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Re: 文明とは?
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投稿者 金十字架 日時 2004 年 4 月 05 日 16:21:19:mfAWtS4GF8MpY
 

(回答先: オーパーツ  先史01 投稿者 乃依 日時 2004 年 2 月 08 日 09:43:32)

http://www.y-asakawa.com/tansaku-report/report-mexico1.htm
より抜粋
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 古代マヤ文明を調べていると、不思議に思うことに出くわす。遺跡から発掘された遺物は数千年前の時代から想像される月並みのものである一方、天文学や暦(特に長期暦)、数学といった分野は、異常なほどに発達しており、当時の文化水準とはあまりにかけ離れすぎていることに驚かされる。

 これらの突出した分野がマヤより古い起源を持つオルメカ文明から引き継いだものかどうかについては、学者によって異論があるが、仮にオルメカ文明がこれらの分野の源流だとしても、その突出した分野が異常である点においては、なんらマヤと変わりはない。

 それは、エジプトにおける三大ピラミッドやペルーにおける巨石の石積みの建造技術が当時の文化水準や技術水準から極端にかけ離れている状況に非常によく似た現象である。エジプト文明に限らず、インカ文明、マヤ文明、オルメカ文明などに共通していることは、原始から高度に発展した文化や社会への移行期間があまりに短すぎることである。

 特にその傾向が、各文明が持っていた専門的分野の驚異的な技術的進化に見ることが出来る。その顕著な例が文字や数字の発明や三大ピラミッドの建造技術、巨石の運搬技術、硬質岩の研磨技術、天体観測の技術、長期暦の作成技術などである。

 通常これらの分野が原始的なレベルから発展するのには、少なくとも千年、あるいは数千年の歳月が必要とされる。ところがエジプトなどの文明においては、数百年それもわずか200年、300年の期間で飛躍的な進歩が起こってしまっており、その発展の土台となるものがものが見つからないのである。

 これを説明する一つの方法は、エジプトをはじめとする各古代文明がそれらより「先行する文明」から多くの知識を学んだと考えることである。つまり、我々の知る過去の文明は、歴史学者がいうように原始から徐々に発展してきたのではなく、先行する文明から高度な知識や技術の一部の遺産を受け継いだと考えることである。

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*今朝、何故か寝床の中で マヤ ホピ族 という言葉が強く印象づけられる夢を見て、以前にも、トルコ風装飾きらびやかな金の剣と十字架とイスラム、そして港が強く印象に残る夢を見、ハザール帝国の存在に出くわし調べ始めた経緯があり、それと今回が似ていたもので、気になり検索している途中ここ阿修羅に辿り着いたものである。
ちなみに私はマヤ、ホピについては現在その単語ぐらいしか知らない。つまり興味がなかった。
不思議に続きの長い夢を見て自分はマヤ ホピの血筋と認識させられるような内容である事に夢の中では同意していた。目覚めた状態でもまた調べれば面白いのかも知れない、という気になりちょっと調べたらハザール同様また面白いパーツが見つかった。私はくだらない情報に埋もれた文字本というものを読み漁る習慣がない。よって物事にあまり執着しない。なんらかのこういった不思議な切っ掛けを掴んだのちは、特別優れた情報に出会うという運に恵まれている気がしている。
余談だが文字と言うものはあまり情報を正確に伝えるのに適していない気がする。訳されたり、相手の捉え方によって大きく意味が変わる為である。言葉が通じない方がかえって行動で意思を示す事が出来て、思いや心というものが相手に深いところ迄伝わる。不立文字というのは以心伝心、口伝というのはそういった意味も有る。文字はあくまで飾りでしかない。文字とは肉体的であり物質的である。書という見方になるとまた趣が変わってくるがそれはまた別物である。


マヤ ホピ についてはもう少し調べてみる事にして現在、縄文、キリスト教、イスラム、トルコ・ハザール同様、マヤ・ホピについても自分の中で特別な意識感情を持って認識する機会を得た。鳥の知恵により創造したというピラミッド、テレパシーで話す今は亡き純血アボリジニの知恵であった胎血の知恵、そう言った一種超能力が関係しているというものから切り離せない雑学的なものが今後すべてパーツとして繋がって行くのか今後もなんらかの切っ掛けとなる事を期待したい。雑学的なもので得ていたとしても、マヤ ホピについては、"恐ろしい龍の姿を恐れ壁画に描かれていた"という事や"生け贄があった"程度の事しか知らず、なにか蔑視していた感が有る。しかし今回ひとつのWebを見た事で過去そうではなかったという情報によりパーツのひとつとして、やはり!というひらめきを得た。


http://www.y-asakawa.com/tansaku-report/report-mexico1.htm
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神格化したケツァルコアトル

 メキシコ高原のテオティワカンからユカタン半島の チチェンイッツァまで、メソアメリカ一帯のほとんどすべての古代遺跡に登場する「ケツァルコアトル」は、オルメカ、マヤ、アステカ、トルテカ人にとって神であると同時に、遠い昔に実在し、先祖を文明化に導いた偉大な人物として、彼らの伝説や神話に頻繁に登場する。

 メソアメリカの多くの民族に伝わる伝説や神話によると、ケツァルコアトルは、、トウモロコシの栽培をはじめとする生産性の高い農業技術をもたらし、放浪する狩猟の民を定住させ、文字をもたらし、カレンダーを発明し、石積みと建築の技術を教えた偉大な人物とされている。 

 その姿は、ショチカルコの神殿の基壇に刻まれ今もなお鮮明に残っている。また、 チチェンイッツァやテオティワカンのピラミッドにもその頭部像をはっきりと見ることができる。しかしながら、神格化されたその像は、開いた顎や、二股の舌などを持った大蛇の如く描かれており、伝説や神話の伝えるケツァルコアトルの本来の姿からはまったくかけ離れてしまっている。

 そのため、神話や伝説を知らぬ人々が、それらの像を眺めると、ケツァルコアトルはいかにも無慈悲で残虐な神であるかのように見てしまうに違いない。さらに困ったことにメソアメリカ文明特有の「生贄の儀式」がその見方に追い打ちをかけることになる。

 メソアメリカに栄えた多くの文明において、早くから「人身供養」というおぞましい儀式が定着していた。この風習は時代を経るとともに、その度合いを増して、16世紀はじめのアステカ時代における犠牲者は毎年25万人に達したと言われているほどである。

 血を流す儀式の犠牲者の多くは、彼らの守護神「ケツァルコアトル」に捧げられたわけであるから、ケツァルコアトルは一段と無慈悲で残虐な神であるということになってしまう。このように崇拝する対象物やそれを敬う儀式が長い年月を経るうちに、本来の姿からかけ離れたものとなってしまうことは、多くの宗教において見られることであるが、メソアメリカにおいてもそれは例外ではなかった。

 しかし、原初のケツァルコアトルは後世に人身御供の対象とされ神格化された人物とは180度異なる、聡明で慈悲深い人物であったのである。伝説によると、ケツァルコアトルは戦争や生け贄の話を聞くといつも耳をふさいだという。それ故、彼の存在した時代は一切の人身供養は堅く禁じられ、代わりにカタツムリや蝶や、鳥たちが犠牲に供されたことが伝えられている。

 ケツァルコアトルについて、アイリーン・ニコルソンは著書『マヤ・アステカの神話』の中で、次のように述べている。 
ケツァルコアトルは、偉大な法律制定者兼啓蒙家で、暦や「運命の書」の発明家である。彼は、慈悲深い王で、仏陀と同じく生き物を殺生することなど思いも及ばなかった。悪魔どもは、彼に殺戮や人身供犠をやらせようと絶えず説得に努めただが、チマルポポカ絵文書の無名の著者がいうように、「彼はけっして同意することはなかった。なぜなら、彼は隷属民のトルテカ人を愛し、犠牲に供したものはいつもカタツムリ、鳥、蝶だったからである」

 

 ケツァルコアトルは本当に実在したのか

 それでは、メソアメリカ文明の夜明けを前にして未だ原始的な生活を送っていた先住民を文明開化へと導いたケツァルコアトルとは如何なる人物で、本当に実在した人物であったのだろうか。

 ニコルソンはケツァルコアトルの実在性について次のように述べている。
歴史的には、ケツァルコアトルが存在したという事実はない。しかし、神話に即して見るならば、それはいろいろ異なった水準の世界で一連の真理を体現しており、そのこと自体ケツァルコアトルがある時代に偉大な宗教考案者の国に存在したことのじゅうぶんな証明であることことが分かるだろう。
                                     『マヤ・アステカの神話』

 また、マヤ研究の第一人者であるシルバナス・モーリーも、「伝説に登場するマヤの神ククルカン(ケツァルコアトルのマヤ版)は、その偉大な行為、街を造り、法律を定め、暦について教えた事柄や、その生涯があまりにも人間的であったことからして歴史上実在した人物であるに違いない、そしてこの人物の業績は、死んだ後も長く語り継がれ、最終的には神格化されたのであろう」と、述べている。

 ケツァルコアトル(ククルカン)は、多くの神話や伝説の中で些細な表現は異なるものの、大局的には、非常に似通った人物として登場している。
ケツァルコアトルの目に見える部分の描写は、細部まで記録されている。彼は黒髪とする記述が少なくとも一つあるけれど、彼は、背が高く、頑丈で、眉毛が太く。大きな目と美しい口ひげをもっていたと言われる。彼は円錐形のオセロットの帽子をかぶっていた。顔は煤で汚れ、貝殻のネックレスをつけ、背にケツァル鳥を止まらせていた。上着は木綿製で、足首に輪とガラガラをつけ、泡のサンダルを履いていた。                  『マヤ・アステカの神話』

 また、ケツァルコアトルは一人ではなく、家族や何人かの仲間を引き連れていたことが、多くの伝説や伝承に残されている。
ククルカンは19人の仲間を連れていた。そのうち二人は魚の神で、二人は農業の神で二人は雷の神だった。・・・・・彼らはユカタンに10年間滞在した。ククルカンは画期的な法律を制定し、太陽の昇る方向に船で去って行った・・・・

太古にメキシコに来た人は20名だったという。その首領はククルカンと呼ばれ・・・・彼らは流れるロープをまとい、サンダルをはき、長いあご髭をもち、頭は坊主だった・・・・ククルカンは人々に平和を説いた。また多くの重要な建築物を建てた・・・・

その身のこなしは洗練されており、良い服を着ていた。黒いローブは前が開き、帽子はかぶらず、服の首のところは深くカットされていた。袖は短く肘まで達していなかった・・・・・ケツァルコアトルの弟子たちは偉大な知識を持ち、あらゆる仕事において優れた技術をもっていた。
                                               『神々の指紋』

 後世には神格化されてしまったとはいえ、ケツァルコアトルの行った事柄や、その容姿が、着るものから履き物に至るまでこれだけ具体的に語り伝えられ、伝えられる時代と民族に違いがあるのにも関わらず,大局的に類似している点を考えると、ニコルソンが述べているように、ケツァルコアトルが実在したことは疑う余地がないように思われる。

 それでは、ケツァルコアトルがメキシコ地方に現れ、そこで先住民の教化につとめた時代は一体いつ頃であったのであろうか?ニコルソンは、その時代を推測して『マヤ・アステカの神話』のなかで次のように述べている。
歴史上ケツァルコアトルが一人以上いたことは、まず間違いない。・・・・メキシコに住んで研究を続けているフランスの考古学者ローレット・セジュルネは、ケツァルコアトルはキりストとほぼ同時代に生きていた一人の王だとしている。トウモロコシは人間にとって優良な主食だということを発見したのが、もし彼だとしたら、彼はは確かにもっと早い時期に生きていたのでなければならない。炭素14による年代測定によれば、トウモロコシは中部アメリカでは八千ないし九千年以前に栽培されていた。しかし、そんなことはあり得ないと思うが八千年前だとする者もあり、(考古学者の唱える)年代は暫定的なものである。

 こうしてみてくると、既に読者にはお気づきのことと思われるが、ケツァルコアトルは、ペルー探索で登場した「ビラコチャ」に驚くほどよく似ている。両者の姿形から人柄、為した業績はまさに瓜二つである。また彼と仲間の持っていた農業技術から医薬、天文、石積みに至るまでの特別なの技術も同様である。

 アンデスやメソアメリカの人々が語り伝える伝説や神話を素直に受け止めるなら、遠い過去にアンデス文明を発展させたビラコチャとその仲間の一行は、蛇の筏に乗ってペルーから「奇跡のように」立ち去った後、メキシコ湾岸に現れ、コアツェコアルコス川沿いの「蛇の聖地」ベラクルスに上陸しオルメカ、マヤ文明の発展に手を貸したものと思われる。

 ケツァルコアトルの名前の由来

 ケツァルコアトルの名前の由来について調べてみると、「ケツァル」は、チアパスとグアテマラの高原地帯に生息する緑の羽をもった鳥で、木の梢に住み、めったに人目に触れず、前二趾だけでほとんど鉤爪をもたないことによって他の烏と識別される珍しい鳥の名前である。また、「コアトル」は、蛇を意味するナワ語であるが、マヤ語の「蛇」を意味するコと、「水」を意味するナワ語のアトルとの、合成語である。

 ということは、ケツァルコアトルとは、「鳥の羽を持った水蛇」という意味になる。それではどこからこんな奇妙なな名前が生まれたのかというと、実は、ケツァルコアトルと仲間の一行がメキシコ湾に現れた時に乗っていた船の姿からきているのではないかと思われる。

 メキシコ先住民族の伝説は、彼らがはじめてケツァルコアトルたちの乗った船を見たときの様子を次のように伝えている。「船の脇には、蛇の皮の模様があった」。つまり、「コアトル」と呼ばれる「水の中の蛇」という表現は、船の形そのものが細長く蛇のように見えたということと併せて、船体に蛇の皮に見える縞模様が描かれていたことから来ていると考えられる。

 一方、ペルーを去るビラコチャの一行が乗った船が、「蛇の筏」といわれていることは、その船体にも蛇の皮の模様があったことが想定され、ビラコチャとケツァルコアトルの乗った船が同一のものであることを伺わせる。つまり、、ペルーの地を離れたビラコチャは、その後、メキシコ湾に現れ、後に「蛇の聖地」と呼ばれるベラクルスに上陸したのであろう。

 また、「ケツァル」を意味する「鳥」とか「羽」とかという表現も、単純に鳥とか羽を表しているのではなく、鳥や羽の持つ特性を表現しているのものと考えるのが正しいように思われる。つまり、メキシコの先住民の目から見ると、まるで空を飛ぶように軽やかに進んだのかもしれないし、あるいは本当に鳥のように空を飛ぶことの出来たのかもしれない。 

 つまり、その船は、羽根の付いた水中翼船か水上飛行機のようなものであったのかもしれない。現にケツァルコアトルのマヤ版である「ククルカン」を直訳すると、「翼を持った蛇」となる。

 私の仮説が単なる思いつきでない裏付けとして、ビラコチャたち一行がペルーを離れるときの伝説に奇妙な一節がある。つまり、ペルーの人々が見送る中、「ビラコチャたち一行は、立ったまま海を歩いて大洋の彼方に消えた」、「それは奇跡のようであった」と表現されている。

 それは潜水艦が出航するとき、船員が船上に立って見送られる姿を想い起こさせる。もしもその姿を先住民が眺めたら、「ビラコチャたちは、立ったまま海を歩いて去って行った」と表現するに違いない。

 少なくとも、ケツァルコアトル一行が乗っていた船が筏や丸木船のような原始的なものでないことは、伝説がはっきりと伝えている。特に印象的なメソアメリカの神話には、「その船は櫂をこがなくても走った」という一節がある。

 更に、それを補完する伝説に、彼らがメキシコの地を去るとき、「銀と貝殻で出来た家を焼き、宝物を埋め、輝く鳥に変えられた弟子たちの先導により東の海を航海した」とある(『神々の指紋』)。この一節を読むと、私は、何故か、彼らの船は、何か軽金属のようなもので出来ており、それも水中はおろか、潜水も、飛行さえも可能だった超近代的な乗り物をイメージしてしまう。

 こうしてみてみると、考古学者や歴史学者が説く石器時代に当たる6000年前から1万年前頃の時代に、超先進的な考え方や各分野の専門知識を携えた一段の集団(伝説では10人から20人ぐらいの人々と伝えるケースが多い)が世界の各地を回って、文明とはおよそかけ離れた生活を送っていた人々に対して、人としてのあるべき姿、争いを止めて平和に暮らすことや、一夫一妻制を説きながら、トウモロコシやジャガイモ栽培の高度な農業技術をはじめ、天文学、医学、法律などを教えた姿が見えてくる。

 それらの人々が、アンデスでは「ビラコチャ」であり、メソアメリカでは「ケツァルコアトル」や「ククルカン」であり、またエジプトでは「オシリス」や「イシス」であったのではなかろうか。この考えは、グラハム・ハンコックが彼の一連の著書の中で一貫して説くところであるが、私も今回ペルー、エジプト、そしてメキシコの地を訪ねてみてまったく同様の考え方に立ち至った。

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すべて1つと繋がる、という主張というのはなにも最近ポッと現れたものではない。
勘の鈍い人間の主張はいつ聞いてもあくびがでる。

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