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ケムトレイルと731
http://www.asyura2.com/0311/jisin10/msg/357.html
投稿者 愚民党 日時 2004 年 1 月 19 日 03:07:28:ogcGl0q1DMbpk
 

序 論


http://www.anti731saikinsen.net/keika/1/junbisyomen/1.html


 本件訴訟は、戦争中、日本軍が使った細菌兵器で被害を被った中国人の原告たちが、日本政府に対して、謝罪と損害賠償を求めるものである。
 そこで、この序論では、戦争犯罪による被害はいかに回復されるべきかという問題、とくに細菌戦被害とその賠償問題の根本にある事柄について触れ、裁判所に本件裁判の重大さについて注意を喚起したい。
 人類の歴史上、戦争によって人間同士が殺しあうようになったのは、最近の数千年にすぎない。しかも、その数千年の間に、人類は、戦争に対する見方を徐々に変えてきたのであり、明らかに戦争手段を規制する方向に変わってきた。とくに第1次世界大戦以降においては、1928年の不戦条約に象徴されるように、違法戦争観が定着して国際法の原則とされるようになってきたのである。細菌兵器を国際法が禁止したのは、このような違法戦争観の当然の帰結であった。
 それにも拘らず、日本軍は、国際法違反を充分に認識しながら、秘密裏に細菌兵器を開発し、実戦で殺戮の道具としてこれを使ったのである。
 日本軍がアジアの諸国に対して行った戦争の残虐さは、すでに歴史事実として明らかになっているところであるが、その残虐さの根源には、戦争に勝つためには手段を選ばず、その戦争手段は全く無制限であるという日本政府の基本的な認識が存在している。したがって、国策として細菌兵器を使用することを決め、そのために国際法を充分自覚しつつあえてこれを破った日本政府の施策は、まさに日本の姿勢そのものを象徴するものとして指弾されなければならない。
 ところで、日本軍が開発した細菌兵器の主力は、ペスト菌である。ペストがいかに恐るべき疫病であるかは、4000万人ともいわれる、つまりヨーロッパの人口の約3分の1にも当たる人々が死亡したという14世紀の「ペスト大流行」の歴史事実を想起するだけで充分である。ちなみにペストは、その後も、17世紀はイギリスなどヨーロッパで、さらに19世紀末から20世紀の10年代まではアジアで、大流行している。まさにペストは人類にとって脅威そのものだったのである。
 一方、細菌に関する医学上の研究は、19世紀の後半から飛躍的に進んできたが、ペスト菌は、右に述べたアジアでのペスト流行の渦中である1894年に発見されている。人類は、ようやく忌まわしいペストの正体をつかまえたのである。ペスト菌の発見は、人類の英知の勝利であり、そのニュースは、世界的な大事件として報道され、ペスト予防対策に大いに役立った。
日本軍は、本来人の生命を救うべき医師(軍医)を使って、ペスト菌を人の生命を奪う兵器として用いたのである。これ程非人道的な暴挙は、かつて類例を見ない。
 日本は、1945年8月にポツダム宣言を受諾し、連合国側に無条件降伏したが、その後行われた極東国際軍事裁判は、日本の戦争を侵略戦争と認定し、戦争犯罪者らへの処罰を行った。そして1952年の講和条約では、その極東国際軍事裁判の判決を受け入れることを確認し、日本は再び国際社会に復帰した。
 ところが、何ということであろうか、細菌戦に関わった者たちのみは犯罪者としての糾弾から免れ、日本が、戦争遂行のために国家の政策として細菌兵器を開発したこと、これを用いて多くの捕虜を人体実験で殺害し、中国各地に撒布して何万という住民をペストで殺戮したという事実を、国家の方針として隠蔽したのである。
 細菌戦という重大な戦争犯罪を犯しただけでなく、さらにこれを隠蔽するという新たな国家犯罪を犯していたのであって、これはまことに由々しい大事件である。
 更に、日本政府は、今日でも、自ら保管する細菌戦に関する資料を隠匿し、事実を認めていないのである。
1997年8月11日、中国の細菌戦被害者108名が被告日本国に対し謝罪と賠償を求めて、東京地方裁判所に第1次訴訟を提起し、さらに、1999年12月9日、細菌戦被害者72名が第2次訴訟を提起し、細菌戦の戦争犯罪を法廷の場で問うている。しかしながら、被告国は、事実認否すら拒否している。
 さらに中国では、本件訴訟提起後、今まで以上に細菌戦の事実とこれへの日本政府の不当な対応に対する怒りの声が、急速に広がり、被害実態についても、新たな情報が集まり、細菌戦被害の深刻さが予想以上のものであることが判明してきた。
 裁判所が、世界の注目の中で、歴史の事実に正面から向き合うことを、強く求めるものである(甲10・甲84)。

第1部 日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)

第1章 本件細菌戦被害の発生

第1 被告の細菌戦と中国8地域の被害

 中国の都市や農村では、1940年以降、人為的原因と疑われる極めて不自然なペストやコレラなどが流行した。それらの疫病の発生は、それを自然流行とみるには余りにも不自然な事実をいくつも伴っていた。たとえば、これら中国の都市や農村においては、過去にペストなどが流行したことが無かったことや、他方、ペスト流行地域で流行前に飛行機から穀物やノミなどが投下された事実や、あるいは日本軍の退却後に突然疫病が発生した地域があるなど、である。
 日本軍は、徹底して秘密にしていたが、実際には、中国に対する侵略戦争の中で、いわゆる731部隊等を実行部隊として、中国の都市や農村にペスト菌やコレラ菌などを用いた細菌戦を行っていた。細菌戦の詳細は、後に第2章、第3章で述べるが、その時期は中国各地で前述の不自然な疫病が発生した時期と重なっている。
 後に第4章で述べるような経過を経て、今日では、1940年以降に中国の各地で発生したペストやコレラなどの疫病の流行が、実は、日本軍の細菌戦によるものであることが判明している。
 本件裁判で損害賠償を請求するのは、次の8つの地域で発生した細菌戦被害についてである。ただし次のCはコレラ被害、その他の7箇所はペスト被害である。
@ 浙江省の衢州市。日本軍は、1940年10月、飛行機から細菌戦を行った。
A 浙江省の寧波市。日本軍は、1940年10月、飛行機から細菌戦を行った。
B 湖南省の常徳市。日本軍は、1941年11月、飛行機から細菌戦を行った。
C 浙江省の江山市。日本軍は、1942年8月、地上作戦として細菌戦を行った。
D 浙江省の義烏市。衢州で流行したペストが義烏市街地に伝播し、1941年の10月ころから爆発的に流行した。
E 浙江省東陽市。義烏の市街地で流行したペストが伝播し、1941年10月ころから爆発的に流行した。
F 浙江省の義烏市の崇山村。義烏の市街地で流行したペストが伝播し1942年10月ころから爆発的に流行した。
G 浙江省の義烏市塔下洲。義烏市崇山村で流行したペストが伝播し、1942年の12月ころから爆発的に流行した。


なお、以下では、DからGは、@からの伝播なので、@の後に続けて述べる。

第2 衢州における細菌戦被害の発生

 浙江省衢州の細菌戦被害の死亡者は、1940年10月から翌41年12月の間に、少なくとも2000名にのぼる。そのうち、原告らの3親等内の親族の死亡者は、別紙原告番号1ないし14の死亡者欄記載の30名である。
また、衢州で発生した細菌戦被害は、上記のような死亡者の発生にとどまらない。多くの死者・患者の家族は、防疫のため強制的な収容措置を受け、さらに住居を焼燬されるなどの被害を被った。

第3 義烏における細菌戦被害の発生

 浙江省義烏市市街地の細菌戦被害の死亡者は、1941年9月から1942年3月の間に、少なくとも230名にのぼる。そのうち、原告らの3親等内の親族の死亡者は、別紙の原告番号15ないし59の死亡者欄記載の124名である。
また、義烏市市街地で発生した細菌戦被害は、上記のような死亡者の発生にとどまらない。ペスト流行地区の多くの死者・患者の家族や住民たちは、住居や生業を捨てて逃亡し、あるいは同地区の封鎖後はここに閉じ込められて感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。

第4 東陽市における細菌戦被害の発生

 浙江省東陽市の細菌戦被害の死亡者は、1941年10月から1942年4月の間に、少なくとも113名にのぼる。そのうち、原告らの3親等内の親族の死亡者は、別紙の原告番号60及び61の死亡者欄記載の9名である。
また、東陽市で発生した細菌戦被害は、上記のような死亡者の発生にとどまらない。同地区の封鎖後はここに閉じ込められて感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。

第5 崇山村における細菌戦被害の発生

 浙江省義烏市崇山村の細菌戦被害の死亡者は、1942年10月から同年12月の間に、少なくとも396名にのぼるが、そのうち、原告(または傍線を付した原告の被相続人)の3親等内の親族である死亡者は、次の被害者番62ないし91の70名である。
また、崇山で発生した細菌戦被害は、上記のような死亡者の発生にとどまらない。村の約半数の家屋は日本軍によって焼燬され、患者の一部は日本軍細菌戦部隊の人体実験の犠牲者となるなどの被害を被った。

第6 義烏市塔下洲における細菌戦被害の発生

 浙江省塔下洲の細菌戦被害の死亡者は、1942年10月から1943年1月の間に、少なくとも103名にのぼる。そのうち、原告らの3親等内の親族の死亡者は、別紙の原告番号92ないし96の死亡者欄記載の21名である。
また、義烏市塔下洲で発生した細菌戦被害は、上記のような死亡者の発生にとどまらない。ペスト流行地区の多くの死者・患者の家族や住民たちは、住居や生業を捨てて逃亡したため生活破壊は著しかった。

第7 寧波における細菌戦被害の発生

 浙江省寧波の細菌戦被害の死亡者は、1940年11月から同年12月の間に、少なくとも109名にのぼる。そのうち、原告らの3親等内の親族の死亡者は、別紙の原告番号97ないし105の死亡者欄記載の13名である。 また、寧波で発生した細菌戦被害は、上記のような死亡者の発生と罹患した者にとどまらない。流行地区の家屋は焼燬され、同地区の患者の家族・住民は家屋・店舗を失って路頭に迷うなどの被害を被った。

第8 常徳における細菌戦被害の発生

 常徳市市街地に発生したペストの流行は、1942年3月、常徳市の農村部の河?鎮、東江・東郊、芦獲山、闘姆湖、許家橋、石門橋、聶家橋、韓公渡、石公橋、周家店、馬宗窓、桃源九渓、草坪、大龍嫋、断港頭、鎮徳橋、白合山、肖伍鋪、南坪、黄土店、銭家坪、双橋坪、瓦屋当、中河口、沛子港、黒山嘴、黄珠洲、洲口、衝天湖、太平鋪 、毛家灘、丹洲、徳山などの約50ヶ村に伝播し、その結果、湖南省常徳市全体の細菌戦被害の死亡者は、1941年11月から1945年11月の間に、少なくとも6491名にのぼる。
 そのうち、原告らの3親等内の親族の死亡者は、別紙の原告番号106ないし165の死亡者欄記載の129名である。また*印の7名の原告は、ペストに罹患し死線をさまよったが、生き残った者である。
 常徳で発生した細菌戦被害は、上記のような死亡者の発生にとどまらない。
一家がほぼ全滅するような激しく、長期間にわたった流行の結果、患者の家族・住民はつねに感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。

第9 江山における細菌戦被害の発生

 浙江省江山の細菌戦被害の死亡者は、1942年8月の間に、少なくとも約100名にのぼる。そのうち、原告らの3親等内の親族の死亡者は、別紙の原告番号166ないし180の死亡者欄記載の23名である。また*印の2名の原告は、ペストに罹患し死線をさまよったが、生き残った者である。
また、江山で発生した細菌戦の被害は、上記のような死亡者の発生にとどまらない。経口感染するコレラの流行によって、患者の家族や住民は、食事や水を摂取する際にもつねに感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。


第2章 被告の細菌戦

第1 被告の細菌戦部隊の創設

1 日本は、1931年9月、自ら南満州鉄道を爆破した柳条湖事件からいわゆる満州事変を起こし、敗戦まで中国侵略戦争を続けた。この14年間の中国侵略の中で、日本軍は、国際法を無視して細菌戦を研究し、実戦で細菌兵器を使用した。
 これより先、日本は、日清戦争で中国から台湾等を割譲させ、日露戦争で租借地関東州(旅順・大連など)と南満州鉄道を獲得、以降、関東軍を使って中国東北地方における日本の権益の確保・拡大をめざしていた。柳条湖事件後まもなく、関東軍は、中国東北(旧満州)のほぼ全土を占領し、翌32年3月には、日本の傀儡国家「満州国」が建国された。
 その後日本は、中国の華北の一部を当時の中国国民政府(国民党政権)の支配から切り離そうとする「華北分離工作」を続け、37年7月、ついに北京近郊で中国軍との武力衝突を引き起こし(盧溝橋事件)、日中両国は全面戦争に突入した。ただちに日本軍は、華北では北京・天津を占領したのち鉄道線沿いに南下して諸都市を占領し、華中では8月に上海に上陸してこれを占領した。さらに12月には首都南京を陥落させ、このとき南京大虐殺事件を起こした。翌38年には5月に徐州を、10月には武漢をそれぞれ占領した。しかしこれ以降、中国は新たに重慶を首都とし、侵略に対する抵抗・反撃を強め、日中両軍は対峙段階に入った。1941年12月、日本軍は真珠湾攻撃とマレー半島上陸を行い、日中戦争はアジア太平洋戦争に発展した。これ以降も敗戦まで、日本は中国大陸に100万人規模の軍隊を配置して侵略戦争を継続したが、中国の抵抗は強く、ついに1945年8月、日本軍は中国に降伏した。
以下、日本軍における細菌戦部隊の創設の経過について、詳述する。

2 まず「満州国」が建国された32年、東京の陸軍軍医学校に防疫研究室がつくられた。翌33年、中国東北の黒龍江省5常県背陰河に防疫班(東郷部隊)が設置された。東郷部隊は、一時東京に戻ったのち、中国東北の込櫛篋市南崗に移転した。36年4月、関東軍参謀長板垣征四郎は、陸軍次官梅津美治郎あてに「細菌戦準備の為」の「関東軍防疫部」の新設を要求、その結果、同年8月、東郷部隊は「関東軍防疫部」として天皇の軍令にもとづく正規の部隊となり、ハルビン市南東24キロの平房に施設の建設を開始した(甲3の11頁。次頁の地図参照)。

 右の部隊は、表看板としては軍隊における「防疫」や「給水」、すなわち伝染病の予防と浄水の供給を掲げていたが、実態は、細菌兵器の開発と実用化をめざす秘密機関だった。戦線が拡大するにつれ、兵員の消耗や物資の不足が深刻となり、とりわけ兵器の近代化の遅れが顕著になると、細菌兵器は、安価に製造でき、かつ敵国に無差別な大量被害を与えることができるとして重視されたのである。

3 1936年秋、関東軍防疫部のために囲い込まれたハルビン郊外平房の6平方キロメートルにわたる地域で、施設の建設が始まった。38年6月には、「関東軍参謀部命令第1539号」にもとづき「特別軍事区域」が設定され、部隊の周囲を「無人区」とするため、中国人農家546戸が強制的に立ち退かせられた。こうして日本の細菌戦の中枢となる部隊の本部官舎、細菌製造工場、各種実験室、監獄、専用飛行場、隊員家族宿舎などが建設された(甲30の68頁以下、甲54、甲110、甲184)。
 施設の中心は、約100メートル四方、3階建ての「ロ号棟」とよばれたビルであり、1940年に完成した(関東軍防疫部は1940年に「関東軍防疫給水部」と改称され、翌41年、「731部隊」の部隊番号をもつようになる)。
 部隊の中枢は4つの部から構成されていた(甲109)。その第1部の細菌研究部と第4部の細菌製造部はこの「ロ号棟」に置かれ、ペスト、コレラ、チフス、炭疽菌などが研究・製造された。別棟に置かれた第2部は、実戦研究を担当し、植物絶滅の研究班や昆虫(ノミなど)の研究班、さらに航空班などがあった。ハルビン市南崗の陸軍病院に置かれた第3部は、部隊の正式名称にかかわる「防疫給水」のための濾水器の製造のほか、ペスト菌などを入れる細菌戦用の陶器製爆弾の容器を製造した(甲32の21頁)。
 第4部では、「ロ号棟」の3棟、5棟で、細菌の大量生産が、石井式培養缶(甲87)を用いて行われた。
 元731部隊員の証人篠塚良雄は、実際に大量生産された細菌の種類と特徴について、本法廷で次のように供述する。
「私たちが教えられたのは、この石井式培養缶、これは3パーセントの普通寒天培地に増殖する通性好気性菌はすべて培養できるんだと。破傷風、結核菌を除けば、ほとんどのものができるんだと、このようなことも聞きました。実際、私どもが行ったのは、赤痢、チフス、パラチフス、コレラ、ペスト、脾脱疸菌。1941年以降は、特に脾脱疸菌、ペスト菌、コレラ菌が多かったと、このように記憶しております。私どもは、この培養に当たっては、何の細菌を作るんだと、はっきりと言い渡されてはおりませんでした。しかし、私たちはかき取った細菌のにおい、形、濁り具合、これらによって判断したわけであります。赤痢菌は昔のキュウリのような、確かににおいがしました。チフス菌は、比較的きれいなものであります。培養したコロニーと言われている集落を見ると、真珠か何かのような感じすらしました。脾脱疸菌は、濁りが強いと、コレラ菌はガサガサしている、このようなことから、区別しました。また、ペスト菌、これは納豆をかき回して引っ張るような感じ、糸を引くと。ペストに感染して死んだ隊員が多くいます。恐らく、この糸が切れなくて感染したんだろうと、私はこのように思っております。このような特徴を、この中で知ることができました。」(篠塚調書22頁)
 「ロ号棟」の中庭には、最大400名を収容できる特殊監獄が建設された。この特殊監獄には、日本の支配に抵抗した、あるいは抵抗したとみなされて捕えられた中国人、ロシア人、朝鮮人、モンゴル人などが収容された。これらの人々は、名前を奪われて「マルタ(丸太)」と呼ばれ、1本、2本と数えられた。彼らは、「ロ号棟」の中の解剖室や野外の実験場で、人体実験に使われ次々に殺されていった(甲25の92頁)。
 人体実験では、細菌を注射・塗布して観察する生体実験を始めとして、動物の血液との交換、人為的な凍傷、減圧実験などありとあらゆることが行われた。また平房から120キロ離れた安達に設けられた野外実験場では、被験者を杭に縛り、飛行機からペスト菌弾や炭疽菌弾、毒ガス弾を投下・炸裂させ、効果を測定する実験などが行われた(甲131ないし甲137、甲142の91頁)。ハルビン市松花江の中州でも同様の野外実験が行われた。
 細菌兵器のうち、もっとも殺傷力が高いと評価された「ペスト感染ノミ」を撒布する方法は、上記のような研究・実験から生み出された。ペスト感染ノミは、ペスト菌を注入したネズミにノミをたからせ、その血を吸わせて生産された。
 ペスト感染ノミを使う方法は、ペスト菌を空中から撒布すれば菌は死滅するという当時の世界の生物学界の常識をはるかに越える独自のものであった。ペスト菌の場合も他の菌と同様に、特に上空から裸の菌を投下する場合、空気の抵抗や気温の変化によって菌が死滅するおそれがあるうえ、撒布作業をする人が菌に汚染される可能性が高かった。そこで考案されたのがペスト感染ノミを製造しそれを撒布するという方法である。ノミは、人間へのペスト感染を最も媒介しやすいうえ、裸の菌よりも空気の抵抗、気温の変化に比較的強いからであった(甲3)。 

第2 1939年から1945年にかけての被告の細菌戦

1 細菌戦部隊の創設には、軍医石井四郎の役割りが大きかったが、細菌戦の研究と実戦という戦略的課題は、日本陸軍の中央部が認可し推進したものであった。 したがって、細菌戦部隊(東郷部隊、関東軍防疫部)が当初、日本陸軍が主敵と見なしていたソ連に近い中国東北に設置されたことは当然である。また同部隊の4支部(牡丹江、林口、孫呉、今性櫛)も、ソ連との国境線に沿って配置された。細菌戦が最初に行われたのは、1939年の関東軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件においてのことであり、ハルハ河の上流ホルステン河にチフス菌が流された(甲86の11頁)。
 他方、日中戦争は、国共合作を実現した国民党軍と共産党軍の頑強な抗戦により、戦線は膠着した。日本陸軍は、北支那方面軍、中支那派遣軍(のち支那派遣軍に拡充)などを編成して1938年の後半には中国戦線に100万の兵力(これは当時の日本軍の総兵力の約8割に相当する)を動員したが、同年の徐州作戦と漢口作戦では国民党軍の主力を捕捉することに失敗し、国民政府は四川省重慶に移転して抗戦を続けた。また共産党軍は、華北を中心に日本軍占領地の後方にゲリラ戦地区を建設して、日本軍を消耗させたのである(次頁の地図参照)。
さらに1939年9月、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発した。日本

の中国侵略戦争が継続・拡大し、日米間の対立が激化する中で、翌40年9月、日本は、日独伊3国同盟に調印した。ドイツのヨーロッパにおける軍事的勝利に期待をかけつつ、日本は、南方の東南アジア等を新たに侵略することによって、事態を一気に解決するという戦略を打ち出したのである。
 このような状況のもとで、日本軍は、細菌戦研究を強化し、細菌戦部隊の規模を拡張していった。すなわち、関東軍防疫給水部(731部隊、ハルビン)に加えて、中国では北支那防疫給水部(1855部隊、北京)、中支那防疫給水部(1644部隊、南京。甲57、甲58)、南支那防疫給水部(8604部隊、広州)が40年までに編成され、42年には南方軍防疫給水部(9420部隊、シンガポール)が編成された(括弧内は部隊番号と本部所在地、以下部隊番号も用いて表記する)。さらに、これらの各部隊には、数個から十数個の「支部」が設けられた。
 日本軍の細菌戦は、これらの諸部隊が直接間接に参加して、中国の各地に対して行われた。

2 1940年、日本陸軍の中央部は、細菌兵器の使用を本格的に検討し、細菌作戦発動を命じた。天皇の命令たる「大陸命〔大本営陸軍部作戦命令〕」にもとづき陸軍参謀総長が出す作戦の具体的な指示である「大陸指〔大本営陸軍部作戦指令〕」の「第690号」が発令されたのである。
 6月5日、陸軍参謀本部作戦課の荒尾興功、支那派遣軍参謀井本熊男、南京・1644部隊長代理の増田知貞の間で細菌戦実施についての協議が行われた。協議の結果、攻撃目標は浙江省の主要都市とすること、実施部隊は支那派遣軍総司令部直轄とし、部隊責任者は関東軍防疫部長石井四郎とすることなどが決定された。作戦方法は、飛行機による菌液撒布とペスト感染ノミの投下であった。
 7月25日、関東軍は「関作命〔関東軍作戦命令〕丙第659号」(甲20の証拠書類保管文書830号)を発令した。この作戦命令は、浙江省への細菌戦のために731部隊員で臨時編成された「奈良部隊」の人員・器材の輸送を命じたものであった。同命令によってハルビンを出発した「投下爆弾700発、自動車20両」などの器材が、8月6日、前線基地とされた浙江省杭州に到着した。2日後には、1644部隊と731部隊からの総勢120名の隊員が杭州に集結した(甲88の14頁)。
 元731部隊航空班の証人松本正一は、本法廷で、杭州から「寧波作戦」に航空班のパイロットの「ほとんど全員が参加した」(松本調書32頁)と供述している。
 これ以後、具体的な攻撃目標の捜索が行われた。9月上旬、細菌戦の攻撃目標に寧波と衢州が決まり、金華も候補にあげられた。このうち、寧波は中国東南部における重要な港湾都市であり、衢州・金華は浙江省から江西省に通じる浙p鉄道上の要地であった。9月18日、攻撃目標の候補地に玉山、温州、台州などが加えられた上、浙江省への細菌戦が始まった。
 9月18日から10月7日までに、コレラ菌、チフス菌、ペスト菌による6回の細菌攻撃が行われた。この6回の攻撃では、菌液撒布とともに、10月4日の衢州に対する攻撃の場合のようにペスト感染ノミが投下された(甲113)。続いて10月下旬、寧波にやはりペスト感染ノミが投下された。11月末、金華にペスト菌が投下された。 攻撃対象となった地域のうち、少なくとも衢州と寧波の2カ所で大規模なペスト流行が発生した。
 11月25日に、陸軍参謀総長杉山元は、支那派遣軍と関東軍に対し「大陸指第781号」(甲21)を発し、11月末日をもって作戦を終了させることを指示した。

3 1941年の前半、日本陸軍の中央部や関東軍防疫給水部(731部隊)、北支那防疫給水部(1855部隊)、中支那防疫給水部(1644部隊)は、前年の細菌戦実施の結果をふまえ、攻撃方法や細菌増産のための施設拡充などについて、さまざまな検討を行った。また、1941年6月のドイツ・ソ連間の戦争開始に伴って行われた陸軍の対ソ連戦争準備(同年8月中止)の期間、731部隊は対ソ戦用のペスト感染ノミの増産をはかった。
 細菌戦再開が決定され、 陸軍参謀総長名の「大陸指〔大本営陸軍部作戦指令〕」が発令されたのは、9月16日になってのことである。攻撃の対象に選ばれたのは、洞庭湖に近い湖南省西部の戦略要地常徳であり、目的はペストの流行による国民党軍の交通路遮断であった。今回の作戦の中心となったのも、前年と同様、731部隊と1644部隊であり、731部隊からは40ないし50名が派遣され、作戦参加者の総数は約100名であった(甲112)。
 11月4日、731部隊の航空班増田美保は、97式軽爆撃機を操縦して飛行場を午前5時30分に離陸し、常徳に6時50分に到着した。ペスト感染ノミとそれを保護する綿・穀物など36キロが、常徳の上空高度1000メートル以下から投下された。この常徳に対する攻撃には江西省の南昌の飛行場が使われた。
 11月12日、最初のペスト患者が発見された。翌1942年にかけて常徳の市街地・農村地区、および近隣の桃源県でペストが流行する。日本軍は、情報収集によって攻撃が成功したと判断し、ペスト感染ノミの空中投下という方法に自信を深めた。
 なお、1941年12月8日、日本はアメリカとイギリスに対し宣戦を布告し、太平洋戦争の開戦にふみきった。かつての日清戦争の宣戦の詔書には、「苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」と国際法に準拠すべきことが明記されていた。日露戦争、第1次世界大戦の宣戦・開戦の詔書も同様であった。しかし、この太平洋戦争の宣戦詔書には、こうした文言が全く見られないことは、きわめて示唆的である。事実、日中戦争につづき、アジア太平洋戦争にあっても、日本軍は国際法違反の細菌戦を計画し、実行するのである。

4 1942年の細菌戦は、戦争があらたな事態を迎える中で実行された。同年4月18日、太平洋上の空母を発進した米軍爆撃機が、初めて日本本土を空襲し、日本の政府と軍に大きな衝撃を与えた。米軍機は中国浙江省の都市を着陸予定地としていたため、同月30日、大本営は急遽浙江省から江西省に通じる浙p鉄道沿線の諸都市を攻撃し、飛行場を破壊する作戦を決定し、「大陸命〔大本営陸軍部作戦命令〕第621号」を発令した。この浙p作戦(せ号作戦)は、第13軍の6個師団と第11軍の2個師団、計8個師団を動員する大規模な作戦であった(次頁の地図参照)。
 陸軍中央と石井四郎(当時軍医少将)は、この作戦の中で細菌攻撃を実施することを決定した。だがこの細菌攻撃について、第13軍司令官沢田茂中将は、陣中記録に、「石井部隊の使用、総軍〔支那派遣軍総司令部〕
よりも反対意見を開陳せしも大本営の容るる処とならず。大陸命を拝したりとならば仕方なきも作戦は密なるを要す。」(6月25日の項)、「石井少将連絡の為、来著す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故続行せんとするや諒解に苦しむ。」(7月11日の項)と記している。
 すなわち、この時の細菌戦実施は、極秘作戦として大本営で決定され、現地の支那派遣総軍や第13軍の実施反対は拒否されたのである。細菌戦の陣頭指揮にあたったのは石井四郎である。

 7月には、ハルビンの731部隊派遣隊が南京に到着、ここで南京・1644部隊の部隊員と合流した。要員総数は150ないし60名であり、8月初めには作戦実施のための配備が終了した。今回の細菌戦は、これまでの航空投下と異なり、主に地上撒布の手段が用いられた。すなわち、13軍など日本軍は所期の飛行場破壊の目的を達成し、同月中旬から1部の占領地を除いて撤退を始めたが、この撤退のさい、さまざまな方法で細菌が撒布されたのである。その目的は、日本軍撤退後に復帰する中国軍の行軍ルートや拠点都市に伝染病を流行させることによって、飛行場の再建を不可能にすることであった。
 江西省の上饒(旧称広信)や玉山では、ペスト感染ノミやペスト菌を注射した野ネズミが放たれ、同省の広豊でもペスト感染ノミが放たれた。さらに玉山では、ペストの乾燥菌を付着させた米を撒いて、その米を食べたネズミを感染させる方法も試みられた。また浙江省の衢州・麗水では、ペスト感染ノミの他、チフス菌やパラチフス菌が撒布された。さらに同省の常山と江山では、コレラ菌を@井戸に直接入れる、A食物に付着させる、B果物に注射する、などの方法が採られた。これらの謀略的な細菌地上撒布により、前記諸都市ではコレラやペストをはじめ多数の伝染病患者が発生した(次頁の地図参照)。
 さらに、この1942年には、日本軍は太平洋戦域でも細菌戦を実行しようとした。たとえば、フィリピンのバターン半島に立てこもったアメリカ・フィリピン軍に対する細菌戦が準備されたが、準備中にアメリカ軍らが降伏したため中止された。また、サモア、アラスカのダッチハーバーや、オーストラリアの主要都市、インドのカルカッタに対する細菌戦が検討されていた。

5 1943年、ソロモン群島ガダルカナルからの撤退後、太平洋における日本軍の敗勢は明確なものとなった。中国での戦争も、本来の中国政府を屈服させるという目的を放棄し、占領確保のための作戦が中心になった。こうした状況下に、ハルビンの731部隊、北京の1855部隊、南京の1644部隊、広州の8604部隊、シンガポールの9420部隊の日本軍細菌戦部隊は、ペスト感染ノミとネズミの増産に力を入れ、中国の他の地域に対してだけでなく、ビルマ、インド、ニューギニア、オーストラリアなどに対する細菌攻撃も検討された。
 なお、同年9月、日本軍第59師団防疫給水班は、中国山東省西部で、コレラ菌撒布により、細菌兵器の効果を実験し、あわせて行軍中の日本軍部隊の防疫能力を試す細菌戦を実施している(甲2の44頁)。

6 1944年になると、日本軍は、太平洋の制海権・制空権を完全に奪われ、南太平洋の拠点を次々に失った。同年6月には、大本営が前年に設定した「絶対国防圏」の要域であるマリアナ群島のサイパン島に、アメリカ軍が上陸した。陸軍参謀本部作戦課は、潜水艦を使ってシドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェーを細菌攻撃する計画を立て、さらにサイパン島攻防戦では、実際に細菌攻撃部隊が船で派遣された。この部隊の1部はサイパン島で玉砕、1部はトラック島に向かう途中で米軍潜水艦により撃沈された。同年7月、サイパン島が陥落すると、これを奪回するための細菌攻撃が検討されている。

7 1945年1月、陸軍中央部は、細菌戦の戦略的実施を中止する決定を行った。太平洋戦線における戦況の悪化は、もはや大規模な細菌戦実施を不可能にしていたのである。
 だが、中国東北では、事情が異なった。ソ連の参戦が確実となった2月以降、弱体化した兵力を補うべく、関東軍とその細菌戦部隊である731部隊は、ペスト菌の大増産計画を立てた。「満州国」の行政権力を通して民衆から大量のペスト菌培養用のネズミ類(ハタリス)が集められ、設備も増強された。さらに、国境線に配置された731部隊の4支部は、関東軍の各軍の指揮下に置かれたのである。1945年6月当時の731部隊は、関東軍防疫給水部略歴によれば、2275名の人員を要した(甲28の28頁)。
 こうした対ソ連細菌戦準備は、同年8月、日本の敗戦直前まで続けられた。
 8月9日のソ連参戦後、731部隊はその細菌戦研究・細菌兵器製造等の一切の施設を破壊し、収容されていた「マルタ」を全員殺害して撤退した(甲31の14頁以下)。
 だが、中国人に対する加害行為は、これだけでは終わらなかった。施設跡から逃げたネズミやノミによって、周囲の村落およびハルビン市内にペストが発生した。少なくとも数百名の死者を出したこの流行は、1959年まで続いた(甲78)。


第3章 被告の細菌戦と本件各被害の因果関係

第1 細菌戦と本件被害の因果関係の疫学的解明の方法

 1 ペスト等の感染症の疫学的役割は、次の感染症の3要素を明らかにすることにある。
 第1に、感染の原因となった病原微生物の特定が重要である。感染症の流行では、患者すべてから同じ種類の病原微生物が検出されなければならない。もちろん病原微生物の特定には、細菌学的な知見を最大限用いる。
 第2に、その病原微生物がいつ、どこで、どのようなルートで人に侵入し、集団の中に拡がっていったのかを明らかにしなければならない。そして、流行のさまざまなプロセスの中で原因と考えられる病原微生物が分離された場合、これら病原微生物と、患者から検出された病原微生物が一致し、因果関係が認められるのか否かを究明することも重要である。
 なお近年の感染症の疫学では、因果関係を解明する手法として、検出された病原微生物の遺伝子解析(DNA鑑定)が取り入れられている。
 第3に、感染した人たちの免疫状態を知ることも非常に大切である。
 例えば、インフルエンザの大流行が良い例である。インフルエンザウイルスの変異によって新型ウイルスが出現すると、新型ウイルスには誰も免疫がないために、インフルエンザは集団の中にみるみるうちに拡がってゆくのである。
 上述した感染症の3要素を明らかにすることは、感染症の流行の全体像をとらえて、疫学的な分析を行うために欠かせない。

 2 次に、疫学的アプローチに基づいて、疾病の原因および因果関係を探って行く際に重要な点は、前述したような方法で、流行像を客観的に観察して全体像を正確に把握することである。

 流行像を基礎としながら、感染原因を説明すべく仮説を設定することである。とくに疾病発生の因果関係を満たすべき条件としては、通常、@時間的順序、A統計的関連、B既存知識による支持(既存知識で解釈できるか否か)、等が挙げられる。
 すなわち、時間的にみて原因は結果の前に作用していなければならない。また、患者発生の統計的な関連性も判断の有力な武器になる。例えば、ペストの場合には、ネズミの死体の出現に関するデータやネズミからのペスト菌検出のデータなどが統計的に重要な資料である。
 ネズミの感染率とは、因果関係が直接的な場合もあれば、間接的な場合もあるので、他の条件とも併せた具体的な考察が必要である。
 さらに、対立仮説があるならば、それとの比較検討をしなければならない。同時に、その仮説が既知の医学的、生物学的な知識によって支持されることが大切である。
 当時はもちろん遺伝子解析などの近代科学的手法は未だ開発されていなかったが、疫学的アプローチに基づいた原因究明は、当時の医学の水準をもってすれば充分可能であった(甲93の1、証人中村明子作成「鑑定書」20頁参照)。

 3 以上のような方法論に基づき、以下では、本件各被害と細菌戦の因果関係について、詳述する。

第2 細菌戦による衢州のペスト被害

1 1940年10月4日午前9時頃、日本軍機1機が衢州市(当時衢県、以下旧称を用いる)の上空に低空で飛来し、旋回の後、麦や粟などとともにペスト感染ノミを撒布した。日本軍機が飛び立った後、県城(市街地)内の柴家巷・羅漢井一帯の住民たちは屋根や地面のいたる所に散乱している投下物を発見した。同日、県の防護団及び衛生院は、投下物のサンプルを収集し、県知事に報告した。そして午後には県知事の指示で、住民を総動員して投下物の清掃と焼却が行われた(甲98、証人邱明軒作成「鑑定書」参照)。 日本軍の空襲の17日後、衢県県城では大量の死んだネズミが発見された。さらに20日後の11月12日、柴家巷3号の住民呉土英(女、12歳)が発病し、翌日、羅漢井巷5号の黄廖氏(女、40歳)、柴家巷4号の鄭冬弟(女、12歳)が相次いで発病した。前記3名はいずれも発病後3、4日で死亡した。つづいて発見された患者にも高熱、頭痛、鼠径腺腫、嘔吐などの症状があり、県衛生院は20日、腺ペストと診断した。この診断は、のちに福建省から派遣された防疫専門官が行った顕微鏡検査、細菌培養、動物接種により確認された(甲56)。
 衢県のペストは、日本軍機から投下されたペスト感染ノミが、まずネズミの間でペストを流行させ(当時、捕らえられたネズミ1588匹の8・4%にあたる133匹からペスト菌が発見された)、これが人間に感染し、流行が引き起こされたものである。
 衢県では1940年以前にはペストが発生した歴史事実はなく、また同年のペストは、日本軍機によって穀物やノミが投下された地域に集中して発生した。


 11月下旬以降もペスト発病者の数は増え、柴家巷、羅漢井巷、水亭街、美俗坊、上営街、寧紹巷など隣接する数ヵ所の通りでペスト感染者が続けて見つかった(前頁の地図参照)。
 11月22日、報告を受けた浙江省等を管轄する国民党軍第3戦区司令部は、ペスト流行地区をまず封鎖するように衢県駐屯の軍政部防疫部隊に命令した。同日、衢県の各界・各団体の緊急会議が開かれ、衢県ペスト防疫委員会設立を決定するとともに、流行地区の封鎖、医療従事者の組織、隔離病院・隔離所の設置を決定した。ペスト感染者は隔離病院に入れ、患者の家族や流行地区の住民は隔離検査のため、それぞれ流行地区内の隔離所と衢江に浮かぶ船に移転させるなどの措置がとられた。さらに防疫委員会は、ペスト予防についての宣伝活動、学校閉鎖、ペストワクチンの予防接種、ペスト患者の出た住宅の焼却などを行った。
 1940年末までに関係当局に報告されたペストによる死者は、ペスト患者25名中、24名であった。ただし、ペスト患者の家族の多くは、家族全員が隔離され、家を焼かれることを恐れ、患者を別の所に隠して報告しなかったため、実際の患者・死者数はこの数値を上回る(甲3の176頁)。
 別紙の原告番号1、2、6の死亡者欄記載の5名は、この1940年のペスト流行で死亡したものである。 
 例えば、原告程秀芝の姉程鳳娜は、同年12月5日の深夜、突然頭が痛いと訴え、顔色を赤くし、高熱も出たので、医者に診断してもらい、その結果、ペストに感染していることが判明し、衢州の防疫部門の人によって、寧紹 薬皇殿の隔離室に送られた。同人は、隔離室の中で、何度も寝返りを打ち、苦しく呼び、意識不明になり、翌日亡くなった。発病から死亡までたった29時間だった。遺体は筵で結ばれて他の所に送られた。どこへ送られたかは今でもわからない。

2 衢県でのペスト被害は1940年だけに止まらなかった。翌41年3月上旬、ペストは衢県城の坊門街で再発し、まもなく城内十数本の通りで同時に発生した。現地政府は即刻、衢県臨時防疫処を設立し、防疫隊を派遣したが、流行は次第に激しさを増していった。
 41年6月、衢県のペスト撲滅のため、国民政府衛生署外国籍防疫専門官でペストの専門家であったポリッツアー(Robert Pollitzer)が派遣された。彼は臨時防疫処の検査科長を自ら担当し、防疫活動を指導した。
 衢県でのペストは、県城内の58の街から郊外農村の13の郷鎮に広がった。衢県のペスト流行は同年の12月になってようやく終息した。
 中国の統計によれば、41年に衢県県城地区で発生したペスト患者は281人、うち死者は274人である。
 このほか、衢県でペストが流行していた間、日本軍の飛行機が頻繁に県城を空襲したため、城内の住民は農村に疎開し、ペストは近代的な医療体制が全くなかった農村に広く蔓延した(次頁地図参照)。県城地区とその周辺農村をあわせれば、ペストによる死者は、1940年10月から翌41年12月の間に、少なくとも2000人にのぼった。 別紙の原告番号3ないし5、7、8、10ないし14の死亡者親族21名は、この1941年のペスト流行で死亡したものである。
 例えば、原告呉方根の父呉秋狗は、1941年4月初め、ペストに罹患し、頭痛を訴え、発熱して体温は40度余りに達し、顔が耳まで赤くなり、まもなく横になったきりで起きあがることが出来なくなった。同人は、両腿のリンパ腺は卵大に大きく腫れ、しだいに舌が回らなくなり、言葉がはっきりしないようになり、お茶や水をひっきりなしに求め、苦しがり、両眼もぼんやりとして、気息奄奄の状態で一昼夜苦しみ続け、遂に亡くなった。遺体は直ちに防疫係員によって運び去られ、身内による埋葬をすることは許されず、葬式もできなかった。
 また、1941年5月初めのある日、原告呉世根の弟陳小世根(9歳)が突然高熱を出した。同原告の両親は、最初風邪を引いたのだろうと思いこみ、漢方薬を探し治療に与えたが、3日間が過ぎて病状はますます悪化し、1週間も経たないうちに亡くなった。
 そして彼が死んで3日も経たないうちに、同原告の妹陳四英もこの病気に罹り、わずか5日で他界した。発病したときの同人らの様子は、1日中泣き続け、顔色が紫になり、高熱を発し、リンパ腺は腫れあがり、辛さのあまりに両手で至る所を引っかいていた(甲161)。

3 だが衢県のペストの蔓延は、市街地及びその周辺農村に止まらなかった。
それは義烏の市街地、さらに東陽市及び塔下洲を含む義烏周辺の農村にまで伝播することになる。

第3 細菌戦による義烏のペスト被害

1 1941年9月に始まる義烏市(当時義烏県、以下旧称を用いる)のペスト流行は、その前年に日本軍が衢州に投下したペスト菌の伝播によるものである。これ以前に、義烏でペストが発生した歴史事実はない。
 最初の発病者は、義烏県稠城鎮(県城)北門街に住む冠明(男、36歳)であった。同人は、浙p線の義烏駅に勤める鉄道員であったが、41年9月2日、おりからペストが流行していた衢州で感染し、9月5日、列車で自宅へ戻り、9月6日死亡した(次頁の地図参照)。これにより衢県で発生したペストは、義烏県に広がった。


2 1941年10月9日、義烏県衛生院は、県城北門第13保で急病による死者及び死者と同様の症状の患者が6人発生したこと、また病人の家や近隣で死んだネズミ数十匹が発見されたことを、県政府に報告した。これらの死者・患者の病状や死んだネズミの発見から、ペストである疑いが濃厚となった。
 これを受けて県政府は、同日、現地稠城鎮の各機関と協議して防疫委員会を設置し、10月11日に義烏県防疫委員会緊急会議を開催した。そこでは委員会の構成を決定し、予防注射の要員配置、隔離病院の設立、浙江省衛生処への要員派遣の要請、さらに宣伝の展開などが決議された。
 13日以降、義烏県衛生院の他に、軍政部防疫部隊、衛生署医療防疫隊、赤十字医療隊が稠城鎮に入り防疫活動に従事することになった。この中で10月半ば、軍政部防疫部隊が、細菌検査を行い、伝染病がペストであることを実証した。
 11月上旬、義烏県防疫委員会医務班も「真性肺ペスト」の発生を確認した。ついで翌42年1月、患者・死者の血液や肝臓・脾臓に対する検査が行われたが、その検査結果もペスト「陽性」を示した。
 1941年9月から42年2月にわたってペストが流行した県城では、1941年初頭にピークを迎えた。
 例えば、当時北門に住んでいた原告金祖池の家は、ペストのため封鎖された地区内にあった。その中で人々は皆、死の恐怖を感じて暮らしていた。外出を禁じられ、病人がでると、病人とその家族は隔離所に入れられ監禁状態に置かれた。そのため、祖母陳竹英が感染したときも公にすることはできず、こっそり医者を頼んだ。しかし、医者も感染を恐れて診に来てはくれず、祖母は苦しみの中亡くなった。そして母呉才英と妹金宝釵も感染して亡くなった。その後母の実家に生き残った兄弟と共に非難したが、家族の中にペストに感染した者がいることを防疫機関の人に知られてしまい、感染していない父まで避難所に連れて行かれたのである。
 また、原告陳知法の兄陳知松(当時25歳)が1941年12月3日ペストに罹り死亡した。翌4日父の陳應奎(当時56歳)もペストで亡くなった。同原告の家は、同原告の父と兄が荷物を担いで得た収入で生計を建てていたため、その働き手の2人が死んだので、たちまち貧窮した。2人の死で同原告の母が昼も夜も泣き続けたが、泣く事以外に何もできなかった。戦争中だったため、同原告の父と兄は、先祖代々の墓地に粗末に埋葬されただけだった。

3 しかし、義烏の防疫活動は、資金不足から患者発生地区の封鎖が遅れ、しかも部分的な封鎖しかできなかったこと、同じ時期により軍事的な要地である衢県にペストが流行し、そちらに防疫部隊がより多く投入されたこと、さらに赤十字医療中隊の隊長劉宗讌がペストに感染して12月30日に死亡したこと、などの諸事情から、困難をきわめた。このような状況のため、ペストは、県城北門一帯から、県前街、東門一帯などほぼ県城内全域に広がり、さらに小三里塘、嶺下、楊村など県城周辺や、同稠城鎮内の義駕山村、下付村、陳村、橋東村、ュ頭村、沈村、大水?村、そして蘇渓鎮の徐豊村や城西鎮の張村、稠関村、東河にまで波及した。
 翌1942年の3月までの流行の被害は、少なくとも死者230名にのぼる。
 義駕山村では、1942年旧正月頃にペストが伝播し、流行した。例えば、原告陳英芳の亡き父王六通は、大晦日から正月にかけての2日間の間に父、母、兄弟姉妹、従兄弟の8人をペストで亡くした。わずか2日の間に、8つもの新しい墓が並んだ。
 また、沈村に住んでいた原告朱桂蘭は、1941年10月から12月にかけて父、母、兄弟姉妹の5人をペストで亡くした。生き残ったのは、原告朱桂蘭と克明、冬蘭、克文の子ども4人だけになったため、昼になると原告朱桂蘭と克明は乞食に出かけ、暗くなってから帰る日を送った。ところが、雪が降ったある日、冬蘭と克文はペストに感染し亡くなった。
 義烏県城のペストは、隣の東陽市(当時東陽県)に伝播して41年10月から翌42年4月までに、少なくとも113名の死者を出した。
 さらに41年中に始まった義烏の農村地区の流行は42年に本格化し、佛堂、蘇渓、廿三里、平疇、青口、前洪、井頭山、官塘下、崇山などの鎮や村落に波及、44年4月に最後の死者が出るまで、2年8カ月にわたって流行が続いた。義烏県城と県城周辺の農村の被害を含めると、義烏県全体のペストの死者は、900名を越える(甲67、甲68、甲69)。
 別紙の原告番号47から59の死亡者欄記載の57名は、このペスト流行で死亡したものである。

第4 細菌戦による東陽市のペスト被害

 1941年9月に義烏県城に発生したペストは、前述したように防疫活動が困難をきわめ、流行地区は日々拡大していった。それに加えて、日本軍の飛行機は爆撃を重ね、城内の住民の多くが農村に疎開したので、12月末には流行は県城全域に及び、さらに郊外や隣接する東陽市(当時東陽県)に広がった。
 東陽市は、浙江省中部に位置し、西を義烏と接している。同市の歴史上唯一のペスト流行は、1941年10月から42年4月上旬に発生した。『浙江省鼠疫流行史』によれば、感染源は、義烏に働きに行った左官が、ペストに感染して八担頭村に帰ったもので、ペストは最初義烏市に近い八担頭村、ついで歌山村で発生し、急速に広がっていった。ペストはあわせて14の村で流行し、少なくとも117人が感染し、113名が死亡した。 別紙の原告番号60から61の死亡者欄記載の9名は、このペスト流行で死亡したものである。
 例えば、原告趙有中の叔父趙法春(当時36歳)は、体が丈夫だったにも関わらず、ペストにかかり、3日もたたないうちに急に病状が悪化して、11月2日には死亡した。 その後、同人と接触した原告趙有中の親族、友人および村人たちもペストに感染してしまった。ペストにかかった人の病状は、頭痛と高熱に見まわれ、目が赤くなり、のどが乾き、脇またはそけい部が腫れて、いらだって落ち着かない状況に陥った。病気にかかった人は医者に治療してもらったが効かず、全員死亡した。後には、ペスト感染者は隔離された。ペストで死んだ人は体が紫になり、口から血が出たり、白い泡が出たりした。死者は村の近くにある坂に埋葬された。

第5 細菌戦による崇山村のペスト被害

1 江湾郷の崇山村は、義烏県全体の中でも最大のペスト被害に見舞われた。崇山村は、北の上半分村と南の下半分村の2つに分れており、住宅は極度に密集して建てられていた。
 同村のペストは、1942年10月から爆発的に流行した。
 1942年10月14日、老哭皮(王煥章)が死亡した。その後の12日間に、王の嫁、息子、孫娘が死亡し、一家全滅となった。そして、王を看病した医師の王道生も死亡した(甲51の35頁)。彼は村で治療活動をしており、盛大な葬儀がとりおこなわれたが、葬儀に来た多数の人に感染した。そのため上半分村でペストによる死者が続出する事態となった(甲89)
 ペストが蔓延した当時、上・下の区域を超えた人の交流はほとんどなかったため、上・下半分村との間には流行の時期に差がある。上半分村では11月中旬に猖獗を極めた後、徐々に死者の数が減少し始める。12月上旬にほぼ流行が終結したかに思えたものが、12月に入ると今度は下半分村で死者が多く出はじめたのである。
 崇山村のペスト患者は、村はずれの林山寺や、あるいは同じく村はずれにある碑塘殿などに収容されたが、国民政府の防疫隊は全く活動できなかった。
 流行が終息する翌1943年1月までに死者の総計は396名にのぼった。これは当時の崇山村の人口1200人の約3分の1に相当する(次頁の地図参照)。
 別紙原告番号62から91の69名は、このペスト流行で死亡したものである。
 例えば、原告王麗君の家族の中では、兄(王煥興)と下の姉(王興妹)がペストに感染し、兄煥興は感染して5、6日後、姉興妹は3、4日後に亡くなった。上の姉と母も罹患したが、幸い2人は死に至らなかったが、大変苦しい思いをした。
 その主な症状は、発熱とのどの渇き及びリンパ節の腫れであった。兄は脇の下、下の姉は鼠蹊部が腫れた。助かった上の姉はリンパ節は腫れなかったものの食欲不振になり衰弱した(原告王麗君の陳述書)。

2 日本軍は、崇山村で流行した伝染病がペストであることを、その流行の当時、確定していた。
 1942年5月に始まった浙p作戦により、日本軍は義烏を占領し、9月2日には第13軍22師団86連隊の本部を県城内に設置した。また浙p作戦に随行し細菌戦を展開した1644部隊の隊員10数名も義烏に駐屯していた(甲65)。

 11月初旬、右の86連隊員と1644部隊員の調査班が、ペスト流行中の崇山村へ数次にわたり入村し「腺ペスト疑似症」と確認した。ついで近喰秀太大尉(甲59〜甲64、甲67)ほかの1644部隊の調査班が、埋葬されたばかりのペスト感染者の遺体を掘り出し、その肝臓から顕微鏡標本を作製してペスト菌を発見した。さらに、11月16日、義烏でペスト調査にあたっていた南京の1644部隊の調査班が、正式にペストであると断定した。近喰の回想には、崇山村村民に対して治療を行ったという記述が全くない。ひたすら疫病に関する情報を収集し、細菌学的検査の材料を採取しているだけであった。

 日本軍の崇山村ペスト調査の目的は、2つあった。1つは自軍へのペスト波及を防ぐため、もう1つはペスト感染者を生きた実験材料とすることである。
 前者の目的は、最終的に崇山村村民の家屋や財産を焼却することで達せられた。日本軍は、11月16日、ペストの断定を行ったその日に崇山村の家屋焼却を決定、2日後の18日、100名以上の兵員を派遣して同村を包囲し、村民に家屋から出るように命令した。そして午前9時頃火を放って、200余戸、400余室を焼却し、被災民は700余人を数えた。ペストによる死者は上半分村に多かったが、村の焼き払いの時には下半分村で患者が多く出始めていたために、放火された家屋は下半分村に多い。
 後者の目的は崇山村のペスト感染者の生体解剖を行うことで達せられた。日本軍はペスト菌種を確認し、人体を通して強力となった強毒菌を取り出すため、崇山村の中心から2キロ離れた林山寺に拠点を構え、そこを隔離施設として調査を行った。そして村の治安係を通じて、林山寺で治療が受けられると宣伝していた。最初は村人も治療が受けられると思い、患者を運んだ。ところがそこで、1644部隊員たちにより生体解剖が行われたのである。日本軍はペストが崇山村で発生したとの情報を得ると、すぐに村に人を派遣して視察させ、感染者を村外に拉致し、解剖して内臓を取り出し、散布した細菌の効果を検査した。また、村人の聞き取り調査から生きたまま解剖された例も挙がっている。
 1943年1月、ようやく崇山村のペストが終息したが、村の傷はすぐに癒えることはなかった。村は陰鬱な空気に包まれ、人々の表情からは生気が失われた。祠堂の1つである集奎堂には、家を焼き出された20家族が、1980年代前半までひしめいて住み続けざるを得なかった。こうした劣悪な住環境の中、崇山村の生産性は低く、蓄えもできず、いつまでたっても家を新築することができなかった。若者は陰気な村に嫌気がさして、機会があれば村を出ていく。こうして、生気を失った村は、リーダーシップも育たず、この状況を打破する力も失うことになった。

第6 細菌戦による義烏市塔下洲のペスト被害

 1941年中に始まった義烏の農村地区のペスト流行は、1942年に入って本格化し、1944年4月に最後の死者が出るまで、2年8ヶ月にわたって流行が続いた。 塔下洲のペストは、1942年10月に崇山村から伝播した。
 崇山村の原告王晋華の叔父である王樟高がペストに罹り、酒の醸造のため塔下洲に勤めていた父親王樟流を頼って逃げてきた。王樟高は、村の外にある祠堂に入れられたが、翌日そこで死亡した。ここから塔下洲でのペスト流行が始まったと言われている(次頁の地図参照)。
 2ヶ月も経たないうちに、村全体で死者は103人(男40人、女63人)にのぼった。これは当時の村の人口の5分の1を占め、被害は全部で50世帯に及んだ。そのうち一家全滅したのが9世帯、母が死亡した家庭が13世帯、父が死亡した家庭が3世帯、妻が死亡した家庭が8世帯、夫が死亡した家庭が3世帯、孤児だけが残された家庭が2世帯、子供が死亡した家庭が10世帯、老人だけが残された家庭が2世帯になる(甲307周洪根『陳述書』)。
 例えば、原告周洪貴の母王小妹、妹周宝菊、弟周小弟は、1942年11月、ペストによって死亡した。
 同原告の母が亡くなったとき、子供は泣きじゃくった。ペストで死んだことを日本軍にかぎつけられたら家を焼かれ解剖されると同原告の父が言ったので、その夜、ベッドの板に母の遺体を乗せて縄で縛り家族で担いで安山背に行き、ちりとりで顔を隠して鋤で埋めた。
 別紙の原告番号92から96の死亡者欄記載の21名は、このペスト流行で死亡したものである。 

第7 細菌戦による寧波のペスト被害

1 衢州、義烏(市街地)、同農村部及び東陽市と広がるペスト流行の原因となった衢州への細菌攻撃と同じころ、同じく浙江省の港湾都市、寧波に対してもペスト感染ノミが投下された。このため、寧波には突発的なペスト流行が起こったが、これ以前、寧波でペストが発生した歴史事実はない。
 1940年10月下旬、日本軍機は寧波市(旧称朶県)開明街上空に飛来し、小麦などとともにペスト感染ノミを投下した。飛行機が飛び去ったあと開明街一帯の商店の庭、屋根、水瓶、路上には小麦などが散乱し、生きている多量のノミも住民によって目撃された。

 10月29日、最初の患者が出た。開明街の入り口の滋泉豆汁店や、隣家の王順興大餅店、胡元興骨牌店及び中山東路(旧東大路)の元泰酒店、宝昌祥西服店、さらに東後街一帯で死者が相次いだ。

2 患者及び死者は日本軍機がノミ等を投下した地域の住民に限られていた。汚染区の地域は、北は中山東路に沿って224番地から268番地、西は開明街に沿って64番地から98番地まで、南は開明巷に沿い、東は東後街から北太平巷に接して中山東路224号へ続く一帯である。汚染区内商店43戸、住宅69戸、僧庵1戸の計113戸、人口591人であった (次頁の地図参照)。
 11月2日、華美病院(現寧波第二病院)の丁立成院長が、東後街136号の患者王仁林(男、47歳、同日死亡)のリンパ腺を突刺し、染色液を使って標本をつくり顕微鏡検査によって桿菌を発見した。桿菌は典型的なペスト桿菌状を呈していた。翌日さらに患者兪元徳(男、16歳、11月6日死亡)の血液とリンパ腺突刺液が採取され、モルモットを使った動物実験が行なわれた。翌日死亡したモルモットのリンパ腺穿刺液と血液から、やはりペスト菌状の桿菌が発見され、さらに細菌培養でも陽性の結果が得られた。その後培養物は省衛生処に送られ、呉昌豊技師が培養桿菌を検査し、血清凝集反応を行うと再び陽性の結果が得られた。このほか病院に殺到した住民たちの臨床診断(リンパ腺の腫れ、高熱、昏睡、頭痛等)の結果、寧波市開明街一帯で流行している病気は、ペストであることが証明されたのである。

3 11月3日、ペスト撲滅臨時事務所が設置され、高熱、昏睡の病人を発見し次第、同事務所に送ることが市民によびかけられた。同事務所は診断のうえ、患者を県城南門外に設けられた臨時隔離病棟へ送り、他の病院ではペスト患者を受け入れないことになった。

 しかし、この臨時隔離病棟は汚染区から遠く病人の搬送に不便なため、11月4日、改めて汚染区内に、重症者を収容する甲部隔離病院と感染の疑いがある者を収容する乙部隔離病院が設置された。なお、6日以降、甲部隔離病院には真正ペスト患者が、乙部隔離病院(のち汚染区外に移転)には、汚染区住民及び潜伏期間中と疑われた者が、さらに旧乙部に設置された丙部隔離病院には、汚染区外の感染を疑われた者が収容された(甲49)。
 隔離病院には総計約250人が収容された。甲部隔離病院に収容された61名は、11月末の時点で、2名を除く59名が死亡した。また乙部隔離病院に収容された127名は、潜伏期間を過ぎ、退院許可証を受けたが、このうち約半数は帰る家がなく院内に留まり続けた。
 例えば、原告胡賢忠の家族の中で最初にペストに感染したのは同原告の姉胡菊仙だった。11月の初め、同人は頭痛発熱し、顔が赤くなり、意識が朦朧とし、太股のリンパ節が腫れ、食欲がなくなり、水すら飲めなくなるほど体が衰弱した。同原告の母が同人にいろいろな薬を飲ませたが、病状は回復せず、発病からまもなく死亡した。
 しかし被害はそれだけでなく、同人の死から10日も経たない内に、同原告の弟、父と母が次々とペストに感染した。同原告の父は白い帽子と服に白い長靴を履いた防疫隊によって、重傷者だけ収容する甲部隔離病院に送られ、そこで死亡した。その後同原告の母も発病し、同じように甲部隔離病院に収容され、そこで亡くなり、同原告は瞬時にして孤児になってしまった。

4 この間、防疫活動も活発に行なわれた。すでに11月2日には汚染地域が封鎖され、4日、県政府は同地区の厳重封鎖を告示した。6日には、朶県防疫処が成立して防疫体制が整えられた。8日から、汚染区の周囲に高さ3・7メートルの壁をめぐらす工事が着手され、突貫工事によって11日に完成した。このほか排水土管の破壊、暗渠の埋立てなどの工事が行われ、汚染区域は硫黄の薫蒸などによって消毒された。中央政府や省政府から防疫隊、防疫担当官が到着し、ペストワクチンの予防注射も、本格的に行われるようになった。
 だが、ペストの死者が出ると汚染地区内の住民は、伝染病を避け実家へ戻ったり、親戚友人を頼って区外へ出た。県防疫処は設立と同時に、伝染病の蔓延を防ぐため、汚染区外に出た住民や感染者を専門的に捜索する捜索隊を組織した。この捜索は成果をあげ、多くの患者や汚染地区の住民が県外で発見され、連れ戻されたが、それでも汚染区外での死者は32名にのぼった。
 11月30日夜、開明街の汚染区のすべての家屋の焼却が断行された。消毒作業だけでは菌を撲滅できなかったからであった。焼却は夜7時に始まり、汚染区11カ所に同時に点火、4時間後汚染区内の建物はすべて燃え尽きた。焼却家屋は113戸、部屋数137室、面積約5000平方メートルであった。
 こうした防疫活動が功を奏し、12月初めに最後の患者が死亡したのち、寧波のペスト流行は終息した。死者の合計は、少なくとも109名であった(甲50)。
 別紙の原告番号103から105の3名は、このペスト流行で死亡したものである。 この他、汚染区の住民約500人は、住む家や生業(商店経営)を失い、路頭に迷うものも多かった(甲3の169頁〜176頁)。

第8 細菌戦による常徳のペスト被害

1 1941年11月、湖南省常徳市(当時常徳県、以下旧称を用いる)でペストが発生し、翌年になって市街地(県城)のみならず、農村部と桃源県に波及した。1941年以前、これらの地域でペストが発生した歴史事実はない。
 同年11月4日、731部隊の航空班増田美保少佐が操縦する97式軽爆撃機から、ペスト感染ノミとそれを保護する綿・穀物などが投下され、県城中心の関廟街・鶏鵝巷一帯、および県城東門付近に落下した (次頁の地図参照)。
 投下されたノミが直接人間を噛んだことから、常徳のペスト流行が始まった。ペストの潜伏期間を過ぎた11月11日から、ペスト患者が出始めた。関廟街に住む12歳の少女(蔡桃児)が最初の犠牲者となった。同人は、広徳病院(長老派宣教病院)に運び込まれ、翌日死亡した。同院の医師譚学華と検査技師汪正宇は、すでに日本軍機から投下された綿や穀物を検査し、ペスト菌に形態学上類似している細菌を発見していたが、同人の解剖の結果、やはり同様の細菌が発見された(甲71、甲73〜甲75)。
 さらに、11月13日から14日にかけて4名の高熱、鼠径腺の腫れなどペストの症状を示す患者が死亡し、いずれも解剖の結果、ペスト菌に類似した細菌が発見された。
 報告を受けた国民政府は、ペストの専門家である陳文貴らの調査隊を派遣した(同人は、1936年、国連衛生部の招きでインドのハッフキン研究所に赴きペスト研究をした細菌学者であった)。陳文貴は、11月25日、その前日に死亡した5番目の患者(男、28歳)を解剖し、細菌培養、動物接種などの実験を行い、同患者が真性腺ペストにかかり、ペスト菌のひき起こした敗血性感染によって死亡したことを医学的に証明した(甲70、甲72)。またこの頃には、常徳防疫処が発足し、ペスト発生地区の封鎖、隔離病院や検査所の設置、予防注射の実施などが実施に移された(甲36の154頁)。
 なおこの後、前出のペストの専門家で、国民政府衛生署外国籍防疫専門官であったポリッツアーが、12月21日常徳に到着し、調査研究を開始した。ポリッツアーも、12月30日付の衛生署長宛報告で、あらゆる観察と考察から、常徳における最近のペストの流行が、11月4日の飛行機の攻撃と関連があることを疑う余地はない、と結論を下している(甲77の83頁、甲93の1)。
 常徳県城のペスト流行によって、1941年11月から翌42年1月までに少なくとも65名の死者が出た(1998年12月、調査委員会。甲92、証人聶莉莉作成「鑑定書」88頁)。
 例えば、原告朱九英は、1941年当時、夫と子供3人の一家5人で、日本軍731部隊がペスト菌を投下した常徳の鶏鵝巷に住んでいた。夫は川で水を汲んで売り歩き、朱九英は子供2人を連れて乞食をしていた。鶏鵝巷では、ペストによって多くの死者が出た。1941年11月中旬、2人の子供、C緒武とC緒文が発病した。翌日、常徳の河で船を借り、夫の実家である漢寿県の新興咀郷高家村へ行こうとしたが、途中でC緒武が死亡した。夫はすでに死んでしまっているC緒武と、死にひんするC緒文を背負い、朱九英は娘の手を引いて故郷に向かって歩いた。ようやく村に着いた時、2番目の子供C緒文も死亡した。

2 1942年2月には患者は発見されず、この時点で終息したかに見えた。だが、同年から、常徳県城(市街地)内においてペスト感染ネズミが増大し始め、このネズミ間の流行が、第二次流行を引き起こした。
 同年3月から7月にかけて、常徳県城内で34名の患者、28名の死者が報告された。ただし、これらの数値は病院か隔離病院に収容されたものだけであり、実際の患者数のごく一部にすぎない。なぜなら、ペストによる死者が発生しても、家族は自分たちも病院に収容されることを恐れ、遺体を密かに埋葬したため、当局に報告されないことが多かったからである。
 なお、第2次流行は、ネズミの調査から予想されたため、常徳防疫処は常徳から移出される物資の検査、交通の要所への検疫所の設置、戸別の予防注射などの措置をとり、国民政府はあらかじめ防疫部隊を派遣した。第2次流行が現実のものとなるや、防疫活動はさらに強化されたが、それでも農村部への波及は防げなかった。
 例えば、原告張礼忠の家族は、常徳市街の中心にある高山巷口長清街で印鑑彫刻店を営む裕福な一家であった。1942年4月、女中の毛妹子が発病し、続いて5人の息子のうち2人が発病した。医者に見せたところペストだろうということで、毛妹子は実家に送ったが、翌日死亡、2人の息子も翌日死亡した。さらに原告の祖父は、韓公渡に住んでいたが1943年に韓公渡で流行したペストに感染し、死亡した。こうした中で、原告の父と祖母も傷心のあまり死亡するなど、雇人を含めて13人の大家族だった張一家は、原告とその母、弟の3人だけとなり、乞食のような流浪生活を送るようになった。
 証人中村明子は、これらの被害が二次流行であった点について、鑑定書(甲93の1)において、次のように指摘する。
「常徳におけるペスト流行では、ヒトにおける一次発生に先立って、死亡したネズミが発見されたという記録がない。ネズミの死骸が発見されていないのは、自然流行としての発生形態をとっていない可能性を示すことになる。一方、1942年3月末からの二次流行では、ヒトにおけるペスト流行に先立って感染ネズミが大量に発見され、ヒトにおけるペストの流行に繋がっている(S.H.Wang、常徳ペスト患者数とネズミの感染率の関係、図2参照)
 常徳において感染ネズミが初めて発見されたのは1942年2月4日で、その後、3月23日まで感染ネズミの数は増加の一途を辿っている。二次流行における初発患者は3月20日に発病しており、感染ネズミの発見から46日目である。感染ネズミの数は4月2日まで増えつづけ、4月2日をピークとして減少に転じ6月中旬まで減少傾向が続く。3月20日に初発患者が発病して以降、二次流行の患者も増えつづけ、4月13日に3名の発病、同14日に2名の発病など、4月中旬をピークとして患者発生は減少に転じ、6月13日発病の患者を最後に二次流行は一先ず終息した。その後も、常徳・桃源地方においては詳細な疫学調査が続けられた。その結果、同地域での患者発生はみられていないが、ペスト感染ネズミは低率ではあるが引き続き検出されていることが判明した。
 ペスト感染ネズミの存在は、ペスト流行の危険性が潜在していることを意味する。」(甲93の1の44頁)

3 1942年3月以降、常徳の市街地で流行したペストは、農村部へと伝播し、広範な地域に被害を及ぼした。
 市街地の近郊農村では、市内で働いていた者、商売で出入りしていた者、あるいは、市内に住む家族や親戚を訪問した者が感染した。国民党軍に徴用され、市内の駐屯地で感染した者もいる。彼らの多くは、農村に帰宅途中で発病したり、発病後農村に帰って死亡した。そのため、ペストは村の中に伝染し、さらに近接する農村に伝播していった。
 市街地近郊の農村では、河伏鎮、南坪崗郷、芦荻山郷、東効郷、許家橋郷、斗姆湖鎮、徳山郷、石門橋鎮、漢寿県聶家橋など多くの村でペストが発生した。
 河伏鎮合興村は、全世帯が李姓宗族によって占められている人口56人ほどの小さな集落であった。1942年9月に、酒の商売のため常徳市街に出入していた李伯生が市内で感染し、村に戻ってまもなく死亡した。この地域では、病人が出ると、宗族の成員が見舞いや、看病を手伝い、また人が死ねば、みんなが葬式に参列する慣習があった。こうした宗族間の付き合いがペスト伝染のルートとなり、李伯生の家族が相次いで発病し死亡している最中、李伯生の葬式を熱心に手伝った李高生家にも死者が出始め、8人家族のうち6人が死亡した。合興村は、人口56人の小さな村であったが、ペストの流行で、1週間足らずの間に、17人が死亡した。
 芦荻山郷伍家坪村は、別称「朱家大院」(朱家の大きな庭の意味)と呼ばれる朱氏宗族が聚居した村で、当時の人口は129戸600人ほどであった。
 1942年5月(旧歴)に、常徳の市内で下宿をし「挑河水」(水汲み労働者)をしていた朱唐児がペストに感染して倒れた。同じく常徳市内で出稼ぎをしていた3人が朱唐児を担架で村まで運んできたが、村に着いた日の夜、朱唐児は死亡し、翌日、担架を運んだ出稼ぎの3人も死亡した。それから、ペストは急速に村全体に広がり、半月ほどの間に約200人が亡くなった。残った人も他の地域に逃げて行き、村の人口はわずか10数人になってしまった。
 もともと伍家坪村は、朱家宗族の勢力がますます拡大する趨勢にあった村落だったが、ペストの発生による打撃は余りにも大きかった。周囲の村は、娘をこの村に嫁がせたがらず、ペスト流行から20年経った1962年でも村の人口はわずか42人であった。それから36年経った1998年でも、戸数20戸人口130人である。
 常徳市街地の北西約30kmに位置する石公橋鎮を中心とする、洞庭湖の西に拡がる平野地帯でも広範な地域でペストが発生した。
 石公橋は、古い歴史をもつ町で、沖天湖という湖に囲まれた町は、長さ約1kmの通りを中心に南北に細長く広がり、通りの両側には300以上の商家が立ち並んでいた。1940年代初期、町の人口は2000人ほどであった。
石公橋は、当時、湖南省の北部、西部にまたがる地域に名が知られた物産の集散地で、各県からの商人が往来し、各地域の特産品を運んでくると同時に、常徳の米や綿花、水産品を各地に運んでいた。
 また石公橋はこの一帯の経済的な中心で、周辺農村からも多くの人が出入りした。そのため石公橋で発生したペストが、周家店、中河口、鎮徳橋、韓公渡などの周辺農村に伝播していった。
 石公橋では、1942年10月、南北に走る街道沿いの商店、特に魚屋、肉屋、米屋、油屋、醤油屋、食品雑貨店などで大量のネズミの死骸が発見された。それから数日後にペストによる死者が出始めた。
 石公橋でペストが発生すると、常徳防疫所は医療隊と防疫部隊を派遣し、交通封鎖を実施した。医療隊の中にはポリッツアー医師がおり、検査によって、ペスト菌を確認した。

 しかし、ペストの伝播をくい止めることはできず、石公橋の町で発生したペストは、石公橋の農村部、さらに、周辺の広範な地域に拡大していった。
 石公橋の街道沿いに南北に連なる街の、橋北街と呼ばれる北部で最初にペストが発生した。
 原告熊金枝の祖母の陳三元が最初に死亡し、まだ葬式も終わらないうちに、隣の花紗屋(綿花、綿糸、綿布)、米屋、魚屋をやっていた丁長発が発病し死亡した。続いて丁長発の家族が次々に発病し、奉公人も含めて一家のうち11人が死亡した。他の所でペストを避けていた息子の丁旭章と嫁の李麗枝だけが、生き残った。
 さらに隣接する多くの商家でペストが発生し、石公橋の橋北街全域で160人の死者が出た。
 石公橋の北約10kmにある周家店は、米の産地であると共に、広大な湿地、沼地帯で魚を獲ったり、薪を採取して生計を立てている人が多かった。周家店の物産は、そのほとんどが石公橋に運ばれた。また、石公橋で働いている人もおり、こうしたルートを通じてペストは周家店全域に伝播した。
 例えば、原告呉光才の姉呉桂珍とその夫の王寿安と従姉妹の王叔蘭三人は、洞庭湖内・夾堤章・趙家当などで魚を獲って生活していた。獲った魚は石公橋の丁長発の魚屋に売っていた。1942年12月中旬、呉桂珍は魚を売って米を買うために石公橋に半日ほどいたところ、家に帰る途中発病し、翌日未明、死亡した。さらにその翌日、王寿安と王叔蘭も発病し死亡した。当時幼児であった原告呉光才自身もペストに感染したが、両親が、常徳の広徳医院(外国人経営)が派遣した医療隊が作った石公橋の臨時病院に運び、治療を受けたため一命をとりとめた。
 周家店の沼地、湿地地域には、周囲の各県や遠くの地方からも貧しい農民が流入し、漁や芦の採取で生計をたてていた。この地域のペストは伝染のスピードが速く、大量の死者が出た。ペストが流行すると、帰る故郷がある者は逃げたが、帰る家がない者がペストにかかって死亡し、死体はそのまま放置された。荒沼で一時880もの放置された死体があった。
 周家店の東部にある沼地地域だけでなく、西部の農村地域にもペストが伝播した。 石公橋に近い九嶺村では、原告向家振の父向道同が搾油所を経営し、80人ほどの向氏宗族が暮らしていた。この周囲では搾油所がここ1軒だけだったので、周家店以外の地からの人の出入りも多かった。搾坊の奉公人向道伍が店の用事で石公橋に行き、帰ってくると発病し死亡したのが最初だった。それから向道同一家、さらに向氏宗族にペストは急速に伝染し、向氏宗族中47名が死亡した。
 周家店の細菌戦被害調査委員会の報告によると、調査した周家店鎮の17の村落で、死亡者は1258名にのぼる。 
 常徳の市街地近郊だけではなく、離れた農村でも、市街地に出入りした者が感染することによってペストが伝播した。
 黄土店鎮は、市街地の南約36kmにあり、水運の便利さもあって、常徳と周辺の漢寿、桃源、安化、桃江などの県を結ぶ交通の要所であった。そのため行商人がよく往来したほか、前線から逃げてきた国民党軍隊の脱走兵、日本軍占領地からの難民、流浪する「要飯的」(乞食)などが往来した。これらの人々が常徳市街地で感染し、ペスト菌をもちこんだ。
 例えば、原告梁在全が住んでいた青龍井村では、国民党軍の脱走兵が楊正栄の家でお茶をごちそうになった後、その日の夜ペストで死亡した。その後楊家でペストが発生し、子供4人が死亡した。それから多くの家にペストが広がり、原告梁在全の父と妹も死亡した。
 桃源県馬□嶺丘丘陵地帯の莫林郷李家湾村は、常徳市街の北西20数kmに位置する山間の小さな集落で、10数家族の李氏宗族が聚居していた。
 1942年の5月、豚の商売をしていた李佑生は、常徳市街に行き、家に戻った翌日に倒れて、数日後に死亡した。それから李氏宗族にペストが広がり、15名が死亡した。
 以上の他、大龍嫋、断港頭、白合山、肖伍鋪、銭家坪、瓦屋当、沛子港、黒山嘴、黄珠洲、洲口、衝天湖、太平鋪 、毛家灘、丹洲などでもペストが発生した。全体で約152の村に伝播し、その結果、常徳市全体の細菌戦被害の死亡者は、1945年11月までに、少なくとも6491名にのぼった。その後の調査で、死亡者はさらに増え、2000年11月時点で7643人になっている(甲92)。

第9 細菌戦による江山のコレラ被害

 江山市(旧称江山県)は、浙江省が江西省と境を接する付近、つまり浙江省では最奧の都市であり、江西省の玉山市とは浙p鉄道で近接している。

同地に対し、日本軍は、1942年、浙p作戦の際に、細菌攻撃を行った。
 すなわち日本軍は、浙p作戦で1942年6月11日、江山県城を占領し、8月21日に撤退した。この時、日本軍は、県城近くの清湖から県城にいたるまでの一帯に、細菌を撒布し、多数の被害者を出した(前頁の地図参照)。
 撒かれた菌は常山と同じくコレラ菌であり、やはり@井戸に直接入れる、A食物に付着させる、B果物に注射する、という3つの方法が用いられた。
 このうち、Aの食物とは餅状のものであった。江山の人々は、日本軍の細菌戦とは思いもせず、これを拾って食し、被害に遭っている。
 たとえば、県城近郊の蔡家山村の鄭蓮妹(女、1933年生まれ)の養母(52歳)は、隣人が持って来てくれた餅状の食物を食べ、腹痛を起こした。さらに、嘔吐と下痢が始まり、下痢は水様のものに変化して脱水症状を起こし、青黒い顔になって翌日夜に死亡した。症状は典型的なコレラのそれであった。
 このコレラ流行で、江山では少なくとも約100名が死亡した。別紙の原告番号172から180の13名は、このコレラ流行の被害者である。
 当時の州の医療防疫機構と施設は、日本軍によって致命的に破壊されていた。医者不足と薬の欠乏が甚だしく、しばしば防疫治療の仕事は断念せざるを得なかった。このため、短期間に伝染病が大流行したのである。

第10 戦後まで続いたペスト被害と現在まで続くペスト防疫活動

 ペスト等の流行は、衢州では1948年11月まで続く(証人邱明軒調書4頁)など、各地区の被害が戦後も続いた。
 また、各地区のペスト等の防疫活動は、ネズミの保菌調査等が現在まで続けられている(証人邱明軒調書10頁、証人黄可泰調書16頁)。


第4章 本件細菌戦の残虐性

第1 ジェノサイド兵器としての細菌兵器の残虐性

 周知の通り、国家が発動する戦闘行為においては、敵軍隊を撃退し、その軍事的能力を解体すること以上の行為は禁止されている。したがって、敵兵も捕虜になったものについては、国際法上の保護が与えられるし、非戦闘員たる一般住民に対する軍事的攻撃は禁止されている。
 ところで、細菌兵器は、ペストやコレラ等の感染症の病原菌を、敵側の人間に感染させて、人間を殺傷する兵器である。このような細菌兵器は、それが国家が行う戦闘行為の手段である以上、国際人道法による規制を受ける。蓋し、細菌戦は、非戦闘員たる一般住民の大量虐殺を目的とした戦闘行為だからである。例えば、1925年のジュネーヴ条約を初めとする国際法は、細菌兵器の使用を禁止している。
 ところが、731部隊は、細菌戦によって、明らかに軍事的拠点でもなく、また軍事的目標も存しない中国の普通の一地方都市や農村に対して、あるいは戦闘機からペスト感染蚤を投下せしめ、あるいは地上で謀略的な手口をもちいてコレラ菌入りの食物を食べさせるなどして、平穏に暮らす中国の民衆を大量に虐殺したのであった。
 このような731部隊などの日本軍の細菌戦部隊が行った細菌戦の残虐さは、ナチスのアウシュヴィッツの残虐さに優るとも劣らない、実に恐るべき残虐行為と言わなければならない。
 国際法が発達した今日では、このような集団殺害行為は、国際法上のジェノサイドに該当するものである。
 細菌兵器は、少量が使用されても大きな破壊力と潜在力をもっている。その破壊作用は長期間にわたり、1度おさまっても、再び3度流行することもある。
 細菌の大量培養による細菌兵器は、第1次世界大戦中、ドイツで開発が着手されたが、細菌兵器の本格的な開発、製造、実戦使用を行ったのは日本軍の731部隊などの細菌戦部隊がはじめてである。
 細菌兵器は、その開発過程において不可避的に残虐な生体実験を内包する。
 周知の通り、731部隊は、1933年、日本が植民地支配を行っていた旧「満州国」ハルビン市郊外の平房に接収した610ヘクタールの広大な土地に本部を置き、各種細菌の培養・製造室、蚤・小動物(細菌媒体)の飼育室、特殊監獄、専用飛行場、宿舎等の大規模施設を建設して、チフス、コレラ、赤痢、ペスト、炭疽、凍傷などの研究・培養を行った。その際、常時20「マルタ」すなわち捕虜を生体実験に用いて前記各種の細菌を培養し、細菌兵器を開発・製造したのであった(甲35)。
 細菌戦がもたらす被害の特徴は、後述するとおり、その無差別性と致死率の高さにある。731部隊の用いた細菌兵器は、致死性の高いペスト菌またはコレラ菌である。これらの細菌が引き起こす病気は激しく、長期間流行する。1家族、1地域の大半が全滅する例が多い。
さらに細菌戦のもたらす被害の特徴は、伝播により被害範囲がどんどん拡がるということにある。被害範囲は、人や鼠の蚤を介した病原菌の伝播により、直接の攻撃対象地区にとどまらず、周辺の地域にどんどん拡がっていく(甲22、甲23、甲25)。
 日本軍は、平房などで行われた大量の捕虜を使った人体実験によって開発された細菌兵器を、戦争史上初めて、大規模に実戦使用したのであるが、生体実験の残虐さと、細菌戦の残虐さは、表裏一体をなすものである。

第2 本件細菌戦による被害の重大性

 1 細菌戦による都市、村での疫病の流行

 日本軍は、細菌戦の実行で、生体移植により毒性を強めたペスト菌、コレラ菌等を大量に生物兵器として生産・使用し、中国全土の村や都市の住民間にペストなどの疫病を流行させた。狙いは非戦闘員たる住民の大量虐殺にあった。このような日本軍による細菌戦は、中国民衆に対する徹底した民族差別と排外主義に基づくものであった。
 日本軍による本件細菌戦が行われている最中、1942年3月に関東軍軍医・牧譲軍医中佐は、「細菌戦について」という講演の中で次のように語っている。
 「全般的には兵站に絡んでいることになる都市を攻撃して、都市をひどい目に遭わす。これは将来相当やられる問題であります。軍隊関係のものには、直接しないで大きな都市に伝染病を流行らしてゆく」「細菌戦の狙い所の1つは、後方を混乱せしめて精神上に困ったことになったと言うような観念を敵に与えることで、大きな都市をうんとひどい目に遭わすということがある訳であります」
 牧はこの他に攻撃対象として、軍隊、物資の兵站補給地、軍事要塞、水道水源地、軍需工場、牧畜や農産物扱い所をあげている。(満州帝国軍医団『軍医団雑誌』。甲29の198頁)
 細菌兵器は、人間、家畜、農産物など、生命あるものだけを殺傷する、最も残虐な大量殺戮兵器である。日本軍は、無差別に大量の住民を虐殺する、人類史上、最も残虐で卑劣なジェノサイドを中国民衆に対して行ったのである。

2 被害者は一般住民である

 原告らの肉親たちは、都市あるいは農村の住民であったが、731部隊の細菌兵器により、ペスト、コレラなどに感染し、あるいは汚染地区からの伝搬により感染したことにより、もがき苦しんだ後死亡した。あるいは原告ら自身が罹患した。
 また、彼らの家屋は、防疫のため焼燬・破壊された。例えば、義烏では、ペスト流行地域は疫区として封鎖され外出禁止となり、1人でも病人が出ると家族全員が隔離の対象となった。いったん隔離所に入ると生還する望みを絶たれるも同然であった。罹患すると医師すら恐れて治療を拒否した。患者は脇の下や鼠径部のリンパ腺が腫れ上がり高熱と乾きに苦しみぬいて短期間のうちに死亡した。
 また細菌戦部隊は、作戦後、被害地区に「防疫」の名目で入り込み、その疫病に苦しむ住民を生体解剖して、細菌戦の効果を確かめるなどした。細菌戦の被害を被った中国民衆は、筆舌に尽くしがたい苦しみを受けたのである。

3 高い致死率と鼠、蚤、人を介しての強い感染力

 細菌兵器に使用されるペスト菌は、感染経路によって、腺ペストや肺ペストなどの症状を呈する、非常に強烈な病原体である。
 腺ペストは、蚤などを通して菌が人体に入り感染する。熱と悪寒がして虚脱状態を呈する。そして炎症性のはれものがリンパ腺にできる。とくに足に菌が入ることが多いので鼠けい部のリンパ腺にできる。
 肺ペストは、泡沫伝染で菌が呼吸器官に入って、肺炎に似た症状を起こす。泡沫喀痰に大量の菌がある。
 ペストにかかると、2、3日で死亡する。出血がひどく、死体は黒色を呈するので黒死病といわれる。どんどん伝染し、伝染が始まると、これを撲滅するのが難しい病気である。伝染病の中では死亡率が最も大きい。
コレラは、消化器官を冒す病気である。おう吐・下痢の非常に激しいもので、腹痛、けいれん、虚脱を引き起こすといった特徴がある。コレラ菌は、水や食物から口に入ってくる。とくに魚介類が汚染されて伝播する場合が多い。
 コレラも死亡率が高いうえ伝染力も非常に強い病気である。

4 治療など防御方法の困難さ

細菌兵器は、爆弾のように、いつどこに何が使用されたかということがすぐには判明しない。病気が流行しても、細菌兵器によるものか否かが直ちに判明するわけではない。 しかも、細菌兵器に用いられた病原菌は、人に感染しても潜伏期間があるため、原因究明が遅れる。病気が発生しても、個体差があるため、使用された病原菌の特定が容易ではない。
 寧波においては、1940年10月27日、日本軍の飛行機が大量の小麦粉や麦粒を投下した後、市内でこれまで見たこともない真っ赤な蚤が大量に飛び跳ねているのが発見された。10月30日初めての死者が出た後、患者が続々と病院に駆けつけたが、最初、悪性マラリアか横根と誤診された。
 最悪の伝染病であるペストの確実な診断とその公表は、いかなる医者も事の重大性を認識しているがゆえに、慎重のうえにも慎重を期す。最初にペスト菌が発見されたのは、11月2日になってからであった。
 同日、県政府と予防委員会は、汚染地域の封鎖を決定したが、それほど厳重なものではなく、汚染地域からは逃亡者が続出した。その後消毒作業が行われたが、11月末に汚染地域の建物は焼却された。
例えペスト菌が発見されたとしても、感染を防ぐことは難しい。ペストの被害は直接に撒布された地域に限定されず、人や鼠を媒体として各地に拡がった。 例えば、本件原告らのうち義烏、東陽、塔下州のペスト被害は、衢州に投下されたペスト被害が拡大したものであり、また、常徳の場合も、市街地から、周辺農村地区へペスト流行は伝播している。
しかも、ペスト菌は、1回病気の流行が下火になっても、感染した鼠がいると再流行する。鼠に付着した蚤の行動する時期になると、再度、流行することになる。感染した鼠を撲滅するのは困難で、何十年と長期化する(甲105の1、松村高夫作成「鑑定書」85頁以下参照)。

 5 自然環境の破壊
このように病気が発生すると、治療が困難で、感染した人を隔離して、感染を拡げないようにしたり、家屋、建物類を焼却することが、最善の防御方法になる。しかし、感染を防いだり、病原菌を完全に撲滅することは不可能で、1度被害にあうと、その影響は長期間にわたって、人間社会のあらゆる側面に及ぶ。 細菌戦による被害は、人間の命を奪い、衣食住の環境を汚染し、さらに、人間が生きるための条件である広範な地域の自然環境の汚染となって、地域住民に影響を与える。

 6 地域社会を破壊

 こうした環境破壊とともに、細菌戦の被害は、人間の社会的関係の破壊となって影響を与える。隔離されたり、封鎖された地域の人々は、例え病気が治癒したとしても生活の手段を奪われる。また、伝染病が流行した地域は、長期間にわたって、不潔で危険な地域とみなされて、差別される原因になる。
 伝染病は、人々を隔離したり疎開させたりすることによって、人と人の交流を困難化させ、生き残った人の生活をも破壊していくのである。
証人中村明子は、この点について、鑑定書(甲93の1)において、次のように指摘する。「細菌を兵器として用いる場合は、その形式の如何にかかわらず、細菌の散布後直ちに人が感染・発症するのでなく、使用した病原微生物に固有の潜伏期間の後発病する。したがって「原因」となる攻撃と、「結果」としての被害の関係は、攻撃後直ちに表われることはない。
 病原微生物を攻撃に使用した場合には、攻撃に引き続いて伝染病が発生する。伝染病は現代社会でも忌み嫌われ、病気に罹った人を隠そうとする心理が働く。隠匿された患者は感染源となり伝染病を周辺地域に拡散し、長期間にわたって被害を広げることになる。 伝染病の対策にとって最も厄介なのは患者の隠匿である。
1994年インド西部のスラートで発生し、世界中を震撼させた肺ペストの流行では、感染者も含まれている可能性のある住民の逃亡であった。当局は患者の発見と治療に全力を傾注し流行の制圧に成功したのである。 
 常徳におけるペスト流行は、日本軍によるペスト菌で汚染された投下物によって引き起こされた疑いが濃厚であり、投下物はペスト感染ノミの可能性が高いことが、ペスト発生時の調査資料と、資料に基づいて書かれた各種報告書、および加害の証拠ともいうべき「井本日誌」の解析から明らかになった。
 1941年から1942年当時の常徳および近郊におけるペストの流行では、届けられた患者は流行の一部であり、隠匿された患者が数多く存在していたに違いない。当時のペスト流行の防疫対策の一つは、汚染家屋の焼却である。営々として築きあげてきた先祖代々の家を守るためには、患者を隠すことに罪の意識はないはずである。 
 ペストの流行では、人への感染経路にネズミなど小齧歯類のペスト流行が加わるため、感染経路がさらに複雑になり、細菌戦との因果関係の特定を難しくする。
 しかし、前述した桃源県莫林郷での肺ペストによる流行は、ペストの二次流行が起こっている最中の常徳から莫林郷に戻ってきた男性が初発患者で、周囲のひとびとにペストを移し、16人が死亡した。常徳県新徳郷石公橋・広徳郷鎮徳橋におけるペスト流行は、1942年11月に発生し、判明しているだけでも36名がペストで死亡した。いずれの流行も、常徳での流行後防疫対策の手薄であった農村部へ流行が波及したものと考えられる。
 ペストを細菌戦に使用することの残虐性は、致死率の高いペストに罹患した個人の肉体的・精神的苦痛はもとより、感染の危険に曝されながら看病する家族の怖れであり、地域住民の怖れである。患者の発生した家では、地域社会からの孤立感をもたらすことにもなる。伝染病の流行では、加害と被害の因果関係が明確に示されにくいために、ペスト流行によって地域住民の間に疑心暗鬼が醸成され、人々の生活が破壊される。
 細菌戦の最大の残虐性は、地域社会の崩壊をもたらすことにあるのかもしれない。」(甲93の1の57頁)
 細菌戦の残虐性は、伝染病によって人々を殺傷し、パニック状態に落とし込めるというだけでなく、長期間にわたって、地域社会を根底から破壊していくという点にある。原告ら、細菌戦の被害地住民にとって、細菌戦による被害は、戦争一般による被害には解消できないものである。原告ら被害者にとって、何十年経とうと、その受けた被害を癒されることはないのである。

 7 以上の通り、日本軍による細菌兵器を使ったジェノサイドの被害は、ナチスのアウシュビッツでの残虐さと同罪であり、過去に例がないほどの残虐なものであった。


第5章 井本熊男業務日誌による細菌戦の自認

第1 井本熊男の業務日誌の発見

1 日本軍が行った細菌戦の事実は、被告による徹底した隠蔽工作にもかかわらず、遂に1990年代半ばになってから、急速に解明されるようになった。
 細菌戦の事実が解明されるようになった最も決定的なきっかけは、吉見義明中央大学教授と伊香俊哉立教大学講師が、被告(防衛庁防衛研究所図書館)の保管する
@ 井本熊男大佐の業務日誌(全23冊)
A 金原節三軍医大佐の「陸軍省業務日誌摘録」(全35冊)
B 大塚文郎軍医大佐の「備忘録」と題する日誌(全13冊)
C 真田穣一郎少将の業務日誌(全40冊)
等の中から、細菌戦に関する重要な記述を発見し、1993年12月、その内容を公表したことである(各将校の階級は最終のもの。甲1の8頁)。
 右に発表されたもののうち、とくに大本営参謀本部作戦課員や支那派遣軍参謀等を歴任した井本熊男(以下、「井本」という)の業務日誌(以下、たんに「井本日誌」という)は、細菌戦に関する日本軍側の記録として一級の証拠価値を有するものである。

2 井本の経歴は、大本営参謀本部作戦課員(1935年12月ないし1939年9月。1940年10月ないし1942年12月)、支那派遣軍参謀(1939年9月ないし1940年10月)等である(甲19の1、2)。
 重要なことは、井本は、1935年12月に大本営参謀本部作戦課に配属されて以降、一貫して、細菌戦に関して731部隊等の細菌戦部隊と陸軍中央側で連絡をとる担当だったことである(甲14、甲15の1)。
 証人吉見義明は、井本と731部隊の関係について、鑑定書(甲91)において、次のように指摘する。
「井本元大佐と細菌兵器の実戦使用との関わりは、1939―1940年における支那派遣軍参謀時代から始まる。すなわち、1940年6月5日、参謀本部作戦課の荒尾興功中佐、関東軍参謀副長の秦彦三郎少将、中支那防疫給水部隊の増田知貞軍医中佐と細菌戦実施の協議を行っているが(『井本日誌』同日)、以後、支那派遣軍参謀部第1課の作戦担当参謀として細菌戦実施をも担任していく。
 1940年10月には、参謀本部作戦課に転任するが、ここでも細菌戦実施関係は井本少佐の担任事項の一つとなった。そして、細菌兵器の実戦使用に際しては、参謀総長の指示(命令)である『大陸指』(大本営陸軍部指示)の発令が必要不可欠であったが、この『大陸指』の原案の起案も井本少佐の任務であったと推測される。
 井本元大佐が、細菌戦に関する単なる連絡役を務めただけではなく、それを積極的に推進していたことは、『井本日誌』に細菌戦実施に関する記述が数多くあることからいえる。」(甲91の10頁)
「井本元大佐は、当時細菌戦を推進していた作戦課の若い幕僚の中の中心的な一人であり、権限のない連絡役などではなかったのである。それだけに、井本元大佐の下には、細菌戦に関する極めて重要な機密情報が数多く集まっており、その日誌の信頼性は極めて高いのである。」(甲91の12頁)

3 なお、日本軍においては、細菌戦攻撃の秘匿名を「ホ」号といい、井本日誌には、「ホ号」「ホ」「ほ号」「保号」などの形で記載されている。
 以下に引用する井本日誌の記載を通して、本件原告の被害地である中国浙江省の衢州、寧波、江山、また湖南省の常徳に対して日本軍が細菌戦を行った事実が一層明らかになる(但し、引用する井本日誌中の〔 〕内は引用者。□で表された部分は解読不明の部分である)。

第2 1940年の細菌戦に関する井本日誌

 以下に引用する1940年の井本日誌によって、日本軍が衢州と寧波に対して本件細菌戦を行っていたことは明らかである。

1 1940年6月5日の井本日誌
 次の6月5日の日誌は、浙江省における細菌戦に関して、支那派遣軍参謀の井本が、参謀本部作戦課の荒尾興功(中佐、当時。以下同じ)、増田知貞(中佐)との間で行った打ち合わせの内容を記載したものである(次頁のとおり。甲2の17頁)。
次頁の記載内容は、前記第2章で述べたとおりである。なお、飛行場として当初、江蘇省の句容(南京の東方向)が予定されていたことがわかる。


2 上記1以降の井本日誌には、細菌戦に関して次のような記載がある(ただし、「 」の括弧内は井本日誌の記載の文言である)。
 6月28日。井本は、「中央ト「ホ」其他ノ連絡ノ為急遽上京スルコトヽ決メ」南京から上京した(「井本日誌」第7巻。以下、同じ)。
 7月2日。井本は、東京の「軍医学校ニ於テ石井大佐以下ト決定事項ニ関シ確認的意味ニ於テ更ニ1度打合セヲ行」った。
 7月21日。井本は、「午前石井部隊ニ於テ「ホ」ノ件打合セ」の後、「東京ヨリ命令下達スルニ付即時作戦ノ航空参謀上京スヘキ旨来電」を受け、「杭州ハ思切リテ偵察スルコトニ決心」した。
 7月22日。井本は、「午前杭州ニ飛ヒ斯要件偵察」し、杭州市筧橋の「旧中央航空学校ヲ使用スルコトニ決定」した。

3 1940年8月16日の井本日誌
 次の8月16日の日誌は、「杭州ニ於テ連絡」と題し、井本が杭州市筧橋の旧中央航空学校に赴き、細菌戦の実戦部隊である奈良部隊に対して、支那派遣軍総司令部の「命令ノ伝達」などを行ったときの連絡内容を記載したものである(次頁のとおり。甲1の10頁)。
 次頁の記載のとおり、支那派遣軍総司令部が行った「命令ノ伝達」とは、杭州にいた石井部隊に対するものであり、その内容は、細菌戦に関する具体的な攻撃目標地点の空中写真、地誌等の捜索及び細菌戦の弾薬、消毒薬の準備等の作戦命令であった。なお、「15H」とは15発の意味である(甲76)。


4 1940年9月10日の井本日誌
 次の9月10日の日誌は、井本が奈良部隊の大田澄(中佐)と増田美保(大尉)から、攻撃目標と細菌輸送に関して報告を受けた内容を記載したものである(次頁のとおり。甲1の10頁)。
 次頁の記載のとおり、大田澄及び増田美保は、航空写真等による捜索の結果、攻撃目標地点は寧波と衢県が適当であること、さらに金華を候補にあげたことを井本に報告した。第1回の細菌戦輸送の弾薬は、当初予定された「C」(コレラ菌)ではなく「T」(チフス菌)に変更された。


5 1940年9月18日の井本日誌
 次の9月18日の日誌は、井本が奈良部隊との間で確認した細菌戦の具体的実行計画の内容を記載したものである(次頁のとおり。甲1の10頁)。
 次頁の記載のとおり、奈良部隊との間で確認した細菌戦の具体的実行計画の内容は、攻撃目標として寧波、金華に加え、新たに玉山・温州・台州などの地名をあげ、寧波には、1キロメートル四方当たり1・5キログラムなどと、攻撃目標ごとの細菌使用量などが示された。
 細菌の生産量は、コレラ菌(「C」)が1日あたり10キロ、チフス菌(「T」)はそれ以上が見込まれていた。
また、細菌戦の開始が遅延した理由、細菌爆弾の輸送を航空機と陸上輸送を併合して行うこと、軍属の福島の戦死状況の確認がされた。 
 さらに、山本参謀より、「稀釈セラレタル弾薬」を使用する場合と、「濃度大ナルモノ」を使用する場合の2通りの撒布方法が具体的に示された。
 また、細菌戦に使用する飛行場は杭州市の筧橋飛行場が予定され、使用の際は、他の部隊の使用を禁止することが確認された。「謀略関係事項」についても確認され、細菌戦を秘密裏に実行するための検討がなされた。


6 1940年10月7日の井本日誌
 次の10月7日の日誌は、井本が、奈良部隊の中心的実行者であった山本吉郎(参謀)、福森憲雄(少佐)、大田澄、金子順一(大尉)、増田美保の5名から細菌戦の実施状況と実施の教訓についての報告を受けた内容を記載したものである(次頁のとおり。甲1の11頁)。
次頁の記載から、1940年9月18日ないし同年10月7日の期間に、日本軍は浙江省において6回の細菌攻撃を行った。なお、「蚤」は、ペスト感染ノミのことである。 また、攻撃の効果の判定のために密偵(スパイ)による調査を行うこと、攻撃目標及び攻撃方法に融通性を持たせること、攻撃方法を重複することができること、細菌戦の将来については継続する見通しであることなどが報告された。

7 上記6以降の井本日誌には、細菌戦に関して次のような記載がある。
 10月8日。井本は、参謀本部作戦課に転任するので、増田知貞や井本の後任者の吉橋戒三(少佐)と打ち合わせを行った。その中で、「実験ハ何時迄経チテモ終了スルモノニ非ス。12月ニナレバ如何ニスルヤヲ考慮シ置クヲ要ス(12月ニハ一応引上ゲテ来年出直ス)」、「C〔コレラ菌〕ハ出ナイト思ウ、P〔ペスト菌〕ハ或ハ成功スルカモ知レス」などの話が出た(「井本日誌」第9巻。甲1。以下、同じ)。
 11月25日。参謀本部勤務となった井本は、軍医学校の北條中佐から、大陸指781号の指示すなわち「大陸指690号ニ拠リ〔目下実施中の細菌戦に関する〕試験ハ本月末ヲ以テ終了スル如ク指示ヲ出サル」を受け取る(甲2の24頁)。
 11月30日。井本は、支那派遣軍参謀の吉橋戒三から、「11月末日終了スル事ニ異存ナシト石井大佐答フ」、一方、石井四郎(大佐)は「杭州、上海ノ中間ニ同案持参」し、結局、「金華ヲ攻撃スル如ク協定成立セリ」、と報告を受けた(「井本日誌」第10巻)。

第3 1941年の細菌戦に関する井本日誌

 以下に引用する1941年の井本日誌から、日本軍が常徳に対して本件細菌戦を行っていたことは明らかである。

1 1941年1月ないし同年9月の井本日誌には、細菌戦に関して次のような記載がある。
 1月15日。井本は、渡辺参謀から「「ホ」ノ件」について「媒介物ヲ欲ス」
「補給手段」「適当ナル容器カ必要(取扱ヲ簡易ニス)」「実用ノ際航空部隊ニヤラセルカ、特殊部隊トスルカ」「重爆ニテ夜間攻撃ニテ奇襲的ニ実施スルヲ可トスヘシ」などの連絡を受けた(「井本日誌」第10巻)。
 2月5日。「ホノ「研究」」として、医務局の中留金蔵・金原節三医事課員、渡辺甲1衛生課長、鎌田調医事課長と石井部隊の石井四郎、大田澄、山本参謀、福森、碇常重、金子順一、野崎、増田知貞、小野寺義男、北支那防疫給水部の西村英二、板倉らが「作戦経過」「将来運用法」「仮想作戦方針」、「外国ノ非難等ニ対スル責任ヲ誰カ負フカ」などにつき検討した(「井本日誌」第11巻。以下、同じ)。
 2月7日。井本は、北支那防疫給水部から、「14年秋 21万円 細菌兵器ノ研究ニ資スル如ク施設ヲ初メ9分通リ完成」「ノミの製造ニ援助シ得ル如ク希望ス」などの連絡を受けた。
 3月25日。井本は、早川少佐から「ホノ確立ノ為雨下器 14万円」を作るための経費につき連絡を受けた。
 3月26日。井本は、「石井部隊ニ行キ研究ヲ見」た。
 9月1日。井本は、増田知貞から、「9月一杯ニ実施ヲ希望ス」と連絡を受けた。
   9月5日。「ホニ関スル連絡」「大体ヤル決心テ行ク」との記載あり(「井本日誌」第13巻。以下、同じ)。
 9月12日。「ホノ件」「大体之テ行ク」との記載あり。
 9月16日。「ホノ大陸指発令」、つまり正式に細菌戦の実施に関する大本営陸軍部指示が出て、細菌戦の実施が命じられた。

2 1941年11月25日の井本日誌


 前頁の11月25日の日誌は、常徳における細菌戦に関して、井本が支那派遣軍参謀の長尾正夫から受けた報告の内容を記載したものである(前頁のとおり。甲2の30頁)。

 前頁の記載のとおり、1941年11月4日、日本軍は、湖南省の常徳市に対し、細菌戦を実行した。この内容については、前記第2章で述べた。
 日誌から、実行者(731部隊の増田美保)、攻撃機の型式や攻撃時間、投下時の高度、さらにペスト感染ノミを飛行機の機体の下に取り付けられた函に入れ、その函のフタを開けて投下させる方法をとったこと等がわかる。
 「アワ36s」とは、ペスト感染ノミ36キログラムのことで、これが常徳に撒布された。
 しかも、細菌戦実行後の常徳のペスト流行の報告がなされている。
 なお、その後の井本日誌には、細菌戦に関して次のような記載がある。
 12月2日。井本は、支那派遣軍高級参謀の宮野正年(大佐)から、「常徳ヲ中心トスル湖南ニテハ「ペスト」猖ケツヲ極メアリ」との情報が伝えられた(「井本日誌」第14巻)。

3 1941年12月22日の井本日誌
 次の12月22日の日誌は、井本が、増田美保から受けた細菌戦に関する報告の内容を記載したものである(次頁のとおり。甲1の15頁)。


前頁の記載のとおり、井本は、増田美保から、常徳での作戦が成功したことにより細菌戦部隊の士気が上がったこと、そのためペスト感染ノミ使用の効果に対して自信がついたこと、などの報告を受けた。
 また、増田は、「アワ第1」すなわちペスト感染ノミが最も優れていると考えていること、細菌戦の攻撃には99式LBなどの飛行機を使用する予定であること、さらに42年6月以降の細菌攻撃とペスト感染ノミの増産計画などの計画について説明した。

第4 1942年の細菌戦に関する井本日誌

 以下に引用する1942年の井本日誌から、日本軍が江山に対して本件細菌戦を行っていたことは明らかである。

1 1942年3月ないし同年7月の井本日誌には、細菌戦に関して次のよな記載がある。
 3月18日。「「バタン」ニ対スルホノ件」として、バターン半島にたてこもるアメリカ・フィリピン軍に対する細菌戦として、「東京1月  300s ─── 使用セハ東京ニテ作ル必要アルヘシ」「1000s位ヲ10回位必要?爆弾300発位アルヘシ」などと検討した。(「井本日誌」第17巻。以下、同じ)
 3月19日。井本は、軍医学校教官の増田知貞から「主攻撃ウジ弾」
「人員100名」と記載された地図で説明を受けた(後に、細菌の生産ができる以前の5月、アメリカ・フィリピン軍が降伏したため、右の記載の部分に大きく×印がつけられ、「発令取消ス」と記載された)。
 4月12日。「昭和17年ホ号指導計画」に、「攻撃目標」として「昆明」「麗水・玉山・衢県・桂林・南寧(沿岸飛行基地)」、「SAMOA[サモア]」、「DH[ダッチハーバー]」、「濠州要点」、「カルカッタ」等があげられた(「井本日誌」第18巻。以下、同じ)。
 5月27日。参謀本部で「ホ下打合」が行われ、井本のほかに石井四郎(少将)、村上隆(中佐)、増田知貞、小野寺義男、増田美保が参加した。
 @機密保持に注意すること、A編成装備を具体的に計画すること、B飛行機は「新撒布器ヲツケタ」99式双発機を使用すること、C本年使用可能な菌は「C〔コレラ菌〕、T〔チフス菌〕(中出来)、PA〔パラチフス菌〕(上出来)、P〔ペスト菌〕(1/1000万ミリグラム迄向上セリ)」、つまりコレラ菌・チフス菌・パラチフス菌・ペスト菌であったこと、Dペスト菌の現在量は「平房2キロ、南京1キロ(ネズミ不足)、その他1キロ」の合計4キログラムであること、E友軍の感染防御と機密保持のため2箇班を付けること、等が確認された。
 石井四郎から、@731部隊の細菌製造機関を増強すること、A細菌戦実施のための中央機関を編成すること(それができない場合、医務局医事課に専任者を置くか、731部隊長が全軍の防疫給水部を区処できるようにすること)、B国際連盟は「放テオク」こと、C軍医学校と731部隊の要員を中支那派遣軍に配属すること、などの要望があった。また、「風船ニテヤル案(ノミ、鼠)も提案されていた。
 また増田知貞からは、軍医学校校長桃井直幹から陸軍大臣宛に「作戦資材整備方の件」を5月14日付で申請したこと、現在2000匹しかいないネズミを1万匹にするため、それを収容できるバラックを作るよう申請をだしたことが報告され、井本はこれらについて「要処置」と注記した。
 5月30日。参謀本部に石井四郎、村上隆、増田知貞、小野寺義男、増田美保が招集され、「〔参謀本部〕第1部長〔田中新一少将〕ヨリ大陸指及注意伝達」された。

 6月29日。「増田中佐トノ連絡」として、「ふ号〔風船爆弾〕」として「証拠隠滅ノ公算70%、部隊ヲ作ルコト、50k以下ナラハ精度相当ニ大、人事ノ件」とある。ここで「ふ号」とは、細菌戦用の風船爆弾のことである。
 7月6日。井本は、碇常重中佐から「支那ホハ準備出来タ、天候之ヲ許セハ常時進出可能也」との報告を受けた。
7月15日。井本は、井上中佐から、支那派遣軍の中に、細菌戦の被害が日本軍にでることをめぐって意見対立があることについて報告を受けた。そこで結論として、「住民ノ進入後ヲ狙フ如ク無住地帯ニ施策ス」ということ、つまり、住民が逃亡した地域に細菌を散布して、日本軍撤退後復帰した住民が感染するような散布法をとることが確認された。また「餅不足」、つまりネズミ不足ということもあって、「実力攻撃ハ8月中旬以後ト予定ス、具体的ニハ示サレアラズ」ということになった。この報告を受けて、井本は、「要スルニホニ対シテ信頼ヲ持タス、厄介視シアル現況也、将来ヲ相当ニ考慮セザル可ラズ」と言わざるをえなかった。
 7月26日。井本は、石井四郎と連絡し、細菌戦実施予定日は「8月20日公算大」と判断した。石井四郎は、「無人ノ清野」に、あるいは「桂林、衡州〔衡陽〕等ハ敵航空部隊制圧後」に、「PX〔ペスト菌またはペスト感染ノミ〕、C〔コレラ菌〕、T〔チフス菌〕等」を撒布すること、つまり、日本軍への感染の危険が生じないようにするため、支那派遣軍が「無住地帯」や遠方の桂林・衡陽などの攻撃を行うが決定された。
 また、「p州、建瓶等ハ未然ニ低空ヨリヤリシモ〔桂林、衡陽攻撃は〕戦爆共同ト共ニ行動シテモ可」とあり、既にp州、建蟇などで空からの細菌戦が実施されていたことがわかる。
 また、26日の記述には、「石井少将ノ今後ノ仕事」として、「ホトノ関係、ホヲ潰サヌ事、軍医部長トシテノミヤル?決定ノコト」とある。(「井本日誌」第19巻。以下、同じ)
 7月27日。参謀本部第1部長は、8月1日付の定期異動で第1軍軍医部長に転出することになっていた石井四郎に対し、「ホノ後始末ハ石井少将ガ実施スルコト」と指示した。

2 1942年8月28日の井本日誌
 次の8月28日の日誌は、江山等の浙p鉄道沿線の都市に対する細菌戦に関して、井本が、長尾参謀から受けた「ホノ実施ノ現況」と題する報告の内容を記載したものである(次頁のとおり。甲2の40頁)。
 次頁の記載内容は、前記第2章で述べたとおりであり、日本軍は、江西省の広信、広豊、玉山、浙江省の江山、常山、衢県、麗水に細菌戦を実施した。
 具体的攻撃方法は、例えば、江山では、「C」(コレラ菌)を井戸に直接入れたり、食物に付着させたり、果物に直接注射したりした。
 「撤退後攻撃開始ス」とあり、日本軍部隊の撤退後に細菌戦が開始された。

3 前記2以降の井本日誌には、細菌戦に関して次のような記載がある。
 10月2日。中国政府が日本の細菌戦を非難し始めたので、井本は、「ホ」号の件として、「〔参謀〕次長電ニ依リテ飛行機ニ依リ実施スルコトハ当分ノ間延期スヘキ旨電報」をうった(「井本日誌」第19巻。以下、同じ)。
 10月5日。井本は、増田知貞から、浙p作戦における「地上実施ニ関スル実情」、つまり地上での撒布の結果として、「PX(P其他)ハ先ツ成功?衢県Tハ井戸ニ入レタルモ之ハ成功セシカ如シ(水中ニテトケル)」との報告を受けた。


第6章 被告による細菌戦の隠蔽及び細菌戦被害賠償立法の不作為

第1 被告の国家意志による証拠隠滅と隠蔽行為の継続

1 被告は、ポツダム宣言が発表され、日本の敗戦が時間の問題となった1945年7月下旬以降、中国人などに対し生体実験などの残虐な行為を行った証拠及び国際法に違反して細菌兵器を製造し細菌戦を行った証拠を隠滅しようと画策し、実行した。

 前記第2及び第4で明らかにしたとおり、日本軍による細菌戦は、天皇の命令たる「大陸命〔大本営陸軍部作戦命令〕」にもとづき、陸軍参謀総長が出す作戦の具体的な指示である「大陸指〔大本営陸軍部作戦指令〕」の発令によって行われた。細菌戦は、日本軍中枢、天皇、被告そのものによって行われた戦争犯罪である。
 被告は、対中国戦争において、国際法に違反することを知りながら、731部隊を中心にして細菌兵器を開発し、中国大陸において実戦使用した。これらの研究開発、製造、作戦実行は、秘密裡のうちに行われた。日本の敗戦が濃厚になると、被告は、細菌戦の実行という国際法違反の戦争犯罪の事実を隠蔽し、戦争犯罪として裁かれることを防ごうとした。
 無条件降伏した被告にとって、天皇の戦争責任を免れることは焦眉の課題であった。細菌戦の事実が明らかになれば、中国の被害者はもとより、国際社会の非難は高まり、細菌戦が戦争犯罪として裁かれることはもちろん、日本の戦争犯罪に対する国際裁判全体に多大の影響を及ぼし、天皇に対する戦争責任追求も厳しくなることが予想された。
 本来、被告は、自ら積極的に中国における細菌戦の事実を明らかにし、関係者、責任者を処罰し、被害者に対する賠償を早期に行わなければならなかった。ところが、戦争の敗北という現実に直面した被告は、国際法違反の細菌戦の事実が明らかになることによって責任追及の手が天皇に及ぶということに危機意識をいだき、国家意志として、細菌戦の戦争犯罪の隠蔽を図ったのである。
 この点について、証人近藤昭二は、本法廷に提出した鑑定書(甲106の1)において、次のように指摘している。
 「アメリカ軍進駐後まもなく、9月6日にトルーマン米大統領がマッカーサーに送付した『降伏後における米国の初期対日方針』などの戦争犯罪人の処罰に関する指針にしたがって、9月10日以降次々にアメリカ側から戦犯逮捕指令が出されていた。
 9月18日に行われた東久邇稔彦首相の外国記者団との会見では、質問が天皇の戦争責任と捕虜虐待問題に集中した。この時明確に回答できなかったこともあって、政府は戦争犯罪問題の対策を講じ始め(9月21日『外人記者会見後ノ要措置事項』通達)、天皇に責任がないとの説明を各部局に作成させた。
 10月2日には連合国軍総司令部に法務局が設置されて、戦争犯罪の証拠収集、捜査活動に動き出す。
 天皇の戦争責任問題への波及をなんとしてもくいとめたい内閣は翌10月3日に各部局からの回答をまとめて『戦争責任等に関する応答要領(案)』を作成した。
 こうした情勢の中で、国体護持を第一の要諦、最重要の命題とする政府、旧軍上層部にとって、大陸命に基く大陸指によって遂行された七三一部隊の中国への細菌攻撃の事実はもちろんのこと、国際法違反の人体実験による細菌戦研究は絶対隠蔽しなければならない事実のひとつであった。」(甲106の1、36頁)
 被告は敗戦の前後を通して、徹底した証拠隠滅を図った。1945年の敗戦から、サンフランシスコ講和条約の発効までの米軍占領下、とりわけ東京裁判の過程においては、天皇が戦争犯罪裁判にかけられることを免れるために、必至の隠蔽工作を行った。
「日本のばあい、イタリアのような有力なレジスタンス勢力が存在せず、間接統治という形式からも、旧勢力が存続する条件をのこすことになった。
 このため日本の支配層は、『国体護持』を最大のスローガンにして、天皇制の政治、社会秩序を保持することを最大の課題とした。占領軍が進駐して、しだいに占領政策を実施するようになると、日本政府はなんとか、『国体護持』を実現しようとして、執拗な抵抗を続けるのである。」(甲106の1、35頁)
 米軍占領下において、細菌戦を隠蔽した被告は、その後も今日に到るまで、国家方針として行政権力を発動し、細菌戦の事実の一切を隠蔽し続け、被害者の救済を妨害してきた。
 これらのすべては、被告の国家意志に基づき、公務員によってなされた証拠隠滅、隠蔽行為であり、細菌戦という戦争犯罪を行った被告の、新たな国家犯罪である。

 2 歴史的経過として被告は3つの時期、段階において隠蔽行為をおこなってきた。
 第1の隠蔽は、1945年8月15日の敗戦を前後する証拠隠滅である。
 8月10日ポツダム宣言受諾が決定されると、すぐに、内閣の閣議決定で公文書の焼却が決定された。それはポツダム宣言にあった「あらゆる戦争犯罪の処罰」という一節に対する被告の対応であった。敗戦に際して日本国家がおこなった第1の行為は、証拠の隠滅だったのである。とりわけ軍関係の証拠隠滅は徹底しておこなわれた。
中国のハルビン郊外の平房にあった731部隊の施設に対しては、ポツダム宣言以前の8月9日にソ連が参戦した段階で証拠隠滅が始まった。施設、物資、書類はことごとく破壊焼却され、「マルタ」と呼ばれていた中国人やロシア人などの捕虜は、全員、「証拠隠滅」のため殺害されたのである。
 第2の隠蔽は、1945年8月から1952年までの米軍占領期における隠蔽行為である。この隠蔽行為は行われた犯罪行為の事実を隠蔽し、戦争犯罪の処罰を免れるためにおこなわれた。
 この戦争犯罪の隠蔽は、直接の当事者の利害にもとづいておこなわれただけではない。国家ぐるみの隠蔽行為として、被告の積極的行為としておこなわれたのである。さらにこの隠蔽は、日本政府がアメリカ政府・占領軍と取り引きをすることによって成立した。 日本の政府および細菌戦関係者は、米軍に対し細菌戦兵器研究・開発の物資・資料を全面的に提供し、米軍による細菌戦兵器の開発に協力したのである。それとひきかえに、戦犯としての訴追を免責されたのである。
 第3の隠蔽は、1952年の講和条約発効、占領期の終結から今日に至るまでの隠蔽行為である。
 特に1980年代に入ってから、細菌戦・731部隊の実態の解明は進んできた。だが、その実態解明は、被告によっておこなわれたものではない。被告は一貫して隠蔽し続けているが、元731部隊であった人々が証言し始めたこと、中国の被害現地における調査の進展、アメリカが保有している占領期文書の公開、旧日本軍上層部にいた人々が保存していた文書や、医学界の文献の発見などによって解明が急速に進んだのである。
 それから既に20年の歳月が経過している。今日では細菌戦部隊の犯罪行為は国際的にも国内的にも常識となっているにもかかわらず、被告はこれを認めず、真相を隠蔽し続けている。

第2 被告による敗戦前後の証拠隠滅

1 平房の731部隊本部の破壊・「マルタ」の殺害等の証拠隠滅

 被告は、1945年8月9日にソ連が参戦した段階で、ハルビン郊外の平房にあった731部隊の施設を、徹底的に破壊した。
 この証拠隠滅は、陸軍中央の指示により行われた。731部隊本部施設の破壊作業は、8月9日午前7時に命令され、終わったのは12日正午であった。
 これを裏付ける朝枝繁春(参謀本部作戦課の対ソ作戦担当参謀・中佐)がなした731部隊長石井四郎への伝達がある。すなわち、8月10日正午前、石井四郎は、「満州国」の首都新京(現在の長春)にある軍用飛行場で、東京の河辺虎四郎(参謀次長)が派遣した朝枝から、次のような特命を伝えられた。
 「参謀次長に代わって参謀次長のご意向をお伝えします。永久にこの地球上からいっさいの証拠物件を隠滅してください。貴部隊は用意した満鉄の特別急行列車で全員、大連まで退却してください」「証拠はいっさいがっさい、地球上から永久に隠滅してください」(甲53、太田昌克著『731免責の系譜』35頁。甲82朝枝繁春「陳述書」15頁)

 朝枝は、石井に対し、完全な証拠隠滅を厳命したのである。
 また、同じ頃、関東軍の司令部でも管下の七三一部隊の処置について検討がなされており、全ての実験室と細菌培養設備が破壊されることに決していた。
 そのことは当時の関東軍参謀副長松村知勝が、ハバロフスク裁判の法廷で検事に対して証言している。
   「第一ニ、之等部隊ノスベテノ設備ハ秘密ニサレテイテ、之ヲ敵軍ノ手ニ残スコトハ出来ナカッタカラデス。ノミナラズ、之等部隊デ行ワレテイタ業務自體モ亦秘密デアッタ爲、之等ノ業務ガ行ワレタト言ウ事實ヲ隠蔽スル爲、對策ヲ講ジナケレバナラナカッタノデアリマス。換言スレバ、細菌戦準備ニ關シテ部隊デ行ワレテイタ業務及生キタ人間ヲ使用スル寳験ノ痕跡ヲ湮滅スル事ガ必要ダッタノデス。」(甲20『公判記録731部隊』189頁)
 こうして被告は、731部隊本部の施設や物資や実験器具、さらに陶器製のウジ型爆弾などの各種細菌爆弾を、徹底的に破壊し、書類やレントゲン写真はことごとく破壊焼却した。同時に、「マルタ」と呼ばれていた中国人やロシア人などの捕虜を、全員、殺害した(甲31の14頁以下)。 この点について、731部隊であった大竹康二、溝渕俊美が体験したことを証言している(甲108の113頁ないし115頁、122頁ないし125頁)。
 こうした証拠隠滅がなければ、平房にあった施設はそれ自体が細菌戦実施の動かし難い証拠であるから、敗戦と同時に直ちに731部隊の細菌戦を行った事実が中国政府及びソ連政府によって、暴露され、国際法に違反した戦争犯罪として裁かれ、また被害者への謝罪と賠償は不可欠なものとされたであろう。

2 日本軍公式記録の焼却、隠匿

 8月10日、ポツダム宣言受諾が決定されると、すぐに、内閣の閣議決定で公文書の焼却が決定された。それはポツダム宣言にあった「あらゆる戦争犯罪の処罰」という一節に対する被告の対応であった。敗戦に際して日本国家がおこなった第1の行為は、証拠の隠滅だったのである。とりわけ軍関係の証拠隠滅は徹底しておこなわれた。
公文書の焼却は、閣議決定の上、組織的に徹底的に行われた。
「鈴木貫太郎内閣の蔵相であった広瀬豊作が、『私もご承知のとおり終戦直後、資料は焼いてしまえという方針に従って焼きました。これはわれわれが閣議で決めたことですから、われわれの共同責任のわけです』と回想しているし、元陸軍法務中将の大山文雄が、法務省の調査に対して、『書類の湮滅は政府の命令に基づいてなされた』回答しているのも、このことを裏づけている。この焼却命令は、広瀬と大山の同想が示唆しているように、明らかに戦後に予想される戦犯裁判を強く意識しての措置であった。」(甲294『現代歴史学と戦争責任』127頁)
 次にこの閣議決定に基づいて、各省庁で公文書の焼却が行われた。
 ポツダム宣言の受諾が決定し、天皇の「玉音放送」のある8月15日、陸軍省では連絡会議が開かれ、そこで阿南惟幾陸軍大臣からの証拠湮滅の指示が出された。
 後にそのことを明かした田村浩俘虜情報局長の記録が残っている。
1946年3月7日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)の国際検察局(IPS)のG・S・ウールワースの尋問に答えて、田村局長は、 「連合国側に見せてつごうの悪いような軍の文書は全て焼却せよ」(甲106の1、38頁)という命令を副官から口答で伝えられ、その命令に従ったと述べている。
 ポツダム宣言受諾の閣議決定が行われた頃、陸軍中央官庁の位置する市ケ谷台上においては機密書類の焼却が開始されていた。終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から全陸軍部隊に対し、機密書類焼却の依命通牒が発せられ、市ケ谷台上における焚書の黒煙は8月14日午後から16日まで続いた(甲294『現代歴史学と戦争責任』128頁)。
 上記のような公文書の徹底した焼却により、戦犯裁判を統轄する立場にあったGHQも、めぼしい公文書が存在しないという状況に苦慮したようで、再三にわたって公文書の提供を日本政府に要求した。
「46年1月3日付覚書では、他の場所に移動させた公文書の原保管場所への復帰、公文書を焼却した場合の写しの作成を命じ、続いて7月24日付指令では、『昭和16年6月1日から同年12月8日までの間に開催されたすべての閣議、連絡会議及び御前会議の議事録の確証された写を一通』提出するよう命令があった。さらに、10月3日付指令では、『1941年7月1日以降同年12月31日に至るまでの期間における閣議決定事項全部に関する報告書をGHQ国際検事局(IPS)に提出するやう』命令があり、『右報告書提出不可能の場合はその理由を附してその旨報告し、また関係書類がすでに焼棄済の場合は焼棄の日付及び焼棄を命じた責任者の氏名を報告しなければならぬ』と釘をさしている。」(同135頁)
証拠隠滅は、電話による口頭連絡、あるいは電報等により秘匿して行われた。
「47年1月9日の東京裁判の法廷に提出された第一復員局文書課長・美山要蔵の『証明書』(法廷証2000番)にも、「本官は茲に昭和20年8月14日陸軍大臣の命令に依り高級副官の名を以て全陸軍部隊に対し『各部隊の保有する機密書類は速やかに焼却』すべき旨を指令されたことを証明する。右は在京部隊に対しては電話に依り其の他に対しては電報を以て伝達された此の電報及原稿は共に焼却された」とあり、電話による口頭連絡、あるいは電報等の焼却といった湮滅工作が碓認できる。」(同136頁)
また、公文書の最重要書類については、焼却指示にもかかわらず、所轄の軍将校が、隠匿し、GHQの追求から逃れた。
「天皇の陸軍に対する最高統帥命令である『大陸命』およびこれに基づいて参謀総長が発する指示=『大陸指』に関しても同様の隠匿が行われた。これについて、現在、防衛庁防衛研究所戦史部が保管している『大陸命』、『大陸指』の原本に付せられた『経歴票』には、次のように記されている。
 昭和20年8月14日大東亜戦争終戦に方り陸軍一般に保管書類焼却の指令が出されたが、第二課〔参謀本部作戦課〕においては本大陸命(指)綴のみは焼却せず、庶務将校椎名典義中尉が都内某所に隠匿し、第一復員省(局)史実調査部(資料整理部)編成に伴い、占領米軍の公私に亘る一般資料追及の監視を避けて部長宮崎周一中将が自宅に保管した。〔中略〕
 昭和21年12月宮崎中将退職に伴い後任部長服部卓四郎大佐が保管を継承し、同大佐は占領時代終了を待って正統戦争史の本格的編纂にあたるためこれを自宅に保管した。同大佐の『大東亜戦争全史』の著述にあたりてはこれが利用された。 ここでも、『大陸指、大陸命』綴が戦史室に移管されたのは1960年のことだった。」(同132頁) 

3 731部隊関係文書の焼却

 1945年8月14日、天皇を含む御前会議でポツダム宣言受諾が決定されると、被告は、閣議決定で公文書の焼却を決定した。それはポツダム宣言の「あらゆる戦争犯罪の処罰」という一節に対する被告の対応であった。
 このように敗戦に際して日本国家がおこなった第1の行為は、細菌戦をはじめとする戦争犯罪に関する証拠隠滅だったのである。
1945年8月15日敗戦と同時に、陸軍省軍事課は、731部隊などの戦犯に問われる「特殊研究」について証拠隠滅の指示を、「敵ニ証拠ヲ得ラルゝ事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ隠滅スル如ク至急処置ス」として陸軍省防疫研究室など関係機関に通達で発している(甲138。木下健蔵『消された秘密戦研究所』380頁参照)。
 七三一部隊へは、陸軍省軍事課員新妻清一中佐の判断でいち早く、同じ8月15日の午前8時半に証拠湮滅の指示が出された。新妻は午前中に連絡した先と時間、担当者を忘れないように「特殊研究処理要綱」の表題をつけてメモにした。B5版の便箋の表・裏に鉛筆で記されたこのメモは現在遺族の手元に残されている。
 「特殊研究処理要綱         二〇・八・一五
  軍事課
一、方針
 敵ニ証拠ヲ得ラルゝ事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰滅スル如ク至急処置ス
二、実施要領
 1、ふ号、及登戸関係ハ兵本草刈中佐ニ要旨ヲ伝達直ニ処置ス(一五日八時三〇分)
 2、関東軍、七三一部隊及一〇〇部隊ノ件関東軍藤井参謀ニ電話ニテ連絡処置ス(本川参謀不在)
 3、糧秣本廠1号ハ衣糧課主任者(渡辺大尉)ニ連絡処理セシム。(一五日九時三〇分)
4、医事関係主任者を招置直ニ要旨ヲ伝達処置、小野寺少佐及小出中佐ニ連絡ス(九、三〇分)
 5、獣医関係、関係主任者を招置、直ニ要旨ヲ伝達ス、出江中佐ニ連絡済(内地は書類ノミ)一〇時」(甲138)

 4 撤退時の箝口令による隠蔽

被告は、平房の施設を破壊する一方、731部隊員が捕虜になって、細菌戦の事実が暴露されることを恐れ、他の関東軍や民間人に先駆けて、大量の部隊員とその家族を、飛行機、鉄道を利用して敗戦までに撤退させた。
 撤退の際、石井四郎部隊長は、部隊員に対し、「絶対に731部隊で見たり聞いたりした事実を誰にもしゃべってはいけない。冥土に持っていくように。731部隊員であったことも隠せ」と命じた。
 多数の細菌戦部隊員は、幹部だけでなく末端の部隊員も含めて、この箝口令に従って、731部隊に所属したこと、また細菌戦部隊員として体験した事実を家族を含めて一切口外しなかった(甲106の1、45頁)。

 5 敗戦後の元部隊員に対する箝口令の徹底 

敗戦後、被告は、旧日本軍幹部及び731部隊幹部を中心にして、国際法違反の細菌戦の一連の事実を隠蔽するため、石井四郎等の幹部隊員に下部隊員宅を定期的に訪問させ、部隊長指示として箝口令を執拗に再確認し、生活の苦しい下部隊員には、援助金を与えるなどしていた(甲106の1、46頁)。
 とくに、1945年8月から1947年12月の米軍生物戦部隊のサンダース、トンプソン、フェル、ヒルによる調査、尋問に対する隠蔽工作の時期は、石井四郎部隊長等の幹部が戦犯追及を逃れようとして、下部隊員から731部隊と細菌戦の事実が暴露されることを極度におそれて、箝口令の徹底をはかることに必死となった。
 「帰国した731隊員も落ちつくと、別の不安に襲われた。入れかわりに進駐してきた米軍から、戦犯として追及される可能性が大きかったからだ。復員、帰郷に際し、彼らは上官から『731の秘密を漏らすな』と厳命されていた。郷土別に連絡・監視系統が作られ、人によっては潜伏を命じられていた者もいる。」(秦郁彦『昭和史の謎を追う』上巻、文芸春秋392頁)
 1948年1月、帝銀事件が発生し、731部隊関係者が犯人と想定され、警察による731部隊関係者に対する徹底的な聞き込みが行われた。その際も731部隊と細菌戦の事実が暴露されることをおそれ、幹部隊員が下部隊員宅を回りくりかえし箝口令を再確認した。
 このようにして被告は、731部隊を構成した約3000人の口を封じた。
 こうして被告は、物的にも組織的にも、731部隊そのものが存在しなかったかのように装い、細菌戦の事実が露見することを妨害し、隠蔽したのであった。

第3 連合国の占領下における被告の隠蔽工作

 1 戦犯裁判と細菌戦の隠蔽

 1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾した被告は、いわゆる「終戦の詔勅」をもって日本国民に戦争の終結を明らかにした。
 ポツダム宣言には「すべての戦争犯罪人を厳格に処罰する」という一節がある。
 米軍は、連合軍最高司令官マッカーサーが来日した8月30日から2週間もたたない9月11日、東条英機を直接逮捕するなど39人の戦犯に逮捕令状をだした。
 こうして戦争犯罪の処罰は始まったが、被告は、国際法に違反する細菌戦に関しては、徹底的に隠蔽することによって、戦争犯罪に問われることを逃れようとした。
 結果として、細菌戦に関してはいかなる意味でも罪に問われることはなかった。米軍占領下、1946年5月3日から始まった東京裁判の全過程を通して、被告は、国際社会に対して細菌戦の事実を隠蔽し続けたのである。
 この細菌戦の隠蔽は、被告の政府機関としては終戦連絡委員会・有末機関が、そして非公式の政府機関として旧陸軍全体に影響力を行使していた服部機関が隠蔽工作の中心となり、国家ぐるみの隠蔽行為としておこなわれた(甲47)。さらにこの隠蔽は、被告がアメリカ政府・占領軍と取り引きをすることによって成立した。

 2 米軍調査団に対する虚偽の供述

(1) 日本側がアメリカ政府・占領軍と取り引きすることによって成立した隠蔽工作は、1945年8月から1947年の終わりにかけて行われたが、この約2年半の過程は、大きく2つの時期に分けられる。この期間中に米軍は、米陸軍生物戦部隊(キャンプ・デトリック)から4人の調査官を派遣している。その時期は以下の通りである。

 第1期 1945年8月から1946年末まで
  占領下の米軍による調査開始からソ連の尋問要求まで
     @サンダース調査期 1945年8月から12月
     Aトムプソン調査期 1946年1月から4月
 第2期 1947年1月から12月まで
  ソ連の尋問要求から最終報告まで
     @フェル調査期   1947年4月から6月
     Aヒル調査期    1947年10月から12月


(2) 上記の第1期において、日本側は、米軍調査官に対し、731部隊の組織構成等を一定程度明らかにする一方、細菌兵器の実戦使用および人体実験については隠し通した。
 調査官サンダースのレポート(甲116、甲117)及びトムプソンのレポート(甲118)には、日本側が隠蔽のために虚偽の供述をしていることが次のように記載されている。
@ 出月三郎(軍医学校防疫研究室長)、井上隆朝(軍医学校細菌学教室長)に対する尋問記録
「問 軍医学校では生物戦の攻撃面についてどんな研究をやっていたか。
答 なにもやっていなかった。生物戦の攻撃的側面については何も研究していなかった。
問 生物戦の攻撃面の研究はいっさい行われていなかったと理解すべきなのか。
答 攻撃に関する研究は何もしていなかった。敵の攻撃をさける研究だけをやっていた。これらの研究は軍医学校で行っていた。
問 生物戦用爆撃について何か知ってるのか。
答 何も知らない。」
    (サンダース・レポート、甲24『標的イシイ』243頁)
A 神林浩(陸軍省医務局長)に対する尋問記録
「攻撃についての日本の研究について質問したところ、医務局長は彼の知るかぎり攻撃の研究は行われていない、と述べた。しかしまた、彼はいくつかの攻撃の研究が防御策との関連で行われていたかもしれず、この種の情報の入手に努めよう、と述べた。」
     (サンダース・レポート、甲24『標的イシイ』255頁)
 B 新妻清一(陸軍省軍事課科学技術担当)に対する尋問記録
「問 日本の参謀本部は武器としての生物兵器をどう考えていたか。
答 我われはその可能性については見当もつかない。というのは我われはその分野の研究をほどんどやってなかったのだから。
問 独自の部隊、たとえば関東軍といった部門で独自に生物戦研究を行うことは可能か。
答 我われは研究の全般的指示に責任を負っており、私は全部門の予算を査定していた。生物戦はそこに含まれていなかった。
問 それらの指示と査定の記録文書を見たい。
答 それらは米軍が日本に上陸する前に燃やされた。このことはマッカーサー将軍に報告ずみである。」
  (サンダース・レポート、甲24『標的イシイ』253頁)
C 増田知貞(元731部隊員)に対する尋問記録
 「四、増田大佐は生物戦に関する活動の全貌を知っているのは2人だけ、石井と自分自身だと述べている。彼は兵器を作り出そうとした目的は、適切な防御法を開発するためであったと強調している。
  五、増田大佐は、個人的意見として実用的な細菌爆弾を開発できなかったと述べている。彼はこの原因として組織上の欠点、狭量な嫉妬心、粗末な装置をあげている。彼は科学的活動を再編成しなかった組織の弱さを痛感しており、また適切な支持が得られていれば、生物兵器は確実に実用的な武器となりえただろうと感じている。」(サンダース・レポート、甲24『標的イシイ』270頁。なお、以上のサンダース・レポートに関しては、甲106近藤「鑑定書」47頁ないし53頁に詳述されている)
D 石井四郎(731部隊長)に対する尋問記録
「彼はくり返し、攻撃的武器として生物兵器を開発することは日本の目的ではなかったし、そうした戦法を取ろうと考えたこともなかった、と強調した。」    (トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』331頁)
「彼がくり返し強調したのは、生物戦の攻撃面の研究は生物戦の可能性を判定することが唯一の目的で、それは防疫給水の観点からどんな防御措置が必要かみきわめるためであったということだった。」
    (トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』333頁)
「戦術的使用が可能となるほどの量の細菌を生産したことも、また貯蔵したことも全くなかった。砲弾を改造したものおよび飛行機からの噴霧」
    (トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』366頁)
「石井は、爆弾は実用に、その実用性をみきわめ、そして同様の爆弾に対して必要な防御措置を決定するのに十分な量しか製作しなかった、と強調している。」
    (トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』337頁)
E 北野政次(元731部隊長)に対する尋問記録
「私自身の医学知識に基づいて私は細菌兵器を軍事目的に使っても、労多くして効少なし、ということになると考えている、実際、我われがそれを完成していたとしても、それを使う機会はなかったであろう。すなわち戦争に勝っている人はそれを使用して、国際的問題をひきおこす危険を冒す必要はない。敗けそうな人がそれを使用すれば、結果は不名誉なものでしかありえない。戦争開始当初のまだどっちに転ぶかわからないころ、私は細菌兵器は決戦兵器とはなりえない、と強く確信した。」(トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』365頁。なお、以上のトムプソン・レポートに関しては、甲106近藤「鑑定書」47頁ないし53頁に詳述されている)

(3) 上記の@ないしEの各供述者は、いずれも日本軍が行った細菌戦に深く関わっていた人物であり、細菌戦の実行、人体実験についても知っていた。実際、その後の1947年のフェルの尋問に対して、増田や石井らは、細菌兵器の実戦使用や細菌を用いた人体実験の事実を認めている。
 しかし、上記の各供述者は、この段階、すなわちサンダースおよびトムプソンが行った尋問の段階では、アメリカ側に対し、しらを切り通したのである。
 被告は、アメリカ側の尋問に対して、完全に何も喋らないというわけにはいかないから、組織構成等一定程度のことは明らかにしながら、他方、細菌兵器開発の一環としての人体実験と中国各地での実戦としての細菌戦を行った事実については、虚偽の供述をして隠し通した。このような隠蔽工作を多数の被尋問者の間で食い違いがないように成立させることは容易なことではない。当然、被尋問者間での口裏合わせの意志一致が必要である。
 米軍調査官トムプソンは、レポート(甲118)の中で、「日本の生物戦研究・準備について、おのおの別個とされる情報源から得られた情報は見事に首尾一貫しており、情報提供者は尋問において明らかにしてよい情報の量と質を指示されていたように思える」と述べている。

3 日本側隠蔽工作の組織的構造

(1) 敗戦時の日本政府及び旧軍部関係者は、できることなら細菌戦に関することはすべて隠蔽したい、という点において、完全に一致していた。
 それは、敗戦時の日本政府の最大の課題であった「国体の護持」すなわち天皇の戦犯訴追を免れ、天皇制を維持するためにも必要なことであった。細菌戦や人体実験の事実が明らかになった場合、国際世論の非難が沸騰すること、そして東京裁判に重大な影響を及ぼすことは、火を見るよりも明らかなことであった。
 しかし、その細菌戦に関する隠蔽工作をどのような方法によって行えばよいのかを知るためには、まず米軍側の出方を知る必要があった。さらに動揺する元細菌戦部隊員に対する箝口令を徹底させることも難しい問題だが不可欠であった。当時の日本側は知らなかったが、すでに敗戦直後から、GHQには石井四郎ら細菌戦部隊幹部を告発する手紙が寄せられていた。
 結局、サンダースの調査開始に対する日本側の対応は、@米軍の出頭要求には応ずる、A細菌戦の実戦使用と人体実験は隠し通す、Bそれ以外は積極的に開陳する、ということになった。
 上記のような対応方針で、組織的な一致がおこなわれたのである。

(2) 占領軍と日本政府のパイプとしての終戦連絡委員会・有末機関について
 ポツダム宣言の受諾によって、日本は連合国軍の占領下におかれ、総司令官マッカーサーは最高権力者となる。しかしその統治はいわゆる間接統治であり、日本政府は継続して存在し、占領下において、普通選挙法による総選挙がおこなわれ、新憲法が制定されることとなった。
 このような統治形態において、占領軍(米軍)と日本政府の間の連絡調整機関として「終戦連絡委員会」が設置された。日本側の米軍に対する窓口である。米軍から日本政府に対する要求や指令、通告はすべて終戦連絡委員会を通しておこなわれた。占領下の政治においてこの機関は特殊に重要な役割を担うものであった。
 初め、終戦連絡委員会は、米軍の受け入れ機関として軍部の機関として作られた。その委員長となったのが大本営陸軍第二部長として国際情報を担当していた有末精三であり、この機関は「有末機関」と呼ばれた。占領軍受け入れ後にこの連絡委員会は各分野、各都道府県に設置され、外務省の外局として終戦連絡中央事務局が設置される。この外務省管轄の政府機関である有末機関が隠蔽工作に重要な役割をはたすのである。有末は著作のなかで次のように言っている。
「占領軍との連絡の多くは戦犯容疑者の出頭要求であったし、来訪する復員軍人連絡の内容は、復員や部隊状況の通報もさることながら、皆目見当のつかない各自の置かれている占領軍に関係のある情報、内情についての質問が主要な問題であった」
 (甲47、有末精三著『終戦秘史 有末機関長の手記』180頁)
 細菌戦に関しても、米軍からの尋問出頭要求はこの有末機関を通しておこなわれた。
 また、ちりぢりになった元部隊員が情報を得るために訪れた際、情報を与え、組織的な隠蔽工作を徹底させるために対応策を指示することができたのも有末機関である。
 1946年1月に復員し、トムプソンの尋問要求に出頭した元731部隊長北野政次は、有末に「米軍とは戦犯免責で話しがついているから心配する必要はない」と告げられたので翌日出頭した、と述べている。
 さらに米軍と旧軍部との関係では、大本営陸軍部作戦課長だった服部卓四郎の服部機関が指摘される。服部は、戦後、陸軍省(軍部解体後は第一復員省)の戦史室に入ると同時に、GHQに戦史編纂のため雇われ兼務することになる。この服部機関はいわば非公式の日本政府の対米協力機関であった。石井四郎の娘石井春美は「父は服部の指示に従って出頭した」と述べている。

  (3) 細菌戦部隊当事者としての隠蔽工作の中心人物・内藤良一の動向について
 サンダースの調査が始まった時、英語のできる軍医として最初に出頭を命じられたのが内藤良一である。
内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、細菌戦部隊・石井機関の要にいた人物である。また後に朝鮮戦争の開始時、「ミドリ十字」の前身である「ブラッド・バンク」を設立した。
 内藤が七三一部隊等の中国大陸における細菌戦部隊と陸軍軍医学校、さらには日本医学界をつなぐ要に位置する重要人物であることをアメリカ側が把握していたかどうかはわからない。しかし日本側にとっては、内藤が最初にサンダースに接したことによって隠蔽工作がすべりだしたといえる。
 現在では明らかになっているが、内藤は、サンダースの対応からアメリカ側の思惑を読みとり、前記の日本側の対策・方針を考えぬいたのである。 後年内藤を尋問した米軍調査官サンダースは、朝日新聞のインタビューに答えて次のように語っている。
「調査開始直後、通訳としてドクター・ナイトウがやってきた。私は最初、ナイトウが七三一部隊幹部とは知らなかった。今から考えると、誰が彼をよこしたのか不思議だ。ドクター・ナイトウはその後、ミドリ十字の社長になった。彼とは、その後も非常に親しく付き合った。(昨年七月死去した内藤良一・ミドリ十字会長のこと。同氏は陸軍軍医学校教官として、満州七三一部隊と東京を行き来していたほか、南方軍防疫給水部長なども務め、七三一の石井四郎部隊長の参謀格だったといわれる。)」
「ナイトウたちは私に『誓って人体実験はやらなかった』と繰り返し言い、私はそれを信じていた。ところが、最近になってそのことを知り、大変、ショックを受けた。ナイトウは故人になったが、私としては彼に裏切られた気持ちだ」
         (甲42、1983年8月14日『朝日新聞』)
 内藤は米軍調査官の反応を見ながら、米軍の出頭要求には応ずるが、細菌戦の実戦使用と人体実験は隠し通す、それ以外は積極的に開陳する、という被告の方針を策定したのである。
近年になって、先にサンダースの尋問を受け、虚偽の供述をしていた新妻清一が保存していた重要な文書が発見された。新妻は、元陸軍省の科学技術担当という立場から尋問者間の連絡網をつくっていった人物である。
 次に引用する増田が新妻に宛てた手紙の中から、内藤良一が、細菌戦と人体実験について隠し通すという根本方針を策定したことが示されている。
「部隊幹部直筆の書簡は、1945年(昭和20)11月9日付きで、731部隊で部長職を歴任した増田知貞軍医大佐(故人)が潜伏先の千葉県内から陸軍省軍事課で科学情報を統括した新妻清一中佐にあてたもの」「右書簡で増田大佐は米国調査への考え方を説明し、『タとホ以外は一切を積極的に開陳すべき』と内藤の『持論』を紹介。『タ』は人体実験用の捕虜『マルタ』を、『ホ』は細菌作戦をそれぞれ指す部隊関係者間の隠語で、内藤は人体実験と中国での細菌作戦や未遂に終わった米国への攻撃計画だけは秘匿するように主張していた」     (甲44の1、1998年8月15日『信濃毎日新聞』)

(4) 政治家・亀井貫一郎の隠蔽工作について
 政治家としてこの隠蔽工作の中心に存在したのが、亀井貫一郎である。亀井は戦前外交官としてアメリカ留学の経験があり、1928年衆議院初当選以来合計4回当選している。その後大政翼賛会東亜部長を経て、戦争末期には「聖戦技術協会」を設立し、軍との共同研究・開発にたずさわった。
 「陸海軍の秘密兵器乃至は新兵器の実験と生産の面において之を熟知し居る立場」(甲45『上申書』亀井貫一郎作成108頁)にあり、細菌戦とも密接に関わっていた人物である。
 また亀井は政治的には近衛文磨派に属し、戦争中に反東条演説をおこなった件で執行猶予付の有罪判決を受けている。アメリカ留学の経験をもつ亀井は通訳として米軍の細菌戦調査に最初から関わり、隠蔽工作の中心人物となったのである。
 後に亀井は、「占領開始と同時に次の役割を担った」と述べている。
 「(1) 進駐軍側に於ける日本陸海軍の新兵器乃至秘密兵器の研究生産我国の陸海軍の繊維資材並に食料の保有量並に陸海軍機構の調査に当り、米国側と有末機関及鎌田機関を通ずる日本陸海軍省部との間の当初の日本側より推薦せられたる最高通訳として、後に米国側の日本人通訳筆頭として右調査業務及折衝業務に従う事になりました。

(2) 更にA級戦犯即ち市ヶ谷法廷に於ける検察側の為めキーナン検事総長の下にモルガン検察事務局長の依頼により日本戦争責任追及の為め米国側の必要とする証人及証拠蒐集の事務に協力せしめらるる事になりました。蓋し満州事件以来日本の政治的経済的及び軍事的なる歴史経過を知る一人であったからであります。
(3) 次に我陸海軍のB級戦犯の裁判事務の緒につくまでの折衝と通訳であります。
(4) 次に日本側秘密兵器の米国への完全引き渡し業務であります。
(5) 次に対ソ及対共産党の対日方策に関連する米側について意見を具申する立場と相成りましたことは別紙関閲歴に詳述いたしてあります。
」      (甲45『上申書』亀井貫一郎作成、109〜110頁)

(5) 連絡係・新妻清一の隠蔽工作について
 もう一人旧軍部で隠蔽工作に動いたのが、陸軍省軍事課で科学技術担当だった新妻清一である。
 新妻は、科学技術担当として細菌戦関係者や亀井とも接点をもっていたが、彼の専門はロケット及び核兵器開発であった。
 米軍の科学技術調査団は、日本の核兵器、科学兵器、細菌兵器の開発に関する調査団であった。新妻は、核兵器開発については、基本的に当初から米軍にレポートを提出するなど全面的に協力していたが、他方、細菌戦については、終始、隠蔽工作に動いたのである。
 新妻は、米軍からの尋問要求者に対して口裏合わせのための連絡をとり、前記の日本側対応方針のもとに一致させる役割を果たした。
 先に内藤良一のところで引用した新聞記事記載の書簡と同様、新妻の保存していた文書の中には、次のとおり、新妻自身が口裏合わせのための部隊間の連絡のために動いていたことを意味する文書が存在している。
 「北野中将ヘ連絡事項
一、○及『保作』ハ絶対ニ出サズ
二、開防給ハ石井隊長以下尚在満シアリ
三、増田大佐ハ萬難ヲ排シテ単独帰還シ「マ」司令部へ出願セリ
四、開防給ハ總務部長兼第四部長大田、第一部長菊池、第二部長碇、
第三部長兼資料部長増田大佐トナリ其他ハ転出又ハ解隊シアリ
五、第一部研究、第二部防疫実施並ニ指導
第三部給実施並ニ指導及資材修理
第四部製造、資材部、資材保管補給ヲ担当シタリ
六、七、八棟ー中央倉庫、田中班ーP研究、八本澤班ー自営農場ニ使用シアリ七、『保研』ニ開シテハ石井隊長、増田大佐以外ハ総合的ニ知レルモノナシ
研究ハ細分シテ常ニ人ヲ代ヘテ之ニ当ラシメアルヲ以テ他ノ者ハ部分的ニ之ヲ知レルノミナリ 而モ其ノ目的ハ知得シアラザルナラン
八、北野中将在職中『保研』ハ前任者ノ実験ヲ若干追試セル外積極的ニ研究セズ中止ノ状態ナリ
九、『保研』ハ上司ノ指示ニアラズ防御研究ノ必要上一部ノモノガ研究セルモノナリ
一〇、北野中将ハ在職中専ラ流行性出血熱ノ研究ニ没頭セリ」
(甲139「写真」。甲43、1997年1月7日「大分合同新聞」)
 上記文書は、陸軍の印が入ったB四判便せんの1枚の手書きで、1942年ないし1945年3月の期間、2代目の731部隊長であった北野政次軍医中将あての10項目の「連絡事項」が記された文書であり、終戦直後に同部隊幹部と連絡をとっていた旧陸軍省軍事課中佐新妻清一が戦後、自宅に保存していたものであるが、GHQの尋問に備え、人体実験や細菌作戦実施などの事実を隠滅するため、幹部間で徹底した口裏合わせをしていたことを示している。
すなわち、上記文書は、筆者、日付は不明だが、「増田大佐ハ(中略)司令部ヘ出頭セリ」との記述から神奈川大の常石敬一教授は、部隊創設者の石井四郎中将の「片腕」とされた増田知貞大佐に対するGHQの尋問が始まる1945年10月ごろに部隊関係者が書いた、と分析している。
 「○及び『保作』ハ絶対ニ出サズ」と記載(これまでの研究により、○はマルタを、「保作」は細菌作戦を指す暗号と判明している)し、これから尋問される北野中将に、人体実験や中国での細菌戦などの秘密を守るよう連絡していた。
捕虜を収容していた同部隊の7、8号棟を「中央倉庫」、兵器用にペスト感染をしたノミを培養していた田中班を単に「P(ペスト)研究」、穀物用細菌兵器を研究していた八木沢班の実験場を「自営農業」と言い換え、細菌戦研究は「上司ノ指示ニアラズ防御研究ノ必要上一部ノモノガ研究セルモノ」とするよう指示している。(甲43、1997年1月7日『大分合同新聞』参照)

  (6) 国家的行為としての隠蔽工作
 上記のような関係者によって、敗戦直後から細菌戦の隠蔽工作は、被告の国家的な行為としておこなわれた。
 まず政府機関としては終戦連絡委員会・有末機関が、そして非公式の政府機関として旧陸軍全体に影響力を行使していた服部機関が隠蔽工作の中心となった。
 一方、米軍の通訳という立場から隠蔽工作の中心に座ったのが内藤良一と亀井貫一郎である。
 内藤は、軍医学校防疫研究室の責任者として細菌戦部隊の要にいた人物であるが、中国現地の細菌戦部隊、東京の軍医学校、軍中枢部、さらに日本医学界をも含む細菌戦機関のネットワークを熟知していた内藤が隠蔽工作においても要の位置を占め、米軍の動向を伺い、日本側の対応を策定していったのである。
 亀井は、政治家としての立場で、敗戦直後の内閣副総理であった近衛文磨と連絡をとりつつ内藤とともに隠蔽工作に関わった。 
内藤と亀井が通訳として米軍サイドに身をおきながら隠蔽工作の方針を策定する一方、元陸軍省の科学技術担当という立場から尋問者間の連絡網をつくっていったのが新妻清一である。
 以上の敗戦直後に形成された隠蔽工作の組織的構造は、この時期の隠蔽が最終的に成立する1947年末まで基本的に続く。前記の第2期、すなわちソ連の暴露と尋問要求が出されてからの隠蔽工作には、これに加えて731部隊長であった石井四郎自身が米軍との密接な接点をもち、細菌戦兵器開発のため米軍への全面的協力をおこなうことによって隠蔽工作を成立させるのである。

(7) 虚偽供述を証拠づけるトムプソン・レポート
米軍の調査官トムプソンは、1946年5月にレポートを提出し帰国した。トムプソン・レポートは、731部隊長であった石井四郎および北野政次に対する尋問で得た情報を中心に作成されているが、その結論として、「日本は生物戦の攻撃面の研究・開発で大きな進歩を達成しているが、結局実用的な武器として生物兵器を使用するまでにはいたらなかった」(甲24『標的イシイ』327頁「1946年5月31日「日本の生物戦研究・準備についてのレポート」)と書かれている。
 結局、サンダースおよびトムプソンの調査を通して、日本側の尋問を受けた者は、731部隊の組織実態、細菌戦の研究内容をかなりの程度まで明らかにし、攻撃用の兵器の研究・開発をおこなっていたところまでは供述した。しかし細菌戦を実行したこと、および人体実験については、虚偽の供述により隠し通したのである。
 ちょうどトムプソンがレポートを提出した5月31日、東京裁判が開始されたが、細菌戦関係者は訴追されず、一切訴状にのぼることはなかった。こうして1946年末までには日本側の隠蔽工作は成立するかに見えたのである。
 ところが1947年に入って、日米双方にとって予想外の事態が起きた。

 3 アメリカ政府・占領軍との免責取引による隠蔽

(1) 細菌戦の実戦使用と人体実験を把握していたソ連
1947年1月、ソ連は極東国際軍事裁判(東京裁判)の国際検事局を通じて、ソ連側による尋問をおこなうため石井四郎等細菌戦当事者の身柄引き渡しを要求してきた。ソ連はシベリアに抑留していた731部隊員の供述や押収文書から、日本軍の細菌戦の実戦使用および人体実験についての情報を得ていたのである。

  (2) 連合軍総司令部(GHQ)法務局の戦犯訴追へ向けての動向
 1月15日にソ連側とアメリカ側担当者の会合がおこなわれた。ここでソ連側はシベリア抑留中の731部隊第四部長の川島清、その部下であった柄沢十三夫等の供述書を提出し、中国における日本軍による細菌戦の実行と、平房の731部隊での人体実験の事実をアメリカ側に暴露し、同時に、石井四郎ら731部隊幹部の尋問要求をつきつけてきた(甲125)。
 この事態を受けて米軍側で積極的に動いたのは、GHQ法務局である。アメリカ側のこれまでの調査、サンダース、トムプソンによる尋問は、米陸軍生物戦部隊派遣の調査官による調査であり、GHQ参謀部G2(情報担当)の管轄下においておこなわれてきた。この調査は四六年五月にトムプソンがレポートを提出しいったん終了していたのである。これとは別に、法務局も独自の調査をおこなっていた。すでに占領直後から元部隊員と思われる人から、石井四郎等を告発する手紙がGHQに届いていた。これに基づいて最初に調査を開始したのは、検察局のモローであった。モローは毒ガス戦と合わせて細菌戦の調査のために中国を視察し成果をあげた。しかし1946年3月にモローの石井四郎に対する尋問要求はG2によって拒否され、調査は壁にぶつかった。
 1947年の新たな事態の展開の中で今度は法務局が調査を開始した。法務局の調査は細菌戦関係者を戦犯訴追することを目的としておこなわれた。
 1月24日、法務局の担当者スミスは内藤良一を尋問した。内藤はスミスの追求の前に初めて人体実験をおこなっていたことを供述した。法務局はさらに増田知貞等を尋問し、4月4日付でスミス・レポートを提出した(甲119)。このレポートの結論として、「本レポートはこれまでの調査を概観しており、またそれによって法務部が連合国の人間に対する不法な実験および残虐行為をおこなった罪のある人物を調べ、彼らを戦犯とすべく努め、裁判にかけるように努力していることがわかるようになっている」(甲24『標的イシイ』390頁)と記載されている。

(3) 窮地に陥った日本側の新たな隠蔽工作
 ソ連による暴露とGHQ法務局の戦犯訴追の追求によって、一挙に被告は、窮地に陥った。これまでの細菌戦の実践はやっていない、また人体実験も行っていないという嘘が通用しない危機にたたされた。
 この時、東京裁判は、開始以来半年以上を経過し、検察側立証の最終段階として、日本軍の捕虜虐待や残虐行為の立証が続けられているところであった。被告は、東京裁判において天皇が訴追されなかったことにひとまず胸をなでおろしていたが、ここで日本軍の細菌戦や人体実験があからさまになったばあい、東京裁判がどう展開していくかは予断を許さないものがあった。
 日本における戦犯裁判は連合国がおこなうことが、すでに占領直後の指令で定められていた。日本政府自らが戦犯裁判をおこなうことは、占領期が終了する1952年まではできなかった。
 しかし被告は、この段階で、GHQ法務局に全面的に協力し、細菌戦の実態を明らかにし、戦争犯罪として裁くことに積極的に協力することはできたのである。 しかも1947年5月3日には新憲法が施行された。被告には新憲法の理念のもとに行動することが求められたのである。しかし被告はそうしなかった。被告は、政府・旧軍部・細菌戦関係者一体となった新たな隠蔽工作に走ったのである。
 窮地に陥った被告のとった方策は、人体実験や実戦で得たデータをはじめ、細菌戦研究の全成果を米軍に提供し、さらに米軍による細菌戦兵器開発プロジェクトに参加し全面的に協力する、それと引き替えに石井四郎をはじめとする731部隊等の細菌戦部隊幹部は戦犯訴追を免れ、細菌戦の隠蔽を貫き通すというものであった。これによって天皇の戦犯訴追も封じることができると被告は考えた。
 細菌戦関係の当事者として最初に米軍と接した内藤良一は、すでに1945年9月のサンダースによる尋問開始の時点で、米軍の調査目的が細菌戦に関する情報や研究成果の入手にあり、それを米軍の細菌戦兵器開発に利用しようとしていることを察知した。ここに日本側の隠蔽工作が成立する条件を見いだしたのである。
 一方、サンダースの側も、マッカーサーの承認のもとに、最初から戦犯免責と引き替えに情報を得るという手段をとった。1983年の朝日新聞のインタビューに対して、サンダースは次のように答えている。
「 ─── 戦犯免責の取引は関知していたか。
イエス。四五年の秋だった。GHQの私の上司だったウィロビー少将に相談し、二人で総司令室に行った。マッカーサーをはさんで私たちが座った。その時のやりとりは、今でもよく覚えているが、次のようだった。
ウィロビー「七三一部隊の解明は、彼らを戦犯に問わないという保証をしてやらないとうまく進まない。サンダース中佐がその保証をしてやっていいですか」
マッカーサー「それでよろしい」
ウ「サンダース中佐が、あなたの言葉として使っていいですか」
マ(黙ってうなずく)」
        (甲42、1983年8月14日『朝日新聞』)
サンダースは免責を内藤に告げ、2日後まず内藤本人から尋問を始めた。次に731部隊に詳しい陸軍省の新妻清一中佐、細菌爆弾の設計と制作にあたっていた金子順一少佐、石井四郎の右腕であり、細菌戦攻撃を計画し、方法論まで発表していた増田知貞大佐へと調査を進めていった。
 しかし、免責の条件を持ち出されても内藤たちは、警戒をゆるめず、隠蔽した事実を明かそうとはしなかった。この当時七三一部隊の予算についての答弁に苦慮していた新妻清一のところへ、増田知貞から届いた書簡が残っている。サンダースが調査の結果をレポートにまとめ、補足的な尋問をしている時期に当たるが、その文面からは増田たちが隠蔽工作にいかに腐心しているかがよく分かる。
 「原則論としてハ、日本軍ハ攻撃を企画せし事無之故、予算に於いても攻撃用として予算を組みし事ハ無之候筈に御座候はずや。唯々攻撃研究として予算を組みし事ハ可有之候はんも、これハ731部隊の使用範囲内に止り 部隊令達研究費予算内の極一少部分に過ぎず と云ふ事に可相候(小生等の説明を基礎として論ず)実際問題として731にて攻撃として使用仕候予算の大部分はPx関係にて、之ハ事実上の数字ハ秘匿して置かざれば、当方の攻撃意図が暴露致候事と可相成候」(甲53『免責の系譜』24頁) サンダースおよびトムプソンの調査期における隠蔽は、アメリカ側に対し、細菌兵器の開発までを明らかにする一方、その実戦使用と人体実験は隠し通したわけであるが、ソ連による暴露という新しい状況下において、もはや米軍に対して隠し通すことは不可能となった。
 しかし米軍の目的が、細菌戦を戦争犯罪として裁くことではなく、米軍自身が細菌戦兵器開発のために利用しようというものであることを内藤等はすでに十分に認識していた。そうであるならば、細菌戦の隠蔽はアメリカ側の目的でもあると内藤等は読みとったのである。そこに極めて危機的状況に陥りながら、なおかつ隠蔽を貫き通す条件は存続していた。もはやアメリカ側に対して隠し通すことは不可能であると判断した被告は、米軍への全面協力を申し出ることによって、破綻しかけた隠蔽工作をなんとしても成立させようとしたのである。

  (4) 隠蔽工作と石井四郎
 この新たな隠蔽工作においては、731部隊長であり、また細菌戦関係の全部隊、陸軍軍医学校、さらには日本医学界をまきこんだいわゆる石井機関をつくりあげた石井四郎自身が、内藤良一や亀井貫一郎等とともに、積極的役割を果たした。
 米軍の占領直後のサンダース調査期において、内藤良一が通訳として最初から米軍と接点をもち、隠蔽工作の中心を担っていったのに対し、石井四郎の場合、尋問に応じたのは1946年に入ってからトムプソンの調査に対してである。
 その前の1945年12月に石井は密かに米軍担当者と会っている。これは亀井貫一郎がセットした鎌倉会談である。日本側は石井が尋問に出頭するにあたって、すでに内藤等が感触を得ていた戦犯免責について、改めて確約することを必要としたのである。
 石井が出頭し尋問に応ずるということは、他の人物とは異なる意味をもっていた。石井は731部隊長として、撤退の際、部隊員を前にして「絶対に喋ってはならない」という指示を出したのである。旧日本軍隊において上官の命令は絶対的なものであった。敗戦直後のこの時期そうした意識が直ちに払拭できるものではなく、石井の命令は復員した隊員の意識を強く縛っていた。その石井が出頭に応ずるとはどういうことか、部隊員の中に動揺が深まるのは当然のことであった。
 米軍に対しては、こうした下部の隊員の尋問をおこなわせない必要があった。一方、隠蔽工作の進行という状況のなかで、改めて部隊員に対し箝口令をしき、下部隊員が勝手な行動をとらないよう組織的に統制する必要があった。
 有末機関や新妻清一等が米軍からの尋問要求者の間での口裏合わせのために動いた一方で、石井は731部隊長の権威を利用し、細菌戦部隊員全体に対して隠蔽工作を徹底させるために動いたのである。
 1945年8月15日の敗戦直後に日本に戻ってきていた石井は、一時金沢にいたが、千葉県山武郡芝山町の実家を経て、10月頃には新宿若松町の自宅に戻っている。遅くともこの10月頃から内藤、亀井等と連絡をとりあい、アメリカ側の動向、サンダース調査・尋問の様子などを把握していた。その一方で石井は、部隊員や陸軍省上層部とも連絡をとりあっていた。
 731部隊から戦後のこの時期にいたるまで石井の秘書的な役割を果たしていた郡司陽子は次のように言っている。
 「自宅の二階に隊長が『潜伏』している間も、いろんな人間が訪ねて来た。・・・
 七三一関係者では、ほかに少佐待遇の高等官だったと思われる中肉中背の軍医と陸軍医学校『三研』で見たことのある軍医が来たのを覚えている。元隊員以外の人も、ときどき現れた。わたしは彼らが、旧陸軍省関係の人だと聞かされた」
  (甲46、郡司陽子著『証言・731石井部隊』236頁)
 上記の「旧陸軍省関係の人」が誰かは不明であるが、当時軍部解体に伴い、当然陸軍省も解体されたが、旧陸軍省や参謀本部の軍人は第一復員省に組織的に横すべりしていた。その中心は作戦課長だった服部卓四郎である。服部をはじめ、政府機関としての第一復員省が、隠蔽工作に深く関与していたことは明白である。
 1946年1月22日に石井の初尋問がおこなわれたが、石井の尋問は病気を理由に若松町の自宅でおこなわれた。石井は、この時点では、上述したような隠蔽方針で望んだのである。
 石井は、尋問に対して事実を隠し、捕虜を使った実験や攻撃用の大規模な細菌兵器の開発に関わったことを否認し、平房での研究は小規模なもので、小動物だけが使われたと主張した(甲106の1、54頁)。
 石井は、トムプソンの尋問に応ずる一方で、下北沢の日本特殊工業社長宮本茂宅を連絡場所として部隊員・石井機関の関係者を組織し、米軍との非公式の接点をもっていた。日本特殊工業は、石井の発明した石井式濾過器の製造を引き受けていた会社で、石井機関の一環である。戦後のこの時期、宮本社長宅を拠点として社員も含めて石井の手足となって動いたのである。
 この時期宮本宅に派遣された郡司陽子は次のように言っている。
 「この屋敷にも、七三一の元隊員や軍医たちがよくやってきた。あきらかに地方から上京してきたと思われる人もいた。彼らは屋敷に泊まった。・・・
 彼らが屋敷に来ると、まるで符帳を合わせたように、マッカーサー司令部から将校たちがやってきた」
  (甲46、郡司陽子著『証言・731石井部隊』242頁)
この時期は、第2期の隠蔽行為の時期にあたるが、この時期の隠蔽工作には、731部隊長である石井四郎自身が積極的な役割を担っていたことを裏付けている。
 米軍調査官フェルのレポート(甲120)には、石井四郎の供述調書が添付されているが、そこには次のような石井四郎の言葉がある。
「平房には全責任を負う。私はそのことで私の部下および上官を面倒に巻き込みたくない。私、私の上官、それに部下に対して文書による免責を与えてくれるなら、全ての情報を提供する用意がある」「アメリカは私を細菌戦の専門家として雇ってくれないだろうか。ソ連との戦争に備えて、私は20年に及ぶ研究と経験を提供できる」「私は色々な地域において、また寒冷期において最も有効的な病原体の研究をしてきた。細菌戦について、その戦略的および戦術的使用についての考えを含んだ本を書くことが出来る」(甲121)

 この石井の提案に対するフェルの回答はフェル・レポートに示されている。フェル・レポートでは次のように書かれている。
 「細菌計画の中心人物である石井将軍は、その全計画について論稿を執筆中である。このレポートは細菌兵器の戦略的および戦術的使用についての石井の考え、様々な地理的領域での(特に寒冷地における)これらの兵器の使用法、さらに細菌戦についての石井の『DO』理論のすべての記述が含まれるだろう。この論稿は、細菌戦研究における石井将軍の二〇年にわたる経験の概要を示すことになろう。それは七月一〇日頃に入手可能となろう」
   (甲122。甲33『増補<論争>731部隊』286頁)
 石井の提案に対してアメリカ側がのったことを、上記の記述は示している。また、上述した石井の提案は石井の個人的提案ではない。1945、46年段階での隠蔽工作が、被告の国家ぐるみの組織的行為としておこなわれたのと同様、この提案も政府、旧軍部、細菌戦部隊当事者が一体となった被告の組織的な隠蔽方策としておこなわれたのである。 また、フェルの尋問に対し、増田知貞も、次のように述べている。
 「もしあなたが戦犯免責を保証する文書を発行してくれるなら、我々はおそらく全ての情報を揃えることができるであろう。隊長は言うまでもなく、部下も詳細を知っている」(甲106の1、62頁)
 フェルは2ヶ月間の調査で、石井の論稿の他、細菌戦の中心的研究者19名の書いた60頁のレポート、200人以上の人体実験による8000枚の病理標本等を入手した。これらのレポートや物資はいったんアメリカに送られ検討された後、その説明やさらに詳しい調査のため、ヒルとヴィクターが調査官として派遣される。
 1947年末に提出されたヒル・レポートをもって、米軍調査団による調査は終了した。
フェル・レポートに記されたレポート類は現在未発見だが、731部隊の資料がアメリカに渡ったことを示す証拠がある。
 アメリカ・ユタ州ダグウェイの実験場に「Qレポート」と題する解剖レポートがある。もとはフォート・デトリックに保管されていたもので、1940年の農安・新京でペストが発生した時の患者57名を病理解剖したレポートである。全744頁にのぼる大部のものである。
 レポートの「まえがき」には、「高橋(正彦と思われる)医師と他の人たち共同で、疫学と細菌学の調査を行った。日本語で印刷されたそれらのレポートは1948年7月、すでにアメリカ軍に提出している。私と他のメンバーは、9月29日から11月5日の間にこの二つの地域で死亡した全てのケースを病理解剖学的に調査した」と述べられている。

 最近、農安・新京ペストを分析した高橋正彦の論文が松村教授によって発見された(甲200)。それは、増田大佐が主任で、石井四郎軍医少将の担任指導のもとに陸軍防疫学校防疫研究報告として作成された「昭和15年農安及新京ニ發生セル『ペスト』流行ニ就イテ」と題する論文である。
 この中にまた「藤田君香」を含む患者たちの解剖検査の結果と分析が述べられている。しかも、731部隊の業務室保管のペスト菌との比較、毒力検査までがされている。 このことから、731部隊の高橋正彦が分析していたデータを、1948年になって高橋のチームでレポートにまとめて、アメリカ側に渡したのが「Qレポート」であるということは明白である(甲106の1、70頁)。


  (5) 日本側の隠蔽工作に対するアメリカ側の対応
 日本側の新たな隠蔽工作に対して、アメリカ側が応じることによって、結果として新たな隠蔽工作は成立した。しかしアメリカ側にとっても、この秘密裡の政策は危険を含むものであった。
第1に、GHQ法務局の戦犯訴追へ向けての動きを止める必要があった。
 第2に、日本側の文書での戦犯免責の確約要求に対してどうするかという問題があった。文書にした場合にはどうしても証拠が残ることになる。アメリカ側にとっては、証拠を残さないようにすることが望ましかった。
 こうした米軍内部の確執、および日本側との取り引き上における駆け引きは、大体この年の秋くらいまで続く。最終的には年末までには決着がつき、日本側の隠蔽工作は成立するのである。以下、詳述する。
@ GHQ法務局の調査打ち切りについて
 法務局は細菌戦の戦犯訴追を追求していた。先に述べた4月4日付法務局スミス・レポートはそのことを示している。
 これに対してGHQ・G2(参謀部・情報担当)から4月17日、次のような指示が法務局に送られている。
 「本調査は統合参謀部の直接指揮下で行われるべきもので、G2の指揮の下で行われる。各措置、尋問あるいは接触は当部と共同で行われなくてはならない。アメリカの利益を守り、困難を未然に防ぐために最大限の秘密保持が不可欠である。
 次のように要求する―
a、本件についての訴追あるいはなんらかの刊行物の発表といった活動は、G2の同意なしに行われないこと。
b、前記レポートおよび告発の手紙を秘密に指定し、本件にかかわったアメリカ側の全員にこのことを周知すること。
c、新しく得られた情報は、G2に提出すること。
d、さらに文書あるいは写真の入手に努めること。
e、今後の尋問は連合国軍尋問部の尋問センターの指示の下で行うこと。」(甲24『標的イシイ』391頁)
 この指令によって法務局の調査は打ち切りとなった。しかし戦犯訴追問題をどうするか、最終的な決定権は連合軍最高司令官(SCAP)の権限を超えていた。当時、アメリカ政府における日本占領政策の最高決定機関として、陸軍省・海軍省・国務省三省調整委員会(SWNCC)が設置されていた。
 日本現地にはその極東小委員会(SFE)が存在した。最終的には夏から秋の過程で、SWNCCの決定で細菌戦関係の戦犯訴追をしないことが決定されたのである。
A 日本側の文書での戦犯免責要求に対するアメリカの動きについて
 この問題に対しては、日本現地の占領軍側が「文書で免責を与えることによって情報を得られる」と主張しているのに対し、アメリカ本国では懸念を表している。戦犯訴追問題と合わせて、占領軍とアメリカ本国の間で何度も書簡がかわされている。
 5月6日付SCAPから米陸軍省宛電報では、GHQ・G2は次のように言っている。

 「B 石井のいくつかの言明を含め、これ以上のデータを入手するためには、当該の日本人に情報は情報チャンネル内に留め置かれ、「戦犯」の証拠とはしないと知らせる必要があるだろう。
  C 石井や陸軍上層部の計画や理論も含めた全容は石井や彼の協力者の文書による免責を与えれば入手可能であろう。また石井は彼のかつての部下の完全な協力をとりつけるうえで役に立つ。
 前記Bの方法の採用は極東軍最高司令官の勧めによる。早急な返事を求む。」(甲24『標的イシイ』406頁)
 三省調整委員会では、陸・海軍省は文書で戦犯免責を与えることに同意したが、国務省が反対した。国務省委員から極東軍最高司令官へのメッセージとして次の文書がある。
 「極東軍最高司令官へのメッセージ
 以下の電報は2部からなっている。
第1部。必要な情報を石井と彼の協力者から入手することは、情報は情報チャンネルに留め置かれ「戦犯」の証拠とはしないという言質をアメリカが与えなくても可能であろう。また危険な言質は後日アメリカを深刻な事態に追いこむ原因となりかねない。そうした言質を与えることは得策ではない。しかし安全保障のために、貴下は石井と彼の協力者に対する戦犯訴追はするべきでなく、そして言質を与えずに、これまでの通りのやり方ですべての情報をひとつ残さず入手する作業を続けるべきである。
第2部。前記問題についての全通信文を最高秘密に指定する。」
               (甲24『標的イシイ』421頁)
 戦犯訴追問題に関する包括的な決定を示す文書としては、八月一日付SE審議の文書で「結論」とされている次の文書である。
 「四、次のように結論された―
a、日本の生物戦研究の情報はアメリカの生物戦研究プログラムにとって大きな価値があるだろう。
b、入手したデータは付録〔A〕の三節にその概要が示されているが、現在のところ石井および彼の協力者を戦犯として訴追するに足る十分な証拠とはならないように思える。
c、アメリカにとって日本の生物戦データの価値は国家の安全にとって非常に重要で、「戦犯」訴追よりはるかに重要である。
d、国家の安全のためには、日本の生物戦専門家を「戦犯」裁判にかけて、その情報を他国が入手できるようにすることは、得策でない。
e、日本人から得られた生物戦の情報は情報チャンネルに留め置くべきであり、「戦犯」の証拠をして使用すべきではない。」(甲24『標的イシイ』416頁、甲125)
 SFEは、上記の「結論」を採用するように本国の三省調整委員会に勧告している。 最終的には、この8月1日、SFEの後、夏から秋の過程でアメリカ本国の最高レベルでの決定がなされたのであろう。戦犯免責を文書で与えるかどうかについて、最終的にどうなったかはわからない。おそらく文書では与えないということで日本側が妥協した可能性が大きい。
 10月に来日し調査を開始したヒルのレポートでは、「面接調査において、戦犯訴追に対する免責は全く問題とならなかった」(甲126)と書かれている。この時点では決着がついていたのである。
 いずれにせよ、1947年末までの段階で、日本側の隠蔽工作はひとまず成功した。この隠蔽は、被告が731部隊等で蓄積された、細菌戦に関する人体実験データを含めた情報を米軍に全面的に提供し、さらにそれにとどまらず、米軍の細菌戦兵器開発に全面的に協力するという新たな犯罪行為に踏み込むことによって実現したのである。
  (6) 新たな犯罪としての被告の隠蔽行為
 以上見てきたように、1945年から1947年にいたる戦争終結直後の隠蔽行為によって、細菌戦は戦争犯罪として裁かれることなく今日に至っている。その後サンフランシスコ講和条約が締結され、占領期が終わった段階で、被告は自らの手で細菌戦の事実を明らかにし、戦争犯罪として裁くこともできる立場に立ったが、それを為すことなく今日に至っている。
 細菌戦に関する様々な事実が明らかになっている今日においても、日本政府は、細菌戦を行った事実を認めず、あくまで隠蔽行為を続けている。
 こうした被告の姿勢は、前述した敗戦直後の隠蔽工作を継続しようとするものである。これは単に「隠した」とか、「明らかにしない」というだけの問題ではない。極めて高度な違法性をもった組織的行為として行われた隠蔽、証拠隠滅行為である。

4 ハバロフスク裁判の細菌戦暴露と1950年国会答弁における被告の隠蔽

 1949年12月、ソヴィエト連邦は独自に、ハバロフスクで細菌兵器の準備と使用に関わった日本軍捕虜12名を裁判にかけ(甲140)、731部隊の本部・支部の責任ある立場のものとして、川島清、柄沢十三夫、西俊英、尾上正男が裁かれた。証人尋問では12名が証言し、古都良雄が中国における細菌撒布や人体実験について、堀田が安達における野外人体実験について証言した(甲20。甲141)。
 細菌戦に関する多くの事実が明らかにされた公判記録は、翌1950年に日本語版も出版されたが、これに対しアメリカ合衆国対日理事会は、この裁判を日本人のソ連抑留問題から目を逸らすためのフレーム・アップであるとの声明を出して、細菌戦の諸事実が明らかになることを妨害した。被告は、このアメリカ合衆国の政策を奇貨として、細菌戦の事実を国際社会に対して明らかにすることなく、隠蔽し続けた。
 なお、ハバロフスクにおける裁判と同時期に、中国は、独自の調査や中国側の証言者にもとづいて、反細菌戦のキャンペーンを行い、日本軍による細菌戦を非難した。しかし、日本側の隠蔽により充分な証拠を得ることはできなかった(甲105の1、証人松村高夫作成「鑑定書」31頁)。
 この裁判に関する報道を基にして行われた1950年3月の国会質問の中で、被告は、「日本人の戦争犯罪人に対する裁判は、ポツダム宣言の受諾により連合国によって行われるから、政府は戦争犯罪人の問題に関与すべきではない。政府は調査する権能も持たず、また調査する必要もない。」(殖田俊吉法務総裁。甲37)というものであった。
 「政府は戦争犯罪問題に関与すべきではない」というのは、全くの言い逃れにすぎない。ポツダム宣言には、「われわれの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人を厳格に処罰する。日本政府は、日本国民のうちに民主的傾向が復活され強化されるよう、それに対する一切の障害を除去せねばならない」と書かれている。したがって、日本政府に課された「一切の障害の除去」ということの中には、当然戦争犯罪を明らかにし、処罰することに対する障害の除去ということも含まれている。たとえ連合軍の占領下にあっても、細菌戦という非人道的戦争犯罪行為を自ら明らかにすることは、ポツダム宣言を受諾した被告にとっては、国際社会に対して果たすべき崇高な義務であった。

 以上に述べたように、被告は、アメリカ占領下において、必死の隠蔽工作によって、細菌戦の事実を隠蔽し通したのであるが、その後も被告は、一貫して細菌戦の事実が暴露されないように隠蔽行為を継続して行ってきた。
 以下では、そのような被告による執拗な細菌戦事実の隠蔽行為を、最近の1980年代と1990年代について述べることにする。

第4 1980年代の被告の隠蔽行為

1 731部隊の真実暴露が急速に進む

 1980年代に入り、731部隊の活動の残虐な実態の暴露が急速に進んだ。
 まず1980年に入ると、ジョン・パウエルによって、アメリカの公文書記録から、戦後の占領期におけるGHQの資料が発見・公表され(甲52)、731部隊の戦争犯罪と、戦後の隠蔽工作が明るみに出された(甲29の12頁。甲48の1、2)。
1981年には、森村誠一の「悪魔の飽食」(甲30ないし甲32)がベストセラーになり、731部隊の衝撃的な事実が、広く世に知られるようになった。右の背景には、1978年8月に日中平和友好条約が調印され、日中間の交流が全面的に開始された事情がある。
 1972年には、日中共同声明により日中の国交が樹立されたが、この72年から78年にかけての期間は、本来、被告が細菌戦の事実を明らかにし、被害者に対する謝罪と賠償を行わなければならない時期であった。しかし被告はそれをなさなかった。被告の隠蔽行為は継続したが、日中平和友好条約が調印され、日中戦争の最終的終結がうたわれたことによって、731部隊の旧部隊員による実態の暴露が進んだのである。
 1981年、常石敬一が『消えた細菌戦部隊』(海鳴社。甲25)を刊行した。
 ここでは731部隊の2代目の部隊長北野政次が学会誌に発表した論文から、流行性出血熱の研究に使われた「猿」が実は人間であったことが明らかにされ、731部隊の人体実験の事実が暴露された(甲105の1、31頁)。

 2 1982年国会答弁における隠蔽

 右のような731部隊の真実が暴露が進む中で、1982年4月6日、衆議院内閣委員会で、731部隊に関する質疑が行われた。榊利夫議員は、1981年に第1巻が発行された、森村誠一の「悪魔の飽食」がベストセラーになっていること、731部隊幹部と米占領軍との間の密約を示したGHQ文書がアメリカで公開されていることなどをあげ、731部隊が衆知の事実になっていることを示して、731部隊に関する日本政府としての全面調査を要求した。
 これに対して被告は、731部隊の存在を示す資料として、厚生省が保管している「留守部隊名簿」と「部隊略歴」を示し、留守名簿に「関東軍防疫給水部、通称石井部隊」があり、将校133名等の軍人の合計が1550名、軍属(雇傭人)が2009名であること、また「部隊略歴」には、本部がハルビンにあり、ハイラル、牡丹、孫呉、林口、大連各支部への配置状況が記載されていると答弁した。細菌戦の研究や人体実験については、「留守部隊名簿や部隊略歴には、記載がなく、他に資料がない」とした。
 ところが、外務省は、731部隊について、「30年以上前の占領下の話であり」「記録があるかどうか、承知していない」「個々の小説であるとか、論文ないしは伝聞に基づく報道といったようなものについて、その内容をいちいち対米照会をするという立場はとっていない」と答え、全面調査を拒否し隠蔽し続けている。

 3 1982年防衛庁防衛研究所の細菌戦記録の非公開取り扱い

 戦後、旧軍関係の資料は、防衛庁防衛研究所戦史部に集められ、1950年代後半から、一般に公開されていた。
 1982年12月被告国・防衛庁防衛研究所は、「戦史資料の一般公開に関する内規」を定めた。これは1980年5月27日付の「情報提供に関する改善措置について」という閣議決定を受け、「防衛庁本庁における情報提供に関する改善措置等について」(昭和55年9月18日防官総第4518号)と題した通達に基づいて定められたものである。

 この内規第4条で、対象資料のうち、審査の結果、@プライバシーの保護を要するもの、A国益を損なうもの、B好ましくない社会的反響を惹起するおそれのあるもの、Cその他公開が不適当なもの、と判定した場合、公開しないことを定めた。
 防衛庁は同日の日付で、「公文書の公開審査実施計画」を作成し、審査の実施要領を細かく規定した。そのなかで、A「国益を損なうもの」として「外国人(捕虜を含む)の虐待」「略奪及び虐殺など」「有毒ガスの使用」、B「好ましくない社会的反響を惹起するおそれのあるもの」として、「細菌兵器の実験についての報告・記録」「細菌兵器使用の疑いを抱かせるもの」が「摘出」の対象とされている。「摘出」とは、審査会議の審査にかけることを意味するが、膨大な資料のなかから、該当する部分をチェックするのである。
 被告は、この措置によって、防衛研究所戦史部に戦後集められた資料のなかに存在する731部隊・細菌戦の資料をチェックして、非公開にし、細菌戦の事実を隠蔽したものである。

 4 1983年家永教科書検定での731部隊記述削除

 1983年9月家永三郎は、文部大臣に対して、1980年度に検定済みとなった教科書の記述中、84ヶ所に改訂を加える改訂検定の申請をした。
 この改訂の1つに、脚注として、「またハルビン郊外に731部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加えて殺すような作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた」と書き加える改訂があった。
 これに対して文部大臣は、「731部隊のことは現時点ではまだ信用に堪え得る学問的研究、論文ないし著書が発表されていないので、これを教科書に取りあげることは時期尚早である」という理由で、全部削除の修正意見を付した。そのため、家永氏はこの部分を全部削除せざるをえなかった。
 第3次家永教科書訴訟で、最高裁判所は、「関東軍の中に細菌戦を行うことを目的とした『731部隊』と称する軍隊が存在し、生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはいないほど定説化していた」と認定し、文部大臣の全部削除の修正意見を違法とした。
 1983年の検定当時までに、731部隊に関する文献、資料は36点に及んでおり、とくに1981年から1983年にかけて、森村誠一が発表した「悪魔の飽食」全3巻は、@旧731部隊員の供述、A旧731部隊幹部に対する尋問資料を含むアメリカ軍の資料、Bハバロフスク軍事裁判記録、C旧731部隊幹部による医学学術論文、D中国における取材などにより、731部隊の実態を詳細に描いたもので、731部隊の存在は、広く世に知るところとなった。他の学術書や外国の文献の紹介もあり、1981年から1983年にかけては、731部隊の実態解明は大きく前進し、その存在は定説となっていた。
 にもかかわらず、被告は、731部隊の記述を教科書から削除し、731部隊の存在とその戦争犯罪行為を隠蔽したのである。

第5 1990年代の被告の隠蔽

1 細菌戦の真実暴露が急速に進む

 中国においては、1989年に、中国側が保有していた資料をまとめた『細菌戦与毒気戦』が刊行された。ここでは、撫順戦犯管理所の日本人戦犯の供述書や、細菌攻撃の被害にあった当時の住民の証言などによって、日本軍の細菌撒布と中国各地におけるペスト等の流行の因果関係が実証的に明らかにされている(甲105の1、33頁)。
 90年代に入って、ソ連崩壊に伴う情報公開で、ロシアの国立公文書館(旧共産党資料館)と特別公文書館(旧KGB資料館)から、ハバロフスク裁判の起訴準備書面、及び旧日本軍牡丹江憲兵隊の報告書が発見された。この報告書から731部隊による人体実験の犠牲者の氏名が判明した。犠牲者の遺族たちは1995年8月に、日本政府を相手に賠償を求める裁判を起こした。
 日本では、1989年7月、東京都新宿区戸山の旧日本軍軍医学校跡地から、100体以上の人骨が発見されたが、人骨と731部隊との関係が疑われ、新宿区民が「人骨問題を究明する会」を結成して人骨保存の監査請求を区に提出した。
 1993年7月から、731部隊展が企画され、全国を巡回・開催された。
 入場者は1995年3月までで23万人に達した。その中には元隊員の人たちも大勢いた。そのほとんどは少年隊員など下級の隊員だったが、多くの人たちが、部隊展を見て過去の事実を語り始め、真相の解明が大きく進んだ。1996年には元部隊員の証言集『細菌戦部隊』(晩聲社)が刊行された。

 2 井本業務日誌の発見・公表と被告による非公開措置

 1993年、吉見義明中央大学教授らによって、防衛庁の防衛研究所図書館において、戦争当時、参謀本部作戦課員として、細菌戦実施について連絡調整に関与し、その作戦の経緯を詳しく記した井本熊男大佐の業務日誌等4つの業務日誌が発見された。その内容は、1993年12月に『季刊・戦争責任研究』2号(甲1)に「日本軍の細菌戦」と題する論文として発表され、さらに、1995年12月には、岩波ブックレットから『731部隊と天皇・陸軍中央』(甲2)として刊行されている。
 本件細菌戦を井本日誌が認めていることについては、前記第4章に詳しく述べたとおりであるが、いずれにしても、この井本日誌等の発見によって、もはや日本軍の行った細菌戦は動かしがたい事実として確定し、また被告が731部隊及び細菌戦に関する資料を保有していることも、否定することのできない事実となった。
 しかし、被告は、井本日誌を吉見教授らが発見した後、驚くべきことに同日誌を非公開措置とし、もって細菌戦の事実の隠蔽を継続した。

3 従軍慰安婦、毒ガス等の戦争犯罪に対する謝罪・賠償に逆行する細菌戦  隠蔽

 被告・日本政府は、1990年代に入ると、軍隊慰安婦問題、遺棄毒ガス兵器問題の戦争犯罪に対する調査を行うようになる。
 軍隊慰安婦問題については、政府は当初、「民間業者が行っていたもので、軍の関与を示すような資料はない」と言っていた(90年6月政府答弁)。
 1991年8月、韓国で元慰安婦が名乗りをあげ、同年12月には韓国の元軍隊慰安婦3名が、初めて日本政府に謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴した。こうした事態を受け、提訴の2日後に日本政府は、軍・政府の関与に関する調査を開始した。
 一方、吉見義明は独自の調査で発見した資料を1992年1月に公表した。その数日後に加藤官房長官は「軍の関与は否定できない」と述べ、同月訪韓した宮沢首相は、日韓首脳会談において、「お詫びと反省の気持ち」を表明したのである。
 1992年7月6日、政府の第1次調査結果が発表され、127件の資料が公表された。
 さらに1993年8月4日、第2次調査結果が発表され、河野官房長官談話が発表された。
 同日付官房長官談話では、「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」と述べられている。これまでの政府見解を完全に覆し、軍の関与を認めたのである。
 なおこの調査では、関係省庁の他、アメリカの公文書館への担当官の派遣、沖縄での現地調査、元軍隊慰安婦や、元軍人等関係者、歴史研究家からの聞き取り、韓国政府作成の調査報告書、元慰安婦の証言集を初めとする国内外の文書及び出版物のほぼすべてを調査対象としている。
 また、毒ガス兵器問題についても、政府は対応を一変させている。毒ガス兵器も細菌兵器と同様に東京裁判では裁かれず、戦後長い間問題とされることもなかった。80年代の終わりになって中国が、旧日本軍が中国大陸に遺棄してきた毒ガス兵器の処理を日本政府に要請し、90年から2国間交渉が行われた。だが、日本側は曖昧な態度に終始し、おざなりな調査しか行っていなかった。
 しかし1992年2月のジュネーブ軍縮会議での化学兵器禁止条約の交渉中、中国がこの問題を提示し、遺棄化学兵器の処理義務を条約に盛り込むよう提案した。1993年に化学兵器禁止条約が締結され(1995年に批准)、1997年に発効、その中で遺棄毒ガス兵器の処理義務が明記されたことから、日本政府は中国大陸に遺棄した大量の毒ガス兵器の処理を行わなければならないことになり、中国現地における本格的調査を開始したのである。
このように、被告が他の戦争犯罪についての調査、各種の原状回復、被害補償等を開始しつつある中でも、ことさらに細菌戦の隠蔽を継続した。

 4 731部隊の活動を認定した最高裁判決を無視した隠蔽行為

(1) 1997年8月、最高裁判所は、1983年の検定処分を争った家永教科書裁判で、731部隊の活動に関する記述を削除した文部省検定を違法とする判決を下した。
 教科書検定で全面削除された家永氏の執筆内容は、「ハルビン郊外に731部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた。」というものであった。
 最高裁判所は、まず、原審が認定した事実に基づき、「本件検定当時までに公刊されていた731部隊に関する文献、資料は、従前公刊されたものの復刻版2点及び改訂版を含め36点に及んでおり、新聞、テレビ等でも数多く報道されていたが、中でも昭和56年から昭和58年にかけて作家森村誠一が発表した「悪魔の飽食」全3巻は、@旧731部隊員の供述、A旧731部隊幹部に対する尋問調書を含むアメリカ軍の資料、Bハバロフスク軍事裁判記録、C旧731部隊幹部による医学学術論文、D中国における取材などにより、731部隊の実態を詳細に描いたもので、大きな反響を呼び、世人の注目を集めた。また、731部隊の存在について、本件検定当時発表されていた学術書としては、上告人著「太平洋戦争」(昭和43年)、長崎大学助教授常石敬一著「消えた細菌戦部隊−関東軍731部隊−」(昭和五六年)、右常石敬一、ジャーナリスト朝野富三共著「細菌戦部隊と自決した二人の医学者」(昭和57年)があり、外国の文献としてはジョン・パウエルの「歴史の隠された一章」があった。」と判断した。
 この事実を踏まえて、最高裁判所は、「関東軍の中に細菌戦を行うことを目的とした「731部隊」と称する軍隊が存在し、生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはないほどに定説化していたものというべきであり、これに本件検定時までには終戦から既に38年も経過していることをも併せ考えれば、文部大臣が、731部隊に関する事柄を教科書に記述することは時期尚早として、原稿記述を全面削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断の過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準に違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権の範囲を逸脱した違法があるというべきである。」と判示したものである。

このように、1997年8月には、最高裁判所は、細菌戦を目的にしていた731部隊の存在を認定したものであり、行政府、立法府に対し、細菌戦の調査を義務づけたものであると言える。

(2) 最高裁判決の前後における検定済の日本史教科書(複数)には、中国に侵略した旧日本軍の中に731部隊などの細菌戦部隊が存在していたこと、731部隊などが中国人やロシア人などを生体実験の材料にして殺害したこと、中国各地で実際に細菌戦が行われたことなどが、歴史記述として書かれている。
 例えば、三省堂版『日本史A』、日本書籍版『日本史B』、東京書籍版『日本史A』、実教出版版『日本史B』『高校日本史A・B』、桐原書店版『新日本史B』『日本の歴史』などの日本史教科書に、731部隊などの細菌戦部隊の具体的活動の内容が記載されている。
 右のような文部省検定済み教科書の一例を紹介すると、1998年度使用の東京書籍版『日本史A』(1997年3月検定)の内容は、次のとおりである。
 「日本陸軍は、細菌戦準備のため1932年関東軍防疫班を設立し、38年から39年に中国ハルビン郊外にその本部と実験施設を移転した。ノモンハン事件ではじめて細菌戦を実施し、規模を拡張して40年から関東軍防疫給水部と改称した。この細菌戦部隊の秘匿名を731部隊といい、中国5か所に支部がおかれた。731部隊は、ペスト、腸チフス、コレラなどの病原菌を兵器にし、42年8月から中国戦線で細菌戦を実施した。また中国人などを「マルタ」とよんで、実験材料にして死亡させた。敗戦後、731部隊の幹部の大部分は日本に脱出し、公的な責任を問われることはなかった。部隊が開発した生物化学兵器の技術は、アメリカにうけつがれた。」(東京書籍版『日本史A』1997年3月検定、同書109頁)などと記述され、731部隊が存在し、中国人やロシア人などを生体実験の材料にして殺害したこと、中国各地で実際に細菌戦が行ったことが、歴史記述として書かれている。

(3) このように、日本軍の細菌戦の実施は、最高裁判決及び教科書に書かれるまでに定説化し確定している。しかし、被告は、ことさらに細菌戦の隠蔽を継続した。

 5 1997年国会答弁での被告の隠蔽行為

 731部隊の細菌戦の事実解明が進み、戦争被害への事実調査が行われる中で、1997年12月ないし1999年2月、4回の国会質疑が行われた(甲37ないし甲39、甲129)。
 このように国会で頻繁にとりあげられるようになったこと自体、731部隊に関してもはや「知らない」では済まされないことのあらわれである。 被告の対応は、「資料がないからわからない」等、一見言い逃れに終始しているのであるが、同時に国会質疑で明らかになったことは、被告が新たな加害行為として隠蔽を続けているという事実である。

 (1) 「731部隊の活動状況を示す資料はない」という被告答弁

 731部隊に関する資料について、「これまでの政府部内の調査では政府保存の文書中にいわゆる731部隊の活動状況を示す資料は見つかっていない」(1998年4月2日村岡官房長官答弁、甲40)、「具体的な活動状況やご指摘の生体実験に関する事実を確認できる資料は確認されていない」(1999年2月18日野呂田防衛庁長官、甲129)というのが、被告の回答である。
 731部隊関連の資料として、これまで政府が確認しているのは次の2点である。@前述したように、1982年の国会質疑において、政府は、厚生省が保管していた「部隊略歴」を提出した。A1997年12月17日の国会質疑において、米軍からの返還資料に関連して、関東軍の部隊改編等を示す資料の中に関東軍防疫給水部に係わる記述がなされているものが合計4件あることが確認されている(甲39)。しかしこれは部隊の活動状況や細菌戦との関連を示すものではないとしている。
 すなわち、関東軍防疫給水部という部隊が存在していたことを示す資料は何点かあり、その存在は認めるが、その活動状況や細菌戦との関連を示す資料は存在していない、したがってわからない、これが現時点の被告の立場である。1982年時の回答と何ら変わっていない。
 しかし、被告のこの回答が嘘であることは明らかである。井本日誌等4つの業務日誌の存在が、「731部隊の活動状況についての資料はない」と言ってきた被告の国会答弁が嘘であったことを暴露したのである。

 (2) 井本日誌に関する「一切ノーコメント」という被告答弁

 この井本日誌の存在については、98年4月7日の国会質疑でとりあげられたが、そこでの被告の答弁は、質問の趣旨を意図的にはぐらかすものであった。以下、質疑の内容を引用する。
 栗原「この井本日誌には731部隊の中国中部地方への細菌戦攻撃が計画から実行まで詳しく述べられております。(略)このような記載が井本日誌にあることは政府は認識をしていらっしゃいますか。」
説明員(大古)「ご指摘の井本日誌につきましては、いわゆる公文書に該当するものではなくて個人の日誌であるということで理解しております。(略)現在プライバシーにかかわるという観点から公開しておりません。いずれにいたしましても、防衛庁の立場からその内容についてコメントする立場にはございません。」(甲41)
 同日誌は、国の行政機関が所有権を取得しているか否かにかかわらず、国が組織的に管理・利用している以上、「公文書」に該当するものというべきである。このように「公文書」か否かの判断基準を、形式的な所有権の有無に求めるのでなく、実際に当該文書を誰がどのように管理・利用しているか、に求めるという考え方は、さきに成立を見た国の情報公開法(「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」)も第2条において採用したところである。すなわち同条は、情報公開の対象となる行政文書を「行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書・・・であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう」と定義づけているのである。
 被告が井本日誌の存在を知っていたことは明らかであるが、「知っている」とも「知らない」とも答えず、1959年以来自らが保持し『戦史叢書』編纂に活用してきた文書を「個人の日誌」等と強弁し、「コメントはしない」と回答を拒否しているのである。
 被告は、「資料はない」と言ってきたものが、井本日誌の細菌戦記載について、資料はあるではないかとつきつけられて、「一切ノーコメント」という。まさに1国の政府として恥ずべき態度というほかにない。
 このような被告の態度が、細菌戦の被害者である死者を冒涜し、生存者や遺族に新たな精神的苦痛を与えているのである。
 すでに本件の第1次提訴が行われ、争われている中で、このような対応を被告が示したということは、これまでの加害行為に加えて、また新たな加害行為が加わったというべきである。

 (3) ハッチャー証言(アメリカからの返還記録)否定の被告答弁

 この井本日誌等4つの業務日誌の他にも、97年からの国会質疑の中で、被告が隠蔽している資料の存在が明らかになっている。1986年アメリカの下院公聴会で明らかになった、「731関連文書は1950年代末か1960年代初めに箱詰めにして日本に送り返した」というハッチャー証言である。
 97年12月17日の国会質疑での「この資料は現在どこに保存しているのか」という栗原議員の質問に対して、被告は、次のように回答している。
説明員(佐藤)「昭和33年に米国が押収した旧軍資料の返還を受けまして、(略)約4万件の資料を保存しておりますが、この中には(略)活動状況や当該部隊と細菌戦の関連を示すような資料は存在しないと承知しております」「(ハッチャー証言について)同証言では米国が731部隊に関する資料であることを確認したうえで日本側に返還した旨を述べているわけではないものと私どもは承知しております。」(甲39)
 また先に、米国からの返還資料の中に、部隊の編成関係の資料で4件あるとされているが、これがハッチャー証言にある資料の1部なのかどうかについて、「その関係については承知していない」という回答をしている。
 これも回答になっていない。質問は、ハッチャーが送り返したと言っている731関連の資料は現在どこにあるのかということである。これを「米国が返還した4万件の資料」一般の話しにすりかえ、さらに、ハッチャー証言自体を否定してしまっているのである。ハッチャー証言にある「日本に送り返した」という731関連の文書の行方は不明のままである。日本政府の回答は、事実上、そのような文書が返還されたことはないと言っているに等しい。当時のアメリカの陸軍記録管理部長ハッチャーが嘘をついているか、日本政府が嘘をついているか、そのどちらかしかない。

 (4) 731部隊の活動内容断定は困難という被告答弁

 731部隊の戦争犯罪の事実について、被告政府は、「現時点で政府としていわゆる731部隊の具体的な活動内容について断定することは困難と考えている」(98年4月7日村岡官房長官答弁、甲41)と言う。
 被告国は、右答弁と同趣旨の立場を一貫してとり続けてきているが、そうであれば、731部隊の細菌使用による一連の残虐行為がなかったということについて、それが真実であることを立証しうるか、あるいは少なくとも、十分な調査により、真実と誤認したのもやむを得ないほどの確実な資料、根拠を提示することが出来る必要がある。被告国は、本件についての従前の姿勢表明において、本件原告らを含む被害を公表した者らを嘘つきよばわりしたに等しい。
 しかしその中で、井本日誌に関しては、現に被告が保有している文書であり、これに関する判断を拒否することはできないはずである。これに関する質疑を以下に引用する。栗原「それでは、先ほど申しましたこの井本日誌の中に書いてあることは事実としてお認めになりますか。」
説明員(大古)「防衛庁としては、自衛隊に役立てるという観点から、一般的な戦史の研究調査をしてございます。一般に、防衛庁が保管している資料について客観的にそれが事実であるか事実でないかということを判断する立場にはございません」

栗原「それでは、どこが判断する立場にあるんでしょうか、官房長官、お答えください。」
村岡「今いろいろやりとり聞いておりまして、井本さんの日誌とか何かでどこが調査するのかというのは、私も今返答に困っているところであります。これは防衛庁の話しのとおりだろうと思います。」
(甲41)
 井本日誌の記載内容を事実として認めるのか否かは、決して「一般的な戦史研究」の話しではなく、事は戦争犯罪の問題である。村岡官房長官は、「返答に困った」と誤魔化したが、実際は、もはや「資料がない」などと言い逃れができなくなったのである。被告は、これまで「資料がないから判断できない」と言ってきた。しかし、問題は、731部隊が細菌戦を行ったことを示す明白な資料があっても、事実を認定しないことが問題なのであり、その被告の態度は、まさに細菌戦の隠蔽行為以外のなにものでもない。

 6 被告の細菌戦被害賠償立法の不作為

 1990年代に入り、細菌戦の真実暴露が急速に進んだ。すなわち731部隊が細菌戦を行ったことの証拠である井本日誌が発見されたこと、家永教科書裁判最高裁判決において、731部隊が細菌戦を行っていたことが動かしがたい事実として認定されたこと、これらの飛躍的進展が、細菌戦被害者の被った損害を回復するための特別の賠償立法をなすべき日本国憲法上の要請に転化し、被告国会に対し立法課題を提起したというべきである。
 にもかかわらず、被告国会議員は、右特別の賠償立法を現在まで実現していない。


第7章 原告らの損害

第1 衢州の原告らの損害

 浙江省衢州の原告らは、次の別紙原告番号1ないし14の14名である。(なお、同番号は7地域通しの番号とする。また、原告の生年月日は、すべて1900年代なので、西暦の下2桁のみを表示する。死亡者は、原告の3親等内の親族の被害者である。以下、同じ。)
 上記14名の原告らは、その家族が日本軍の細菌戦によって、衢州で発生したペスト流行によりペストに罹患し、いずれも高熱、頭痛、鼠径腺腫、嘔吐などの症状を呈して死亡したことにより、親しい親族をなくしたことで耐え難い精神的苦痛を被った。
 さらに、敗戦直前から戦後現在に至るまでの被告の徹底した隠蔽行為及び立法不作為によって、原告らは新たな耐え難い精神的苦痛を被った。
 上記14名の原告らが戦時中の被告の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金1000万円を下らない。
 また、上記14名の原告らが被告の細菌戦隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。
 さらに、上記14名の原告らが被告の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。

第2 義烏の原告らの損害

 浙江省義烏市市街地の原告らは、別紙の原告番号15ないし58の44名である。
 その家族らが日本軍の細菌戦によって、いずれも義烏で発生したペスト流行によりペストに罹患し、高熱、頭痛、鼠径腺腫、嘔吐などの症状を呈して死亡したことにより、親しい親族をなくしたことで耐え難い精神的苦痛を被った。
 さらに、敗戦直前から戦後現在に至るまでの被告の徹底した隠蔽行為及び立法不作為によって、原告らは新たな耐え難い精神的苦痛を被った。
 上記44名の原告らが戦時中の被告の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金1000万円を下らないことが明らかである。
 また、上記44名の原告らが被告の細菌戦隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。
 さらに、上記44名の原告らが被告の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。

第3 東陽市の原告らの損害

 浙江省東陽市の原告らは、別紙の原告番号59及び60の2名である。
 上記原告2名は、その家族が日本軍の細菌戦によって、いずれも東陽市で発生したペスト流行によりペストに罹患し、いずれも高熱、頭痛、鼠径腺腫、嘔吐などの症状を呈して死亡したことにより、親しい親族をなくしたことで耐え難い精神的苦痛を被った。
 さらに、敗戦直前から戦後現在に至るまでの被告の徹底した隠蔽行為及び立法不作為によって、原告らは新たな耐え難い精神的苦痛を被った。
 上記2名の原告らが戦時中の被告の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金1000万円を下らないことが明らかである。
 また、上記2名の原告らが被告の細菌戦隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。
 さらに、上記2名の原告らが被告の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。

第4 崇山村の原告らの損害

 浙江省義烏市崇山村の原告らは、別紙の原告番号61ないし90の30名である。
 原告王新林、原告王福元、原告王選、原告王俊豪、原告鄭冬妹を除く原告25名及び原告王新林の父王化吉、原告王福元の父、原告王選の父王容海、原告王俊豪の父王良琴、原告鄭冬妹の夫の5名は、その家族が日本軍の細菌戦によって、いずれも崇山村で発生したペスト流行によりペストに罹患し、いずれも高熱、頭痛、鼠径腺腫、嘔吐などの症状を呈して死亡したことにより、親しい親族をなくしたことで耐え難い精神的苦痛を被った。
 上記30名の原告らが戦時中の被告の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金1000万円を下らないことが明らかである。
 また、上記30名の原告らが被告の細菌戦隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。
 さらに、上記30名の原告らが被告の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。
 なお、原告王新林は、父王化吉の死亡により、原告王福元は、父の死亡により、原告王選は、父王容海の死亡により、原告王俊豪は、父王良琴の死亡により、原告鄭冬妹は、夫の死亡により、それぞれ損害賠償請求権を全部相続したものである。

第5 義烏市塔下洲の原告らの損害

 浙江省義烏市塔下洲の原告らは、原告番号91ないし95の5名である。
 上記原告5名は、その家族が日本軍の細菌戦によって、いずれも義烏市塔下洲で発生したペスト流行によりペストに罹患し、いずれも高熱、頭痛、鼠径腺腫、嘔吐などの症状を呈して死亡したことにより、親しい親族をなくしたことで耐え難い精神的苦痛を被った。

 さらに、敗戦直前から戦後現在に至るまでの被告の徹底した隠蔽行為及び立法不作為によって、原告らは新たな耐え難い精神的苦痛を被った。
 上記5名の原告らが戦時中の被告の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金1000万円を下らないことが明らかである。
 また、上記5名の原告らが被告の細菌戦隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。
 さらに、上記5名の原告らが被告の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。

第6 寧波の原告らの損害

 浙江省寧波の原告らは、別紙の原告番号96ないし104の9名である。
 上記原告9名のうち原告番号101番の原告銭貴法を除く8名は、その家族が日本軍の細菌戦によって寧波で発生したペスト流行により、ペストに罹患し、いずれも高熱、頭痛、鼠径腺腫、嘔吐などの症状を呈して死亡したことにより、親しい親族を亡くしたことで耐え難い精神的苦痛を被った。
 また、*印の原告銭貴法は、1940年11月1日にペストに罹患し死線をさまよったが、生き延びたものであり、肉体的かつ精神的な傷害を受け、耐え難い精神的苦痛を被った者である。同人の訴訟承継人範小青は、原告銭貴法の死亡により損害賠償請求権を相続した。
 さらに、敗戦直前から戦後現在に至るまでの被告の徹底した隠蔽行為及び立法不作為によって、原告らは新たな耐え難い精神的苦痛を被った。
 上記9名の原告らが戦時中の被告の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金1000万円を下らないことが明らかである。
 また、上記9名の原告らが被告の細菌戦隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。
 さらに、上記9名の原告らが被告の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。

第7 常徳の原告らの損害

 湖南省常徳の原告らは、別紙原告番号105ないし165の61名である。
 上記原告61名のうち、別紙原告番号133、134、139及び147を除く57名は、その家族が日本軍の細菌戦によって、いずれも常徳で発生したペスト流行によりペストに罹患し、いずれも高熱、頭痛、鼠径腺腫、嘔吐などの症状を呈して死亡したことにより、親しい親族をなくしたことで耐え難い精神的苦痛を被った。また*印の8名の原告は、ペストに罹患し死線をさまよったが、生き延びたものであり、肉体的かつ精神的な傷害を受け、耐え難い精神的苦痛を被った者である。
 さらに、敗戦直前から戦後現在に至るまでの被告の徹底した隠蔽行為及び立法不作為によって、原告らは新たな耐え難い精神的苦痛を被った。
 上記61名の原告らが戦時中の被告の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金1000万円を下らないことが明らかである。
 また、上記61名の原告らが被告の細菌戦隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。
 さらに、上記61名の原告らが被告の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。

第8 江山の原告らの損害

 浙江省江山の原告らは、別紙の原告番号166ないし180の15名である。
 上記原告15名のうち、別紙の原告番号174を除く14名は、その家族が、江山での日本軍の細菌戦によって、コレラに罹患し、いずれも腹痛を起こし、嘔吐、下痢で脱水症状などの症状を呈して死亡したことにより、親しい親族をなくしたことで耐え難い精神的苦痛を被った。また*印の2名の原告は、コレラに罹患し死線をさまよったが、生き延びたものであり、肉体的かつ精神的な傷害を受け、耐え難い精神的苦痛を被った者である。

 さらに、敗戦直前から戦後現在に至るまでの被告の徹底した隠蔽行為及び立法不作為によって、原告らは新たな耐え難い精神的苦痛を被った。
 上記15名の原告らが戦時中の被告の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金1000万円を下らないことが明らかである。
 また、上記15名の原告らが被告の細菌戦隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。
 さらに、上記15名の原告らが被告の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各金500万円を下らない。


第8章 細菌戦による原告らの名誉侵害

 細菌戦は、第1部で縷縷検討したように、生命身体等への直接的な侵害にとどまらず、現在に至るまで、細菌の恐怖は収まらず、また、国が細菌戦の事実を速やかに認めて、適切な立法等による被疑者救済を怠ってきたことにより、現在まで継続して、非常な精神的苦痛、人格権への侵害を受けてきたのであり、この人格権への侵害の重大性は、名誉権への侵害の場合と比肩しうる。


http://www.anti731saikinsen.net/keika/1/junbisyomen/1.html



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