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「親日家」ライシャワー本当の顔(山本武利 『文藝春秋』2003年11月)
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投稿者 へなちょこ 日時 2003 年 11 月 08 日 06:12:16:Ll6.QZOjNOr.w

「親日家」ライシャワー本当の顔(山本武利 『文藝春秋』2003年11月)
以下の文章は同誌掲載の元原稿に引用資料を入れたものです。同誌掲載のものとほぼ同じですが、文献的価値を高めるために、アメリカ国立公文書館の英文タイトル、筆者名と文書番号を挿入しています。


 早稲田大学でゼミの学生に、現在の駐日アメリカ大使の名を訊ねると、知っている者はほとんどいなかった。ところが、ライシャワーの名前は、約半分が知っていた。
 ライシャワーは一九六〇年代前半、つまり彼らの親の世代が中学生だった頃の駐日アメリカ大使である。しかし、彼は大使を辞めた後も、九〇年に亡くなる直前まで、駐日大使経験者として、あるいはハーバード大学教授として、日本人論や時局的発言で日本のマスコミに登場する機会が多かった。
 歴代のアメリカ大使で五年余の在任は最長ではないが、当時から現在まで、日本人にとってもっとも著名で、もっとも愛された¢蜴gであることはたしかである。日本語訳された著書も数多く、自伝も『日本への自叙伝』(日本放送出版協会、一九八二年)、『ライシャワー自伝』(文藝春秋、一九八七年、以下『自伝』)と二つも出ている。
 六一年、ライシャワーはケネディ大統領によって駐日大使に指名された。同時期に指名されたガルブレイス駐印大使もハーバード大学教授だったため、ケネディの母校好みの人事≠ニ評判であった。しかし、『自伝』によると、彼は就任までケネディと面識がなかった。彼が指名された最大の理由は、戦中から戦後にかけて国務省や陸軍省で見せた大学人らしからぬ能力≠ヨの評価が、ワシントンで高かったからである。
 私は、そのライシャワーの大学人らしからぬ能力≠示す二つの資料群を、アメリカ国立公文書館で発見した。そこには、日本の大衆があれだけ彼を歓迎したのとは裏腹に、日本の大衆を徹底して蔑視した、ライシャワーの冷徹な外交官としての素顔を見ることができる。

 ハル・ブームの到来  
 ライシャワーが日本であれだけ歓迎された背景は、彼がBIJ(Born In Japan=日本生まれのアメリカ人)であることと、彼の妻が日本人だったことがある。明治の元勲、松方正義の孫にあたる松方ハルは一九五五年、日本でアメリカ紙の記者をしていたときライシャワーと知り合い、東京女子大で結婚式をあげた。
 大使就任に際してワシントンでおこなわれた資格審査では、この結婚が問題視されたようだ。
「私たちにすれば、妻の市民権のこともつねに気になっていました。妻はすでに1959年12月アメリカ市民権をとっていたのですが、私が初めて大使就任を打診されたときも、ボールズ(引用者注、ワシントンの政界・外交界の重鎮)から『ところで、きみの奥さんはアメリカ市民だったな? 別に問題だというのじゃないが、この種のケースは非常に異例なことなんでね』といわれたものです。ほんとにそうなのです。もと外国市民だった現地生まれの妻を持つ人物がその国の大使に任命される、などというのはまさに未曾有のことだったのです」(『日本への自叙伝』)。
 当時は終戦から十五年しかたっておらず、日米安保条約があったとはいえ、アメリカ人の日本人への不信感は抜きがたかった。その前年、つまり一九六〇年の安保条約改定に際しては、反米デモで、岸首相が招待したアイゼンハワー大統領の訪日ができなくなったこともあり、ワシントンの指導者にも、日本人妻を持つ人物を大使に選ぼうとするケネディ大統領の姿勢に疑問をいだく者が少なくなかった。
 しかし、資格審査の間に、日本メディアのワシントン特派員がこの人事を嗅ぎつけ、大々的に報道した。
「日本語をしゃべり日本人を妻に持つアメリカ大使を日本人は喜び、いまや遅しと発表しと待ちかねた。事があそこまで進んでは、任命に反対するのも、もはや不可能だったことだろう。日本の新聞は早々と私を歓迎する社説を載せ、政治漫画も無数に現れた。池田勇人首相が鉢巻姿で日本の古典を勉強している図に添えて『ライシャワーさんが来る前に』とキャプションがついているのには、思わず笑った」(『自伝』)
 ハル・ブームは、安保改定過程でささくれだっていた日本の対米世論を和らげるのに役立ったのだ。そして一般家庭に普及しはじめたテレビに登場する大使夫妻の言動がいっそうライシャワーの知名度を高めた。
 「最初のうちは何をしてもニュースになり、常に新聞・雑誌に写真が載り、テレビにもいつも顔が出ている感じだった。全国ネットの何局かが前もって出した質問に対しては私も慎重に日本語でしゃべった。だが、メディアを通じて私たちの顔は日本全国に知られ、寸暇を得てちょっと町に出ると、たちまち写真をとられサインをもとめられるようになった。とくにハルと連れ立っていると目立つらしく、三十年以上が経った今日でも、別々のときより一緒のほうがよく見つけられる」(『自伝』)
 たしかにライシャワーほど任地のマスコミに登場したアメリカ大使は珍しく、少なくとも日本の歴代アメリカ駐日大使ではダントツだ。しかも夫妻は、「まるで映画俳優か歌手か、少なくとも日本訪問中のどこかの王妃と王のような扱いを受けた」(『自伝』)。
 当初、日本の外務省や財界もライシャワー就任に好意的でなかった。それは、インテリには日米の懸案を解決できる能力がないという懸念があったからである。しかし熱狂的マスコミ報道がなされ、日本の世論が歓迎姿勢を示すや、指導者も大衆に迎合した。
 ライシャワーは一九一〇(明治四十三)年、明治学院に宣教師として来日していたオーガスト・カール・ライシャワーの次男として日本で生まれた。そしてオハイオ州の公立学校に入る十四歳まで日本を出たことはなかった。彼は、オハイオで初めて黒人を見てびっくりするようなアメリカ人であり、BIJという言葉がぴったり当てはまる幼少年期を日本で過ごした。
 日本語がよくでき、ジャガイモやパンより三度のごはんを好んだ。日本の風景、音、匂いのすべてが、生まれたときから身近であった。そして彼の家庭には日本人への深い敬意があったと『自伝』で述べている。
 しかし現実には、ライシャワーは日本でアメリカン・スクールに通っていたので、日本の教育とは無縁であり、のちに述べるが、日本の大衆とも無縁だった。したがって、ワシントンでの大使資格審査でも、アメリカへの忠誠心が問題とされることはなかったのである。
 むしろ彼の日本への好意とか愛着に期待したのは日本側であった。BIJとして、彼が好意的な日本観をいだくアメリカ人ではないかと、日本人は指導者も大衆も彼に期待を寄せた。
 当時の日本はようやく高度成長期に入ったばかりの頃で、将来への自信は、まだ指導者にもなかった。それよりもアメリカに政治も経済も支えてもらっているという敗戦国の従属、劣等感のほうが根強かった。日本はアメリカの指導者や学者の注目を浴びる国ではない、と勝手に自己を卑下していたのである。
 ところが、日本文化や歴史を専攻し、日本生まれで、日本人妻を持つ一流大学教授が大使に任命されたことで、日本もアメリカに大事にされる国になったのではないかとの自信がいくらかわいてきた。指導者、大衆双方で、これを機に、いっそうの援助をアメリカから得られるのではないかとの甘えが生まれた。
 それがライシャワー人気の背景だった。さらに人気を定着させるハプニングが起こった。1964年3月24日に彼は精神障害の少年に大使館玄関口で包丁で刺され、大腿骨に達する重傷を負った。近くの虎の門病院で緊急の手術と輸血がなされ、一命をとりとめた。その際に彼が病床から出したコメントが日本人の琴線に強く触れた。
 各紙はそれを大きく報じたが、『毎日新聞』3月25日付け夕刊の見出しは卓越していた。“日本人にもらった輸血、これで、つながりが――ライシャワー大使、暖かい微笑”と。
 ライシャワーは、この時の輸血が原因で血清肝炎にかかり、それが慢性化して90年に死去するが、日本での医療を非難することはなかった。それがライシャワーの大衆人気を決定付ける。こうして作られたライシャワー神話≠ヘ、今日まで続くことになる。

 情報将校としての戦時の活躍
 幼少期を日本で過ごし、その後、アメリカに帰ったライシャワーは、オーバリン大学を卒業後、ハーバード大学院に入り、平安期の仏教の研究で博士号をとっている。そして一九四一年、ハーバード大学極東言語学部で日本語の専任講師となった。
 この年末、パールハーバーがあり、日米は開戦するが、その直前の数カ月間、彼は国務省極東課に調査分析官をつとめている。ワシントン暮らし初体験であった。
 そして翌四二年、陸軍省の要請で、ワシントン郊外において暗号解読と翻訳のための暗号要員学校の組織と運営にあたる。その後いったんハーバードに帰るが、四三年九月から陸軍諜報部(G2)のスペシャル・ブランチに所属し、連絡将校として活躍。そのときの地位は少佐だった。
 ブランチの首脳部は、解読した日本語暗号を素早く選別するかれの仕事ぶりに注目し、最優先で部下を選ぶ権利を与えた。かれは自ら育てた暗号将校に指示し、日本軍や政府の暗号文書で、アメリカ側が傍受した重要文書の解読を指揮した。
 「日本陸軍の一般暗号を解読しかけていたとき、思わぬ幸運が舞い込んだ。1944年1月、ニューギニア北岸を進んでいた米軍が、日本軍の暗号簿をそっくり手に入れたのである。解読の苦労は、一挙になくなった。以後は解読機械が滝のように情報を吐き出し、私たちは宝の山に埋もれそうになった」
 「戦争末期の1年半ほどの私の仕事ほど面白いものは、あの大戦中にも例が少ないだろう。日本陸軍やその配置に関する情報は、すべて私の手を通り、外交電報もほとんどを見た私は、日本の立場から戦争全体を眺めることができた」(以上、『自伝』)
 彼は戦時中、自分が生まれ育ち、人も風物も愛している国を相手に戦っていたが、日系二世が感じたような、アメリカと日本の「二つの祖国」という葛藤や精神的苦悩を感じなかったようだ。それどころか軍国主義退治のために、アメリカの勝利のためにベストをつくす点で、なんら迷いはなかったという。
 日本語や日本の歴史に通じた情報将校として、彼は、日本軍の暗号解読、情報分析で輝かしい実績を残した。この功績で、彼は陸軍から勲功章を与えられたほどである。
 さらに彼の情報将校としてのワシントンでの評価が大きかったことを証左となる資料群がある。それは最初に述べたアメリカ国立公文書館での二つの発見資料群の一つである。終戦時OSS(アメリカ戦略諜報局、CIAの前身)では戦後の日本工作に「アドバイザーとして役立つ可能性のあるアメリカ人リスト」を作成した(OSS “List of Americans Who Might Serve as Advisers”RG226E139B141F1905,作成日時不明)。そこには彼の名がハーバード大学での恩師かつ上司のセルゲイ・エリセーエフ教授など7人とともにあがっている。なお後のCIAとかかわりあいでは、エリセーエフの可能性は高いが、ライシャワーはわからない。
 また、そのエリセーエフ教授が1944年5月5日付けのOSSあて文書で、ライシャワーを日本向けブラック・プロパガンダの顧問とすべきだという推薦文を書いている(Serge Elisseeff ”Dear Major Stevens”, RG226 E92A B102 F2131)。さらに、後のCIAとの関わり合いでは、エリセーエフばかりか、ライシャワーも濃厚に関りあっていたことを示唆する資料も見つかっている(Oliver J.Caldwell,”A Proposed Permanent Intelligence Organization Employing Personnel in the Christian Colleges in China, operating through the Associated Boards for Christian Colleges in China, under the auspices of the Office of the Strategic Service” 1945.8.28 ,RG226E216B2)。
 ともかく、この戦中の時代への再評価が大使就任審査における夫人問題やBIJ問題をかき消し、さらにはひよわな文人大使への不安を吹き飛ばすほどの効果をもったと思われる。

 日本人大衆への蔑視
 『自伝』には、暗号学校時代にいくつかの提案を書いた、という記述ある。だが、それぞれの提案が数行で要約されているため、論旨の展開がわかりにくい。
 筆者はそのうち一九四二年十二月十二日付の「日本への心理戦争の目的」という四ページの原文をアメリカ国立公文書館で発見した(Edwin O. Reishauer, ”The Aims of Psychological Warfare against Japan”,1942.12.12,RG208E6GB135)。それは陸軍省諜報部の求めに応じた提案であった。それが、冒頭述べたもう1つの発見資料群である。
 以下、これを要約しながら説明する。
 ライシャワーは、この提案の冒頭で、日本の戦力はまだ健在で、本土への武力攻撃の時期が見通すことができないと述べる。
 ――秘密の工作員を潜入させることもできないし、飛行機からパンフレットやビラをまくことも期待できない。そこで国境を越えて安全に本土に進入できるラジオがプロパガンダのメディアとして期待できる。実際に短波のVAO(アメリカの声)が日本に送られている。
 しかし長い間、日本政府は短波ラジオ受信機の個人所有を禁止してきた。そのため、日本でそれに接することができる者は政府、軍高官だけである。プロパガンダがターゲットとすべき大衆は中波ラジオしか持っていない。ところがアメリカや連合軍の支配地から本土への距離が長すぎるため、中波での放送は洋上で消え、本土に届かない。
 結局、以前からも唯一のメディアである短波だけが有力なプロパガンダのメディアである。したがって日本への心理戦争は高級官吏や高級将校という小集団を対象とした短波ラジオだけが戦略的意味がある――とライシャワーは主張している。
 そして、彼は短波ラジオの継続を前提に、その番組の内容に注文をつける。
 ――聴取者はたかだか五百人に過ぎないが、彼らは影響力を持つ指導者である。彼らは非常に知的で、よく情報をつかんでいる人々だ。したがって上品で、知的に洗練された以下のような番組でなければならない。
「1、正確なニュース」「2、戦況の権威ある分析」「3、アメリカ、連合軍の条約、協定の全面的提供」「4、経済問題の議論」「5、クラシック音楽」「6、科学、芸術、日本史の知的トピックスの議論」「7、英語や他の言語の教育番組」
 このような番組を粘り強く流せば、日本の指導者の一部に降服した方がよいとの態度が生まれる。つまり指導者内部の亀裂の始まりである。それがまさに短波継続の狙いだ。戦局がさらに悪化すると、彼らは内部分裂回避のため、戦争をただちにやめる。かくて連合軍の数十万人の命が救われよう。「知性の低い聴き手やとるにたらぬ聞き手」を相手にすべきでない。彼らを喜ばせる軽々しいものは、肝心の指導者に嫌われるので、ジャズ、歌謡曲の類は排除しなければならない――。
 ライシャワーはこうした提案において、大衆の視聴者を軽視した。そのため彼に大衆への影響力増大の可能性の提言を求めた陸軍省の担当者をがっかりさせ、ほんとうに指導者に高級な番組を送り続けるだけでよいのかと首をひねらせた。太平洋上でラジオを聞く兵士もいよう、彼らは帰還したとき、家族、友人にその情報を伝えるだろう、と。
 しかし、ライシャワーはその担当者よりも日本軍の事情を知っていた。戦地でラジオに接することができるのは、将校だけであることを。  
 さらにライシャワーは確信していた。前線の兵卒も銃後の大衆もみな指導者から情報を与えられなくとも満足していると。彼の提言には、「(日本人は)きわめて排他的で、どの国の国民よりも指導者によってよく飼育され、支配されている」とか、「指導者に従う羊のように従順な大衆」といった表現が随所に出ている。したがって番組はエリートのみを考えればよい。「知性の低い聴き手やとるにたらぬ聞き手」を相手にすべきでない。
 実際、彼の見通しは正しかった。戦局が悪化するにつれ、半ば公然とVOAを聞く指導者は増え、それが伝える情報によって降伏への心理的傾斜が指導者内部に培養された。
 彼はプロパガンダ作戦で的確な情報分析を行い、戦術、戦略を描ける能力があることを示したが、その際、大衆に幻想をいだかなかった点に特色がある。開戦まで日本大使だったグルーもOSS幹部への書簡(JohnC. Grew,”My Dear General Donovan”,1944.6.26,RG226E139B143F1933)で大衆蔑視を語っていたが、大衆への蔑視と指導者への敬意がライシャワーの日本人観にはっきり出ていた。そのことが、大学人らしからぬ能力≠ニして評価されたのである。
 BIJとして、日本への愛着を強調する割に、彼は日本での幼少年期、親から日本人の子どもと遊ぶ機会をあたえられなかったという。明治学院の宿舎からアメリカン・スクールに通い、夏は軽井沢でアメリカ人とすごした。普段接する日本人で大衆に相当する者といえば、住み込みの三人のお手伝いだけであった。こうした大衆から隔絶した環境も、大衆蔑視あるいは軽視の感情を育てたといえよう。
 戦後、とくに大使就任後の彼の言動には、戦時の提言に見られた大衆蔑視を露骨に示すものが見当たらない。彼は数多い日本人論の中で、大衆を論じることは少なくなかったが、大衆を馬鹿にした表現は慎重に回避している。たとえば、「日本人は権威に盲従し、無表情なロボットのような社会的同調性の強い民族である」と再三指摘しているが、提言にあるような露骨な表現はない。責任ある著名人の彼は大使就任以降ホンネを吐かなかったのである。
 しかし大使時代、野党や労働組合指導者とは会っているが、一般庶民と会合することは稀であった。彼は東京でも地方でもできるだけ多くの日本人に会うようつとめたと言うが、「一般の日本人に会ったり話したりするのは、アメリカ人や大使連中や日本の高官と交わるよりはるかに難しかった」(『自伝』)と述べ、その理由として、多数の人が夫妻の周りに殺到するので、警官やボディーガードに守られた「囚人」にならざるを得なかったことをあげている。
 しかし会おうという姿勢があれば、大使館でもホテルでもどこでも面会可能であったはずである。会わなかったのは、会う必要を感じなかったからだろう。つまり大衆は指導者に支配された「従順な羊」という見方が依然として彼のなかにあったわけである。
 しかも、戦前になかったテレビが急速に普及し、夫妻の一挙手一投足を捉え、彼の意図に沿った報道をしてくれていた。大使時代、大衆は戦前の日本指導者以上に御しやすいとの考えが強まったと思われる。
 私の見つけたこの「日本への心理戦争の目的」には、短いが注目すべき昭和天皇にかんする記述がある。短波番組の編集方針を述べたくだりに「現在の軍は明治天皇の出した五箇条の誓文から逸脱し、現天皇の真の願望を軽視し、国家的破局もたらす方向に乗り出した」という点、つまり軍部指導部が天皇の意向に反した戦争行為を行っていることを指摘した放送を行うべきだと強調している。そうすれば、ライシャワーは戦局悪化の際に分裂が予想される日本の指導者層から生まれる和平派と天皇が提携すると期待してことになる。
 カリフォルニア大学のタカシ・フジタニ教授はアメリカ国立公文書館で発見の1942年9月12日付けの資料になかで、ライシャワーが天皇を「自由主義者であり、心の中では平和を好む男だ」と見ていることに注目している(「ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」『世界』2000年3月号)。ほぼ同じ時期にワシントンで出された別々のライシャワー提案をフジタニ教授と私は偶然発見したわけだが、両資料からライシャワーが天皇を軍部とは一線を画すどころか、それと異質な和平派とみていることが確認できる。
 戦争初期から天皇への攻撃は日本人全体の反発を買うだけだとして、天皇への言及はアメリカの対日プロパガンダから排除されていた。この方針に沿って、ライシャワーはプロパガンダの提案を出したわけだが、彼が天皇を反軍部であり、和平派と認識し、主張していたことは先見性があった。その天皇観は国務次官になったグルーによる工作で終戦直前にワシントンの政府、軍部に浸透したものである。彼が、国民は現軍部指導者よりも和平派、そして和平派よりも天皇のほうに従順であると見ていたことは言うまでもない。
 ともかく「日本への心理戦争の目的」の結論部分で、ライシャワーは
 1、日本の大衆には、現在の心理戦争は影響を与えていない。この状況は戦争末期まで続く可能性が大である。
 2、「全対主義者」の大衆心理への支配が成功している現段階では、連合国は大衆を指導者から離反させる希望はほとんど持てない。したがって大衆へのプロパガンダは、軍事的破局が進みだすまで、ほとんど、いやまったくの効果を持たないという。大衆が指導者の支配から逃れられるのは、戦争末期であり、そのときまでは大衆への期待は持てないというのが、彼の一貫した主張である。

 マスコミの利用と攻撃
 さらに戦中の彼の提言に、「日本のマスコミは指導者のきびしい検閲を受けて、大衆操作に使われている」との指摘がある。つまりマスコミと大衆を同列に置いている。記者も受け手も大衆も社会的同調性が強く、指導者に従順と見ていた。しかも、彼はポピュリストとしての立ち居振る舞いを見事に演じられるタレントであった。「歌えと命じられたので口を開くと、不思議や声は滑らかに出て聴衆は歓呼した」(『自伝』)。
 ライシャワーはマスコミを通じてアメリカの政策、方針を大衆に伝播し、彼らの操縦に成功した。
 最初は嫌悪感を示した保守政界や財界も、結局はライシャワーの活動を歓迎した。彼らはライシャワーがハーバード大学に帰任すると、彼の功績を称え、高度成長で得た資金を寄付講座の形で贈った。その資金で、一九七三年には、ハーバードに「ライシャワー日本研究所」が創立された。一方、日本の左翼陣営は彼の活動を「ライシャワー路線」と批判したが、彼の戦略や人気に立ち向かうことができなかった。
 ライシャワーの大使時代、ケネディ時代に本格化し、ジョンソン大統領となって泥沼化したベトナム戦争をめぐり、アメリカだけでなく日本でもベトナム反戦の激しい運動や世論が高まっていた。
 ライシャワーは、自らの人気の余勢を駆って、一九六五年十月五日、大阪での記者会見で、毎日新聞の大森実外信部長のベトナム報道を名指しで批判した。当時、大森は自由主義国家の記者として初めてアメリカの北ベトナム無差別爆撃のエスカレートぶりを現地報道していた。ライシャワーは大森報道の欠陥をこう指摘した。「宣伝映画を見たことが現物を見たことになるというのでしょうか。たとえば、アメリカが十日間もライ病院を爆撃したというようなことについて彼は非常に長文の記事を書いておりますが、気違いでもないかぎり十日間も続けて病院を爆撃するというようなことをするものがいるでしょうか」
 さらにライシャワーは大森のライ病院爆撃の報道はベトナム側の撮影したものに依拠して書いているものであるとし、止めを刺すようにこう言った。「これは純然たる宣伝であります。それなのに、明らかな宣伝と自分の目で見たことの区別がつかないようでは、新聞記者としての資格に欠けるものといわなければなりません」
 この記者会見は、センセーショナルに各マスコミに報道された。しかし新聞の編集権に対する外国大使の介入と猛然と批判するメディアは現れなかった。それどころか肝心の毎日新聞社の主筆がライシャワーを訪ねて謝罪をした後、友好的な関係を続けるように要請したと、『自伝』は記している。
 ライシャワーの攻撃から記者を守るべき同紙幹部が、ライシャワーの平身低頭したわけである。その幹部はライシャワーの意向を忖度し、大森処分を決断したと思われる。大森は社内で窓際に追いやられ、結局翌年退社せざるを得なくなった。
 大森の脇が甘かったことはたしかである。記事中に「ベトナム側の撮影」映画とソースを明かす必要は必ずしもなかったし、自社幹部にアメリカ大使への抵抗の姿勢があると見たのも甘かった。「アメリカの嘘の化けの皮を剥がしてやるべきだと思った。結果として、剥がしたつもりだが、逆効果を生んだのは、日本の新聞の権威の弱さ、記者への信頼感の欠如」にあったと大森が言っても後の祭りだった(『石に書く』)。
 むしろ、ライシャワーの方が日本の新聞の権力への弱さを冷徹に認識して行動していた。彼は、「大使が新聞や記者の名を挙げて批判するのは許すべからざることで、私も言った瞬間、自分の失言に気付いた」と『自伝』で発言の偶然性を主張しているが、それは正直ではない。『石に書く』によると、ライシャワーは記者会見のあった五日の朝、毎日新聞本社に通訳を通じて電話を入れ、「これから大阪に行き、重大声明を発表するから注意されたい」とわざわざ予告しているのだ。
 毎日新聞社はアメリカ大使という権力に屈服すること、同社へのマスコミ他社の声援がないこと、そして権威に弱い大衆はアメリカ大使を支持することを見抜いた上での打算的攻撃だった。これは、彼の戦時からの日本大衆やマスコミ観の実践であった。
 陸軍諜報部やOSSも彼のインテリジェンス能力の高さを認めていたが、それは、対象となる情報への冷徹で客観的な姿勢に裏打ちされていた。
 結局、ライシャワーは、日本の大衆が彼に感じていたような、無制限な親日家ではなく、冷徹な外交官であり、大衆に対してはかなり厳しい蔑視感情を持っていたのである。

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