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宇宙人の陰謀?妄想?ところで天皇の話は?
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投稿者 スパルタクス 日時 2003 年 7 月 07 日 21:19:16:

(回答先: 天皇は日本人ではなかった!No.2 投稿者 サム 日時 2003 年 7 月 05 日 11:11:18)

 インドス川の河口は二つに分かれ、その間に島を形成していると記述しているから
だ。今日のインダス川の河口には、そのような大きな島は見当たらない。

実際二つに分かれて、巨大デルタが形成されとるが・・・

 「インドの地の西方はインドス川が、これを〔南の〕大洋にいたるまでずっと仕切って
いる。大洋岸ではインドス川は二つの河口によって海に注いでいるが、その二本の分流と
いうのは、イストロス〔ドナウ〕川の五本の分流のようには、お互い河口をひとつに合わ
せることをせず、エジプトのデルタを形成するかのナイル川のばあいと同じようになって
いる。インドス川もそんな風にインドのデルタをつくっているのであって、そのデルタは
大きさ、エジプトのそれにも劣らず、インド語では『パタラ』という名で呼ばれているの
である」(アッリアノス『インド誌』)

  さて、歴史家の言うパタラ島とは何か。私はインドはマレ−半島の南部にあったと考え
ているので、インドス川もこの辺に求めなければならない。地図でマレ−半島の南端を見
ると、ちょうど河口が二つに分かれてその間に島がある川がある。ジョホ−ル川である。
河口の間の大きな島とは、今日のシンガポ−ルだ。シンガポ−ルこそ昔パタラと呼ばれ、
後世の歴史家からはスマトラと呼ばれた島ではなかったのだろうか。スマトラとセイロン
(タプロバナ)が混同されていたことは、先に述べた。

 「さて、この市からさほど遠くないところに大サマトラ〔スマトラ〕国、すなわちサマ
トラ島があり、この島は昔の世界誌学者たちからトポロバナ〔タプロバナ〕と呼ばれてい
た」(ゴンサ−レス・デ・メンド−サ『シナ大王国誌』)

 セイロンはスマトラ島であるという学説は今日でも存在している。セイロンにはイスカ
ンダル(アレクサンドロス)に由来する岩屋と泉地もある(イブン・バットウ −タ『大旅
行記』)。また、アレクサンドロスがセイロンまで至ったという説もある。

 「タプロバネ<セイロン>は、『反対国人の国』という名で、長い間いま一つのちがっ
た世界であると考えられていた。しかしアレクサンドロス大王の時代と功業とが、これが
島であることの明白な証明を提供した」(プリニウス『博物誌』)

 「反対国人の国」とは、影が南ではなく北へ落ちる国のことである。プルニウスはまる
で、アレクサンドロス大王がセイロンを訪れたかのように書いている。しかし実際はセイ
ロンはインドの地から舟で三日くらい離れた所にあるので(玄奘『大唐西域記』)、アレ
クサンドロスがセイロンを訪れたわけはない。これはやはりプリニウスが、セイロンとス
マトラ(シンガポ−ル)を混同したのだろう。

セイロンにも行ってない奴がシンガポールまで行ったとすれば、アレキサンダーは、かなり船で遠征した事になるが、そんな記述はあるの?

このような混乱は他の歴史家にも見受けら
れる。
 「コモリ−ン岬から海側の南南東およそ四十マイルに有名なセイロン島の最〔南〕端の
岬があり、そこから島は北東へネガパタ−ン岬の真向かいまで伸びており、大陸の同岬か
ら十マイル隔たる。大陸とその島の間にいくつかの浅瀬と小島が横たわる。ベンガ−ラや
コラマンデル海岸に航行する船々はたいていそこを通るが、ときどきそこでずいぶん危な
い目に出会う」(リンスホ−テン『東方案内記』)
 「セイランの美しい島はコモリンの前面に位置している。そしてほぼナオ−ル〔コロマ
ンデル海岸のナゴ−ル〕のあたりまで伸びている。それは海岸に沿って130レグワは充
分ある。コモリン岬〔の所で〕は非常に遠く、海上三十五レグワ離れており、そこから進
むと次第に近づいて来て、距離は十五レグワまでせばまる。マラバルのすべての船はこの
島とショロマンデルの海岸との間を航行する。ただベンガラ、ペグ−、シアン〔シャム〕
に向かう船は島の外側、すなわち南岸をまわる」(トメ・ピレス『東方諸国記』)
 「セイロン島と大陸(インド東南端部の海岸地方、すなわちコロマンデル海岸)の間の
海域に一つの湾がある。湾内の水深はどこも十ペ−スそこそこで、最も深い所でも十二ペ
−ス、場所によってはわずか二ペ−スの浅さである。この湾で真珠が採れるのであるが・
・」(マルコ・ポ−ロ『東方見聞録』)

 まるでセイロンがコモリン岬(インド南端)から目と鼻の先にあるかのような記述であ
る。繰り返しになるが、このセイロンはスマトラ(シンガポ−ル)の誤りであろう。シン
ガポ−ルとマレ−シアの間には水路があるし、シンガポ−ルの南は海峡(シンガポ−ル海
峡)を成している。どちらも船の通り道である。そう、シンガポ−ルは昔、スマトラと呼
ばれた島だったのだ。
 だがここに一つ問題がある。ジョホ−ル川がインドス川でシンガポ−ルがスマトラだと
すると、セイロン(スマトラの間違い)はコモリン岬の前面に位置している、という記述
は矛盾してはいないか。コモリン岬は南インド、インドス川は西インドに位置しているか
らだ。
 しかし地図をよく見ると、マレ−シアのジョホ−ル州がビンタン島の方に突き出ている
のに対して、ジョホ−ル川はその西に位置している。だから突き出た所を南インド、ジョ
ホ−ル川周辺を西インドと呼んでも不思議はないのである。また『大唐西域記』を読んで
も分かるように、南インドと西インドの区別は漠然としている。厳密に線引きは出来ない
のだ。したがってシンガポ−ルはインドス川河口のパタラ島であり、同時にコモリン岬沖
のスマトラ島であったとしても矛盾はないのである。

 セイロンはどこか?

 すると残された大問題は、セイロンの位置ということになる。セイロンはスマトラと混
同されるくらいだから、両島はお互いすぐそばに存在しているに違いない。セイロン島の
比定には私も少々苦労した。だが苦労して探せば、ヒントは必ずどこかに存在しているも
のである。
 マルコ・ポ−ロは小ジャヴァ島の一地方に、サマトラ王国を置いた。そして小ジャヴァ
島からネクヴェラン島(翠藍山)、アンガマン島を経てセイラン島へ至っている。『諸蕃
志』(趙汝?)では、三仏斉国(シュリ−ヴィジャヤ、スマトラにあったと言われる)の
属国の一つに細蘭国(セイロン)の名が見える。どうやらセイロンは多くの島々が集まっ
ている内の一つらしい。

 「セイロンの前に他の数個の島がくる。パタレ島、これはインダス川河口そのものに位
置していることを示したが、幅が220マイルある三角形の島である。インダス河口の外
側にはクリュセとアルギュレの両島、いずれもわたしの信ずるところでは各種の鉱物に富
んでいる。というのは、ある著作者たちの、そこには金銀鉱しかないという記述には信を
おき難いから。これらの島から20マイルのところにクロカラ島が、さらに12マイル先
にビバガ島があり、これはカキその他の貝類が豊富だ。そして上に述べた島から8マイル
のところにコラリバ島、そして多くの著名でない島々がある」(プリニウス『博物誌』)

 「また、この島(タプロバネ)とインド地方(本土)との間にはこのほかにもいくつか
の島があり、この島が一番南にあたる」(ストラボン『ギリシャ・ロ−マ世界地誌』)

 インドとセイロンの間にある島々とは、モルディヴ諸島のことを指している。モルディ
ヴとセイロンが昔はひと続きの島で、海水の浸食によって切り離されてしまったことは、
前に述べた。モルディヴ諸島もまた、スマトラ(シンガポ−ル)と同様にコモリン岬沖に
位置している。

 「一般にマルディ−ヴァと称するこの諸島は、カボ・デ・コモリ−ンから真直ぐ西方の
洋上60マイルの地点に始まる。すなわち、この岬〔カボ・デ・コモリ−ン〕と同じ緯線
の北緯七度に始まって、南南東へと南緯三度まで伸び、全長140マイルに及ぶ。人の言
うところによると、そこにはおよそ一万一千の島があるということだが、むろん正確には
わかっていない。なにしろ数えきれないのである。・・
 マラバ−ル人らの確言するところによれば、この諸島はむかしは大陸のマラバ−ルに続
いていたが、長い間に海が食い込んで切り裂いてしまったのだという」(リンスホ−テン
『東方案内記』)

 プトレマイオスは島の数を1378、九世紀中葉のスレイマ−ンは1900くらい、十
世紀のマス−ディ−は2190、十四世紀中葉、イブン・バットウ −タは約二千、モンテ
・コルヴィノは一万二千以上、ジョルダ−ヌスは住民のいるものだけでも一万ないし一万
二千、ステファノは七、八千はあるとしている。
 イブン・バットウ −タはモルディヴ群島からマア バル(インド南西海岸)に向かおうと
して、航路を誤ってスィ−ラ−ン島(セイロン)にたどり着いた。では、コモリン岬(マ
レ−半島南端)沖にある無数の島々(モルディヴ諸島)とはいったい何なのだろうか。こ
れはずばり、リアウ諸島とリンガ諸島である。地図を見てもお分かりのとおり、この海域
には数えきれない程、多数の島々が存在している。そしてこれら無数の島々が、海水の浸
食作用によって形成されたであろうことは容易に推測がつく。
 さてここまで分かれば、セイロン島の比定は簡単であった。リアウ諸島、リンガ諸島の
一番南(ストラボン)に位置していて、航海の目印となる高い山が存在する島、それはリ
ンガ島に他ならない。リンガ島のリンガ山は1163メ−トルなので、余り高い山ではな
いとお考えかもしれない。しかしそれは比較の問題である。リンガ島の周辺には、スマト
ラ島のリアウ地方、ジャンビ地方、マレ−シアのジョホ−ル州と見渡してみても、他にこ
れ程高い山は見当たらないのである。当然、海上からは目につき、船の目標ともなろうと
いうものだ。もちろん、リンガ山は島内で最も高い山でもある。そう、いにしえの仏教徒
の聖地、アダムス・ピ−クとはこのリンガ山のことだったのである。
 セイロンがリンガ島だとすると、セイロンはエチオピアの方へ向いている、あるいは達
している、という歴史家の記述も納得のいくものとなる。何故ならリンガ島はスマトラ島
のジャンビ地方の沖合に位置しているからだ。このジャンビ地方の辺りが、昔はエチオピ
アと呼ばれた地域だったのである。そしてもっと重要なことは、リンガ島が赤道直下に位
置していることだ。セイロンは赤道を越えて南緯2°にまで広がっているという、プトレ
マイオスの記述とも符合している。ちなみに私は、リンガ諸島のシンケプ島がマルコ・ポ
−ロの言うアンガマン島、リアウ諸島のビンタン島が大ジャヴァ島に当たるのではなかろ
うかと考えているのだ。
 ところで、リンガ島の北の海域には特に小島の数が多く、地図を見れば昔はこの島々が
リンガ島と陸続きだったことが分かる。マルコ・ポ−ロは次のように述べている。

 「この島(セイロン)たるや、この方面の海域を航海する船乗りたちの海図を見ればわ
かるように、かつてはもっと大きく三千六百マイルの周回を有していたのである。しかし
、何しろこのあたり一帯は北風がはげしくて、島の陸地のかなりの部分が海中に湮没した
ため、現今では、もはや往昔ほどの大きさではなくなったのである。この島は北風の吹き
つける側が非常に低くかつ平坦になっているので、外洋から船で島に接近する際でも、接
岸の直前までその陸地が弁別できないほどである」(『東方見聞録』)

 リンガ島の描写とピタリと一致している。海水によって分断される以前は、おそらくマ
レ−シア、シンガポ−ル、そしてリアウ諸島とリンガ島は陸続きだったのであろう。そし
て、マレ−シア(インド)からリンガ島(セイロン)へ至る間の無数の島々を、昔の人々
は天国への架け橋という意味で、アダムズ・ブリッジと呼んだのである。

英語のようだが、どこの国の人が?

 「ネパ−ルに伝染病が発生したとき、ネパ−ルの人たちはカプチン会宣教師の僧衣の色
を槍玉にあげることを、たまたま思いついたというわけです。というのは、青い色は神を
冒涜するものだと、神々がたいへんに激怒し、ベンガルからランカ(これは海底の想像上
のセイラムの名前ですが、むしろ彼らの死後の極楽です)へ行く橋を破壊してしまった。
そのために死者の魂はその橋が見当たらないので引き返さざるを得なくなり、その怒りは
現存者に向けられ、神父たちを殺害することで晴らそうということになったというわけで
す」(I・デシデリ『チベットの報告』)

 ネパ−ル人もチベット人もセイロンの存在を知っていた。何故ならネパ−ルもチベット
も、今日のマレ−シアに存在していたからである。

何故そう思うの?

だからこそ、チベット僧のアティ−シャがシュリ−ヴィジャヤ(スマトラすなわちシンガポ−ルのこと)に留学出来たのである。常識的に考えたら分かると思うが、飛行機も車も存在していない時代に、今日のチベットからスマトラ島までわざわざ出かけていくはずがないし、そもそもそんなことは不可能であろう。行って帰って来るだけで、一生を費やしてしまいそうだ。

しかし、現実にそういう事はしょっちゅう有ったではないの。アレキサンダーがシンガポールまで行くとは。松雄芭蕉だって、東北地方を徒歩で一周したのだにょ。伊能忠敬はどうよ。近藤重蔵、間宮林蔵、みんな交通手段は徒歩と舟だけよ。

現代人が想像するよりも、昔の人にとって世界は広かった。現代ではたった一つの小さな町が、昔の人にとっては一つの国家に相当したのである。今日のスマトラ島が昔のアフリカ大陸であり、昔の
スマトラ島がシンガポ−ルであるなどと言うと、現代人はびっくりするかもしれない。余
りにも小さすぎるのではないか、と思うかもしれない。だがそう言う人は実際に自分の足
で現地を歩いてみればよい。飛行機も車も自転車もモ−タ−ボ−トも使わずに、現地を移
動してみればよい。徒歩で、あるいは馬に乗って、あるいは帆船で移動するのだ。当人が
思ったよりも、世界は広いと感じるだろう。
 ここに歴史研究の落とし穴が存在していたのである。現代人は世界地図や地球儀やテレ
ビを見慣れ、あるいは飛行機や車で移動することに慣れて、自然な感覚を失ってしまった
のである。自然な感覚とは、大地はどこまでも広く、海は果てしなく遠い、ということだ
。一日歩いて20キロ、十日で200キロ、少し休んで一月で400キロ、半年で200
0キロ、という通常の感覚を失ってしまったのだ。地を這う動物としての人間にとっては
、やはり日本列島は島ではなく大陸であり、島といえば淡路島くらいの大きさが島と呼ば
れるのに相応しいだろう。
 したがって、現代人にとっては世界のほんの一地域に過ぎない東南アジアが、昔の人に
とっては全世界に感じられたのだ。その全世界は今日の東南アジア各国で形成されていた
。今日のマレ−シアに中国とペルシャとインドとアラビアとヨ−ロッパがあり、スマトラ
がアフリカ大陸であった。昔の人にとって、これが全世界だったのである。
 そして新大陸と呼ばれた南北アメリカは、今日のミャンマーやタイやカンボジアだった
のだろう。喜望峰は今日のスマトラ島南端部であり、バスコ・ダ・ガマのインド航路の発
見とは、紅海(マラッカ海峡)を迂回して大西洋(インド洋)を経てインド(マレ−シア
東南部)に至る航路だったのである。
 世界は、地球は、現代人が考えているよりはるかに狭かったのだ。太陽神崇拝など、世
界各地の神話に共通点があるのもそのためである。アジアもアラビアもアフリカも南北ア
メリカも、互いに近い位置関係にあったのだ。したがって、昔の地理学者の言う緯度経度
も今日の尺度で考えてはいけない。同じ1°でも、昔の方が今日よりも小さな距離を表し
ていたはずである。プトレマイオスはタプロバナ(セイロン)は北緯12°30′から南
緯2°30′まで緯度で約15°にわたって広がる巨大な島であると描写したが、これも
そのためであろう。スタディオンやマイルや里などの単位も同様である。推測されている
距離数よりも、実際ははるかに小さな距離を表現していたはずだ。
 では私がインドの位置を比定する際に用いた赤道も、絶対的な基準とはならないのであ
ろうか。そうではないと私は考えている。何故なら、昔も今も北極星は不滅の不動点だか
らだ。天空で唯一動かない(回転しない)星が北極星である。これは旅する人にとっては
、自分のいる場所を推し量る上での掛けがえのない目印となる。したがって北極星が地平
線や海面と接する場所(赤道)もまた、絶対的な基準として用いてもよいのだ。また北極
星だけではなく、私は動植物の分布なども世界各地の位置の比定に援用した。

 翻訳上の問題

 中国僧、法顕は仏教経典を求めてインドへ旅立った。長安を出発して敦煌に至り、沙河
を渡って楼蘭に着いた。そしてコ−タンを経てパミ−ルに入った。パミ−ルは中国語で葱
嶺と書くことは前に述べた。この「葱山(葱嶺)は冬も夏も雪があり」(『法顕伝』)と
書かれている。ここに言う「雪」は文字通りの雪ではなく、翻訳上の誤りであり、「霜」
とでも訳すべきであることは前に述べた。
 これと同様に、「沙河」の翻訳にも問題がある。通説では「沙河」はゴビ砂漠、タクラ
マカン砂漠であるとされている。東南アジアに砂漠はないので、これも翻訳上の誤りであ
る。沙河は砂漠ではなく、荒れ地と訳すべきである。
 砂漠と同様に問題なのは「駱駝」である。アラビア砂漠には駱駝がいるとされているが
、これも明らかに何か他の動物のことを指して駱駝と言ったに違いない。これらの「雪」
「砂漠」「駱駝」は重要なキ−ワ−ドである。しかし真実を読み解くキ−ワ−ドではなく
、読者をミスリ−ドさせるキ−ワ−ドなのである。「雪」「砂漠」「駱駝」という単語が
目に触れた途端、読者の連想はそれらが実在する特定の地域に限定されてしまうのだ。し
たがって、こんな誤訳を犯した学者連中やそれを黙認した学会の罪はとてつもなく重い。
 あるいは、これも仮説の一つだが、昔の気候は現在よりもはるかに寒かったことも考え
られるのである。だがら、東南アジアにも雪が降ったし川も凍ったのだ。この点は、もっ
と深く追求するべき課題として残されている。

長安を出発して、西の方へ行ったのなら、東南アジアと逆で夏でも雪降るパミール高原に行くでしょう。
 
キルヒャ−の論点でもう一つおも
しろいのは、「エジプト中国植民説」である。ノアの子孫のハム族が、エジプトからバク
トリア経由で中国へ文字を伝えたというのだ。エジプトの文字とはヒエログリフ(聖刻文
字)のことで、中国の文字とは言うまでもなく漢字である。確かに両者とも動物、鳥、爬
虫類、魚、木などの絵から文字が作られた点は同じである。すると中国文明の起源はエジ
プトにあったのか。中国やインドに共通する偶像崇拝の起源はエジプトにあったのか。し
かり、スマトラ島リアウ地方がエジプトでマレー半島北東部が中国であったとすれば、こ
の説にも説得力が出てくる。

???

 では中国人はヨ−ロッパ諸国のことを、どのように見ていたのであろうか。歴史書を漁
っていて、おもしろい記述を発見した。

 「〔魏書〕大秦国は、犁 、安都城とも呼ばれ、条支の西より海を渡って曲がり、一万
里、代を去ること三万九千四百里である。その海の傍らはまだ渤海に出る。だから、東西
は渤海と相い望むのは自然の理である。その地方六千里は両海の間にある。
 漢晋より以来、皆は地中海を大西海と間違えた。昔、食料を持って数年、始めて大秦に
達してこの説が誕生した。ただ魏書は始めてその海の傍らはまだ渤海に出ると認めた。中
国と渤海は東西相い望んでいる。古より地中海はこの所より先はないと言われている。海
を渡って万里を曲がり、その縦の長さはこれであると言い、南北横は実に三千余里で止ま
る所である。その地は両海の間にあり、大秦の北にはまた洲中海がある。地中海と広さ長
さがおよそ半分である。皆、渤海で大西海ではない。故に、西域は魏書には詳しくないと
言う」(魏源『海国図志』)
 下手な訳で申し訳ない。私も漢文は素人なので、勘弁して頂きたい。ここには、地中海
の隣に渤海があると書かれている。「渤海はもと高麗の別種」(『宋史』)なので、この
渤海が中国人に「海東の盛国」と称された、朝鮮北部にあったとされるあの渤海と同一で
あることは間違いない。

何故?海国図志の記述では渤海は海の名称に見えるが?

何と、地中海と朝鮮は隣同士だったのだ。これまた、地中海が東
南アジアにあったことの傍証になりはしないか。

バイカル湖の間違いじゃないの?

 一方、魯迷(コンスタンティノ−プル)については、中国史書にどう述べられているの
だろうか。
 「近くの土魯番(トルファン)がしばしば甘肅を侵略したので、付近の役人が天子の命
令で魯迷に入って、土魯番の人がいると知った」(『明史』)
 こちらの訳はわりと分かりやすいだろう。甘肅とトルファンとコンスタンティノ−プル
は隣近所だったのだ。これまた、東ロ−マが東南アジアにあったことの傍証になる。

東南アジアじゃなくて、東トルキスタンの間違いではないの?魯迷は本当にコンスタンチンなの?

 「その時、大西洋人が中国に来て、マカオに居た。・・後にまた干系臘国(スペイン)
と称した。犀、象、真珠を多く産する所で・・初めは仏教を奉じて、後に天主教(キリス
ト教)を奉じた・・滿剌加(マラッカ)、巴西(ブラジル)、呂宋(ルソン)の三国が滅
んでからは、海外の諸国で敢えてこれに抗うものは無くなった」(『明史』)
 この干系臘国は、別名「西班亞」とも書くので(『海国図志』)、スペインを指してい
ることは間違いない。スペインに犀や象がいて、真珠もある。おまけにキリスト教が信仰
される以前は、仏教が行われていたというのだ。これこそ、スペインが東南アジアにあっ
たことの証拠ではないか。まだある。

正確な知識がないだけでは?

 「俄羅斯(ロシア)は髪拳が黄色なので紅毛と称する・・初め仏教を奉じて、後に天主
教を奉じた・・」(『海国図志』)
 ロシアでも仏教が信仰されていた時代があったのだ。すなわちロシアも東南アジアにあ
ったことになる。

仏教を信奉すると東南アジアなの?中央アジアまで仏教は広がっていたが・・

   ここに『明史』の言う佛郎機とは、「フランキ」すなわち「フランク族の国」という意
味で、フランスの事を指している。フランスの植民地であった東洋の国、という意味では
ない。『海国図志』にも、「佛蘭西之那波里稔王」とある。これは「フランスのナポレオ
ン王」という意味である。「佛蘭西」は「佛郎機」の別称である。この『明史』の記述か
ら、フランスも日本もルソンもシャムも互いに近い位置にあった事実を読み取ることが出
来る。つまり、フランスも今日の東南アジアに存在していたのだ。

さっぱり三郎・・

 まず最初に誰でも気付く点は、遺跡に関する問題であろう。エジプトにはピラミッドが
  それにしても不思議なのは、東南アジアにあった世界の歴史は何故滅びてしまったのか
 すなわち、白人や黒人や中国人は、遺伝子操作によって人工的に作り出された産物だっ
たのである。

あなたの頭の構造が不思議だ。誰がやったの?宇宙人?

よく考えてみて欲しい。もし、学校で教わった世界史がでたらめなものだっ
たならば、当然、民族の発祥に関してもでたらめなはずである。つまり、今日のヨーロッ
パやアメリカやオーストラリアに白人が存在し、アフリカ大陸に黒人、中国に中国人が存
在する根拠はないのである。アフリカ大陸に白人が、ヨーロッパに中国人が、中国に黒人
が存在していても構わないのである。
 遺伝子操作によって人工的に作り出された白人をヨーロッパやアメリカに、黒人をアフ
リカ大陸に植民させたのは、歴史的な辻褄合わせだったのである。そして彼らが世界をコ
ントロールするために白人を選んだのは、単に都合が良かったからに過ぎない。世界史を
リセットした段階で、イギリスを中心とする白人帝国が世界を植民地化していたからであ
る。これがもし、歴史の別の時代が選ばれていたとしたら、中国人が世界の支配者になっ
ていたかもしれない。モンゴル人がヨーロッパに攻め込んだ時代が歴史のリセット段階と
して選択されたような場合である。
 
???(@@;)頭がリセット



 

 

 


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