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新感染症の時代 京都大学教授・山極寿一さんに聞く:エボラ出血熱で人間とゴリラが大量死:森林伐採と密猟が進むアフリカ [SENKI7月5日号]
http://www.asyura.com/0306/health5/msg/216.html
投稿者 あっしら 日時 2003 年 7 月 01 日 21:33:17:


 今、世界中でSARSが猛威をふるっている。昨年12月、アフリカのコンゴ民主共和国でもエボラ出血熱により100人以上が死亡し、ゴリラが大量死した。1978年からコンゴ民主共和国東部のカフジ・ビエガ国立公園でゴリラの野外研究を行っている京都大学・山極寿一教授にそれにまつわる話を聞いた。


ヒトと類人猿に感染するエボラウィルス

――今年に入って、世界中でSARSが猛威をふるいましたが。

★SARSの病原体は新種のウィルスだと言われています。まだ特定されてませんが、何らかの野生動物を自然宿主としたウィルスの一種が人間に感染したと推測されています。免疫ができていないヒトからヒトへと感染し、致死性が高いことが特徴です。
 同じような現象が、実は去年の12月、アフリカのコンゴ共和国で発生しました。エボラで100人以上が死亡し、ゴリラが大量死したのです。エボラもウィルスによる出血熱で、致死率50〜90%と非常に恐ろしい感染症のひとつです。罹るのは人間とゴリラやチンパンジーなどの類人猿で、すでに免疫が出来ているサルには発症しません。ウィルスはDNAの構成を危険でないレベルにまで変化させることで、宿主と共生関係を作りだすことができる。インフルエンザがそうです。害を及ぼす段階から、ほとんど害を及ぼさない段階にすすめば、急速に人間はウィルスに慣れてしまうわけです。
 ところがエボラウィルスは、人間と類人猿にはまだ慣れていません。エボラ出血熱が大量発生したコンゴ共和国の北西部は森林帯で、ゴリラが高密度に住んでいる地域です。おそらくサルなどのエボラウィルスに慣れた野生動物からゴリラに感染し、そのゴリラに接触した人間が感染したのでしょう。中央アフリカでは、チンパンジーやゴリラが獣肉として商取り引きされています。都会に運ばれ市場で売られるため、都会でも何人かが感染しました。大量発生した地域は以前からゴリラを飼い慣らし、エコツーリズムによる村おこしを計画していたところです。そのゴリラが全滅し、人間にも被害が及んだことから壊滅的な打撃を受けたと聞きます。
 WHOの調査官が感染状況を調べるため現地入りしようとしましたが、住民の猛反撥にあい、うまくいきませんでした。エボラ出血熱の発生は今回が初めてではなく、これまでにも何度も発生しています。そのたびに、感染を防ぐという理由で村が封鎖されてきた。ところが地元の人たちは、エボラ出血熱がはたして動物からもたらされたものかどうかはよくわからないという。これまで自分たちはそれほど大きな被害に遭ってこなかったのに、急激に被害が拡大したのはなぜか。実は外部から人間によってウィルスが持ち込まれたのではないかと疑っているわけです。しかも強制的に人的交流がストップさせられるのでたまらないという気持ちがある。村の封鎖でこれまでの生活様式や文化を変えなくてはならないため、強い反撥が起きたのです。


「悪」「害」を根絶するという思想

――SARSでは一気に感染経路が拡大しましたが。

★コンゴ共和国のエボラ出血熱も事態は同じです。これまで感染が小範囲に妨げられていたものが、生活習慣の変化によって急速に広がっていきます。一番顕著なのは、森林伐採などによる人の移動と野生動物の捕獲が盛んになったことでしょう。たとえばゴリラやチンパンジーなどの獣肉は、もともと地元だけで食されていたものです。運悪くエボラ出血熱に人が感染して死んだとしても、その地域の特殊な出来事でおさまっていた。ところが人がどんどん移動し、ゴリラやチンパンジーが商取り引きされるなかで、「特殊」が「一般的」なことになってしまった。これは非常に問題です。
 その場合、生活習慣を改めるのか、あるいは感染源自体をなくすのかが問題になります。私たちサル学者がいつも肝に銘じているのは、人間と野生動物との間には非常に長い歴史があるということです。「食べる」「食べない」も含め、様々な生活文化がそこで作られてきた。たとえば日本人は昔から鯨を食べ、鯨のあらゆる部位をさまざまな用途に用いてきた。鯨と日本人というのは、「食」を通じて切っても切れない縁がある。同じように、ゴリラやチンパンジーとアフリカ諸国の人たちにおいても、食を含めたつき合いを通じて独自の文化が熟成されてきた。それらを無視して、「病気」という理由で一切を絶とうとするのは、彼らの文化を滅ぼすことになりかねません。
 ジャコウネコ科のハクビシンがSARSの感染原因だと指摘されるやいなや、ハクビシンを食べている中国人を非難したり、ハクビシンそのものを撲滅しようと呼びかける人がいます。しかしハクビシン自体が悪いわけではなく、ハクビシンを食べる習慣が悪いわけでもない。むしろ見直さなければならないのは、人と動植物の移動が短時間で広域に行われる現代社会の特質の方でしょう。そのなかで、人や動植物が「悪いもの」「良いもの」という形で差別化され、チェックされていく。病気が人にうつると、病気をうつしたその人が悪いと言われてしまう。
 このように「善」「悪」二元論で分断するのは大変危険です。過激な意見ですが、これは現代のアメリカ的な考え方ともいえる。「悪い考え」や「危険な武器」をもった人々はすべて抹殺すべし、という思想です。「悪い考え」を持つ「テロリスト」は、マイナスのレッテルを貼って撲滅しても構わない。アメリカによるアフガンやイラク攻撃などはまさにその一例です。

――ゴリラもかつては「悪の象徴」でしたね。

★今述べたような考えは、歴史のなかに繰り返し現れてきます。たとえば19世紀の欧米に一般的だった動物や植民地の人間への見方もそうです。1861年、ポール・ドゥシャーユというアメリカ人の探検家が『赤道アフリカの探検と冒険』と題した本を著し、「ゴリラは悪魔のように残忍だ」と描写しました。暗黒大陸に潜み、闘い好きで、人間の女をさらい、人を殺すことが大好きなとんでもない動物だと。ダーウィン進化論が世に出たばかりの欧米では、人類は他の動物より進化した存在であり、良い心と能力をもつことによって世界を支配できると人々は思いこみたがっていたのです。そこでゴリラを「悪の象徴」に、植民地の人間を遅れた人類に分類した。
 飛躍するようですが、エボラ出血熱やSARSでも同じ問題が孕まれています。ウィルスの感染源である動物を抹殺しないととんでもないことになる。「悪」を駆逐しなければ、人間は滅亡するというメッセージがそこには含まれています。しかし、はたしてそうなのか。
 古来、人間は自然と向き合いながら生きてきましたが、「害」と名前の付けられる生き物なんてそもそもいません。すべては関係の取り結び方によって変わるからです。農薬で「害虫」とされる虫を根絶しにしようとしても、今度はそれに抵抗性をもった虫が現れてくる。結局イタチごっこをなくすには関係を変える以外ない。虫の繁殖サイクルや作物を植え付ける時期をちょっと変えてやるだけで、その虫は作物の上で繁殖することができなくなる。そうすれば「害虫」とされる虫を根絶することなしに作物を守ることができるわけです。
 ハクビシンという、悪いウィルスをもっている個体を全滅させれば病気がなくなるという考えは、要するにマラリア蚊をなくすには蚊を絶滅させればいいというのと一緒です。だから「害虫」「害獣」という話になる。しかしその「害虫」「害獣」を根絶するために開発された農薬や強引な対策によって、自然界に新たな脅威が生まれ、今度は人体や人間の生活が脅かされるというパラドックスに入っている。20世紀以降、長い歴史の中で築かれてきた動物と動物、動物と植物、動物と人間とのバランスが急激に崩れだすことで、それが大きな反動となってはねかえってきているということです。環境ホルモンもそうでしょう。
 そういうことをSARSやエボラは我々に警告してくれています。「害」とみなしたものを撲滅するのではなく、野生動物と人間の関係をもう一度見つめ直そうと。その工夫こそが大切だと思います。


人間には操作できない世界がある

――20世紀文明の弊害が出てきているということですか。

★そもそも科学技術ですべて人間に都合良く改造するなんて無理な話なんです。自然はどんどん変化するし、予想不可能なことがいっぱいある。熱帯雨林のメカニズムだって全然解明されてないんですから。脳内機構と同じように熱帯雨林には非常に複雑なネットワークが張り巡らされた生態系がある。それを簡単に再現できたり、都合良く改造できると思うのは、傲慢以外のなにものでもありません。
 現在遺伝子操作によって、動物や植物の特徴をつくりかえることができるようになりましたが、そのことによって関係も変わっていくことに気がつくべきです。人も動植物も環境のなかで様々な行動を発現させる。暑ければ人は涼しい場所を探し、寒ければ火にあたろうとする。しかし、どう行動するかはどんな状況でどういう仲間と一緒にいるかによって違ってきます。環境が複雑で関係が多様な場所では予想もつかないことが起きるかもしれない。だから遺伝子操作で世界を作り変えるとか、便利な世の中を完成させると思うこと自体が間違いなんです。
 これまで人間は自然現象を単純な因果関係ではなく、さまざまな関係の総合として見る習慣を伝統的にもってきました。それを現代の科学は一つ一つの対応関係に解きほぐして理解しようとしている。その試みが成功したこともありますが、こと生物の関係においてはあまり有効ではありません。生物には物理化学では解けない現象があるからです。それがわかるには、人間が操作できない世界に分け入り、そこで「危険」や「安全」を身をもって感じてみることが必要です。人間がもともと持っていた野生動物としての感覚を呼び覚ます。そういうことを一回経験しなければいけないんです。その意味で熱帯雨林というのは、非常に貴重な資源だと思います。利用するためというよりも、人間が学ぶためにある。
 熱帯林の中でさまざまな動物と植物の関係に目を向けてみることは、生物の多様性や共存を考えるためにとても重要です。  そこではどの生物も人間の都合のよいように暮らしてはいない。彼らと共存していくためには人間も多くの行動を抑制しなければならないし、彼らの生き方に同調して行かねばならない。それをつい最近まで人間は行ってきたはずなのに、心は反対の方角を向きつつあるのです。人間に近縁なゴリラやチンパンジーの行動を参考にして、自然と共生できる人間の能力を探ろうというのが私の研究の目的でもあります。


猛烈な勢いで進む森林伐採

――熱帯雨林の破壊が進んでいると聞きます。

★今アフリカでは、石油採掘や木材の伐採に伴う環境破壊が猛烈な勢いで進んでいます。日本なんて比ではありません。先進国では禁止されている農薬散布や伐採方式、工場廃液の垂れ流しが平然と行われています。なぜこんなことになったのかといえば、対外債務を返す手段として、外国の企業に土地の利用権を次々に売り渡してしまったからです。
 広大な熱帯雨林の利用権を手にした外国企業は、「択伐」といって森林全てを破壊するのではなく、市場で売れる2〜3種類の優良材だけを伐採します。この方式は一見景観に変化を与えないように見えますが、実際には丸太にした大きな木材を港まで運ぶ伐採道路が奥地まで網の目のように伸びていくことになります。
 森林伐採によって人々の生活も変わってきました。外国企業は伐採の期間、地元の人間を雇います。伐採は数週間から数ヶ月で終わってしまうため、雇われた人たちはやがて失職してしまう。ところが一旦現金で暮らす生活に慣れてしまうと、簡単には農業や狩猟採集生活には戻れない。そこで身近な自然を伐採したり、野生動物を狩猟して売ったりすることで現金を得ようとする。そのお金でテレビを買ったり、電気洗濯機を買ったりするわけです。
 しかしそうした現金経済で保障される生活は、欧米や日本に比べて「貧しい」ことを実感させられるものでしかありません。現金を使うことによって、かえって人々は「貧しさ」の一群に入れられてしまうのです。それはそうでしょう。いくら彼らにアメリカのようなプール付きの家に住みなさいと言っても、夢に見ることすらできないんですから。外国企業による開発事業は、物質文明を強要して南北の格差を広げ、現地の文化を破壊して人々を現金経済の末端に追いやる結果をもたらしているというわけです。
 さすがに危機感をいだきはじめた企業もあります。石油会社シェルは、ナイジェリアで大規模な環境破壊を起こして、住民の激しい抵抗運動に直面しました。その反省からか、ガボンでは石油基地の地元に学校や診療所や病院などを作り、地元への貢献度を高めようとしてきました。この2年間、石油を試掘・採掘したあとの自然を回復させるために、アセスメントや自然保護活動への資金援助を行っています。しかし、シェルはすでに数年後に基地の閉鎖を宣言しており、残された人々の失業対策まで考えているわけではありません。現金収入がなくなった後に村は急速に寂れ、貧しさが人々の心に暗い影を落としていくことは目に見えるように明らかです。

――アフリカでの経験から言えることは?

★結局、諸外国から便利なものを買いあさるより、自給自足したほうが人々の生活は安定していく。それは長年アフリカにかかわってきたものの実感です。「クオリティ・オブ・ライフ」、量ではなく質を求める。離乳食のために、なぜわざわざ高いお金を出してネスカフェの「ミロ」を買わなくてはいけないのか。地元には昔からモロコシやキャッサバの粉で作った栄養価が高い離乳食がたくさんある。それならお金もかからないし、何より自分たちの労働の結果が直接子どもたちの成長につながることを実感できる。自分たちの文化にそった生活にもっと自信を持てばいいのです。欧米商品の輸入を増やし、そのために即座に現金化できるものだけを生産するあり方では行き詰まるばかりです。
 実際、南北格差はますます広がっています。今や発展途上国は金銭的にも科学技術的にも、とても巻き返しができないほど大きな差別を受けている。先進国で工業製品のように大量生産される家畜の肉を、同じように安価に生産・販売できる技術やネットワークを発展途上国は持っていません。経済が落ち込んでいくアフリカの都市では、肉は次第に人々の手の届かない高級食品になりつつあります。「ブッシュ・ミート」と言われる、野生動物の食肉としての商取引は、その結果として安い獣肉を都市に供給するために盛んになったのです。このままいけば、どんどん動物がいなくなって、森は空っぽになってしまうでしょう。
 とりわけ私たち類人猿の研究者は、大型類人猿が減っていくことに強い危機感をもっています。昔から食肉に用いられることはあっても、もともと地元の人々は様々なタブーを作りながら慎重に食べてきました。大型類人猿との一定の距離を作ることによって、人間が彼らの病気に感染することも、彼らが人間の病気に感染することもまれだったのです。
 ところが森林伐採や野生動物の商取引によって、動物も人間もこれまでのような生き方ができなくなった。その脈略のなかに昨年のエボラ出血熱事件がおきたことをきちんとみていく必要があります。欧米の自然保護団体の多くは、人口問題と結びつけて、環境保護とバース・コントロール(産児制限)を一緒に行おうとしていますが、それは大きな間違いです。何人子どもを産みたいとか、どういう家族で暮らしたいか、というのは人間に与えられた基本的権利です。子どもの数は、生活の質を高めていくさまざまな選択の一つとして考えられるべきであり、多産が諸悪の根源などと見なされるべきではありません。しかもそこで言われる環境保護が南北の格差を広げ、発展途上国の犠牲の上に先進国の暮らしをよくするためのものでしかないとしたら、とんでもない話です。

人と自然との関係に目を向ける


――利用の仕方が変わってきました。

★ええ。エコツーリズムがその一つです。私がこれまで長く関わってきたアフリカのカフジ・ビエガ国立公園と日本の屋久島は、ともに世界の自然遺産に登録され、エコ・ツーリズムが奨励されているところです。そこで、環境教育とエコ・ツーリズムを見直す交流をはかろうと思って一昨年、屋久島にコンゴとケニアからエコツアーのガイドを呼んでシンポジウムを行いました。そこで面白かったのは、自然に対する考え方が日本とアフリカで全く違うんですね。たとえば環境教育といっても、アフリカのガイドたちは地元の子ども達への教育を軸に考えている。彼らが未来を支えてくれると思っているからです。それに対し、屋久島の場合であれば外部からやってくる人々にさまざまな形で自然を紹介するプログラムを開発している。地元の子ども達への教育よりもサービス産業としてのエコ・ツアーにまずガイドの関心が向けられています。それは両地域の歴史が違うからです。アフリカの住民にとっては、現地の政府をはじめ外部の団体や人間は森林を破壊し、動物や自然資源を収奪していく敵だったわけです。そのために、まず地元の未来を担う子どもたちが自分たちの財産である自然を知らなければならないという考えなんですね。地元と国が協調しようとしている屋久島ではこういう傾向は希薄で、地元に金を落とす観光客を積極的に誘致し、国有林である自然資源をどう利用して生活を豊かにしていくかが課題となります。ガイドにも地元以外の人が多い。環境教育のあり方をめぐって激しい討論もありました。でもこうした交流の輪はとても重要だと思っています。現在抱えている問題が違っても、自然の遺産を子孫にいかに伝えていくのかという点ではつながりあえるからです。
 もう一つ、アフリカのガイドたちが驚いたのは、日本が「すごく自然が残っている」国だったことです。確かに人の手が入りすぎた自然も多いけど、山に行けば森が生い茂り、人々はそれを満喫することができる。都会でもところどころに緑が確保され、憩いの場になっているところもあります。
 ところがコンゴやケニアでは、都会はもう一本の木もないという場所ばかりです。工場の煙や埃だらけのトラックで公害がすごい。排水の設備もほとんどなく、住民は汚い水を飲んでいる。日本の方がよほど緑が多くて清潔で、空気もきれいで恵まれているんですね。それが発展途上国の犠牲の上に、原生自然の大規模な破壊の上に成り立っている、ということにわれわれはもっと気づくべきだと思います。
 そうしたことをみすえ、これからはモノが作られていく歴史やプロセスをきちんと学んでいかなくてはいけません。コーヒーだって、ただおいしくて価格の安いものを飲んでいればいいということではない。作物が人と自然との関係の中で作られていくものだという、当たり前のことにもう一度思いを馳せないと、自然や環境だといくら騒いでも空しいだけです。「どこで作られても同じ物」ではなく、どこで誰がどういう形で生産しているのか。そうしたことを市民レベルできちんと検証していくことが必要でしょう。
 そうすればモノや人に対する見方も変わってくると思います。京都議定書みたいな国際協定を政府レベルで作っても、アメリカ一国がノーと言えば行使することができない時代です。それならもっと自分たちの力で、いろいろな試みを実践していった方がずっと意味がある。たとえばフェア・トレードなどはその一つだと思う。メジャーな産業にすることは難しいけれど、モノの価値を変え、自分たちの暮らしの本当の豊かさを見直すきっかけをつくることはできます。
 私たちも屋久島やアフリカで、何とかフェア・トレードみたいな形でモノを通じた人々の交流をめざしています。人の交流はモノが支えている。それは人間の本質です。モノを大事にすることで人間と自然の関係や人間どうしの関係を変えられると――まあ夢物語かもしれませんが――思っています。

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やまぎわ・じゅいち
京都大学理学部教授。専門は人類学、霊長類学。1952年東京生まれ。日本のゴリラ研究の第一人者。コンゴや屋久島の自然保護にも尽力している。著書『家族の起源』『ゴリラの森に暮らす』『ジャングルで学んだこと』『ゴリラとあかいぼうし』他。

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