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西谷修氏のサイトを紹介します。
http://www.asyura2.com/0311/nametoroku1/msg/912.html
投稿者 こいけ 日時 2004 年 8 月 12 日 10:22:12:.czHagD0Wg4eY
 

氏はバタイユの翻訳で知られていますが、最近はピエール・ルジャンドル氏の
「ドグマ人類学」の日本への紹介に力をいれておられるようです。


《誰に「責任」があるのか?》
『世界』727(2004年7月)
西谷 修


腐りゆく「正義」

開戦理由とされた大量破壊兵器が見つからないだけでなく、イラクを独裁者から「解放する」というもうひとつの口実も、米英占領軍のイラク人拘束者に対す
る「虐待」が明るみに出ることで剥がれ落ち、アメリカがイラクに向けて起こした戦争とそれに続く占領支配は、その正当性を失うどころか、しだいに拡大す
る混乱のなかでいまやほとんど腐臭を発していると言ってもよい。

たしかにアブグレイブ刑務所における醜悪な虐待の写真は衝撃的だった。たんに身体的苦痛を与えるだけでなく、性的な陵辱を加える。米兵たちは死の暴力の
威嚇のもとで、無抵抗の拘束者を文字どおり犬のように扱い、さらに自分たちがそれ嘲笑するさまを得意げに写真に収めているのだ。この米兵たちを極め付き
の破廉恥と言わずして何というのか。

だが、このことにいまさら驚くにはあたらない。すでに三年近く前、九・一一の直後にブッシュ政権が「テロとの戦争」を打ち出して以来、チェイニー副大統
領やラムズフェルド国防長官は、「この戦争は従来とは違う」、「汚い戦争の手段を復活することになる」、「拘束者は戦争捕虜ではなく、ジュネーヴ条約の
適用外だ」とことあるごとに言明してきた。そして誰もが知るように、アフガニスタン攻撃の後キューバのグアンタナモ基地に、もはやいかなる人権も顧慮し
ない「特殊尋問」のための特別収容所を作ったのである。タリバン政権の外相役を務めていたザイーフ氏も、翌年七月にこの収容所で死亡したと報じられた
が、どのような状況のもとで死んだのかはいっさい伝えられていない。

「虐待」だけではない。占領軍の情報当局自身が、イラク人拘束の九〇パーセント(!)は「誤認」だと推定しているという(昨年10月の赤十字報告、ロイ
ター5/11)。つまり怪しいとされた者だけでなく、掃討作戦を容易にするために、また米軍への抵抗の意思を挫くために、恣意的にイラク市民を拘束して
いるということだ。その多くが数週間の拘留の後、理由も告げられずに釈放されているというが、もちろん生きて帰らない場合もある。

国防省の責任者であるラムズフェルドが、虐待写真の流出によるスキャンダルを前にどのように弁明しようとも、これは彼ら自身が「テロとの戦争」にとって
は当たり前のこととして予告さえしていたことである。つまりこれは、厳しいメディア統制のもとで、やっと目に見えるかたちで露見した「テロとの戦争」の
「正義」の実態なのである(ついでに喚起しておけば、米軍は「現場」を報道するジャーナリストもほとんど「テロリスト」扱いしており、バグダッドのホテ
ルやアルジャジーラ支局を砲撃して数人の記者を死なせただけでなく、最近、ロイター記者も米軍によって拘束され、同じような「虐待」を受けたことが公表
されている。もうひとつついでに言えば、このとき米軍がもちだす正当化の論理が「自己責任」論である。危険を承知で行くのが悪いのだ、と。)

「テロとの戦争」では、誰が「テロリスト」かはアメリカ政府や軍が決める。そして「テロリスト」と名指された者は、あらゆる法秩序の外部に置かれ、拘束
されてもいかなる法的保護を受けることもない。はっきり言えば彼らは、法の埒外で「自由に処理することができる」存在なのである。それに当局はあらゆる
抵抗を「テロ」に類するものとして扱うことができる。要するに「テロとの戦争」そのものが、「敵」を「人非人」として扱うための枠組みであり、露見した
「虐待」はその帰結にすぎないということだ。グアンタナモや、その陰に隠れてアフガニスタン周辺に作られたといういくつかの収容所で起こったことに較べ
れば、今回露見した虐待は、まだしも「手ぬるい」ものだったかもしれない。

フセイン体制を崩壊させた後、米占領軍は「敵地」でみずからを守ることに汲々とし、復興を後回しにしてもっぱら「残党」の掃討作戦を続け、そのためにと
うとうかつてのフセイン体制下の反対派にまで「反米」意識を植え付けてしまった。そしてその結果生まれる占領への抗議や抵抗は、街ぐるみの包囲や手荒な
掃討作戦で潰そうとし、それがますます住民の反発に煽ることになる。ところが米軍にとってこれは「テロとの戦争」なのだから、反抗する者はみな「テロリ
スト」(あるいはそれに与する者)とみなされる。そして米兵たちは殺戮や虐待の「自由」を享受し、理不尽に辱められた者たちが、今度は本当に「テロリス
ト」予備軍になるということだ。結局この戦争は、すればするほど新たな「テロリスト」を生み出すメカニズムとしてしか機能していない。「テロとの戦争」
はそのように標的をみずから生産することで、戦争の必要性そのものを永続的に生み出してゆく倒錯した戦争なのである。


小泉「対米貢献」のもたらしたもの

その米軍占領下のイラクに、日本政府は自衛隊を送り込んでいる。自衛隊派遣をめぐる憲法論議や法律論(サマワが戦争地域かどうか)はここでは措くとして
も、小泉政権があらゆる無理を押して「貢献」しているのは、このような「アメリカの戦争」に対してである。

だが、小泉首相がイラクの現実をどのように認識しているのかは、人質事件が起こったときの「テロリストには屈しない」という言葉に端的に示されている。
彼はアメリカ政府が言うとおりにしかイラクの現状を認識していない、あるいはしようとしないのだ。だから当然ながら人質救出のために有効な手など打てる
はずもない。自衛隊の派兵には国内にも反対が多く、国際社会でもアメリカの単独行動主義が批判されていたにもかかわらず、いやだからこそ、アメリカに特
別の協力を示すために、小泉政権は無理をして派兵に踏み切った。そして歴代自民党政権がしたくてもできなかった、憲法変更を現実的な日程に上せたのであ
る。その「努力」が際立っていたから、ブッシュ大統領はイラク開戦一周年の演説で「日本の貢献」を大きく取り上げ、イラクで犠牲になった外交官個人にも
言及して特別の賞賛を与えた。

二年前、アフガニスタン攻撃の後で、パウエル国務長官が「テロとの戦争」の貢献国を発表したとき、最大の復興資金拠出国である日本の名前が落ちており、
あわてて翌日に訂正して一一位に付け加えたことと較べれば、いまのアメリカがいかに小泉政権の「貢献」を評価しているかがよくわかる。けれどもこのブッ
シュ演説で、それまで目立たなかった日本政府の振舞いは一挙に世界に注目されることになった。おそらく「湾岸戦争の屈辱」を語る連中は、この破格の扱い
に溜飲の下がる思いをしたことだろう。だがこの演説は、日本を米英につぐ「標的」として、イラクに渦巻く反米感情の前に掲げることになった。それ以後日
本人は、もはや安心してアラブ・イスラーム地域に入れなくなったのである。

そして人質事件が起きた。

一国の政府、というより政権が、世論に反対の多い方針を選択するということはありうるだろう。けれどもその場合、政権は国民に対してその方針選択の責任
を負わなければならない。それが政権を担当する政治家の基本的な責任というものだろう。なぜなら、日本の政府がそのような行動を取ることによって、国際
社会では日本国民皆がその結果を引き受けなければならことになるからだ。

小泉政権が、突出した「貢献」をアメリカに対してもたらした結果、篤志の人びとが「日本人」だからということで拘束されたとしたら、それはひとえに日本
に対する敵意を生み出すような状況を作った政府の責任である。その場合、拘束された人びとが政府とは違う考えで行動していたということは、「自業自
得」(「自己責任」とかいう妙な言葉で語られている)で済ませるどころか、そういう人たちに対してこそ、政権はまず責任を取らなければならない。そのよ
うな人びとの命がけの努力が、政府が台無しにしかねないアラブ世界と日本との絆を繋ぎとめているのだから。どうみても救出と保護は政府の責任である。そ
れが民主主義体制で政治を担う者の最低限の要件だろう。

だから、日本政府が解放された人びとに対して「自己責任」を押し付け、「救出費用」まで請求したとき(そして政府のそのような姿勢が陰湿な被害者バッシ
ングを助長することになった)、フランスばかりでなくアメリカのメディアも、拘束事件の被害者が「お上に楯突いた」と非難され、帰国して「受刑者のよ
う」な扱いを受けているということを、辛辣に批判して伝えたのである。ブッシュ政権の番頭役パウエル国務長官でさえ、自分のことだけでなく世界のことに
目を向けて、危険を冒して行動するような人びとがいることを、日本は誇りに思うべきだ、といった意味の発言をした。

それに、前代未聞の「救出費用請求」までした日本政府は、被害者救出のために実質的になにをなしえたのか。高遠さんたちが無事解放されたのは、かれら自
身のそれまでの行動のためであり、拘束されたのがどういう人たちなのかを、米軍包囲下のファルージャの人びとや「犯人」たちが知ったからである。それを
知らせるために、日本のNGО関係者から多くのメッセージが、アルジャジーラを始めとするアラブ系のメディアに送られた。アラブ系のメディアはそうした
情報を積極的に報道し、「人質事件」のミスマッチを「犯人」たちに理解させたのだ(この経緯については本誌先月号でコリン・コバヤシが報告しているし、
ちょうど一時帰国していた在日イラク人キデル・ディア氏が、必死になってそのことをファルージャの人びとに伝えてくれたということも報道されている)。

そしてまた、その説得に応じて「犯人」たちが人質を解放したということは、彼らがただ殺戮を目的とする「テロリスト」などではないということを示してい
る。彼らは、住居や街を破壊するだけでなく「九〇パーセントが誤認」だと承知しながらイラク人を捕まえて「拷問」を楽しんでいるような米占領軍に、武器
をとって抵抗する自警団のようなものだというのが実情だろう。そのことは、人質たちが受けた「待遇」からも想定することができる。

要するに「解放」は、人質自身の功徳によって可能になったのである。日本政府がしたことといえば、まずアメリカに協力を求めることだったが、それは推定
される「犯人」を刺激する以外のものではない。ひょっとしたら、ファルージァでしばらく停戦が成立したのは、この事件と関係があったのかもしれない。つ
まり、米軍はファルージャの状況を悪化させないために、しばし攻撃の手を緩めたということだ。そうだとしたら日本政府は、ドジな国民をもったために、反
抗的な市民を一挙に掃討したかったに違いない米占領軍に多大な「迷惑をかけた」ことになる。アメリカに無理をお願いしてしまった。それがもとで日本政府
は「人質たち」を許せないのかもしれない。精神的に痛めつけるだけでなく、「罰金」まで取ろうというのはよほど恨んでのことだろう。

この事件に関して、「犯人ではなく政府を批判するのはおかしい」という意見がある。中西寛という国際政治学者は、「犯人よりも警察に責任があると考える
人はまずいない」という一見気の利いたたとえをもち出して、被害者やその家族および支援者の姿勢を批判している(『朝日新聞』四月二六日)。だが日本政
府は、米軍占領下のイラクで起きたこの事件で「警察」の立場に立っているというのだろうか。百歩譲って仮にそうだとしても、誘拐事件などでは家族が警察
の対応を批判するのはよくあることだ。警察は被害者を保護すると同時に犯人を検挙しなければならない。そのとき、家族が被害者保護よりも検挙を重視して
いるように感じれば、当然ながら警察にくってかかる。だが今回はそれとも事情がまったく違う。警察は犯人でも認める法的権限を行使する「当局」である。

けれども占領下のイラクの「戦争」状況のなかで、米軍当局の「正当性」を認めることはますます難しくなっている。アメリカ政府がそれを主張しても、そも
そもイラク戦争自体の正当性が国際的に問題視されている。米軍は抗争の当事者であって第三者ではなく、警察の役目を演じる資格はないのだ。国連中心のイ
ラク復興の枠組みができないのも、アメリカ政府があくまで自分のコントロールを手放そうとしないからだ。そして日本政府は国際世論にも耳を貸さず、ひた
すらアメリカの立場を支えている。だとしたら、この状況のなかで日本政府は「警察」の立場になど立てないのだ。「国際政治学者」はそのことを何と考えて
いるのだろう。

もちろん、人質を取って自分たちの要求を通そうとすることが不当であることはいうまでもない。だが、圧倒的な軍事力で他国に戦争をしかけ、その国の国民
に代わって自分に望ましい政権を押しつけることを「民主化」と称し、それに対する反抗を「民主主義の敵」と決めつけてほとんど無差別の掃討戦を展開する
ことは何なのだろう。そこにはすでにイラク人に対する根本的な蔑視が潜んでいるが、そのためほとんどのイラン人を潜在的な「敵」として扱うことになり、
結果としてますます信用を失ってゆく軍事占領が、イラクの現状をまず規定している。そして日本政府がそのようなアメリカの政策を無条件で支持しているか
ぎり、占領に抵抗するグループを「犯罪人」として扱う権限はないし、日本人一般がイラクの人びとにとって「アメリカの走狗」と見なされることも免れない
のである。むしろ、人質になった人びとを通して、イラクの民衆も「犯人」グループも、すべての日本人が必ずしも「敵」ではないことを知ることになったの
だ。そしてアラブ世界における日本人への信頼も、こうした人びとがいることによって繋ぎとめられているのだ。


誰が「人質」なのか?

それにしても少なくない日本の保守派政治家のなかにある「アメリカン・トラウマ」とでも言うべきものは何なのだろう。先日もあるテレビの討論番組で、自
衛隊派兵を支持する引退した自民党の政治家が、「何といっても日本はアメリカについて行くしかないんだ」と力説していた。つまりは日本は永遠に自立でき
ない、ということなのだろうか。アメリカにとことん痛めつけられてぐうの音も出なくなり、二度と反抗できなくなってしまったというのだろうか。あるい
は、過去の数十年間痛めつけてきた中国が、いまや遅れを取り戻して強大化しつつあるときに、日本はアメリカにすがるしかないとでも言うのだろうか。

たしかに戦前の日本は東アジアを侵略の対象とし、戦後の日本政府は一貫してその責任を引き受けることを渋ってきた。「過ちを改めざる是を過ちと言う」と
いう故知もあるが、それを「自虐」だと言って拒む声高な勢力もある。ところが日本を痛めつけたアメリカは、とどめはささず(そのことを「国体は護持され
た」と言う)、戦後もその「過ち」に目を瞑ってくれた。「アメリカについて行くしかない」という発想は、「過ち」を認めるのを拒否する姿勢と表裏になっ
ている。そこにはひとつの思考停止がある。現在の世界のなかで日本の位置を取り直し、とりわけアジア諸国との新しい関係を編み直してゆくという道を始め
から拒んでいる。けれども世界全体とその将来に目を開いてみれば、いかに強大だとはいえ今のアメリカが孤立化を深めていることはもはや否めない事実であ
る。そのとき日本はアメリカといっしょに再び「憎まれ者」になろうというのだろうか。

いま自衛隊の駐屯するサマワの近辺にも占領軍に対する攻撃が広まってきた。内閣法制局はすでに四月に、この地域が「戦闘地域」になったとする解釈を政府
に提出している(正確にはシーア派のサドル師の勢力が「国に準ずるもの」とする解釈)。そうなると「イラク支援法」にも反することになるが、法律論議は
ここでも置くとして、日本の自衛隊はアメリカの海兵隊のように殺戮や破壊の訓練を受けていない。曲がりなりにも平和憲法下での「自衛力」だからだ。だか
らこそ政府は、自衛隊はイラクの「復興支援」に行くのだと強弁しうる。けれどもそれは国内にのみ通用する論理であって、国際的に言えば自衛隊は「日本
軍」以外の何なにでもない。またそうだからこそ、NGOではなく自衛隊を送り込むことの国際的な意味が生じてくる。小泉政権は、国内向けの論理と国外向
けの意味とを巧みに交差させて、自衛隊をイラクに送ったのである。

けれども自衛隊が攻撃された場合、やはり小泉首相は「テロには屈しない」と言って「毅然たる態度」を示すのだろうか。たしかにそうすれば、ブッシュ政権
にはさらに「感謝」されるだろう。[現地の自衛隊は、周辺の受け入れ部族との関係に相当配慮しているようで、サマワでは敵意をもたれていないかもしれな
い。けれども複雑化したいまのイラクではどんな武装勢力が攻撃してくるかもわからない。]だが実戦経験もなく、平気で人殺しする訓練も受けておらず(と
思いたい)、イラク人に銃を向けたくない自衛隊員たちは、結局のところ日本政府の身代わりに「標的」になるほかないだろう。そうなると自衛隊はもはや
「人質」同然である。もちろん現地の武装勢力の「人質」ではない。そうではなく、日本政府がアメリカに対して差し出した「人質」だということだ。

いまスペイン軍の撤退が完了した。スペインでは総選挙直前の三月一一日に、マドリッドで二百人の死者と二千人の負傷者を出す大規模な列車爆破事件が起き
た。スペインは反戦世論が強かったにもかかわらず、当時のアスナール首相はイギリスのブレア首相とともに最も積極的にアメリカの「テロとの戦争」を支持
し、千四百人の兵力をイラクに送っていた。けれども、この事件とイラク派兵との関連づけを嫌ったアスナール首相は、事件をバスク独立派の仕業として露骨
なメディア統制を行い、そのためにかえって市民の不信と反発を招いて、選挙では事前の予想を覆して与党が敗退し、イラク撤退を公約していた社会労働党が
政権を担うことになった。

このときアスナールはアメリカ政府とともに、選挙結果を「テロに屈した」ものとして批判した。だが実際には事件の翌日、マドリッドで百万人、スペイン全
土で一千万にのぼる人びと(全人口の四分の一にあたる)が、事件直後の不穏な気配にもかかわらず、「テロに対する抗議」ために家に出て街頭を埋め尽くし
たのである。そしてその抗議は、九・一一の翌日のアメリカとはまったく違って、どんな「報復戦争」の訴えになだれ込むものにもならなかった。むしろ逆
に、この「テロに抗議する人びと」は、アスナール政権のアメリカ追従とそのための露骨なメディア操作に怒りをぶつけ、与党を敗北させたのである。この選
挙結果は、スペインの多くの人びとが、アメリカ流の戦争がほんとうに「テロ」をなくすことに役に立たないどころか、むしろ逆効果だと考えていることを
はっきりと示した。

スペインは「テロに屈した」のではなく、まさに「テロに屈しない」という単純な物言いが、自動的にアメリカの軍事制圧路線への追従につながるという、思
考停止の回路を断ち切ったのである。アメリカの戦争は、イスラエルのそれと同様、ある地域の人びとに癒しがたい憎悪と絶望を植えつけ、「テロ」をなくす
どころかますます「テロ」に走るしかないという悲劇を生み出している。すでにその実情を見、「スペインの選択」の例を見た後で、小泉首相は人質事件に単
純な「テロに屈しない」の一言で応じた。その一言は、イラクの多くの人びとをあらかじめ「テロリスト」として扱うことになるということに、彼はいささか
も思い至らなかったようだ。そしてこの単純化は、背後にもうひとつの思考停止を生む「アメリカン・トラウマ」を隠しながら、別の広範な「人質」状況を作
り出している。いまでは東京の通勤電車のなかですら、「テロ対策にご協力ください」といったアナウンスが流される。アルカイダの足跡が新潟あたりに見つ
かったというからには、遠からず地方の電車でもそんな放送が流れることだろう。

イラクの自衛隊ばかりでない。いまや日本の国民全体が「人質」状態におかれている。もちろん、どこの武装勢力に拘束されているのでもなく、どこまでもア
メリカに「忠誠」を示すという日本政府の方針が、国民を危険な状況に陥れ、結果的にアメリカに差し出した「人質」にしているのである。
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nishitani/
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