−バ−グが、アメリカの中央銀行である連
邦準備制度を創設した人物である。彼は1902年にアメリカに移住し、ク−ン・レ−ブ
商会に入っている。その兄弟のフェリックス・ワ−バ−グも1894年にアメリカに移住
してク−ン・レ−ブに加わっている。ポ−ル・ワ−バ−グは、ク−ン・レ−ブ商会の故ソ
ロモン・レ−ブの娘、ニ−ナ・レ−ブと結婚した。フェリックス・ワ−バ−グは、ジェイ
コブ・シフの娘、フリ−ダ・シフと結婚した。1918年12月12日のワ−バ−グに関
する合衆国海軍諜報部報告は次の通りである。
 「ポ−ル・ワ−バ−グ ニューヨーク市。ドイツ人、1911年市民権獲得。1912
年ドイツ皇帝から受勲。連邦準備制度理事会の副議長。レ−ニンとトロツキ−のためにド
イツから供給された巨額の資金をとり扱う。ドイツのスパイ網の指導者である兄弟をもつ

 この兄弟とはマックス・ワ−バ−グのことである。マックスはドイツ諜報機関の代表と
してレ−ニンの列車が国境を通過し、ロシアでボルシェヴィキ革命を実行することを認可
した。マックスは、ヴェルサイユ講和会議(1919)でドイツの代表を務め、1924
年から1933年までドイツ帝国銀行の監査役になっていたが、ユダヤ人ゆえに1938
年アメリカに移住した。
 ポ−ル・ワ−バ−グは1931年に上院銀行通貨委員会で、自分の経歴について次のよ
うに述べた。
 「私はク−ン・レ−ブ商会の一員です。ドイツのハンブルクで生まれ、銀行業務の教育
を受け、ロンドンとパリで銀行業を学び、世界中を歩いたのちに、1902年にこの国に
来ました。1907年の恐慌のなかで私が最初に提案したことは、『公的な手形交換所を
設立する』ということでした。オ−ルドリッチ計画は銀行業の基本的なル−ルとなるいく
つかの条項を含んでいます。諸君のこの計画(オ−ウェン−グラス法案)の目的も同じは
ずです。それは、準備金の集中、商業信用の流通、そして弾力的な紙幣発行の実現です」

 ここに述べられている、1907年の恐慌が通貨改革が不可欠であるという世論を形成
したのだ。しかしこの1907年の恐慌は、1873年と1893年の恐慌と同じように
、仕組まれたものであった。ニッカボッカ−銀行とアメリカン・トラスト・カンパニ−が
支払不能の状態にあるという噂が、1907年のパニックの発端となった。モルガンがこ
のパニックに勢いをつけたのである。噂を広め、その結果、ライバルの銀行を潰し、モル
ガンの勢力下にある諸銀行の優越性を強化するために、1907年秋の不安定な状況を利
用したのだ。1907年のパニックが与えた教訓は、合衆国は中央銀行組織を本当に必要
としているというものであった。
 モルガンの演出でパニックが起きた1907年には、ポ−ル・ワ−バ−グはほとんど毎
日、「銀行改革」の必要性について書いたり、講演をしていた。ワ−バ−グはこの「銀行
改革」を促進するさいに、モルガンの上院における踏み台役として知られるネルソン・オ
−ルドリッチに支持された。オ−ルドリッチの娘アビ−は、ジョン・D・ロックフェラ−
Jr.と結婚した。
 1907年のパニック後、オ−ルドリッチは国家通貨委員の長に任命された。オ−ルド
リッチとその仲間は、銀行制度についての技術的な知識は何も持っていなかったにもかか
わらず、中央銀行制度を研究するため約2年にわたる海外旅行を行い、ヨ−ロッパの中央
銀行のオ−ナ−との飲食に30万ドルの税金を使った。この委員会がヨ−ロッパから戻っ
た後、2年近くの間、公式の会合はまったくもたれなかった。
 記録によれば、委員会は審議会として機能したことはなかったことを示している。唯一
の「会議」はジキル島で開かれた秘密会合であり、この会議は委員会のどの刊行物にも記
録されていない。
 1910年11月22日、国家通貨委員会の委員長であるネルソン・オ−ルドリッチ上
院議員に率いられた金融業者の代表団が、ニュ−ジャ−ジ−州ホ−ボ−ケンの駅から秘密
の目的地・ジョ−ジア州ジキル島に向けて列車で出発した。オ−ルドリッチ上院議員の同
伴者は、彼の個人秘書のシェルトン、財務次官補であり国家通貨委員会の特別補佐官でも
あったA・ピアット・アンドリュ−、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク
の頭取フランク・ヴァンダ−リップ、J・P・モルガン商会の上席パ−トナ−(共同経営
者)であると同時に、一般的にはモルガンの個人的な使者と見られていたヘンリ−・P・
デ−ヴィソン、モルガン−デノミネイテッド・ファ−スト・ナショナル・バンク・オブ・
ニューヨークの頭取チャ−ルズ・D・ノ−トンであった。
 J・P・モルガンの上官代理としても知られるベンジャミン・ストロングと、ク−ン・
レ−ブ商会に年棒50万ドルのパ−トナ−として入社したポ−ル・ワ−バ−グの二人は、
列車が駅を出発する直前に一行に加わった。このジキル島の秘密会議で、中央銀行設立が
決定された。肝心なのは、ポ−ル・ワ−バ−グが仲間に伝えたように「中央銀行」という
名称を避けることであった。アメリカでは、国民を苦しめてきた中央銀行に反対する長い
闘争の伝統があった。そのため彼は「連邦準備制度」という名称に決定したが、これは、
国民に中央銀行でないと思わせて欺くためであった。
 ジキル島の会議後、通貨委員会とオ−ルドリッチ法案に関する報告書が完成した。ワ−
バ−グは法案を連邦準備制度と名づけることを提案した。しかしオ−ルドリッチは、自分
の名前のついていない法案が提出されれば、疑いが生じるといって、オ−ルドリッチ法案
とするよう主張した。しかしオ−ルドリッチ法案は議会で投票に付されることはなかった
。共和党は1910年に下院の統制力を失い、続いて1912年には上院と自党の大統領
を失ってしまったからである。そのため、新しい戦略が工夫されなければならなかった。

 さて、オ−ルドリッチ法案はウオ −ル街工作と同一視され、民主党員が強力に反対する
ことが予想されるために国会を通過させることが困難であった。一方、民主党の議会に支
持された民主党の候補者が大統領に当選すれば、中央銀行計画を通過させることが出来る
と予想された。
 このためのチャンスは、1912年の大統領選挙の時にやってきた。現職のウィリアム
・ハワ−ド・タフトは人気のある大統領であった。そしてタフトの共和党は、両院の共和
党多数派を通じて政権をしっかりと握っていた。
 一方、ニュ−ジャ−ジ−州知事の民主党候補者ウッドロ−・ウィルソンは、まったくの
無名であった。タフトが再選されることは確実視されていた。ところが突然、共和党の元
大統領セオドア・ル−ズヴェルトが大統領に立候補すると発表したのである。ル−ズヴェ
ルトはタフトの票に大きく食い込んだ。その結果、タフトの敗北は避けがたいものとなり
、ウィルソンが勝利した。
 しかしこの選挙は結局のところ、茶番に過ぎなかった。共和党、民主党両党とも綱領に
は通貨改革法案を含んでいた。後にウオ −ル街計画として糾弾されたオ−ルドリッチ法案
を、民主党は連邦準備法と書き改めていた。どちらの政党も、これらの法案が名前以外は
ほとんど同一であることを国民に知らせようとはしなかった。オ−ルドリッチ法案が全国
的な恨みと反対を喚起した後に、連邦準備法をまとめた人物はポ−ル・ワ−バ−グであっ
た。そしてこれら二つの計画の黒幕は、ロンドンのアルフレッド・ロスチャイルド男爵で
あった。銀行家たちはこれら3人すべてに資金協力していたので、誰が大統領になっても
良かったのだ。
 後に議会の証言で、ク−ン・レ−ブ商会では、フェリックス・ワ−バ−グはタフトを、
ポ−ル・ワ−バ−グとジェイコブ・シフはウィルソンを、そしてオット−・カ−ンはル−
ズヴェルトをそれぞれ支援していたことが明らかになった。銀行家たちはタフトを見捨て
、ル−ズヴェルトを民主党勝利の道具として利用した。ル−ズヴェルトの背後には、モル
ガンの代理人フランク・マンシ−とジョ−ジ・パ−キンスが控えていた。彼らはル−ズヴ
ェルトのスポンサ−となり、ル−ズヴェルトの話を前もって調べあげ、ウオ −ル街の人々
の援助を引き出して、反タフト運動という仕事を全部引き受けたのである。パ−キンスと
J・P・モルガン社こそ、革新政党の実体であり、他はすべてその飾りだった。ル−ズヴ
ェルトの選挙資金の大半は、このモルガンの二人の代理人によって作られたのである。
 一方、民主党の候補者ウッドロ−・ウィルソンも、また同様にモルガンの「所有物」だ
った。ニュ−ジャ−ジ−州知事であり、前のプリンストン大学総長のウッドロ−・ウィル
ソンは、オ−ルドリッチ法案のスポ−クスマンとして積極的に協力させられた。1907
年の恐慌の時、ウィルソンは次のように言明した。
 「わが国の出来事を手掛けてもらうために、J・P・モルガンのような6〜7人の大衆
的な精神をもった人々からなる委員会を任命していたら、このような全ての混乱は回避で
きたであろう」
 J・P・モルガンのような大金持ちが大衆的な精神をもっているとは、正に驚くべき発
言である。ウィルソンは大統領候補に指名される前まで、約20年間、ウオ −ル街の裏道
を蠢いていたという。このウィルソンをかげで操ったのが、エドワ−ド・マンデル・ハウ
ス大佐であった。ハウス大佐はアメリカ南部に住むイギリス金融利権代表者の息子であり
、イギリスで教育を受けた。もともとはオランダの出身であったが、彼の祖先はイギリス
に300年間住み、後に彼の父がテキサスに定住した。そこで彼の父は南北戦争のあいだ
密航船で財を成した。ロスチャイルド家を含む英国の有力なコネクションに対して綿やそ
の他の禁輸品を輸送し、包囲されていたテキサス人たちに商品を持ち帰った。ハウスの父
は、テキサスの不安定な状況を信頼せず、密航船から上がった利益をすべてロンドンのベ
アリング商会(アヘン貿易の主要マ−チャント・バンク)に金として慎重に預けた。そし
て南北戦争の終了時には、テキサスで最も富裕な人間の一人となっていた。彼は、仕事仲
間にならって、息子を「マンデル」と名づけた。
 「大佐」とはハウスが名誉職として用いた名前であって、彼は一度も兵役についたこと
はなかった。彼は多くの歴史家によって、ウィルソン在任中、合衆国の真の大統領と記さ
れた人物である。ウィルソンが大統領になる前の1911年にハウスはテキサスの故郷に
戻り、『統治者フィリップ・ドル−』という本を書いた。体裁は小説であるが、実際には
将来の合衆国政府に対する詳細な計画であり、「カ−ル・マルクスによって描かれた社会
主義を成立させるもの」であった。この「小説」は、累進所得税、過剰利益税、失業保険
、社会保障、そして弾力的な通貨制度の導入を予言していた。
 『統治者フィリップ・ドル−』の中で概観されている機関の一つは、連邦準備制度であ
る。シフ家、ワ−バ−グ家、カ−ン家、ロックフェラ−家およびモルガン家はハウスを信
頼していた。連邦準備法がついに一定の形となるにあたって、ハウスはホワイトハウスと
金融家たちの間の仲介役であった。ハウスは8年間にわたって大統領の最も親しい相談役
になった。後に彼はフランクリン・D・ル−ズヴェルト政権においても影響力を持ち続け
た。ル−ズヴェルト政権は実際にはウィルソン政権の継続であり、ほとんど同じ人事のま
ま、舞台裏からハウスに政権を指導してもらっていた。
 連邦準備法の真の目的を国民に隠蔽するために、オ−ルドリッチ法案の作成者たち、す
なわち元上院議員ネルソン・オ−ルドリッチとナショナル・シティ・バンク頭取のフラン
ク・ヴァンダ−リップは、連邦準備法案に対して激しい非難の声をあげた。しかし連邦準
備法の内容はオ−ルドリッチ法案とまったく同じものであった。連邦準備法が国民のため
の法であるという幻想を大衆に与えるために、銀行家たちは悪役であるオ−ルドリッチと
ファンダ−リップに、連邦準備法案を非難させたのである。つまり、猿芝居を演じさせた
わけだ。これから20年ほどしてファンダ−リップは、「さて、連邦準備計画がオ−ルド
リッチの名前をもっていたとき、その計画は崩れたけれど、その中にはその後実現した本
質的なものはすべて含まれていた」と告白している。
 グラス法案(最終的な連邦準備法の下院版)は、287対85で1913年9月18日
に下院を通過した。1913年12月19日、上院は54対34の票数で上院版を可決し
た。下院版と上院版には40以上もの調整されるべき重要な相違点が残されたままになっ
ており、議会両院の法案に対する反対派は、両院協議会の調整案が整うまでには相当の期
間が費やされるものと信じていた。議員たちは、調整案は翌年まで提案されないであろう
ことを確信し、例年のクリスマス休会のためにワシントンを離れる準備をしていた。そこ
で協議員たちは、たった一日で法案の40の争点すべてを均してしまい、即座に投票に持
ち込んだ。1913年12月22日の月曜日、法案は下院282対60、上院43対23
で可決したのであった。クリスマス前の一週間は重要な法律を議決すべきではないという
のが長年の政治的慣例であった。しかしこの伝統は、合衆国国民に対して連邦準備法とい
う犯罪を行うために無作法に破壊されたのである。後にこれは「クリスマスの大虐殺」と
して知られるようになる。
 採決後、有名な飛行士の父であるチャ−ルズ・A・リンドバ−グSr.は、議会で次の
ように述べている。
 「本法は地球上で最も巨大なトラストを創設する。大統領が本法に署名したとたん、金
融権力による見えざる政府が合法化されるであろう。これは偽装したオ−ルドリッチ法案
である・・トラストがインフレ−ションを欲するときはいつでも、新法がインフレ−ショ
ンを起こすだろう」
 連邦準備法はマネ−・トラストに対する民主主義の勝利として賞賛され、そして現在で
も依然として賞賛され続けている。しかし、真実はその逆であった。連邦準備法において
彼らは、通貨を発行し、その価値を統制する憲法上の権利を国民からもぎ取り、自分たち
のために確保したのだ。
 連邦準備ができあがれば、景気と恐慌の循環はもはやないだろうという保証がなされた
。その舞台裏で国際的な銀行家たちのために中央銀行計画を貫徹した人々は、「いまや恒
久的な成長と、前進する福祉があるのみだ」と約束したものである。しかし、チャ−ルズ
・A・リンドバ−グSr.議員は辛辣にも、「今からは恐慌が科学的に作りだされるよう
になった」と宣言した。中央銀行を利用してインフレとデフレを交互に作りだして、国民
の大きな利得を押さえるという方法は、いまや国際的な銀行家たちの手によって精密科学
にまで仕上げられているのだ。
 ウィルソンは1913年12月23日に連邦準備法に署名した。ウィルソンによる連邦
準備法の署名は、彼の親密な友人ハウス大佐とポ−ル・ワ−バ−グの長年にわたる共謀の
頂点を示していた。ウィルソン政権においてハウスが知り合った連中の一人に、海軍副長
官のフランクリン・D・ル−ズヴェルトがいた。1920年代の共和党の亀裂の後、ル−
ズヴェルトはウィルソンが遂行できなかった『統治者フィリップ・ドル−』の目的を果た
した。後のル−ズヴェルトの業績には、社会保障計画、過剰利益税、累進所得税率の90
%までの引き上げの法制化が含まれていた。
 ワ−バ−グは、「中央銀行」という名はどうしても避けなければならないと強調した。
そこで、州の様々な行政区に4つ(その後に12になる)の部局を持った地区準備制度計
画が採決された。特権を与えられた12の都市は、金融の中心地として途方もなく重要と
なるので、所在地の選定には多くの政治運動が作用した。
 ニューヨークがアメリカの金融市場であったので、ニューヨーク連邦準備銀行が12の
地区銀行制度の本源となった。リッチモンドが次の選定地であった。これは、連邦準備法
のために政治的功績のあった二人のヴァ−ジニア人、カ−タ−・グラスとウッドロ−・ウ
ィルソンへの見返りであった。委員会によるその他の選定地は、ボストン、フィラデルフ
ィア、クリ−ヴランド、シカゴ、セントルイス、アトランタ、ダラス、ミネアポリス、カ
ンザスシティ、そしてサンフランシスコであった。この選定の結果、これらの全ての都市
は後に重要な「金融地区」として発展した。
 モルガン所有のバンカ−ズ・トラストの頭取ベンジャミン・ストロングがニューヨーク
連邦準備銀行の初代総裁として選出された。ストロングのもとで、準備制度はイングラン
ド銀行及びフランス銀行との連動関係を確立した。ベンジャミン・ストロングは、192
8年の突然の死までニューヨーク連邦準備銀行総裁の地位を維持した。ストロングの死去
は、1929年から1931年までの大恐慌を引き起こすことになった連邦準備銀行の総
裁たちとヨ−ロッパの中央銀行の指導者たちの間の秘密会議に関する議会調査の期間中で
あった。
 ストロングはバンカ−ズ・トラストの頭取の娘と結婚した。彼はまた、最初のジキル島
グル−プのメンバ−でもあった。そのために彼は、制度全体を支配するニューヨーク連邦
準備銀行総裁として、連邦準備制度の中で最高の地位を与えられた。
 ウィルソンが連邦準備制度理事に選んだ人物は、プリンストン大学の評議員で、インタ
−ナショナル・ハ−ベスタ−などの企業の重役ト−マス・D・ジョ−ンズであった。
 それ以外の理事は、ロックフェラ−のシカゴ大学とモルガンのハ−バ−ド大学出身のエ
コノミストで内務副長官をつとめるアドルフ・C・ミラ−、以前に財務副長官として8年
間務めたことのあるチャ−ルズ・S・ハムリン、ル−ズヴェルト家の親戚でク−ン・レ−
ブ商会のために多くの鉄道を乗っ取った鉄道経営者のF・A・デラノ、ファ−スト・ナシ
ョナル・バンク・オブ・アトランタの頭取W・P・Gハ−ディング、及びク−ン・レ−ブ
商会のポ−ル・ワ−バ−グであった。
 では、連邦準備銀行の株式を所有しているのは誰であろうか。その前に一言述べて置か
なければならないが、連邦準備銀行は民間の株主によって所有されているので「連邦」で
はなく、準備金を所有する代わりに通貨を創造する目的を持っていたので「準備」でもな
かった。ちなみに日本の中央銀行である日銀は特殊法人である。出資証券のうち、55%
が大蔵大臣の所有で、45%が民間(金融機関、法人、個人)の所有である。出資者の議
決権はない。従って日銀の金融政策を動かしているのは日銀総裁と大蔵大臣ということに
なる。連邦準備銀行は日銀と異なり、100%民間の所有なのである。
 最初の12地区の連邦準備銀行の株式は、それぞれの地区の国法銀行(連邦政府の認可
を受けた商業銀行)が購入した。ニューヨーク連邦準備銀行が金利を設定し公開市場操作
を指揮することによって合衆国の通貨の日々の供給と価格をコントロ−ルしたので、制度
全体の真の支配者はニューヨーク連邦準備銀行の株主である。
 ニューヨーク連邦準備銀行は20万3053株を発行し、1914年5月19日に通貨
監督官が登録したように、大手のニューヨーク市の銀行が発行株数の過半数を取得した。

 ロックフェラ−が支配するナショナル・シティ・バンクは3万株で、他の銀行と比較し
て最大の株数を取得した。J・P・モルガンのファ−スト・ナショナル・バンクは1万5
000株を取得した。この二つの銀行が1955年に合併したとき、単独でニューヨーク
連邦準備銀行の4分の1近くを所有し、制度全体をコントロ−ルした。
 チェ−ス・ナショナル・バンクは6000株を取得した。後のマリ−ン・ミッドランド
・バンクであるマリ−ン・ナショナル・バンク・オブ・バッファロ−は6000株を取得
した。この銀行は、ナイアガラ電力会社とその他の大企業を支配していたシェ−ルコフ一
族が所有していた。ニューヨーク市のナショナル・バンク・オブ・コマ−スは2万100
0株を取得した。
 これらの同業者連は近年になって合併したり統合したので、コントロ−ルはさらに集中
している。ナショナル・バンク・オブ・コマ−スは現在のモルガン・ギャランティ・トラ
ストである。リ−マン・ブラザ−ズはク−ン・レ−ブ商会と合併し、ファ−スト・ナショ
ナル・バンクはナショナル・シティ・バンクと合併した。その他の11の連邦準備地区で
は、同一の株主がこれらの銀行の株式を間接的に所有するか、もしくは支配している。そ
の他の株式はそれらの地区の主要産業を所有または支配している主要一族によって所有さ
れている。

イギリスに支配されたアメリカ大銀行

 だがこのアメリカの大銀行も、実はロンドンのコントロ−ルを受けていたのだ。イギリ
スは第二次世界大戦後に広大な植民地を失ったので、政治的、軍事的な力は衰えた。しか
し、それに反して金融的な力は成長したのである。あらゆる角度から見て、ロンドンは世
界の指導的な金融センタ−である。合衆国の10大銀行持株会社は特定の銀行の手中にし
っかりと握られ、そのすべてはロンドンに支店を持っている。それは、J・P・モルガン
商会、ブラウン・ブラザ−ズ・ハリマン、ワ−バ−グ、ク−ン・レ−ブそしてJ・ヘンリ
−・シュロ−ダ−である。これらすべては、主に金価格の操作を通して国際金融市場をコ
ントロ−ルするロスチャイルド家と密接な関係を維持している。世界の金価格は毎日、N
・M・ロスチャイルド商会のロンドン事務所で決定されている。
 ロンドン・コネクションの証明として、J・P・モルガン商会を取り上げてみよう。J
・P・モルガン商会はジョ−ジ・ピ−ボディ商会としてスタ−トした。マサチュ−セッツ
州のサウス・ダンヴァ−スに生まれたジョ−ジ・ピ−ボディ(1795〜1869)は、
1814年にジョ−ジタウンDCでピ−ボディ・リグス商会として事業を開始し、衣類の
卸売りとジョ−ジタウン奴隷市場の運営を行った。1815年、供給源に近づくためボル
チモアに移り、そこで1815年から1835年までピ−ボディ・アンド・リグスとして
営業した。ピ−ボディは徐々にロンドンに源を発する業務に係わるようになり、1835
年にジョ−ジ・ピ−ボディ商会をロンドンに開設した。
 ボルチモアの会社であるブラウン・ブラザ−ズを通じて、ピ−ボディはロンドンのビジ
ネスにうまく参入した。アイルランド生まれのアレクサンダ−・ブラウンは1801年に
ボルチモアに移り、合衆国最古の銀行として知られ、いまも営業しているブラウン・ブラ
ザ−ズ・ハリマン・オブ・ニューヨーク、ブラウン・シップレイ・アンド・カンパニ−・
オブ・ロンドン及びアレックス・ブラウン・アンド・サン・オブ・ボルチモアを設立した

 元合衆国大統領ジョ−ジ・ブッシュの父、プレスコット・ブッシュは長年にわたってコ
ネチカット州選出の上院議員であり、重役であったコロンビア・ブロ−ドキャスティング
・システム(CBS)の金融のまとめ役であり、ブラウン・ブラザ−ズ・ハリマンのパ−
トナ−(重役)でもあった。
 ブラウン家は投機事業の資金をロンドン・シティ−からウオ −ル街へ送り込み、アメリ
カで行われた全ての事業が、ロンドンによって支配されていた。この「ブラウン・シップ
レイ社」の重役室に席を占めて君臨したのが、モルガン・グレンフェルの創立者エドワ−
ド・グレンフェルであった。ブラウン・シップレイ社は、1970年代に投資銀行メリル
・リンチに買収される形を取りながら、現在は世界一のマ−チャント・バンカ−として全
米に君臨している。
 イングランド銀行総裁を務めたモンタギュ−・ノ−マン(1871〜1950)がブラ
ウン・シップレイ・アンド・カンパニ−のパ−トナ−であった。ブラウン・シップレイの
役員の一人がイングランド銀行の理事を兼務するというのが非公式の了解事項であった。

 ロンドンでネイサン・マイヤ−・ロスチャイルド男爵(1777〜1836)の支援を
受けたピ−ボディは、商売人として非常に成功した。彼のアメリカの代理店は、J・P・
モルガンの父親であるジュニアス・S・モルガン(1813〜1890)が代表を務める
ビ−ブ・モルガン商会というボストンの会社であった。ピ−ボディは結婚しなかったので
、後継者がいなかった。ピ−ボディは、1854年にジョ−ジ・ピ−ボディ商会のパ−ト
ナ−としてロンドンで自分と一緒にやらないかとモルガンを説得した。
 ジュニアス・S・モルガンはN・M・ロスチャイルド商会との内密な関係の継続に同意
し、まもなく合衆国への大規模な鉄道用の鉄の輸送によって会社の活動を拡大した。18
64年に引退し、会社をモルガンの手に残すことにしたピ−ボディは、社名をジュニアス
・S・モルガン商会へと変更することを認めた。モルガンの会社はそれ以来常にロンドン
からの指示を受けるようになった。
 1857年の恐慌で、絶望的になったアメリカの投資家が証券を市場に投げ売りすると
、現金を持っていたピ−ボディとモルガンは実質的な価値を持つ債券を大量に購入し、市
場が正気に戻った時に高値で売り抜けた。その背後にはネイサン・マイヤ−・ロスチャイ
ルド男爵がいた。ヨ−ロッパのロスチャイルド家は合衆国ではJ・P・モルガン商会の陰
に隠れて匿名で操作することを選んだ。
 J・P・モルガンは、最初の合衆国の金融恐慌の真っ只中の1837年に生まれた。こ
の恐慌はロスチャイルド家によって引き起こされた。1890年に初代のモルガンがリヴ
ィエラでの馬車の事故で亡くなると、J・P・モルガンが企業の頂点に立った。1864
年から1871年までロンドン企業のアメリカ代理店としての業務をダブニ−・モルガン
商会で行ったのち、モルガンは1871年にフィラデルフィアのアンソニ−・ドレクセル
を新しいパ−トナ−として迎え入れ、ドレクセル・モルガン商会として1895年まで業
務を行った。ドレクセルはその年に亡くなり、モルガンはアメリカの支店の名前をJ・P
・モルガン商会に変更した。
 次に、ロックフェラ−所有のナショナル・シティ・バンクについて見ていこう。ナショ
ナル・シティ・バンクはファ−スト・ナショナル・バンク、ナショナル・バンク・オブ・
コマ−スとともに、ニューヨーク連邦準備銀行の大半の株式を購入した。1800年代の
初期、シティ・バンクと関連した最も有名な人物はモ−ゼス・テイラ−(1806〜18
82)であった。テイラ−の父は、ジョン・ジェイコブ・アスタ−(1763〜1848
、ドイツ生まれの毛皮商人・資本家)が購入者であるという事実を隠しながらアスタ−家
の利益のために不動産を買う秘密代理人であった。アスタ−はマンハッタンの将来性のあ
る価値の高い多数の不動産を買うことに成功した。アスタ−家の富も、イギリスの対中国
アヘン貿易で築かれたという。
 テイラ−は南北戦争中に富を増やし続け、晩年に若いジェ−ムズ・スティルマンが彼の
子分となった。1882年にモ−ゼス・テイラ−は亡くなり、7000万ドルを残した。
彼の義理の息子パ−シ−・パインが跡目を継いでシティ・バンクの頭取となり、その時点
でシティ・バンクはナショナル・シティ・バンクと改称した。パインは身体障害者であっ
たために、銀行業務を十分に果たすことが出来なかった。ジョン・D・ロックフェラ−(
1839〜1937、石油王)の兄弟であるウィリアム・ロックフェラ−は、1891年
に、ジェ−ムズ・スティルマンに業務を任せるようパインを説得した。そしてその直後に
ナショナル・シティ・バンクはロックフェラ−のものとなった。ウィリアム・ロックフェ
ラ−の息子のウィリアムは、ジェ−ムズ・スティルマンの娘エルシ−と結婚し、ロックフ
ェラ−の別の息子のパ−シ−はスティルマンの別の娘イザベルと結婚した。
 ジェ−ムズ・スティルマンもまたイギリスとのコネクションを持っていた。彼の父ドン
・カルロス・スティルマンは、南北戦争時にイギリスの代理人及び密航者としてテキサス
州ブラウンズビルにやってきた。ニューヨークにおける銀行コネクションを通じて、ドン
・カルロスは息子を銀行の見習いとして働かせることができた。
 1914年のニューヨーク連邦準備銀行の大株主ファ−スト・ナショナル・バンクは、
銀行の設立者ジョ−ジ・F・ベイカ−(1840〜1931、ブッシュ政権時代の国務長
官・首席補佐官の祖父)と、彼の息子G・F・ベイカ−・ジュニアが、銀行の全株式のう
ちの25%を所有していたが、重役室のモルガン家の代表団ゆえに、一般的にはモルガン
の銀行として知られていた。
 テキサスのベ−カ−一族は鉄道王ロヴェット家とパ−トナ−となり、テキサスにやって
きたブラウン兄弟の一族と結婚して勢力を増した。このベ−カ−・ロヴェット・オフィス
創立者の孫がベ−カ−国務長官である。ジョ−ジ・ベイカ−・ジュニアの娘エディス・ブ
レヴォ−ト・ベイカ−は、ジェイコブ・シフの孫であるジョン・M・シフと1934年に
結婚した。ジョン・M・シフは現在リ−マン・ブラザ−ズ−ク−ン・レ−ブ商会の名誉会
長である。
 1914年のニューヨーク連邦準備銀行の大株主の一つは、ナショナル・バンク・オブ
・コマ−スである。J・P・モルガンはまた、ナショナル・バンク・オブ・コマ−スの株
を持つエクイタブル生命保険会社とミュ−チュアル生命保険会社の支配的株主になること
によって、ナショナル・バンク・オブ・コマ−スの株を所有した。
 連邦準備制度理事会の議長であるポ−ル・ワ−バ−グもまた、ナショナル・バンク・オ
ブ・コマ−スの株を所有していた。この銀行は、ロンドンのジュニアス・S・モルガン商
会の子会社、ロンドンのN・M・ロスチャイルド商会、及びロスチャイルド家の筆頭代理
店として知られるク−ン・レ−ブ商会によってコントロ−ルされていた。

 ロンドン・コネクションがアメリカに中央銀行を設立して最初に手掛けた重要な仕事が
、第一次世界大戦の遂行であった。連邦準備銀行は、外国為替を規制し、金融力を集中し
て、アメリカの金資源の節約に大きく貢献した。もし戦時下において、以前のような分散
した旧式の銀行制度だった場合には、世界大戦のための資金調達も出来なかったし、参戦
することも出来なかっただろう。
 第一次世界大戦へのアメリカの参戦後、ウッドロ−・ウィルソンは合衆国の政治を彼の
選挙の支持者であるポ−ル・ワ−バ−グ、バ−ナ−ド・バル−ク及びユ−ジ−ン・マイヤ
−の三頭政治へと転換した。バル−クは戦時産業調整委員会の委員長に任命された。ユ−
ジ−ン・マイヤ−は戦時金融公社の会長に任命され、戦時資金を調達する公債計画の責任
者となった。ポ−ル・ワ−バ−グは連邦準備制度理事会の副議長であった。
 ユダヤ人ユ−ジ−ン・マイヤ−の父は、パリのラザ−ル・フレ−ルとロンドンのラザ−
ル・ブラザ−ズのパ−トナ−の一人であった。ユ−ジ−ン・マイヤ−は後に初代「世界銀
行」総裁になった。また、アメリカの首都を制する新聞「ワシントン・ポスト」のオ−ナ
−としてよりよく知られていた。第二次世界大戦直後に発足した世界の金融体制は、ヨ−
ロッパを本拠地とするIMF(国際通貨基金)と、アメリカを本拠地とするこのユ−ジ−
ン・マイヤ−の世界銀行(国際復興開発銀行)の二大メカニズムを柱として運営されてき
た。
 ユ−ジ−ン・マイヤ−の曾祖父ザドック・カ−ンはフランスのパリでグラン・ラビ(大
指導者)となった大人物であった。ユ−ジ−ン・マイヤ−の娘は、「ワシントン・ポスト
」の社主として全世界の政治家に大きな影響力を及ぼしてきたキャサリン・グラハムであ
る。日本の首相人事は、「グラハム女史が首を縦に振らなければ認められない」と噂され
るほど、わが国では彼女の威光が恐れられてきた。天皇家の内情も、キャサリン・グラハ
ムには筒抜けであったという。
 ユダヤ財閥によるメディア支配に話を移すと、ロスチャイルド家は、ヨ−ロッパのあら
ゆるニュ−スの配信をコントロ−ルしていたロンドンを拠点とするロイタ−ズ・インタ−
ナショナル・ニュ−ズ・エ−ジェンシ−とフランスのハヴァス、ドイツのヴォルフの支配
権を買い取っている。CBSはワシントン・ポスト紙、アライド・ケミカル社、ウェルズ
・ファ−ゴ銀行と関連を持っている。ブラウン・ブラザ−ズ・ハリマンがCBSを、ユ−
ジ−ン・マイヤ−一族(ラザ−ル・フレ−ル)がアライド・ケミカル社とワシントン・ポ
スト紙を、そしてク−ン・レ−ブ商会がウェルズ・ファ−ゴ銀行を支配している。
 さて、図2を見て欲しい。これは1711年のフランクフルトのゲット−の地図である
。ユダヤ教会のシナゴ−グを中心にして、ロスチャイルド家、シフ家、カ−ン家、バル−
ク家が隣近所に暮らしていたことが分かる。オット−・カ−ン一族はやがてフランクフル
トの南60キロのマンハイムに移り、オット−・カ−ンはドイツ銀行で修行を積んでから
アメリカへ渡った。カ−ンはク−ン・レ−ブ商会に入ってパ−トナ−となり、アメリカ大
陸の鉄道事業で巨財を成した。オット−・カ−ンの長女モ−ドは後年のイギリスMI5の
人事部長、ジョン・マリオネットと結婚している。マリオネットはフリーメーソンであっ
た。ユ−ジ−ン・マイヤ−の曾祖父ザドック・カ−ンは、このカ−ン一族である。
 シフ家は一時ロスチャイルド家の隣に住んでいたが、1711年の地図では、カ−ン家
から通りを挟んで4軒目の所にあった。一族のジェイコブ・ヘンリ−・シフはク−ン・レ
−ブ商会のパ−トナ−として活動した。高橋是清が日露戦争の外債をシフに引き受けても
らった時に、ク−ン・レ−ブ商会にはオット−・カ−ンもいたのだ。
 バル−ク家もラビを生み出すユダヤ人指導者のファミリ−だった。バ−ナ−ド・バル−
クは第二次世界大戦後、国連の原子力委員会のアメリカの首席代表を務めた。彼は全米一
のウラン採掘業者グッゲンハイム財閥の代理人として働くウオ −ル街の投機業者であった

 しかしそれにしても、ウィルソン政権の中心人物の多くが同じフランクフルトのゲット
−出身だったことには驚かされる。これを単なる偶然として済ますことは出来ないであろ
う。
 話を第一次世界大戦に戻すと、ポ−ル・ワ−バ−グが連邦準備制度理事会で活動してい
る時に、対戦国のドイツではポ−ル・ワ−バ−グの兄弟のマックス・ワ−バ−グがドイツ
諜報部の代表として仕えていた。ワ−バ−グ家と同じくジェイコブ・シフもまた、第一次
世界大戦中のドイツにフィリップ・シフとル−トヴィヒ・シフという二人の兄弟がフラン
クフルト−アム−マインにいた。彼らもまたドイツ政府の銀行家として活動していたので
ある。ワ−バ−グ家とシフ家の兄弟たちは、アメリカとドイツに分かれてそれぞれの政府
を金融面で支援していたのだ!第一次世界大戦が国際的銀行家によって引き起こされた謀
略であったことがよく分かる話だ。
 第一次世界大戦はアメリカ全体に繁栄をもたらした。労働者たちには高給が支払われ、
農家の生産物にはかつて経験したことのないほど高い価格が支払われた。この二つのグル
−プは国債に資金を投ずることなく巨額のドルを現金で蓄えた。その資金は、合衆国の通
貨と信用をコントロ−ルしていたウオ −ル街のグル−プの手の届かないところにあり、こ
れを奪うために1920年から21年の農業不況が引き起こされたのだ。資金の多くは、
連邦準備制度のいかなる影響も拒否した中西部と西部の小さな田舎の銀行に預金されてお
り、その地域の農家と牧場経営者たちは、自分たちの資金の管理を国際金融家グル−プに
委ねる理由などなかった。連邦準備制度はこれらの小規模な田舎の銀行を破壊し、戦時中
に農家に支払われた資金を奪い返し、彼らを破滅させようともくろんだ。
 当時、1919年と1920年のアメリカとヨ−ロッパでは、インフレ−ションが放置
されていた。ヨ−ロッパにおけるインフレの目的は、アメリカ国民から連合国が借り入れ
た戦時債務の大部分を相殺するためであり、アメリカにおけるインフレの目的は、生産に
対する高い賃金やボ−ナスという形で労働者に分配されていた余剰資金を呼び戻すことで
あった。
 物価が高くなればなるほど、労働者の資産価値は下落し、彼らに資金の不当な流出を課
す。一方、地価と工業製品の価値の上昇のため、資本家はインフレによって裕福となる。
労働者は相対的に貧しくなる。これが資本家がインフレを引き起こす理由である。労働者
や農民などの消費者から資産を収奪するためである。
 しかし、農家はより自給自足的だったので、別の扱いが必要だった。連邦農業貸付委員
会が設立され、蓄積した資金を土地に投資して長期に貸し付けるよう農家に奨励した。当
時、非常に裕福だった農家は生産拡大のために耕地面積を広げ、農業機械を買い増した。
そのためには農地を担保にした抵当貸付の増大が必要であり、農家は設備投資資金も借り
入れなければならなかった。農家の負債残高は増大した。それでも、1915年から19
年にかけて1.4倍になった負債残高の上昇は、農家純所得の伸びをはるかに下回ってい
た。
 だが、戦争の終結とともに事態は一変し、農産物価格は直ちに下落し始めた。戦争中の
増産努力によって農産物の供給が急増したところへ、ヨ−ロッパの需要が消滅したのであ
る。そして、1920年に発生した突然の信用と通貨の収縮によって農家は破産してしま
った。
 1920年4月、5月、6月、そして7月には、製造業者や商業従事者には大幅な与信
の拡大が許された。これは、アメリカの農家を破産させようと意図した信用収縮の潮流を
彼らに乗り切らせようとするものだった。そしてこの期間、農家には与信がすべて拒否さ
れた。農業及び家畜手形に対する金利は7%に引き上げられた。連邦準備制度理事会の目
的は、連邦準備制度の支配を拒絶した州法銀行及び共同土地出資銀行を破滅させることに
あった。この農家に対するデフレ−ション政策は、故意に犯された犯罪だった。
 1921年には農家純所得は前年より57%も下落し、10年前の水準に逆戻りした。
農産物市況の急落と負債利子支払いの急上昇がその原因だった。21年は戦後の反動不況
から実質GNPも減少した。国中が不況に陥った。中でも困窮した農家は、負債残高を増
加させていった。農家の負債と利子支払いがピ−クに達したのは23年だった。市況の低
迷と金利負担の重圧という典型的な農業不況のパタ−ンが続いた。全盛時代にはアメリカ
の農家は年間純所得のほぼ1年分の負債残高しか持たなかったが、21年には3年分の純
所得に匹敵する負債を抱えることになった。
 デフレによって資本家も損失を被るが、中小金融機関、企業を倒産させ市場支配を強化
することができる。これが資本家がデフレを引き起こす理由である。インフレによって労
働者、農民から資産を収奪し、デフレによって市場支配を強める。従って、インフレとデ
フレは交互に引き起こされねばならないのである。そしてインフレとデフレを交互に作り
だす技術は、国際的銀行家たちによって精密科学にまで仕上げられているのだ。

 第一次世界大戦後、アメリカは122億ドルに及ぶ対ヨ−ロッパ債権を獲得し、全世界
の貨幣用の金の半ば以上を集中した。イギリスにかわって世界経済の主導権を握ったアメ
リカは、大戦で疲弊したヨ−ロッパ諸国の財政を整理し、通貨を安定させて、ヨ−ロッパ
経済の復興をはかることを先決と考えた。1917年9月、アメリカは第一次世界大戦に
参加するとともに、金の輸出を禁止していた。アメリカは戦争が終わると、1919年6
月には、早くも金本位へ復帰している。金本位の祖国イギリスでも、第一次大戦が勃発す
ると、変則的事態が発生した。1914年、イギリスはイングランド銀行券の発行高を金
保有量によって規制していたピ−ル条例(1844年制定)を停止し、事実上の不換紙幣
制度へ移行したのである。ついで、1916年には、「帝国防衛法」を公布し、金の輸出
をできるかぎり禁止して、金本位制は事実上、停止された。
 1925年5月、イギリス議会は金本位制法を可決し、大英帝国は金本位制に復帰した
。オランダ、オ−ストリア、蘭領インド(インドネシア)、南ア連邦の各国も、次々と金
解禁に踏み切った。イギリスの金本位制復帰を支援するため、ニューヨーク連邦準備銀行
は大英帝国に対して2億ドルの金の貸付を行うことを取り決めた。全ての交渉は、ニュー
ヨーク連邦準備銀行総裁のベンジャミン・ストロングとイングランド銀行総裁のモンタギ
ュ−・ノ−マンとの間で行われた。
 第一次世界大戦直後、密接な協力関係がイングランド銀行とニューヨーク連邦準備銀行
との間に出来上がった。この関係は、イングランド銀行のモンタギュ−・ノ−マンとニュ
ーヨーク連邦準備銀行の総裁ベンジャミン・ストロングとの間に1928年まで存在した
誠心誠意の関係に基づくものであった。ニューヨーク連邦準備銀行の公定歩合政策は、し
ばしばイングランド銀行を支えたいとする願いに導かれていた。ロンドンとニューヨーク
の間には、公定歩合を設定する際に緊密な協調関係があった。
 1925年イギリスが戦前の平価で金本位制に復帰(旧平価解禁)したのは、戦後の疲
弊と貿易収支の赤字が続く中で自国通貨を切り上げるという、無謀な決断だった。資金は
イギリスからアメリカへ逃避先を求めて動いた。しかし、イギリス、フランス、ドイツの
中央銀行は、この金の移動をアメリカの高金利のなせる技と解釈し、揃ってワシントンを
訪れ、アメリカの金利引下げを要請した。ニューヨーク連邦準備銀行総裁のベンジャミン
・ストロングは、公定歩合の引き下げに踏み切った。
 イギリスが金本位制に復帰した時、アメリカはイギリス経済を救おうとして低金利と金
融緩和の政策を取り続けた。この政策は、一面で景気を刺激する効果を持ったが、反面で
株価の上昇を招き、異常な株式投機熱を煽る結果を招いた。
 ここでイングランド銀行総裁モンタギュ−・ノ−マンについて軽く触れて置こう。ベン
ジャミン・ストロングとモンタギュ−・ノ−マンの間の関係は、20世紀最大の秘密の一
つであった。ベンジャミン・ストロングはニューヨークのバンカ−ズ・トラストの頭取の
娘と結婚し、後にその頭取となった。ストロングは1914年にモルガン及びク−ン・レ
−ブ商会の共同推薦でニューヨーク連邦準備銀行の総裁になった。
 モンタギュ−・ノ−マンは、母方の祖父と父方の祖父の両方がイングランド銀行の総裁
となった歴史上唯一の人物である。彼の父はブラウン・ブラザ−ズ(現在のブラウン・ブ
ラザ−ズ・ハリマン)のロンドン支店であるブラウン・シップレイ商会で働いていた。モ
ンタギュ−・ノ−マン(1871年〜1950年)は、ブラウン・ブラザ−ズで働くため
に1894年にニューヨークにやって来た。そこで彼は、ブラウン・ブラザ−ズのデラノ
家とジェ−ムズ・マ−コ−の助けを得た。彼はイギリスに戻り、1907年にイングラン
ド銀行の役員に指名された。
 モンタギュ−・ノ−マンは1916年から1944年までイングランド銀行の総裁であ
った。この間、彼は1929年の大恐慌と世界的な景気後退を引き起こした中央銀行会議
に出席した。1925年から28年までのニューヨーク金融市場におけるストロングの低
金利政策は、ニューヨークの金利をロンドンの金利より低く維持するというノ−マンとの
合意を満たすものであった。ニューヨークの低金利政策は、1920年代後半のとてつも
ない投機の絶頂を伴って拡大しているアメリカのにわか景気を煽ったのだ。
 1927年7月、ヨ−ロッパで三大中央銀行総裁の会議が開かれた。イングランド銀行
のモンタギュ−・ノ−マン、ニューヨーク連邦準備銀行のベンジャミン・ストロング、そ
してドイツ帝国銀行のヤルマ−ル・シャハト博士の会議は、当時の世界の最高級クラブの
会議といわれた。この秘密会議は、合衆国が所有する金をヨ−ロッパに取り戻し、ヨ−ロ
ッパ大陸の各国を金本位制に復帰させるための最良の方法を議論するために開かれた。合
衆国における銀行金利の引き下げによって7億2500万ドル相当の金を輸出させ、その
ことでフランスとヨ−ロッパを安定させてフランスを金本位制へ導くためであった。19
28年6月、フランスのポアンカレ−内閣は金本位へ復帰した。
 1928年末から29年秋にかけて、アメリカ政府は、金利を引き上げる措置を講じた
。その結果、こんどは外国資金が証券投資と高い利子率を目的に流入しはじめ、株式ブ−
ムに拍車をかけることになった。
 1922年から1929年までの間に、連邦準備は通貨の供給を62%膨張させた(イ
ンフレ政策)。新しい通貨はすべて、証券取引相場を法外につり上げるために使われた。
マスメディアは証券取引で急速に財を成したというセンセ−ショナルな話を一般に広めは
じめた。誘惑的な新聞報道によって、一般人が投機へそそのかされた。1928年から2
9年秋にかけての株式ブ−ムは、実際の経済活動を反映しない極めて不健全な基礎の上に
、狂乱の花を咲かせた。ホテルのボ−イやレストランのウェイトレスまでが株に手を出す
始末であった。そして、バブルが弾けた。
 「すべてが済んだ時、ニューヨークの金融業者たちは相場師にコ−ル=ロ−ン(短期貸
出金)の弁済を要求しはじめた。これは、相場師とその顧客が自分らの借金を解消できる
ようにするためには、今や株を取引所に投げ込まなければならなくなったことを意味して
いる。これはもちろん、取引所の崩壊をもたらし、全国の銀行を片っ端から倒産させるこ
ととなった。上部の寡頭制には属していなかった銀行には、このとき相場師の弁済要求が
特に強く突きつけられた。これによってこれらの銀行の弁済手段は急速につき果て、その
結果、閉鎖されなければならなくなったのである。連邦準備は、弾力性のある通貨を堅持
するよう法律によって義務づけられているにもかかわらず、これらの銀行には助け船を意
識的に出さなかった」(ウィリアム・ブライアン著『合衆国の未解決の財政的、政治的諸
問題』)
 「翌10月29日の火曜日はさらに壊滅的だった。『早朝、ニューヨーク市外の銀行と
事業会社が1億5000万ドルのコ−ルロ−ン(ブロ−カ−ズ・ロ−ンの別名)を引き上
げ、ウオ −ル街は立会い開始を待たずしてパニックに陥っていた』。取引開始後30分で
通常の一日分の商い、300万株が取引された。コ−ルロ−ンを引き上げられた証券業者
は銀行に助けを求めたが、銀行も株価暴落によって大きな痛手を被っていた」(林敏彦著
『大恐慌のアメリカ』岩波新書)



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