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連載第九回 予期とは何か?(MIYADAI.com)
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/139.html
投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 1 月 07 日 13:02:34:Sn9PPGX/.xYlo
 


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連載第九回 予期とは何か?
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=32
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■連載の第九回です。前回は「社会秩序の合意モデルと信頼モデル」についてお話しました。合意モデルも信頼モデルも、社会の秩序──確率論的にありそうもない状態──が如何にして成立・維持可能かに答える秩序モデルですが、合意モデルのほうが古典的でした。
■合意モデルとは、秩序の出発点に、ホッブズの自然権譲渡やパーソンズの価値共有のような「合意」があると見倣す立場です。これは秩序のありそうもなさを合意のありそうもなさに移転しただけで、神話としてならいざ知らず、社会システム理論としては失格です。
■社会システム理論は信頼モデルを採用します。社会システム理論は、秩序はいかにして可能かという問題を、まず二重の偶発性問題──私の偶発的な振舞いに依存する他者の偶発的な振舞いの見通し難さにもかかわらず私はなぜ平穏に行動できるか──に移転します。
■その上で、私たちが、逆上した相手に刺されるかもしれないのに文句をつけたり、猫肉を売られるかもしれないのに知らない相手からハンバーガーを買ったりするのは、合意の確認によるのではなく、そういうことがありえないという信頼に基づくのだ、と考えます。


■信頼には根拠がありません。信頼して偶々破られなかったので、また信頼するという循環があるだけです。信頼が時折破られることを人は知っていますが、そういう場合には強大な物理的実力を背景とする司法や警察権力を呼び出せるとの(根拠なき)信頼をします。
■信頼には根拠がないので大々的に破られれば台無しです。ゆえに問題は、いつ崩壊するかも分からない根拠なき信頼が、にもかかわらず曲がりなりにも継続するための、絶えざる条件になります。出発点で合意したり譲渡すれば信頼が担保されるわけがありません。
■信頼が典型ですが、私たちのコミュニケーションは、コミュニケーションの中で論理的に確認できない「暗黙の非自然的前提」に支えられています。その前提が如何に維持されるかが「社会の秩序は如何にして可能か」への今日的な回答になるのだ、と言いました。

【分化した予期層で成り立つ今日的な信頼】
■ところで、信頼とは何でしょう。信頼は、むろん予期の一種です。信頼の形成維持可能性を問うには「予期とは何か」を理解する必要があります。それが今回のテーマです。予期については語るべきことが多くあり過ぎます。今回は「さわり」に留めることにします。
■議論の対象を明示すべく簡単な分類学から始めます。予期には「死なないと思う」という積極的なものと「死ぬことを考えたこともない」という消極的なものがあります。積極的な予期には「だろう」という認知的なものと「べきだ」という規範的なものがあります。
■信頼は二つの予期層からなります。最初は「刺すとは思わない(考えたこともない)」という消極的予期があります。未分化な予期層とも言います。社会システム理論ではこの段階を、自明性と呼びます。単純な社会では、自明性だけで信頼の大部分を調達できます。
■違背の不安が意識されて自明性が崩れると、予期は積極的段階へと移ります。積極的予期には、認知的なものと規範的なものがあります。認知的予期は「だろう」と表記でき、規範的予期は「べきだ」と表記できます。この段階を、分化した予期層とも言います。
■「だろう」は、違背に際して適応的に学習する構えがある予期です。すなわち当てが外れれば賢くなる方向で学ぶという態度と共にある予期です。「べきだ」は違背を学習せずに、予期に合わせて現実を変える構え──予期貫徹の構え──のある予期です。
■違背可能性が意識される当初は、「考えたこともない」との消極的予期から「刺すこともありうるが刺さないだろう」との認知的予期に移行します。違背が現実的になると、更に「だろう」で構えるのか「べきだ」で構えるのか、予め態度先決されるようになります。
■個人から見ていろんなことが起こりうるという意味で複雑な社会──多様で流動的な社会──では、自明性だけでは信頼を調達し切れません。むしろ違背の可能性を意識しながらも、それでも前に進めるように、分化した予期層で信頼を調達する必要が出てきます。
■単純な社会の自明性と区別される、複雑な社会における分化した予期層における信頼が、どんな形を取るのか。これを語るにはもう少し準備が要ります。いずれにせよ個人から見て複雑な、複合性の高い社会での信頼を考えるには、予期とは何かを知る必要があります。

【私たちを取り巻く偶発性】
■ありとあらゆるもの全体を「世界」と呼び、ありうるコミュニケーションの総体を「社会」と呼び、現にある秩序(ありそうもない状態)をなすコミュニケーションの総体を「現にある社会」と呼びますが、こうした概念構成からすぐに理解できることがあります。
■例えば「現にある社会」ではあらゆるコミュニケーション(選択接続=異主体間の選択連鎖)が実現しているわけではなく、特定のコミュニケーションしか実現していません。これを個人から見ると、現にあるコミュニケーションは全て偶発的であることになります。
■偶発的だとは、別のことが生じる可能性があるのにソレが生じているという性格のことで、様相論理学の言い方では「可能だが必然ではない」ことです。ちなみに、可能性と不可能性が対概念をなし、可能性の中で、必然性と偶発性(非必然性)が対概念をなします。
■「現にある社会」をなすコミュニケーションは(たいてい)秩序立っていますが、それは秩序を外れたコミュニケーションでもありうるのに秩序立っているという偶発性とともにしかありえません。何か出発点で偶発性が切り縮められていると見る根拠はありません。
■コミュニケーションだけではありません。「世界」はありとあらゆるものの全体なので偶発性はありえませんが、私たちの「世界体験」がそもそも偶発的です。私たちがありとあらゆるものの全体を体験することは(頭が狂っていない限りは)あり得ないからです。
■今日は天気になるだろうと思って傘を持たずに出かけたら、雨が降ったりする。傘を持って行ったのに、晴れたりする。雨が降るにせよ、晴れるにせよ、いつでもそれは「別でありえたのにそうなって」います。つまり、私たちの「世界体験」は、全て偶発的なのです。
■「世界体験」の全体が、それ自体「他でありえた」という偶発性を帯びています。だから原初的社会(詳しくは別の回に説明します)には例外なく創世神話があります。創世神話は「世界体験」全体の偶発性を、「神」の振舞いに帰属させる機能を持ちます。
■同じく、「現にある社会」全体も、私たちにとって「他でありえた」という偶発性を帯びます。だから原初的社会には英雄譚が存在します。英雄譚は「社会」と「現にある社会」の間にある偶発性を、特別な印付きの人間である「英雄」の振舞いに帰属させるわけです。
■こうした特異点への偶発性帰属は、宗教の機能に関係します。宗教とは、前提を欠いた偶発性を、無害化して受け入れさせる機能的装置です。前提を欠いた、とは「世界体験」や「現にある社会」の「中に」、偶発性を左右する条件を見出せないことを言います。
■前提を欠くので、私たちには偶発性を一切操縦できません。そのままでは不安を惹起するから有害です。前提を欠いた偶発性を「世界体験」や「現にある社会」からかき集めて、「神」や「英雄」に帰属し、理解と儀式の対象にすることで不安を鎮めるのが、宗教です。

【予期による世界の構造化】
■さて「世界体験」や「現にある社会」の(全体ではない)個別の偶発性を未来に投射すると、どうなるか分からないという時間的不透明性が顕在化します。私たちはいつも、どうなるか分からない、思い通りにならない現実を目の前にして、行動するしかありません。
■私たちは動物と違って偶発的刺激に反応が短絡するようにできておらず、同じ認知・評価・指令情報でも必ず「意味」を経由します。連載で述べた通り、意味とは偶発性に対処して選び直しを可能にする形式です。私たちは偶発性を意味的に処理するしかありません。
■その場合、いちいち環境をサウンドして何がどうなるのかの根拠を確かめながら前に進むやり方も論理的にありえます。でもそれでは確認行動に時間が取られ、私たちの行動自由度が制約されてしまう。そこで世界を無根拠に意味的に先取りする「予期」の登場です。
■私たちにとっての世界は、起こったことや与えられたことの集積ではなく、予期によって構造化されています。世界の大半は確認したことではなく、想像したことによって成り立ちます。確認しても反応の意味的遅延があり、結局は変化を前提にした想像に頼ります。
■確認ではなく予期(意味的先取り)によって前に進めることは、大幅なコスト減と選択自由度の上昇をもたらします。これで予期が裏切られなければ万々歳ですが、世界は複雑なのでそうは行きません。予期への違背の意味処理を構造化(先決)する必要があります。
■ゆえに世界が予期によって構造化されているという場合、予期によって不確かな前提を意味的に先取りしているという事態と、予期への違背への処理の仕方を意味的に先決しているという事態を両方含みます。後者の処理仕方の多様性が、前述の予期類型を与えます。
■ところで、予期による世界の構造化という場合、もう一つ重要な要素があります。それは他者の存在です。他者とは、「もう一人の私」です。もう少し厳密に言い換えれば、「私と同じように予期し、予期による構造化を前提にして体験し行為する存在」です。

【「もう一人の私」から拡がる予期的構造化】
■「もう一人の私」がいることで何が可能になっているでしょうか。最も分かりやすいのが「体験地平の拡大」。皆さんは世界について知識を持っています。でも先に述べた通り、知識の大半は体験されたものではありません。そこに「もう一人の私」が登場します。
■私は、地球が丸いことも、月が地球の衛星であることも、直接体験していません。松本智津夫や小泉純一郎が本当にいるのか、直接体験していません(小泉さんとは辛うじてこの間お話しできましたが)。なのになぜ、現実がそのようだと前提しているのでしょうか。
■それは私が「もう一人の私」(たち)を前提にするからです。私と同じように予期し体験する存在があると見倣すからです。「もう一人の私」が体験したことを私も体験可能だと予期するからです。すなわち、誰が体験したことを自分の体験の等価物と見倣す訳です。
■それだけではない。小泉純一郎なら誰かが体験していても、天文現象(の多く)や素粒子現象には誰かの体験がありません。代わりに、「もう一人の私」たちが皆そのように世界を予期するだろうと、私が予期できることをもって、私の体験の等価物だと見倣します。
■こうして他者が存在することで体験地平は一挙に拡大します。私たちが人間的であるとは、(1)刺激を反応に短絡したり全てを確かめながら前に進む代わりに予期をすることと、(2)他者を媒介にして体験地平を一挙に拡大することから、成り立つと言えるでしょう。
■ところが(1)予期による意味的先取りで違背処理のコストを払う必要が生まれるように、(2)他者を媒介にした体験地平の拡大においても大きなコストが発生します。それが前回少し触れた「二重の偶発性」への、対処です。次回は「二重の偶発性とは何か」です。

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