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海舟の話
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投稿者 てんさい(い) 日時 2003 年 8 月 09 日 21:09:47:KqrEdYmDwf7cM

海舟の話
http://www.ma-fa.com/kaisyu/B_kaisyu.htm


●安房守伝記(あわのかみでんき)

はじめに・・・
海舟庵で海舟のことを紹介しようと思う、当たり前のことをいままで放っておいた感があり大変申し訳ないが・・・・
人物やエピソード、参考図画などもふまえてに海舟の人生を私なりに紹介していきたいと思う。

何故、安房守伝記という題名にしたのか・・・

安房の守は、1864年(元次元年)5月、神戸の海軍操練所を任され軍艦奉行と同時に叙せられた官位 である。 幕府の高官(軍艦奉行)につく以上は、それに見合った官位を除せられるのが通例であった。
官位自体は有名無実の職ではあったが、幕府役人や大名達には一種のステータスであり、賄賂までして得たいものでもある。
しかし、海舟は別段欲しくもなかったが、別に断ってつまらぬ事件を起こす必要もなかろうと考え、数ある〜の守のなから、あえて安房の守を選んだ。

安房の守(あわのかみ)の安房は、あほうとも読める。勝安房守でかつあほうのかみ、これはいいわと笑って話したという。いかにも海舟らしい名前の付け方である。
海舟という人間の皮肉屋の一面がのぞけるエピソードの代表的なものであろう。

海舟は、とても皮肉屋でひねくれ物の一面もあり、嫌われた人にはとことん嫌われ(家族にさえ及ぶこともあり)、理解もされなかったことも多かった。そういう人間としての海舟も含めて安房守伝記の中で紹介していけたらと思う。

●勝家の事


貧乏旗本の現実
勝家は小普請組という、幕府御家人では末端に属する身分の旗本である。役高40石、つまり幕府から年間40石(米俵40俵分)を給付される米が唯一の収入源である。現在の貨幣価値として年収を推測すると、おそらく年収80万〜100万円程度だったと思われる。

小普請組とは、城や館の小規模な普請を行うことが仕事である。とはいえ、実際にそういった仕事をすることはまずない、つまり無役な役人である。無役である者は、何か役付の仕事を得ようと組頭のもとに働きかける、子吉(海舟の父)も若い頃は、自分の家を抵当に入れて金を借り、役付きの仕事を得られるよう働きかけたが失敗に終わった。

小吉は役付きの仕事を得ることをあきらめて、一生この小普請組のまま生きていくことに決めた。そうやって暮らすことにより、任侠人・遊び人といった風が次第に強くなり、喧嘩の仲裁や用心棒まがいの仕事等もしばしばといった具合である。その町内ではなかなかの有名人であった。

本来、小普請組のような無役な武士にとっては、ありあまった時間を利用して、武芸や学問を習得して、小塾や小道場を開き副収入を得ないと家計は非常に苦しいものとなる、しかし、父子吉は給付される石高はおろか、家内(海舟の母)が内職で得た小銭をも浪費する有様で、麟太郎(海舟)が生まれても父子吉の放蕩は収まらず家計は苦しいばかりである。

海家の系譜
勝家は子吉の父(勝平蔵)の代に旗本株を買い取られて。子吉は、男谷家からの養子で勝家を継いでいるため、はえぬ きの旗本というわけではなかった。

また、小吉の実家男谷家も、米山検校という人物の出生がはっきりしないため、勝家の小吉が生粋の三河直参の家柄の血筋にあったかどうかは疑問である。しかし海舟が後に出世していく課程で、一応、三河直参の家柄であることが幸いした事実課程もある。

海舟が生まれた時には、勝家は本所亀沢町の男谷の家に同居していた。海舟の幼名は麟太郎、これが通称であり、実際には、芳邦と命名されている。しかし、子吉は堅苦しい芳邦という名ではよばず、麟太郎と呼んでいたことは確かである。

家系図があるので興味がある方は見て欲しい。


海舟にとっては、叔父の家にあたる男谷家は勝家にかなりの金銭的援助を行っていた。しかし小吉は普段の生活から、この 男谷家から非常に嫌われていて、 海舟出生の際、男谷家に養子の話があったが、小吉が刀に手をかけてまでこの話を断ったという。

男谷家と勝家はほとんど絶縁状態に等しく、小吉の臨終の際にも、あずかっている小吉の娘達に見舞いに行くも許さなかった。しかし、「男谷家の人たちは冷たい」とも言えないだろう。小吉のやくざまがいの生き方は、格式高い武家にとっては許されないことであったし、小吉のために迷惑をうけている被害者の最たるところに男谷家があったのだから。
●父子吉

海舟の父は、勝左右衛門太郎子吉という。男谷家の当主、平蔵の三男として生まれた。男谷家が勝家の旗本株を買い取り、養子として子吉を入れた。

子吉はなんとか役入り(役職)するため、家を抵当にいれ20両あまりの金をつくり、運動(賄賂や買収)を試みたが失敗におわる。しばらくは努力を続けたが、あきらめた。乱世の世ならともかく、泰平の江戸幕府にとっては自分のような粗暴な人物が役入りするのは難しいことを悟ったのだろう。 元来、暴れ者で、無頼の徒とよく交わり、諸国遍歴もたびたび、それがために、座敷牢に3年あまり入れられたこともあった。しかし、役入りの道をあきらめた子吉にとって、そういった放蕩ぐせは改めるどころか界隈・無頼の徒と交わり、道具屋の真似をしてみたり、富くじの仕切屋などをやったりしていた。 遊び人・遊興者としての子吉だったが、剣術はめっぽう強く喧嘩も強い、町内ではもめ事の仲裁を買ってでたり、地主の嫁の世話をしたり、借金の整理をしてやったりと、世話人として人気者でもあった。

とはいえ一家の主がそのような状況である以上、勝家の家計は当然ながら貧乏であった。 小吉は晩年「夢酔独言」なる、自分史みたいな書物をしたためた。これは、自分がいかに酔狂のように暮らした回想し後悔する小吉の自分史であり、子孫達に自分のような真似をしないようにという遺言書みたいなものである。しかし、海舟にしてみれば、さんざん放蕩しておいて、こういうことは良くないからやめろと言う父の矛盾に腹を立てずにはいられなかっただろう。


『夢水独言』

そんな父であったが海舟は後年になって悪口の一つも言わない。海舟が幼少のころ野犬に股間を噛まれ一時生死の境をさまようという大事故に遭遇した、苦しむ海舟に昼夜つきっきりで看病し、一流の医者を呼び寄せて海舟の介抱にできるかぎりの事をした。 海舟はその甲斐会って一命をとりとめたので、父小吉に対して感謝と尊敬の気持ちを一生もちつづけている。
子母沢寛の小説「親子鷹」では、小吉と海舟の親子の強い絆を描いているので、小吉に興味を持たれた方は是非一読して欲しい。

●青雲を踏み外す

海舟が7歳の頃、大奥も「阿茶の局」という遠戚からの誘いで、江戸城本丸の庭見物に招かれた。その際、運良く将軍家斉の目にとまり、孫の初之丞の相手にしたいとの申し出があった。海舟の闊達さがいたく気に入ったという。

海舟はこの後、2〜3年の間、初之丞のお相手として出仕していた。この頃、犬に急所を噛まれ瀕死の重傷を負った。おそらく、毎日のように城に出仕している途中か、帰り道に猛犬に襲われたのだろう。現代で言えば海舟もこの時、小学生の低学年であるから、かみ殺されなかったのが不幸中の幸いだったかもしれない。この経験がもとで海舟は、一生犬が苦手だったという。

海舟が15歳になった天保8年に、初之丞は御三卿の一つ、一橋家(一橋慶昌と改名)の家督を相続することになった。通 例通り慶昌は自分の家臣を何人か連れていくことになり、海舟にもお声がかかった。御三卿一橋家といえば、将軍職を継ぐ権利があるお家柄である。40俵取り小普請組の勝家は、一橋家で重臣になったでも大出世、慶昌が運良く将軍にでもなれば、側用人として立身出世の可能性は大である。

この際。父小吉は海舟に家督を相続し隠居し「夢酔」と号し、海舟の立身出世に期待した。しかし、翌年(天保9年)に慶昌は急死してしまい、その時点で海舟はお役御免、元通 り40俵取り小普請組となってしまった。このことを、海舟は後年「俺は幼少の時に青雲を踏み外したよ」と言っている。

ただ、因縁というべきか、海舟が後年徳川慶喜のもとで陸事総裁(8000石)に任命されるが、その徳川慶喜も一橋家出身(養子であったが)の将軍である。


●過酷な剣術修行

海舟は15歳で家督を継いだ。しかし、それは一橋家へ奉公が決まったからであって、その夢が消えた現在は小普請組40石という身分に変わりはない。それ以前の12歳頃から海舟は親戚 にあたる男谷信友の道場に通っていた。

しばらく修行した後、男谷信友の勧めもあって浅草新堀の島田虎之助の道場に通うようになった。直新影流の免許皆伝であった島田虎之助は、「今時みながやりたがる剣術はかたばかりだ。折角の事に、足下は真正の剣術をやりなさい」言っていた。海舟はこの道場に通 うことを決意し、島田虎之助のもと過酷な修行を積んだ。

また、島田は禅もすすめ剣と同時に禅の修行も行い、『真冬の極寒の中でも、羽織一枚で寒さなど感じたことはなかった』と後年語る海舟は、剣術と禅により心身は鉄のように鍛錬された。道場に住み込み薪水の労をし、夜は王子権現まで出向き、剣術の稽古と禅を朝まで4、5回繰り返す。夜が明けると道場まで戻り朝稽古を行う。まさに24時間ほとんど寝る間もなく修行に没頭した。維新の混乱期に何度も命を狙われたが、この時期に修行が海舟に相手を飲み込み説き伏せる気迫を身につけたのである。

●蘭学を志す

海舟が蘭学に出会う理由ははっきりとはわからない。江戸城中の大砲に書いてあったオランダ語を読めず、同じ人間の書く言葉がよめない理由がないと思ったとも言われているが、海舟ならずしても、当時、日本近海には、多数の外国船が出没している。海防や異敵に対する備えから外国語の習得の必要性を痛烈に感じていたに違いない。

箕作阮甫という蘭学では江戸一といわれた人物に世界地図を見せてもらったのがきっかけであったとか。 おそらく海舟が20歳直後から蘭学を学び始めたは確かなようである。ペリー来航の10年前ではあったが、既にこの当時には外国船が日本近海に出没し、幕府はその対策に四苦八苦していた。 当然、異国に対する恐怖心から攘夷思想も芽生えはじめと同時に、幕府にとっては海岸防備に本腰を入れ始める時期である。そういう機運の中で、海舟が蘭学を学び異国の最新情報を得たいと思うのは自然であっただろう。

一応、幕臣といえど武士が蘭学を学ぶのは禁止されている。蘭学を公然と学べたのは医者が学者がほとんどであった。海舟もまだ若く怖い者知らずといった感じで、猛烈に蘭学に励もうとする。まず、江戸で一番有名な蘭学者箕作阮甫(みつくりげんぽ)の塾に入門しようとする。早速、海舟は箕作阮甫の塾を訪れるが、なかなか阮甫に会うことができない。門番や側人に賄賂(お菓子の包みや、小銭など)を渡してようやく面会することができた。

が、しかし、阮甫は海舟が江戸者だと聞き出すと、「江戸者のような性急な者には蘭学は合わない」と突っぱね入塾を断られしまう。箕作阮甫が海舟の大器を見抜けなかったと言えばそれまでであるが、江戸随一の蘭学者など言われもてはやされた先生にとって、当時無名の海舟のような小生意気そうな若造を、弟子にするとかしないとかはどうでもよかったであろう。

箕作阮甫に入塾を断られ、そこで蘭学を諦めてしまうような海舟ではない。赤坂溜池の黒田藩屋敷内に住んでいる永井青崖という人物が蘭学を教えていると知ると、早速、入門を願いに訪れる。青崖は海舟を快く受け入れ入門させた。青崖のもとで蘭学を学ぶ体制を整えるため、海舟はその後すぐに赤坂の元氷川に引っ越しまでしている。海舟の蘭学に対する情熱は相当なものだったようだ。

●ヅーフ・ハルマ

海舟は、永井青崖の門で蘭学に打ち込むこととなったが、蘭学を勉強するには辞書がどうしても必要だった。当時、日蘭辞書として日本には「ヅーフ・ハルマ」という五十八巻もある辞書があった。海舟はどうしても手に入れる必要があった。しかし、値段は60両もする効果な代物である。極貧生活を送る海舟にとって、とても買える代物ではない。

海舟は、そのヅーフ・ハルマをあるオランダ医者が秘蔵しているの聞きつける。年間10両の損料を払うことで、なんとかヅーフ・ハルマを借りることができた。それから海舟は夜も惜しんでヅーフ・ハルマを筆者した。

『ヅーフ・ハルマ』蘭和辞典

一部は完了したが、損料の10両を支払うためにもう一部筆者し、それを売って損料を支払うことができた。 このヅーフ・ハルマを筆者した時期は、海舟が25歳から26歳にかけての1年間である。勝家にとって大黒柱の海舟がこのような非生産活動を行っていたのだから、家の柱や屋根を削り取り飯を薪の変わりとしていたというような、「極貧を通り越していた生活を送っていた。」と、後年語っているのも想像に容易い。

それにしても、 五十八巻もある辞書を一年間で2部筆写してしまうとは、海舟の強靱な精神力と、蘭学修得の気迫が伝わってくるエピソードである。


●兵学書

海舟が蘭学を志す目的は、欧州の文化や情報を把握することもあったが、第一には日本にはないライフルや大砲、軍艦を率いる海軍術などの兵学を学ぶためであった。剣の師匠である島田虎之助の勧めもあり、海舟の20代はまさに勉学と読書の日々であった。

ある日、町の本屋を除くと、最新の兵学書が売っていた。値段は50十両で、とてもそんな金のない海舟は、八方つくして50十両を借りることができた。そして、本屋に行くとその兵学書は四谷に住む与力某という方が買ってしまったという。 海舟はどうしてもその兵学書が読みたい一心で、その与力の家を探し、本を売ってくれないかと交渉するが断られた。

それでも、海舟は「あなたが寝る時間の間なら、あなたは本を読みませんでしょうから、その寝る時間の間だけ本を貸してもらえないでしょうか」と食い下がり、そこまで言われた与力の方は「わかりました。私が寝ている間、あなたに本をお貸ししましょう。しかし、持って行かれるのは困りますので、私の家でお読みになってください。」と言ってくれた。

海舟は、それから半年がかりでその与力の家に通い、筆写してしまった。最後に礼を言うと同時に、その兵学書についての疑問点を二三訪ねたところ、その与力はびっくりして、「私は、まだ本を読み終えていませんし、そのような疑問をいだいたこともありません。この本は私のような者が持っているより、あなたがお持ちになる方がふさわしい。この本は差し上げます。」と海舟に本を渡そうとした。海舟はもう写し終えているのでその申し出を辞退したが、与力は是非にと言うのでとうとう本をもらってしまった。

●海舟のパトロン!?

ある日、海舟がなじみの本屋で立ち読みしていると、店主が「あなた様もたいそう本がお好きなようですが、同じように本好きな渋田利右衛門という北海道の商人の方がが度々見えられています。よろしかったら一度お会いになって本の話でもしてみたらいかがでしょう。」と言うのである。海舟も「それは感心なお方だ、とにかく一度お会いしたい。」と告げたところ、二、三日後、渋田と会うことができ、話をすることができた。

海舟の人物とその知識の深さに感心したのだろうか、数日後、渋田利右衛門が海舟宅へ訪れてきた。その当時、海舟の家は屋根まで薪に使ってしまう有様で畳もボロボロのものが3畳ばかり敷いてある有様の中、利右衛門はそんなことも気にせずに海舟と語り合った。話も終わり、帰り支度する利右衛門がいきなり200両を海舟の目の前に置き「この200両も私が持っていたら数日中にくだらないことで使ってしまうでしょう。これで珍しい本がありましたらお買いになって下さい。それで、あなたがお読みになった後、私に送っていただければ何よりです。遠慮しないで受け取ってください。」と言う。

海舟はあまりのことに呆然としていたが、さらに利右衛門は「また、蘭書などの場合はこの紙に翻訳していただいて、私に送って下さい。筆写代はその200両からお取りください。」などと言って、紙を置いていってくれた。海舟が紙を買うにも苦労しているだろうと察してのことである。
海舟のプライドを傷つけないように200両もの大金を置いていく利右衛門の配慮に、深く感謝した。 その後も、海舟は利右衛門から経済的援助を受けていたようだ。更に、海舟が30歳を過ぎて、長崎や京阪神で活躍する際にも、利右衛門から多くの商人を紹介されとてもに助かっている。

●貧乏勝塾 海舟書屋

海舟は28歳になった頃、剣も蘭学においてもほぼ免許皆伝を得ていた。蘭学の師である永井青崖のすすめもあって、開塾することを決意する。開塾はしたものの、おそらく教室面積は6畳ぐらいであっただろう。まあ、海舟の蘭学者としての名声はまあまああったが、所詮勝家は小普請組40石の下級旗本、1000石取りの旗本のご子息がくるようなことはない。教える方も貧乏なら、教わる方も貧乏である。

それでも、塾のうわさを聞きつけて日々入塾希望者が訪れ、その中に杉亨二という男が、「あなたほどの方の塾なら、教えられる人物がいるから雇ってみませんか。」と言う。海舟が筆をとってその人物の名を書き記そうとすると杉は「それは、私です。」と言うのである。海舟も「よろしい。足下なら月2分(4分で一両)を払おう。」と杉を講師として雇った。

海舟にしてみても、初歩の文法などは教える気はなかったので、その分を杉に頼もうというのである。教室の建物はつっかえ棒や、張り紙がいたるところにある有様であったが、杉亨二は講師を続け、次第に海舟を師と仰ぎ、弟子として、またよきパートナーとして晩年まで海舟の仕事を手伝うことになる。

余談だが、海舟という号も、この頃妹の順子が嫁いだ佐久間象山から「海舟書屋」という額からとっている。佐久間象山は信州真田家にあって、藩主に海防論を提出し、昨今の海防熱により江戸に呼び寄せられた。漢学・蘭学・砲術を専門家である。海舟の兄貴分的(事実、海舟の妹順子が嫁いぐことになるので義理の兄となる)な人物であった。「氷川清話」では、気性が激しくあまり好意をもっていなかったらしいが、海舟は象山の見識を高く評価し尊敬していたことも事実である。


『海舟書屋』
佐久間象山から譲り受けたもので、海舟の号もこれにちなんでつけたものである。
居間兼書斎に飾られていた。

 
●大砲鋳造

海舟が塾を開いた当時は、外国船が頻繁に往来し、幕府としても外圧への対策に本腰を入れねばならなくなってきた頃である。それは、諸藩にとっても同様で、銃や大砲を使用した訓練をするため製作依頼が急増していた。それらの依頼は、蘭学でも兵学を学んだ人物に多くあつまるようになっていた。

当然、海舟にも鉄砲製作依頼がまいこんだ。海舟は赤坂田町付近の鍛冶工を雇い、蘭書をもとに鉄砲の製作をおこなわせた。海舟の作らせた鉄砲の評判がよかったのか、津藩から、こんどは野戦砲の製作依頼まできたのである。これは、川口の鋳造師に依頼して作らせたのであるが、やはり好評であったらしく、他の藩からも2斤3斤と注文が舞い込むようになった。

ある日、海舟のもとにある藩から、野戦砲3斤の製造依頼があった。海舟は早速、鋳造師にその手配をさせたが、鋳造師は海舟のもとに御神酒料として五百両を持参してきた。当時、1斤の野戦砲を作るのに六百両はかかる、その内200〜300両が製作に携わった人に支払われる。つまり300両は銅代の原価として必要なので、鋳造師はなんとか儲けようとするため、圧銅の量を減らして粗悪品を製作するが目をつむって欲しいための賄賂である。

海舟は、その鋳造師に向かって「これから、俺らが作る大砲はな、訓練に使うだけの代物じゃねぇんだ。夷敵から日本国を守り、ひいてはお前ら自身を守る代物だ。どうせなら、その金でもっと圧銅の量を増やして良い大砲をつくりやがれ!」と一喝した。賄賂を慣例としてきた鋳造師達は海舟の一言に、びっくりして引き下がっていった。しかし、この話は巷で広まり、幕府海防掛の大久保忠寛の耳に入ったようで、大久保忠寛は勝海舟という人物に興味を惹かれたようである。


●一翁との出会い

ペリー来航前後から、幕府では海防の任に当たらせる人材の必要から、有能な幕臣であれば身分に関わらず登用するようになる、徒頭から目付になり、さらに海防掛として任命された大久保忠寛(一翁)という人物がいた。

その大久保忠寛は、以前から海舟の蘭学や兵学、小銃や大砲の製作の話を聞き及んでいたため、海舟に接見しようと考えていた。ある日、いかにも役人風の武士が貧乏塾の玄関をたたいた。武士は「明日、幕府海防掛の大久保忠寛様が、是非、勝殿のご意見を伺いとのことだ。万事、失礼の無いようお願いいたす。」と告げると去っていった。

翌日、海防掛の大久保一翁が小普請組の勝海舟の塾に訪れた。海舟にしてみれば、これほどの機会は二度とないだろう、あるだけの情熱を込めて、海舟の開国論と海防論を論じた。一翁も開国論者の一人であり、早くから大政奉還や開国・海防の必要を説いていたが、海舟のより具体的で先進的な意見を聞かされ感心するばかりであった。大久保一翁は、この会見の後、海舟の強力な支援者となり良き理解者となるのである。

海舟が、幕府に対する海防の意見はだいたい次の五つからなる。
●身分を問わず有能な人材を登用する。
●積極的(朝鮮、清、ロシア)に貿易をし、その利益をもって国防費に当てる。
●江戸の防備を強化する。
●旗本の困窮を救うため、兵制を西洋式に再編成し、訓練所の建設も行う。
●砲や銃の生産、同時に火薬の生成工場の建設。

この意見の中で、「貿易をし、その利益をもって国防費に当てる」という項が、特徴であった。貿易を行うことで、艦船とそれを動かす人材が揃い、さらに儲けることができる。西欧列国にとって当たり前の方程式を、徳川幕府は250年の間、鎖国政策のため禁止としてきたのである。しかし、幕府には外国船を打ち払う力はなく、海防するにも資金が心許ないという実状が、海舟のこの意見に聞く耳をもたせたのである。 また、この時期、水戸藩や長州藩では攘夷論が盛んになっていたので、海舟のように公然と開国論を唱える外国を商売を勧めるなどということは非常に身に危険を呼ぶことになる。しかし、この建白書の提出によって坂本龍馬や西郷吉之助(後の西郷隆盛)が海舟に接触するきっかけになった。


「海舟の建言書」
ペリー来航時に老中阿部正弘が諸大名・幕士に建言を求めた際に海舟が提出した建言書

 

●ぺるり来航

1853年、海舟31歳の時、江戸に米国艦隊(4隻)と大統領の親書をたずさえたペリー提督が来航した。それまでも欧州各国から、通商を求める艦船が地方各地に訪れていたが、すべて長崎の出島に向かわせ、そこで長崎奉行などと交渉を交わしていた。 しかし、ペリー提督は、いきなり江戸湾深く進入し、幕府に直接通商を求めてきたので、江戸の町も江戸城内も蜂の巣をつつくような騒ぎとなった。


 ペリー提督肖像画

幕府は、老中阿部正弘を中心に対応を計り、とりあえず親書を受け取り、その答えを来年するということで、ペリーを体裁良く追い返すことができた。 しかし、庶民は敏感に幕府の困惑を感じ、ペリーが去った後、こんな流歌が巷で流行った。

「泰平の眠りをさます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」


サスケハナ号(ペリー提督の旗艦)

乗員は約300名、当時のかわらばんには「大海を渡る龍の如し」と伝えられた。来港した4隻中、蒸気機関をもつのは2隻、残り2隻は帆船だった。

まさに江戸城内では連夜のように評定を開いていた。阿部正弘は早急に対策を練るため、水戸御三家の徳川斉昭に参与として幕政に参加させたり、譜代・外様大名家に意見を提出させたりした。しかし、攘夷とか開国とか極論はでるが建設的な意見はなかなか見あたらない。

この後一年間は、幕府はもとより日本国中が混乱し、攘夷論や勤王論が活発になった。老中阿部正弘は心労が重なったのか、このころが病に伏せるようになり、彦根藩主井伊直弼を大老職に任命することとなるのである。一年はまたたくまに過ぎ、結論はでないままであった。

大老職に任命された井伊直弼は、朝許をまたずして日米修好通商条約を結ぶことになる。これにより攘夷思想の志士や思想家達は憤慨し、各地で反対・糾弾する動きが活発した。
●長崎海軍伝習所

ペリー来航もより、老中 阿部正弘は意見書の提出を募った。これは開幕以来の思い切った案で、大名や武士層はもちろんのこと、学者や町民(女郎屋の主人まで)まで意見の提出を許したのである。

海舟はこのとき、「親愚喪申上候書付」なる建言書を提出した。
軍制の改革と人材の育成の急務を説き、江戸湾の台場築立と軍艦の調達を早急に行うべきと主張し、これが、幕府目付 大久保一翁の目にとまり、立身の足がかりとなった。

ペリー来航から2年後の1855年、海舟は長崎の海軍伝習所に派遣され、航海術や測量術、また造船の技術を学ぶことになる。
もちろん、推薦したのは大久保一翁であった。

長崎海軍伝習所の間取り図

海舟自ら製作したものらしく、一番右上に「自分部屋」と記載している。海軍伝習所はオランダ商館長(ドンケル・クルナチウス)の提言で、オランダ政府から軍艦一隻と教官を派遣してもらうことにより実現した。

近海を伝習中、嵐に遭いあやうく遭難しかけたり、オランダ教官と伝習生たちの言葉の溝を埋めたりと、海舟の存在はオランダ教官たちにも一目おかれ、また、伝習生達との親交も深めた。(榎本武揚も海舟の後輩)
また、コットル船(小型の帆船)の造船を海舟の指揮のもと伝習生らで製作し、オランダ教官を驚かせたという。

1858年、海舟ら伝習生は薩摩藩を2度訪れる、表向きは練習航海だったが、幕府より薩摩内情を探れとの命があったからである。3月と5月に訪問し、薩摩藩主 島津斉彬自ら出迎えるという歓迎をうけた。
海舟と斉彬は、身分や立場を超えて日本国や海軍創設について意見を交わし、親交を深めた。

海舟は、はじめ2年で江戸へ戻る予定であったが、引継役の必要性などで、約6年近く伝習所に勤めることになる。
表向きは「仕方なく」ということで残留していたわけだが、海舟は1日でも長くこの伝習所で海軍やオランダ教官から世界事情を知りたいがためだった。


●島津侯との出会い

海舟が幕府創立の長崎海軍伝習所で航海術の習得に励んでいた真っ最中、その頃には咸臨丸で五島や対馬、果ては釜山沖まで航海実習にでていた。
幕府は、薩摩藩をはじめとした西国諸般の動向を知ろうと、海舟達の伝習船を利用しようと考えていた。
安政5年(1858年)に海舟は薩摩藩を訪れる、表向きは実験航海(薪水補給など)であったが、島津斉彬の行った藩政改革や藩内の動向を探るという密命を受けての薩摩訪問であった。

 島津斉彬

海舟にとっては身分的問題でまず会えることない大藩の藩主である島津斉彬に、幕府特使として対等に、また丁寧なもてなしをうけた。
斉彬の行った藩政改革によって、溶鉱炉の築き、大砲などの火器の製作、ガラスや火薬、電信機やガス灯など、当時の日本では最新技術といわれるものを藩内で製造できる環境を整え、薩摩藩は幕府よりも革新的な富国強兵を実現しようとしていた。

海舟と斉彬は対談し、海舟のあふるる才能や弁舌に感嘆し、「幕臣にも人あり」とみて、側近である西郷吉之助(西郷隆盛)に語り聞かせた。これが、のちに西郷が海舟に会う前から敬意の念をもつ大きな要因になった。
斉彬は海舟と意気投合、今後は書面にて日本のあり方を話そうと約束し、数度、海舟と斉彬の手紙のやりとりがあった。

斉彬は
「非常時に小事にとらわれていては、肝心の大事を見失うこともある。上に立つ物は大切な基本だけを押さえ、あとは自由に伸び伸びやらせることが肝要だと思う。そうすれば、新しい可能性も芽生えてくるものだ」
と話し、海舟も深く感心したという。

海舟も氷川清和でこう言っている。
「斉彬公はえらかったよ、西郷を見抜いて庭番にしたところなどは、なかなかえらい。おれを西郷に紹介したのは、公だよ。それゆえ二十年も以後に、はじめて西郷にあったとき、西郷はすでに俺をしっていたよ」

海舟と斉彬の間には、幕府と薩摩という枠にはおさまらない深い信頼ができようとしていた、しかし、この対面の半年の7月に斉彬は急死してしまう。
海舟が、まったくの皮肉なしで賞賛した人物は少ない、この島津斉彬もその一人であった。
同年、井伊直弼が大老になり、幕府方針は変わり、長崎伝習所も閉鎖。
翌年、1月に海舟は江戸に戻ることになる。


●咸臨丸渡米--1

1860年(万延一年)1月13日、咸臨丸は品川を就航した。
しかし、海舟が長崎伝習所で励んでいた頃、江戸では将軍後継問題や、井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約締結、安政の大獄がはじまるなど、政治的にも激変期であった。

海舟などの言葉を選ばない人物は下手すれば切腹、投獄の恐れもあっただろう。長崎にいたために海舟はこの激変の渦にほとんど関わらずに済んだ。これは、後に海舟の未来のためには幸運だったといえる。

さて、咸臨丸渡米の話に戻そう。

二度のペリー来寇により、押し切られた形で日米修好通商条約締結となったが、その批准、つまり返書を米国にもっていかなくてはならない。
日本国(幕府側)の使節一行は安全のため米国船に乗ることになったが、同時にその護衛船ということで日本人だけで米国まで航海しようという無謀な計画がたてられた。

その無謀な計画の白羽の矢がたったのが、海舟であり、その上司役として木村喜毅であった。
当然、提督(司令官)は木村、その補佐として海舟となるのだが、緊急時に及んで、旧弊通りの人事しかできないことに腹を立てた海舟はごねて文句を言っていた。
木村喜毅という人物は、航海の知識については海舟に遠く及ばないが、とても温厚な性格で多くの部下からの信頼を集め、なんとか海舟を説得し、海舟も太平洋横断、そして渡米というチャンスは二度とないことは承知の上の立腹劇だったので、この一件は、海舟が艦長ということで収まった。

しかし、さらに木村は米国人ブルックという艦長経験者とその配下10名ほども同船させることとしたため、海舟は腹をたてた。木村にしてみれば、今回の渡米には、多くの日本の有能な若者が乗ることとなる、必ず成功させなければならないという責任感からであったが、海舟は日本人でのみ太平洋横断を成し遂げるのが重要であるとの認識していた。

いよいよ明日出航という前夜に海舟は高熱をだした、しかしもとより死を覚悟の航海である。意識朦朧の中で夜が明けぬうちに咸臨丸に飛び乗り、そのまま出航してしまう。海舟もこの渡米に、日本の未来、自分の未来を賭けていたのだろう。

この歴史的な航海に同船した、福沢諭吉は
「海舟は出航しても、艦長室にこもったまま、木村が何か相談をしにきても「勝手にやってください」などと言う始末だった。」このように伝え、海舟の態度の非常に不満だったらしい。しかし、これは航海当初のことらしい。(海舟はもともと船酔い癖があり、さらに体調不良が重なり、まともな命令が出せなかったのではないだろうか?)


海舟直筆の咸臨丸

●咸臨丸渡米--2

前項で海舟は航海中ほとんど指示を出さず、艦長室に閉じこもったままだったという非難の裏付けになってしまうが、同船した米国のブルック大尉は「日本人達はまったくノロマだ。我々の乗組員達が日本人の士官がなすべき事をみなやっている。船の中で秩序だとか規律だとかいうものは全くない、飲酒についても厳しく取り締まることはなかった。」
また、木村喜毅の回想には海舟の不満のすべては、この太平洋横断という無謀な計画においても、身分を重んじ海舟は艦長とし、木村を艦将とするような幕府旧弊の階級思想によるあいまいな人事選別だったと述べている。

海舟もブルック大尉もいわばカンシャクをおこして船内の指揮系統は混乱状態にあったと推測できる、しかし咸臨丸には、長崎伝習にて航海術を学んだ信頼できる士官たちと、水主(かこ)も塩飽出身の経験豊かな者達を乗り込ませていた。これは海舟や木村の働きであった。何度も遭難の危機を乗り切った経験のあるブルック大尉以下の乗組員達の存在も大きかったが、咸臨丸は統一れた指揮系統や指示もほとんど必要ない状態で運行されていたとも言えるのではないか。これは後に日本人に単独による太平洋往復という偉業として語られている要因であるかと思うのは皮肉だろうか。

また、艦将の木村喜毅にもこんなエピソードが残っている。
ある時化の時、咸臨丸は大きく揺れ、木村の鑑将室から何か大きな音がした。慌てて海舟らが駆けつけると、部屋中に米国金貨が溢れていた。木村は米国に到着した際、部下達が恥をかかぬように、また何か不測の事態に備えて、家中の財を質に入れ、約10万ドルという大金を用意していた。この大部分が幕府からの機密費であったと推測できるが、それでも私財をなげうって職務を果たそうとした木村の態度に、海舟以下の乗組員達の信頼は深まった。

咸臨丸は無事、万延1年(1860年)2月26日、サンフランシスコ港に到着し、地元の新聞に載るほどの歓待をうけた。浦賀出発は同年1月19日、約40日弱の航海であったが、この米国渡米によって海舟は能力主義の米国のシステムを肌身に感じ、後の大きな肥やしとしている。

帰国後、幕府の老中らに呼び出され、米国視察の感想を聞かれた海舟は、「さて、少し眼につきましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上にたつものは、皆その地位相当に利口でございます。この点ばかりは全く我が国と反対のように思えます」と皮肉たっぷりに言ったという。
時が時なら切腹になりかねないほどの問題発言であるが、これほど痛快に幕藩体制における人事批判をしたのも海舟らしい。

●殺生を嫌う

海舟は生涯、殺生を嫌った。
それは、幕末の混乱時、あまりにも人の生命が軽く扱われた時代への、海舟の反骨精神がそうさせたとも思われる。刀の鍔にこよりをつけて抜刀できないようにしてまで、その精神を表していた時期もあった。
人斬り以蔵と恐れられた岡田以蔵が海舟の護衛をしていた頃、暴徒3人に襲われたが以蔵がすばやく反応して暴徒を斬り追い返した、おかげで一命をとりとめだが、殺人は良くないよと説教している。(しかし、私が斬らねば、先生の首が飛んでいましたよ以蔵に反論されたが・・・)

交際上、どうしても狩猟に出るときもわざと撃ち損じてみせたり、家族のものが庭の草を刈ろうとしても、虫の隠れる場所がなくなるからうっちゃっておけ(放っておけ)と命じた。

「害をしない鳥が、自分の山村に面白く遊んでいるのをむやみに殺して何が面白いのだ」と狩猟家に苦言を呈した。


●金銭哲学

晩年の海舟写真

海舟は晩年よく、書をしたためてくれとの依頼があり、依頼人は10銭、20銭と手間賃をもってくる。海舟は喜んで依頼に応じ、手間賃を取った。そうして集めた金で、公債を買っていた。使用人はどうしてそんなケチをするのかと尋ねると、「苦労して貯めた金は、3年、5年ともつものだ」といった。

海舟は当時、枢密院顧問をしており、馬車代や洋服まで公費でまかなっていた。
つまり、あぶく銭は身につかずということを海舟は言いたかったのだろう、そして実行していたのである。

また、海舟は3円、4円という金子を懐に入れたまに出かけていった。何か無駄遣いをしてると思ったのだろうか、使用人が聞いてみると、零落した徳川家の使用人に恵み与えていたという。
「使いのものをやって、3円渡すと10日しか持たないが、自分で渡すと20日ともつものだ」という。

お金というものは、金額だけでその大小は計れない、どのようにして手に入れたかが重要なのだと。
海舟の金銭哲学は氷川清和にも似通ったことが多く残されている。

●気まぐれ屋

晩年の海舟写真

海舟の性格は、反骨心旺盛で、天の邪鬼で気まぐれ屋だった。
晩年はその性格に磨きがかかり、家族のものでも海舟の機嫌をとるのが難しかったという。

基本的に外出は嫌ったが、一旦外にでるといつ帰宅するかわからなかった。しかも、玄関から出ることはまれで、裏門や勝手口からひょいっと外出してしまい、それを気づかず戸締まりをしてしまうと、「閉めだしを食わせた」と怒り、使用人たちを困らせた。

癇癪がつのれば、誰とも口をきかず、誰がきても「出て行け!」と怒鳴り、5日も一週間も寝たきりでいたこともあったという。
訪問者にも大喝をあびせ、相手がびっくりするのを楽しんだり、気が向くと使用人と2時間も3時間も井戸端会議的なおしゃべりを続けていたこともあったという。

いわゆる「気難しくとっつきにくい爺さん」であったのだろう。

●悪運

海舟はその生涯で何度か生命の危機にさらされているが、危機一髪できりぬけている。

1868年、江戸開城で倒幕軍が無事入場をすませた頃のある一日、馬上で半蔵門のあたりを通りがかりのおりに、草陰より狙撃された。幸い玉は馬の尻をかすめてだけだが、馬は驚きおおきく跳ねた。
海舟はそのまま、落馬し後頭部を強く打ち気絶してしまった。
狙撃した兵士は海舟に玉が当たったと勘違いし、そのままにして去ってしまった。
数刻の後に、海舟は気が付き、何事もなかったようにその場をあとにしが。

この時期にかけて、海舟は敵も味方もなく命を狙われていた。また、海舟自身も滅多に護衛をつけることも一因かと思うが。


●政治は誠心誠意のみ
 政治家の秘訣は、何もない。ただただ「誠心誠意」の四字あるばかりだ。この四字によりてやりさえすれば、たとえいかなる人民でも、これに心服しないものはないはずだ。
 ところで見なさい。今の政治家は、わずか四千万や五千万たらずの人心を収攬することが出来ないのはもちろん、いつも列国のために、恥辱を受けて、独立国の体面を全うできないとは、いかにもはがゆいではないか。
 つまり彼らは、この政治家の秘訣を知らないからだ。よし知っていても行わないのだから、やはり知らないのと同じことだ。何事もすべて知行合一でなければいけないよ。

抜粋「氷川清話」

管理者一言
 現代の日本と政治家の状況を悲観しているような文だが、これは明治政府を非難したものである。日常生活にも通ずる「誠心誠意」と「知行合一」という言葉は、現代人にとっても必要なことだろうと思う。


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●財政の苦心

 しかしいかに治民の術をのみこんでいても、今も昔も人間万事金というものがその土台であるから、もしこれがなかった日には、いかなる大物政治家がでても、とうていその手腕を施すことができない。
 見なさい。いかに仲のよい夫婦でも、金がなくなって、家政が左り前になると、犬も食わない喧嘩をやるでないか。
 国家のことだって、それに異なることはない。財政が困難になると、議論ばかりやかましくなって、何の仕事もできない、そこへつけ込んで種々の魔がさすものだ。

抜粋「氷川清話」

管理者一言
日本はバブル崩壊以後、景気が低迷したまま…。やはり、財政が困難になればすべてがうまく廻らなくなっていくのは今も昔も変わりないという事であろう。致命傷にならないうちになんとか手を打って欲しいものだ。


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●軍備と国民生活

 それから軍備拡張のことだが、それはもとよりできることならば拡張もしなければなるまいが、しかし法外な拡張をしてもらっては、人民が困るよ。
(中略)
 一個人にしてもそのとおりだ。紳士・紳商とか、学者・政治家などといばって車の二台や三台もおいてごらん。従って、挽き子も二、三人は雇わなければなるまい。そうすると、とても五十円、百円の収入では支えることはできまい。そんな仕方のないことを無理していると、ついには、その紳士や、学者や、政治家などが、自身で一台の車を引っぱって歩かければならないようになる。(以下省略)

抜粋「氷川清話」

管理者一言
税金の無駄使いをしている政府を非難しているようにも取れるとこが面白く、痛快である。明治政府より、むしろ現代の政治家において耳の痛い文ではないだろうか。


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●貯蓄の必要

 全体、田地からあがる小作米は、毎年何表というふうに貯蓄しておかなくてはいけないよ。先刻も東北の人がきて、米が高くて困るから外国米の安いのを買って食っているといったが、実に気の利かない話しではないか。瑞穂国ともいって、これほどたくさん米のできる国に生まれながら、外国米を食うなどはもってのほかだ。

抜粋「氷川清話」

管理者一言
つい数年前、備蓄米がなくなり、タイ米やカリフォルニア米などを食べた経験がるが、あれは、やはり政府の失態であったことが確認できる。現在は、あの経験を生かして毎年、米を備蓄しているらしいが、『灯台もと暗し』とはこのことだろう。


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●景気の不景気と人気

 日本のただいま不景気なのも、別に怪しむことはないのだ。とにかく、経済のことは経済学者にはわからない。それは理屈一方から見るゆえだ。世の中はそう理屈どおりいくものではない。人気というものがあって、何事も勢いだからね。

抜粋「氷川清話」

管理者一言
不景気なのは、現代も同じ。まさに海舟の毒舌が伺える文であろう。我々、凡人は一様に学者・専門家という肩書きの言うことを信じやすが、すべてそれが正しいとは癒えないといういましめであり、もし、自身がそういう立場にある物であったらば、なおさらのことである。


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●景気の不景気と人気

 例えば、貧乏人に金をくれてやるのでも、下手すると帰って弊害を増すばかりだら、ちょっと人の気がつかないようにうまくくれてやるのだ。その呼吸はなかなかむつかしいが、また旗本のお歴々が零落して古道具屋でも始めていると、夜分などに知らないふりをでそれをひやかしにいって、一品か二品か言い値で買ってやるという具合だ。そうすると、この人は自然商売に面白みができて、いつとなくりっぱな商人になるのだ。

抜粋「氷川清話」

管理者一言
昔、故郷再生と唱って、一億円を田舎の町や村にくばった政治家がいる。しかし、お金はばらまくだけでは帰って弊害を招くという通りの結果になってしまったようだ。100年も前に、警告されているのを知らずに…。貧乏人を救うということは、短絡的に金を与えるだけでは、帰ってだめだということだろう。国際援助や募金のあり方について考えさせられる。


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●無学な人ほど真実

 また政治は、理屈ばかりでいくものではない。実地について、人情や世態をよくよく観察し、その事情に精通していなければだめだ。へたな政論を聞くよりも、無学文盲の徒を相手に話す方が大いにましだ。
 文盲の徒の話しは、純粋無垢で、しかもその中に人生の一大道理がこもっているよ。

抜粋「氷川清話」

管理者一言
事実、このあとにつづく文章で、海舟は多くの無学文盲の徒と交わり、多くの道理を得たと語っている。民意が政治に反映されない世の中を批判しているようにもとれる。


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●外交の秘訣
 俺はこれまでずいぶん外交の難局にあたったが、しかし幸い一度も失敗しなかったよ。外交については一つの秘訣があるのだ。
 心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣の極意だが、外交にもこの極意を応用して、一度も誤らなかった。
 こういう風に応接して、こういう風に切り抜けようなど、あらかじめ見込みを立てておくのが世間のふうだけれども、これが一番わるいよ。
 おれなどは、何も考えたり、何ももくろんだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって妄想や邪念が、霊知をくもらすことのないようにしておくばかりだ。
(以下省略)

抜粋「氷川清話」

管理者一言
 外交を日常生活でたとえると、他社へ赴いての商談(営業)などが、それになるだろう。しかし、金がからんでくると『心は明鏡止水のごとし』にはいかないだろうが、その精神で望むことを心がけていても損はないだろう。


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●外交の極意は誠心誠意
 外交の極意は、「誠心誠意」にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ。
(中略)
ただ知ったことを知ったとして、知らぬことは知らぬとし、誠心誠意をもって、国家のために譲れないことは一歩も譲らず、折れ合うべきことは、なるべく円滑に折れ合うものだから、米国公使(ハリス)もつまり、その誠意に感じて、のちには向こうから気になり、相欺くに忍びないようになったのさ。

抜粋「氷川清話」

管理者一言
 非常に立場が弱い場合でも、「誠心誠意」をもって切り抜けることができる。明治期の外交は、不平等条約改訂が課題であり、その戒めとして感じられる。


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●大切なのは根気の強さ「気」
 前にもいったとおり、国民がいま少し根気強くならなくっては、とても大事業はできないよ。隣の奥さんをいじめるぐらいを、外交の上乗と心得るようでは困るよ。今少し遠大に、そうして沈着に願いたいものだ。(中略)

抜粋「氷川清話」

管理者一言
 政治が悪いのは、その国民が悪いから、また、当時の征韓論を非難しているようにもとれる。


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●公平無私の眼
 要するに、外交上のことは、ずいぶん困難ではあるが、なにわれに一片の至誠と、断固たる気骨があるのなら、国家を宣揚することもけっしてむずかしくない。それをこのごろの人たちは、公法学などをこねくって、朝鮮とか、シナとか、ロシアとか、英国とかいって、これを各別に見て、その貧富強弱によって種々手加減をするから、やりそこないが多いばかりではない、経綸もまたきわめて小さくなるなるのだ。それだから、百年の長計などといっても、とても駄目だ。あの人たちのする仕事は、十年はおろか、たった一年さきのことさえも、見通しがつかないではないか。
 おれなどは、貧富強弱によって、国々を別々に見るということはしないで、公平無私の眼をもって、世界の大勢上から観察を下して、その映って来るままにこれを断ずるのだ。それだから、今の外交家のする仕事は、おれの目には、まるで小人島の豆人間が働いていつように見えるのだ。

抜粋「氷川清話」

管理者一言
 明治政府の外交姿勢を厳しく非難しているととれるものだが、現代の日本政府の外交姿勢を非難しているものとしても、おかしくはない部分が多いのには驚かされる。やはり、日本の姿勢は、幕府〜明治、大正、昭和、平成と、それほど変わっていないのかもしれない。


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●龍馬との出会いはいつ?

龍馬は海舟と出会い、開眼し維新の志を固めたと言われている

坂本龍馬
勝海舟

海舟と龍馬との出会いの定説となっているのは、文久2年10月説が強く、これは司馬遼太郎の小説「龍馬が行く」で、面白く書かれいる。内容はだいたい以下のような感じである。

龍馬は千葉重太郎と共に、勝邸を訪ねた。はじめ龍馬と重太郎は海舟を斬るつもりだったという。日頃、開国論を唱え、異国とも通商を唱える者などは、単純な攘夷論者には許せない行為であった。
しかし、龍馬は海舟を会談、勝の人物・先進性に心胆し、斬るどころか弟子になってしまった。

これは小説やドラマで、いかにも面白い話にするために、かなり味付けされている感がある。勝と龍馬との出会いは大きく3つの説があり、どれも決定的な証拠がない。
以下で、その説の説明と考察をしてみよう

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●文久2年(1852年) 10月説

この説のソースは「追賛一話流 芳遺墨」や「続氷川清話」と言われており、海舟の記憶に依るところが大きい。司馬遼太郎の小説「龍馬が行く」他、多くのドラマや小説では、この説を元にしている。

龍馬が江戸に入ったのが、同年の8月頃だったという説は強く、脱藩したので身寄りがなく、以前、江戸留学時によしみを通じた千葉貞吉の道場を頼るということ部分も不思議はない。

海舟は同年12月に将軍上洛に伴い大阪に出張することになり、龍馬も同行したと思われる。
上洛した龍馬は、望月亀弥太、近藤長二郎などの同郷の志士を海舟に紹介し、門下生としている。文久3年には、将軍の命より、神戸に海軍繰練所の建設にも尽力し、龍馬を慕った志士達が航海術を学び、後の竃山社中(海援隊)と発展しているくのである。

やはり、筋道がしっかりしていて無理がなく、物語としてもスムーズに進行できるし、龍馬と海舟のエピソードも面白く描くことができる説である。

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●文久2年(1852年) 12月説

10月説とわずか2ヶ月違いであるが、この説が有力になってきたのは、龍馬が勝の面会に際し、松平春嶽の添え状(紹介状)を持っていたという記録がある。真実ならば、これが10月説を否定する決定的な要因となる。
越前藩の公式記録である「続再夢記事」に、文久2年12月5日に松平春嶽(藩主であり、幕府政治総裁に任命されていた)の元へ龍馬、間崎哲馬、近藤長次郎が来たとの記述が残っているところに依る。また海舟の12月9日の日記に「有志両三輩来訪。形勢の議論あり」とあり、この説を裏付けている。つまり、春嶽の元にきたのが文久2年12月5日でこの時、海舟への紹介状をもらい、12月9日に海舟に会ったのではないかということになる。

しかし、春嶽の記憶では、坂本龍馬と岡本健三郎(千葉重太郎と記憶違いだった?) 福井藩邸を訪れ、春嶽が登城の準備中であったため、家臣の中根雪江に面会させた。中根雪江は龍馬の人物を判断し危険性は無いとみて、春嶽との直接の面接を許した。春嶽も龍馬の人物を見抜き、横井小楠と勝への添え状(紹介状)をわたしたとあり。

この話は、春嶽が、龍馬、中岡の没後の20年祭に招かれた際に、 土方久元に送った返書に、その記載があるようで、この返書中、春嶽の記憶では、龍馬訪問は文久二年七月 のある朝となっており、龍馬が江戸入りしたのが八月末という説が強いので、七月の訪問というのは春嶽の記憶違いということになり、その他にも、春嶽の記憶違いな部分が多くみられ、この返書にはいまいち信憑性がなく、「続再夢記事」の記録とも相違がでてくる。

また、無名の龍馬が、藩主であり幕府政治総裁という要職中の春嶽に面会でき、さらに 紹介状(これも、春嶽の大切な人材であり、頭脳であった横井や 勝への)をそう簡単に渡すであろうか?という疑問が生じてくる。
これは千葉重太郎の父貞吉が、福井藩に剣術指南に出入りをしていたからであるのが理由となるが、それだけではコネとしては弱いような気がする。

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●文久3年(1853年) 1月説

これは、「海舟座談」の付録で、杉純道が、「勝さんが、大阪出張中 多く浪士に会ったが、その中に俺を斬りにきた男が坂本龍馬であった」というニュアンスの記載がある。

大阪出張(将軍上洛に随行)が文久二年の12月から翌年2月、また海舟の日記に、 「12月29日、千葉○太郎と坂○龍馬きたる」の記載があり、おそらく文久3年12月29日に龍馬にあっているのが真実であろう、そうなると、その日、海舟は兵庫に滞在中であり、兵庫で勝と龍馬は面会したことになる。

これが、勝と龍馬との最初の出会いであれば、面白みに欠けるが可能性が低いとはいいきれない。 もちろん、それ以前に(10月説)龍馬が勝の門下生になっていれば 大阪出張に龍馬が同行するのは自然な流れで、勝は幕府軍艦で、 龍馬は徒歩で上京することになり、日記にある 「12月29日、千葉○太郎と坂○龍馬きたる」は、ただ単に、兵庫で 勝と合流しただけかもしれない。

しかし、千葉○太郎(おそらく千葉重太郎、江戸道場の子息が兵庫までいくだろうか?)も来るとなっている点など、やはり疑問が残る。

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最後にこれはどの説にも通ずる疑問なのだが、 何故、春嶽や海舟の記憶が、岡本健三郎と千葉重太郎に関してだけ曖昧なのか?
もしかしたら、岡本健三郎(土佐出身)が江戸で行動しやすいように、千葉重太郎を語っていたら、春嶽や勝の記憶があいまいになる 可能性も有りえるかもしれない。ただ、岡本健三郎が文久2年に江戸にいたという資料が全くないらしいので説得力に欠けますね。
結局のところ「結論」を出すのは、今の段階では困難であるが、重要なのは龍馬が海舟との出会いによって、開眼し維新に大きく貢献していくことに変わりはない。


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