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占領下イラクの「国連」施設爆破「テロ」に、半世紀前の占領下日本で起きた「国鉄3事件」の悪夢を見た
http://www.asyura.com/0306/war38/msg/855.html
投稿者 佐藤雅彦 日時 2003 年 8 月 31 日 19:19:34:FnBfYmHiv1JFs


●事実上の“アメリカ占領下のイラク”や、インドネシアなどで起きている「爆弾テロ」は、「恐怖政治による支配」という思惑で一定の支配を受け入れさせる効果を発揮している、という意味では、文字どおりの「テロリズム」と呼ぶことができると思います。ただし、その場合の「テロリスト」というのは、巷間語られているようなイスラム教勢力ではなく、むしろその“統制”や“成敗”を追求している勢力だったりします。

こういうことは半世紀以上まえの日本でも起きていました。いわゆる「国鉄3事件」がその典型です。ちなみに、アメリカ合衆国の支配層が戦争を始めるときの謀略の仕掛け方は、すくなくとも戦艦メイン号の自作自演の爆沈工作で始まった米西戦争のときから繰り返され続けています。……あまりにもマンネリな官製テロリズム謀略の手口……。どうしてこうも同じ事を繰り返すのか? ひょっとすると、北米大陸の略奪時代(いわゆる「開拓期」)に、こうしたテロリズムがあまりにも成功したので、すっかり味を占めてしまったのかもしれませんね。

●以下に、ウェブ上で見つけた「国鉄3事件」に関するいくつかの
 解説を引用紹介いたします。

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http://www.h3.dion.ne.jp/~izumi7/s307.htm
●●松川事件(まつかわじけん)

●国鉄3事件

国鉄は1949年6月1日に発足した。鉄道終戦帰還兵を大量に雇用していたため、10万人を余剰労働者として解雇する予定であった。1949年7月4日、国鉄は第1次人員整理3万人を通告した。この直後、下山事件・三鷹事件・松川事件が相次いだ。事件の実行者は、共産党系労組員の仕業か、反共主義者の陰謀か、様々な憶測が乱れ飛んだ。

●下山事件
1949年7月5日深夜、下山国鉄総裁が国鉄常磐線北千住〜綾瀬で貨物列車に轢かれて死亡した。自殺と他殺の両説があった。他殺説には、国鉄合理化に反対する共産党の仕業とする見方がある一方で、米情報局CIAの反共工作活動とする見方もあった。国鉄をめぐる怪事件の1つ、下山事件である。迷宮入りになった。

●三鷹事件
1949年7月15日午後9時24分、国鉄中央線三鷹駅で無人回送電車が車止めを越えて暴走し、6人が死亡した。
国労三鷹電車区の竹内景助ら共産党員10人が電車転覆致死罪で逮捕された。最高裁判所では竹内の単独犯行として、死刑が確定したが、再審請求中に病死した。

●松川事件
1949年8月17日3時9分、東北本線の金谷川−松川間の急カーブで青森発奥羽線経由上野域旅客列車412が、脱線転覆した。機関士1名、機関助士2名が事故死した。現場に残されたバール・スパナなどが国鉄松川線路班詰所のものであることから、福島県警は国鉄労組員9名、東芝労組員11人など共産党員を逮捕した。

●松川裁判
1950年の福島地裁と1953年の仙台高裁では、松川事件の被告は全員有罪であった。1959年最高裁判決は判決差戻し(実質無罪)であった。松川事件は、反安保闘争の一つと位置づけられた。被告に共産党員が多いため、共産党は松川事件の法廷外支援に積極的であった。1961年の仙台高裁差戻し審で無罪、1963年の最高裁判決で全員の無罪判決が確定した。

・田中耕太郎最高裁長官
戦前戦後の日本の法曹界の重鎮であったが、自己主張が強いため毀誉褒貶も、激しかった。松川事件の被告全員有罪説を、無罪確定後も叫び続けた。そのかたくなな反共的姿勢は、裁判制度を危うくするものであったが、政府財界からは高く評価された。
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(1) 東大教授兼文部省教育局長
田中耕太郎(1890〜1974年)は、カトリック自然法思想にもとづく「世界法の理論」の論文で学位を得た(1929年)。終戦直後の1945年10月、東大教授と文部省教育局長を兼任し、教職員の適格審査に当たった。これは占領軍の教育民主化政策として、軍国主義者を全国の学校から一掃するものであり、 130万人のうち7万人を追放処分とした。なお、追放された教職関係者は1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効にともない、処分を解除された。

(2) 緑風会
1946年に文部大臣に就任して、六三制を1948年から即時実施することを決定したものの、吉田茂首相と対立して辞職を余儀なくされた。1947年に貴族院議員から参議院議員となり、無所属無党派議員集団としての緑風会を結成した

(3) 最高裁長官罷免要求
1950年から1960年まで、最高裁判所長官として司法の独立と法廷秩序維持をめざした。周囲からの批判には耳を傾けない権威主義的姿勢が次第に目立つようになった。 松川事件の一二審有罪判決にもかかわらず、最高裁判決(1959年8月)では、実質無罪の破棄差戻しとなった。この時、田中最高裁長官は少数意見として、最高裁判決そのものを厳しく批判した。
仙台高裁差し戻し審の最中、田中最高裁長官は検察側にテコ入れする姿勢を強め、法廷外の松川裁判支援闘争を批判した。仙台高裁には世論を雑音として無視するように指示した。司法界における反共保守のリーダーであった。反安保の動きの強まる中で、政府財界からは、田中長官は「良心的」裁判官と評された。松川事件被告弁護団は裁判の公正中立が失われるとして、田中最高裁長官の罷免を要求した。しかし、この訴追要求は認められなかった。田中最高裁長官は1960年に定年となって国際司法裁判所判事に転じたので、1963年の松川事件最高裁の再審無罪判決には関与しなかった。
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http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/iga2/shimoyama.htm


下山事件についての2冊の本への感想


富士見市民大学で戦後史について講義した際、参加者の一人から、当時国鉄総裁だった下山定則が轢死体で発見された「下山事件」について質問されました。「あれは他殺だったのか、自殺だったのか」というわけです。これは難しい問題で、今も論争が絶えません。
そういうこともありましたので、今日、知り合いの人に勧められて最近読んだ一冊の本を紹介しました。諸永祐司『葬られた夏−追跡下山事件』(朝日新聞社)で、昨年の暮れに出た本です。
下山事件については、最近目を通したもう一冊の本でも取り上げられています。昨年の3月に出た麻生幾『封印されていた文書−昭和・平成裏面史の光芒Part1』(新潮社文庫)という本の中の「下山事件50年目の解決」というのがそれです。
下山事件は、49年7月に国鉄の大量首切りが発表された直後に起きた事件で、直後に続いた三鷹事件、松川事件とともに「三大事件」と呼ばれています。下山事件では自殺か他殺かもはっきりせず、もちろん犯人は逮捕されていません。
三鷹事件と松川事件では、共産党員などが犯人として逮捕されました。裁判の結果、三鷹事件で一人の非党員が有罪になりましたが、あとの人はすべて無罪になっています。
つまり、あれだけ世間を騒がせた事件だったにもかかわらず、犯人は一人しか分かっていません。しかも、たった一人犯人と認定された竹内景助も、無罪を叫びながら獄中で死んでいきました。
いずれの事件についても、真相ははっきりしていないわけです。この三大事件が「戦後史の謎」として注目されるのは、このような理由からです。

この「三大事件」は、49年1月の総選挙で4議席から一挙に35議席に躍進し、「九月革命説」を唱えて攻勢をかけていた共産党や、人員整理・首切りに反対していた左翼労働運動に大きな打撃を与えることになります。とりわけ、事件の舞台となった国鉄や東芝電機松川工場の労組の運動にとっては、大きな影響を及ぼしました。
ここから、これらの事件は当時攻勢を強めていた共産党や左翼労働運動を押し返すために計画された謀略ではないのか、という疑惑が生ずることになります。証拠もはっきりしないのに、あたかも共産党や労働組合の仕業であるかのごとき発表を行って世論を誘導し、左翼弾圧にこれらの事件を最大限利用した当時の政府の対応も、このような疑惑を強めるものでした。

特に、犯人が捕まらなかったばかりか、自殺か他殺かさえもはっきりしない下山事件については諸説が入り乱れています。自殺説の立場から平正一や佐藤一、他殺説の立場から松本清張、矢田喜美雄などの人々が自説を発表しました。
捜査機関内でも意見が割れ、捜査一課が自殺説、捜査二課と検察庁が他殺説だそうです。マスコミも、毎日新聞が自殺説、朝日新聞が他殺説と割れています。
先に紹介した二冊の本も、基本的にこのような議論の流れに属しています。麻生さんが自殺説で、諸永さんが他殺説です。

さて、前置きはこのくらいにして、麻生幾さんの「下山事件50年目の解決」『封印されていた文書−昭和・平和医裏面史の光芒Part1』(新潮文庫、2002年3月)と諸永祐司『葬られた夏−追跡下山事件』(朝日新聞、2002年12月)という、下山事件についての2冊の本への感想を書くことにしましょう。
まず、麻生幾さんの論攷です。

麻生さんの結論は下山総裁は自殺したという説で、その動機は「国鉄職員の大量解雇を巡り、精神的に追いつめられ、ノイローゼになっていた」というものです。これは当時捜査に当たっていた捜査一課の結論と同じで、それを証言しているのが当時捜査にあたった金井岩雄巡査です。
このような説の根拠は、このころ頻繁にみられた下山総裁の「奇行」です。死の直前にも現場近くに生えていた烏麦の実を摘む姿が目撃されており、その実は背広のポケットから出てきています。

下山さんは大量首切りで極度の神経衰弱に陥っており、自殺の名所であった現場で列車に飛び込んだというのが、捜査一課の刑事たちの結論です。まだ礫死体が発見される前、失踪直後に訪ねていった刑事に、下山夫人のよしさんが、「高木さんのようにならなければいいのですが……」といった言葉も、このような見方の根拠になっています。
「高木さん」というのは、将来を悲観して首吊り自殺した高木正得元子爵のことで、同じように自殺することを、夫人が心配していたというわけです。しかもこのとき、庭先には何かを燃やした痕があり、それが下山さんが残した遺書だったのではないかという推測も付け加えられています。

このように、本書は自殺説を主張していますが、しかし、それでも残る疑問点のいくつかが紹介されています。
たとえば、轢死体の周りには血がほとんど流れていなかったこと、下山総裁のかけていたロイド眼鏡が現場から発見されなかったこと、轢いたはずの列車の運転手がそのことに気がつかなかったことなどです。これらはいずれも、自殺説ではなく他殺説を裏付けるものです。
これらの疑問点については諸永さんも注目しており、彼の他殺説の有力な根拠になっています。麻生さんの本でも、これらの謎は謎のままに残されており、自殺説への疑問は完全に払拭されているわけではありません。

さて、次に諸永さんの著書です。この本を読んで、大変、感心したことがあります。
その一つは、ジャーナリストとしての執念のすごさといいましょうか、調査へのこだわりといいましょうか、とにかくすごいものです。元共同通信記者の斉藤茂男さんの影響のようですが、斉藤さんは良い「後継者」に恵まれたと思います。
諸永さんは1969年生まれだといいますから、まだ30歳を少し回ったばかりです。そのような若い人が、このように、まさに地を這うように、生まれる前の古い事件の記録を調べ続けたということにある種の感動を覚えました。

もう一つは、このような地を這うような調査であっても、その多くは空振りに終わっています。それにもかかわらず、めげずへこたれず調査を続け、ついにはアメリカにまでわたって行くことにも感心しました。
空振りというのは、ようやく探し当てた相手が亡くなっていたり、断られたり、居留守を使われたりすることです。それでも諸永さんはめげず調査を続けていきます。
もう一つの空振りは、諸永さんの仮説や問いかけがほとんど相手に否定されてしまっているということです。自分の仮説や想定が裏付けられなくても、それでもへこたれずに彼は調査を続けます。

本書は、このような執拗な調査を跡づけたルポルタージュだという性格もあります。柱になっているのは、アメリカであった3人の元キャノン機関の関係者です。
しかし、ようやく突きとめたこれらの証言者は、いずれも下山事件との関わりを否定します。元スパイたちが、昔のことだからといってホイホイ証言するはずがないということからすれば、当然の結果かもしれません。
その意味では、本書の「追跡」は失敗しています。「振り返ってみれば、下山事件をたどる僕の旅は、“失敗”の連続だった。その意味で、この本は“失敗”した取材の記録ということもできるかもしれない」と、本人が書いているとおりです。

ところで、この本には、私の個人的な事情で、「オヤッ」と思うところが2カ所ありました。
一つは、私の勤務先である大原社研が出てきたということです。本書の234頁で、「左派の台頭を抑え込もうとしていた労組右派の民同が出してい機関紙が法政大学大原社会問題研究所(東京都町田市)に保存されていた」として、『国鉄民同』という新聞の1949年7月14日付が引用されています。
諸永さんは研究所まで閲覧に見えたのでしょうか。機関紙類はまだウェッブ公開していませんので、多分、町田にある多摩キャンパスまで来られたのでしょう。
このようなところまで手を抜かずに調査しているところが、本書の凄さだと言えます。必要だと思っても、なかなかこうはいきません。

もう一つは、本書でカギを握る最後の人物として登場してくるキャノン機関のナンバー2、ビクター松井についてのものです。松井は終戦の3カ月後の49年11月に日本にやってきますが、そのときの最初の赴任地は新潟県の高田だったといいます。
松井は、ここにあった「CIC(米軍防諜部隊)の『支店』で半年すごした後、47年の末にはG2直属のキャノン機関に入ることになる。これもウィロビーの指示だった」(320頁)と書かれています。
この高田は私の故郷のすぐ近くの町です。私は、高田と合併して上越市となった直江津の高校を出ました。高田高校出身者にも沢山の友人がいます。
その高田に、このようなCICの「支店」があったとは、まったく知りませんでした。ちょっと驚きですね、これは……。

ちなみに、共同通信の記者だった春名幹男さんが書いた『秘密のファイル−CIAの対日工作(上)』(共同通信社、2000年)によりますと、「G2の総員は1948年初めの時点で約三千人」もいたそうです。「このうち、主要部隊の民間情報局(CIS)は約二千人で、その下に、第441防諜部隊(CIC、約九百人)や民間検閲部隊(CCD、約五百人)などが置かれた」といいます。
これらの部隊は日本全国に散らばっており、「CICは、日本全土を第一管区(九州)、第二管区(中・四国)、第三管区(近畿・北陸・中部)、第四管区(関東・甲信越)、第五管区(東北)、第六管区(北海道)の六ブロックに分けて、『危険分子』の情報収集と監視にあたった」(228〜229頁)といいます。そうすると、ビクター松井は第三管区に派遣されていたということになります。

諸永さんのインタビューの「空振り」について、先に私は、「元スパイたちが、昔のことだからといってホイホイ証言するはずがないということからすれば、当然の結果かもしれません」と書きました。これについては、春名さんも、「退職後の現在でもなお、CIA要因のIDについては、守秘義務があり、元CIA要因でも軽々にその事実を確認したりしない」(202頁)と書いています。
諸永さんがインタビューした相手は、CIAではなかったとはいえ、同じ諜報機関の要員たちでした。ソウル生まれの韓国人でもとキャノン機関員の延禎、北海道にあったアメリカ情報機関の隊長だったジョージ・ガーゲット、そして前述のビクター松井の三人の「元スパイ」にアタックした諸永さんのアメリカ訪問の旅は、堅い岩盤の中にある鉱石を見つけるために掘り進むようなもので、最初からあまり成果が期待できなかったのではないかという気がします。
それでも、諸永さんは果敢にチャレンジしました。そこに、諸永さんのジャーナリスト魂というか、真骨頂があるということなのかもしれませんが……。

このように、諸永さんの「追跡」は、警察の捜査に近い綿密さで行われますが、惜しむらくは、それが「見込み捜査」ではないかという印象が強いことです。諸永さんは、初めから下山さんの死は謀略による他殺、つまり謀殺であるという見方に立っているように見えます。
地道な「追跡」は、それを実証するために行われましたが、結局、謀殺を裏付ける確証は出てきません。最後まで読んでみても、謎は謎のまま残っていると言わざるをえないでしょう。

最後になりますが、本書を読んで、二つ、大きな疑問を感じました。一つは、本書の中でカギを握る重要な人物として登場する「Y氏」が、最後まで「Y氏」のままで、本名が明かされていないことです。
この「Y氏」については、地元の教育委員会に残されていたという詳しい経歴が紹介されています。また、諸永さんが二回目に会おうとしたときにはすでに亡くなっていたといいますから、本名を明かしても本人に迷惑がかかることはなかったでしょう。
それなのに、何故、最後まで仮名だったのでしょう。本名を明かすことができない特別の事情でもあったのでしょうか。

もう一つの疑問は、諸永さんの追跡が、何故、下山事件だけなのか、ということです。先に紹介したように、共産党や労働運動に打撃を与えた謀略的事件は下山事件だけではありませんでした。三鷹事件や松川事件も同様の性格を持っており、これらが「三大事件」と呼ばれるのは、そのためです。
つまり、もし、下山事件が左翼運動に打撃を与えるための謀略だったとすれば、三鷹事件や松川事件もまた、同様の謀略だったのではないかという疑いが出てきます。ひょっとしたら、同一の犯人または団体によって引き起こされたものだったかもしれません。

しかし、諸永さんが追跡するのは下山事件についてだけです。三鷹事件や松川事件との関連は、ほとんど意識されていません。もし、関与した疑いのある人物に下山事件が起きたときどこにいたのかを聞くのであれば、三鷹事件や松川事件のときに、どこでどうしていたのかも聞くべきだったでしょう。
この点が惜しまれます。もし、今後もこのような追跡を行うのであれば、三鷹事件や松川事件の「真犯人」探しを試みていただきたいものです。

諸永さんは、歴史の闇(轢死の闇?)に光を当てようとされました。その光は、結局真相を照らし出すことはできませんでしたが、もう一つの姿をくっきりと浮かび上がらせました。
それは、真相に迫ろうと執念を燃やす若きジャーナリストの姿です。諸永さんの心に火を付けた斉藤茂男さんも、その仕事ぶりには草葉の陰できっと満足されていることでしょう。

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http://www.oisca-malaysia.f2s.com/mrmiyoshi/localjapanesenohimatubushi/5059localjapanese/52c.html

52.秘密のファイル−CIAの対日工作(後編)
春名幹夫 著 共同通信社

3.対中国工作

1949年10月1日の中華人民共和国成立は、ソ連との冷戦が悪化していた折柄、東南アジアの共産化防止を目指す米国の戦略を根底から脅かす事態となりました。

これに対し、CIAはスパイを中国本土に送る工作に着手しました。前号で、日本でのCIA要員が一時は200人程いたことを書きましたが、これはその頃のことです。CIAは日本を拠点として、香港へ逃れてきた本土からの難民から要員を選りだして訓練し、200人ほどを本土へ送り返します。しかし、人民中国も諜報戦では負けてはおらず、スパイはほとんど拘束されたり処刑され、結局はこの工作はあまり実を結びませんでした。

この「チャイナ・ミッション」を手掛けたエージェントの一つが、年にプロレタリア作家の鹿地亘監禁事件で有名になったキャノン機関です。この事件は国会でも取り上げられ、CIAの悪役イメージが一気に定着しました。後年、松本清張が「日本の黒い霧」という本で、1949年に連続発生した下山、三鷹、松川事件の犯人だと名指ししました。しかし、資料を丹念に当たるとキャノン機関犯人説は怪しくなり、むしろキャノン機関と同様にCIAにコントロールされていた多くの機関が雇っていた実行犯グループの一つによる犯行と言えそうです。勿論、日本共産党に打撃を与える目的だったことは確かです。

対中国封じ込めというアレン・ダレスCIA長官の方針で、CIAはこれらグループを使って、共産主義運動を根絶やしにするために、各国で破壊工作を推進しました。共産化した中国やキューバのほか、イランのモサデク政権、インドネシアのスカルノ政権等、チリのアジェンデ政権等、社会主義陣営に近づく気配を見せた政権に対して、政権転覆のために各種の謀略を行ってきたことは実証済みです。

また、1946年のフィリピン独立後の初代大統領マニュエル・ロハスが米国のスパイだったこと、1994年に政権を追われたザイールのモブツ・セセ・セコ前大統領もまたCIAのスパイで、CIAからは手下扱いされていたことも明らかにされています。

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http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/simoyama.htm

下山事件

【 遺体発見 】

1949年(昭和24年)7月6日午前0時25分、上野発松戸行きの国鉄(現・JR)常磐線最終電車2401Mが都内足立区五反野(ごたんの)南町の、東武鉄道との交差点ガード付近を通過中、椎名利雄運転手が小雨に濡れた線路上に、死体らしき物を発見し、次の駅の綾瀬駅に、午前0時26分に到着すると、ホームにいた安部献次郎助役に知らせた。

「おい、東武線のガードのそばに、女のマグロ(轢死体)があるぞ!」

安部助役はすぐ、松本正四郎改札係、岸勝弥駅手を呼んでカンテラを持たせ現場に行かせた。カンテラで死体を探すと、肉付きのいい、裸の胴体がうつ伏せに線路のわきにあった。現場に行った2人は小菅刑務所裏の警手詰所から安部助役に電話で、首と手足のない胴体がレール横に転がっていたが、肌が白かったので女の死体らしいという報告をよせた。

午前1時ごろ、安部助役は事故現場から帰った松本と岸勝の報告をそのまま上野保線区北千住分区長の田中荒次郎に伝えた。
午前1時5分、田中分区長は副分区長の小島陸之助を連れて徒歩で五反野へ向かった。荒川放水路の鉄橋を渡り現場に到着したのは午前1時半だった。このとき、すでに霧雨が振り出し、線路は濡れていたという。
午前1時45分、田中分区長らは、バラバラ死体の着衣を調べているうちに、「日本国有鉄道 総裁 下山貞則」の名刺が沢山、散乱し、そばには総裁名義の東武鉄道優待乗車券の入ったパスがあるのを発見した。

まさかこんな場所で!
ラジオの臨時ニュースや夕刊の記事で下山総裁が行方不明になっていたことを知っていた。
田中ら2人は急報の必要を感じ、現場から1番近い西新井署の五反野南町駐在所に向かった。

午前2時15分、五反野駐在の中山巡査は2人の報告を受け、西新井署に報告。
午前2時40分、中山巡査が現場到着。北千住保線区から応援の3人の工手が来ていた。
午前2時50分、綾瀬駅員の沼尾が2回目の事故現場確認で現場に到着。
死体は、首、胴体、右腕、左脚、右足首の5つの部分に轢断されていた。そして、ねずみ色の上着、白のワイシャツ、チョコレート色の靴、時計などが線路に80数メートルに渡って散らばっていた。その無残なマグロが、国鉄総裁・下山貞則(49歳)と確認されるのに、そんなに時間はかからなかった。

下山貞則・・・1901年(明治34年)7月23日生まれ(死亡当時の49歳は数え年齢/現在使用されている満年齢に変わるのは翌1950年から)。1925年(大正14年)東大工学部卒。鉄道省(現・国土交通省)に入り、東京などの鉄道局勤務を経て1936年(昭和11年)に、ヨーロッパ各国の鉄道事情を視察。戦後、東京鉄道局長などを経て1948年(昭和23)に運輸(現・国土交通)次官に就任。1949年(昭和24年)6月1日、国鉄の初代総裁となる。7月6日、常磐線綾瀬駅付近でバラバラ死体で発見される。

午前3時20分、斎藤綾瀬駅長が到着。この時間には風雨が激しくなっていた。その後、西新井署の現場検視斑5人が現場に到着。80メートルに渡る散乱遺体を見たあと、保線区の人から、このままでは次の貨物列車に引っ掛けられる心配がある、と注意され、胴体を移した。午前4時ごろ、検視が修了。

その後、東京東鉄時代の秘書だった折居正雄、国鉄本社運行課長の土井清、東鉄局長時代の佐保田運転手、新橋運輸事務所時代の部下の中村量平、総裁秘書の大塚辰治が現場に到着した。

午前5時半、豪雨もおさまり、朝の光もさしたので、正式検証が始まった。東京地検から布施、金沢両検事、警視庁堀崎捜査1課長、金原捜査1係長、関口、鈴木警部補ら6人、鑑識課の塚本課長、岩田警部補、北村技官ら5人、東京都監察医務院の八十島(やそじま)信之助監察医らが立ち会い、午前8時までかかった。

また、下山は7月6日午前0時19分に、現場を通過した869貨物列車により、轢かれたものと断定された。この貨物列車には下山の衣類の切れ端、肉片、血痕などが付着していた。そして、6分後の午前0時25分に現場を通過した2401Mの電車により死体が発見されることになる。

本来なら、この869貨物列車は田端操車場を午前0時2分に出発する予定だったが、8分遅れの午前0時10分に出た。この8分の遅れを取り戻すために、全力で突っ走った。連結していた貨車が普通の半分以下の49両だったことと、全車両が空車であったことで思ったよりもスピードがあがった。

また、この機関車のヘッドランプは、発電機がまわらないためつかなかった。仕方なく予備の蓄電池を使ったのだが、わずか10ワットの明るさしかなかった。そのため、山本運転手は下山を発見することはできなかった。ちなみに、椎名が運転していた2401Mの電車のヘッドランプは1キロワットあったため、下山の死体を発見することができたのである。
869貨物列車は荒川鉄橋を渡ると、常磐線レールはここで大きく右にカーブする。荻野助手は鉄橋から400メートル先の東武鉄道と交差するガード下にきたとき、綾瀬駅のシグナルを見るため機関車から身を乗り出した。その瞬間だった。ガード下を抜けたところで、レールに敷いてあるバラスがバチバチと機関車の底板に当たる音を聞いた。それは、下山の体を切断した瞬間であった。

【 前日 】

轢死体が発見された前日の7月5日の下山総裁の行動が謎である。この日、下山を乗せた車の運転手の大西政雄の記憶をたどると・・・。

午前8時20分ごろ、いつものように東京・大田区上池上(かみいけがみ)の自宅を総裁専用車ビュイックで出ると、御成門(おなりもん)を過ぎたとき、下山が「佐藤さんのところに寄るんだった」と言った。

「佐藤」とはのちの首相の佐藤栄作のことで、3年前、下山が東京鉄道局長に就任したころの運輸次官が佐藤だった。佐藤はその後、民自党政調会長になった。

「まいりますか?」大西は訊き返したが、「いや、またにしよう」と下山は言った。

国鉄本社は東京駅前にあるが、近くまできたとき、「買い物したいから、三越デパートまで行ってくれないか」と言った。
大手町交差点を右に曲がったとき、下山は「役所は10時までに入ればいいんだ」とつぶやいた。
車が東京駅北側のガードを潜り抜けると、「白木屋(しらきや/のちの東急日本橋店)でもいいから、まっすぐ行ってくれ」と変更した。
6月のなかばを過ぎるころにはほとんど毎日のようにやってきて白木屋の前で降りて、大西運転手は1〜3時間ぐらい待たされたという。
白木屋はまだ、開いていなかった。やはり、三越に行こうと言うので従ったが、三越も閉まっていた。
<9時半より開店>という標示を見て、大西はそれを下山に告げた。下山は「うん」と頷いただけだった。
大西は「役所にまいりましょうか」と言ったが、下山はまたも、「うん」と言っただけだった。
大西は、一旦、役所に出ることにして、ガードまで戻ると、突然、下山が「神田駅に行ってくれ」と言いだした。
神田駅西口に出て車を停めたが、下山は動こうとしない。「お降りになるのでしょう」と大西が言うと、下山は「いや」と言って不機嫌そうに首を横に振った。
大西は今度こそ国鉄本社に行くつもりだろうと判断し、すぐそばの呉服橋まで来ると、「三菱銀行へ行ってくれ」と言った。
「三菱銀行」は当時、財閥解体命令で「千代田銀行」と呼び変えられていた。現在の東京三菱銀行の前身のひとつ。
本店は丸の内にあり、国鉄本社の前を通り過ぎることになっていた。そのとき、下山は怒ったような声で「もっと速く走れんか」と言った。

午前9時5分ごろ、大西は銀行の前に車を停めた。下山が1人で銀行に入り、20分ほどして戻って来ると、「これから行けば、丁度いいだろう」と、顎をしゃくって見せた。
下山は銀行に入り金庫係長から私金庫から鍵をもらい、地下に入った。この私金庫は下山が総裁になった6月から使っていたものだった。あとで、金庫の中に1万円の札が3枚入っていたことが判った。この頃の国家公務員の平均給与ベースは6300円であったが、下山の手取りは1万8000円であった。
三越の開店時刻のことだろうと大西は察し、三越南口に車を乗り付けた。下山はすぐに降りようとせず、「なんだ、まだ開いていないのか」と言って、しばらく腕組みをしていた。車を出た大西が、後ろのドアを開けながら、「もう人が入ってますよ」と声をかけると、ようやく腰を浮かせた。
下山は「5分で済むからな」そう言い残して店内に消えた。午前9時37分であった。これが、生きている総裁を確認した最後の時刻となった。

下山総裁秘書の大塚は、毎朝8時45分ごろから、国鉄本社の玄関に立ち、下山を迎えることを日課にしていた。ところが、いくら待っても姿を見せない。特にこの日は、9時から局長会議が開かれ、下山も列席することになっていたから苛立っていた。
自宅に電話してみると「いつもの時間に出ました」と言う。

午前9時半ごろ、GHQ(占領軍総司令部)のCTS(民間運輸局)やGS(民政局)など、下山が立ち寄りそうなところに電話してみたが、来ていないという返事を聞かされただけだった。
警視庁の田中警視総監、国警(国家地方警察)の斎藤長官にも知らせがいった。
午前10時ごろ、下山の自宅に、下山が自宅を出たかどうかを尋ねる電話が入った。このとき、下山夫人が受けているが、このときの相手をアリマともオノデラとも名乗ったようだと記憶している。
正午過ぎ、鉄道公安局の芥川局長は田中警視総監を訪ね、改めて状況を説明した。
田中警視総監は坂本刑事部長と原交通警備部長を呼びつけて協議した後、堀崎捜査1課長に捜査の着手を命じた。同時に坂本刑事部長は、警視庁管内の全警察署に対して、消えたままの総裁専用車ビュイックの発見に努めるよう指示した。
一方、国鉄本社の田坂秘書室長は、CTSのシャグノン中佐を訪ねて、下山失踪の事実を伝えた。捜査1課の関口警部補は、下山家の聞き込みにあたった。大塚秘書からの問い合わせに続き、総裁が家を確かに出たかという問い合わせの電話があったという。
午後5時、ついに、国鉄は総裁失踪の発表に踏み切った。ただちに、NHKの臨時ニュースとなって流れた。
下山を車に乗せていた大西運転手は、まだ、三越前に車を停めたままで、ラジオを聴いていた。「5分ぐらいで戻る」はずだった下山が姿を消してから7時間以上にもなっていた。だが、こういうことが過去に何度かあったので大西は慣れていた。慌てて、大西は三越店内に入ると、店内放送を頼み、6階にある三越劇場に入ってみた。下山がときどきここに来ていたのを知っていたからだ。薄暗い中、隈なく探したが、見つからない。そのあと、国鉄本社に電話した。
午後5時半、大西運転手は警視庁の取り調べ室で事情聴取を受けることになった。
午後6時半ごろ、非常召集で集められた30人の刑事が三越に駆けつけた。三越百貨店の店員430人に対して、1人ひとりの聞き込みが行われ、続きは翌朝からということで、引き上げた。
三越では、何人かの店員が下山らしき人が店内にいたことを記憶している。その中でも、午前10時15分ごろ、地下鉄駅の方に下りていったという案内係の自信に満ちた目撃談があった。下山は「白木屋でもいい」と大西運転手に言っている。白木屋も地下鉄駅に通じていることから、地下鉄を使う目的だったのではないかと推測できる。また、三越店内で人と会っていたという目撃証言もあった。
当時、三越のビルの中には、36もの貸事務所が入っていたが、これらのチェックはもちろん、エレベーターやトイレの中まで調べられた。

午後9時過ぎ、下山の自宅に、奇妙な電話がかかってきた。受けたのは同居している仲村量平の妻だった。その相手の男はアリマと名乗った。
「今、総裁不明のニュースをラジオで聴いた。総裁は今日、自分のところに立ち寄ったが、元気だったので心配はいらないと思う」と、伝えて切れた、という。

警察はこの知らせを受け、下山の名刺や住所録を当たり、「有馬」という名刺を見つけて、その有馬宅に出向いたが、有馬は友人の結婚式に朝から出かけていて、ついさっき帰ってきたことが分かり、そしてそれが証明された。
それから、間もなくして轢死体発見の知らせが伝えられた。


【 国鉄の人員整理 】

1949年(昭和24年)は、日本にとって戦後の大きな節目になった年だった。1月末に行われた戦後3回目の総選挙では、吉田茂率いる民主自由党が過半数を収めて圧勝し、第1党だった社会党が惨敗。代わって4議席しかなかった共産党が、一気に35議席まで伸ばすという躍進ぶりを示した。

2月初旬、米国デトロイト銀行頭取のジョセフ・M・ドッジが来日し、ドッジ・ラインを提案。これは、日本経済を立て直し、緊迫する米ソ関係に向けて日本を「反共の砦」「アジアの軍需工場」として独立させるための処方箋で、労働者の大量解雇などをともなう荒療治だった。また、これは、前年暮れに出たマッカーサー命令で、経済安定9原則を具体化するためのものだった。占領軍の強権を後ろ盾にして、緊縮財政を図るというのが狙いだった。

5月に成立した「行政機関職員定員法」がその典型だった。専売公社や国鉄職員を含めた約300万人の公務員のうち、約14%の42万人を整理するという計画であった。なかでも、国鉄は62万人の職員のうち、約19.4%の12万人を削減するという荒々しい構想だった。

政府は初代国鉄総裁の人選に頭を痛めていた。財界の大物にも当たったが、大量解雇が最初の仕事と知って引き受けるはずはなかった。近鉄社長の村上義一もその1人で、吉田首相の命令で広川弘禅(こうぜん)幹事長から総裁をやってくれと、口説かれたが即座に断っている。大屋晋三(しんぞう)運輸大臣は、再度、村上と交渉する。村上の拒絶の意向は変わらなかったが、こうなると、運輸次官の下山貞則を抜擢するほかはないという話に落ち着いた。

実は下山は、翌年行われる参議院選挙に立つ決意を固めていた。そのため、5月20日ごろには、運輸次官の職を退く考えだった。
その辞表を提出する直前に、村上が下山のところに訪ねている。総裁を引き受けろと勧める村上に、下山は選挙に出るつもりだと、いったんは断った。次に大屋運輸大臣が下山と会った。大屋は総裁の引き受け手がいなくて困っている、と持ちかけた。すると下山は「それなら、私がつなぎ役をやりましょう。適任者がまとまれば、いつでも辞めます」と、答えた。また、下山は村上を訪ね「四囲の情勢を考え、総裁就任を決断しました。私が犠牲になります」と告げた。
村上が「その犠牲という中には、命を捨てることも含まれるかもしれんぞ」と手を差出すと、下山は涙ぐんで握り返した。東鉄局長から本省の局長を飛び越して、いきなり次官、そして総裁だから2段飛びの大出世だった。

6月1日、事件が起きる約1ヶ月前のこの日、国鉄は、公共企業体として新発足。下山貞則が初代総裁となった。下山は、連日、労働組合との団体交渉に忙殺された。下山はGHQの指示で、国鉄職員9万5000人の首切りをしなければならなかった。
GHQのCTS(民間運輸局)のシャグノン中佐は、下山に「6月下旬までに人員整理しろ!」と督促した。

占領当初、GHQ内部に勢力を持っていたのは容共派、つまり、ニューデール派であった。だが、これでは、日本はソ連のものになってしまうというので、ウイロビー少将を旗頭とする反共派が陰謀し、ニューデール派を追放した。だが、日本はまだ共産勢力がはびこっていた。中でも、国鉄は日本共産党の一大拠点だった。
この首切り旋風は、公務員のみならず、民間企業や中小企業労働者、果ては農民までも巻き込んだ。各労組は大反対、各地でストが相次いだ。

6月9日、東神奈川車掌区で始まった国電ストが、三鷹電車区、中野電車区、同車掌区、千葉車掌区などに飛び火した。組合が自主的に “人民電車” を走らせるという場面もあった。GHQは3日後にスト中止命令を発し、強引に収束させた。

6月30日、労働者が警察署を占拠した福島・平(たいら)事件が起こった。福島県平市駅前に立てられた1枚の掲示板がきっかけだった。この掲示板は常磐地帯の中小炭坑の首切りに反対して、労働者の悲惨を訴えたものだった。平市警察署が撤去命令を出したのに対して、400人以上の群集が平署に押しかけて乱入し、占拠してしまったという事件である。戦後初めて騒擾(そうじょう)罪が適用され、300人が検挙された。

騒然とした世情の下、7月1・2日、国鉄当局と労組の話し合いが行われたが、決裂。当局は第1次人員整理で、7月20日までに約9万5000人を解雇することを宣言した。

7月2日の真夜中、シャグノン中佐は国鉄本社に現れ、「下山を呼び出せ!」と怒鳴った。しかし、誰も英語が解からないので、東京駅に行き、下山の自宅に電話した。「今、東京駅にいる。すぐ出て来い!」という命令だったが、下山は「午前1時だし、車も運転手も帰ったから、それは無理だ」と答えた。シャグノン中佐は「よし、それでは俺が行く。待ってろ!」と酒に酔った声で怒鳴った。

間もなくやってきた彼は、応接間に入ると、ピストルをテーブルの上にドンと置き、「整理を目前にしておきながら早くから家に帰って寝ている奴があるか! どんなことがあっても、4日に整理を発表しろ!」と大声でわめいた。

下山は「7月4日はアメリカの独立記念日だから、翌5日の正午に人員整理発表する」と、彼をなだめた。
7月4日、第1次人員整理の3万700人の名簿が発表された。

下山はいつも通り、大西運転手のビュイックで出勤。8時45分ごろ、国鉄本社に到着。

午前中は会議があったが、予定している整理通告が組合側に漏れたらしいとの報告があって、一時騒然となった。最初の計画では、通告は夕方の終業間際に行っていて、幹部はそのまま逃げ帰ることになっていた。しかし、組合側がすでに騒ぎ出しているという情報も伝わり、発表を午後3時に繰り上げることにした。

危険な事態も予想されるため、局長は下山に外出するよう勧めたが、下山は逃げ回るような真似はしたくない、討ち死にの覚悟はできていると、机を叩いて、怒りをむき出しにした。局長らは、政府関係者に報告に行くことを説得し、下山はそれに応じた。
正午過ぎ、下山は吉田首相官邸を訪ねたが、外相を兼ねている吉田は、芝白金台(しばしろがねだい)の外務大臣官邸にいるというので、増田官房長官の同行で、白金台に向かった。ところが、吉田には先客がいた。待つように勧める増田に、下山は会議があるからと、振り切って出た。会議の予定などなかったのだが。

午後1時ごろ、下山は人事院ビルに現れた。人事院ビルには人事院総裁や、国警長官、建築院総裁ら、下山には面識の者の部屋があったが、不思議なことに、下山はどの部屋にも訪れた形跡がない。ただ、人事院事務総長の浅井がトイレに行く途中で下山と会い、浅井が「大変ですね」と声をかけると、下山は「ああ」と言っただけで、玄関の方に去って行ったという。このビルへの立ち寄りは謎のままである。

午後2時半ごろ、大西の運転する車で呉服橋の薬屋に立ち寄り胃薬を買った。それから、東京駅南口にある千代田銀行に立ち寄るよう命じた。銀行の受付けで私金庫の鍵を受け取り、金庫のある地下に下りていった。この千代田銀行には失踪する翌日にも立ち寄っている。いずれもどの程度の金を出入りさせたのか分かっていない。

銀行からはほんの数分で出てきて、そのまま、国鉄本社に戻ったが、すぐに出てきて、今度は警視庁に向かった。

秘書に警視総監室に案内されたが、田中警視総監には先客がいた。秘書が別の部屋に通そうと、「どうぞこちらへ」と2度ほど声をかけたが、下山は「いやいや」と曖昧につぶやき、「あのときはありがとう」と礼を言った。田中はあのときとはいつのことか、一瞬分からなかったが、2日前の国鉄本社前での2000人規模のデモ隊を警察隊が鎮圧したことだろうと推測した。下山はさらに、来客中にもかかわらず、立ったままで話しを続けた。見知らぬ子供からの手紙で、お父さんをクビにしないで下さい、と書いてあったと、しょんぼりした表情だったという。

その後、下山は法務庁2階の受付けに現れ、「長官に会いたい」と言った。受付けの者が「柳川長官ですね」と確かめると、「いや、佐藤さんだ」と言う。「長官は佐藤さんから柳川さんに代わってます」と受付け係は説明したが、下山は合点のいかない顔で立ち尽くしている。「お会いになりますか」と言うと、下山は「うん、案内してくれ」と不機嫌そうに頷いた。
下山は長官の部屋に入ってが、柳川の顔を見ても挨拶もせず、「電話を貸してくれ」といきなり言って、受話器を取り上げて木内という人物と、2、3分話したあと、ソファに腰を下ろした。下山は、自分の父も裁判官だったから、苦労はよく分かっているなどと、とりとめのないことを5分ほど話しして去った。柳川には何しに現れたのか理解できなかった。

午後3時40分ごろ、その後、再び首相官邸に向かい、下山は建物の中に入ったが、20分ほどで出てきた。このとき、下山と会った人物がいたのかどうか分かっていない。

その後、下山は大西運転手に新橋駅に回るよう指示し、大西はそれに従ったが、下山は車から降りることもなく、そのまま国鉄本社に車を向けた。

午後4時半ごろ、4階の総裁室の前で、運輸局保安課の桜岡課長と出会う。桜岡は、整理通告以降、列車の運行状況など、影響の有無を報告しようと来たところだった。重大な用件だから、てっきり総裁室に招き入れられるだろうと桜岡は思ったが、下山は廊下に立ったまま報告を聞き始めた。しかも、面倒くさがって顔を横に向けたままであった。

午後5時過ぎ、下山は大西が運転する車に乗り込み、有楽町の交通協会ビルに急がせた。ビルにあるレールウエイクラブで、5時から臨時の局長会議を開くことになっていた。ところが、いたのは秘書室長の田坂1人で、「会議は中止になったが、公安局長室に何人かが集まっているはずだ」と言った。そこで、下山は東京駅の駅舎2階にある国鉄公安局長室に出向いた。

そこには芥川局長を囲んで、橋本公安1課長、赤城2課長、我孫子文書課長、中村秘書課長らが顔を揃えていた。整理発表後の状況などを話し合っていた。そこへ突然、下山が現れたので、芥川局長が慌てて公安局員の配置状況などを図面を出して説明し始めた。

下山はぼんやりとした表情で、それを聞きながら、卓上にあった局長の茶を飲み干してしまった。驚いた芥川が給仕に茶を用意させようとしたが、下山は「いらん」と怒鳴った。全員、顔を見合わせるほどの剣幕だった。その後で、給仕が全員にアイスクリームを出した。下山は自分の分を食べ終え、さらに、橋本課長が夕刊を買いに行っている間に、彼のアイスクリームまで食べてしまった。服の上にだらだらと垂らすような食べ方で、これにも、みな顔を見合わせたという。橋本課長が夕刊を買って戻ってきたが、『国鉄、三万七百人を解雇』という大見出しを、下山が覗き込み、「なに3万700? そんなにやってしまったのか」と口走り、そそくさと出ていってしまった。

この後、下山は大西の車で交通協会のレールウエイクラブに戻ったが、すでに閉まっていた。協会事務局にいた山崎から鍵を借り、1人で開けて入った。どこかに電話したり自分で注文した弁当を食べたりした。午後8時ごろ、国鉄本社に戻り、総務課の会議を覗いた後、午後10時前に自宅に帰った。

7月5日、下山が行方不明になり、7月6日、下山の遺体が発見される。
7月12日、第2次人員整理の6万3000人を通告。
7月15日、三鷹事件発生。


[ 三鷹事件 ]

1949年(昭和24年)7月15日、国鉄中央闘争委が、ストを含む実力行使で闘うことを最後通告した当日の出来事だった。午後9時24分、無人電車が中央線三鷹駅構内から暴走、改札口と階段をぶち抜き、交番を全壊して民家に突入した。6人が死亡、20余人が重軽傷を負った。交番にいた4人の巡査は全員無事で、しかも戸籍簿まで持ち出して避難を完了していた。まるで事件を予期していたかのようである。

検察当局は、共同謀議による計画的犯行と直ちに断じ、三鷹電車区分会執行委員長の飯田七三ら9人の共産党員と、同区検査係の非党員の竹内景助の10人を次々と逮捕した。吉田茂首相は「共産党は虚偽とテロを常套手段として、民衆の社会不安をあおっている」と新聞に発表した。

10人は「電車往来危険転覆致死」容疑で起訴されたが、1年後の1950年(昭和25年)8月11日、一審判決は共産党員の共同謀議を「空中楼閣」と断じた。そして、竹内景助の単独犯行として無期懲役、他の9人に無罪の判決を言い渡した。高裁、最高裁の判決でも、事実認定の基本線は変わらなかったが、竹内に対しては、ニ審で死刑判決が下され、1955年(昭和30年)6月22日の最高裁判決でも8対7の1票差で、ニ審判決が支持され、竹内の死刑が確定した。1967年(昭和42年)1月18日、再審請求中、竹内は充分な治療を受けられずに脳腫瘍のため、東京拘置所で死亡した。

一審判決が下るまで、否認、単独犯行、共犯説、単独犯行、全面否認、単独犯行と、めまぐるしくその供述を変え、高裁での死刑判決直後、全面否定して以降は無実を主張した。「自白」以外に物的証拠は何もなかった。共産党シンパである竹内は、この事件の罪を自分1人でかぶることにより、逮捕されたメンバー、あるいは窮地に立った共産党を救おうと考えていたようである。
三鷹事件により、日本共産党員9人、非党員10人が次々と逮捕されたが、これに追い打ちをかけるように、1949年(昭和24年)7月18日には、国鉄が国鉄中央闘争委員ら59人の免職を発令。事実上の分裂に追い込まれる中、7月21日、ついに、国鉄職員9万4312人の人員整理が完了。国鉄労働組合側の完璧な敗北だった。

1949年(昭和24年)8月17日、松川事件発生。


[ 松川事件 ]

平事件などのトラブルが多く、GHQとも折り合いの悪い福島での出来事だった。“輝ける電産(日本電気産業労働組合)の雄” と言われた東芝の松川工場が、1万4000人の首切りに反対して24時間ストを行おうとしたその日に起きる。1949年(昭和24年)8月17日午前3時9分、東北本線の旅客列車が金谷川〜松川駅間で脱線し、機関士ら3人が即死。犯行の手口から計画的なのは明らかで、結局、県内の労働運動を率いてきた国鉄福島労働組合員10人、松川工場の組合員10人、計20人が検挙された。翌年の1950年(昭和25年)の一審判決では、5人が死刑、15人に無期懲役が言い渡された。2審では3人が無罪になり、その後、1958年(昭和33年)になって、共同謀議がなかったことを立証する証拠だった「諏訪メモ」を検察側が隠蔽していたことが判明。1963年(昭和38年)には、被告全員が無罪になって、翌1964年(昭和39年)8月17日に時効を迎えた。

松川事件を題材に製作された映画に『松川事件』(監督・山本薩夫/出演・宇野重吉ほか/松川事件劇映画製作委員会/1961)、喜劇『にっぽん泥棒物語』(監督・山本薩夫/出演・三国連太郎/東映/1965)がある。『にっぽん泥棒物語』はブルーリボン監督賞、アラブ映画祭監督賞、日本映画記者会賞など受賞した。

こうして、たて続けに起こった事件のどさくさにまぎれ、実数で約100万人にのぼったと言われる労働者が解雇され、ドッジ・ラインは完了した。

下山事件を含め、わずか40日余りの間に3つの謎の事件が発生した。いずれも鉄道に関係しているが、この3つの事件をまとめて「3大謀略事件」と呼ばれている。

こうした列車妨害事件は国鉄にとって最大の課題だった「10万人の首切り」直前まで増えていった。1949年(昭和24年)の1月から4月は100件台だったが、5月に259件、6月は517件と倍増する。首切りが行なわれる7月には1574件あったが、それ以降は減っている。


【 他殺説×自殺説 】

元朝日新聞社で社会部記者だった矢田喜美雄は下山事件について綿密に取材を続け、下山は何者かによって殺されたと結論づけ、1973年(昭和48年)に『謀殺下山事件』というタイトルの本を刊行したが、この本によると事件が起きる1週間前から次のような奇怪なことがあったという(< >内)。

< 「引揚者血盟団」という差出し人名義で吉田総理宛ての封書がきたが、中を見ると政府首脳、国鉄総裁、同副総裁の殺害予告だった。
東京・新宿駅近くには総裁の殺害予告を思わせるようなビラ「下山を暁に祈らせろ」が貼られた。これは刑事たちの調べで単なる悪ふざけと分かった。
下山が失踪した5日の前日の7月4日午前11時ごろ、台東区黒門町の鉄道弘済会本部社会福祉部に勤めていた宮崎清隆に、おかしな電話がかかってきていた。「お前にひと言伝えておくことがある。今日か明日、吉田か下山か、そのどちらかを殺してやる。お前が騒いだり、人に言ったり邪魔したら、お前も生かしてはおけぬ」宮崎は名前を告げない相手に怒って「お前は誰だ」と訊くと「誰でもいい、いずれ革命のときがきたら黒白を戦場でつけよう。そのとき俺が分かるさ」と言ったという。 >


7月6日午前4時ごろ、死体が発見されたこの日、死体が下山であるかどうかを確認してもらうため、下山邸から折居正雄(東鉄局長時代の下山の秘書)が現場に駆けつけた。そのときに幾つかの疑問点を指摘した。
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(1)両足は靴下をはいていたのに、靴は両方ともに脱げていた。特に、右靴は大きく皮を引き裂かれていたのに、右足には傷ひとつない。下山はひもを解かなければ靴を脱げないほどいつもひもを固く締めるクセがあった。その靴が破けて脱げているのに右足に傷がない。
(2)下山は強度の近眼で、風呂に入るときもメガネをはずさなかった。また、腕時計も、入浴以外ははずさない。それなのに、メガネは紛失し腕時計は遠くに落ちていた。
(3)下山のタバコ好き(1日に20本は喫う)は有名で、片時もタバコケースやライターを肌身離さず持っていたが、発見されていない。また、ネクタイもなかった。
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下山は手帳に律儀にも、事務的な内容のことをメモしていつも持ち歩いていたが、6月28日からは何も書かれていなかった、という。そのころから現世と縁を絶つ気持ちでいた、とも考えられなくもない。遺書らしいものは見つかっていないが、遺書のない自殺もけして珍しいものではない。

午前3時20分、急を聞いて駆けつけた斎藤綾瀬駅長は、死体が次の列車の運行の邪魔にならないように、遺体を線路の反対側に移動させているが、土砂降りの雨とはいえ、現場には血が少なく、胴体を持ち上げたとき、その下の石は全然濡れもせず、白く乾いていたという。轢死の現場では普通、辺り一面に血が飛び散り、胴体の下などにはベットリと血が溜まっているのだという。

午前5時半〜午前8時、東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、下山の遺体が発見された日の現場検証に参加しているが、その場で「他殺ではない」と結論を出している。過去3年間に100体の轢死体を見てきたが、いずれも事故死か自殺だが、生活反応が認められないのも珍しくなかった、と主張。また、頭と右肩の轢かれた傷跡と、死体に死斑がなかったことは、自殺者の場合によく認められる。死斑のないということは大きな損傷がある場合は多く起こりうる。したがって、本件死体は生体が轢かれたものの可能性を示す、としている。

鑑定に持ち込まれる轢断死体は、ほとんどが自殺体で、他殺体はそれまでほとんどなく、比較しようにもデータがなかったから鑑定は困難であった。
午後1時20分〜午後5時半まで、遺体は東京大学法医学教室で検分された。古畑種基(たねもと)教授の指揮の元、桑島直樹博士が執刀を担当した。その結果、轢断創からは生活反応としての出血がなく、死後轢断という鑑定結果を出した。死後轢断となれば、自殺ではなく他殺である。

死因は不明だが、睾丸の傷からみて、局所を蹴られたショック死と考えられる、と解剖所見を発表した。事件から1ヶ月経ったころ、死体に血液が非常に少なかったことから、体の血を抜き取って殺した “失血死” だったかもしれないと述べている。
終戦後、1年ほど経ったころ、当時、東鉄局長だった下山が睾丸を蹴られて卒倒したことがある。日本から引き上げていく台湾人たちの20人ほどが汽車の出発が遅れたとインネンをつけに、局長室に怒鳴り込んで来たために起きた事件である。電話機を壊し、灰皿を投げ付けるといった乱暴を働くので、秘書がMPに助けを求めて室に駆けつけた。すると、台湾人たちが引き上げたあとで、下山は室の隅で局所をおさえながら、血だらけになりながらウンウン唸っていた。

さらに、午後1時40分に中程度の死後硬直、午後5時半ごろ、死後最硬直だった。5日夜半の気温は摂氏25度くらい。この気温では、死後硬直は死後18〜20時間内に起きる。そこから逆算すると、下山の死亡推定時刻は、5日午後9時〜午後11時ということになる。貨物列車が通過したのは6日午前0時19分だから、1〜3時間のズレがあり、とても自殺とは思えないと結論している。

また、胃袋が空っぽだったことから、下山は10時間くらい食物を食べていないことが分かった。下山は胃潰瘍で、ときどき、胃が痛むことがあったが、そんなときはいつもビスケットのようなものを間食していたという。このことから、下山はどこかに監禁されていたのではないかと見ることができる。

東京都内の司法解剖は事件の発生地によって2分されている。山手線を南北に両断する中央線から北側は東大法医、その南側は慶応大学法医という取り決めが以前からあった。

東大の法医学の中でも、古畑種基教授といえば、文化勲章まで受賞した第1人者である。だが、1949年(昭和24年)の弘前大学教授夫人殺し事件、1950年(昭和25年)の財田川事件、1954年(昭和29年)の島田事件の3つの冤罪事件で古畑鑑定が覆されている。特に、弘前の事件では真犯人が名乗り出てきて面目丸つぶれになってしまった。3件とも冤罪事件であることから「疑惑」がつきまとう。(財田川事件と島田事件についての詳細は死刑確定後再審無罪事件を参照)

慶応大学法医学教室の中館久平(なかだてひさひら)教授は、下山の死体を鑑定していないが、飛び込み自殺の場合でも、出血量が多いとは限らないとして反論した。京都の法医学者・矢野春利(はるとし)博士が扱った140体に及ぶ自殺による轢断死体のデータでも、出血多量ないしやや多しはわずか9%であり、少量は16%、ごく少量は実に70%を占めるという調査結果を引用した。

さらに、元名古屋大学法医学教室の小宮喬介博士も東大所見に異論を挟む。出血量が少ないというが、事件当夜は豪雨だったから、雨で流されたとも考えられる。それに、飛び込み自殺でも、体がまず、排障器など列車の突起物に当たれば、その瞬間に車輪に切断されても、心臓がポンプの働きができなくなっているのだから圧力で血が噴出すことはない。出血が少なかったとしても不思議ではないと述べている。

また、下山を轢いた機関車には10ヶ所に渡って血痕が付着しており、えんどう豆の血痕やうずらの卵ほどの血痕がゼリーのようになって発見されていることに注目し、小宮博士は血液がゼリー状に固まるのは、生体から出た血に限る。死体からの血では凝固しない。したがって、死後轢断ではなく、生体轢断であると主張した。

東大薬学部の秋谷七郎教授はPH(ペーハー)測定法という新しい手法を用いた。筋肉のPHは、死後経過時間によって変化する。その結果、下山の死は5日午後9時〜午後11時の間とした。のちに、中央気象台の資料を基に、再実験し、5日午後11時〜6日午前0時に訂正した。

東大法医学教室の古畑教授は、この後、衆議院法務委員会で参考人として呼ばれたが、このとき「自殺ということも考えられなくもない」と言った。解剖を担当した桑島博士は、轢かれたときは、死体と言ったが、自殺とも他殺とも断定していない、と解剖結果に自信の持てないような発言をした。

下山の衣類から油や染料が発見された。これは「下山油」と言われているものだが、油は秋谷教授の鑑定で、95%以上のヌカ油と微量の鉱物油の混合体と判明した。油は最も、ズボンに付着しており、Yシャツ、靴下、フンドシにまでしみ込んでいた。その量は全部で200グラムであった。上衣と靴からは油は検出されなかった。
機関車の油は鉱物油であるから、この油が付着したものとは考えられなかった。

下山の遺体が発見された6日午前8時ごろ、国電日暮里駅の駅員が、田端よりの出口にあるトイレを掃除していたとき、荷物台に白墨で「五・十九・下山罐」と書かれているのを発見している。これは「(7月)5日午後7時、下山をドラム缶に入れて運べ」という意味に解釈できないこともない。ドラム缶の中の内側の壁に油があって、それが下山の衣類に付着したというわけだ。犯人同士の何かの連絡のためだろうとも考えられたが、世間を騒がせるための謀略工作のひとつとも言われた。いかにも事件を計画した本拠は田端機関区の中にあるというような幻想を抱かせるために。

松川事件の元被告で無罪判決を勝ち取った20人のうちの1人である佐藤一の調査により、当時、蒸気機関車に植物油を混入するのは常識であったことが判明した。佐藤は山口機関区に赴き、そこに残っていた蒸気機関車の底にもぐり込むだけで、150グラム程度の油が採れることを実証した。さらに、事件当時は機関車を拭くぼろぎれでさえ不足していたから、もっと油まみれであったはずという証言を得る。佐藤は下山が自殺したものと結論づけ、1976年(昭和51年)に『下山事件全研究』というタイトルの本を刊行する。

下山の死体はほとんど裸だった。列車の底に巻き込まれているうちに、次々と衣類がはがされた。従って、最初にはがされた上着に油が少なく、最後までに残ったはずの肌着などに多いのは当然だと、推論した。

三越での目撃証言の他に、下山の死体が発見された五反野付近で下山らしき人物と言葉を交わしたという2人の証言があった。
東武鉄道五反野駅に5日午後1時43分着の下り電車から下りた乗客20人のうち1人の男が改札口の駅員に「この辺に旅館はないですか」と尋ねた。駅員は以前から知っている「末広旅館」を教えた。

午後2時ごろ、下山らしき男が足立区千住末広町の「末広旅館」に現れた。ここは、下山轢断現場から1キロしか離れていない場所にあった。「6時ごろまで休ませてくれ」と言うので、女将(おかみ)の長島フクが、2階の4畳半に案内して、風を入れるために、窓を開けた。男はその窓の縁に腰を掛けて満足そうに、「涼しいですね」と笑みを浮かべ、「水を1杯くれませんか」と言った。

フクは階下に下り、水とお茶を持って上がり、宿帳への記入を申し出ると、男は「それは勘弁してくれ」と言って笑いながら手を振った。フクも笑顔で「お連れさんはいらっしゃらないのですか」と訊いてみた。女連れの客が珍しくなかったからだ。男は質問の意味を察したらしく、「1人だよ。この歳だもの」と笑って答えた。フクは階下に下り、布団を持って上がると、彼は相変わらず窓辺に腰を掛けて、ぼんやりした目で外をながめていた。

午後5時20分ごろ、手を叩く音がしたので、出てみると、男はすでに下に下りて立っていた。内ポケットから財布を取り出し代金の200円の他にチップだと言って、100円札を3枚、フクに渡して玄関に下りた。フクが靴べらを渡そうとしたが、無視するようにかがみ込んで、靴のひもを結んで午後5時半ごろに出ていったという。
そして、人相については次のように話している。

「丈5尺7寸(170センチくらい)、色白面長ふくらみのある顔で眉毛の間が普通の人よりあいていて、ロイド眼鏡をかけ、髪は七三に分けており、上品な優しい顔立ちでした。無帽でネズミ色背広、白ワイシャツ、ネクタイをして、チョコレート色のひだのある進駐軍の靴、紺木綿の靴下、黒革財布、荷物はなく単独だった」
それは細部まで寸分違わず三越から失踪した下山と一致していた。

秋谷教授は、下山の上着を顕微鏡を使って調べたが、青みがかった緑色の色素が付いているのを発見しており、これも謎とされていたが、佐藤は、東大法医学関係者から化粧砂の可能性が高いという話しを聞いていた。これは、料亭などの砂壁を塗料で着色したものだが、砂であるため落ちやすく、服などに付きやすい。佐藤は下山らしき人物が失踪した当日に、休憩したとされる「末広旅館」の壁が、緑の塗料で塗られていたことをつきとめる。
末広旅館での下山の行動を自殺を決意までの行動と見れば説明がつく。

だが、そのあと、フクが掃除しに部屋に入ったが、「吸殻がひとつもなかった」あるいは「吸殻はあったかもしれないが記憶にない」という。タバコ好きの下山にしては変ではある。
さらに、フクを調べた検察事務次官はフクが細かく記憶していることに疑問を抱き、試しに前の日にフクを調べた検察官の服装を訊いてみたが、何も記憶に残っていなかったという。
また、最初に通報してきたのは末広旅館の旦那の長島勝三郎だったが、勝三郎は以前、警察官だったこともあった人物であったこともあり、自殺説を仕組んだ可能性もあった。

午後5時45分〜午後11時半ごろまでの間に、死体発見現場の線路付近をうろつく男を11人が目撃している。
前の五反野駅員と末広旅館の女将のフクの2人の目撃証言と合わせて13人の目撃証言があるが、これが本人であったのか、ダミーであったのかという論争がある。

ダミーとした根拠は、人相が下山と似ていない、という証言もあったからである。「末広旅館」で、宿帳への記入を拒否していることや吸殻がなかったことは、ダミーであることの証拠(筆跡や唾液検査による血液型や指紋)を残さない配慮とも考えられた。死体発見現場では、メガネとネクタイが発見されてない。下山に似た人物に、下山のメガネとネクタイ、上着、靴を身につけて、現場をうろつかせていたら、下山らしい人物を見たと証言しないだろうか・・・。また、目撃証言から、この下山らしき人物は夕方ごろからメガネをはずしている。度が合わないので堪え切れずに、はずしたと考えられた。下山は風呂に入るときでさえ、メガネをはずさないのに変である。こうしたことから、「下山は自殺した」と見せかけるための偽装工作と考えられた。
だが、ダミーまで用意して自殺と見せかけて偽装工作する必要がどうしてあったのかが疑問とされている。
警視庁捜査1課は、この目撃証言から下山は自殺したものと決めつけていたが、知能犯などを扱う捜査2課は、他殺説を主張した。

また、朝日新聞と読売新聞は他殺説を主張していたが、毎日新聞は自殺説を主張した。

朝日新聞社社会部記者の矢田喜美雄は、7月21日から数回に渡り、東大の野田博士を伴って、遺体発見現場付近のルミノール検査を行った。日本では、ルミノール検査をしたのは、この下山事件が最初であったため、その信頼性は高いとは言えないのだが・・・。

ルミノールは血痕照明用の発光性試薬のことだが、第2次大戦直前に日本海軍がこれを輸入、武田薬品に作らせたものが東大法医にサンプルとして保管されていた。微量の血液に対しても確かな反応を示し、例えば、わずか1CCの血液を30万倍の300リットルの水に薄めたものにも反応を見せる鋭敏なもの。
その結果、轢断された地点から200メートルに渡って下山の血痕、AMQ型を発見した。正確には下山の血液型はどういうわけか、A型としか分かっておらず、下山の3親等までの血液型を調べて、メンデルの遺伝法則から下山の血液は70%AMQ型であるとしている。
血液型には、ABO式血液型の他に、MN式血液型、Q式血液型、E式血液型など多くの血液型がある。だが、ABO式血液型でさえ、1960年代で誤判率が2%あり、さらに、MN式血液型になると、かつては誤判率が高かった。Q式血液型になると、もっと難しくなり、使われたのは1960年代までで、外国では今やまったく認められていないという。日本でも意味がないと言われ出している。ちなみに、AMQ型の血液型の人は、全体の3.6%というデータがある。

血痕は轢断された地点から30メートルばかり下り線を北千住側に進み、つまり、列車の進行方向とは逆に進み、今度は上り線を進んで消え、150メートル離れたシグナルの地点で再び発見された。シグナルの反対側に、無人ロープ工場があり、その板戸には、血染めの手形が発見された。この血痕もAMQ型であった。他の血痕は、A、あるいはAM、AMQ型であった。
だが、当時の列車のトイレは垂れ流しであったため、この血痕は生理の血である可能性もあった。また、このロープ小屋は、事件が起きる前から鍵がかかっておらず、子供や浮浪者が出入りしていたため、小屋にあった血痕が下山のものと断定はできない。
仮に、この血痕が下山のものだとしても、東大法医学の古畑鑑定での轢断創からの生活反応としての出血がない、とした結論とは食い違うことになる。

1949年(昭和24年)12月31日、捜査1課は「下山は自殺」と結論づけて、捜査本部を解散した。
捜査1課としては、6ヶ月かかってメドのつかないこの事件を、この辺で終わりにしたかったという気持ちが強かったようだ。
だが、捜査2課と東京地検は他殺もあり得るとして、その後も捜査を続けたが、係長の転任で実質的に挫折した。
一方、捜査1課が集めた目撃証言の供述に基づく自殺決定の発表についても、発表寸前に「待った」をかけられた。
自殺説を当初から譲らず捜査1課を支持していた毎日新聞の平正一は、その理由を訊くために、部下に田中警視総監を訪ねさせたが、田中警視総監は、「何も訊いてくれるな」と言って、頭を抱えこんでしまったという。未解決の疑問が沢山あるのに、自殺説に踏み切った裏には何かあるに違いない。
翌1950年(昭和25年)、警視庁の下山事件特別捜査本部がまとめた最終報告書、いわゆる「下山白書」と言われるものが、月刊誌の『文藝春秋』と『改造』の2誌に抄録された。

同年6月には朝鮮動乱が起こり、人々の関心はそちらに向かった。
そのためか、下山怪死をめぐる情報はしばらくはなかったが、事件から10年目の1959年(昭和34年)に事件に対する怪しい情報が流れた。この年の雑誌『日本』(講談社/7月号)に掲載された、第2代国鉄総裁の加賀山之雄の手記だった。この手記の内容は、下山が “赤色テロ” の犠牲になったという推理で、その根拠としては、当時、手に入ったという共産党の秘密文書というものと、ロシア人の有名なテロリストが日本に来ていたことをあげていた。
これに対抗して、日本共産党が機関紙『アカハタ』で、“下山総裁を殺したのは誰か” という連載記事を7月初旬の紙上に載せ、同党中央委員の伊井弥四郎が署名入りで、加賀山の説をたたき、「事件の黒幕はアメリカと日本の反動勢力である」と決め付けた。
1960年(昭和35年)、作家の松本清張も他殺説だったが、著書『日本の黒い霧』で、この事件はCIC(占領軍情報機間)が計画、実行した。下山が失踪した5日の朝、千代田銀行に寄ってお金を引き出したと見られているが、それは下山独自の立場で国労情報を入手する必要があり、この日、下山はその情報を提供してくれる人物と会う予定であった。だが、下山が会ったのは謀略を持った別人だったと推理し、これを本に書いて発表した。

この松本の推理に刺激されたのか、下山謀殺情報が飛びかった。

東京在住の元海軍特務機関員で、戦後はCIA(米中央情報局)に身を置いたという宮下英二郎が語った「総裁を三越から誘拐したのは知人の元関東軍情報将校のK氏で、私は本人から話しを聞いた」という話で、宮下はこれを週刊誌に書いた。

元大阪CIC要員だったという新谷波夫が「総裁誘拐の本部は三越店内にあった」という意外な話を公表した。

事件から15年目(時効)が近づくと、人々を驚かせる情報が飛び出した。「ニセ総裁は筋書きがバクロされかけたので、替え玉になった東京・江東区枝川町に住む李という朝鮮人は殺されてしまった」というものである。これを週刊誌記者に語ったのは、元CIC協力者で警視庁に情報提供者の謝礼を強要し、逮捕取り調べを受けたMであった。

1963年(昭和38年)には、さらに、迫真性のある情報が元読売新聞記者の槍水(やりみず)徹から寄せられた。「三越から総裁を誘拐したのは4人の元国鉄労組の共産党員で、使った車はナッシュ47年型セダン、車は第8軍軍属スタントン所有のもので、誘拐4人組の1人は自殺、他の3人は海外にいる」というものだった。

作家の大野達三は、著書『謀略』で、「下山事件はCIA(中央情報局)東京支部が計画したものだった」と書いた。CIAの謀略が世界的に暴露され始めた時期だっただけに注目された。

1964年(昭和39年)7月6日、事件から15年が経過したこの日、自殺か他殺か不明のまま、時効が成立した。
刑法199条・・・人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。刑事訴訟法250条・・・時効は、左(下)の期間を経過することによつて完成する。

一 死刑にあたる罪については十五年
二 無期の懲役又は禁錮にあたる罪については十年
三 長期十年以上の懲役又は禁錮にあたる罪については七年
四 長期十年未満の懲役又は禁錮にあたる罪については五年
五 長期五年未満の懲役若しくは禁錮又は罰金にあたる罪については三年
六 拘留又は科料にあたる罪については一年

その時効成立の1964年(昭和39年)前後に、朝日新聞の矢田社会部記者は、死体発見現場付近で下山らしき人物を見たという目撃者13人のうち5人ほどにそのときの証言の真実の確認をしている。
その結果、警視庁の現場捜査員による「目撃証人尋問調書」と食い違っているところが幾つかあり、つまり、目撃した通りに調書に書かれておらず、捜査1課が事件を自殺であると決めつけた上で、目撃者の供述を捏造していたことが判明した。
さらに、矢田社会部記者は、2つの注目される情報を手に入れた。

そのひとつは、事件現場に近い小菅(こすげ)町の工場街で、下山が失踪した5日夜、大きな外国製自動車がたくさんの人を乗せて事件現場の方に走っていったが、そのあとの深夜に再び、この車が小菅神社という小さな神社の境内に置かれているのを見たという人がいた。自分が見たことは、下山殺しと深い関係があるのではないかと思い、これをしゃべると犯人に殺されるかもしれないと、15年間黙っていたという。

もうひとつは、Sという強盗前科のある男の証言だった。お金をもらって車のトランクから出された下山の死体を3人で運んだ、という。矢田社会部記者は事件の翌年にはある方面からSが事件に関与した、という情報を得ていたが、やがて、事件から15年が経って時効になり、そのころからSと面会を重ねていたが、Sは事件のことを口にはしなかった。事件から21年目の1970年(昭和45年)になり、Sは事件で自分の担当部分を話してくれたと、1973年(昭和48年)に刊行した著書『謀殺下山事件』に書いた。

矢田は、下山事件はCICが日本人を使って工作したことは間違いないとした。

1976年(昭和51年)、下山の衣類に付着した油や染料の「解明」をした佐藤一は、著書『下山事件全研究』で、ジャーナリズム批判をし、自・他殺論の争点を明らかにし、各説批判した上で、下山は、初老期鬱憂(うつゆう)症が原因の自殺とした。失踪後の目撃証言や検死にあたった八十島信之助監察医が轢死(自殺か事故死)という判断を下したこと、捜査本部が自殺の結論に達していた事実からも明白。GHQの一部や政府筋は、下山の自殺を明らかにせず、謎のままにすることで、「事件は共産党、労働組合による犯行」というイメージを植えつけ、徹底的に政治利用したと結論づけた。

1983年(昭和58年)、北海道大学の錫谷(すずたに)徹教授は、著書『死の法医学 下山事件再考』で、古畑鑑定、中館鑑定はどちらにも欠陥がある。両鑑定とも生体轢断か死後轢断かを判定するだけの根拠をしめしえないまま判定を下している、と批判した。錫谷の見解は、下山の体を轢断した機関車の構造、事故による車輛の損傷、下山の轢断状況などを考慮し、下山は立った姿勢で機関車に激突したと断定(自殺とは書いていない)した。つまり、生体轢断、死因は心臓離断とした。

1986年(昭和61年)の正月ごろ、『産経新聞』が、「下山事件轢断死体の写真を入手」というスクープを掲載。アメリカの国立公文書館で解禁になったという事件の現場写真を6枚ほど手に入れて専門家に見せたという連載記事だった。
錫谷教授はこの写真を見て、肩の轢断層から心臓が飛び出している。それに、胸部が扁平にひしゃげて写っているところから、胸の前面に平坦な鈍体が激突した証拠。横になって轢かれたなら心臓が飛び出すはずがない、と自説の正しさが裏付けられたと言っている。

1999年(平成11年)、下山事件から50年目にあたるこの年に、おそらくそのせいだとは思うが、新聞や雑誌に下山事件を扱った記事がいくつか載った。
『週間朝日』(8月20・27日合併号)に「下山事件・国鉄総裁怪死・謀略説に新事実」と題した謀略説を主張した記事が掲載された。
これにやや遅れて『毎日新聞』(9月20日付)に、「下山事件」と題して自殺説を主張した記事が掲載された。
事件当時、朝日と読売は他殺説を主張し、毎日は自殺説を主張していたが、50年経ってまた、それが再現されることとなったわけである。

2000年(平成12年)、歴史民族学研究会主宰の礫川全次(こいしかわぜんじ)は、著書『戦後ニッポン犯罪史』で、次のように書いている。
<下山は人員整理問題で悩み自殺した。五反野という場所を選んだのは、土地鑑があったからであろう。ここは自殺が多い場所として知られており、下山は東鉄局長時代に一度、視察に訪れている。内閣官房長官の増田甲子七(かねしち)の「自殺ではない」発言にあったように、支配層内にはこの事件を左翼テロとして位置付けようとする動きがあった。謀殺とすることで、国民の左翼勢力に対する感情を悪化させ、同時に国鉄労組を萎縮させようとしたのであろう。謀略説そのものが謀略であったということになろうか。そしてこの謀略は功を奏したのである。さらに、死後轢断説に根拠を与えた古畑鑑定は、「政治的」鑑定であったと見たい。古畑種基は著名な法医学者であるが、今日から見るとその言動には常に「疑惑」がつきまとっている。松本清張のとなえる謀略説は、一応の説得力を持っているが、古畑鑑定に依拠しているところに問題がある>

下山事件は、このように自殺説と他殺説に分かれて論争が繰り広げられているが、未だに真相は不明である。

ちなみに私(boro)は他殺説を支持。その根拠は単純に遺体が発見されたときの状況だけが信頼できる判断材料と思ったからだが、下山は強度の近眼で風呂に入るときも眼鏡をはずさないのにその眼鏡が遺体発見現場で発見されていないことや1日に20本も吸うほどのタバコ好きにもかかわらずそのタバコが発見されていないこと、遺体発見現場にも解剖でも遺体に血が少なかったことなどである。遺体解剖の鑑定結果や目撃者の証言などについては意見が二分しており、その一方の意見を取り入れて主張しても説得力がない。とはいえ、犯人が誰であるかまでは推理できませんが・・・。

この事件を元に製作された映画に『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(監督・熊井啓/主演・仲代達矢/製作・俳優座映画放送/配給・松竹/1981)がある。

手塚治虫の漫画に『奇子(あやこ)』という下山事件を題材にした作品があり、私は読んでいないので分からないが、GHQによる謀殺により「下山」が死亡したと描かれているらしい。

参考文献・・・『謀殺下山事件』(講談社/矢田喜美雄/1973)、『下山事件全研究』(時事通信社/佐藤一/1976)、『遠すぎた終着』(祥伝社/日下圭介/1995)、『葬られた夏 追跡下山事件』(朝日新聞社/諸永裕司/2002)、『戦後ニッポン犯罪史』(批評社/礫川全次/2000)、『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)、『法医学ノート』(中公文庫/古畑種基/1975)

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四国新聞
http://www.shikoku-np.co.jp/news/column/200208/20020816000220.htm

8月16日付・一日一言

2002年8月16日 09:16

終戦から五十七年。今年もさまざまな戦争の記録がひも解かれた。戦後日本の苦難の歴史にはまだまだたくさんのなぞが眠っている。その一つに「キャノン機関」という組織がある。

一九四九(昭和二十四)年の日本で国中を騒がせた奇怪な事件が相次いで起きた。当時の国鉄総裁がれき死体で発見された下山事件、旅客列車が転覆した松川事件などだが、これに関与したのがキャノン機関といわれた。

その組織の指揮官は“荒くれ者”のジャック・キャノン中佐とされていたが、最近の共同通信の調査ではキャノン機関という組織はなかった可能性が高く、公開された米国立公文書館の資料でもその名前は見つからない。

しかし連合国軍総司令部(GHQ)の防ちょう部(CIC)に関係する何らかの組織があったことは事実で、当時の情報機関幹部らの証言から、その本当の指揮官が判明したのは九八年のことだ。

名前はリチャード・ギターマン氏。五四年に米国に帰国してニューヨークでビジネスに成功。マンハッタン・イーストサイドの高級アパートに住んでいた。当時のGHQ資料にも機関が置かれた東京・本郷の旧岩崎邸の項にその名前が見つかった。

ギターマン氏はオフレコを条件に共同通信記者のインタビューに答えている。彼はCICとCIA(米中央情報局)の合同作戦を行った合同特殊工作委員会(JSOB)の事務局長で、「キャノンは私の部下」と話した。

彼は作家・鹿地亘氏の監禁などについては認めたが、下山事件などへの関与は否定した。ギターマン氏は昨年夏、八十三歳で死去。戦後史の真実を知る人物がまた消えた。

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