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「撫順管理所の洗脳」批判:田辺敏雄氏、藤岡信勝教授の挑戦に応える  富永正三氏
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投稿者 あっしら 日時 2003 年 7 月 17 日 23:03:00:

(回答先: クライン孝子の日記 (2003/07/17) 投稿者 孝子ファン 日時 2003 年 7 月 17 日 20:19:50)


 昨年(1996年)、雑誌「正論」10月号に発表された田辺敏雄氏の「沈黙が支える日本罪悪史観のウソ」と題する評論の中で、氏は日本罪悪史観の最大の根拠は、中国帰還者連絡会(中帰連)の出版物『三光』、『新編三光』(ともに光文社)、『天皇の軍隊』(朝日新聞社)等にある、と主張している。

 これら出版物の執筆者の大部分は、旧59師団(衣ころも部隊)関係者で、1940年以来本格化する華北の抗日(八路軍)根拠地に対するこの部隊の殲滅作戦(中国側では「三光作戦」と呼ぶ)の状況が描かれている。

 氏は中帰連以外の旧59師団所属者を取材し、その否定的証言を根拠に「残虐行為はなかった三光政策そのものがウソである」と論断している。また田辺氏と似たような立場に立つ「自由主義史観」の提唱者藤原信勝教授も『三光』を「自虐史観」の典型だと誹謗している。

 そもそも中帰連会員が『三光』に取り上げた手記を書くに至った経路は、そう簡単なものではなかった。もし中帰連会員が人民中国の戦犯とならないで、シベリア抑留から真直ぐ帰国していたら、恐らくあのような手記は書かなかっただろうし、取材を受けたら田辺氏が取材した旧59師団の人たちと同じような対応をしたであろう。

 中帰連の主力である撫順組(他に140名の太原組がいる)は、戦争末期元支那派遣軍から関東軍へ編入された4個師団の所属者と、関東軍憲兵隊、旧満州国司法、警察関係者で、シベリア抑留五年の後1950年7月、対中国戦犯としてソ連から中国へ引き渡された969名で、元撫順監獄(戦犯管理所)に抑留された者である。

 当時、「中国渡し」になったら到底生きては帰れない、というのが大方の考え方であり、自暴自棄と反抗の日々が続いた。ところが私たちの管理に当った管理所の職員(元解放軍、公安関係者)の態度は、私たちの予想とは裏腹に極めて人道的であった。後でわかったことだが、人民中国の日本戦犯管理の方針は「戦犯といえども人間であり、人間である以上、人格を尊重しなければならない。人格を傷つけるような言動は一切厳禁する」ということだった。すなわち人権尊重の立場だった。

 そして私たちを管理する職員は全員が自分自身、または身内のなかに日本軍に酷い目に遭わされた被害者を持つ人々であり、個人的には私たちに対する燃え上がる憎しみを持ちながら、それを押さえて党(全員が党員)と国家の方針を忠実に実行していることがわかった。その態度が私たちに強烈な印象を与え、「人間の取り扱いは本来かくあるべきで、私たちがかつて中国をはじめアジアの人々を、人間以下にしか取り扱わなかったのは間違いであった」、という認識が生まれ、自分の犯した過去のあやまちを批判する目が次第に開かれてきた。

加害の体験は話し難い

 ところがここにも一つの関門があった。それは私たちの犯罪行為はそのほとんどが上官の命令で行われた。命令さえなければ罪を犯さずにすんだ。天皇制軍隊で上官の命令は即天皇の命令であり、その内容の如何を問わず絶対服従であった。戦場での抗命は死刑であった。だから悪いのは上官であり、その頂点に立つ天皇であり、私たちはその被害者ではないか、という責任回避の態度であった。

 これを乗り越えるには時間を要したが、私たちのこの主張、弁解は加害者の論理であり、私たちの手で殺された被害者の心情はどうであったか?「オレは命令で仕方なくお前を殺す」という弁解は、自分が殺される立場に立てば、絶対に受け入れられない。「イヤなら止めろ!」である。それを無視して実行した以上、被害者の恨みを全身で受け止めなければならない。それなら先ず実行者としての責任をとる、その上に立って命令者、その頂点に立つ天皇の責任を追及するのが筋道である、という認識に達するには長い苦しい自己闘争が必要であった。

 一九五四年中頃から進歩分子による自分の犯した犯罪行為の告白−(これを担白タンパイといった)‐が始まった。それは死刑を覚悟する、勇気の要る行動であった。やがて中央から派遣された検察官−私たちの犯罪に対する豊富な資料を準備していた−その前で、お互いにその行動を知っている同じ部隊、同じ職場の者、十数名ずつの組を作り、一人ずつ立って「担白」を行った。

 仲間から「まだ隠している」、「お前の態度には被害者に対して相すまない、という心からの謝罪の気持ちが現れていない」、「殺される被害者の無念の思いが分かっていない」等々の声が上がった。何回もやり直し、食事もノドを通らぬ状況もあり、自殺者も出た。内容が検察官の資料と一致し、改俊の情が認められてやっとパスする。

 この深刻な、命がけの自己批判と相互批判の学習が数か月続いた。佐官、将官クラスはさらに長く続いた。憲兵、警察、高級将校の中には海千山千の頑固者も少なくなかったが、最後にはひざまずいて謝るようになった。この苦難の学習を経て私たちの顔つきが変わった。鬼畜の状態から人間的良心を取り戻した。つまり鬼から人間に立ち帰った、ということである。

 こうして1955年から56年にかけて、個人的差異はあれ、ほぼ全員が、「これではどのような刑罰を受けても止むを得ない、むしろ当然である」といった心境になった。この時期に自分の過去の行動、犯罪行為を反省をこめて書き綴ったのが『三光』に出ている手記である。

 これに対応するかのように1956年4月、全国人民代表大会常務委員会の「日本戦犯処理に関する決定」が行われ、それに基づき6月から7月にかけ撫順と太原の戦犯管理所に拘禁中の日本戦犯1062名中45名(撫順36名、太原9名)が瀋陽と太原に設けられた特別軍事法廷で我かれ、残り1017名は不起訴となり、6、7、8月の3回に分け帰国した。

 起訴された人たちも死刑と無期はなく、最高禁固20年、ほとんどの人が満期前釈放となり、1964年3月最後の3名が釈放され、全員(1名病死)帰国した。不起訴組は帰国すると中国帰還者連絡会を創立し、規約第2条に「この会は第二次世界大戦で中国に対する侵略戦争に参加して幾多の罪行を犯した者が、人道的反省の上に立って侵略戦争に反対し、平和と日中友好に貢献することを目的とする」と述べている。

 一般に酷い目に遭った被害の体験は話し易いが、酷いことをした加害の体験は話し難い、だから被害の体験はアジア諸国民の間で、かつて日本軍がどんなことをしたか、親から子へ、子から孫へ語り伝えられ、また学校でも教えるから現在の若い人たちも、かつて日本軍がどんなことをしたか知っている。

 ところが酷いことをした加害の体験は話し難いから話さない。話さないから伝わらず、忘れられ、学校でも教えないから日本の若い人たちはかつてアジア諸国民に日本軍がどんな酷いことをしたか知らない。被害者の子孫は忘れていないのに、加害者の子孫ははじめから知らない。これでどうしてアジアの若者と日本の若者が友好の手が握れようか?

 被害者と加害者が友好の手を握れる必要条件は、加害者が被害者に自らの過ちを認め、心から謝罪し遺憾の意を表することである。日本の若者はアジアの若者に対して直接の加害者ではないが、父の時代、祖父の時代に申し訳ないことをした、という遺憾の意を表する−遺憾の気持ちがあればおのずから態度に現れる−ことが両者の間に友好関係の成立する必要条件である。

 中帰連の会員はこのような気持ちで若い人たちに、また戦争を知らない人たちへ自分の加害体験を語り伝えている。それには私たちの手で殺された被害者の方々への謝罪と慰霊の意がこめられている。それを田辺氏は「ありもしないウソ」と言い、藤岡教授は「自虐史観」だときめつけるが、その非常識にも程がある。

 

人間のままでは戦闘はできない

 アメリカでは第二次大戦に際し、在米日系市民を強制収容所に入れたが、1983年2月、日系市民の戦時強制収容に関し、戦時強制収容問題調査委員会は強制収容を不当と認定、各人2万ドルの補償金を支払った。その際レーガン大統領は謝罪の手紙をそえ、その中で「過去の誤りを正しく見つめることが、より高い価値である」と述べている。

 日本の右翼や保守的政治家の中には今次大戦の誤りを認めず、正当性を主張することをもって愛国的行動と考えている人が少なくないが、それによって国の国際的評価を引き下げる行動が、どうして愛国的と言えようか。田辺氏・藤岡教授もその一味である。

 田辺・藤岡の両氏は共に戦争体験のない人である。この二人の戦争に問する知識は書籍、資料、体験者からの取材等々単なる伝聞事項にすぎない。

 戦争‐戦場の実態は、砲煙弾雨の中で戦友が次々に倒れ、次は自分であるという「のっぴきならない」状況下に身を置いて初めてわかることである。人間のままでは戦闘はできない。人間性を放棄して平気で人を殺す鬼畜の状態に陥ってはじめて戦闘行為は出来るのである。鬼畜になれない者は発狂するか、自殺するか、逃亡するほかない。発狂した一部の人が、今なお千葉県国府台の元陸軍病院に収容されている。

 軍の主兵と言われた歩兵部隊の場合、砲兵、工兵、騎兵、輜重兵の協力のもと、弾雨を冒して敵陣に肉迫、最後の砲弾と共に銃剣をひらめかして敵陣に突入するのであるが、これは全く正気の沙汰ではない。鬼畜の状態に陥った将兵がどんな行動をとるか、多くの戦友を失って一つの陣地、町や村を占領した際、鬼畜集団が、どんな行動をとるか、想像もつかないであろう。

 戦場における鬼畜集団も、平和な環境に帰れば次第に旧の状態に復帰する。その時点で鬼畜集団の中で犯した残虐行為は、口が裂けても言えない、言わないのが一般である。ただお互いの実情を知っている戦友会(おおむね中隊単位か同年兵の親睦会)の席では、「自慢話」、「手柄話」として出てくる。しかし家庭で女房、子供には絶対話さない。だから伝わらず忘れられるのである。

 中帰連の仲間も大半が帰国後結婚したので、これを話せば女房に逃げられ、子供に背かれはしないか、という懸念があった。

 しかし中帰連の私たちが持つ共通の体験、侵略戦争の渦中で人間から鬼へ転落、戦争犯罪を積み重ね敗戦後戦犯となり、たまたま相手が建国草創の中華人民共和国、そこで予期しない極めて高度の人道主義的処遇を受け、その中で自らのあやまちに目ざめ、血のにじむような批判と自己批判を通じて、まことに相すまないことをしてしまった、という人間的良心を取り戻した体験。この体験を訴えることが取りも直さず会の目的「侵略戦争に反対し、平和と日中友好に貢献する」道につながる、という自覚のもとに時間をかけて家族を説得し、家族の協力のもとに証言活動を続けているのが中帰連の実情である。それを「ウソ」とか「自虐」というとは何事か。

 もともと戦場における行動の基準として戦時国際法があり、その主な内容は「武器を棄てた捕虜、負傷者は友軍並みに扱い、一般市民には危害を加えない」ということである。日清、日露、第一次大戦の宣戦布告の詔書には「国際法に準拠して」といった行動の制限が示されていたが、今次の米・英に対する宣戦布告にはそれがない。

 東条首相は天皇からこの点を指摘されたが、マレー半島攻略の上陸地点がコタバル・シンゴラと決定され、コタバルはマレーだがシンゴラはタイ(当時シャム・東南アジアで唯一の独立国)の領土、日本軍のタイ領土の通過がタイ政府の承諾を得られず、国際法を公然と蹂躙する作戦計画のため、「国際法に準拠」の文字は入れられなかったという。

 中国に対する15年に亘る戦争を事変と呼ぴ、宣戦布告を行わなかったのは、正式の戦争となれば被害国へ国際的同情が集まり、加害国日本が経済制裁の対象となりかねない、という懸念があったからだという。事実満州事変以来1940年まで10年も戦争は続いたが、この間アメリカからの石油・屑鉄の輸入は正常であった。1940年5月同盟国ナチス・ドイツのオランダ・ベルギー蹂躙、6月北フランスへ侵入、英軍のダンケルクからの敗退、フランスの降伏と相つぎ、ヨーロッパ諸国の植民地東南アジア支配の弱化に乗じ、40年9月日本軍の北部仏印進駐という日本の南方進出の野望が顕在化し、対日ABCD包囲陣の結成が始まった。

 

人の痛みを知る人間

 要するに満州事変以来、日本軍の国際法蹂躙が一般化したため、戦場に於いては何をしても構わない、といった風潮が日本軍の中に広がった。こうして戦争犯罪防止の歯どめが利かなくなったのである。撫順の病室で一緒だった佐々木到一中将は南京戦に、孫文廟のある紫金山から和平門へ向かった16師団の旅団長として参加した人だが、自伝「ある軍人の生涯」の中で次のように書いている。

 「午後二時ごろ概して掃蕩を終って背后を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門に到る。その後俘虜続々投降し来り数千に達す。激昂せる兵士は上官の制止をきかばこそ片っ端より殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛酸をかえり見れば、兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と言いたくなる」と。

 これが戦場の実態の一面であり、上海における3ヶ月におよぶ苦戦の後、南京事件は惹き起こされたのである。

 上海戦から南京戦へかけて総司令官だった松井大将は、東京裁判で絞首刑の判決を受けた後、教誨師の花山信勝氏に次のように語っている。

 「南京事件ではお恥ずかしい限りです。…私は日露戦争の時大尉として従軍したが、その当時の師団長と今度の師団長などと比べてみると問題にならん程悪い。日露戦争のときはシナ人に対しては勿論、ロシア人に対しても俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。…武士道とか、人道とかいう点では当時とは全く変っておった。慰霊祭がすんだ直後、私は皆を集めて総司令官として泣いて怒った−そこには朝香宮も柳川司令官もいたが−『折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落してしまった』と。ところが、この後で皆が笑った。はなはだしいのはある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った。だから私だけでもこういう結果になるということは当時の軍人たちに一人でも多く深い反省を与えるという意味で大変うれしい。折角、こうなったのだからこのまま往生したいと思っている」

 ここで「ある師団長」というのは、16師団長の中島中将だと言われる。彼は師団長の前は憲兵司令官であったが、中国から貴重な美術品を大量に持ち帰ったことで憲兵隊の取り調べを受け、その地位を剥奪された。松井司令官の嘆きのように昭和の軍幹部の堕落が目立った。

 イギリスの伝道医師デュガルト・クリスティは『奉天三十年』(矢内原忠雄訳・岩波新書)と題する回想録で、日清、日露戦争当時の日本軍の規律が極めて厳正であったこと、大山司令官以下軍幹部の教養の豊かさに敬意を表している。乃木司令官の敗将ステッセル将軍に対する鄭重なる態度、旗艦を撃沈され負傷したバルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキー中将を佐世保海軍病院に東郷司令長官が礼をつくして見舞ったことは国際的に有名である。

 また第一次大戦の青島戦のドイツ軍捕虜に対する松山収容所での取り扱いは極めて人道的で、外出も許可され、捕虜で作った楽団が日本で最初のべートーベン第九シンフォニーの演奏会を開いたという。そして解放に際し、楽器製作の技術者が居残り、浜松にピアノをはじめ楽器製作の技術を伝えて帰国した。これらは当時の軍が戦時国際法を守った成果である。

 これに対して今次大戦の南京事件について松井司令官の嘆き、シンガポール攻略時山下司令官以下幕僚の、敗将パーシバル将軍一行に対する高圧的な態度がある。また更に華僑の一部が志願軍として英軍に協力したことで占領後五千余名の華橋を集団殺戮し、戦後受難の碑として市内に天高く聳える「日本占領時期死難人民記念碑」が建てられている。

 さらに占領地統治資金として五千万円の献金を華僑に強要したマレー半島でも南部のセンビラン州を中心に、「抗日ゲリラの掃蕩」の名目で一般の華僑が三千名以上銃弾によらず銃剣で刺殺されている。これらは満州事変以来、日本戦争指導部が発動した国際法蹂躙の戦争が惹き起こした戦争犯罪に外ならない。

 「自由主義史観」を唱える藤岡教授は「南京事件や慰安婦を取り上げる出版社は反日業者、日本の繁栄を憎む諸外国の間接侵略者」と非難するが、教授のこの主張こそ教授が自ら立っているという自由主義を否定するれっきとした国家主義の思想ではないか。教授が最も尊敬する司馬遼太郎氏についてNHKが97年2月10日から3回続けて氏の「遺言」を放送した。その中に「人の痛みを知る人間にならない限り日本は生きていけない。自分に都合の悪いことであれ、それを隠蔽せず事実として残すべきは残す、というヨーロッパ精神に敬意を払う」といった意味のことが述べられた。先に述べた乃木・東郷といった人たちはステッセル、ロジェストウェンスキーに関する限り「人の痛みを知る」人たちであり、松井大将に叱られた南京の将軍たち、シンガポールの山下将軍と幕僚たちは「人の痛みを知らない」「分からない」人たちである。藤岡教授も南京事件や慰安婦問題を「隠蔽」しようとする限り、尊敬する司馬先生の教える「人の痛みを知る人間」になれないのではないか。

(とみなが しょうぞう 中国帰還者連絡会会長)

【略歴】
1913年、熊本県主まれ。39年東京大学農学部卒業後、満州糧穀会社入社。翌年、熊本歩兵第一三連隊補充隊入隊。41年北支第39師団歩兵第232連隊へ転属、43年232連隊第10中隊長。敗戦後捕虜としてシベリアに5年、戦犯として中国撫順戦犯管理所に6年間抑留。56年に帰国。私立高等学校講師を経て、現在中国帰還者連絡会会長。


http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/tominaga_hihan.htm

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