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昭和天皇独白録が現代に残す教訓
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投稿者 静岡大卒 日時 2003 年 7 月 07 日 21:47:39:


            昭和天皇独白録が現代に残す教訓
                                 岡本邦彦  
1.はじめに
 さきに筆者は「昭和天皇独白録」(以下、単に独白録と呼ぶ)中の昭和天皇の終戦時ご反省の項と、当時スウェ−デン公使の任にあった叔父、岡本季正氏の終戦時電信との関係について小文をまとめた。この小文の中では、この独白録中で昭和天皇が強調されている「立憲君主としてのお立場」と、平沼枢密院議長が主張した「天皇の国家統治の大権」との関係が、戦前の不幸な昭和史を象徴するテ−マとして取り上げられている。この分析から筆者は、「昭和天皇独白録」は現代日本の状況にとって大きな教訓を与えるのではないかと感じた。そこで、このテーマを再びここで取り上げてみたいと思う。

参考文献:岡本邦彦 「昭和天皇独白録」を読んで−岡本季正スウェ−デン公使の終戦時電信との関係−,Pen.友,No.16,1996.

2.終戦時に示された戦前の天皇制の2つの側面
 戦前の天皇制に関する見方としては、戦前・戦後の長い期間にわたって天皇を中心とする絶対君主制として理解するのが常識とされてきた。しかし最近昭和天皇のお立場をめぐって天皇が戦前・戦中を通じて立憲君主として過ごされてきたことが強調されている。そのお立場としては、「明治憲法の下においての天皇制は立憲君主制の建前を取っており、天皇は国務大臣の輔弼により国政を行う」ことであるとされている。昭和天皇がこの時期にこのようなお立場で処してこられたことは最近の色々の書物による研究において強調されていることであり、また昭和天皇が戦後間もない時期に側近に語られたこの「昭和天皇独白録」において直接述べられたところである。それでは戦前の天皇制について我々はどのような理解をすれば良いのであろうか。

 筆者は先の小文において、終戦時のボッダム宣言受諾に際しての国体護持、すなわち天皇制存続の議論の中に戦前の天皇制問題の本質が表れていることを述べた。周知のように終戦時第1回の8月9日のご聖断において国体護持、すなわち天皇制存続のみを条件としてボッダム宣言の受諾が決まったが、その受諾文は平沼枢密院議長の強硬な主張により「天皇の国家統治の大権に変更を加える要求を包含しおらざることの了解の下に」の文言に変更されて連合国に伝達されている。この受諾文を連合国に伝達のため岡本季正公使がスウェ−デン外務省を訪問した際に、スウェ−デン外務大臣は「天皇の国家統治の大権を変更せず云々の点は国家の統治組織を意味するものなりや又は天皇陛下の御一身上の地位に変更なきを意味するものなりや」と質問したという。

 この質問において示されたわが国の所謂留保条件における天皇制存続(天皇制護持)の問題点は、国家の統治組織としての天皇制の存続なのか、ないしは天皇のご一身上(国法上)の地位の存続なのかということであった。スウェ−デンの外務大臣に言われるまでもなく、天皇制とは国家最高の機関としての天皇の地位や機能だけを指すものでなく、その当時の国家の統治機構の全体、その政治的、軍事的、経済的、社会的および思想・心理的などの支配・管理組織の全体系を指すものであった。

 平沼議長などのいう天皇の国家統治の大権は後者の意味での国家の統治組織としての絶対的天皇制を護持する意図を持つものであり、それ故にわが国の付けた天皇大権に関する留保条件が日本の古い統治組織の温存を図るものとして連合国世論の反対を受けたのは当然のことであった。
 
 この戦前の天皇制の2つの側面を戦前の2つの天皇制として捉えその内容を概括すると次のようになる。

 戦前の国家の統治体制としての天皇制における最大のものは軍部と警察の組織であった。軍部の体制としては天皇が統帥権を持つ陸軍と海軍に分かれていたが、明治以来強大な組織と予算を有して天皇制の一つの柱であった。また警察は日本全土の津々浦々まで網の目のように張り巡らされた組織であり、その中に特高警察の機構を含み国民の思想を管理・監視する役割を果たしていた。一方、統治権を持つ天皇の官吏として位置付けられた文官組織があり、国立の高等教育機関で養成された高級官僚が国家機関としての各官庁の実権を握っていた。経済の分野では明治時代に形成された財閥の支配の下で金融と産業・流通が行われ、工業的にはほぼ産業革命期を脱して重機械・重化学工業の初期の状況に達していた。また農村では地主と小作人の関係が基盤となり地域における階級としての支配体制が確立されたいた。これらが全体として網の目のような国家の統治組織を形成しており、天皇大権を中心とする国家の統治組織とはこれらの全体系を指すものであったと言えよう。

 一方、機関説のいう国家の最高機関としての天皇の地位、すなわち国務大臣の輔弼により国政を行う天皇の国法上の地位も明治憲法に規定されており、明治以来議会も開設されて一応西欧で言う立憲君主制の建前となっている。天皇の輔弼を行うのを任とする国務大臣としては文官では高級官僚および議会の各政党などから選ばれ、陸海軍部の代表と共に内閣を形成していた。内閣の中心としての総理大臣は明治以来の元老、および首相経験者などのいわゆる天皇側近により推薦され天皇が親任するのが伝統の形とされている。

 この国法上の天皇の地位の問題点としては、統治組織全体に係わる国政の総てが天皇の名において行われるにも係わらず、天皇の意思がそこに実質的に反映される形になっていたかどうかということにある。明治憲法に規定された「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」との統治権と統帥権を総覧する天皇の地位の規定と、このようにして選ばれた内閣による「天皇は国務大臣の輔弼により国政を行う」という規定とが共にその機能を果たしていたかどうかが問題となると思う。戦前の2つの天皇制について検討すべき問題はこの点にあり、以下、戦前の歴史をこの2つの規定がうまく働かなくなった過程として捉えることにする。

4、戦前の昭和史に見る制度疲労の原則
 独白録に述べられた戦前の昭和史を分析した際に、そこに流れる法則を一言で述べれば天皇制という制度が「制度疲労」を起こしたということができる。すなわち、制度はそれが制定された直後には、その趣旨や目的に沿ってうまく運用されることが多い。しかし、時代の変化とともに、次第にこれに対応できなくなり、その役割を終えることになる。それゆえ、制度の変革が要請されるのであるが、その制度が過去に果たした役割が大きければ大きいほど、制度を動かしている既得権力層が肥大化し、制度の改革は容易ではなくなる。このような制度についての理解は一般的に受け入れることができるであろう。

 そして、明治憲法に規定された絶対天皇制と立憲君主制の2つの制度も例外ではなかったと考える。これらは「悪しき過去」として批判の対象とされるがそれは一面的な見方といえなくもない。この2つの制度も、制定当初においては、比較的うまく機能して、日本を一流国に導いた側面がある。すなわち、絶対天皇制は忠君愛国と富国強兵の思想を基盤として国民の結束を図り、しかし、その一方において、天皇が専制君主として独裁政治を行なうことを防ぐため明治憲法に「国務大臣の補弼」を明記し、英明な君主と深慮遠望な大臣の組み合せを図った制度として一定の合理性を有したといえる。

 この明治憲法が制定されたのは明治22年であるが、それから約40年後の昭和3年には張作霖爆死事件という不祥事が起きた。この時点で、責任者の厳罰と共に不祥事の再発防止措置をとるため、天皇が絶対君主としての指導力を発揮していれば、後の満州事変は起こらなかったであろう。そして昭和10年代の3大失政(支那事変の長期化、3国同盟、仏印進駐)も防げたかも知れない。しかし、軍部とくにその中枢である関東軍の意向によりこの解決が出来なかったことが後に災いした。明治憲法は天皇の意思により国政が運営されることを天皇制の主眼としているにもかかわらず、独白録の語るところによればその後の昭和史は昭和天皇の意図に反して進んでいる。そしてこの時代以後、国務大臣をはじめ行政、軍事に登場する数多くの人達が国益にてらして的確な判断や、将来を見越した補弼の任に耐える者がいなかったと言うことができる。すなわち、ここではこの制度の根幹をなす「絶対天皇制」と「立憲君主制」の組み合わせがうまく機能しなくなっている。

このように考えると、明治憲法に定めた制度が現実と合わなくなっていたためその制定当時の趣旨に沿って運用されずこのような「制度疲労」の状態に陥ったのである。

5、戦前の天皇制の制度疲労における8つの事例
 ここでは昭和天皇がその独白録に述べられたことを中心としてこの「制度疲労」の問題を取り扱ってみることにする。 最近、終戦後に語られたこの独白録は連合軍対策に書かれたものとの考え方が広がっている。これは進駐軍にあったフェラ−ズ准将が抱いた疑問、「終戦時の決断により戦争を終結できた天皇が、なぜ開戦時にこのような戦争を始めることを阻止出来なかったのか」との疑問に答えるものであったとされている。最近、フェラ−ズ准将宅から発見された英文のもう一つの独白録の存在はこのことを確認するものであった。この英文の独白録は対米戦争開始までの「昭和天皇独白録」の第1部に相当する部分が英訳されたもので、特別な部分を除き内容は完全に同じものとされている。この企画を行った寺崎氏がこのような目的で昭和天皇のこの独白録を編集したことは明らかであろう。昭和天皇としてもこの機会に戦前・戦中のお立場を明確にしておきたいお気持ちがあったことも事実と思う。しかしいずれにしろこの独白録が昭和史を研究する際の重要文書であることには変わりがなく、現在においても色々の教訓を与える記述を含んでいると考える。

 つぎに昭和史の事実と内容を独白録の記載を主たる参考文献とし、後半は叔父、岡本季正の手記「思い出の記」中の記載を引用しつつ時系列的に概括することとする。この叔父の手記は後述のような色々の経緯を経て戦時中にスウェ−デン公使として赴任した後、久しぶりに戦火を逃れて到着したストックホルムにおいて昭和18年6月に起稿され、終戦直前の昭和20年6月3日に記了されている。昭和10年代のの歴史的事件の殆どすべての現場での生き証人としてその語る反省はほぼ正確な判断を伝えているものと思う。

(1)張作霖爆死事件の処理
 独白録ではこの問題について田中義一首相は、最初天皇に対し首謀者を厳罰に処すると約束したが、その後各方面の反対に屈して処分をうやむやの内に葬りたいと述べたので、天皇の叱責を買い辞表を提出する結果となったことが述べられている。この張作霖爆死事件の処理の問題を後から考えると、天皇は田中首相を叱責されるに止まらず、このような事件の再発防止措置を取らせるべきであって、例えば天皇の親任される者を満州に常駐させて、事件の真相が直ちに天皇の耳に達するようにすることが必要な措置であったと思う。独白録における昭和天皇の反省として「この事件があって以来、私は内閣の上奏する所のものは例え自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」というのは逆の判断であって、このような事が二度と起こらぬよう指導することが絶対君主たると立憲君主たるとを問わず責務であった訳である。天皇をしてこのような閉塞した考えに閉じ込めたことが制度疲労の始まりを示すものであったといえる。ここで一つの小さなル−ル違反を見逃したことが、つぎの大きなル−ル違反を引き起こすことにつながってくる。

(2)満州事変と国際連盟脱退
 その後起こった満州事変は張作林爆死事件の延長線上にあるものであった。その発端をなす柳条溝(湖)の爆破事件は満蒙支配が将来国策の上で欠くべからざるものであるという陸軍中枢部とくに関東軍の計画によるものであったが、これについてはこの独白録には何らの記載がない。この柳条溝の爆発事件を聞いて駆けつけた奉天総領事館員に対し、関東軍参謀が統帥権に介入するのかと恫喝したという話はよく知られているが、その後の戦闘拡大、朝鮮軍の越境、満州国の建国など、止まるところを知らぬ陸軍の暴走に対してこれを阻止するという天皇の姿勢はどこにも見当たらない。これは一つには天皇の側近、内閣などの昭和天皇を輔弼すべき天皇統治の上部機関が、その下部機関であるべき軍部、とくにこのような関東軍の主張と経済不況を背景とした一部世論に逆らえなくなった事情を反映しているものと思う。さきに述べた戦前の2つの天皇制において絶対君主制の統治組織の一つとして位置付けられている軍は、独立した意思を持つ行動体として台頭してきており、国務大臣の輔弼により国政を行う天皇の権限がこれに対し機能しなくなってきたことを意味する。ただ一つ、国際連盟脱退に関して天皇は日本の満州における権益を認めている「リットン」報告書を受け入れる積もりであったとの記載があるが、「閣議の意見がこの報告書をはねつけるとの決定をしたので「私は自分の意思を徹することを思い止まった」と述べられている。

(3)二・二六事件
 この二・二六事件の時に昭和天皇が叛軍を討伐せよとの強い態度を取られたことはよく知られており、天皇ご自身も独白録において「この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考えを実行させた」と述べられている。これを終戦の時と同様に昭和天皇の英断とする向きが多いが、それではなぜ昭和天皇はこのような強い態度を示されたのであろうか。この事件の背景には軍部の中での皇道派と統制派の争いがあり、事件を実際に起こしたのは皇道派を支持する若手将校であったとされている。しかしこれらの青年将校は東北農村などの娘を身売りしなければならないような貧困の状況を憂えて決起したと言われている。この事件は絶対天皇制の下部機関の社会革命を目指す日本改造論の右翼、北一輝と、天皇側近を排除してその上部機関の革命を行おうとする皇道派青年将校が結びついたものであった。これは単に軍の派閥抗争に止まらず社会の矛盾や弱者にも目を向けた運動であり、絶対天皇制の基盤を揺るがす社会革命の要素を持つものとして昭和天皇として黙視できない性質を持つものであった。軍の統制派はこのような天皇の強い態度を好機として皇道派の一掃を図り、統制派による軍の意思統一を実現したが、このような天皇制の体制疲労の解決には到底ならなかったといえよう。

(4)支那事変の長期化
 この時代に新体制などの用語が用いられたが、その運動の中心であった近衛首相には国をどこに持ってゆこうとするのかについての長期的な方針もなく、この時代に将来を見越した輔弼の任に耐える者がいなかった具体例を示している。蘆溝橋事件は偶発的な事件とされているが、事件の拡大を抑えることも出来ず優柔不断に長期化の道を歩んでいる。この点は毛沢東がその持久戦論の中で、広大な国土と膨大な人口を有する中国の優位性を論じた見透しの良さと方針の確かさに比較すると対照的な感じがする。独白録ではこの問題について、「その中に事件は上海に飛火した。近衛は不拡大方針を主張していたが、私は上海に飛火した以上拡大防止は困難と思った。当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であった」と述べられている。

 この上海の状況については当時上海総領事であった叔父の上述の手記の中に次のような記載がある。「昭和12年3月末、議会に政府委員として出席中に、堀内外務次官から突然上海総領事を引き受けてくれぬかとの交渉を受け、自分は単身5月5日に東京を出発5月8日に上海に乗り込んだ。しかして思い掛けなく日支事変に遭遇し、7月7日には蘆溝橋事件が勃発し何とかして戦禍が上海に波及せぬようにと苦心努力したのであったが、8月13日には上海の日本軍および日本居留民は数万の支那軍に全く包囲せられ、それから3ケ月間爆撃を受けた。この間にあって自分としては真に命懸けの活動をしたのである」。その後上海周辺への陸軍部隊のいわゆる敵前上陸により戦闘が上海から遠のき日本軍が上海租界を制圧するようになると、租界を我が物顔にする陸軍や虎の威を借る民間人に悩まされることになったとのこの手記の記載もある。軍事的には逃げ後れた上海地区の支那地方軍閥の雑軍を大量に捕虜としこれを処置し、また12月初旬には首都南京に突入していわゆる南京事件を引き起こすことになる。政治的に見ればこの時が潮時で、南京陥落・戦勝の提灯行列などせずに、この時点で停戦と占領地の撤退など和平の主導権を取るべきであった。その後の事態のすべての進行を陸軍の横暴に起因させる意見が多いが、このような状況においてで政府が明確な国の処理方針を打ち出せなかったことにこの時代の制度疲労の現象が現れている。

(5)三国同盟と松岡外交
 この問題については当時英国大使館参事官であった叔父の手記に次のように記載されている。昭和13年6月に大使館参事官として赴任した当時の英国大使は吉田茂氏であったが間もなく重光大使に交代された。昭和14年9月に英独開戦となりロンドンも猛爆撃を受ける状況になったが、「昭和15年6月にフランスが降伏すると日本ではこの戦争はドイッが直ぐに勝つものと速断して、態度なり考えが全然一変してしまった。このことたるや実に軽率極まることで、まさに千載の遺憾事である。自分は日本における形勢が心配でたまらぬので重光大使を補佐して日本はこの際決して軽挙妄動すべからず、英帝国が今にも崩壊過程にあるように考えるのは大なる間違いである。日本は交戦国の一方に与して自縄自縛し、抜き差しならぬように立場を決めてしまうのは不必要であるのみならず危険である。真の外交は最も確実な道を選んであぶなげなく進むにあり、一か八かのギャンブルをなすべからずとの意見をさかんに申し送ったのであるが、軍部全盛の日本においては親英論者、反枢軸派が何を言うかくらいに取られて全然かえりみられなかった。−−−昭和15年7月米内内閣が軍部の陰謀で倒れ近衛内閣が成立して松岡洋右が外部大臣に就任すると、先ず国民をアッと言わせる人気取り政策として外務省の頭株を全部辞職させるという挙に出た。自分もその血祭りにあげられて8月22日帰朝命令に接した」。その後、世に言う松岡旋風の結果として外務省を強制的に退官させられて、約1年間の浪人生活を余儀なくされる経過が語られている。この松岡旋風は現在から考えると随分乱暴な施策であったと思うが、その処置の不当性について戦後も余り問題にされていない。これはこの時代、松岡旋風を因循姑息な外交官によい薬であるなどと評して付和雷同した無責任なジャ−ナリズムが戦後、時代に便乗した戦前の言論をほうかぶりして責任を取らなかったよい例であると考える。

 独白録では昭和天皇はこの松岡個人を評して「吉田善吾は松岡にだまされたのである。日独同盟を結んでも米国は立たぬというのが松岡の肚である」。さらに後の方では「松岡はヒトラ−に買収されたのではないかと思われる」などの記述があるが、問題の三国同盟については天皇は疑念を持たれつつも強いて反対せず結局賛成されたことが記述されている。しかし米国はこれにより日本を懐柔するよりも、ナチスドイッと共にこれを敵とする判断となったということで、三国同盟は日本が破滅に向かう決定打としての意義は大きい。ここではその道を用意した強引な松岡、大島、白鳥という三人に引き回されたということになる。

(6)南仏印進駐と米国の対日資産凍結
 ここでも叔父の上記手記「思い出の記」を参照したい。この手記は、太平洋戦争の開戦直前に重光大使らの斡旋によりシンガポ−ル総領事として再び外務省に復帰した叔父が、昭和16年12月8日の開戦により連合国に抑留され外交官交換によりインドで釈放されて後、現地で風土病に掛かり九死に一生を得てスウェ−デン公使として赴任したという経緯を経て、先に述べたように昭和18年6月に起稿されたもので、生まれて以来の自分の辿った道についての思い出と反省を含めて書き残した形の手記となっている。

 この主題の問題についてはその太平洋戦争開始の最初の項には次のように記載されている。「元来米英は何とかして日本をドイッに結び付けないようにと極力苦心努力してきたのであるが、この望みは日独伊三国同盟の成立に依って無惨に破り去られたのである。米国はこれによっって日本を敵として戦争に入ることはもはや不可避であるとして覚悟を決めたのである。−−ところが昭和16年7月日本軍部が図にのってさらに仏領印度支那の進駐を断行したことに依って遂に最後の土壇場まで自ら形勢を持って行ってしまった。斯くすれば斯くなることは、いやしくも外交の常識を有する者には火をみるよりも明白な事柄である。米国はこれに対応して直ちに凍結令を出し、対日経済断交の手段に出た」。そしてこの結果は重大で石油は一滴も米国から入ってこないので所謂ジリ貧の状態となり日米交渉を纏めようとしても時期遅く、米国は凍結令により日本の足下を見透してしまい交渉をできるだけ引っ張って日本を屈伏させようということになった事情が述べられている。独白録ではこのわが国の南仏印進駐が米国の対日資産凍結を招くことの予想がなされなかったことについて、大本営政府連絡会議の連絡の悪さと情報の欠如が反省されており、天皇は「今から考えるとこの仕組みは欠陥があった」と述べられている。

(7)太平洋戦争開始
 ここでもこの叔父の手記の記載を引用する。「つくづく考えてみると支那事変といい、日独伊三国同盟といい、仏印進駐といい、近衛公ほど次々に取り返しのつかない大失策を犯した出来の悪い総理大臣はない。日本を今日の窮地に陥れたものは勿論日本の一大欠陥であるところの軍部の専横行き過ぎに原因することは万人の認めるところであろうが、いやしくも一国の総理大臣たるものが身を殺してこれを阻止することが出来ず、−−−−、国は文字通り焦土と化し、一億国民は塗炭の苦しみをなめつつある惨憺たる状況を見るとき、実に上御一人に対し奉りまた一億国民に対し何と詫びても切腹をしても申し訳が立たないであろうと思うのである」。遠くスウェ−デンにおいて故国の惨状を聞き開戦までの経緯を振り返りみての感慨であったと思われる。この太平洋戦争開始時の状況はそれ迄の無理が祟っての結果で、わが国が次第に追い詰められて行く状況にあり、個人の力で打開できる問題ではなかったと思う。独白録ではこの問題について、「実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いという考えが決定的になったのは自然の勢いと云はねばならぬ、若しあの時、私が主戦論を抑えたらば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈伏すると云うので、国内の与論は必ず沸騰し、ク−デタが起つたであろう。実に難しい時であった。その内にハルの所謂最后通牒が来たので、外交的にも最后の段階に立至った訳である」と述べられている。独白録を裏で企画したといわれる寺崎氏らの意図も、恐らくこの点を強調したかったのではなかろうか。

(8)終戦
 終戦時の独白録中の天皇のご反省の問題ついては筆者のさきの小文に纏めた。そこでの叔父の8月12日付けの電信については、戦後に書かれた叔父の簡単な私記に「ここで戦争を終結しないと大変なことになる、軍部はこのドタン場にあってもなお本土作戦などという成算のない強がりをいっておるが、本当に本土作戦になり、九十九里および相模湾から敵が上陸したら、それこそ大変である」として、この電信を勇をこして打電したと記載されている。この電信の意味するところを簡潔に言えば、「連合国は天皇制を暗黙の内に認めているのであるが、それは天皇の国家統治の大権というような形でなく、より民主的(人民主権説に基づく立憲君主的)な天皇制でなければならない」ということであったと思う。この電信は欧州および英国王室を訪問されたことのある昭和天皇にとってよく理解できる内容を含んでいたと小生は考える。またこの点が国際的に見た場合の戦前の天皇制の最大の欠陥であり、終戦を迎えて昭和天皇が理解されなければならない天皇制存続に関する問題点であった訳である。

 この電信に引用されている英国タイムズ紙の天皇制に関する論説についてその訳文を巻末に掲げることにする。この論説に示されたような相手国に対する知識と見識を、仮にわが国のジャ−ナリズムが持ち合わせていたならば太平洋戦争は起こらなかったであろうといえると思う。スウェ−デン公使時代に書かれたこの手記において昭和10年代の開戦までの経緯について反省を行った叔父が、このタイムズ紙の論説を読んでその後のわが国の進むべき姿についての示唆を得たものということができよう。以上、独白録に記載された戦前の数々の事件に対する昭和天皇のご反省を叔父の手記中の記載を交えて述べた。終戦を間に隔てて僅か1年余りの時期に書かれたこれらの文献を読んで強く感じるのは、”真なるものは古びることはない”ということであり、これらの戦前の歴史についての反省の記録こそ後世に伝えるべき貴重な遺産と考える。そして今後の若い人達に期待することとして、”時代を越えた知識と見識を持て”ということをここで特に強調したい。

6、現代に対する教訓について
 歴史は事実の単なる記述でなく、そこに潜む本質を明らかにして将来の教訓にするにある。昭和天皇自身の独白録はこの点において、現代の状況においても貴重な資料となると考える。すなわち、天皇大権と立憲君主という2つの立場を規定した明治憲法が、なぜ昭和初期になってあのような制度疲労の状況に陥ったかを分析し現代の教訓とすることにある。その制度疲労の状況や特徴、原因と結果、周囲状況と改革の困難な要因などについて分析することが必要であろう。

 結論的に言えば天皇制の2つの立場は次第に国内的・国際的な状況に適合しなくなっており、いずれは根本的な改正を必要とする問題であったが、敗戦により解消されたのは不幸であったと言えよう。天皇制の欠陥であった絶対天皇制の種々の問題が、終戦後に連合軍の指令により陸海軍の解体、特高警察と内務省の廃止、教育制度の改革、財閥解体、農地解放などの施策で解決され、絶対天皇制の下部機構は完全に解体した。これら戦後の日本民主化の改革を主導したのは米占領軍内の所謂ニュ−ディ−ル左派的な進歩的な考えを持つ将校達であったと言われている。冷戦の開始により占領政策は大幅に修正された結果わが国の社会改革は中断し、米国は日本を同盟国として育成するためその経済復興援助に力を入れる方向に転換した。

 その後の対米講和条約の締結と55年体制の下でわが国は経済成長と所得倍増の旗印の下に経済発展を行ってきた。この時代に主役を演じたのは生き残った財閥系を含む新興の企業群であり、また大蔵省や通産省などの戦後の主力官庁であった。戦後50年、冷戦の終結と国際経済の環境変化の現在の状況において社会・経済制度の根本的な変革が期待されている。このような状況の下において昭和天皇独白録に語られた昭和史の過程は、今後の教訓として多くの示唆を与えるものではなかろうか。

参考文献
1945年8月11日付け英国TIMES紙論説の和訳
JAPAN IN THE TOILS(苦悩する日本)
 昨日の午後をまわって間もなく、日本政府はスイスとスウェ−デン両国政府に対して連合四ケ国にポッダムの最後通告の条文を「この条文がいかなる意味においても主権を保持する統治者としての天皇の大権の制約を求めるものではないとの了解の下に受諾する用意がある」旨を伝達するように求めた。この受諾も付帯条件も同様に重要な意味をもっている。日本の支配者たちに明らかなことは、自国が連合国の条件通りに降伏するか、さもなければ同国に加えられている恐るべき力で最終的に破壊されるかの二者択一を迫られていることである。

 日本の支配層は文民と軍人とを問わず、彼らが明治の始め以来追求してきたもの全てを断念せざるをえないことを自覚している。半世紀に亘り冷静に計算された努力と、歴史に例を見ない国家的集中力により、また権力とナチに匹敵する規模の武力とテロ行為により得たものが水泡に帰した。八紘一宇を目指した国家目標実現の見通しはいまや消滅しようとしている。同時にこの目的実現のための努力が二重の損失をもたらした。いまやそれらを断念しなければならないだけでなく、そのような努力を行ったこと自体が世界中を警戒させることになったのである。聖戦の希望の果てに、その海外帝国は降伏せざるを得ない。日本の神聖な国土は占領され、民主的条項も認めなければならない。世界支配のために注意深く形成されてきた国民経済も、日本の神聖な目的を理解しないわけの分からぬ連中の命令により無力化され歪められるのを認めなければならない状況にある。

 それでも、これだけの犠牲が求められる人々にとっても一つの望みが残されている。もしも天皇の統治の大権が守られるのであればいつの日にかは、すべてを再建できるかも知れないのである。天皇は政府に対し直接の支配を行はないにしても、それは機構が回転する軸であり、国民の目からみて最も神聖なものすべてを具体化するものなのである。彼の地位が現在の形のままで「主権を持つ支配者としての大権」を持って存続を許されるかぎり、現在の側近−文民であろうと軍人であろうと−が姿を消したところで、日本が際限のない侵略を追求する上で常に日本人の魂を鍛えてきた天皇の地位と人格とに対する盲目的で狂信的な献身の念を和らげることにはならないであろう。天皇は「神の道」を示している存在であり、彼のため、彼の御真影のためにさえ、死ぬことは平時、戦時を問わず民族として享受しうる最高の栄誉である。もし、民主主義的な政治形態を採用することが必要であるならば、民主的な助言者たちが日本の現在の指導者たちと交代し、天皇の権限が国民に新しい政権を推奨するということになろう。国家的野望達成への努力を再開する機が熟したと判断された場合には、また別の一組の助言者たちが正面に出てくるであろう。彼らについてもまた天皇の権限により権力を与えられ、国民もまた前回同様、彼らを受け入れるであろう。天皇の地位だけが永遠なのであり、国家の枠組みなのである。

 現在日本を支配している指導者たちは、連合国がこの天皇の大権(Imperial
prerogative)の言葉のもつこの独特の意義を理解しており、この無邪気な用語で綴られた留保条件を受け入れるのをためらうかもしれないことに恐らく気づいているであろう。もしもそうであれば、日本の外交当局は日本が「平和」のために支払う用意のある犠牲がいかに大きいかを示すことにより、すくなくとも天皇の地位にともなう権利を限られたものであれ認めて欲しいと簡単に言うべきであったかも知れない。彼らは連合国に対し単に天皇の詔書のみが戦争を終わらせ、そしてすべての日本の軍司令官にそれが最も遠方の地にいようとも、疑いなき従順さで服従を命ずることができることを指摘することできよう。そしてこの理由だけでも天皇の大権の生き残りはだれにとっても注目の的である。さらにかれらは日本本土における日本人の主権の温存がポッダム宣言で明記されており、その主権の形態はそれが日本型のモデルに沿ったものでなければ現実的でないことも主張するであろう。そしてもしもこれらの全ての努力が失敗した場合には、現在の天皇の神的支配の下に、その支配を支えるために日本の国民の全てが命を喜んで捧げるに違いない。

 しかし、たとえ戦争をあと数日続けざるを得ないとしても、連合国としては世界平和に再び脅威になるかも知れないような危険性を慎重な検討なしに受け入れることはできない。この危険性は次のような意味を持つもので、もしも連合国占領軍隊の撤退後に日本の指導者が天皇制の観念に献身的な日本人民をして、古い危険な道に導かないという保証がないということである。もしも天皇が西欧的な立憲君主的な政体になれば、その危険性はすくなくなる。また日本国民に対する民主政治の習慣についての教育が進むにつれて天皇の地位の精神的な側面と制度上の側面を分離することがが可能となろう。

 天皇は将軍時代のように世俗的事項から切り離され、政治の統治行為は国民に概して責任を負う政府に任せることが出来るはずである。。しかし日本における新しい憲法がどのようになるにせよ、日本自身の問題だけでなく世界の平和のために次の点が必要である。この憲法は国民によって作り上げられその意思により承認されなければならず、現在の憲法のように天皇が与えるものであり、時の側近たちの要請により撤回できるものであってはならないということである。

 連合国政府は日本の申し出が発表されて以来緊密に連絡を維持している。そしてこの付帯条件が最も慎重に検討されることは明らかである。日本政府を効果的に支配していくための連合国の計画は十分に出来上がっており、この付帯条件が受け入れられる可能性は十分ある。

 一方、この最初の情報の衝撃と感動は文明世界を駆けめぐり、勝利が目前にあることを感じさせている。日本がまだ降伏したわけではないが、そうなるまで努力を緩めてはならぬ。しかし自由諸国民の努力は実を結びつつあり、クライマックスは近づくきつつある。中国の最初の犠牲的精神を持つ殉教者たち、オランダ人の多くの犠牲、アメリカ、ロシア、および大英帝国の英雄的努力は報われるであろう。
(注:この和訳については筆者の友人である森永和彦氏に深く感謝する)

http://member.nifty.ne.jp/kokamoto/2GENDAIN.html

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