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日本教について--1
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/938.html
投稿者 Ddog 日時 2003 年 7 月 10 日 01:10:21:ZR5JcjFY1l.PQ

(回答先: Re:御主の天皇投稿は全部読んでみた。 投稿者 標準的天皇教へ@M 日時 2003 年 7 月 09 日 21:47:19)


5月以降のを読んでいただいたのですか、有り難うございます。私もよくよく読むとろくな日本教について、日本教の事について投稿していません。転載ですが、参考になればと思います。
自分は日本教の信者でも少々異端者のようでもあります。
日本教の研究は、まだまだ自分は小僧段階であることを思い知らされます。ご指摘のようにま
だまだ自分の日本教理解度認識は確かに甘いですね。Ddog

以下転載
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/9388/nppon.htm
これは抜粋したものです。

『日本教について---あるユダヤ人への手紙---』

  イザヤ・ベンダサン Isaiah BenDasan 著 山本七平訳 文藝春秋 1972年刊

◆◇ 言葉の踏絵と条理の世界 ◇◆

 日本人がいかに理解しにくい民族であるか。理解したと思い込んだとき、実はそれが誤解にすぎない場合でも、それを誤解だと証明することすら不可能に近い、という事実をまず指摘したいと思います。

 日本人が「私は自由主義者だ」「私はマルクス主義者だ」「私はクリスチャン
だ」と自称しても、それらはすべて、[中略]日本教を表現するための方法にす
ぎないと考えております。

 戦後の日本人がアメリカ型民主主義の言葉で日本教を語っているからといっ
て、彼らを民主主義者と考えることは誤りです。

 日本人の質問とは、自分にわからないことを相手にきいているのではないので
す。「言葉の踏絵」を差し出しているのです。これは国会の討論であれ、新聞記
者のインタビューであれ同じであって、質問者はさまざまの「言葉の踏絵」を次
から次へと差し出して、相手が踏むか踏まないかをテストしているのです。

 この踏絵という方式は、一宗教団体が異端者を排除するために用いる方法で
あって、そこには正統と異端しかないというのが前提です。

 日本人は日本教徒ですから、日本教徒としての前提でことを判断するわけです
が、日本人は、この前提を意識しておりません。[中略]一応これを「無意識の
前提」としておきます。[中略]従って、やってしまって、その結果を見てはじ
めて、自分の前提の当否が検討できるわけです。[中略]すなわち何を前提とし
て踏絵を差し出しているのか、三百年前の日本人も、現代の日本人も全く意識し
ていないのです。しかし、日本人が意識しようとしまいと、踏絵を差し出すから
には、差し出す基礎となる教義があるはずです。わたしが日本教と呼ぶのは、こ
の教義を支えている宗教です。

 さてこの「条理」という日本語ですが、[中略]「論理ではないが、なにかそ
れに似た順序で、結論を追って行く方法」という意味であることは理解していた
だけると思います。

 さて、日本語には論理はありません。日本語とは「ロゴス(論理)なきロゴス
(言葉)」です。[中略]論理がありませんから、厳密な意味の叙述はありませ
ん。すなわち、ある状態がある状態であることをそのまま叙述することは不可能
で、その状態を誰かに説明するという形にならざるを得ないのです。

 従って、日本人が何かを論証しようとする場合、すべてが相手を説得するとい
う形になります。[中略]議論といっても相手を論理的に破綻さすことではあり
ません。[中略]これは、ある教理を援用した説得術が、論理のかわりに使われ
ているということです。

 「条理をつくして諄々と説いている人」の「論理的破綻」を指摘しますと、そ
の人も、また周囲の人も非常に怒って「『理屈』ばかり言って人の真意を理解し
ない」といいます。この「理屈」という言葉は、時には理論(セオリー)の意味
に使われ、時には口実(プレテクスト)の意味に使われます。すなわち理屈=理
論(セオリー)とは、教理に従わないための口実(プレテクスト)なのでありま
す。

 日本人は怒りっぽいとか、議論をするとすぐ感情的になるとか、冷静に論じあ
うことができないとかいったことは、世界的な定評かと思いますが、[中略]日
本教の教義(ドグマ)を基にして logical sequenece (論理的続唱すなわち条
理)で諄々と説いているのを、相手が論理に基づいて何かを論証しようとしてい
るのだと誤解して反論すれば、その人が怒るのは当然といえましょう。

 日本教にはもちろん神父がいます。この神父の一人に『日本人を考える』の著
者森恭三氏があります。氏の条理がどんなものであるかは、いずれ解説したいと
思いますが、ここでは簡単に私の結論だけを申し上げましょう。

・ 日本人には、人間(という概念)があり、これから万人共通(と日本人が考
える)の一つの基本的な教義を引き出し、その教義に基づいて相手を説得するわ
けで、何かを論証するのではない。また相手がその教義を認めていないかも知れ
ぬ、などどいうことは、全く考慮さえしえないほど、この教義が固く人びとに信
仰され、捧持されていること。従って前述の「踏絵」の場合も同じで、踏絵を踏
む際、その理由は、それぞれ別の教義に基づくとは思っていない。

・ 日本語そのものが、いわば日本教の宗教用語であって、その基礎は教義で
あって論理でないこと。従って、この教義を離れると日本語は全く意味をなさな
い言葉になってしまうので「(教義を援用して)条理を尽くして諄々と説く」以
外に、言葉を使う方法がない。

 以上の二つは、明らかなことと私は考えます。私が日本教と申しますのは、こ
の教義を支えている一つの宗教です。

 

◆◇ 実体語と空体語のバランス ◇◆

 日本人は狡猾であるという印象をもつ外国人は少なくありません。[中略]も
ちろん、狡猾さが皆無の個人も民族も現実には存在しないと思いますが、日本人
が特にそう見えるのは、日本人が日本人独特の、不思議な世界に住んでいるから
です。

 これは非常に面白い一種の論理(とは言えませんが、ほかに言いようがありま
せん)で形成されている世界で、簡単な実例をあげますと、「安保は必要だ。だ
がしかし、安保反対を叫びうる状態も必要だ」という一種の「考え方の型」と
いったものです。もう一つ例をあげれば「自衛隊は必要だ。だがしかし、自衛隊
は憲法違反と言える状態も必要だ」となります。この「考え方の型」は、単に、
以上のような大きな政治問題ばだけでなく、小団体の問題から個人の日常の些事
まで、すべてに共通する「考え方の型」、いわば基本的な型です。

 日本という世界は、一種の天秤の世界(もしくは竿秤の世界)と考えていま
す。そしてこれの支店となっているのが「人間」という概念で、天秤(もしくは
竿秤)の皿の方にあるのが「実体語で組み立てられた世界」で、分銅になってい
る方が「空体語で組み立てられた」もう一つの世界です。

 この「空体語」を無意味、無内容の言葉(これはどの国の言葉にもあります)
と誤解されませんように----いうまでもなく、分銅も確かに一種の実体ですが、
たとえ質量があり、かつ手で触れることができても実は一種の尺度であって、尺
度に過ぎないという意味では実体ではありません。しかしそれでいて、天秤を水
平に保つにはどうしても必要であり、天秤皿のうえの実体と同じだけの重さがな
ければ、分銅になりません。問題はここです。「自衛隊は必要である」という
「実体語」は口にせず、「自衛隊は憲法違反であるといえる状態も必要である」
という分銅の方を尺度として口にし、それによって天秤の平衡を保つことは、た
とえ口にしなくても自衛隊の存在を認めてはじめて言える言葉ですから、「実体
語」でいえば、「自衛隊は必要だ」ということです。だがそれを「空体語」で言
わないと、天秤は平衡を保てなくなってしまいます。

 この「実体語」と「空体語」の関係を、日本人はよく、西欧の「思想」と「現
実」の関係と混同します。いや混同ではなく同じことだと思い込んでいるようで
す。[中略]言うまでもなく西欧では、原則として、「現実」という言葉で規定
されているものを自分が現在立っているスタートラインとすれば、「理想」はそ
のゴールを規定した言葉であります。従って議論は常に、言葉によって現実をど
う規定するか、また言葉によって理想をどう規定するか、まずこの二つを規定し
てから、この「言葉によって規定された現実」から同じく「言葉によって規定さ
れた理想」までをつなぐ道を、また言葉によって規定し、それをどう歩むかを
「方法論という言葉」で規定するという形になります。

 この場合、「現実」という言葉も、「理想」という言葉も、ともに同じく言葉
であることは、議論をする場合の当然の前提ですが、日本人の場合は、この前提
がすでに違うのです。[中略]ここではただ、この差は「具体的」「抽象的」と
いった差とは全く別のものであり、そこで私が「実体語」と「空体語=分銅」と
いう奇妙な比喩を使わざるを得なくなった理由であると申し上げるに止めます。


 分銅はたとえ、天秤皿の上のものと同じ材質でできていても、「もの」でなく
「尺度」であり、分銅の材質が何であるかを論じても無意味で、要はそれが、天
秤皿の上のものと、どうバランスをとっているかが問題だということです。

 「現実問題」という「実体語」の荷が天秤皿にのると、平衡を保つためには、
天秤ならば分銅の数を増し竿秤ならば分銅の位置をずらして目盛りの高いほうへ
あげて行かねばなりません。こういう状況は、常に、日本全体の問題にも、一個
人の問題にも起こります。

 例をあげれば、文字通り、いくらでもあります。今から一世紀ほど前、日本が
鎖国をやめて開港せざるを得ない状態になったと、ほとんどすべての日本人(少
なくとも知識人)が内心で感じたとき、激烈な攘夷論が起こりました。[中略]
従って「実体語=開港」は沈黙し、さらに、開港が必要になればなるほど攘夷の
声は高くなってゆき、ついに、天秤の分銅は最大限、竿秤なら竿の端まで分銅が
あがって行きます。そして、その結果はどうなるか。天秤ならば平衡が破れて一
回転し、天秤皿の上の荷も分銅も落ちてしまう----御一新で、皿は空、分銅なし
の平衡状態となります。従って攘夷論じゃが政権をとったのに開港したというこ
とは別に不思議ではありません、同じことをただ「空体語」で言っていたのです
から。これは革命と呼ぶべきことではありません。

 実によく似たことが、第二次大戦の末期に起っています。すなわち敗戦は避け
られないとほとんどすべての人が内心で感じたとき、分銅は極限まであがって
「一億玉砕」になり、ついで天秤は一回転して重荷も分銅も落ちてしまうと、天
秤皿は空で、分銅なしの虚脱状態、すなわち精神的空白の平衡が再現し、当然、
言葉は失われます。そしていずれの場合も支点は微動もしていません。将来も同
じことが起きるでしょう。

 この天秤の支点が実は「人間」という概念であり、それが私のいう日本教にお
いて「全能者的役割」を演じていることは、[中略]ある程度は理解していただ
けると思います。そこで、この支点を解明することが日本教を解明することです
[略]。

 [王陽明が「庭の竹」というモノに至ろうとして全力あげて努力し、とうとう
ノイローゼになって断念したことを例をあげて]このように中国人は、「対物関
係」においてノイローゼになりうる民族ですが、一方日本人は「対人関係」すな
わち日本人のいう意味の「人間関係」では絶えずノイローゼになっても、「対物
関係」においてノイローゼになるなどということは、空想すらできな不思議な民
族です。ソクラテス以前のギリシアの哲学者たちの努力は、文字通り「無意味な
詭弁」として一笑に付され、彼らが言葉によって「物に至ろう」と努力したこと
などは、夢想だにしません。

 

◆◇ 『檄文』の論理 ◇◆

 私が、[略]「氏[三島由紀夫]のあやまりは、このような状態は戦後の日本
のみのことであって、むかしはそうでなかったと考えたことでした」とのべまし
たのは、[氏の『檄文』の]冒頭の主張と、この結論です。

 すなわち「国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その
場しのぎの偽善に陥り、自ら魂の空白状態に落ち込んでゆく」「日本を日本の真
姿に戻して、そこで死ぬのだ」「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。こ
れを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか……われわれ
は至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあ
まり、この挙に出たのである」とのべたそのことです。

 実は、そういう「真姿」は、「天秤の世界」には実在しないのです。[中略]
従って氏が、「体をぶつけて死ぬ」と言った相手は実は「憲法」そのものでな
く、この憲法への日本人の態度に象徴される「日本教」そのもの、すなわち「天
秤の世界」であったはずです。

 氏が『檄文』で何をのべようと(氏が切腹しなければ)日本人はこの『檄文』
の言葉を「空体語」に組み入れてしまい、人間という支点を使って「実体語」と
バランスをとり「なるほど三島氏のいうことは論理的で筋が通っている。まさに
その通りだが、しかし『人間』を忘れてはいけない」という意味のことをいい、
同時に「なるほど三島氏はそういうであろう、だが彼も『人間』だから、彼(と
いう『人間』)を支点として、この『実体語』の世界を、彼なりの『空体語』で
言っているだけだ」と考え、それで終りにしてしまいます。事実、彼が切腹する
その瞬間まで、すべての日本人は彼の言葉をそのように扱い、従って、彼が何を
言おうと大して気にかけていませんでした。[中略]

 そして彼が、「人間」という支点を無視して(「生命尊重以上の価値の存在を
見せてやる」)、分銅をいきなり天秤に移し、その論理を物差のように使って
「実体語」の世界を規定しようとしたことは、日本教徒にとっては、「気が狂っ
た」としか思えないわけであり、同時にこの分銅の移動という考えられぬ行為
は、当然、天秤の支店を壊し、これは、いわば彼という「人間=支点」の首を斬
り飛ばしただけでなく、全日本教徒の信仰の対象である「人間=支点という概
念」の首も折りそうになりました。

 これがいかに大きなショックであるか。日本人は少なくとも徳川時代から全員
が無神論者ですが、「無人間論者=無支点論者」が存在するなどとは、夢にも考
えられない民族ですから、当然のショックです。従ってこのショックが逆に、日
本教を強く浮かび上がらせる結果にもなりました。すなわち、断固として日本教
徒の立場に立った司馬遼太郎氏の反論(乃至は批判)がそれです。

 『毎日新聞』に掲載された司馬遼太郎氏の『異常な三島事件に接して』という
一文は、逆に、この事件によって触発されて、日本教徒の本心、すなわちその
「考え方の型」を思わず率直に語ってしまったという点で、実に貴重な一文であ
ると思います。[中略]

 事件が起ったのが、十一月二十五日、この一文が掲載されたのが二十六日の朝
刊ですから、おそらく非常に短時間に一気呵成に書き上げられらものでしょう。
従って短い前文が終ると、いきなり「日本教」の核心ともいうべき言葉が来ま
す。

 ・ 思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきであ
る。思想は思想自体として存在し、思想自体として高度の論理的結晶化を遂げる
ところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とはかかわり
がないところに繰りかえしていう思想の栄光がある。ところが、思想は現実と結
合すべきだというふしぎな考え方がつねにあり、特に政治思想においてそれが濃
厚であり(と氏は書いていますが、私はむしろ、日本では、「政治においてそれ
が露呈する」と考えます)、たとえば吉田松陰がそれであった。

 と、ここでプラトンを思い出すのは、おそらく私だけではありますまい。彼の
記すソクラテスは、司馬[遼太郎]氏とは全く逆で、ロゴス(言葉=論理=思
想)は現実と結合しなければ無意味だと次のようにはっきりと断言しているので
す。

 私(ソクラテス)としては、今に始まったことではなく常に、私に関する限
り、私には最良と思われる思考の結果であるロゴス(言葉=思想)以外には、絶
対に従わないという人間である。今まで口にしてきたロゴスを、私の運命がこう
なってしまったからといって、今、捨て去ることはできない。いや、それ(ロゴ
ス)はほぼ同じだと私には思えるし、以前同様それをうやまい、尊んでいる。
今、われわれが語るべきより良きものを持たないならば、知れ! 私はあなたに
従わないことを。

 ……………

 正しいと同意したことは、実行すべきか破棄すべきか……実行すべきだ。
(『クリトン』)

 以上のプラトンの言葉を頭において、司馬遼太郎氏の次の言葉をおききくださ
い。

 ・ 松陰は日本人がもった思想家のなかで、もっとも純度の高い人物であろ
う。松陰は「知行一致」という、中国人が書斎で考えた考え方(朱子学・陽明
学)を、日本ふうに純粋にうけとり、自分の思想を現実世界のものにしようとい
う、たとえば神のみがかろうじてできる大作業をやろうとした。虚構を現実化し
ようとする方法はただひとつしかない。狂気を発することであり、狂気を触媒と
する以外にない。要するに大狂気を発して、本来天にあるべきものを現実という
大地にたたきつけるばかりか、大地を天に変化させようとする作業をした。当然
この狂気のあげくのはてには死があり、松陰のばあいには刑死があった。

 さて刑死という言葉がでてきますと、当然ソクラテスが連想されます。[中
略]彼(ソクラテス)の場合は「思想が現実と結合すべきだ」と考えない人間が
いたら、その人間こそ「狂気を触媒として」思想という名の妄想を抱いているに
すぎないことになるでしょう。[中略]彼ソクラテスの場合は「思想」のみが
「現実」ですから、現実の「彼」は言うまでもなく「彼の言葉」です。

 これは西欧人にとっては自明のことであり、従ってソクラテスが、生きるも死
ぬも、自分のロゴス(言葉=論理=思想)で自分と自分の世界を律しているのも
また当然で、ここに狂気が入る余地があるはずがありません。言うまでもないこ
とですが、「言葉」が「人」である世界、「言葉」が「人間」を律しうる世界に
は、論理的狂人が存在するはずがありません。では一体なぜ、日本教徒には論理
的狂人が存在しうるのでしょう。司馬氏の次の言葉がそれを問いてくれます。

 ・ かれ(松陰)ほど思想家として結晶度の高い人でさえ、自殺によって自分
の思想を完結しようとは思っていなかった。さらに松陰の門下から多くの思想的
奔走家や政治的奔走家を出したが、かれらの一、二をのぞいては死そおうと現実
が別物であることを知っており、現実分析による現実的行動によって歴史を変革
することをなしとげた。というより変革期にきている歴史的現実を、現実的にと
らえ得た。

 この言葉を理解するには、もう一度「天秤」を頭に浮かべていただかねばなり
ません。支点である人間という概念は、「言葉」では規定できないというのがこ
の考え方の大前提なのです。これは日本人にとっては当然であって、支点は、天
秤皿の上のものすなわち「実体語の世界」からも、分銅すなわち「空体語の世
界」からも、ある一定の距離を保っていなければ支点になりません。人間は言葉
では規定できない(もちろん実体語でも空体語でも)、従って、「人間は言葉に
あらず」「言葉で規定しようとしたとき人間は人間でなくなってしまう」(=支
点ではなくなってしまうから人間ではなくなる)というのが、実に、日本教の根
本的な教義の一つ、すなわち教義の第一条というべきものです。

 従って松陰の門下は(・・を除いて)、「本来、大虚構である」「思想という
もの」を、はっきりと「空体語の世界=分銅」として扱い、この思想と「実体語
の世界=現実とが別個のものであることを知って」、人間という支点を媒介とし
て、「現実分析による現実的行動」により両者のバランスを保つことによって、
松陰の「思想」を「現実面」に生かして、「歴史を変革した」ということになり
ます。これが日本教徒の正常(ノーマル)な行き方です。ということは論理は人
間(という支点)で中断され、これが直接に現実を律することはあり得ないのが
正常なのであって、これを無視する者が「論理的狂人」です。従って人間という
支点で論理を中断する者が「非論理的正常人」となるわけです。従って司馬氏は
結論として次のようにのべております。

 ・ いずれにせよ、新聞に報ぜられるところでは、われわれ大衆は自衛隊員を
ふくめて、極めて健康であることに、われわれみずから感謝したい。三島氏の演
説を聞いていた現場自衛隊員は、三島氏に憤慨してヤジをとばし、楯の会の人を
こづきまわそうとしたといったように、この密室の政治論は大衆の政治感覚の前
にはみごとに無力であった。このことはさまざまの不満がわれわれにあるとはい
え、日本社会の健康さと堅牢さをみごとにあらわすものであろう。 

 このように強固な「天秤の世界」にいる日本教徒が三島氏に同調することは、
ありえないことです[略]。三島氏は生前、司馬氏に極力触れまいとしていたよ
うです。私の知る限りでは「司馬氏の史観は好まない」といった意味の短い言葉
があるだけです。

 ここで司馬氏に、ソクラテス流の質問をしてみたいと思います。氏に向かって
「『思想は思想自体として存在し……現実とはなんの関わりもない』というあな
たの思想もまた思想なのだから、それはあなたの『頭脳』という『密室』の中で
構成された『大虚構』なのではないか。何を根拠にあなたは自分のこの思想は
『現実』で『大虚構』ではないと主張するのか。もしそう主張しないといわれる
なら、あなたも新聞にただ新しい別の『虚構』を発表されただけということにな
る。もしそうならあなたの一文は全く無意味になるではないか」と。

 ソクラテスは、自分大家族、子供、友人のこと、すなわち「現実」を考えろと
いわれたとき、相手のこの言葉を「現実という名」の一つの「思想」として受け
とり、この「現実という思想」を自己の思想と突き合わせて、いっしょに考えよ
う、そして正しい方を選択しようといいます。そしてその場合、自分の思想も相
手がいう「現実という思想」も、世間一般の人びとが言う「思想というもの」も
すべて同一水準へおき、これは「思想」だ、これは「現実」だといったわけ方は
しておりません。

 以上がソクラテスが考える場合の前提ですから、『檄文』も「司馬反論」も同
一平面において共に思想として扱うべきだと考えて上記の質問をしたのだ、とい
えば、おそらく司馬氏は、私の問いにもソクラテスの言葉にも、微笑を浮かべて
何も答えないでしょう。理由は、[略]司馬氏がのべているのは、反論を許され
ない日本教の教義であり、私の問いは、その教義に従わないための理屈になって
しまうからです。教義ですから、もはや論証の世界ではありません。

 では、日本人を律しているものは何か? 一言にして言えば「人間という支点
の位置」とこの支点が立っている台です。[中略]まず位置から考えてみましょ
う。

 天秤が平衡を保つには、二つの要素が必要です。一つは天秤皿の上のものと分
銅との関係であり、もう一つは支点の位置です。支点が天秤皿すなわち「実体
語」のすぐ近くに寄っていれば、ほんのわずかの「空体語=分銅」で天秤は平衡
を保ちますが、もしこれが逆になり、支点が「空体語=分銅}の方へぐっと寄っ
ていれば、ほんのわずかの「実体語」と平衡を保つために、驚くほど膨大な「空
体語=運動」が必要になります。私が申し上げているのは、この位置のことで
す。もちろん支点が動くのではなく、天秤の竿(横棒)が左右に動いて支点を変
えるとお考えください。

 この支点の位置は、実は、絶えず左右に移動しているのです。日本人全体を見
た場合、時代によってこの位置が変りますし、個々の日本人を見た場合、一人一
人で、各々この位置がはじめからちがいます。また一個人の生涯を見た場合、年
齢により境遇により、この位置が変化していきます。そして、「人間は支点で
あって言葉では規定できない」というのが日本教の教義の第一条なら、「人間の
価値はこの支点の位置によって決まる」というのが日本教の教義の第二条ともい
うべきものです。

 この第二条は、日本教の非常に重要な教義であって、これに疑いを差しはさむ
日本人は皆無だと断言してよいと思います。日本人は「人間」を「純粋な人間」
と「純粋でない人間」とに分けます。もっともこのように大きく二分している考
えては誤りで、この「純粋」という考え方は、やや、金属の精練度(もしくは純
度)に似たものとお考えください。

 この純度表が何によってきまるかといえば、前述の支点の位置で決まるので
す。すなわち支点が「空体語の世界=分銅」に近づけば近づくだけその人は「純
粋な人」です。従って、純粋の人とは非常にわずかの「実体語の世界」と平衡を
保つために、実に大きな「空体語の世界=分銅」が必要です。一方「純粋でない
人」は、支点の位置が「実体語の世界」に非常に近接しているので、ほんのわず
かの「空体語=分銅」で、膨大な天秤皿の上のもの、すなわち「実体語の世界」
と平衡がとれるわけです。

 この「支点の位置」は倫理以前の人間判別の基本的基準として日本教徒の日々
の生活を律しているのみならず、戦前戦後を通じて、実に、法廷における判決を
すら左右しています。また日本全体を一つの天秤と考えるなら、その政策をすら
決定しているのです。

 

◆◇ 神は空名なれど…… ◇◆

 次の一文をお読みくだされば、「空体語」ということばが果たして私の新造語
なのか否か、また何に基づき、どういう内容の言葉を指すのか、またなぜ私が日
本教は宗教であると言いつつ一方では日本人は[少なくとも徳川時代以来だれも
が]無神論者であると断言したのか、おわかりになることと存じます。

 実を申しますと、「空体語」は私の新造語とは言えません。これは一八二二年
に鎌田柳泓(かまたりゅうおう)という人が書いた『心学奥の桟(かけはし)』
という本からヒントを得た言葉で、この本では「空名」となっております。[中
略]まずその一節を意訳してみましょう。[中略]この『心学奥の桟』は民衆教
化の書ですから、語義の厳密な規定はそれほど問題でないはずで、従って私は、
教育なき民衆の一人としてそれを聞き、その言葉を受け、受けたままを意訳して
も、大過なきものと考えてよいと思います。

 がんらい神は、本質的には「空名(名ばかり・原注通り)であるが、その名が
あることはすなわちその「理」があることで、その「応」はまたむなしくない。
そうであるから、これらの「神」や「仏」(一応神と同義とお考えください)は
ただ「空名」だけだけれども、すでにその名があるということは、それなりの
「理」があるのであって、従ってその「応」は、ないといってはならない。

 どうお考えですか? 意味が通じますか? もちろん通じないと思います。
[中略]これが「空体語」というものなのですから。

 確かにこの文章は、論理的に意味が通りません。[中略]「その名は空名にす
ぎないのだから『理』(存在理由(レゾン・デートル))があるはずはなく、
従って『理』(リーズン)もあるはずがない。故に『応』(レスポンス)がある
と考えるのは誤りである」となるのが当然です。

 第一、「神は空名なり」という言葉を口にした瞬間、ヨーロッパ人なら強い一
種の緊迫感があります。「名は実体」の世界ではこの言葉自体が一種の対決で
す。

 「日本人は全員が無神論者である」が、「日本教は宗教でありうる」のは、一
言にしていえば、日本教では「人間は被造物」でなく「神が被造物」であり、か
つ「空名」だからです。そこで必要に応じていつでも「神という空名」を創出で
きます。

 「われらは無神論者なれば、われらにとって神な空名なり、されど空名として
の理あり、理あれば応あり、従ってその応は認め評価する」という一種の信仰告
白だといえば、驚くのは彼ら自身でしょう。日本教徒のこの信仰への挑戦ほど難
しいものはありません。日本人は私のこの言葉すらすぐに「空体語」に組み入
れ、人間を支点としてバランスをとり、私の言うことも一理ある、従って人間と
いう支点を媒介として応がある、というでしょうから。

 日本人が絶対に排除している言葉があるのに気づきます。[中略]何かを排除
するということは、それと絶対に相いれぬ主教もしくは宗教的思想があるわけ
で、従って、排除されたものを探究していけば、逆に、日本教が浮き彫りにされ
てくるはずです。「インカーネーション」は、この点で、非常に興味ある言葉で
す。

 日本の英和辞典はこの語を「化肉、受肉、顕現、権化」と訳していますが、
[中略]驚いたことに日本語の辞典(漢和辞典)には「化肉」も「受肉」もあり
ません。[中略]

 これは当然であって、「言葉が化して肉となる」とか「言葉が肉を受ける」と
かいった考え方は、日本教とは全く相いれないからです。人間は「支点」であっ
て、言葉の範囲外にあるのですから、言葉を受けるのはどちら側かの天秤皿で
あって、人間ではありません。従ってキリスト教徒とは分銅に十字の刻印がある
人、ということになるでしょう。

 ある席で若い日本人カトリック教徒が非常に謙虚な態度で「私は六日間ただ忙
しく働いており、七日目に教会に来てはじめて信徒であると自覚するような信仰
の浅い者ですから、こういう席で何かを発言する資格があるとは思いませんが…
…」と言ったので、彼[ある神父]は思わず大声で「今のは主に対する裏切りの
言葉」と言ってしまったそうです。ところが言われた日本人も周囲の日本人も、
この神父の発言にむしろ怒りを感じたらしく、「彼が自分の状態を主の前に正直
に告白しているのがなぜ裏切りですか」と抗議されたので、また思わず、「これ
以上、傲慢な言葉はない」と言ってしまったそうです。[中略]彼が大声を出し
たのは、もちろん、一見、外交辞令にすぎないこの日本人カトリック教徒の言葉
が、実は、非常に明白な「言葉への拒否」であることを知ったからです。

 申すまでもなく、カトリックは「神の言葉を受けた肉」を信徒と考えるわけで
(逆に言えばその言葉が肉をまとっているのが信徒)、その言葉は普遍(カト
リック)の真理であるから、まとう肉体が白であれ黒であれ黄であれ、すべて普
遍(カトリック)な信徒である、という立場をとるわけですから、前述の日本人
カトリック教徒の言葉は、この教義への恐るべき挑戦と受けとられ、カトリック
教徒といいながらこういう挑戦をすることは裏切りであり、同時にこれにまさる
傲慢はない、と言ったわけです。だが、だれ一人この神父の言葉を理解しなかっ
たわけです。

 無理もありません。前述の日本人カトリック教徒が言った言葉は、「私の『空
体語=分銅』はカトリックの言葉ですが、平生は、私(人間=支点)がぐっと実
体語の方に寄っているので、『空体語=カトリックの教義=分銅』は非常に小さ
く、あるかなしかの状態でバランスをとっております。しかし日曜日には私(人
間=支点)がぐっとカトリックの教義(空体語=分銅)の方へ寄るので、その分
だけ分銅の方を大きくしてバランスとっている人間です。こういう状態では『純
粋』ではありませんから、発言の資格はないと思いますが……」という意味で
あって、彼はあくまでも言葉を分銅として天秤皿にうけ、支点を移動させるのが
当然のことと考えていたのです。

 一方神父は、カトリック教徒という以上、その言葉をまとった肉なのだから、
職場にいようと教会にいようとカトリック教徒であって、それ以外のものであり
うるはずがなく、以上のような言葉が出てくること自体、裏切りとしか言いよう
がなかったわけです。しかし、前述のような言葉を口にする日本人は、非常に立
派な日本教徒であることは日本人も異論がないので、周囲の日本人は[神父の反
応に対して逆に]怒りを感じたわけです。

 以上で「空体語」とは何かがおわかりいただけたと思います。「神は空名であ
るが、名があるからその『理』がある、したがってその『応』もないといっては
ならない」はそのまま「空体語」の定義になります。同時にこれは、日本教の第
三条にもなります。

 日本人が宗教的に寛容だというのは誤りです。確かに分銅の刻印はあまり問題
にしません。しかし、この第三条を認めないもの(それは天秤を認めないもので
すが)は、徹底的に排除していしまいます。

 しかもその時は、「非日本教徒]として排除されるのでなく、「非人間的]と
して、すなわち人間でないものとして排除されるのです。そしてその排除は実に
徹底しておりますが、一方、日本教の教義に従い、「天秤の論理」で純粋と認め
られたものは、もっとも卑劣な殺人者でさえ、裁判所すら、無実に等しい判決を
下さざるを得なくなるのです。

 

◆◇ 五・一五事件と純粋人間 ◇◆

 日本の新聞・雑誌を見ていますと、繰り返し繰り返し、実に執拗なまでに絶え
ず強調されている言葉があります。それは「まず、人間であれ」という主張で
す。「教師である前に人間であれ」、「政治家である前に人間であれ」、[中
略]「あの人はクリスチャンとしては立派だが、人間としては尊敬できない」と
いういい方もあり、さらに「父親である前に人間であれ」という言葉までありま
す。

 この「人間であれ」とは何を主張しているのでしょう。一言にしていえば、
「まず、日本教徒であれ」ということで、いい換えれば「日本教の教義(人間規
定)に忠実であれ」ということなのです。こういう主張は、いずれの場合であ
れ、宗教的ドグマの一方的主張であって理論ではありません[略]。

 日本のアパートの台所で犬や蛇を裂いて料理をしている現場を発見されれば、
必ず追い出されます。[中略]日本人は「日本教には日本人の食物規定があり、
それに違反しているから居住を許すことができない」とは考えずに、「蛇や犬!
 そんなものは人間の食べるもんじゃない」といいます。[中略]この場合の人
間とは日本教徒の意味であって、「蛇や犬は(日本教の食物規定に触れるから)
日本教徒の食べるべきものではない」という意味です。したがって、[中略]日
本人が「人間を尊重せよ」といっても、これをヒューマニズムの意味にとっては
いけません。従って「人間を尊重せよ」と叫びつつ、人間に暴行を加えることも
できるわけです。この場合[略]の「人間」とは日本教の教義の人間規定の意味
ですから。

 日本人は、ものごころのつくころから、食物規定から思考の型に至るまで「わ
れわれ人間(=日本教徒。この場合も『私』ではない)はいかにあるべきか」に
ついて一貫した徹底した教育をごく自然に受けており、前述のように新聞・雑誌
等もまた常にこれを強調し続けています。

 大部分の日本人は実質的には外国人と接することなく、または多少接しても、
日常生活を共にする隣人として、外国人に立ち混じって生涯共に生活することは
ありません[略]。そして自分たちの「考え方の型」が日本語と日本教の教義と
いう実に強力な枠にはめこまれていて、この枠から出て「自由」にかんがえるこ
とは不可能に近いことだなどとは、夢に

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