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神は究極の計算機
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投稿者 ぷるすうるとら 日時 2003 年 11 月 24 日 13:32:59:Lv8Z7HGb7gjsI

神は究極の計算機
God Is the Machine

現在のファイル圧縮率で計算すると、DNAに含まれる30億桁の情報すべてを約1枚のDVDに保存できる。3ギガバイトのゲノムシーケンスとして数値化された人体情報を、パソコンで扱うことができるのである。生命活動は情報処理にほかならない。コンピュータの小型・高性能化の進化を目撃したわれわれは、人間というシステムも、実は情報の集まりだと実感できるようになった。親から子に伝わるのは卵子と精子というマイクロ・メモリー・デバイスに含まれるDNA情報なのである。

生命という現象が、実は情報処理にほかならないと納得できるとすれば、物質の正体も情報処理だという考えにも素直に納得できるはずだ。われわれが電車で足を踏まれた場合、だれも情報に踏まれたと感じる人はいない。しかし実際には、踏むということも情報であり、踏まれたと感じることも情報処理にほかならない。

物質世界の不思議なふるまいは、昔から知られている。物理学者が原子レベルを超え、クォークやミュー粒子などの素粒子レベルまでは観測できたとしても、その先の世界に物質と呼べるような世界は見当たらない。量子力学という確率論の世界に突入すると、従来の物理学的方法ではその先に進めない。そこで登場するのがデジタル物理学である。デジタル物理学では、量子力学の奇妙なふるまいも、宇宙のすべての現象も、なんのことはない、ゼロと1の情報なのだ。物質世界そのものが実はデジタル情報なのである。

80年台の時点で、科学者ジョン・ホイーラー(ブラックホールの名付け親)はすでに原子はゼロと1の情報でできていると述べている。彼は1989年に「Its are from bits」と題した講演の中でこう述べている。「ありとあらゆるもの、素粒子、重力や核力などの力の場、時空さえも、その存在そのものが、デジタル情報の計算で成り立っている。われわれが現実と呼んでいるものの実態は、膨大な数のイエスかノーかの選択によるシミュレーションなのである。」

物理とソフトウェアプログラムの関係を理解するために、水の分子を例に取ろう。まず3つの原子を思い浮かべてほしい。水素原子2個と酸素原子1個だ。これらをデジタル物理学の魔法のビーカーの中に入れて、それぞれの原子がどのように結びついて水の分子になるかを観察してみよう。各原子どうしが近づくと、お互いにどの角度で、どの程度の距離で結びつけばよいかを探っているように見える。2個の水素原子は、酸素原子に結合するためのあらゆる可能性をイエスかノーかの決断で探り、たいてい最適な角度である104.45度の角度を見つけ出して結合する。すべての化学反応は、このような計算を行っている。

この話が、物理のシミュレーションのように聞こえたとしたら、あなたはもう完全に理解したことになる。世界そのものがゼロと1の計算で成り立っている以上、物理学と物理のシミュレーションに大きな違いはない。プログラムをどれだけていねいに作りこむかの違いだけだ。映画「マトリックス」では、シミュレーションがよくできていて、現実と区別がつかない世界が描かれている。しかし宇宙そのものが計算で成り立っているとすれば、森羅万象がシミュレーションなのである。

究極のシミュレーションに必要なもの、それは究極のコンピュータだ。デジタリズムと呼ばれるジャンルの科学者の間では、宇宙そのものが究極かつ唯一のコンピュータだとされている。また、人類が発明したコンピュータ、特に今あなたが使っているちっぽけなパソコンは、宇宙全体の超弩級CPU計算サイクルに便乗しているプロセスのひとつにすぎないのだ。パソコンだけではない。あなた自身の意識も宇宙全体を駆動している巨大プロセスの上で動いているプロセスに過ぎないのである。先駆的なデジタリズム科学者たちは、量子物理学の複雑な計算式と、最新のコンピュータサイエンスの理論を結びつけることで、物理現象すべてをコンピュテーションで説明しようと試みている。

この新しいコンピュテーション世界観は、神学的な意味合いも帯びてくる。物質世界の虚飾をすべて取り除くと、最後に残るのは「0」か「1」、「am(いる)」か「not am(いない)」かである。聖書の中で、モーセは神にこう尋ねた。「Who are you?」すると神は答えた「Am」。つまり「1」だと言ったのである。非常に単純明快な答えだ。

宇宙がコンピュテーションで成り立っているとすれば、世界のあらゆる現象は、情報処理の最小単位であるゼロと1で作られていることになる。山々、夜空の星々、植物や動物、人間の意識や心、言語といった抽象的なものも含め、すべての現象がイエスかノーかの膨大な計算によって織り成されている。このデジタル物理の理論が証明されれば、運動(f = ma)、エネルギー(E=mc2)、重力、ダークマター、反物質などの現象もすべてゼロと1かの決定に基づく複雑な計算式によって定義できるだろう。このゼロと1は、古代ギリシャの哲学者が諸物の根源と考えた「アトム」に相当するかもしれない。しかしデジタルアトムの守備範囲は、古代ギリシャ人が想定していた物質界にとどまらず、エネルギー、運動、意識、そして生命をも包含するのである。

科学者がコンピュテーション・パワーの真の実力に目覚め始めた理由の背後には、次の3つの命題がある。ひとつは「コンピュテーションであらゆることが再現できる」ということだ。初期のコンピュータは、論理式や方程式、文章による説明などをコンピュータ言語で記述し、情報処理した。しかし最新のコンピュータは、デジタル信号処理技術の向上のおかげで、画像、音楽、映像の複雑な処理も難なくこなし、限りなく現実に近いシミュレーションが可能だ。物理現象は完璧に再現でき、今や人間の意識や感情の領域まで進出しようとしている。MITの研究者Cynthia Breazelや、カナダのCharles Guerin, Albert Mehrabian は、KismetとEMIR(Emotion Model for Intelligent Response)を開発した。この2つのシステムはある程度の感情表現が可能だ。

2番目の仮定は「あらゆるものはコンピュテーションする」ということだ。どんな材料でもコンピュータになりえるということに、われわれは気づきつつある。たとえば人間の脳。脳の成分はほとんどが水だが、誰もが認める優秀なコンピュータだ。ひもや棒を使うこともできる。1975年、当時大学生だったDanny Hillisは、おもちゃのブロックでデジタルコンピュータを製作した。2000年になると、彼は人力で駆動する、鉄とタングステンだけでできたデジタルコンピュータを作った。この低速なマシンは、10,000年間動く時計として機能する。彼はまだホースとポンプでできたコンピュータは作っていないが、作ることはできるそうだ。まだ実際には完成してはいないが、量子コンピュータやDNAコンピュータといったものも研究されている。

3番目の仮定は、前の2つの仮定を組み合わせた画期的な新理論だ。それは「コンピュテーションは1つしか存在しない」ということだ。

1937年、Alan Turing, Alonso Church, Emil Postは、役に立つコンピュータの基礎理論を研究していた。彼らは、すべてのコンピュータの基礎になるもっとも基本的なループを有限状態機械(a finite-state machine)と呼んだ。この有限状態機械の分析に基づき、TuringとChurchは、現在その名前を冠した定理を証明した。つまり、無限大の紙テープ(後にチューリングマシンと呼ばれる)に記述された1台の有限状態機械で実行される、いかなるコンピュテーションも、他の無限大テープ上の有限状態機械で再現できるということだ。言い換えれば、すべてのコンピュテーションは等価だということだ。彼らはこれをユニバーサル・コンピュテーションと呼んだ。

1950年代にJohn von Neumannや他の先駆者たちが最初の電気式コンピュータを使い始めるとすぐに、その適用範囲を数学の証明から自然界の分野に押し広げてみた。彼らは生態学、文化、家族、天気、生態系に当てはめてみた。そしてこう結論付けた。「進化や学習は、コンピュテーションそのものだ。自然は計算されている」と。
自然が計算されたものだとすれば、全宇宙も計算されているといえないだろうか? 宇宙全体を巨大なコンピュータだとする途方もないアイディアを最初に書き記したのは、SF作家のIsaac Asimovだ。1956年に出版された「最後の質問」では、人類はついに、それ自体の能力を上回るコンピュータを生み出せる能力を持ったコンピュータを手にした。コンピュータはより賢く、より大型に成長していく。そしてついに宇宙全体を占める巨大なコンピュータに成長した。人類は、コンピュータの成長の段階ごとに、どうすればエントロピーを逆転できるかと尋ねたが、返ってくる答えは毎回「データ不足により有意な回答なし」とそっけない。物語は、人類の意識と究極のコンピュータの意識が融合して、宇宙全体の質量とエネルギーすべてを使うようになるところで終わる。そのとき究極のコンピュータはついにエントロピーを逆転する方法を見つけ、宇宙を創造した。

こうした突飛なアイディアはジョークのネタにされがちだが、実際にDouglas Adamsは、著書「銀河ヒッチハイカーズガイド」で皮肉っている。そこでは、地球がコンピュータで、世界の最後の質問に対する答えは「42」だそうだ。

こうしたアイディアにはトンデモ系のものが多いのは確かだ。しかし、神あるいは少なくともこの宇宙が究極の巨大コンピュータだという考え方は、もっとも正統なサイエンスに近いものであろう。これを本気で考え始めた最初の科学者は、ドイツのKonrad Zuseである。彼は、John von Neumannが活躍する10年も前にプログラム可能なデジタルコンピュータを思いついていた。1967年、Zuseは、宇宙がセルオートマトム(CA)のグリッド上で実行されているという理論を提唱した。同時期に、Ed Fredkinもそれと同じ理論について研究していた。Ed Fredkinは本来の意味の研究者ではなく、財力のあるアマチュアだったが、セルオートマトムに着目していた初期のコンピュータ科学者と交流があった。彼は、1960年代に、物理学を理解するための基礎として、コンピュテーションを利用できるかどうかを模索していた。

Fredkinの研究が停滞している中で、1970年、ついに数学者John Conwayによる「Game of Life」が登場し、セルオートマトムが衆目を集めることになる。このGame of Lifeは、名前が示すように、生命体の成長や進化の過程をシンプルな白黒のパターンで再現しようというものだった。FredkinはこうしたCAをいくつか試してみて、本当に物理学のまねができるかどうかを調べ始めた。それには非常に大きなCAが必要だったが、CAのスケールアップは簡単にできた。そして彼は巨大な−途方もなく巨大な−すべてを飲み込むCAに思いを馳せた。なんのことはない、宇宙全体が巨大なCAなのではないかと思い始めた。

物質世界とCAの類似性の研究を深めるにつれ、彼の確信はより強固なものになった。80年代の中ごろ、彼はこんな発言をしている。「私の結論はこうだ。世界でもっとも確かなもの、それは情報である。」

Fredkinの周囲の研究者たちは、彼がCAを喩えの段階でとどめておけば、つまり「宇宙はあたかもコンピュータのようにふるまう」と言っていれば、もっと有名になれたかもしれないと話す。実際、Fredkinは、彼の同僚で、その理論にある程度賛同していたMarvin Minskyよりも有名にはならなかった。Fredkinは、自信満々な態度で、宇宙はセルオートマトムに似ているのではなく、文字通り巨大なセルオートマトムそのものであり、われわれが見たり感じたりしているのは情報でしかないと言い張ったのである。

Fredkin以外の多くの人は、CAの美しさを、実世界を研究するためのモデルとして捉えていた。神童Stephen Wolfram は、CAに早くから着目したひとりだ。Wolframは、1980年代初期に、さまざまなCAの構造体を、理路整然と分類していた。CAを実行する前提条件を何万通りにでも変更できるプログラムを使い、実際にそれらを実行して、結果を確認することで、CAで何ができるのかを会得していったのである。彼は、自然界に見られる複雑なパターン、たとえば貝殻の模様、ヒョウの毛皮、木の葉、海洋生物などをCAで再現した。単純なルールを決めれば、あとは自動的に自然界のさまざまな美しい模様を作り出せることを証明してみせたのだ。Wolframは、Fredkinと同じく「宇宙は巨大なセルオートマトムと同じようにふるまう」という考えをいだいていた。そしてそれは、目に見える世界だけでなく、量子のような超ミクロであいまいな領域にも適用されると考えた。量子力学では、素粒子は量子の雲という確率論の世界に存在していて、ゼロと1というはっきりした区別はつけられないとされてきた。しかしこの不確定さは、情報が違いを見せればすぐに解決する(いわば、測定された瞬間に)。その時点で、他の可能性は消滅し、単純な「ある」か「ない」かのどちらかの状態になる。実際、この「量子」という用語自体、あいまいな状態を、「ある」か「ない」かのはっきりした状態まで絞り込むことを示唆している。

Wolframは、数学ソフトウェアの定番となったMathematicaのビジネスを営む一方で、過去何年にもわたって、宇宙コンピュテーションについて熱心に(そして秘密裏に)研究してきた。その集大成ともいえるのが、2002年に自費出版された、1,200ページもの大作、「New Kind of Science」である。この本では、科学のほとんどの領域を、コンピュテーションの文脈で説明している:「人間によるものであれ、自然界のものであれ、すべての現象(プロセス)は、コンピュテーションの産物である。」

Wolframの有利な点は、かなり洗練されたものではあるが、従来からのチューリングマシンの理論を踏襲していることにある。「すべての有限状態機械は等価である」というあれだ。つまり、あるコンピュータは、他のいかなるコンピュータにもなりえるということだ。たとえばMacintoshにあるソフトウェアを組み込めば、Windowsマシン変身させられるし、大量のメモリを奢ることで、低速なスパコンにもなりえる。Wolframは、この宇宙全体のプロセスは、宇宙コンピュテーションという基礎プロセスによって駆動されているとしている。脳が意識を持つことと、コップ1杯の水の物理現象は、プロセスとしては同じなのだ。人間の意識が思考している。水の分子が規則正しく結合している。一見無関係に見えるこの2つの現象だが、実はどちらも同じ宇宙コンピュテーションによって駆動されているのである。

FredkinとWolframに従えば、物質、生命、意識、言語、とにかく宇宙のすべての現象は、宇宙コンピュテーションという一個のユビキタス・プロセスが綿密に構築したバーチャルリアリティだったということになる。もしこれが事実とすれば、現在の物理学、哲学、宗教、そしてそれらを基礎にした現代の世界観は、天地をひっくり返すほどの改定作業が求められる。すでに理論物理学者は、重力、光速、ミュー粒子、ヒッグス粒子、運動量、分子をコンピュテーション理論によってエレガントに説明すべく熱いレースを始めている。最終的には、物理学、相対性理論、進化、量子力学、そしてコンピュテーション理論も含めた大統一理論になるだろう。この理論によって展開される宇宙の底で実際に動いているものは、単純な「ある」、「なし」のビットの積み重ねだけなのである。Ed Fredkinは、彼のデジタル物理理論をまとめた、「Digital Mechanics」の出版準備に忙しい。また、オックスフォード大学の理論物理学者David Deutschも同じ問題に取り組んでいる。Deutschは、従来の物理学の壁を越えて、認識論、物理学、進化論、量子コンピュータを縦糸・横糸にして、一枚の布地を織り上げようとしている。彼はそれを臆面もなく世界の究極理論(Theory of Everything)と呼び、量子コンピュテーションは、他のすべての理論を飲み込むだろうと主張する。

どんなコンピュータでも、自分より性能の低いコンピュータに化ける能力がある。たとえばMacintoshの中に仮想Windowsマシンを作ることができるし、さらに仮想Windowsマシンの中で仮想ファミコンを動かすことも可能だ。こうしたエミュレーションは理論的には何階層にでも積み重ねられる。だからユニバーサルコンピュータなら何ができるか想像してみて欲しい。地球上のあらゆる現象を再現してみせることができるし、必要とあれば、銀河系全体をシミュレーションすることだってできる。

たとえば、仮想ファミコンを動作させるためにはWindowsマシンというプラットフォームが必要になる。ではもし宇宙がコンピュータだとすれば、どんなプラットフォーム上で動作しているのだろうか。Fredkinは「どこか別の場所」にあるという。「どこか」というのは、別の宇宙かもしれないし、別の次元かもしれない。この宇宙でないことは確かだが、彼は特にその問題は気にしていないという。David Deutschの理論は違う。「この宇宙で特筆すべきは、コンピュテーションの普遍性にある。つまり、純粋なコンピュテーションというものは、ハードウェアには全く依存しないということだ。どこをどう探してもプラットフォームらしき存在は確認できない。」そしてDeutschはこう結論づける。「宇宙は、別のどこかのプラットフォーム上で動作しているプロセスではない。宇宙そのものがコンピュータであり、その外側には何も存在しないのである。」

不思議なことに、この新しいデジタリズムの研究者のほとんどが、人間が作るコンピュータがユニバーサルコンピュータを凌駕することになるだろうと予測している。確かにこれまでの驚くべきコンピュータの進化を思えば、そう考えたくなるのも当然だろう。でも宇宙全体がコンピュータだとすれば、なぜ人間が巨額の設備投資をして半導体工場を建設して、ちっぽけなコンピュータを作る必要があるのだろうか? 量子コンピュータの研究者Tommaso Toffoliはこの点をうまく説明している。「つまり宇宙は、何十億年も計算を続けて、自分自身をバージョンアップしているのさ。人間がやるべきことは、まあそれしかできないけれども、宇宙コンピュテーションという巨大なプロセスにおんぶすることだね。」

2002年6月に出版されたPhysical Review Lettersの記事で、MITの教授Seth Lloydは、次のような質問を提議した。「もし宇宙がコンピュータなら、どれくらいの性能があるのだろうか?」量子コンピュータのポテンシャルを分析し、時間が開始したときからこれまでに、宇宙全体のコンピュータ性能の最大値を求めた結果がこれだ:10120論理演算。この数値は二通りに解釈できる。ひとつは、この数が究極のコンピュータの性能スペックだということ。別の解釈は、量子コンピュータで宇宙をシミュレーションするのに必要な論理演算数だということ。どちらの解釈でも共通しているのが、デジタル宇宙の反復性、つまり、すべてのコンピュータはコンピュータだということだ。

Lloydは、こうした手法で人類がこれまでに作ったコンピュータの性能をすべて合算した値も求めた。答えは1031演算。(ムーアの法則どおり、計算能力は加速度的に進歩しており、この値の半分以上は、ここ2年間に達成されたもの)彼は次に、宇宙の質量の総量と、ムーアの法則どおりに人間製のコンピュータが進化した場合に必要な質量を比較してみた。彼によれば「ムーアの法則をあと300回適用することになるので、法則が2年に1回適用されたと仮定してあと600年でコンピュータは宇宙全体の質量を占めるようになります。もちろん宇宙自体がすでに宇宙そのものをシミュレーションするための計算を実行していると考えれば、何も600年待つ必要はないわけです。何もしなくても、600年経てば宇宙がWindowsかLinuxでも走らせるようになるわけですから。」

600年という比較的短い時間は、これまでのコンピュータの幾何級数的な進化を考えれば納得がいく。しかしLloydも含めて他の科学者たちも、本気で600年経てばもうひとつの宇宙が出来上がると本気で考えているわけではない。Lloydの計算結果が示すことは、コンピュータの性能に理論的な最大値は存在せず、どこまでも進化し続けるということだ。David Deutschは、Fabric of Reality(邦題:世界の究極理論は存在するか)の中でこう述べている。「最後には、宇宙空間とそこに存在するものすべてがコンピュータになる。究極的な宇宙のすがたは、文字通りの知的な思考プロセスそのものになるだろう。」こうした主張に共鳴する物理学者Freedman Dysonは「人間の意識は−コンピュータで増幅され−宇宙そのものになるだろう」と述べている。

進化し続けるコンピュータネットワークが、このままAsimovの小説に登場するユニバーサルコンピュータまで到達するという理論的な根拠はないものの、自分が他人のコンピュータ上で稼動するひとつのプログラムになりたいと願う人間はいない。もしそうだとしたら、自分の存在理由が安っぽく思えてしまう。

人間は古くから人間の由来を抽象的な概念で説明しようとしてきた。西欧文明は、古代ギリシャ時代から連綿と引き継がれてきた、論理概念、抽象概念、形而上学的な思想を基点にして発展してきた。使徒ヨハネがギリシャで書いた福音書の出だしにこうある。「初めに言(Word)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」1832年に世界最初の計算機を考案したとされるCharles Babbageは、世界を神が作り出したひとつの巨大な計算機になぞらえた。彼は、神がこの天的な宇宙計算機の基本法則を時々変更するために奇跡が生じると主張した。

まだ腑に落ちない点がある。神はことば、つまり究極のソフトウェアそして究極のソースコードなのだろうか? それとも神は究極のプログラマーなのだろうか? また、神はこの宇宙をシミュレーションするために、宇宙の外に何らかのプラットフォームを必要としているのだろうか?

これらのどの可能性も、宇宙コンピュテーションのミステリアスな理論に基づいている。つまり、デジタリズムによれば、生命体であろうと物質であろうと、すべての存在は相互にリンクしている。なぜなら、John Wheelerがいうように、「すべての存在は、その根源的な要素にまで遡ると、物質ではない何かを共有しているからだ。」この何かというのは、神秘主義者によってさまざまな宗教的文脈で語られることが多いが、サイエンスでいうところのコンピュテーションである。非物質の論理的なビット情報が折り重なってクォークや重力波、思考、運動などを生み出しているのである。

「宇宙コンピュテーションは、おそらくプラットフォームが存在しないプロセスそのものであろう」とDanny Hillisは、近著「The Pattern on the Stone」の中で述べている。「とても不思議なことだが、そのプロセスは、最も深い部分で、宇宙の秩序とみごとに調和している。なぜそれほど調和しているのかはわからない。少なくとも現在のところ。」

Frank Tiplerによる、「Physics of Immortality(不死の物理学)」は、おそらく科学書としてはもっとも突飛な著作のひとつであろう。この本がSF小説ならどこからも苦情はこない。しかしTiplerは、Tulane大学の有名な物理学の教授で、理論物理学の学会誌に論文を掲載している人物なのだ。「不死の物理学」では、最新の宇宙論とコンピュテーション理論を使って、すべての生命体は、この宇宙が終焉した後に、物質の体で復活すると主張している。彼の主張を簡単に説明するとこうなる。ビッグクランチで宇宙が消滅する最後の瞬間に、究極の時空の特異点が形成され(一回きり)、無限のエネルギーと無限の計算パワーが生じる。言い換えれば、巨大な宇宙コンピュータが収縮するにつれて、その計算パワーが増大し、ついには過去・現在・未来の宇宙史全体を正確にシミュレーションできるところまで達する。彼はその常態をオメガポイントと呼ぶ。このとき発生する無限の計算パワーが、かつて存在したすべての意識を肉体も伴って「死から」復活させるという。おかしなことにTipler自身はこの理論を完成させたときは無神論者だったそうだ。キリスト教で昔から教えられている天国で復活するという教理との類似性については、「偶然」だという。彼は、キリスト教の復活の教えと彼の理論が同じことだということを、科学的観点から確信したという。

このTiplerの終末論的な見解は、万人が納得するものではないにしても、David Deutschなども彼の理論を支持している。究極のコンピュータであるオメガコンピュータは、おそらくTiplerのいうようなものになるだろうとされている。

筆者はTiplerにFredkinのどちらの理論を支持するかを尋ねてみた。つまり、宇宙はあたかもコンピュータのようだとする比喩的な弱気説を支持するのか、それとも宇宙は120億年以上動いているコンピュータそのものであり、人間はそのキラーアプリだとする強気説を支持するか、と質問した。「私にはその2つの説の違いがわかりません。」と彼は答えた。「もし宇宙があたかもコンピュータのように見えるのであれば、あえてそれをコンピュータではないということに何の意味があるのでしょうか?」

原文
http://www.wired.com/wired/archive/10.12/holytech.html

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