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悪魔組織の犯罪06
http://www.asyura.com/0306/nihon5/msg/560.html
投稿者 サム 日時 2003 年 7 月 12 日 00:03:47:

強制連行など存在しなかった

 強制連行、強制連行と書き立てて少し気分が重くなった。だが一口に強制連行と言って
も、必ずしも統一された定義が存在するわけではない。一般的に強制連行は以下の3段階
に分けることができる。
1.「募集」方式(1939年9月〜1942年1月)=「X人労働者募集要綱」によっ
  て行われた方式で、X総督府の指定した地域で労務動員計画の割り当てを受けた会社
  が「募集」という名目でX人を集めたもの。
2.「官斡旋」方式(1942年2月〜1944年8月)=「X人内地移住斡旋要綱」に
  よって行われた方式で、X人労働者の奪い合いを調整するため、X総督府内のX労務
  協会が一元的にX人労働者の徴発業務を行ったもの。
3.「徴用」方式(1944年9月〜1945年8月)=1944年8月の閣議決定「半
   島人労務者の移入に関する件」により、国民徴用令をXにも適用して行ったもの。

 方式の名前が示している通り、ナチスのユダヤ人狩りとは大分ニュアンスが違う。ここ
に一X人青年の手記を記す。

 昭和9年私は9歳の時Z村の公立普通学校(昭和13年から尋常小学校となる)に入学
した。校長は日本人で真面目な人でその人格には感化をうけた部分がある。12歳の時に
は「皇国臣民の誓詞」を暗記させられて苦悩し、14歳の暮には創氏改名を強制された。
15歳の3月に卒業、日本語がある程度出来るというので・・の時計店に奉公したが、技
術を習得どころか掃除、フロ炊きの雑役ばかりですぐいやになってやめた。・・
 昭和17年夏、友人から伝聞したところだと、「日本の鉄工所が社員を募集に来た」と
のこと。東京シャ−リング会社から幹部2、3人が募集に来ていた。応募も志願の形で口
頭試験に身体検査くらいで、手続きは極めて簡単で“千載一遇”というのはまさに、これ
だと思った。これまでにもう、長兄、次兄、姉は日本へ渡って工場で働いていた。・・
 私の日本生活は、東京の江東区南砂町3丁目?所在の「東京シャ−リング株式会社」か
らはじまった。・・
 私の仕事は、真っ赤な(高温に熱した)鋼塊が高炉から出て幾度も繰り返し圧延工程に
送られ、だんだん長い棒状に引き延ばされて出て来る、それを隙間を与えずに長バサミで
つかんで連続式圧延機(ロ−ル)にかける、つまり二重式逆転(?)をするわけだ。
 夏の工場内は煙と高熱でみなぎり呼吸すら困難な状態。そんなのはまだましだ。ロ−ル
から煙を吹きながら出る真っ赤な長い鉄筋などが、予想外にも高く宙返りしながら飛んで
来る、それを素早く長い鉄鉤でひっかけ、全力を注いで引っ張って来て最終ロ−ルに突っ
込んでやる仕事−それはたとえるに、飛んでくる砲弾や矢を食い止めようと必死になって
いる怪物を実感させた。この時少しでも油断すれば火玉の鉄棒に、人間もろ共にロ−ルの
中へ巻き込まれてしまうだろう。私は歯を食いしばって辛抱し続けたものの三ヵ月持ちこ
たえることは無理だった。
 私はとうとう三ヵ月で、会社に背信し、技術を習おうとしてかけていた希望も捨て、当
初の決心を変えてしまった。私は土曜日の夜眠らずして、明朝の逃亡についてしんみりと
熟考した。私は幼いころ、父から「平生一欺其罪如山」と漢文の句節を習って以来、父母
にはもちろんのこと、人との約束を破ったことはほとんどないといえる。罪を犯す人の気
持ちはその時の私のそれと変わらないだろう。
 翌朝、外出が許された友人と一緒に外出した。人混みの中へ一行が入った時、隙を見て
そっと身を隠して逃出に成功、省線電車(国電)から汽車に乗り換え一路北上した。会社
側と同僚の産業戦士の皆さんに対し、義務と義理に背いた行為を私は今なお詫び続けてい
る。同僚たちに加えられるはずの迫害を思うと身を削る思いがする。
 三時間以上はしって降りた駅は、はっきり記憶にないが、埼玉県のある田舎だったよう
だが看板を見て、ある工事場の飯場を尋ねて行った。そこの同胞たちはその間の私の事情
や苦労を聞いて、温かく迎えてくれたし、数日間の寝食をただですませてくれた。やはり
そこの紹介で今度は、山梨県身延で工事をしていた飛鳥組に雇われた。17歳の秋だった
。・・
 私は結局ここでも辛抱は出来なかった。人夫たちと相談したすえ、山梨県の身延近くの
山を越えて、下部川というところの工事場へ引越した。大きなバラック建てがあり、そこ
には数人の日本人を混じえて二十人近く人夫がいた。この時が私の17歳の冬であった。
一番うれしく思ったのは、食べなれたキムチと・・味噌汁に唐がらし味噌の発見だった。
久振りに故郷へ帰ったような味だ。この時私は鮭の焼き魚も初めて食べてみた。ご飯も「
シャ−リング会社」の食堂とは違って、真っ白の白米飯が何杯でも、おかわりがとれた。
それに懐かしい・・語をいくらでも自由にしゃべれたし、危険な仕事もない。ここは外部
人の出入りもなく、私のような逃亡者には最適の場だと思った。日本一の無風地帯か死角
の地である。ここの仕事は川から掘り出した砂利や石ころを、二人か四人モッコで運ぶも
の。ここでも私の相手になりそうな友達、若者はいない。ここでこんな仕事をしている私
自身は、大分県に住む長兄を捜して行くための、臨時停留所としか思わなかった。こん苦
手な仕事も間もなく手放すだろうと独りで思った。私はここで18歳のお正月を迎えた。
春、大分県の長兄から手紙が届いた。これで兄に会えるだろうし、会えたら・・と明るい
私の前途を思った。(古野直也著『・・軍司令部』国書刊行会より)

 少しも暗くない内容である。この青年は1942年夏に来日しているので、2.「官斡
旋」方式であるはずだが、この手記を読む限りでは何故か「募集」方式になっている。や
がてこの青年は、長兄と次兄の送金を毎月五十円(下宿賄付三十五円)貰って東京官立無
線電信講習所に入った。
 一口に強制連行と言っても人様々であることがこれで分かろう。もちろん炭鉱等で苦労
された方が存在したことは否定しない。ここで筆者が言いたいのは、言葉面で、イメ−ジ
で安易に物事を判断してはならぬということなのだ。


 悪魔の世論操作

 いよいよ最後の謎解きに入る。これまでは無実の人が犯人にされてしまう過程と、真犯
人の正体について述べてきた。これから事件の動機の分析にかからねばならない。そうは
言っても、これは読者が想像する程難しい作業ではない。単純な話なのだ。指摘されれば
誰でもなるほど!と思うたぐいの話だ。ところがこれまでこの動機について正しく指摘し
た研究家は存在しなかった。誰も思いつかなかった、想像も及ばなかった、言われてみて
初めて何だそうだったのかと納得する。例えて言えば、手品みたいなものである。種を明
かされれば、な−んだ、ということになるが、種を知らなければその奇跡に幻惑されてし
まう。だからこれはやはり最初に謎を解いた人間に軍配はあがるのである。そういうもの
であると受け取って欲しい。
 前口上はこのぐらいにして、さっそく本論に入ろう。単刀直入に言って、秘密結社マジ
シャンの狙いは、犯罪を通じた大衆コントロ−ル、世論誘導、心理操作にあるのである。
犯罪ほど大衆にインパクトを与えるものはない。これは時代が変わろうと、国が変わろう
と、常に変わらない普遍的真理である。政治、経済、文化、世の中にはもっと重要なもの
が存在してるじゃないか、と仰られるかも知れない。軍事もそうであろう。戦いの帰趨は
戦時下には一国の関心事であろう。
 それでも犯罪ほど人々の精神に深く刻印される出来事はなく、後々まで人々の話の種と
なるものは少ないと筆者は言いたい。その犯罪が凶悪な殺人事件だったら尚更である。犯
罪が単に一過性の局所的な出来事に留まらず、社会全体にとって重大な関心事であると見
なされるのは理由がある。それは各々の犯罪に対して、我々の魂が共鳴したり反発したり
しているからなのだ。共鳴にしろ、反発にしろ、いずれにしろ我々は犯罪に無関心でいら
れない。何故なら犯罪とは時代を映す鏡であり、我々自身の姿がその鏡に投影されている
からなのだ。犯罪とはその時代の精神を凝縮したエッセンスみたいなものだ。だから犯罪
を分析することでその時代の人々が何を考えていたか分かる、というのがまあ一般的な犯
罪論であろう。
 ところが筆者の犯罪論はもっと奥が深い。筆者は、時代精神の反映が犯罪となって現れ
るとは考えていない。そうではなくて、時代精神を操るために犯罪が使われているのだと
考えている。世論を誘導するために、世論操作のために、大衆の心理操作のために、政治
的なコントロ−ルのために、犯罪が用いられるのである。
 つまりこういうことだ。秘密結社が達成したいと思っている目的がここにあるとする。
その目的は政治的なものでも、経済的なものでも、文化的なものでも、何でも構わない。
民主主義社会のシステムでは、国民の多数の合意に基づいて政策は決定される。法案が作
られそれが国会で可決なり否決なりされるのだ。もちろんその前にその法案に対する国民
の理解が得られていなければならない。公の場で、あるいは私的な場で、その法案に対す
る議論がなされてしかるべきである。その議論を土台にして国民は私情を交えず、冷静に
公正にその法案の善し悪しを判断し、それを支持するかあるいは廃案にするかを決定しな
ければならない。
 これが表世界のシステムである。もちろん大衆が知らないだけで、この世界には恐ろし
い裏世界も存在している。その裏世界では、政府はマスコミを使って大衆をコントロ−ル
することで所期の目的を達成しようとする。表の世界とどう違うのかと言うと、ここでは
目的達成のためには手段は選ばないのである。殺人等を含めた凶悪犯罪も、その目的達成
の手段として使われるのだ。
 分かりやすい例をあげよう。例えば政府が少年法を改正したいと思ったとする。表の世
界ではできることは限られている。いくら少年法改正に向けて論議を尽くしたとしても、
その効果はたかが知れている。国民に対するインパクトも実質的にはゼロである。しかし
これが裏の世界の話となると状況は一変する。突然、少年による凶悪犯罪が増える。マス
コミが騒ぎ、識者と言われる人たちの意見が紙面を賑わす。巷の話題もそのことばかり。
必然的に少年法改正論議にも花が咲く、ということになる。
 おいおい、これではまるで最近の少年犯罪激増は政府による陰謀であると主張している
ようなものではないか、と仰るかもしれない。実はその通りなのである。そんな馬鹿な、
いくらなんでもそこまではやらないだろう、と言うのが一般大衆の反応である。自分の貧
困な想像力が及ばない問題については、たちまち心を閉ざしてしまう。それが陰謀家ども
の狙い目であることも知らずにだ。存在しないものについては攻撃される恐れはない。大
衆の理解が及ばない陰謀については、暴露される危険はない。政府の影で暗躍する秘密結
社のネットワ−クはその秘密性の故に無敵なのである。
 秘密結社は警察組織を完璧にコントロ−ルしているから、犯人がうっかり現場に残して
しまった証拠も握り潰すことができる。スケ−プ・ゴ−トの逮捕で事件に幕を引き、激昂
した世論を宥めることもできる。そこで何も知らない大衆は一安心して、事件はすっかり
片づいたと思い込む。だが実はそこから本当の事件は始まっているのだ。
 少年犯罪が繰り返されることにより、今まで否定的だった人も少年法改正やむなしの意
見に傾く。世論の動向を見極めてタイミングよく少年法改正法案が国会に提出される。少
年犯罪は少年法改正に利用されたのではなくて、少年法を改正するために少年犯罪が引き
起こされたのである。これが筆者が言うところの世論誘導、世論操作、心理操作なのであ
る。民主主義社会とはあくまで合意を前提とした社会である。全体主義国家のように上か
ら一方的に法律を押しつけるわけにはいかない。だから大衆が自発的にその法律を必要と
しているという雰囲気を作り上げることが重要になる。新法制定は政府によって無理やり
押しつけられたものではなく、我々が自らが欲した結果なのだ。民主主義社会の世論操作
は全体主義社会のそれよりもはるかに巧妙である。民主主義社会が全体主義社会より危険
だという理由がこれで分かってもらえただろう。筆者は民主主義社会を「笑顔のファシズ
ム」と呼んでいる。
 そしてこの世論操作の技術は日本でも明治維新以来、あるいはひょっとしたらそれ以前
から行使されてきた。世論操作のために秘密結社によって遂行された犯罪例を、これから
いくつかのパタ−ンに分類して、その動機を解明して行きたい。

 宗教を馬鹿にするパタ−ン

 このパタ−ンにはタヌキ憑きキツネ憑き事件が含まれる。ここに2つだけその実例をあ
げる。
 1927年11月17日午前4時ごろ、東京府下小松川下平井に住む小泉曾蔵(47)
から内縁の妻・鈴木きつ(40)が変死したとの届け出があったので、小松川署では警視
庁鑑識課員の出張を要請し、遺体の検視にあたった。頸部と両手首に緊縛したと思われる
傷痕があり、他殺の疑いが濃厚であった。そこで、曾蔵ら家人を厳しく取調べたところ、
驚くべき事実が判明した。変死したきつは、最近精神に異常をきたしていた。曾蔵ときつ
の姉・鈴木みよは、きつが気がふれたのはキツネが憑いたのだと信じ、本所中ノ郷の生玉
稲荷の巫女・水花こと鈴木よし(46)に、キツネ落としの祈祷を頼んだ。
 16日の夜、女行者・よしは信者の笠井笹真と内田克作を連れて曾蔵宅を訪れ、さっそ
くキツネ落としの秘宝にとりかかった。ところが、キツネの憑いたきつが逃げ出そうとす
るので、首と両手を縄で縛り上げ、キツネを追い出すのだと称して、きつの全身を激しく
もみつづけた。体の衰弱していたきつはこの荒行に耐えられず、心臓麻痺をおこして死亡
したのである。曾蔵ら家人はきつが静かになったので、これはキツネが落ちたせいだと喜
んでいたが、やがてきつの体がすっかり冷たくなっているのに気付き、驚いて届け出たと
いうのが事の顛末だった。次の日、女行者・鈴木よしら3名、曾蔵と鈴木みよの5人が、
傷害致死罪の容疑で検挙された。

 1979年5月7日未明、熊本県芦北郡芦北署は、「死因が変だ」と前夜医師から届け
出のあった芦北町内の無職・山崎直美(26)の死体を調べた結果、直美は撲殺されたも
のとして、父親(63)と弟(24)、それに嫁いでいる34歳と30歳の直美の姉ら4
人を傷害致死の疑いで緊急逮捕した。
 調べによると直美は、この年の3月半ばごろから高熱を出し、わけのわからないことを
口走るようになった。母親・ツギヲ(54)が祈祷師にみてもらうと「直美にはタヌキが
憑いている」とのこと。同地区ではタヌキのほかに、キツネやイヌ、ヤマワロ(カッパ)
などが時折り人に憑いては大騒動となる。
 成程そうか、やっぱりタヌキか。寝込んだ母のかわりに嫁ぎ先から看病にきている2人
の姉にも、直美は身をすり寄せたり変な悪さをする。結局親族4人は、「この際直美を救
うためにはタヌキをたたき出すしかない」との結論に達した。それが6日の午後4時すぎ
のことである。
 まず打ち合わせどおり弟が直美を縁側に押さえつけた。すかさず父がゲンコツで直美の
項や肩を殴りつける。握らせた両コブシが開けばタヌキが逃げおちたときだという謂れが
ある。だが、コブシの片方がどうしても開かない。そのうち姉2人も加わって、凶器もマ
キやビニ−ルパイプにエスカレ−ト、みんなして“タヌキ”を殴りつけた。その“タヌキ
”が静かになったのは3時間後の午後7時ごろである。しかし、直美の具合がどうも変だ
。あわてて人工呼吸をほどこしたが、もう息はなかった。「兄弟のひとりが発狂して死ん
だ」と町内の医師に届けられたのはそのあとのことであった。

 タヌキが憑いたキツネが憑いた、とくればこれは単なる迷信であり、それで人を殺して
しまったとなれば、迷信を通り越して狂信となる。気狂いは何をするか分からない、とい
うのがこの手の話を聞いた人の正直な感想なのではなかろうか。逆に考えれば、タヌキ憑
きキツネ憑きといった民間信仰を卑しめ祈祷師という職業を根絶するために、この種の事
件がでっち上げられたと言える。一体何故?それは祈祷師や霊媒、巫女といった人たちは
霊界に自由に出入りすることができるからである。また彼らは、霊界に出入りしたり霊性
を向上させたりすることのできる技法を持っている。それは神道的な技法であったり、仏
教的な技法であったり、あるいはアニミズム的な技法であったりする。そういうものが存
在していては、秘密結社は困るのである。何故なら、霊性が高く知恵のある人は陰謀の存
在に気付いてしまう恐れがあるからだ。秘密結社にとって、宗教ほど(自分たちの息のか
かっている宗教以外)危険な存在はないのである。だから秘密結社は宗教を馬鹿にするよ
うな世論を時間をかけて作りあげてきたのである。
 明治維新以後、日本人は宗教というと無知蒙昧の象徴のように考えてきた。その原因を
作ったのは、1万円札でおなじみの明治の思想家・慶応大学の福沢諭吉である。福沢諭吉
の自伝『福翁自伝』に次のような一節がある。

 福沢は少年時代に、自分の藩の殿様の名前を書いてある紙を足で踏んづけてしまい、兄
にこっぴどく叱られたことがあった。そこで反骨精神旺盛な福沢少年は、「神様の名のあ
る御札を踏んだらどうだろうと思って」「踏んでみた」。
 ところが「何ともない」。そして、今度は叔父の家の稲荷の社の中の、御神体の石を引
っ張り出し、代りの石を入れておくというイタズラをする。
 「馬鹿め、おれの入れておいた石に御神酒を上げて拝んでいるとは面白い」「幼少の時
から神様が怖いだの仏様が難有いだのいうことは一寸ともない」「うらないまじない一切
不信仰で、狐狸が付くというようなことは初めから馬鹿にして信じない」
 そして福沢は最後にこう自慢する。
 「子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」。(『福翁自伝』岩波書店)

 何とも罰当たりな男だ。福沢以後、宗教を馬鹿にして信じないことが知識人の条件のよ
うになってしまった。オウム真理教事件であれだけ世間が騒いだのも、オウム真理教のメ
ンバ−の中に医者や弁護士、一流大学の学生といった所謂エリ−ト階級が多数、含まれて
いたからである。彼らは福沢諭吉の呪縛にかかっていなかったのだ。

 古き良き村落共同体破壊のパタ−ン

 秘密結社による旧体制の破壊は、宗教破壊に留まらない。村落共同体を破壊して、都市
型個人主義社会に日本人を飲み込んでしまうことも、彼らの重要な目標である。そのため
に起こされた事件を3つあげる。

 有名な津山30人殺し事件。わが国では最大の大量殺人事件。世界の犯罪史上でも短時
間に30人も殺害した例は数少ない。1938年5月21日、岡山県苫田郡西加茂村で農
業・都井睦雄(21)が黒詰えりの服にゲ−トルを巻き、地下足袋、頭に懐中電灯2本を
つけ、胸に自転車用ランプを下げ、日本刀1本匕首2本を左腰に差し、手に猛獣狩り用口
径12番9連発の猟銃を持って、まず地区全体の電線を切断、暗黒にした上でつぎつぎに
村の家々をしらみつぶしに襲い、猟銃を発砲、日本刀で刺殺し、約1時間半の凶行後、都
井は付近の山のなかに逃げ込み、遺書を書いたあと猟銃で自殺した。全戸数23戸、人口
わずか111人しかいない地区で、即死28人・重傷後死亡2人・重軽傷3人と計33人
が殺傷された。

 問題は事件の動機である。都井は16歳のとき軽度の肋膜炎を患い、自宅でブラブラし
て療養していた。19歳の時、右肺尖カタルと診断されたが、都井は重度の肺結核と思い
込んでいた。
 20歳の春ごろから、それまで村人とほとんどつきあわなかった都井が急に村の女性や
人妻に対して性的関係を迫るようになった。この山地は冬の間、雪に閉ざされる。男は長
期の出稼ぎや山に入って炭焼きをする者が多い。村には老人と婦女子だけが残る。「夜這
い」など性的に放縦な旧習が色濃く残る地域でもあった。
 21歳の徴兵検査で都井は結核で不合格となる。都井は失意の底に落ち、徴兵検査後は
「色情狂」といわれるほど、手当たり次第に村の女に手を出し、銃器を集める異常行動が
目立った。22歳の5月、「結核と知って手のひらを返したように嫌悪、白眼視し、村人
に自分の悪口を言いふらした」女たちや村人を大虐殺して、都井は自殺して果てた。

 仲間外れにした村人への復讐というものが、事件の表向きの動機である。しかし筆者は
この事件の犯人は都井ではなかったと考えている。都井に扮した者が村人を虐殺、都井に
遺書を書かせて自殺に見せかけて殺害したのであろう。あるいは遺書は別の何者かが書い
たのかも知れない。件の村の近くには軍の基地があったので、軍人の事件への関与が疑わ
れる。都井睦雄は哀れなスケ−プ・ゴ−トであったのだ。
 それでは事件の本当の動機は何処にあるのか。事件の舞台は、戦前のがんじがらめの人
間関係で窒息しそうな村落共同体である。ここには因習として色濃く残る「夜這い」など
の性的に放縦な男女関係があった。そんな中で、今のエイズ以上に恐れられ嫌われた不治
の病である結核に冒され、村八分にされた青年の積もり積もった怨念が爆発したのだ。結
核のために青年の憧れの的である軍人にもなれず、村の女との性的関係も絶たれてしまっ
た。睦雄に残された唯一の道は、村人を道連れに自殺することだけであった。
 誰でもこんな話を聞くと、閉鎖的な村社会に嫌悪を感じるだろう。都会では決して起き
なかっただろう類の事件である。現代人は、特に大都会に住む人は田舎での生活を嫌う。
曰く、不便である、曰く、娯楽がない、それに人間関係が緊密すぎて息が詰まる、つまり
自由がない。都会人に許された特権は、匿名の自由性といったものだ。田舎では、ちょっ
と人と違ったことを言ったりやったりすると、とても目立ってしまう。髪の毛が金色だっ
たり、服装が派手だったり、不倫していたり、変な趣味を持っていたりしたら、たちどこ
ろに隣近所の噂話の種にされてしまう。そんな束縛を嫌って、都会に働きに出る若者が増
えている。彼らは多少の犠牲を払っても田舎から脱出したいのだ。音楽をやりたい、タレ
ントになりたい、そんな野望などなくてもいい、東京の街を流行の服に身を包んで歩ける
だけで幸せなのだ。開放された気分を味わえる。都会では自由の空気が吸えるのだ。
 田舎ではできなかったことが都会ではできる。ブランド物の服やバックも買えるし、自
分の娘くらいの年齢の女と遊んでいても後ろ指さされることはない。朝何時に起きようが
昼夜逆転した生活を送ろうが、自由だし不便はない。風俗で働こうが定職に就かずフリ−
タ−でぶらぶらしていようが、家賃さえきちんと払っているなら誰にも文句を言われる筋
合いはない。まるで天国だ。田舎だとこうはいかない。日が落ちれば村は死んだように眠
りについてしまう。ネオンの明かりもないし聞こえてくるのはイヌの遠吠えくらい。家庭
内にも厳としたル−ルがある。田舎のような大家族が同居している家では、嫁と姑・舅問
題も発生する。家族の目を気にして隣近所の目を気にして、好きなことも自由にできない
。田舎ではまだ女性に対する目は厳しい。女性に求められる役割は良き妻であり良き母で
あることである。都会のように男女同権、女性の解放・社会進出などもってのほかなのだ

 とまあ田舎のマイナス面だけ述べてしまったが、田舎にももちろん良い面は存在してい
る。何と言っても一つの村が一つの家族のようなものだ。村ではみんな顔見知りだし、相
互扶助が当たり前である。困っている人は手助けし、お年寄りには親切にし、年頃の娘さ
んがいれば縁談を持ちかける。村八分、村の厄介者でもないかぎり、お節介なくらいに世
話を焼いてくれる人が何処かにいるのが、田舎というものである。都会みたいに、このく
そじじい、くそばばあ、あっちへ行け!と蹴飛ばされることはないのだ。都会の片隅で誰
にも気付かれずにこっそりと死んでいた、ということもない。田舎を捨てて都会に出た若
者たちも、生き馬の目を抜くような都会での生活に疲れ果てて田舎に戻って来ることもあ
る。ドライな人間関係に金だけがすべての生活。ふと気付けば消費者金融から多額の借金
をしていて鬼のような督促を受ける。あげくの果てには風俗に売り飛ばされたり、マグロ
漁船に乗せられたりする。自殺の一歩手前まで行き、自己破産して危うく命拾い。そこま
でいかなくても、他人の視線の冷淡さに触れたり、その瞳の中に自分の利益のためには人
を犠牲にして恥じない醜いエゴイズムの光が宿っているのを目にした時、ふと自分が捨て
てきた田舎での生活が懐かしくなる。結局あいつが欲しかったのは金だけだった、あの人
があたしに求めたのは体だけ、都会には真の友情も愛情も存在していなかった。そして、
ああ、カントリ−・ロ−ド、テイク・ミ−・ホ−ム、ツ−・ザ・プレイス〜となるのだ。

 しかし秘密結社にとっては、大家族のような田舎の緊密な人間関係は自らの世界支配に
とって邪魔者である。何故なら村落共同体は一つの強固な集団であり、集団はコントロ−
ルしづらいからである。しかもその集団は秘密結社が破壊しようとしている旧体制の価値
観を共有している。大家族制度、宗教的文化的な風習、男女の放縦な性関係を許容する「
夜這い」、地主制度、長子相続制等である。そんな田舎の村落共同体を破壊するために、
村落共同体に対する嫌悪感を大衆の心に植え付けるために、秘密結社は津山30人殺し事
件を演出したのである。

 次に紹介するのは、名張毒ぶどう酒殺人事件である。1961年3月28日夜、三重県
名張市で大量殺人事件が発生した。場所は、奈良との県境に近い葛尾という山間の集落で
あった。当夜、同地の公民館では「三奈の会」という生活改善クラブの会合が開かれてい
た。その席で、ぶどう酒で乾杯した17人の女性のうち、5人がその場で血反吐を吐いて
死亡、12人が重体となった。ぶどう酒には農薬のニッカリンTが入っていた。関係者の
犯行と見た警察は、葛尾の全住民から事情聴取を行った。
 当初、死亡した5人のうちの1人、奥西勝の妻・千恵子が疑われた。千恵子は勝の愛人
・ヤス子に嫉妬、無理心中を企てた、と勝が証言し新聞もそう報道した。これで事件は解
決したかに見えた矢先、千恵子がぶどう酒を飲む前、「今夜、あまり酒を飲んだらあかん
と父ちゃんが言うの」と言ったという噂を、捜査官は聞き込んできた。勝は連日のように
厳しい追及を受けた。家族のためを思い、彼は犯行を認めた。事件の6日後、4月3日午
前3時40分だった。警察はこんな夜中まで、参考人に過ぎない者を取り調べていたので
ある。
 1964年12月23日、1審・津地裁は証拠不十分で無罪。しかし検察側控訴を受け
て2審・名古屋高裁は1969年9月10日、逆転有罪(死刑)の判決。そして1972
年6月15日、最高裁で死刑確定。死刑が確定してから提出された5回の再審請求は、す
べて却下された。奥西勝元被告は、いまも、名古屋拘置所から無実を訴え続け、第6次再
審請求中である。

 さて問題の事件動機は何なのか。葛尾は行政区分のうえでは名張市とはいえ、当時市に
編入されたばかりで戸数わずか17、深い谷あいに小さな集落を形成していた。余所者は
少なく閉鎖的な半面、既婚者の男女それぞれが他の男女と自由な性的関係を持つという、
おおらかさがあった。勝の自白によると、犯行動機は三角関係の清算だった。しかし、開
放的なこの地では三角関係、四角関係はめずらしくなかった。関係を急いで清算する理由
は何もなかったのだ。
 名張毒ぶどう酒殺人事件でも、のどかな村落共同体と、そこでの男女の放縦な性的関係
がタ−ゲットにされた。警察に犯人と疑われた村人は、互いに疑心暗鬼に陥った。そして
村に平和を取り戻すためにスケ−プ・ゴ−トとして警察に差し出されたのが奥西勝であっ
た、というのが事件の真相であろう。筆者は問題のぶどう酒には流通段階で毒物が混入さ
れたのではないか、との感触を得ている。つまり犯人は奥西ではないということだ。この
事件が世間に与えた印象は、閉鎖的な村落の乱れた男女の性的関係が事件の引き金になっ
た、というものだった。一見平和的に見える農村にも、世間の目から隠された暗部が存在
するのだ。この事件が葛尾の村民に残した傷痕は大きい。だが名張毒ぶどう酒殺人事件は
日本の一地方集落の人間関係を破壊しただけに留まらず、平和でのどかで村人全員が仲む
つまじく暮らす村落共同体といったイメ−ジをも粉砕したのであった。

 この手の事件は拾い上げようと思えばきりがない。そこで次の毒殺事件を最後の例とし
たい。1961年1月8日、瀬戸内海の静穏な島、広島県因島市の農業M男(32)方で
、農薬の入っていた饅頭を食べたY子(4)が急死した。同家では1957年から59年
にかけ、いっしょに生活していた兄夫婦とM男の次女と三女の4人が「不審死」していた
。そこへ「おかしいと評判だ、調べてくれ」と因島区検察庁へ密告電話が掛かったことか
ら「毒殺事件」へと発展、M男は同年2月2日に逮捕された。
 しかし、逮捕直後に連続5人毒殺を自供したはずだったが、結局、捜査本部が起訴した
のはY子殺しと、他3人の女性の殺人未遂のみ。1968年7月末、広島地裁尾道支部は
懲役15年の判決をM男に下した。しかし、饅頭の入手経路、農薬の仕掛け方、指紋など
、直接的な物証は皆無。膨大な自白はすべての事柄にわたって二転三転してきた。そして
1審から6年後の1974年12月10日、広島高裁は自白の信用性を否定、M男に対し
「疑わしきは被告人の利益に」の原則を適用して無罪を言い渡した。

 まだ封建制の残滓が残っていた昭和30年代、昔の農村社会ではよくあったことだが、
この島でも近親者同士の内婚が多く、道路に沿って長々と続く何の変哲もない家並みの中
に、濃密な血を分けた複雑な家族関係が営まれていた。M男が親族を次々に殺害した動機
は、財産の保全にあったと言われた。
 1947年に大改正が行われるまで、相続法は家督相続だった。いわゆる「長子相続制
」で、財産の継承権の第一優先は子であるが、男子優先・嫡出子優先・年長優先の三原則
によって選択された。つまり、長男がすべてを相続するきまりになっていたのである。
 法律が変わり、新法になった後も農家などは田畑が分散するのをおそれ、事実上の家督
相続を行っていた。狭い田畑を子供たちに細分することは、財産を減らすことであり、ま
かり間違えば共倒れになりかねないからだった。次男としての地位を呪ったM男は兄を亡
き者にして財産を独占し、口減らしのために娘たちを毒殺したのだとされた。一見もっと
もらしい話である。しかしM男が無罪とされたからには、事件の真犯人と真の動機を別の
所に捜し求めねばなるまい。
 この事件でタ−ゲットにされたのは、「長子相続制」であった。法律が改正されたとは
いえ、地方の農村では財産保全のためにまだ長子相続が行われていた。秘密結社はこれが
気に食わなかったのである。これでは国民の財産をかっぱらうことができないではないか
。財産が細分化されてこそ、税金等の名目で国民の財産を奪うことができるのである。「
長子相続制」を破壊するためには法律改正だけでなく、「長子相続制」に対するマイナス
・イメ−ジを国民の心に植え付けねばならない。そのためにこの毒殺事件が企画実行され
たのである。

 日本社会を分断させるパタ−ン

 秘密結社はらい病患者、在日朝鮮人、被差別部落民問題を掘り起こして日本社会に紛糾
の火種を持ち込み、日本を分断支配しようとする。眠った子をわざわざたたき起こすこと
をするのだ。以下は、このために引き起こされた犯罪例である。

 少年臀肉切り取り事件
 1902年3月27日、東京・麹町区下二番町で、同町に住む小学生・河井惣助(11
)が圧殺され、臀部左右の肉を削ぎ取られる事件がおこった。麹町署では、臀部・踵の肉
は興奮剤や薬用として効果があるという迷信から削ぎ取ったのではないかとみて、直ちに
非常線を張って犯人の逮捕にあたったが、捕まえることができなかった。
 約3年後の1905年5月25日、薬店店主殺し容疑で逮捕された野口男三郎(36)
が、臀肉事件の犯人として浮上。野口は大阪生まれ、東京外国語学校へ通っているうち、
麹町区下六番町に住む漢詩人・野口寧斎の家に出入りするようになり、寧斎の妹の婿養子
となった。寧斎はレプラ(らい病)患者だった。
 警察の取り調べに対して男三郎は、レプラには人肉を食べさせるとなおるという迷信を
信じて、惣助を殺し、人肉ス−プにして寧斎と妻に飲ませたと自供した。ところがその後
、その寧斎も不審な死に方をしたので警察は、男三郎が外国語学校を落第して退学させら
れていたことを知った寧斎が男三郎と妹を離縁させようとしたため、それを恨んで5月1
2日、病弱だった寧斎を病気で死亡したように装い毒殺したものとみて厳しく追及、男三
郎も犯行を認めた。
 1906年3月19日、東京地裁で行われた公判で男三郎は、無実を主張、臀肉事件と
寧斎殺しについては犯行を否認。5月16日、臀肉事件と寧斎殺しは証拠不十分、薬店店
主殺しで死刑判決。1908年7月2日、死刑執行。

 これはかなり有名な猟奇殺人事件である。らい病の薬には人肉、特に生肝が良い、とい
う迷信が存在していたことを、この事件で筆者は初めて知った。実にショッキングな事件
である。らい病患者に対する偏見を煽りそうな事件だ。
 1907年の「癩予防に関する件」制定以来、基本的には患者の隔離政策がとられ、強
制入所や外出制限、断種・中絶手術の強制などによりらい病患者の人権は全く無視されて
きた。患者、家族、親族などへの結婚や就職の差別、偏見をもたらし自殺や一家心中に至
った例もあった。
 少年臀肉切り取り事件がらい病患者に対する偏見を煽り、患者の隔離政策を援護する役
割を果たしたことは否めない。らい病患者がらみの事件を後2つ取り上げる。

 長野県上伊那軍朝日村で1905年7月3日、女性1人と子供2人が絞殺され、生肝を
取られるという事件が起こった。犯人は同村の水車および穀類販売業・馬場勝太郎。勝太
郎は氏名不詳の大阪生まれの男に、らい病の薬にするので女の生肝を手に入れれば150
円の報酬を払うともちかけられ、同日の夜、2人して犯行に及んだ。
 1906年8月20日、勝太郎は再び大阪の男と2人して女性を絞殺、山中に死体を運
んで首を切断して生肝を取り出し、死体は埋めた。同年9月2日には、勝太郎は一人で道
で会った女性を絞殺しようとしたが、未遂、逮捕される。1907年6月4日、死刑確定

 1938年5月5日午後、愛知県愛知郡天白村の農業・牧近松の次男・延一(9)が、
自転車に乗った若い男に誘拐された。4日目の5月8日早朝、名古屋市昭和区萩山公園の
山林内で、遊びにきた2人の小学生が、延一少年の死体を発見して警察へ通報。ズボン吊
りで絞殺された延一少年は、みぞおちの部分にえぐられた傷があり、すでにウジがわいて
いた。遺体は名古屋大学医学部で解剖に付され、殺害は誘拐当日と推定された。またみぞ
おちの傷は、犯人が生肝(胆嚢)を入手せんとしたため生じたことが判明。
 延一少年と一緒だった少年の証言から、犯人の顔には目立つ腫物があったこと、人間の
生肝を秘薬とみなす迷信とによって、殺害者はハンセン氏病(らい病)患者であることが
想定された。5月24日、犯人は名古屋市東区山田西町の朝鮮出身の木村金太郎こと雀東
雲(24)であることが突き止められた。5月27日、警察が逮捕のため雀の下宿先へ向
かうと、雀はすでに逃走していた。6月1日早朝、岐阜県羽島郡内の東海道線の線路上で
、轢死体となった雀が発見された。飛び込み自殺であった。

 インドあたりを旅行すると、らい病患者が道路で物乞いしている姿によく出くわす。に
ゅっと差し出された手を見ると、指が全部抜け落ちていて手の先が丸くなっている。まる
で木の切り株のようである。神経質な人は伝染するのではないか、と恐れおののくかも知
れない。しかしらい病の伝染力は強くはないし、現代では治療薬も開発されている。らい
病はもはや不治の病ではなくなったのである。
 日本の街中でらい病患者を見かけないのは、日本ではらい病に限らず病人は病院へ隔離
されてしまうからだ。病人や老人や死人などを人の目に触れない所に押しやるのが、日本
人の体質なのだろう。まるで臭いものに蓋をするかのように。インドでは全てがあからさ
まである。死者と生者が路上で共存し、健常者と障害者、病人が渾然一体となって町を行
き交う。だからインドは素晴らしい、とは筆者は言わない。誰でも死にたくはないし、病
気であるよりも健康でいたいからだ。だがインドの偉大な聖者が洞察したように、病も死
も老いも、我々の現実なのである。目をそらすことは許されない。醜い現実に覆いを被せ
て、うわべだけ綺麗に塗りたくったのが日本の社会なのだ。しかし殺菌消毒されたような
東京の街も、雨が降れば下水から汚物が溢れだす。異物や汚物を排除して清潔幻想の上に
成り立っている日本社会は、それ自体病的な存在なのである。

 次に在日朝鮮人関係事件について述べる。戦後起こった在日朝鮮人関係事件で筆者が思
いつくのは2つである。小松川高校女生徒殺人事件と金嬉老事件である。

 小松川高校女生徒殺人事件は、1958年8月21日朝、東京・江戸川区平井の都立小
松川高校屋上で、17日から行方不明だった同校定時制2年の女生徒(16)の死体が発
見された事件。遺体はスチ−ム管の覆いの中に隠されていた。被害者宅や捜査一課長あて
に遺品の櫛や手鏡が郵送されてきたり、捜査本部や新聞社に、反響を楽しむような電話が
かかったりと、犯人の異常性を感じさせた事件であった。
 9月1日、小松川高校定時制に通う在日朝鮮人工員の李珍宇(18)が逮捕された。李
珍宇は8月17日に顔見知りの被害者を校舎屋上に呼び出し、ナイフで脅迫、暴行の上、
扼殺し、死体を隠したことを認めた。

 李珍宇は秀才であった。IQ135、学業成績トップ、読書家でドストエフスキ−など
を耽読。しかし彼は極貧の家庭に育った。図書館から本を盗んで保護観察の処分を受けた
。中学を卒業しても進学できず、日立製作所などの入社試験を受けたが不合格、やむなく
零細な町工場を転々としながら、向学意欲を満たすため、定時制に通っていた。
 こんな前途有望な青年が、強姦殺人のようなくだらない犯罪を犯して死刑にされてしま
った。実に残念である。彼は何故強姦殺人を犯すに至ったのか。それは彼が在日朝鮮人と
して生まれたことと無関係ではありえない。差別と貧困、この2つが彼の心の中にやり場
のない憤りを生んだ。それが凶悪な犯罪となって現れたのが、小松川高校女生徒殺人事件
であったのだ。
 これが世間の見方である。獄中の李珍宇はカトリックに帰依し、聖書、宗教書を熟読し
た。『李珍宇全書簡集』には「彼女達は私に殺されたのだ、という思いが、どうしてこの
ようにヴェ−ルを通してしか感じられないのだろうか」という一節がある。体験が「夢」
のように感じられて、現実的な感情を持てない、というのだ。それもそのはずである。李
珍宇は犯人ではなかったのだ。小松川高校女生徒殺人事件は日本社会に根強く存在してい
る在日朝鮮人差別問題を浮き彫りにした。そしてその在日朝鮮人差別の実態を声高に叫ん
だのが、金嬉老であった。

 金嬉老は、1928年に静岡市で生まれている。本名は権嬉老で、近藤安宏、金岡、清
水などの日本名を使っていた。父親は丹那トンネル工事などでも働いた建設労働者だった
が、作業中に事故死した。そのため一家の生活は苦しく、金は小学5年で丁稚奉公に出た
。1943年、窃盗で朝鮮人だけが収容される少年院に入れられていたが、敗戦で出所し
た。その後の約20年間も、詐欺、窃盗、強盗などの犯罪を繰り返し、刑務所暮らしが長
く、娑婆にいたのは数年だった。獄中では努力して自動車整備士の免許を取ったが、出所
しても、国籍、前科などが災いして、まともな勤めにはありつけず、ブロ−カ−仕事など
で暮らしていた。
 1968年2月20日、金は、清水市内のキャバレ−・みんすくで、暴力団稲川一家幹
部とその部下の2人を、自分のライフル銃で撃った。手形のトラブルが原因の争いだった
が、金を逆上させたのは、「アサコウがちょうたれたことをこくな」という罵声だった。
金は、その場を脱出すると、実弾1200発、ダイナマイト13本を用意し、車で大井川
上流の渓谷にある寸又峡温泉に向かった。金は、ふじみや旅館に乗り込むと、経営者の家
族と宿泊者16人を人質にして、籠城を開始した。
 報道陣は何度も共同記者会見を行い、テレビ局は現場中継を続け、ワイドショ−は電話
のやりとりを生放送して視聴率を稼いだ。金の弁舌は自他ともに認めるほど流暢だった。
金は日本民族の戦前からの朝鮮人差別、その先兵としての警察のやりかたを滔々と非難し
た。
 結局、籠城5日目で金嬉老は逮捕された。無期懲役が確定したが、先頃恩赦で韓国に帰
ったことは記憶に新しい。

 金嬉老はマスコミを通じて朝鮮人差別の実態を直接日本人に訴えかけた。金は時のヒ−
ロ−だった。金を支持する文化人グル−プも結成された。小松川高校女生徒殺人事件も金
嬉老事件も、在日朝鮮人の置かれた苦しい立場を同胞に強くアピ−ルする役割を果たした
。この2つの事件が在日朝鮮人社会に与えた影響は、もっと視野を広げて当時の世相を振
り返って見なければ分からない。事件当時、在日朝鮮人社会には一体何が起きていたのだ
ろうか。実は、在日朝鮮人社会を揺るがす大激動が発生していたのである。
 1959年12月14日、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還が始まった。日・朝両国の赤十
字社の協定(1959年8月13日調印)によるものだった。一般に「帰国事業」と呼ば
れるものである。以来、3年間の中断期(1968〜70年)をはさんで、1984年ま
でに累計で約9万3000人余りが北朝鮮に永住帰国した。その中には、日本人配偶者と
その子供も含まれる。
 この「帰国事業」は、今から考えてみると、奇妙なものだった。在日朝鮮人は、その9
8%が「南半部」、つまり今の韓国出身である。だから北朝鮮は故郷ではないのだ。守る
べき祖先の墓もなければ、親戚縁者もほとんどいない。そのせいか韓国政府は「帰国事業
」と言わず、「北送事業」と呼んでいる。いずれにしろ、歴史上稀に見る「大量移住」で
あった。
 帰国の動機は単純、貧困と差別だった。なかでも、在日朝鮮人をひどく苦しめたのが雇
用差別だった。そんな日本社会への反発は、在日朝鮮人の関心を祖国に向けさせた。そし
て彼らが帰還先として選んだのは、独裁政権の「南」ではなく、「地上の楽園」の「北」
であったのだ。

 1959年12月14日、新潟港に接岸した帰国船から、音楽が流れていた。こんな歌
詞の「帰国同胞歓迎曲」だった。

 早く来なさい同胞たち 兄弟姉妹よ
 虐待と飢えも過ぎたことだ
 海の上の太陽の光も われらの心のように
 帰国船の航路に 花をふりまく
 社会主義の楽園は ひろい懐で
 あなたたちを 温かく迎える(李英和『朝鮮総連と収容所共和国』小学館より)

 しかし彼らが辿り着いたのは「地上の楽園」ならぬ「生き地獄」だった。帰国事業は北
朝鮮政府が立案し、朝鮮総連が音頭を取った。日本側も1958年11月、超党派で「在
日朝鮮人帰国協力会」を結成して側面支援した。役員は、自民党元首相・鳩山一郎(フリ
ーメーソン)、社会党書記長・浅沼稲次郎、共産党書記長・宮本顕治である。時の総理大
臣・岸信介も「日韓会談」を中断しながら主要な役割を果たした。何故日本政府は帰国事
業を歓迎したのか。政府は在日朝鮮人を「厄介者払い」したかったのだろうか。それだけ
ではあるまい。帰国事業を支援することで、日本政府は秘密結社の政策に奉仕したのであ
る。何故なら、北朝鮮こそイルミナティが作り上げた国だからだ。北朝鮮の政権党である
朝鮮労働党の前身である、朝鮮共産党北部朝鮮分局は1945年10月10日に結成され
た。10月10日は秘密結社の大祝日なのである。
 小松川高校女生徒殺人事件も金嬉老事件も共に、在日朝鮮人差別の実態をいやと言うほ
ど在日同胞に見せつけた。そうすることで、同胞の帰国事業の後押しをする役割を果たし
たと考えられるのである。日本国内で差別と貧困に同胞が呻吟している時、帰国船から見
送りの人に向かって手を打ち振る帰国者たちの瞳は希望に輝いていた。差別のない地上天
国で自分の能力と才能を祖国建設に役立てたい。帰国者は愛国心に燃えた。しかし帰国後
、彼らの希望が無残にも費え去るのにそう時間はかからなかったのである。

 最後に、被差別部落問題について簡単に触れておきたい。部落出身だということで強姦
殺人犯の汚名を着せられてしまったのが、狭山事件の石川一雄元被告である。1977年
8月、最高裁で上告を棄却され無期懲役が確定している。部落解放同盟は、現在も判決の
取消と再審の開始を求めて闘争を続けている。作家や文化人も、多数の著書やコメントで
冤罪の可能性を指摘している。
 被差別部落問題は奥が深い。グリコ・森永事件でも同和関係説が取り沙汰された。部落
差別こそ日本社会が抱える暗部である。その暗闇の中で何事が行われているのか、部外者
には知りえない。時代は変われどタブ−はやっぱりタブ−なのである。

 日本軍を悪者に仕立て上げるパタ−ン

 ここでは全くタイプの違う2つの事件を取り上げる。強姦殺人の小平義雄事件と、大量
毒殺の帝銀事件である。共に終戦直後に起きた事件である。

 「強姦魔」小平義雄は、1年余の間に、判明しているだけでも10人の若い女性を強姦
、殺害していた。その手口は、食料探しに血眼の女たちに、駅や路上で、いい買い出し先
がある、案内してやる、と声をかけ、出身地で、土地勘のある栃木県や埼玉県の山林に誘
い込むというものだった。希代の淫魔と呼ばれた小平は、1905年、栃木県日光市で生
まれた。小学校を出て店員や工員などをしたあと、19歳の時、海軍に志願し、横須賀海
兵団に入った。初体験は横須賀の売春婦が相手だった。以後、寄港地の街々で娼婦を買い
続けた。1929年の山東出兵、済南事件に海軍陸戦隊員として参加した小平は、戦地で
日常的に強盗、強姦を繰り返した。勲章を貰って除隊後も、精力を持て余した小平は、終
戦直前から終戦後にかけて強姦殺人を繰り返していたのだ。

 強盗に強姦は日常茶飯事、天皇の軍隊がそんなに風紀が乱れていたのか、戦後生まれの
筆者には知る由もない。しかし一般的に言っても、兵隊はどこの国でも野獣であることに
変わりはない。「強盗、強姦は日本軍の十八番、女たちは、安い米があると言えばすぐに
ついてきた」「首を絞めて失神させ、陰部を見ながら、まさに関係しようとする瞬間がな
んとも言えない」(小平)。小平が世間に与えた印象は、戦地で強姦の味を覚えた日本軍
人の亡霊が、戦後も獲物を求めて国内を徘徊していた、といったものだろう。小平義雄の
せいで、皇軍のイメ−ジも地に落ちたのだ。

 帝銀事件とは、1948年1月26日に東京都豊島区の帝銀椎名町支店で起きた、大量
毒殺事件である。男に騙されて毒薬(青酸化合物)を飲んだ16人の行員や家族のうち、
12人が死亡した。男は混乱に乗じて、現金16万4000円と額面1万7000円の小
切手を奪って逃走した。8月21日、スケ−プ・ゴ−ト、平沢貞通(56)が逮捕される

 松本清張は『日本の黒い霧』(1960年、文芸春秋新社)の中で、帝銀事件の犯人は
旧軍関係者ではなかったかと推理している。例えばかつての第731部隊(関東軍防疫給
水部、石井部隊)か、第100部隊(関東軍軍馬防疫厰)の中堅メンバ−のなかに犯人が
いるのではないかと言う。ところが軍関係者に向けられていた捜査は、GHQの壁にぶつ
かって頓挫してしまったのだ。アメリカが旧日本軍人を留用して細菌研究をしているとい
うことがばれたら大問題になるからだ。
 以上が大推理作家の松本清張氏の事件推理だが、筆者の推理はこれとは全く異なる。読
者の皆さんにはもうお分かりだろう。帝銀事件の果たした役割は、旧日本軍のイメ−ジを
汚すことにあったのである。中国人捕虜を使った人体実験、闇に葬り去られた毒物研究細
菌研究、こういった旧日本軍に対するマイナス・イメ−ジを大衆の心に焼き付けるのが、
帝銀事件の役割であった。「南京大虐殺」のでっち上げが果たした役割と同一の種類のも
のである。第731部隊による人体実験も、本当にあった出来事なのかどうか疑わしい。
だが秘密結社にとって重要なのは、大衆の頭の中に「南京大虐殺」や「人体実験」が記憶
として存在することなのである。現実にあったかなかったか、事実関係などどうでもよい
。そして松本清張の『日本の黒い霧』は旧日本軍の犯罪をでっち上げることで、秘密結社
の世論誘導、心理操作に一役買ったのである。



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