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Re: Ddog氏、是非ご教示くださいませ。天皇教についての質問にはお返事頂けないものでしょうか?
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/937.html
投稿者 Ddog 日時 2003 年 7 月 10 日 01:00:10:ZR5JcjFY1l.PQ

(回答先: Re: Ddog氏、是非ご教示くださいませ。天皇教についての質問にはお返事頂けないものでしょうか? 投稿者 黄泉の国からの御霊の声@M 日時 2003 年 7 月 09 日 14:46:39)

日本教について、まずお読みになった方が良いのは、一躍山本七平を有名にしたベストセラー「日本人とユダヤ人」(イザヤ・ベンダサン、山本七平 訳)角川書店刊 これは必読です。
「日本教徒」(イザヤ・ベンダサン、山本七平 訳)角川書店刊「日本教について」(イザヤ・ベンダサン、山本七平 訳)文芸春秋社刊 などをお読みになってはどうでしょうか?

以下日本教についての幾つかのサイトをご紹介します。

「日本人とユダヤ人」(イザヤ・ベンダサン、山本七平 訳)、書評

ユダヤ人と対比することによって日本人というものを考察している日本人論。著書であるイザヤベンダサン 氏は日本育ちのユダヤ人ということになっており、彼には続編として本書のほかに「日本教について」という著書がある。本書が発表されたのは、1970年代であるのだが、当時、通常の日本人論としては異例のベストセラーになった。(あとがきによれば、平成9年現在、二百十三万二千部の売上であるらしい。)
本書はイザヤベンダサンという一ユダヤ人の視点から見た日本人論という形式を取っているが、この本がベストセラーになった当時は、作者は実際は日本人(訳者である山本七平 氏)なのではないかともいわれたようだ。(実際、その説は濃厚のようだ。)
四季に追われた生活と農業とそこから生まれるなせばなるという哲学。
模範を選び、それを真似ることで生きてきた隣百姓の論理。
大声をあげるほど無視され、沈黙のうちに進んでいく日本人の政治的天才。
法律があっても、必ず拘束されるわけではない、それを超えて存在する日本人の法外の法。
そして、日本人の論理の中心に据えられた「人間」という概念。
そのような日本人の特徴をユダヤ人との対比により鮮やかに考察しながら、本書は、ある一つの重要な結論へと突き進んでいく。
それは日本人は、決して無宗教ではなく、「人間」を中心とした一つの巨大な宗教集団なのだ。という結論である。
日本人は、無宗教である人が多いといわれるが、実際にはそうではない。
自分自身の宗教をそれを意識すらしない程に体に染み込ませているという意味で、日本教は世界中のどこよりも強い、強烈な一つの宗教なのだという彼の論理は、21世紀の今でも、斬新で日本人に対する全く新しい視野を私達に与えてくれる。 
彼の論理で言えば、キリスト教であっても、仏教であっても、それは全て日本教に組み込まれており、日本人はどんなに頑張っても結局、日本教徒でしかありえない。日本人の究極の概念は、神よりもまず人間であり、神を人間に近づける形でしか日本人は神を理解できないという彼の主張は非常に過激ではあるが、しかし非常に面白い。
かつて、遠藤周作 氏が「沈黙」の中で、フェレイラ教父にこんなことを言わせる場面があった。
基督教の神は日本人の心情のなかで、いつか神としての実体を失っていった。
(「沈黙」P191)
彼らが信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで…神の概念は持たなかったし、これからももてないだろう。(「沈黙」P192)
日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超える存在を考える能力も持っていない。(「沈黙」P193)
日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在を持つものを神と呼ぶ。だが、それは教会の神ではない。(「沈黙」P193)
遠藤周作 氏の言うキリスト教の和服化には、この本と通じるものが感じられる。
普段意識しない日本人という枠組みを、本書によって深く考えることが出来るだろう。
日本人とユダヤ人(文庫)
<http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4043207018/asyuracom-22>
文庫
日本人とユダヤ人(全集)
<http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163647309/asyuracom-22>
全集
日本人とユダヤ人(文庫)
<http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4043207018/asyuracom-22>
日本人とユダヤ人 山本七平ライブラリー〈13〉
<http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163647309/asyuracom-22>
↑ご購入は、こちらからどうぞ。
出版社/著者からの内容紹介 日本の歴史と現代の世相についての豊かな学識と深い洞察、新鮮で鋭い問題の提示。砂漠対モンスーン、遊牧対農耕、放浪対定住、一神教対多神教等々、ユニークな視点から展開される卓抜な日本人論。
内容(「BOOK」データベースより) 全員一致の決議は無効―二千年前のユダヤ
人はそう考え、そう実行した。なぜか?全員一致の決議こそ最も有効―日本人は
現在もこの言葉に疑いを抱かない。なぜか?日本人を震撼させた衝撃の書、いま
甦る。c Amazon.co.jp

http://www2.ttcn.ne.jp/~kobuta/bunnka2/b055.htm
山本七平近代において、日本人の行動を「宗教」と捉え、「日本教」として日本人の
行動と思想を、写真のようにあざやかに定着させた思想家は山本七平であろう。

山本七平は1921(大正10)年12月18日東京に生まれる。
青山学院を卒業。昭和17年に徴兵され、フィリピンで敗戦を迎える。昭和33年に山本書店を設立する。出版のかたわら、各種の著作を発表する。山本七平の日本人の研究は、「山本学」
「山本日本学」と呼ばれ、日本ないし日本人研究の最高峰であろう。1991(平成3)年12月10日に永眠する。

山本七平の著作は大きく二種類に分類できる。分かり易く言えば、売れる本と、そうでない本である。文体が変わるワケではないが、そのテーマによって「一般うけ」するモノと、恐ろしく難解なモノがあるのである。その難解さはただごとではない。しかし、何度でも読み返し、咀嚼(そしゃく よく噛み味わうこと)することが必用である。

**

初期作は「イザヤ・ベンダサン著 山本七平訳」と表記されているが、イザヤ・ベンダサンと山本七平は同一人物である。一種のペンネームとも言えるが、外人名は宣伝効果が高かったことも事実である。この点を指摘し批判する向きもあるが、大切な事実を故意に無視している。
東西冷戦が終結し、ソ連共産党が崩壊した現在では考えられないことだが、日本人による日本人論が出せなかったという事実である。敗戦後の日本では日本人批判しか出来なかったのである。「日本人だっていいところがありますよ」なんて書こうモノなら「反省が足りない証拠」だと袋叩き。いや、出版さえできない有様。そんな原稿、ちり紙交換でさえ受け取らない。意見の発表が出来ない状態だったのである。その一方で、欧米人による「日本人論」は、ありがたく拝聴しなければならなかった。負け犬も、負け犬。呆れ果てたことに、外に対しては尻尾(しっぽ)を丸め、内に対しては吠えて噛みつくのであった。強きに媚(こ)び諂(へつら)い、弱きを挫(くじ)くのであった。この外人コンプレックスを逆手に取って、暗黙の圧力を打ち破ったのである。表現の自由を取り戻したのである。もちろん、これは山本七平だけがやったことではなく、多くの人々の尽力があったからできた。これは記録しておかないと忘れられる話であろう。

手元にある山本七平著作の一覧を提示する。全て読んであることが前提とは言わないが、ある程度は読んでほしい。ちなみに、このホームページのタイトルが、「比較文化史の試み」なのは、「比較文化論の試み」に「あやかって」のこと。
  

l 山本七平著作一覧 ■

日本人とは何か。 上 PHP研究所 (山本七平氏の最高傑作です。Ddog)
日本人とは何か。 下 PHP研究所
常識の落とし穴 日本経済新聞社 (常識の非常識の方を読みましたDdog)
民族とは何か 徳間書店
禁忌の聖書学 新潮社
洪思翊(こうしよく)中将の処刑 文芸春秋
あたりまえの研究 ダイヤモンド社
参謀学 日本経済新聞社
指導力 日本経済新聞社
昭和天皇の研究 詳伝社 (天皇擁護論で参考にしましたDdog)
宗教について PHP研究所
徳川家康 プレジデント社 (読みごたえありDdog)
日本型リーダーの条件 講談社文庫
空気の研究 文春文庫 (いわゆるニューマの本ですDdog)
日本的革命の哲学 PHP文庫 (貞永式目の研究にはじまる象徴天皇制は誰が考えたかを研究Ddog)
一九九〇年代の日本 PHP文庫
聖書の常識 講談社文庫
ある異常体験者の偏見 文春文庫(50円で買ったが5000円の価値があったDdog)
聖書の旅 文春文庫
一下級将校の見た帝国陸軍 文春文庫 (Ddog推薦)
存亡の条件 講談社学術文庫
聖書の常識 聖書の真実 講談社+α文庫
比較文化論の試み 講談社学術文庫
勤勉の哲学 日本人を動かす原理 PHP文庫 (Ddog推薦)
帝王学 「貞観政要」の読み方 文春文庫 (Ddog推薦)
派閥の研究 文春文庫 (推薦Ddog)
日本資本主義の精神 光文社文庫 (これも最高傑作だと思います)
私の中の日本軍 上 文春文庫
私の中の日本軍 下 文春文庫
小林秀雄の流儀 新潮文庫
静かなる細き声 PHP研究所
日本人の人生観 講談社学術文庫
日本人の土地神話 日本経済新聞社(頼朝の土地所有からの日本人の土地神話Ddog推薦)
人生について PHP研究所
山本七平ライブラリー11 これからの日本人 文芸春秋
山本七平ライブラリー13 日本人とユダヤ人 文芸春秋

■ 「イザヤベンダサン」名による著作 ■
にっぽんの商人 イザヤ・ベンダサン著 山本七平訳 文春文庫
日本教について イザヤ・ベンダサン著 山本七平訳 文春文庫(必読)
日本教徒 イザヤ・ベンダサン著 山本七平訳 角川文庫(必読)
日本人とユダヤ人 イザヤ・ベンダサン著 山本七平訳 角川文庫(必読)
l 共著・その他 ■

父と息子の往復書簡 山本七平・良樹著 日本経済新聞社
意地悪は死なず 山本夏彦・山本七平共著 中公文庫
夏彦・七平の十八番づくし 山本夏彦・山本七平共著 中公文庫
天皇陛下の経済学 B・A・シロニー 山本七平監訳 光文社文庫(立ち読みなので)

l カセットテープ ■

山本七平の企業家の思想1 論語 PHP研究所
山本七平の企業家の思想2 孟子 PHP研究所

l 山本書店出版物 ■

ルターの根本思想とその限界 高橋三郎著
復刻 死海文書 テキストの翻訳と解説 日本聖書学研究所著
山本家のイエス伝 山本七平・山本れい子・山本良樹共著

紹介書籍このほかに私の本棚に「色即是空の研究」「勤勉の哲学」があり推薦ですDdog
http://www.omura.info/kamikaze/japanese/nipponkyo.html


日本教について

日本人の大多数は自分のことを無宗教だと信じ、また世界の人々もそのように認識していますが、それは大きな間違いです。日本民族は1600年に及ぶ閉鎖的な歴史と空間の中で、独自の思考方法と価値観、常識、文明を作り上げました。その独特の価値観は本質的にはまさに宗教です。このことを最初に見抜いたのは山本七平で、彼はそれを「日本教」と名づけました。私が考えるに、日本教の神様は「世間様」です。その最大の徳義とくぎは「和」であり、最大の罪は「恥」です。天皇は世間様の象徴です。神道(日本教)に聖典が存在しないのは、世間様が神様だからです。神は絶対ですが、世間様は相対的です。したがって日本人の考え方も常に相対的です。日本人が自分の意見を曖昧あいまいにし、相手の意見を確かめた上でようやく自分の意見を述べるのはそのためです。自分の考えや意見が常に相対的である以上、日本人にとって、立場立場たちばたちばで主張を変えることは少しも悪いことではありません。むしろ立場や状況に応じて主張を変えない人間こそ、集団の和を乱す厄介者やっかいものとして、村八分の対象です。日本人はまた、社会の和を保つ手段として世界でも比類のない身分制度(上下関係)を発達させました。およそあらゆる言語の中で、日本語ほど上下関係にこだわる言語は存在しません。日本人はあらゆる人間関係に序列をつけないと気が済まないので、双子の兄弟にまで兄と弟の序列をつけるほどです。日本が鎖国をしたのも世間様を維持し、和を保つためでした。日本人に恥の意識はあっても罪の意識はありません。したがって日本人は世間様の見ているところでは恥を知りますが、世間様の見ていないところでは恥を知りません。このように、日本教は世界に類を見ないユニークな宗教であり、同時にその閉鎖性から独自の文明圏を形成しています。


Ddog これなど読むと、Ddogを攻撃する阿修羅村の皆さんが日本教徒で、Ddogが異端の日本教徒であるとも言えます。

最近http://www.omura.info/j/
文明の衝突フォーラム愛読しています。

http://www.ne.jp/asahi/ts/hp/file1/file1017_religion_of_japan.html
ここで「日本教の特徴とはなにか。」に移りましょう。 
1体系的宗教ではありません。(文字化されていない)
キリスト教の聖書、イスラム教のコーランなどようなの絶対契約文書がないた
め,正確な定義ができない
(仏教の経典は絶対契約文書ではなく,単に悟りを開くためのノウハウ集であ
る。従って日本教と仏教に似たような一面があるとはいえる)

2絶対的超越者(神など)を想定しない水平的宗教である。
日本教は徹底的に「人間的」な宗教であって,ここにキリスト教や仏教を表面的にとりこめる秘密があります。
人間同士の力関係と感情の関係によって、話し合われたことがその場その場の「絶対」となり,その証人として八百万の神様でもお釈迦さまでもひっぱりだされます。
それらは,しょせん便宜上の存在であって、「役にたちそう」ならなんでもいいのです。
キリスト教,イスラム教などの一神教は、個人別の垂直的構造をとっていて「自分個人が契約した神」が絶対なのであって,それ以外のものは『無価値』です。
だから同じ文書によって同じ契約を結んだ同一教徒の間では,人間同士の約束も信用できますが,異教徒は一切信用できない存在となります。
(ちなみに戦前の天皇絶対の尊王思想は、江戸時代に幕府が導入した朱子学が変
形したもので,日本の思想の中では異常な一時期だったといえます)
この特徴によって,日本教徒は『成文宗教』にたいして敬意を持つことはありません。
日本人が他の宗教に対して時に侮蔑的態度をとるのは当然に発生する現象なのです。
同時に異教徒からは,契約による拘束の通用しない「狡猾で信用のおけない。最後には必ず裏切る民族」として評価されるのもムリはありません。
日本人自身の主観では日本教に従って,誠心誠意・全力をつくしてまごころあふれた行動をとっているとしてもです。
 

3組織原理が,共同体原理である。そして、秩序は敬語で保たれる。
 
ここまでで解説したように,日本教にはもともと神聖文章との契約――つまり「成文憲法」といった発想はありません。
契約という考えも,神による自由という発想もありません。
 
一神教では契約による「組織化」がおこなわれますが,日本ではこの方法がとれません。
 
日本人は組織を作る場合,縄文弥生から続く「村社会」と同じ「擬似家族共同体」以外の原理を思いついていないのです。
したがって,会社にも「全人格的」参加が求められてしまうのです。
(それが自分の全世界だとして。)
 
日本の社会で、秩序を保つには相手との力関係によって極めて複雑に変化する「敬語」が発達しました。
 
これは「敬語」しか相手との関係をはっきりさせて、秩序を維持する方法がな
いからなのです。(言葉は正しく使いましょう。日本人ならね。)
ちなみに欧米でいう「組織」とは,血縁,地縁,階級,共同体から離れて,契約によって機能を遂行するための集団」というのが定義です。
従って,「組織」は断じて家族やコミュニティなどの共同体ではなく,むしろ対立,反対する概念です。
契約以外には,血も涙もありませんからレイオフに躊躇があるはずないので
す。(日本で会社からリストラされると、生きるの、死ぬの、はては生きがいが
どうのといった事態になるのは極めて興味深い現象です)
 

4 血縁主義がない,家族制度に原則がない,能力主義である
 
http://theology.doshisha.ac.jp:8008/kkohara/reportdb.nsf/0/f7dc538d33747
dfb49256cdc0069bce2?OpenDocument
2002年度、 組織神学演習16 ・・・執筆者:OK

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今、日本の行く末を想う

はじめに
21世紀に突入して、人類は今までに経験のない多国籍、多文化交流を行っている。事実それまでの歴史の中でこれほどまでに世界各国が世界政治に影響を及ぼす例はない。その中で日本の今後の歩みはどうなっていくのか、また国内外も不安材料の多い日本は一体何をすべきなのだろう。その懸念が今回のレポートを書く一つの要因となったことは言うまでもない。
「文明の衝突」
20世紀のおわりにサミュエル・ハンティントンという学者が『文明の衝突』という著書を出版した。当時、これはセンセイションを巻き起こすことになる。その冒頭で、ハンティントンは、イデオロギーの決定的な相違によって分たれた冷戦、そしてそのこう着構造以後、21世紀の国際世界をイデオロギーの類分ではなく、文明を9つに類分することによって今後の世界を見つめている。西欧文明、東方正教会文明、中国文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明、仏教文明、そして、日本文明がそれである。この文明区分には、様々な意見や異議があるにしろ、これは世界を見る上で一つの目安となることは大いにあるだろう。また、その著書で、 ヘンリー・キッシンジャーが論じたところを「21世紀の国際システムは・・・少なくとも6つの大国 - アメリカ、ヨーロッパ、中国、日本、ロシア、そしておそらくはインドーが含まれることになる」と引用し、「キッシンジャーがあげた6つの大国はそれぞれ異質な5つの文明に属し、それを主導している。」 1と述べている。つまり、21世紀の国際政治は異なる文明が独自の主体性を主張しながら、世界の均衡を保つと言うことである。またその文明はおおよその場合一つの国家からなるものではなく、いくつもの国家が形成しているということも重要な視点である。そうなると、「 国家は文化的に似ている他国からもたらされる脅威よりも、文化的に異なる国によってもたらされる脅威のほうを強く意識しがち」であるから、「共通の文化をもつ国家は、互いに理解しあい、信頼しあう傾向」 2が出来ても不思議ではない。そうなってくるならば、文明を一国で成している非常に稀な国「日本」は文明的に孤立してしまうのではないだろうか。
では、ハンティントンがイデオロギーではく、あえて複雑類分するすべをとった文明とは一体何であろうか。それは、「文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的要素と、人々の主観的な自己認識の両方である」 3とハンティントンは述べている。そして、そういった中で、もっとも重要とされる要素として「宗教」が挙げられているのである。
「宗教の衝突」
その文明を宗教重視でみていった場合、21世紀、時代が進むにつれて世界は3つのブロックに類別されると見られる。北アメリカ大陸に位置するアメリカとヨーロッパ諸国を一つにまとめた価値観と歴史をもつキリスト教文明、そして、今最も成長し、特に若者の信者を増やし続けている攻撃的かつ積極的で結束の堅いイスラム文明、そして急激な経済的成長を見せる中国を核とする中華文明である4 。そして幾人かの国際政治学者の中には「イスラム文明と中国を核とする儒教文明が連合し、儒教・イスラム文明連合が結成する」と推測する人もいる。そうなった場合、「西欧キリスト教文明」と「儒教・イスラム文明連合」の対立となり、世界はまたもや大きく分裂することになる。この構図をイスラム対キリスト教とみた場合、両者は一神教であり、互いの排他的性質のため大小は別に衝突は免れないだろう。そう言った宗教によって緊迫した国 際社会情勢で多神教国家であると言われる日本は、どう一神教の価値観を理解し、互いの理解を深めて、国際政治に責任を果たせるのだろうか。
「日本人の宗教観」
大きな枠で見ると日本という国は「多神教国家」だといわれることが多い。しかし、その実情は人口の「全体の七割が『無宗教だ』と答えて」いて、その多神教であるという事実さえ、日本では認知されていない。これは、世界において見ても非常に特異なことである。しかし、もっと注目すべき点はその「七割の75%が『宗教心は大切だ』」 5と答えている点だ。その矛盾は人口が1億3千万人のこの国に宗教人口2億人という不思議な現象を生んでいる。また、日本人はよく「曖昧だ」とも言われることが多い。それは日本人の民族性だと言えるかもしれない。もし、仮に「民族性」であるとするならば、これは大いにその特殊な「宗教性」とも関わりが出てくるに違いないのだ。もし、仮に日本人の宗教観が世界的に見て稀で特殊なものであるのならば、日本が今後宗教的分類によって分裂する国際社会において「孤立」してしまうのではないかという懸念を生む。
その日本人独特の民族を見つめるために日本人が独特に持つ「常識」という概念を挙げてみたいと思う。ここで挙げる「常識」とは、「日本に住んでいる人なら誰でも知っていて、また言わずに出来て当たり前」というものである。そして、日本に住んでいたら当然知っていなければならないもので、日本に住んでいる八百万の神々にさえ適応しているのが、日本から一歩出てしまうならば、多くの場合通用しないことが往々にしてあるのではないか。この常識という観点で日本人の民族性に目を止めたのが阿部謹也である。阿部はその著作で、「西欧の学問から移入された社会と個人という枠組みとは別に伝統的に生きられている『世間』、『世の中』、というものが日本人の行動を強く規制していて、それを知ることなしに、日本と日本人は理解できない」 6と言っている。これは、二つのことを示唆しているのではないだろうか。一神教によって形成された個人主義をしっかりともつ西欧文明と日本の多神教、もしくは日本人はお互いを理解することが出来ないという点と、日本人は「世間」、「世の中」という概念に縛られているという点である。前者の点も後々大切に関わってくるのだが、後者に対して、阿部は「このような世間は排他的であり、敢えていえば差別的ですらある」7と厳しく主張するのである。この排他性は、一神教の持つ「法意識」にあるような厳格な宗教的戒律のようにも思える。しかし、この考えはルース・ベネディクトの「日本文化は恥の文化である」という命題に反する。ベネディクトは、その著書で「真の罪悪が内面的な罪の自覚に基づいて善行をなすのに対して、真の恥辱文化は外面的強制力に基づいて善行を行う」 8と分析している通り、日本文化が「恥」という他者がいて始めて善い行動が出来るのであれば、内的規範よって自我を抑制する「法」を持つ一神教をやはり理解できないし、国際社会を分断し、世界をリードしていくと予測される一神教から見て、それは理解不能であり、脅威となるだろう。この「恥」も「世間」の中にしっかり存在する「常識」から外れた場合によく起こる感情の波である。ここでも、分かるように日本人の宗教観は「世間」や「常識」という宗教的規範や範疇の中に顕著に現れるといえるのではないだろうか。
この日本人独特の宗教的規範である「常識」のことをイザヤ・ベンダサンこと
山本七平は「法外の法」という言葉で説明し、「日本独特のもので外国にはない
から、外国の会社などと契約を結ぶ場合、法律の専門家ですら、えてして大きな
失敗をするわけである。戦 後のこういった失敗例を列挙すれば、一冊の本とな
ろう」 9と日本の宗教観の「特殊性」をいいあてようとしている。事実、日本
のような近代国家は法治国家であり、法が人間より上に置かれるべきなのにも関
わらず、この「法外の法」とは日本人にだけ例外的にはたらく「常識」という特
異的でかつ排他的な宗教法なのではないだろう(「このどこにでも出てくる
ジョーカーのような『人間』という言葉の意味する内容すなわち定義が、日本人
の最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律のように棄
却されてしまうのである」 10 )。この「法外の法」の根本原理は日本人が使う
「人間」または「人間性」である。山本七平は日本人の宗教を「日本教」と呼
び、その中心にいるのは神ではなく「人間」としたのである。 11
以上挙げてきたように、日本人の宗教観は世界の一神教を主体として見た場合非常に「特殊」だといえよう。ここで注意して考えねばならない問題は、この日本人の持つ独特の民族性、そして宗教観は、日本という大地に、そして文化に儒教、仏教、そしてキリスト教など日本の外からきたいわゆる「外来宗教」が、日本に来てから「日本の元々の宗教」と混ざり合いながら、出来ていったものなのか、それとも、外来宗教の影響を強く受けることなく、古来、日本人の宗教観の伝統をしっかり守ってきた結果として今も我々日本人に色ごく残るものなのか、そして尚その「特殊性」は日本以外には決して例を見ることのないものなのかを検証しなければ、「日本人の特殊性」を簡単にいうことは難しいことだろう。 

「まとめにかえて」
今まで、世界の文明と日本、そして世界をリードする宗教と日本の宗教などと日本を超える大きな視点で相対的に分析をしたつもりだが、多くの点でまだ不明虜な箇所がたくさん見受けられる。しかし、世界は各国の経済格差や、価値観の相違、また、民族の違いなどで、どうしても摩擦を生んでしまう。その中で、宗教的存在である人間が国家を形成している以上、自らの国のアイデンティティを問うことは当然のことで、存在の根底を懸けた相違は時に大きな混乱と衝突を生む。その衝突が一神教同士のものであるのなら、事態は深刻である。互いは自らの「排他性」を振りかざしたとき、日本をはじめとする多神教国家はどうするべきなのであろうか。もし、仮に日本の「特殊性」が証明されるのであれば、日本は世界において孤立してしまう。仮に「栄光ある孤立」をしたとしても、日本はその「特殊性」を行使し、どれほどの国際社会に対しての貢献ができるのであろうか。「栄光ある孤立」を成して尚、日本が特殊性を固辞し、世界に何か責任を果たすことができるとしたら、日本はある形の「普遍性」を手に入れることが必須条件になるだろう。特殊性が「特殊」を認めるには己の「特殊性」を知らねばならない。そして、それは「普遍性」を知ることなしにあり得ないからだ。「普遍性」にもいくつかの種類があるが、一神教のもつある種の「普遍性」を知りえるならば、日本は今後の国際社会において何らかの有効な役割を担うことが出来る可能性があるはずだ。その為には、日本は今自分のことで「曖昧」になっている部分を知らねばならない。たった一つの国からなる自国の文明を、そしてそれを形作る宗教を明確に知らねばならない。そう思うのである。そうする為には、相対的に他の宗教を見、体験し、経験することは非常に大切なことであると思う。
ここでは、一方的に日本のことを書いているが、決して日本にだけ責任があるわけではない。世界に存在する大まかに二つの巨大一神教は、それぞれの「普遍性」を語るが、もし、そこに「真の普遍性」が存在するのであれば、世界は一つになりえないだろうか。それが、今のように分裂と衝突を繰り返しているのは、どちら側にも責任があると言わざるをえないのではないかという問題点も浮上する。問題は山積みである。問題は山積みではあるが、世界のこと、そして日本もその世界を構成している未だ影響力のある国であることを自覚し、今我々の世代が取り組むべき問題ではないのかと感じるのである。 願わくは、「行く末」を考え、不安に駆られるより、「行く先(方向性)」、を皆で具体的に、そして積極的に思案できるものにしていけたら、幸いだと思う。

あとがき
なお、今発表は自国の文化や文明、そして宗教を扱うといった非常に難しいものであった。これからの世界をリードするであろう、主な宗教と日本の独自の宗教性との比較をなし、日本のその宗教性にある問題点を浮き彫りに、またそこから日本が変わらなければならないところ、変わってはならないところなどを述べたかったのであるが、過去多くの比較宗教学者が誤ってきた「キリスト教優位を証明する為の宗教学」になっていたのではないかと心配している。それは発表者が個人的宗教観の域を出られずに陥った問題であった。またこれに多くの有効な意見を情熱をもって語ってくれた争友にも感謝し、彼等の意見や自分の至らぬ部分を今後の研究にいかしたいと思う。


1サミュエル・ハンチントン『文明の衝突と21世紀の日本』 24?25頁
2同書22頁
3同書23頁
4同書26頁
5阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』 8頁
6船曳建夫『日本人論「再考」』 55頁
7阿部謹也『「世間」とは何か』 18頁
8ルース・ベネディクト『菊と刀 下』 101頁
9イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』 108頁
10同書109頁
11同書99?154頁


参考文献
サミュエル・ハンティントン『文明の衝突』 集英社 1998年
サミュエル・ハンチントン/鈴木主税『文明の衝突と21世紀の日本』 集英社
2000年
阿満利麿 『日本人はなぜ無宗教なのか』 筑摩書房 1996年
島田裕巳 『日本人の神はどこにいるのか』 筑摩書房 2002年
船曳建夫 『日本人論「再考」』 NHK人間講座 2002年
阿部勤也 『「世間」とは何か』 講談社 1995年
デイヴィッド・リード/松本滋/鈴木範久/ヤン・スィンゲドー 
『菊と刀と十字架と』 日本基督教団出版局 1976年
イザヤ・ベンダサン 『日本人とユダヤ人』 角川書店 1971年
イザヤ・ベンダサン 『日本教について』 文藝春秋 1972年
和辻哲郎 『風土』 岩波書店 1979年
中根千枝 『「タテ」社会の社会学』 講談社
ルース・ベネディクト/長谷川松治訳 『菊と刀 下』 現代教養文庫 1951年
遠藤周作 『沈黙』 新潮社 1981年
司馬遼太郎 『この国のかたち一』 文春文庫 1993年
アラン・マクファーレン/船曳建夫監訳 『イギリスと日本』 新曜社 2001年
ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて』 岩波書店 2000年
森孝一 『宗教からよむ「アメリカ」』 講談社 1996年
松本明ら編 『国語辞典 第九版』 旺文社 1998年
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小原克博On-Line <http://kohara.doshisha.ac.jp/>

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