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Re: -北ベトナムが強かった理由----東大教養立花ゼミ(4)
http://www.asyura2.com/0311/war44/msg/308.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2003 年 12 月 09 日 08:47:18:0iYhrg5rK5QpI

(回答先: Re: ベトナム戦争後期戦略と効果(1965〜1973)-----東大教養立花ゼミ(3) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2003 年 12 月 09 日 08:43:44)

北ベトナムが強かった理由

http://dolphin.c.u-tokyo.ac.jp/~suzuki8/viet/nviet.html

北ベトナムの軍事戦略
北ベトナムのゲリラ戦略の起源は毛沢東の人民戦争論であった。だが、北ベトナムは南ベトナムの状況にあわせて、それを変容させて用いた。
その特徴としてあげられるものが攻勢戦略である。大量のアメリカ軍が戦場に投入された段階で、通常のゲリラ戦略では、いったん防御にまわることになるが、北ベトナムは、「ベトナム人対アメリカ」という図式を明瞭にすることで、かえって自分たちへの住民の支持が強まると判断し、戦争の主導権を掌握しつつ「機会を捉えて決定的な勝利を収める」ことを戦略目標とした。
実際には、北ベトナムの主力がジャングルなど地形的に有利な場所で米軍やサイゴン軍を引き付けている間にゲリラが平野部でゲリラ網を強化して、主力部隊を分散配備しておき、機を見て敵の戦略的要衝を衝くという作戦が基本となった。
サイゴン政権軍が、小規模ゲリラの活動に対しても、主力による奇襲の可能性を危惧して、常に大量の部隊を配備しなくてはならなくなった。そして、サイゴン政権軍が平野部での平定作戦に力を入れはじめると、主力軍が平野部への進出の要衝となる地域を確保して圧力をかけた。


北ベトナムの外交戦略
アメリカは本格介入直後より、たびたび外交で戦争を終結させようとハノイにアプローチをかけていたが、北ベトナムは自分たちの望む形(南ベトナムに解放戦線の綱領に基づく政権をつくる)以外の妥協には決して応じなかった。
これは、自分たちの南ベトナムにおける政治的な優位と、サイゴン政権の脆弱さを見きった上での判断であった。
テト攻勢により北ベトナムは軍事的に大きな痛手を負ったが、アメリカ国内、国外からの戦争批判の高まりを見て、「このまま戦争を続けていれば必ずアメリカは戦争をやめる」と判断した。
1970年代に入って、ニクソン大統領はたびたび強硬な軍事エスカレーション(カンボジア、ラオス侵攻、大爆撃、機雷封鎖)を北ベトナムに加えて、譲歩を引き出そうとしたが、国内のがたつきを見抜かれて、不成功に終わった。


その他要因
北爆を利用して、アメリカへの反感と愛国心をあおり、北ベトナム国民を戦争に大量動員することに成功した。

中国、ソ連からの武器、食料の援助

アメリカの北爆が段階的であったため、トンネルを掘る、重要な資産を疎開させる、代わりの交通手段を準備するといった対抗措置をとる時間的余裕があった。

参考−>後期ベトナム戦争
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This page is written by SUZUKI Kentarou. Mail to suzuki8@dolphin.c.u-tokyo.ac.jp

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