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悪魔組織の犯罪03
http://www.asyura.com/0306/nihon5/msg/557.html
投稿者 サム 日時 2003 年 7 月 12 日 00:00:52:

 以上のように、容器の形状に関する証言は様々である。さらに不思議なのは、犯人が毒
ガスを撒いたとされる5本の電車以外にも、不審物が目撃されていることである。

 霞ケ関駅など駅構内や電車内など複数の場所で、新聞紙にくるまれた液体が入ったビニ
−ル袋や弁当箱のようなものが発見されており、いずれも同様の刺激臭が出ていた。京王
井の頭線駒場東大前駅でも薬物とみられる液体の入った不審な箱が発見されており、不審
物が発見されたのは合わせて十数カ所に上っている。(『東京新聞』95年3月20夕刊

 このほか京王井の頭線駒場東大前駅ホ−ム上でも不審な箱のようなものが置かれていた
との情報もあり、警視庁では、犯行グル−プが複数の電車や駅の構内に不審物を置いた可
能性もあるとみてさらに詳しく調べている(『日本経済新聞』95年3月20日夕刊)

 これは一筋縄では行きそうもない。事件現場が極度の混乱状態にあったことは推察でき
る。だがそれにしても検察が言うように、地下鉄サリン事件の凶器はサリン入りのナイロ
ン袋11袋であった、とするのは無理がある。
 筆者は、地下鉄サリン事件では「バイナリ−方式」の凶器が少なくとも5つ、使用され
たのではないかと見ている。また、地下鉄サリン事件で使われた毒ガスは「サリン」では
なかった可能性が高いのである。

 毒ガスの種類について

 地下鉄サリン事件では、マスタ−ドガスも使われた可能性がある。

 地下鉄サリン殺傷事件で二十日、陸上自衛隊が除染のため出動、地下鉄小伝馬町駅でマ
スタ−ド系とみられる有毒ガスを検知した。
 マスタ−ドは皮膚に付着してただれさせる「びらん剤」だが、気化した場合、サリン同
様の呼吸困難を引き起こすとされる。
 同駅に派遣された第十二師団(群馬・榛東村)化学防護小隊が検知器で検出したが、さ
らに分析中。マスタ−ドは揮発性が低く、構内に残留している可能性があるため、慎重に
除染作業を行った。(『東京新聞』95年3月21日朝刊)

 防衛庁によると、霞ケ関駅と築地駅で検知した物質はサリンとみられるが、小伝馬町駅
の残留物質については、呼吸器などがただれるマスタ−ド系のびらん剤の疑いもあるとい
う。(『読売新聞』95年3月21日朝刊)

 捜査本部は営団地下鉄日比谷線、千代田線、丸ノ内線の三路線五車両で有毒ガスの発生
源とみられる容器計六個を発見。複数の残留物の分析から、主成分を猛毒の神経ガス「サ
リン」と断定。また、現場の一カ所からはマスタ−ドガスとみられる「びらん性ガス」を
検出した。
 日比谷線小伝馬町駅に出動した自衛隊が現場の毒物を中和させる作業中、付近の有毒ガ
ス検知で、マスタ−ドガスとみられる「びらん性ガス」を検出した。警視庁科学捜査研究
所で鑑定を急いでいる。
 小伝馬町駅などから病院に運ばれた三人の患者は、サリンによる症状のほか、発疹(ほ
っしん)や気管支炎などびらん性ガスの症状が出ているという。(『共同通信』95年3
月20日)

 日比谷線の一両目に乗っていた。広尾駅を過ぎたあたりで、「マスタ−ドのような刺激
臭がして、居眠りから目が覚めた」。(『毎日新聞』95年3月22日朝刊)

 誰もが見過ごしていた記事が、ここに次々と発掘されていく・・。サリンは神経ガスで
あり、マスタ−ドはびらん性ガスである。当然、その中毒症状も異なる。マスタ−ドだけ
ではない。地下鉄毒ガス事件では、シアン化合物(青酸ガス)も使われた可能性が高いの
だ。青酸ガス使用を指摘する記事を次に掲げる。
                                      
 「有毒ガスというからには、これはサリンかシアンかどっちかだな」ということです・
・すると九時半になって、東京消防庁がアセトニトリルを現場で検知したというテレビ報
道がありました。東京消防庁化学機動中隊特別化学車というガスを検知したりする特別な
車両があるんです。それで調べてみたら、アセトニトリルが出てきた。となると、これは
青酸ガスです」(村上春樹『アンダ−グラウンド』講談社より)

 中野坂上駅の残留物からは「アセトニトリル」と呼ばれる劇物のシアン化合物を検出、
捜査本部はサリンとシアン化合物の混合物の可能性があるとみている。(『共同通信』9
5年3月20日)

 地下鉄サリン殺傷事件で二十日、東京都墨田区の白鬚橋病院で被害者の手当てをした医
師によると、被害者の血液と尿を調べたところ、シアン化合物が検出された。毒物はサリ
ンとシアン化合物の二つの毒が合わさった猛毒であった可能性が高いという・・
 このほか、シアン系の薬物が検出され、有機リン系のサリンとシアン化合物の両方によ
る被害を想定して手当てをしているという。(『共同通信』95年3月20日)

 そうか、分かったぞ。地下鉄毒ガス事件ではサリンと青酸ガスの両方が使われたのか、
と早合点しないで頂きたい。サリンと同様の中毒症状をもたらし、かつ青酸ガスを発生さ
せる神経ガスが存在するのである。それは「タブン」である。ここに地下鉄毒ガス事件の
謎を解明する最後の鍵がある。
 もう一度、繰り返す。「サリン」と「タブン」は両方とも神経ガスであり、その中毒症
状は酷似している。例えば、コリンエステラ−ゼの低下など。しかしサリンはシアン化合
物を放出しないが、タブンはシアン化合物を放出するのである。事件現場でシアン化合物
(アセトニトリル)が検出されたということは、地下鉄毒ガス事件で使用された毒ガスが
サリンではなくタブンであったことを示している。
 そんな話は寝耳に水だ、お前の妄想ではないか、と仰るかもしれない。しかし毒ガス=
タブン説を裏付ける記事が現に存在しているのだ。

 「あの事件は、ほんとうにサリンだけの殺人だったのか」
 医療関係者の間で最近、こんな疑問がささやかれている。「あの事件」とは、もちろん
地下鉄サリン事件である。
 実はここに、一枚の資料がある。
 ひとことでいえば、地下鉄サリン事件の被害者から採取した尿の分析デ−タである。ま
とめたのは、被害者の治療にあたった都内の病院や医科系大学の関係者。被害者のプライ
バシ−の問題もあって公表されてはいないが、本誌が入手したのはその一部、十数人分で
ある。
 この中にこそ、医療関係者に「毒ガス=サリン」説への疑問を抱かせることになった、
衝撃の事実が隠されているのである。
 その患者を、仮にA子さんとしよう。若いOLである。採尿の日時、回数は患者ごとに
異なっているが、A子さんの場合、事件の二日後、三月二十二日から四月四日にかけて行
われた計十回分のデ−タが掲載されている。
 測定項目は「イソプロピルアルコ−ル」「エタノ−ル」「アセトン」など六項目。なか
でも問題となったのはエタノ−ルの数値である。

 3月25日=129.3050
   26日= 50.1580
   27日= 61.7780
   28日=125.5550

 これがいかにケタはずれの数値であるか。検査にあたった医師の一人が説明する。
「エタノ−ルは酒の主成分となるアルコ−ルで、健康な人であれば、尿からは百分の一ミ
リグラム単位でしか検出されないのが普通なんです。当然、酒を飲めば上昇しますが、こ
の患者にはあてはまらない。なぜなら、この人はずっと昏睡状態だったからです」
 しかも、A子さんと同様の異常数値を示した入院患者はほかにもいるというのだ。

 これはいったい、どういうことなのか。さらに、そもそもエタノ−ルが大量に検出され
たことが、なぜ「サリン疑問説」につながるのか。
「サリンが体内で分解されてもエタノ−ルが検出されることはない。また、エタノ−ルは
サリンに反応するので溶剤としても使えない。サリン中毒だとすれば、エタノ−ルが出て
くる要素はまったくといっていいほどないんです」
 つまり、もともと体内にあるはずがなく、サリンだけではとうてい説明のつかない物質
が、重症患者の体内から大量に出てきたということなのである。ここで、前出の医師が恐
るべき推論を提出する。
「神経ガスの被害に遭い、体内で分解するとエタノ−ルが出てくる物質といえば、まず考
えられるのがタブンです。・・」(『サンデ−毎日』95年6月4日)

 オウム真理教バッシングの口火を切った『サンデ−毎日』が、オウム真理教=地下鉄サ
リン事件犯人説に疑問を投げかける情報を提供することになるとは、皮肉なものである。
地下鉄毒ガス事件の実行犯はオウム真理教ではないというのが、筆者の確信するところで
ある。
 こんなことを書くと、お前はオウム真理教の回し者か、と言われそうだが、筆者が欲す
るのはあくまで真実の追求である。この点、勘違いされないように。

 「タブン」に関する最後の情報提供者は日本人ではなく、外国人である。毛唐に国内の
ことをあれこれ言われたくないが、地下鉄毒ガス事件は国際的大事件であり、日本のジャ
−ナリズムや警察にも海外から大きな圧力が加わっていることが良く分かる。

 The Japan Times Weekly April 1.1995

 たぶん、タブン
 神経ガスと公式隠蔽についての難問
                              ジョン・パ−カ−

 東京地下鉄事件に関して海外の専門家の意見が全くと言っていい程、欠如しているのは
何故なのか?アメリカや他国の報道機関のビデオテ−プは、いわゆる「サリン攻撃」に関
するカギとなる場面を映しているのに、何故日本で放映されないのか。
 日本の警察は日本のメディアと一緒になって、3月20日の東京地下鉄の攻撃に使われ
た毒ガスはサリンであると、頑固に言い張っている。化学戦争に関する第一流の権威の中
には、この主張に疑問を呈する者も存在している。シカゴに本拠を置く非常時対応及び調
査学会(ERRI)は、東京での犠牲者の症状はサリンに対する生体反応と合致していな
いと述べている。むしろ、観察された症状−目の霞み、瞳孔狭窄、筋肉のひきつりなど−
は、タブン(エ−ジェント GA)と呼ばれる別の種類の神経ガスの特徴に一致するので
ある。他の海外の専門家も、症状に関して同様の疑問を表明している。
 ERRI速報のような報告が日本のメディアに無視されるのは何故なのか。海外の専門
家が当局の所見に異議を唱えるような報道番組に登場するようなことがあれば、宗教カル
ト・オウム真理教に対する政府の立場を損なうとでも言うのだろうか?
 オウム・カルトに対する警察の言い分はすべて、製造されたのはサリンで、それが攻撃
に使われたということを根拠にしているので、他の毒ガスが使われたと証明されたら、捜
査は失敗に終わるだろう。山梨の教団施設で発見された化学物質がサリン製造に使われた
ことを「証明」しようと日本の警察やメディアが躍起になっているのは、このためなのだ
ろうか?
 半官半民のテレビ局NHKがこの件に関する海外制作のビデオの独占放映権を獲得して
いながら、それが日本で放映されないのも、このためなのだろうか?NHKのスポ−クス
マンは、東京毒ガス攻撃についての海外ニュ−スを隠していることを否定している。

 「(海外の情報源)から購入した素材を全て放映するわけではない。後日の報道のため
に置いておくこともある」とスポ−クスマンは述べた。

 あらゆる疑問を払拭する一つの方法は、例えば、地下鉄で発見された物質のサンプルを
FBIに送ることだ。だが日本の警察は、このような方法で海外の捜査機関と協力するこ
とを拒んでいると報告されている。警察はこの事件に関するあらゆる証拠を公表しようと
しているのだろうか、それともその正反対なのか?
 日本の大衆は、事実に直面するだけの勇気がある。論議の的になっているニュ−スフィ
ルムを放送し、新たな見解のための資料を提供してはどうか。

 ジョン・パ−カ−は東京在住のフリ−ランス・ジャ−ナリスト


 これは、NHKが独占権を買った後に、NHKによって書かれたメモの中の一つである
。スト−リ−の要約は以下の通り。
 日本における使用制限:日付/場所−日本。3/25/Re:地下鉄サリン攻撃/事件
直後の犠牲者/アメリカの教授のコメント/担架で運ばれる犠牲者/病院での犠牲者/専
門家のコメント/地下鉄車両を清掃する(防護服を着た)人たち

 「東京地下鉄攻撃で使われたガスがサリンかどうか、疑っている科学者もいる。伝えら
れているところによると、サリンは猛毒なので、もしそれに曝されたなら、死者は10人
どころでは済まなかっただろう。犠牲者の中には鼻や口から血を流している者もいる−こ
れはサリンの症状ではない。ソビエト化学兵器プログラムの前代表は、サリンは無煙・無
臭であると述べている。しかし、今回の攻撃では煙も臭いもあった。ちょっと曝されただ
けでも、鳥目になるが、鳥目は一例も報告されていない。」

 画面:有毒化学物質に曝されて、地下鉄から逃げる人々の列。
ジョ−ジ・ワシントン医科センタ−のクレイグ・ディ−トリ−教授
「被害者たちは果物のような臭いがしたと言っていた。原則として、サリンは無臭だ。」


 画面:担架に乗せられた人々と、息をつこうとしている人々
化学兵器専門家アナトリ−・クンツェヴィッチ
「我々は煙があったと聞いているが、サリンは無煙だ。臭いはなく、使用時、目に見える
徴候は全くない。このためサリンの疑いは除外される。」

 画面:東京病院でガスの治療を受ける人々
前米陸軍軍事ガス開発局長ソウル・ホ−ンマッツ
「日本人に、患者の症状のリストとサリンの症候例を出させ、これらの症状が発生しなか
ったのは何故か、と誰かが尋ねるべきだ。これらの症状が発生しなかったのを、あなたは
どのように説明するのか、と。」

 地下鉄サリン事件後に来日した、米化学生物兵器管理研究所のカイル・オルソン副所長
は、オウム真理教のサリン・プラントでタブンも作れると繰り返し発言していた。英字新
聞『ジャパンタイムズ・ウィ−クリ−』も地下鉄毒ガス事件で使用されたガスはタブンで
はないかと憶測しているし、『週刊現代』もタブンの可能性を仄めかしている。
 しかし捜査当局は毒ガス=サリン説に固執した。ではマスコミは何故、毒ガス=タブン
説をリ−クしたのであろう。まさかオウム真理教の味方をしたのではあるまい。マスコミ
にとっては地下鉄で撒かれた毒ガスがサリンであっても、タブンであってもどうでもいい
ことだ。オウム真理教がタブンも製造していたことにしてしまえばいいからである。
 だがこの毒ガス=タブン説は、日本の警察に対する心理的圧力になったことは疑いえな
い。警察は毒ガス=サリン説を貫くことで、組織全体がある種の共犯関係に陥ってしまっ
た。真実を隠蔽し犯人をでっち上げることで、警察組織全体が結束しなければならなくな
ってしまったのである。
 これがマスコミが捜査当局の見解に異議を唱えた本当の理由なのである。マスコミは警
察より怖い。いずれにしろ、地下鉄毒ガス事件で撒かれた毒ガスがタブンであったことは
間違いないであろう。

 証拠捏造と隠蔽工作

 しかしそれにしても地下鉄サリン事件の実行犯とされたオウム真理教の被告たちが地下
鉄にサリンを撒いたことを認めているのだから、オウム真理教が事件を起こしたことに間
違いはないだろう、という反論が返ってきそうである。
 しかし筆者は、被告たちの自白はでっち上げられたものであると思っている。後程詳し
く分析するが、彼らの自白内容が虚偽である根拠として、ここでは二点だけ指摘しておき
たい。
1.自白の変転
2.複数の被疑者間の自白のくい違い
 まずは「自白の変転」に関して見ていこう。

 以下は、『文藝春秋』98年2月号に掲載された、麻原弁護団長・渡辺修氏に対する、
ジャ−ナリスト・和多田進氏によるインタビュ−記事である。

  お話に出た地下鉄サリン事件ですが、現時点で弁護団としてはどこまで明らかになっ
たとお考えですか。
 渡辺 そうですね。現在での到達点というと、検察側は三月十八日のリムジン車内での
謀議のみを挙げて、麻原被告の共謀責任を主張しているわけです。そしてそれに関する証
拠は、井上嘉浩証人の証言しかない。村井氏は殺されてしまったし、石川氏、青山被告は
起訴されず、事件に関係ないことになっている。遠藤被告はまだ証言するに至っていませ
ん。
  検察側の主張する地下鉄サリン事件への麻原被告の関与は、現段階では井上被告の証
言によってのみ裏打ちされているということですね。
 渡辺 ええ。ただし、井上証言は検察での供述調書、法廷での証言と、内容がどんどん
変わって詳しくなっていて、信用性に疑問が大きいのです。それはともかくとしても、井
上証言で終始一貫して変わっていないのは、「車中で地下鉄にサリンを撒くという方針が
決まった」とは言っていないことなんです。
 検察側の証人尋問でも、「上九一色村に着いて車から降りるときに、教祖は『これから
瞑想して考える』と言って瞑想室へ入っていった」と証言して、「だから事件を起こすと
決意したとすればその後だ」というのが井上証言の主旨です。ところが検察側の主張では
麻原被告が「車内でサリンを撒くことを決意し、村井に総指揮を取れと指示した」となっ
ている。つまり、教祖の決意−方針の決定−主命服従で一気に走る、というのが検察側の
筋書きですが、「車中の決意」については唯一の証言者である井上被告の証言で既に崩れ
ているんです。その程度の相談でも「謀議」となるんじゃないか、という人もいますが、
少なくとも検察側の主張している「謀議」ではない。・・

 渡辺 他のオウム関連事件の冒陳もそうなんですが、肝心なところでディテ−ルが全部
欠けている。そして訳の分からない冒頭陳述の筋書きも、裏付けと見なしていた井上証言
自体によって否定されてしまった。ですから弁護側としては、三月十八日の車中謀議とい
うのが崩れた以上、いったい検察側はどの謀議を主張するのか、もう一度整理し直せと要
求しているんです。(「麻原裁判 これだけの問題点」より)

 次に「自白のくい違い」について見てみる。以下は、目黒公証役場事務長・假谷清志さ
ん拉致事件に関しての、飯田エリ子被告と井上嘉浩被告の法廷対決の場面である。

 麻原に拉致を手伝うよう命じられた井上は、二十八日早朝、飯田が寝泊まりしていた東
京都世田谷区内のマンションを訪れている。そこで飯田から假谷さんの自宅の地図を受け
取り、假谷さんを運ぶためのワゴン車の手配を頼んだ、という。
 飯田側は、・二月二十七日目黒駅近くの話し合いで、「拉致」を提案していない、・幹
部の話し合いの席で、飯田は「拉致」という言葉を使っていない、・ワゴン車の手配を頼
まれていない−と主張。五月十日の第六回公判では、中村(中村昇−筆者注)が、飯田の
主張に沿う証言を行うとともに、麻原彰晃(本名・松本智津夫)の関与も否定した。しか
し、井上は「他の人がどう言っていようが、私の記憶ははっきりしています」と、証言を
変えなかった。

 弁護人、裁判官の尋問の後、飯田本人が立ち上がり、井上の証言に反論を始めた。
 飯田「平成六年秋頃、Bさんという信徒が、一回帰宅を許したために帰ってこなくなっ
た時、私は井上さんに依頼をしました。この時、井上さんは、家の周辺の張り込みとか、
ゴミ箱を漁って手がかりを探すとか、盗聴器をつけて電話の発信先を調べたりしていまし
た。この前例があったので、私は同じような方法で行方を探して欲しいと考えました。い
きなり拉致という発想は私にはありません」
 井上「飯田さんの話は条件が違います。Bさんの場合は単なる学生信徒でしたし、本人
には出家する気はなかった。だから盗聴器を仕掛けるなど、通常の形でやりました。しか
し、A子さん(假谷さんの妹−筆者注)の場合、何億という単位の財産が絡み、出家しよ
うとしていたのに突然いなくなった。だから、早く探さなきゃいけないと、主に中村さん
が拉致を提案し、飯田さんが賛同したという記憶が私にはあります」
 飯田「第二サティアンでのやりとりの中で、私が假谷さんを拉致するという趣旨のこと
を言った記憶はありません」
 井上「飯田さんの口から聞いた覚えがあります」
 飯田「だとしたら、麻原教祖が私を外すはずがありません」
 井上「それは違うと思います。・・」

 こんな細かいこと、どうでもいいだろう、地下鉄サリン事件で麻原の命令があろうがな
かろうが、假谷清志さん拉致事件で飯田被告の関与があろうがなかろうが、とにかくオウ
ム真理教が事件を起こしたことは間違いないだろう、と仰るかもしれない。本当にそうな
のだろうか。細かい嘘が重なって、地下鉄サリン事件という大事件の構図が捏造されたの
ではなかろうか。

 「被告の自白」という第一級の証拠が捏造された可能性に加えて、地下鉄サリン事件の
「遺留物」という物証が隠蔽された可能性も存在している。

  地下鉄サリン事件で言うと、遺留品の鑑定にも問題があると聞きます。正直に言えば
、三月二十日のあの混乱した事態のなかで正確に証拠を残しながら捜査を進めるというの
は確かに大変なことで、捜査側にも同情する点もなくはないんです。しかし、冒頭陳述を
読んでも、撒かれたものがサリンであると鑑定していく捜査過程がさっぱり分からないの
も事実ですね。
 渡辺 おっしゃるとおりですね。例えば現場の遺留物としては、千代田線霞ケ関駅で、
二袋のうち一袋がまるまる残されていて、非常に重要な証拠物となっています。地下鉄の
駅の人から任意提出を受けて警察は、その領置調書をつくった。それが、その証拠物を警
察が手にしたという公の書類です。しかしその調書を見ると、領置した物件は「濡れた新
聞紙様のもの」としか書いていない。実際には、新聞紙に包まれた「袋」があったはずな
んですが、それが書いていないんです。それで領置調書は不同意(証拠として認めない)
として、警察官の証人尋問を行った。その結果、「袋はあった」という証言を得て、調書
の記載の誤りが明らかになったということがありました。
 確かに、現場では混乱した状況があったかもしれません。しかし仮にその時点で食い違
いがあっても、法律の手続きとしては後からでもきちんと補正すべきなんです。一般には
なかなか理解されないかもしれませんが、きちんとしたドキュメントが提出されず、現場
から何が採取されたのかハッキリしないということは、その証拠物は存在していないこと
と同義なんです。
 警察官の証人尋問の後、弁護団はその領置調書に対する不同意を撤回して、証拠として
法廷に出せ、と言いました。ところが今度は検察側が、その領置調書を法廷に出さないこ
とにしたんです。だから結局、「千代田線霞ケ関駅で領置された袋」に関する領置調書は
、現在のところ証拠として法廷に存在していない。これは非常に特異なケ−スですね。

 この問題の関連で言うと、この「袋」は事件当日、埼玉県大宮の自衛隊の化学学校に運
ばれて、仕分けされました。
  そこはハッキリしているわけですね。
 渡辺 ええ。証言も仕分け作業の写真もあります。しかし僕らが問題にしているのは、
この経過を記録したドキュメントがほとんどない、ということなんです。誰が、どういう
方法で運んで、化学学校のどの部屋で、何時何分から、誰が、どのように仕分け作業を始
めたのか、分からないんです。「袋」の外側の一枚を剥いだら何が出てきたか、いちいち
記録する必要があると思いますが、その種の資料がないんです。マスクを被った二人が仕
分け作業をしている写真は残っていますが、これが誰なのか分からない。
  ほう、そうですか。
 渡辺 立ち会ったという鑑定人に証人尋問しても、「誰なのか分からない」と言うんで
す。警視庁の科学捜査研究所が自衛隊化学学校に助けてもらって作業をしたということに
なっていますが、科捜研が自分で仕分け作業をしていたのかという疑問も出てくるわけで
す。仕分け作業の後で遺留物は警視庁に戻り、サリンと鑑定されたことになっているわけ
ですが、その最終の鑑定書があるだけでそれを裏付ける途中が抜けているわけですね。
  すると現場に遺留されていた物と最終的に鑑定の対象とされたものが完全に一致せず
、他のものが混じり込んだりスリ替えられたと言いうる余地が残されてしまっている、と
いうことですか。
 渡辺 そうなんです。最終的な鑑定がいつから始まり、どこでやったのかも分からない
んです。・・(「麻原裁判 これだけの問題点」より)

 遺留物の鑑定の経緯の不自然さは、オウム・ハンタ−である江川紹子さんも指摘してい
る。

 (3月20日−筆者注)午後になって、安藤科長ら数人の技官が埼玉県大宮市の陸上自
衛隊化学学校に赴いた。日比谷線の二カ所で領置された新聞紙に包まれた不審物を、仕分
けするため、強制排気装置を備えた自衛隊の施設を借りることになったのだ。
 この事件の場合、通常の事件では裁判に提出されるような遺留品の扱いに関する書類が
揃っていない。そのことを弁護側から追求されると、安藤科長は穏やかな口調で反論した

「通常は、鑑定嘱託書とともに試料がまいりまして、確認した上で試料に番号をつけてい
くわけですけれども、この事件ではそういうことをする時間的な余裕もありませんでした
。後からですとどうでも言えることですが、その時はもう混乱している状態でした」
 丸ノ内線、千代田線の車両にあった不審物も、領置されて事件当日に科捜研に運び込ま
れている。しかし、正式な鑑定嘱託の日付は三月二十四日。それまでの間、サリンはどこ
に保管されていたのかを示す証拠が出されていない。安藤科長も、「(庁舎の)屋上にあ
る科捜研の施設に置いたんだと思います」と言うだけで、はっきりした記憶がないようだ
。・・(江川紹子「オウム真理教」裁判傍聴記・ 文藝春秋)

 地下鉄サリン事件が起きたのは、95年の3月20日である。不審物が領置されたが、
3月20日から3月24日までの間、それがどこに置かれていたのか記憶がないという。
おいおい、こんないい加減なことでいいのか。事件現場は混乱していた、これは捜査側の
言い分である。あいまいな証拠で有罪を宣告される被告はたまったものではない。
 これは例えて言えば、痴漢に間違われて逮捕されてしまった、証人がいた、しかしその
証人の氏名も身分も分からない、というようなものだ。では彼らが犯人であるという証拠
は何があるのかと言うと、結局のところ警察署で捜査官に脅しすかされて取られた「自白
供述」だけということになる。
 もし潔白ならあくまで無実を主張すればいいじゃないか、過去に犯行を自白してしまっ
たとしても公判で供述を覆せばいいことだ、と逮捕された経験のない者は言うだろう。筆
者も逮捕された経験は持ち合わせがないが、豊かな想像力で被疑者の心境を推し量ること
はできる。
 「自白」というものは、第一級の証拠である。取り調べ官に自白を強制されたと後から
主張しても、実際に法廷で自白の証拠能力(任意性)が否定されて被告が無罪になる可能
性は極めて少ない。あくまで無実を主張すれば、裁判の長期化も予測されるし費用もかか
る。それに無罪判決を勝ち取る保証もないのである。
 被疑者は頼りとする家族にまで疑いの目で見られることもあるだろうし、職も失ってし
まうかも知れない。とてもじゃないが、長期裁判を闘う気力など残されていない。こうし
て涙を飲んで理不尽な有罪判決を受け入れてしまった被告がどれ程いたことか、数えきれ
ないだろう。冤罪が表面化することなど、氷山の一角に過ぎない。今この時点でも、有罪
判決を受けて服役している者の中には無実の者が大勢含まれていることだろう。
 それではお前はこの世に正義はないというのか、と仰るかもしれない。ある意味ではそ
うとも言える。騙されて友人の借金の連帯保証人になったがその友人にとんずらされてし
まい、莫大な負債を抱え込んでしまった。こんなつもりではなかったと言って、借金を免
除してもらうことができるだろうか。借用書に自分の印鑑を押してしまっていたら、まず
難しいと言わざるを得ない。これが法律というものである。融通は効かない、正義は通ら
ないのである。
 大方の者は、そんなことはよく分かっている、騙された方が馬鹿なのだ、と言うだろう
。他人の保証人になって泣きを見た、という話はよく耳にする。だから我々はそうならな
いように気をつけることができる。だが我々は無実の罪で逮捕された時に、自白の持つ重
大性というものに気づいていない。取り調べの苦しさから逃れようと一時的に偽りの自白
をしても、後で簡単に取り消せるものと考えている。ところがどっこい借用書の捺印と一
緒で、一度行った自白というものはそう簡単には取り消しが効かないのである。
 もし自分が無実の罪で逮捕されたら、どんなことがあっても無実を主張する、嘘の自白
なんてしない、だから大丈夫と言う人もいるかもしれない。筆者に言わせると、これはや
はり逮捕された経験のない人の発言である。警察の取り調べというものは、そんなに甘く
はない。話せば分かると思っていくら無実を主張しても、警察はそんな話は聞いてくれな
い。犯人の言い逃れだと考えるからだ。そうして何時間も何日間も厳しい取り調べを受け
るうちに、どんなに身体頑健、意志強固の者でもこの苦しみから逃れるためには、一時的
に警察の言うなりになって嘘の自白をした方が良い、と考えるようになる。
 これが、被疑者が「落ちる」瞬間である。一度「落ちて」しまえば後は簡単、被疑者の
口から自白を引き出して、偽の犯行スト−リ−を構成していく。これは捜査官が被疑者に
一方的に押しつけるものではなく、捜査官、被疑者双方の協同の産物である。被疑者は苦
しみから逃れんがために、自分の口から犯行内容を告白するのである。事実と合わない部
分は、捜査官が誘導して修正していく。かくして、偽りの供述調書の一丁上がりである。
一度自白に陥ってしまった被告が公判で供述を撤回することの難しさは、すでに述べた通
りである。
 それでは捜査官は被疑者が無実であると知っていて、犯人に仕立て上げようとしている
のであろうか。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。凶悪事件の場合、警察
はメンツにかけて一刻も早く犯人を検挙しなければならない。世間は騒ぐし、マスコミは
ヒステリックに事件を書き立てている。上層部からの圧力も加わる。こんな状況の中では
、焦燥に駆られた現場の捜査官が誤って無実の被疑者を犯人に仕立て上げてしまっても、
不思議はないだろう。
 だが筆者はここでもう一つ別の可能性を指摘しておく。彼らは無実の被疑者をそれと知
って犯人に仕立て上げてしまうことがあるのだ。真犯人を野放しにして事件の真相を隠蔽
してしまう。それは彼らが事件の本当の動機を知っているためであり、一般大衆の目から
その動機を隠しておかなければならない必要性を感じているためである。つまり陰謀が存
在しているということだ。事件の本当の動機というものについては本書の最後で検討した
い。
 それにしても軽微な罪ならともかく、殺人などの重罪に問われている場合、公判で無実
を主張しないことは考えられない。何故なら、このままでは無期懲役か死刑になってしま
う可能性が大きいからだ、という意見もあろう。
 至極ごもっともな意見である。殺人の罪で逮捕されて留置場で一度犯行を自白したが後
に撤回し、法廷で無実を主張して何十年か後に冤罪が晴れて見事無罪判決を勝ち取った被
告も確かに存在している。だがこれはやはり稀なケ−スなのである。被告の大部分は罪を
認めて懲役に服することを選択する。被告の中には從ようとして死刑台の階段を登ってい
った者も大勢いたに違いない。
 そんな馬鹿なことは常識的に考えられない。そういう意見が大勢を占めることは、筆者
も重々承知している。しかしこの世には、常識で割り切れないことがまま存在するものな
のである。死刑囚のこの不条理な心理を解明することが筆者に課せられた課題であると思
うので、この異常心理を跡付ける努力をできるだけ行ってみたい。


 自白の研究

 まずは表1をご覧頂きたい。これは1970年代以降に再審開始・再審無罪となった、
主な事件の一覧表である。この表から分かることは、冤罪であることが裁判所によって認
められ、再審無罪の判決が下されるまでに、ほぼ30年の長い歳月を要していることであ
る。
 免田事件は逮捕の約34年6ヵ月後、誤判(第一審)言い渡しの約33年4ヵ月後、
 財田川事件は逮捕の約33年11ヵ月後、誤判(第一審)言い渡しの約32年後、
 松山事件は逮捕の約28年7ヵ月後、誤判(第一審)言い渡しの約26年8ヵ月後、
 島田事件は逮捕の約34年8ヵ月後、誤判(第一審)言い渡しの約30年8ヵ月後、
に、ようやく再審無罪の判決が下されている。
 再審無罪を勝ち取るには、かくも長い裁判を闘い抜かねばならないのである。その間の
被告本人や家族の苦労は計り知れないものがある。金もかかるし時間も取られる。何より
もそれだけ長期間、気力を保ち続けることが大変だ。再審で無罪判決を勝ち取り冤罪を晴
らしたとたんに、安心したかのように永眠してしまった元被告がいたのも頷ける。
 しかし本人が生きているうちに冤罪を晴らすことができるのは、まだ幸運な事例なので
ある。本人死して後、遺族の手で冤罪が晴らされた事例もあるし、冤罪を叫びつつもいま
だに再審が開かれない事件もいっぱいある。表2は再審請求中および再審請求棄却等に終
わった主な事件の一覧表である。
 確かに冤罪は許しがたいことであり、誤判は決してあってはならない。しかしあくまで
も冤罪は例外的現象であり、刑事裁判の全体から見れば微々たる病理的現象であって、幸
いにしてその誤りは再審で是正され解決済みである。刑事裁判は正常に機能している。そ
う思っている人が大部分かも知れない。
 ところが実際には、再審のル−トにのるのはほんの一部なのである。なぜ再審のル−ト
にのらない暗数が多いのかといえば、誤判を主張して再審を請求して争っても裁判所がな
かなかその主張を認めないこと(再審の門の狭さ)、もし再審に失敗すると再度有罪判決
を受けたのに等しい社会的汚名をかぶる危険があること、再審を請求して争おうとしても
厖大な労力や時間や弁護費用がかかることなどのため、誤判を受けた元被告があきらめて
、泣き寝入りをしてしまうことが多いためである。
 あるアンケ−ト調査によると、再審無罪事件7に対して、冤罪=誤判の暗数が435も
あるという。1対62である。もちろんこれはあくまで推計であり実態は闇の中である。
だが潜在的な冤罪の件数を探る手掛かりにはなるだろう。理不尽な有罪判決を受け入れて
泣き寝入りしてしまう被告のどれ程多いことか、計り知れない。
 だが無実の被告があきらめて有罪判決を受け入れてしまうのは、あくまで軽微な事件で
あって、殺人等の重罪事件では無実を主張して公判で争うに違いない、という反論もある
だろう。極刑(死刑)が宣告される可能性が大きいからである。
 しかし殺人等の重罪事件であっても反省の度合いによっては罪一等を減じられて、無期
懲役の判決で済む場合もある。金と時間と労力を賭けてあくまで闘うか、それとも罪を認
めて服役して恩赦で出所するか、被告は究極の選択を迫られる。最高裁まで争っても死刑
判決を受けるかもしれない、ここは反省している演技をして無期懲役の判決を受けた方が
利口だ、そうあきらめてしまう被告も大勢いると筆者は推測する。
 いったい彼らは何故そう簡単にあきらめてしまうのか、この世に正義はないのか。真実
はいつか明らかになるものだ、世間の人もきっと分かってくれる。こう思って長期裁判を
闘い抜く意志強固な人も稀には存在する。先程述べた再審無罪を勝ち取った人たちである
。だがこういう人はあくまで少数派である。大方の者は闘争を放棄して罪を認めて懺悔す
る見返りに、温情のある判決を期待するようになる。そして彼らが闘争をあっさりあきら
めてしまう背景には、「自白」の存在があるのである。
 繰り返しになるが、「自白は証拠の王」である。だが自白を証拠として用いることがで
きるのは、それが強制、拷問、脅迫、約束、利益誘導、偽計などによってなされたもので
ないことが必要であるとされている。

 強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意に
されたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない。(憲法第38条第
2項、刑事訴訟法第319条第1項)

 この証拠法則は、通常「任意性なき自白は証拠能力がない」という形で表現される。違
法な手続でとられた自白は証拠としてはならない、のである。しかしこの原則がきちんと
適用されていたら冤罪事件など発生しないことは言うまでもない。

 それにしても人は何故、自分を罪に陥れる自白をしてしまうのだろうか。逮捕拘留の経
験のない者は、人は一般に自分に有利な嘘はついても不利な嘘はつくものではない、した
がってあえて自分に不利な事実を自白したとすれば、それはなにより信用に値する、と考
えるだろう。ことにこれが殺人等の重罪事件であればなおさらである。犯行を認めてしま
えば、死刑になりかねないからである。
 ところが死刑を宣告されたような重大冤罪事件のほとんどに自白がある、という現実が
あるのだ。重罪事件ほど虚偽自白の発生率は高い。それだけ捜査官の取り調べも厳しくな
るということだ。
 ではこれから、人が虚偽自白に至るプロセスを分析していこう。


 戦前戦中においては、日本でも自白を引き出す手段として拷問が公然と行われていた。
苛酷な拷問に屈して虚偽の自白をしてしまう、というのは読者にも分かりやすいだろう。
だがどんな拷問にも屈せず、否認を貫徹した人たちがいる。日本の岩窟王と呼ばれた吉田
石松老や、加藤新一老の話は有名である。この二つの事例を簡単に紹介しておこう。

 吉田石松老事件−1913年8月、名古屋市郊外で繭小売商が後頭部を殴られて即死、
1円20銭が奪われた。犯人のガラス工・海田庄太郎(22)と北河芳平(26)は自分
たちの罪を軽くするため、吉田石松(34・福井県生まれ)を主犯に仕立てた。どんな拷
問にも吉田は屈せず否認のまま起訴。1914年11月、無期が確定する。
 服役すること20年余、獄中2度の再審請求、大臣請願5回。1935年3月、仮出所
。海田と北河の所在を突き止め、罪をなすりつけた詫び状を取って3回目の再審を請求す
るが棄却。戦後になっても吉田は無実の訴えを止めず、あるときは天皇直訴を企てる。
 1962年10月、再審開始。1963年2月28日、名古屋高裁は「先輩の誤判を詫
びる。翁の余生に幸多からんことを祈る」と、天皇の名による判決を取り消した。ときに
吉田老は84歳、実に50年ぶりで再審史上初の雪冤がなった。それから9ヵ月後の12
月1日、永眠。「人権の神ここに眠る」と墓に刻まれた。

 加藤老事件−1915年7月11日朝、山口県豊浦郡殿居村で炭焼人夫が惨殺されてい
るのが発見された。同月22日に馬車曳き・岡崎太四郎(34)が、また彼の自白により
25日に共犯として農業・加藤新一(24)が、強盗殺人で逮捕された。1916年11
月、無期確定。
 終始一貫して無実を訴える加藤だったが、15年間模範囚として服役し、1930年1
2月に仮出所。1963年2月に「吉田岩窟王」が50年ぶりに雪冤したニュ−スに接し
、第1次の再審請求に踏み切る。1976年9月、再審開始。1977年7月7日、無罪
判決。ときに加藤老は86歳。雪冤闘争最長記録、事件から62年の歳月がたっていた。


 凄まじい執念である。これだけの執念がなければ、再審無罪など勝ち取れなかったので
ある。逆に言えば、それだけ冤罪に泣いたケ−スが多かったということだ。
 しかしこれは終戦前の野蛮な時代が生んだ産物であり、戦後は拷問等、暴力的な取り調
べは廃止されたはず、と仰るかも知れない。確かに、戦後4年目にして成立した新刑事訴
訟法においては、拷問はもとより脅迫や強制などもまた禁止され、そうした不法な手段に
よる自白は証拠とできないむね明記されている。だが刑事取り調べの現場では、今に至る
も拷問は根絶されていないのである。

 取り調べ過程で拷問が行われた戦後の冤罪事件として有名なものに、八海事件がある。

 1951年1月25日朝、山口県熊毛郡麻郷村字八海で、64歳の同い年のAさん夫婦
の死体が、隣人によって発見された。通報で警察が駆けつけた。夫は寝室の布団のなかで
、顔、頭、全身をめった斬りにされていた。妻は首を絞められたうえ、自殺を偽装するた
めに隣室との間の鴨居に吊り下げられていた。
 現場検証が行われ、物色の痕跡も見つかり、台所では焼酎の瓶が見つかった。瓶から近
くに住む経木製造業、吉岡晃元被告(22)の指紋が検出された。吉岡は逮捕され、最初
は否認していたが、その日のうちに事件のあらましを自白、自分一人で強盗殺人をやった
と供述した。
 ところが犯人は複数だと見た警察は、単独犯行の自白を認めず、共犯者がいたはずだと
追求。そこで吉岡は、遊び仲間の阿藤周平さんほか3人の名前を言った。4人は逮捕され
、密室で手荒い拷問を受け、吉岡の供述に合うような自供をさせられた。捜査陣は阿藤さ
んが主犯で5人の共同犯行であるとマスコミに発表した。
 1・2審で阿藤さん死刑、吉岡無期、他は懲役12〜15年の刑を受けた。吉岡は服役
したが、阿藤さんら4人は上告。冤罪事件で有名な弁護士、正木ひろしが阿藤さんらの無
実を『裁判官』『検察官』という本で訴え、ベストセラ−になった。これを映画化した今
井正監督の『真昼の暗黒』も空前のヒットとなり、裁判批判が噴き出した。
 検察、弁護の間で、単独犯か複数犯かの論争が繰り返された。最高裁へ3回上告された
結果、68年10月25日、阿藤さんら4人に無罪判決が出た。
 つまるところこの事件、吉岡の単独犯行だったわけだが、筆者は実は吉岡も無実だった
のではないかと疑っている。

 共犯として起訴された4人はいずれも拷問によって自白した。主犯と見なされた阿藤さ
んは、正木ひろし弁護士への手紙の中で、次のように拷問の様子を訴えている。

 調べ室に入れられると「前手錠」したのを取ってくれましたので、ほっとして四方を見
わたしていると、警察官が六、七名何事かささやいていましたが、いきなり私の両手を後
方にまわし、あっと言うまに、うしろ手錠をかけられたのです。・・
 何も言わずに四方より六、七名の警察官に蹴るなぐるの暴行を加えられたのです。私は
「何をくそ」とじっと耐えていましたが、身体の自由はまったくきかず、あまりの暴行に
叫び声を発し、「私は何も悪いことはしていない、人殺しなど夢にでもしたことはない。
このようなひどい目には何の恨みがあってするのか、理由はない。」と、大きな声で言っ
てやりますと、「何を言うか、前科者のお前が親玉ではないか。」と、ますます暴力の手
はひどくなっていくばかりです。鼻血は再度出ました。すると「鼻血ぐらい何だ。死には
せん。お前が自白するまではやる。」といって、こんどは線香の火を鼻の中、耳、首すじ
にやられるのには、私はまいってしまいました。夜じゅうぶっ通しで、まったく半殺しで
す。・・
 夜のあけるころには、身も意志もくずれ、口をかえす元気などは全然なく、ただ「ハイ
、やりました。」との一言、死よりもつらい言葉でした。

 逮捕の翌朝にはもう自白してしまった阿藤さんは、そののち検事と判事に腫れ上がった
手足を見せ、手錠の傷痕を見せて拷問を訴えたが、とりあってもらえなかった。あげくに
刑事たちには「検事、判事の前でよくも嘘をついたものだ」といって殴られたという。正
に踏んだり蹴ったりである。
 この事件を、1949年に施行された新刑事訴訟法が定着する以前の、捜査活動がまだ
戦前の旧体制の名残を残していた時期の例外的事件であると考えてはならない。1988
年から89年にかけて起きた幼女連続誘拐殺人事件の犯人、そうあの宮崎勤被告も拷問的
取り調べを受けているのである。

  89年7月にあなたは逮捕され、強引な取り調べが行われたと裁判で主張しているわ
けですが、具体的にどんなふうだったのでしょうか。
宮崎−私は警視庁の刑事が、任意の事情聴取あるいは取り調べの初日(89年8月8日か
9日)に、八王子署の取調室で、机を、イスに座っている私に押っぺしてきて私の腹をそ
れで押し続け、私はあと少しで窒息死させられたり、刑事に、こぶしで頭と腹をなぐられ
たり、背中と足に蹴りを入れられたりしてひどい目にあい、おっかなくてどうしようもな
かった。恐怖のため警察に合わせるように話さざるを得ませんでした。もう、初日から取
調べの最終日まで、ほとんど警察に合わせるような内容を話すしかなかったです。反抗し
たり、否定したりすると、またひどい目にあうから、ほとんど警察の言うことに合わせて
話しました。もちろん違うところは「違う」と言ったのですが、言うと物凄いけんまくで
怒って私をおどします。だから、私は「これ以上、違うと言うとまたひどい目に合わされ
る」と思って、それ以上言えなくなりました。ひどい目にあわされ、毎日毎日取調べが恐
かったです。(宮崎勤『夢のなか』創出版)

 あわれ宮崎、筆者は君が無実であると確信している。この宮崎の証言を見ても、警察の
体質というものが何十年経っても何も変わっていないことが良く分かる。拷問は旧体制の
名残なのではない。日本の刑事手続きの構造的欠陥にその原因があるのである。

 次に梅田事件の例をあげておく。
 1950年10月10日、北海道北見営林署員・大山正雄(20)が公金19万円を持
って失踪、その8ヵ月後、今度は留辺蘂署員・小林三郎(28)が480万円を持って失
踪した。巧妙な偽装工作があったため、横領逃亡として処理されるところだったが、19
52年9月、野犬が射殺体の小林を掘り出して犯罪が発覚。
 逮捕された清水はすぐ犯行を認め、羽賀竹男が首謀者であることが判明。同年9月17
日に逮捕された羽賀はポロッと大山殺害も漏らしてしまう。羽賀は、大山殺害の実行者は
梅田義光だと主張。罪をなすりつけた。激しい拷問に肝を抜かれた梅田は翌日自白。19
57年11月、無期懲役確定。1971年5月、網走刑務所から仮出獄。1985年2月
4日、再審開始決定。1986年8月27日、無罪判決。

 さて、梅田さんに対する拷問はどのようなものだったのか。

 梅田さんは北見市警察署の畳敷の部屋に正座させられ、十数人の警察官に取り囲まれ、
顔を殴る、頭髪や耳を引っ張る、警棒のひもを馬のくつわのように背後から口にかけて後
ろに引っ張る、両手を後に回させ、警棒のひもを手首にまきつけて後に引っ張る、正座し
ている両足のふくらはぎの上に警棒を橋渡しに乗せて踏みつける、体を逆さにして尻を警
棒で殴りつける、腹や腰を足蹴にする、頭や首をつかみ畳にこすりつける、指の間に鉛筆
をはさんで締めつけるなど、すさまじい暴行を受けた。また「死刑にしてやる」と脅迫さ
れたりもした。(小田中とし樹『冤罪はこうして作られる』講談社現代新書)



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