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PERFORMING JUNK感想
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/241.html
投稿者 愚民党 日時 2004 年 1 月 10 日 02:05:15:ogcGl0q1DMbpk
 

PERFORMING JUNK感想
     1992年夏 現代演劇の記録
     藤沢・江ノ島・「天文館」ゆらフェステバル

 PERFORMING JUNK  感想 1 塚原勝美

 ginger cafe´によるPERFORMING JUNK初演を体験した感
想を送ります。まとまりがある文章にはなりませんが、独りの観客として、なにを知覚
し、しなかったのか? なにを思考し、しなかったのか? これらを遊びの感覚で書いて
みました。
 天文館フェスティバル「ゆら」パンフレットの写真でのイメージから、おそらく照明
デザインとノイズ的音楽による高速度の疾走による、観客の眼と耳の知覚を侵犯し、制
度的日常的なわれわれの知覚を覆す方法による上演であろうと私は想像していました。
 しかし私がその空間と時間に体験した舞台の中心点には、まぎれもなく詩的言語と身
体的言語が存在する演劇であったのです。役者の音声と身体的言語・映像を媒介に表出
した固有の場所を具現化する、われわれ観客はおのれの身近なその場所を眺めているの
ですが、等身大の場所と人間をめぐるその断章の非連続の接続がかもしだす、その全体
の交換と時間は、やはり「船」的構造の空間にあったと私は思います。
 小劇場としての天文館の空間構造を、閉じ方においてある臨界点にまで圧縮し、その
エネルギーによって一点の出口を表出したのが、小松杏里と月光舎の上演「莫」である
としたのなら、その開かれた延長上にPERFORMING JUNKの空間構造は存
立していたのではないかと思われます。協働的世界形成の実践的構想力による想像力の
形態として。

 「ゆら」フェスティバルの意味構造とは、私の妄想によればおそらく、小劇場として
の天文館の舞台の中心点をめぐる探求にあるのかもしれません。舞台の中心点こそ、遠
心力と求心力の起点であり、ここから人間の世界同時性は出現するのであると思われる
のです。ある意識とある方法が発見されたとき、人間はさらなる遠くを目指す。
 月光舎上演「莫」が、この日本という自己欺瞞・他者欺瞞の隠蔽する自然生成的ゼロ
の記号と、過去の時間と空間を消却し変貌する文体が空気である「島」のドーム、この
閉ざされた人間の精神史をめぐる等身大の「現」の構造を、人間の記憶喪失として極限
的にあばきさらし、この「島」の文体から「外」にでるある一点を差し示し、他者との
新たなる出会いを求心し人間は一人一人違う人生の一回性にかけて歩きだす結語は、関
係性としての人間存在の交差点である街頭の身体的言語をあますことなく表出したと思
います。世界イメージと人間イメージの中心が崩壊したかに見える今日の変貌した自己
象を、おのれが立つ地上と歩く交換としての街頭の交差点における出会いとすれ違い。
 月光舎上演「莫」が世界イメージと人間イメージが崩壊した「現」の構造と、八十五
年以降のマネー・ゲーム欲望の暴走による光景の変貌による人間精神の不均衡とカフカ
的存在の誕生である閉ざされた「島」の文体をあばく。それは自己象の喪失をむき出し
の交差点にさらしながらも、人間の立つべき地を、地上四階から「地」をあるエネルギ
ーが、舞台に引き上げるという構造にありました。

 ginger cafe´上演 PERFORNING JUNKは、地上四階その
ものの構造をサマリヤビルから浮遊させ、等身大の個有の場所に飛行させるという「船
」の舞台構造にあったのではないかと思います。しかしながら劇中映像にある不満が私
には残りました。等身大の個有の場所と人間を映像によって切り取るとは、前衛の行方
ー新生紀演劇展ーの記録者として、1920年代の民衆演劇の実験性を、「いま」に再
出したものとして評価すべき一つの実験であるのですが、映像が劇空間を侵犯し破壊す
るといった衝撃力が欠落していたと思います。一言でいえば異様さがなかったのです。
 映像はすでにありのまま・自然生成的に、われわれ今日の人間の身体器官の一部と化
し、日常生活をドームのようにおおい、全体的・全面的転回として人間を取り込んでい
ます。映像が人間の感情・知覚を屈服させ、ある世界システムによる世界政治思想の支
配のために、多数世論を形成することが可能であることは、あの中東・湾岸戦争がみご
とに証明しました。今日の人間にとって映像はメディア・レイプ器官として自然生成し
ているのです。 

 日常的にわれわれの感情・知覚はモンタージュ映像によってメディア・レイプされて
いる受信器官に落とし込められているののです。こうしたモンタージュ映像を能動的に
解体・異化する場合、私はコラージュによる方法でしかありえないと妄想しているので
す。映像を扱う場合、おのれの内部構造に自己批判・自己批評能力をつちかい、映像を
徹底して他者として一度突き放し、おのれの映像言語を独自的に建設しない限り、あり
のままの自然生成的映像は自己愛の延長としてあるナルシズムを表出するのみです。
 PERORMING JUNKの劇中映像は、等身大の個有の場所と人間に設定を射
程し、ある怪物的な異様さを表出しなかったとはいえ、映像の内部がもつナルシズム構
造を方法において切り裂いたことは間違いありません。しかしその裂けめはいまだわず
かのように思います。街頭の通行人の反復、天文館を異化するビデオ・テレビ映像と暗
幕に投射された個有の場所、これらは方法において共鳴するのですが、問題は白いスク
ーリンの制度的想像力です。はっきりいえばあの白いスクーリンを使って、もっと何か
異様の舞台的可能性を表出し、われわれ観客の制度的感受性を覆すことができたはずだ
ということです。セリフである文字を投射する実験性には同意出来るのですが、そこに
はやはり活字の破壊と爆発である「マヴォ」同人・萩原恭次郎詩集「死刑宣告」的なデ
ザイン構造があれば嬉しかったと、私の勝手な一方通行的な欲望は思うのです。さらに
白いスクーリンを切って落とすいさぎよさは壮快であったのですが、映画の銀幕・テレ
ビのブラウン管、まんがのコマ、書物・バブル建築こうしたわれわれの無意識と深層を
支配する20世紀のフレームたる四角の構造を破壊し転覆してもらえれば、私の欲望は
昇華したのに違いありません。「心の部屋」として20世紀人間の心の形はこの四角で
あり、制度的感受性とは、この四角のフレームに閉ざされ真相真理として日常的に生成
しているのです。都市とは四角フレームの収容所であり、私は日々四角人間として変貌
しつつあります。ポスト・モダンとはバブル建築のことであり、この四角フレームの充
満と頂点を表出し、「ゆらぎ」「ずらし」の商品差別化戦略であったのです。あの白い
スクーリンは切って落とした後に、スクーリンの白い布そのものがエイリアン生命体で
あるかのごとく、空間に浮遊し女優・加藤令子を包込み回収して舞う必要があったので
はないかと私は妄想しています。

 これは劇団Dream Drunkersの女優・加藤玲子への欲望にもつうじるの
ですが、何故あれほど等身大の「現」の構造を実験的に鋭く表出しながら、結語の回収
のされ方が、現在の閉ざされた「島」の文体・いくら矛盾がありながらも市民社会の安
定した幸福ー愛の構造に回収されるのか私にはわかりません。私の動物的直観でいえば
、あるアトミズム孤独の病理と人間関係の矛盾をかかえた受苦的存在としての人間は、
やがてある安定した愛の構造に昇華するはずだとするある牡歌性の内部を、集団的想像
力としての劇団Drem Drunkersはもっているように思えます。確かに受苦
的存在としての現在の人間のアトミズム・孤独の病理と関係性の矛盾をむき出しの物語
として舞台に表出することはきつく、ある昇華がなければ人間は救われないのですが、
如月小春が「工場物語」をもって都市と人間の関係をあいまいさを許さず徹底的にあば
き、「現」の構造を通過したように、劇団Dream Drunkersの身体的言語
は市民社会の「現」の構造と対決する必要があると思います。己の身体的言語が他者の
夢を侵犯するのか? それとも己の夢に異様な他者が介入し、夢においてレイプされて
しまうのか?劇団Dream Drunkersの主体としての身体的言語を検証する
時間は、早いうちに訪れると私は思います。「愛」の構造を人間の尊厳として保持しな
がら、可能性をもつ劇団Dream Drunkersは何者にも回収されえぬ独自的
な身体的言語の主体を形成すると私は信じています。武装的身体的言語は最後まで貫徹
されるべきであり、女優のエロスは暴力性と実践的造形力の奪還としてあり、それは父
権社会の権力構造によって歴史的に「慰安身体と人間の生産身体」に歪められてきた制
度的エロスを、おのれの身体からつきやぶるエネルギーにあります。

 私の妄想で言えば1989年後の人間の想像力をめぐる世界同時性としての芸術表現
の根底には、街頭の身体的言語としての交差点が意識に誕生していると思います。アジ
ア映画・アジア演劇の表出は人間の世界同時性としての意識が、閉ざされた制度的密室
からすでに街頭に飛び出し、関係性の受苦的構造からある人間の人生と存在を物語って
いるように思えるのです。
 ホームレスを主人公にしたフランス映画「ボンヌスの恋人」は、今日の世界同時性で
ある受苦的構造にある人間の感性と精神その身体的言語そのものを曝すことによって表
出させました。1960年生まれの若き映画監督レオス・カラックスの想像力としての
動物的本能は、現代世界と人間の「現」の構造が街頭にあるとして設定したのです。今
日の受苦的人間の極限が路頭生活にあることは間違いありません。高度情報化社会の人
間の感性・精神・欲望とは、近代的自我の根拠たる密室的アイデンティティを奪われ、
情報という街頭に曝されどこまでも薄っぺらになることにあります。「目覚めよパリ!
」と叫びミシェルとアレックスは砂利運搬船に乗り、海へと向かっていきましたが、F
RFORMING JUNKのある中心性を担った、word,word,wordの
相沢 哲の舞踏と火見子の朗読はおそらく、ミシェルとアレクッスが乗った砂利運搬船
を対象世界に表出させていたのです。街頭の身体的言語から船の身体的言語へ。

 それは池野一広の舞踏が表出したわれわれの未来と重なり、人間の母である地球壊滅
後の宇宙船に乗ったわれわれの子孫の身体的言語であるのかもしれません。私の妄想で
いえば人間とは宇宙空間に浮遊するエイリアンとして変貌を遂げる存在であるのです。
荒廃した地球に残された人間たちも生き残るためには、生物学のDNA戦略によってど
んな環境にも生き残ってきたゴキブリの遺伝子を人間の身体に注入し、ある場所で眠り
につくのです。宇宙人の地球来訪を待ち、その他者の身体を知覚したと同時に侵入する
映画「エイリアン」の衝撃とは、そのエイリアンこそ未来の人間の姿であり、宇宙船に
乗りこの星に訪れた人間こそ宇宙人であるという逆説によって生成する未来からの予告
のような気がしてなりません。
 H・R・ギーガーのイメージ絵画は、人間がエイリアンに変貌する過程にある世界を
表出したのであると思われます。人間とは何か? 中心性を喪失する生物であると同時
に、失われた中心性を回復せんとする生物である自己矛盾的存在であり、中心性を喪失
した社会的生物は、永遠に満たされぬおのれの空白を埋めるために、変貌をとげるので
す。かくして高度情報社会化の人間は、記憶を不断に消却され、器官としての人間が誕
生するのです。その器官の進化こそエイリアンであるのです。

 衝動的・突然的に変貌する光景に人間の精神・論理は追いつくことができない、しか
しながら人間の知覚器官たる眼・耳・鼻・皮膚・口は受信器としてありのままに受け入
れてしまいます。知覚器官と精神・論理の落差・分裂は、思考することが苦痛になり、
とうとう人間は思考することをやめ、消費管理社会の日常におのれの中心性を譲渡し、
自己欺瞞・他者欺瞞としておのれの精神・論理をごまかしながら、テクノクラートに
操作された情報を受信する知覚器官の生物へと変貌するのです。

 W・ヴェンダース監督作品「夢の涯てまでも」の日本シーン・日本趣味のあり方には
ふざけるんじゃねえとおもいましたが、物語の結語である夢の映像にとりつかれアトミ
ズムの進化と深化の内部構造に病理として入り込んだ女が、記録者の言葉によって回復
をとげる意味は、夢の私的所有の追求であるアトミズムではけして人間は救われないば
かりでなく、病理を深化させるだけであるという、W・ヴェンダースの今日的な回答で
あると思います。協働的な関係性にのみ存立できる人間は、やはりコミュニケーション
を形成することができる言葉の力と、根源的な身体的言語によって、打倒され閉ざされ
たアトミズムの構造から復活することができるのだと思います。
 映画「夢の涯てまでも」はコンピュータ・映像の進化、機器の内部に人間は取り込ま
れていますが、その電子・デジタル構造の圧倒性の内部と、光景の変貌過程の内部に他
者として存在していた記録者こそ、私が注目した「現」の構造でした。彼・記緑者こそ
人間としてのメディアだったのです。

 もちろん現代演劇とはいくらマス・メディアに紹介されても、観客は少数であり、意
識の誕生の仕方においても、先端的な攻防の渦中にある政治・経済・哲学・技術の創造
的破壊から比較すれば遅れたメディアであることは間違いありません。そして現代演劇
は常に「逃げ」の構造に入り込む危険性を抱えています。しかしながら演劇はダイレク
トの幻想における関係性に「現」の世界を形成する、人間としてのメディアとして等身
大の人間の現在と記憶、いまだ言語化出来ぬある「気配」を表出する前衛的なメディア
であることは間違いありません。

 「さようなら、情けない男たち」と宣告された私はむしろ晴れ晴れとしました。八十
九年以降の世界史の転換と、この等身大の光景としてある神奈川の都市が、バブル経済
の暴走によって変貌をとげる数の自己欺瞞・他者欺瞞の精製に、意識と言葉が追いつけ
ず打倒され敗北した私にとって、この宣告はおのれの情けない現実を見極める必要とし
て、幻想の武装花嫁から挑発された言葉としてニヤリと受け止めました。これは私の妄
想ですが、日本という「島」の文体に取り込まれたわれわれは、わかれなどいやとゆう
ほど経験し、日常的に別離訓練を受けてきたのです。しかしながら他者を発見し他者の
尊厳を愛するという愛情訓練は受けてきていないと私は思うのです。消費管理社会とは
人間を歪曲し矮小化し徹底的に尊厳的な関係から疎外する収容所であるのです。人間の
内部は「モノと数」であり、スターリン資本主義の「島」の国民的街頭の文体は、モノ
と数と矮小化された人間の関係として毎日の別離訓練であり、毎日の喪失儀式の交差点
にあるのです。
 スターリン資本主義下の人間にとって他者は、生きた通貨であるのか死んだ通貨であ
るのかが判断基準になり、恐ろしくわれわれの感性・知覚・思考はこの収容所の内部で
薄っぺらに生成しつつあります。人間の記憶は死んだ通貨の記憶にとってかわられつつ
あります。映画「ポンヌスの恋人」でミシェルが「橋」から去り、真昼の太陽を浴びな
がら眠りから冷めたアレックスの冬の白い砂の孤独は衝撃的でありました。絶望する人
間としてアレックスは叫びます。愛し方は教えてくれたが別れの方法は教えてくれなか
ったと。ピストルで自分の指を撃ち己を破壊する行為は絶望の世界同時性として表出し
ました。ここでレオス・カラックスはある逆説の物語を語ったのではないかと思われま
す。今日の人間は別離の方法は日常的に訓練されているが、人間を愛するという訓練は
受けていないと。いったい人間を愛するということはどういうことなのか? H・R・
ギーガーの世界が心象内部である私は理解不能の途上にあります。

 こうした世界同時性の「現」の構造の内部で、PERORMING JUNKがひと
つの協働的世界形成として、再度人間の詩的言語と身体的言語に原点を置き、等身大の
人間と固有の場所の再発見に向かい「船」的空間と時間を表出させたことは共鳴します
。しかしそれはいまだヨーロッパ的文体の延長にあり、歴史的に東アジア人である私の
遺伝子を呼び覚まし、幻想において遺伝子の故郷に帰還する快楽を与えてはくれません
でした。これは私の勝手な過剰な欲望として理解してください。「船」の旅の快楽は多
分おのれの遺伝子の原点に帰還する幻想にあるのではないかと思われるのです。
 ginger cafe´の遺伝子の原点が何処にあるのかわかりませんが、初演の
翌日8月1日鶴岡八幡宮・舞殿での「アジアの音楽・鎌倉の響き」を体験した私は、耳
の器官を発動させ快楽によいしれました。とくに中国人演奏家・曹 雪晶の「二胡」演
奏は身体が共鳴しました。東アジア・ユーラシア大陸の幻想を感受したのです。同じ弓
を引く楽器でありながらバイオリンを聴くある遺伝子の異質感を、「二胡」は感受する
ことなく私の身体の遺伝子が共鳴するのです。それはさらにインド・ベトナム・中国・
朝鮮・沖縄の音の旅を集合させて作曲した、堀之内幸二による「シタール・タブラ・サ
ントゥール・シンセサイザー・二胡」の交響曲を聴くに及んで私の幻想的快楽は天女を
抱いていたのです。
 もちろんアジア音楽を聴く場合おのれの内部に自己批判・自己批評能力がなければ、
われわれは強力な「島」の内部たる天皇制の体系的言語にからめとられてしまい、大東
亜共栄圏の自己欺瞞・他者欺瞞の実践的構想力に敗北してしまいます。事実最初に演奏
した鶴岡八幡宮雅楽は宮内省の天皇制音楽課が指導している有様です。天皇制のある意
識ある知覚の回収のしかたはより自然生成的であるがゆえに、独自的な表出者の想像力
はより異邦人になるしかありません。東アジアにおける民衆的想像力の協働的世界形成
は可能であるのかどうか? 現代演劇に引き付けるとそれはアリス・フェステバル等に
おいて実践的な模索が開始されているように思えます。

 ヨーロッパ文体USA文体を日本の表出者が引用する場合、イタリア・ルネサンスが
表出する契機となった、「死の舞踏」としてあるペストとの死闘といかに対話するのか
が必要であります。近代から現代のヨーロッパ芸術の根底には、10世紀から14世紀
ヨーロッパ中世の絶望としてあったこのペストとの死闘「死の舞踏」をくぐりぬけ生き
延びたおそるべきパワーの構造にあるのです。この内部の圧縮された求心的死闘・エネ
ルギーによって彼らは外へ遠心力として侵略し、世界史の円環を完成させたのです。ヨ
ーロッパ文・対を自然生成的に引用すれば、引用者そのものの主体構造がヨーロッパ文
対の構造としてのパワーに吸収され、その舞台は何らわれわれ観客の遺伝子を喚起する
ことなく、見せかけに回収される危険性があります。高級ヨーロピアン志向の日本のバ
ブル映像・映画・テレビ・ドラマが、まさにバブルの泡として人間の主体と尊厳が崩壊
し、「飼いならせられた死」の精神構造を充満させながら、見せかけ上に回収されこと
ごとく無作為の権力として失敗しているのは、世界史との対話能力が決定的に欠落し、
映像のシステム機構が立ち腐れているからです。死んだ通貨の記憶では人間の存在を表
出することは出来ません。

 その意味で首藤 啓の可能性にきたいしているのですが、彼はいまだ独自的主体的な
おのれの表出方法と言語を形成しているとは言い難く、この日本の自己完結的な感受性
と対決し破壊するパワーを見せてはおりません。その演出方法はいまだ趣味的構造にあ
り、彼はおのれの能力の出し惜しみをしているのではないかと思えるのです。彼の場合
、世界の動的中心性をめぐるおのれのイデオロギーを内部に形成する必要があると思い
ます。自己存在が立つこの場こそ世界の動的中心であり、この場を起点として共同体の
内部に他者を再発見する、その他者との対決・協働を関係性の成立によって世界そのも
のを再発見し、おのれが対決し覆すべきこの「現」の構造の根源的根拠は何処にあるの
か? この矮小化され、歪曲化され、疎外され、卑屈になり、記憶をバブル建築の変貌
都市光景に奪われゼロの記号とされた身体器官。スターリン資本主義収容所の強力な内
部で巨大広告産業「電通」に操作された見せかけの愛の構造。その仮想現実たる幸福の
構造が、商品愛と自己愛がナルシズム言語と他者が介在しないマスターベーション言語
の充満がバブル経済のマネー暴走の「島」で頂点に達し、その飽和が破裂すると、実態
と虚構の区別が人間の精神世界で解体・崩壊し、この身体器官のボーダレスの誕生。
 なにが虚構でありなにが現実であるのか理解不能に落ちた身体器官の精神の森には酸
性雨が降り酸化腐食し枯れ果ててゆく。それはもはや自然が終焉し、自然と社会のアン
サンブル身体器官であった人間存在の肌が、プラスチック・シリコンへと変貌し、半導
体による数字言語が情報とイメージを操作するデジタル列島の完成。その中心に国造り
部として天皇制言語は国民の脳天に自然生成する。これらは私の妄想なのですが。

 柄谷行人はいとうせいこうや島田雅彦が語るごとく無根拠を論じたのではありません
。柄谷行人は日本イデオロギーそのものの根拠をあばき、日本イデオロギーと徹底的に
対決してきた哲学的批評者なのであると私は認めています。無根拠の論理などは、いと
うせいこうや島田雅彦の内部でイデオロギー格闘が欠落しているということであり、「
逃げ」の構造にあります。
 根拠をあばきその根拠を破壊する表出にこそ世界同時性のエネルギーが、動的世界の
中心を現出させるのです。これは首藤啓に対する私の欲望でありますが、ぜひとも彼は
無根拠の論理などおのれの糞とともに水に流し、日本イデオロギーの根拠とスターリン
資本主義収容所の人間存在の根拠と、徹底対決する表出者として誕生する存在であれと
期待しています。先端的な科学がカオスであるからこそ、その弱点につけ込み侵犯し逆
転する関係性として動的世界の中心性を目指すのであります。その場合実存と存在の「
現」の構造をつかむためには、一度そのものを成立させている歴史の受苦的構造とおの
れ自身が格闘し入り込み、人間の歴史の怪物と対話する必要があります。その怪物に粉
砕され打倒され絶望し、ニヒリズム街道を歩くことによって、われわれは根源的な根拠
を発見するのです。こうして動物的本能のエネルギーは内包され、観客の遺伝子を呼び
覚ます創造的破壊は誕生するのです。

 さらにPERFORMING JUNKへの私の欲望を述べさせていだだきます。遊
びの感覚で読んでください。やはり天文館の空間性は地上4階という建築構造に規定さ
れて、乾いていると思います。つまり空気の重力性がそれだけ薄く、不気味な「地」
「海」のイメージを表出する場合独自的な証明デザイン が必要であると思われます。
それがいかなるデザインであるか今のところ私には、新宿梁山泊の証明デザインしか思
いつきません。新宿梁山泊の方法は舞台に白煙を充満させ、群青の証明を投射すること
によって湿り気のある湿原的な森林にまぎれこんだ幻想を表出します。
 その対象世界が沼であり海であり「水」のイメージが存在していた「孤独」や「wo
rd,word,word」には、湿り気のある証明デザインが求められていたのでは
なかったのかとおもいます。私の欲望でいえばわれわれ観客の知覚器官である肌を鳥肌
へと変貌させるほどの創造的破壊が。人類を滅亡へと追いやる終末を予感させる洪水は
ヒタヒタと押し寄せてきているのですから、「水」への不均衡・不安知覚は重要である
と思われます。
 しかしながらPERFORMING JUNKによって私は、演劇にも「船」の構造
がありえることを発見しました。よく地球船という言葉が使われますが、その形容詞は
われわれの実態を表しているのかもしれません。われわれの時間と空間が宇宙から誕生
したのは事実なのですから。原子構造のもつ物質とは動的世界の中心として、あるもの
を呼び寄せ、あるものを反発させる力がある。この空間と時間には人間の夢の残骸と未
来から過去からの語りべ達の幻想が侵犯し、過去・現在・未来の制度的時間フーレムを
ある反復によって解体した人間をメディアとして生成させるのです。

 この夜 この夜
 夜にとけて夜を開く            夜にとけて夜を開く
 絵筆の音が聞こえる アトリエの窓から   紙と鉛筆の音が聞こえる

   この夜
   夜にとけて夜を開く詩人と美術人がいる 演劇人がいる
   混愛の夜の大空 その紺藍の海へ
   イメージの櫓をこぎ、想像力の舟は航海している
いくつも いくつもの舟が 輝く星の光に見えない暗黒星雲へ
暗黒こそ物質とイメージの起源だった 


PERFORMING JUNK 感想 2



 「玄」の黒い言語をもつものはすでに国家の制度と帝国主義世界システムを形成する
テクノクラート操作高度情報化社会・市民社会の身体的言語からテイク・オフしており
、国民国家の共同体から果てしなく疎外された「玄」の人間の内部と深層は根拠が喪失
した不断の欠落知覚にあります。この強い欠落意識と内部解体から突き上げるエネルギ
ーによって「玄」の人間は、おのれを取り巻く光景が仮想現実であり市民社会の虚構を
あばき、黒い言語と身体的言語によっていまだ体験せね形とこれから訪れる出あろう
「出来事の気配」を根拠として現出するのです。体系的な一つの実践的構想力として、
他者に向けて表出せねば「玄」い人間は、かつて夢の中で乗船を拒否した幻想の黒い巨
大な宇宙船によって殺されてしまう恐怖感が「玄」い人間の畏怖構造なのです。

 演劇の「船」的構造はおそらく「タイタニック号沈没」において黒テントが表出させ
たのかもしれませんが私は残念ながらそれを体験していません。詩集はこの春、図書館
で借りて読んだのでありますが、重ね合わせ時間そのものの縦走・複合構造はわれわれ
人間の空間・時間が「船」にあることを再発見させた詩集でありました。時間・予測・
シミュレーションによって判断する登山の縦走者は、ある空間を地図によって読み「未
知との遭遇」に対処する、森林・山岳に圧倒され主体と中心を喪失し、羅針盤の「揺ら
ぎ」「ずらし」の黒い言語に惑わされ取り付かれた縦走者は、ルートから離れ森林山岳
の中心に引き寄せられて遭難者として変貌する、遭難者とは物質が内包する引力に主体
のシミュレーションが敗北し犠牲とされた人間のことです。海・森林・山岳・草原とは
物質が連結連動しながら巨大な体系性と中心を内包しています。その体系を連結連動さ
せながら地球の引力は自己運動ではなく、他者関係運動として太陽の引力と自己の引力
と遠心力によって反発し回転しながら、太陽系の円環運動を反復するのです。その太陽
系の引力構造はさらに銀河系の中心の引力に引き寄せられ反発しながら星雲の円環運動
として反復しています。さらに銀河星雲は宇宙の中心の引力に引き寄せられながら反発
し宇宙を円環し転回するわれわれのマクロ・ミクロを貫いた空間と時間は反復の中心に
存在しています。われわれの空間と時間は「船」的な構造にあり、物質内部の中心にあ
る求心力と遠心力の磁場の生成による、外部との応答関係を連結連動させながらマクロ
的な他者関係運動を反復とし転回する体系を形成します。

 ダイレクトな生身の他者「環」形成と人間としてのメディアがもつ「現」の構造を表
出する演劇の空間と時間は、動的世界の中心である引力の求心力と遠心力の磁場を作り
出す、その表れた磁場こそ舞台の中心といえると思います。故に人間とオブジュとして
の道具たる物質は最も舞台で輝きだすのです。観客の前で照明を浴び応答関係を成立さ
せる演者の身体は美しい。それは同時に集団的創造力が扱う舞台装置・舞台道具として
のオブジュも物質の中心たる磁場が喚起し嬉しいはずです。物質の形たるオブジュは躍
動的な空間と時間の連結連動構造に存在してこそ、生きいきと輝きだします。それを私
は「孤独」の断章において茂手木淳が舞台に置いた人形から感受しました。
 現代美術のインスタレーション・オブジュは展覧会場というブルジョワ・アトミズム
の私的所有鑑賞方法たる「見る・見られる」通行人的のぞき見の空間に存在する死んだ
偶像なのです。時間的躍動から切断され今なお二元論の構造に閉ざされているのであり
ます。その二元論の構造によって美術は投資家の欲望を限りなく喚起し生きた貨幣とし
て、ブルジョワ・アトミズム私的所有の構造に取り込まれ、死んだ通貨の記憶へと落と
し込められてしまうのです。

 機械の部品を見れば物質が躍動的な空間と時間の連結連動運動に歓喜していることが
発見出来ます。オペレーションとしての人間との他者「環」形成を物質は協働的世界形
成として成立させ、力つよい生命体のごとく求心力と遠心力の磁場たる中心が、他者物
質の中心に共振共鳴しながら、徹底的な反復の円環運動として連動し躍動します。オペ
レーション自動機械の発明と近代的工場制度の転回としてあった産業革命は、物質の根
源たる求心力と遠心力の中心たる磁場が、他者物質の中心と連結連動する反復的円環運
動によって、宇宙の星のDNAたる遺伝子が覚醒し開放されたことにあります。自動機
械とはまさしく宇宙物質の反復的円環運動そのものを体現しているのです。私の妄想で
いうばおそらく演劇が内包する反復的訓練と一回性のライブとしてある空間と時間は宇
宙の始原的運動と応答関係にあるのです。演劇の「船」的構造は人間と物質の遺伝子を
歓喜し空間と時間の原点に帰還する根拠をむき出しにするのかもしれません。

 しかしながら人間の欲望形態を私的所有の基準によって制度化した資本主義は、産業
革命によって暴走し、人間を自然・土地から引き離し近代的工場制度に送りこんだので
あります。物質の覚醒と開放は多大な民衆の犠牲の上に形成されてきたのです。自然・
大地から引き離されたということは、民衆が宇宙的空間と時間である反復的円環的人生
を破壊されたということであり、この憎悪の根拠が反革命に回収されたときファシズム
運動は人間の破壊として個人と物質そのものの死滅の極限まで暴走するのです。反革命
の神学たる天皇制はエイズ的な血液主義としての反復的円環自己運動であり、宇宙意識
を私的所有する自己絶対化の神学に存在しています。宇宙の時間と空間とは協働的世界
形成の欲望にあり、反革命の私的所有たる自己運動の欲望はこの宇宙の欲望を破壊する
歪曲された人間の滅亡を差し示しています。マクロ的な宇宙の中心はミクロ的な物質の
中心たる磁場に存在して、人間は物質の夢と幻想を思考形態においてにらう、物質の協
働的世界形成を全面的な能動的生物として形成する宇宙の欲望を切り開き体現する物質
の最高形態としての社会的動物なのです。人間一人一人には協働的世界の中心と物質の
歓喜たる協働的世界形成の宇宙欲望の中心が存在しており、ここに人間の尊厳が誕生す
るのであります。

 私は欲望のエネルギーこそが物質を発展させ人間世界の歴史を生成させてきたと思い
ます。だがその欲望が協働的世界形成の欲望であるのか、永遠の自己運動であるすべて
を私的所有せねば満たされぬブルジョワ・アトミズムの欲望の形態であるのかは決定的
に違います。私的所有の欲望を全面開花させた資本主義制度は、類的存在から人間を引
き離し自立した個人による欲望の独裁を完成させました。この欲望の独裁は東欧・ソ連
邦のスターリン国家社会主義経済を内部自解・崩壊へと追い込み、彼らをして資本主義
経済に屈服させました。スターリン国家社会主義経済の欲望が生産力第一主義に存在し
ていたからこそ、資本主義の欲望である世界システムに屈服同化することはある必然性
を内包した根拠だったのです。彼らの弁証法的唯物論は論理言説の展開方法としてあっ
た弁証法があらかじめ物質の内部に存在していると錯覚し、物質の概念を神に替わる位
置に祭り上げたのでした。しかしその弁証法とはマルクスが他者「環」形成として現実
存在そのものの構造を再度思考する人間が把握し、逆転した関係を能動的実践的な構図
の体系によって協働的世界形成への変革にむけた物語の方法だったのです。市民社会の
人間にとって当たり前の日常生活に身体化している商品・通貨の物質が、実はある階級
の私的所有のシステムと強力な内部で自然生成している、物質の中心たる磁場が根源的
にもつ協働的世界形成の欲望は、私的所有の欲望に矮小化され、よりある階級の欲望の
身体的血液に同化した通貨が人間の記憶と物質の記憶にとって替わるのであります。マ
ルクスは当たり前の表面を思考し、その表面の自己欺瞞・他者欺瞞システムの物語をあ
ばき、表面の「現」の構造そのものの歴史的形成過程に他者として入り込み、表面がも
つ強力な内部と徹底的な実践的思考の格闘をとうし、再度表面に帰還するとき彼は体系
的な歴史的形成過程の物語によって、ある階級のシステムによって意味が確立された表
面の意味と慣習を転倒するのです。マルクス死後エンゲルスは物質構造の内部にあらか
じめ弁証法が存在していると、ダーヴェン生物進化論を唯物論に換言し、フォイエルバ
ッハが成しとげたヘーゲル神学批判を葬りさることにより、ヘーゲル哲学の引力圏へ再
度帰還したのです。こうして物質の神学たる弁証法的唯物論は誕生しスターリンによっ
て自己完結されたのでした。

 ロシア革命とともに協働的世界形成として世界史の先端に踊りでた演劇・美術・文学
のロシア前衛芸術の展開は弾圧され圧殺されていったのです。詩人マヤコフスキーの自
殺はその悲劇と絶望の深さを表しています。民衆的創造力は貨物列車に乗せられ収容所
へと送還させられていったのです。言語と身体的言語は国家官僚システムの私的所有と
固定化され、弁証法的唯物論の芸術論は反映論として、客観的物質の神学が造りだした
意味の確立された社会の人間と事実をアートは正確に反映しなければならない、それが
リアリズムであると。
 しかしながら反復的訓練とイメージの建築とある執念によって表出する芸術は、根源
的に動物的本能を備え、物質の中心たる宇宙的磁場を有し、他者との対話可能な試練と
受苦性をもっています。私的所有の独裁機構はメディア・レイプとして意味の確立され
た慣習と制度的社会をシステム化し、事実はそれを造ったものによって媒介され回収さ
れゼロの記号として確立されるのですが、根源的な芸術は媒介され回収され変貌した事
実の空間と時間を超越し、人間と物質の中心たる求心力と遠心力の磁場とは記憶に存在
するのだが、この記憶の力を回復させるのです。記憶の力とは人間存在が物質の協働的
世界形成への欲望を記録する記録者であり、かつその欲望を実践的構想力の実現におい
て体現する世界同時性の未来を偶然と必然の結合によって生きた物質の本能によって引
き寄せ現在に表出するのであります。

 宗教団体は宇宙意識を私的所有して物質から切断された人間のアトミズムを囲い込み
仮想共同性の生成過程に神話物語との自己同一化を図る物語の絶対化によって、言語・
数・貨幣からの疎外を補完するのです。神の構造に世界同時性があるのではなく、人間
の実践的構想力に世界同時性があるのです。この世界同時性とはあるものの探求であり
、あるものの発見であり、そのものを他者にしらせたいとする情報伝導である協働的世
界形成の欲望の三原則にあります。世界同時性とは物質の最高形態である人間の反復的
訓練と実験におのれを動員する前衛者の動的中心に存在しているのであります。演劇の
「船」的構造は物質も躍動的空間と時間に演じる演者であり、コラージュの回転軸たる
中心には明確な詩的言語と身体言語があります。それは物質と人間の記憶が存在してい
るということであり、イメージの編集たるモンタージュ理論が記憶の理論なのです。ロ
シア革命の記憶者・記録者として映画の革命をもたらしたエイゼンシュタインのモンタ
ージユ理論は、彼が芸術の主体であり動的世界の中心たる磁場を覚醒させていたからで
す。それは実践的経験を実験によって理論化できる能力に他なりません。

 空間と時間に始まりが終わりである「演」の一回性を、協働的世界形成の欲望として
舞台に建築する表出者の建築物は、「演」が終えれば跡形も消え去る構造に規定され、
瞬間という世界同時性の感受能力と記憶能力のコミュニケーションに建築される幻想の
建築物は、演者の持久的な反復的訓練とその具体の蓄積過程に実践的構想力の可能とし
てある思考の具現化として、演者はひらめき・アイデア・デザインとして主体の磁場が
求心した未来と過去からの発信を受信し言葉の建築としてある理論を記録していくので
す。人間とはいかなるものであるのかを問う「演」の構造は同時に思想と理論の構造で
あるのです。

 私の妄想でいえば日本イデオロギーのパフォーマンスは新しく伸し上がってきた政治
支配権力を権威と神学によって取り込みながら、自由自在に変化するヌエ的怪物性にあ
り、その根拠は、単一民族の幻想と大東亜共栄圏構想のむき出しの欲望形態に存在して
います。変化するヌエ的怪物が民衆の言語と身体的言語を回収するとき、自然生成的な
形態をとることが可能なのは、和歌によって訓練された複合的な言語戦争を私的所有し
ているからであります。「島」の文体たる単一民族幻想の国民国家の内部で、自己欺瞞
・他者欺瞞の言語が認められ通用する根拠は、日本語そのものが複合的人為的なコラー
ジュによって形態化されているからです。日本語とはモンタージュ・コラージュ言語な
のです。日本語とは日本国家の血液が通る大動脈といっても過言ではありません。日本
語は現在も当用漢字として国家が制御し統括しているのです。意味を覆すことが可能で
あるコラージュ言語であればこそ、天皇制は歌を支配し国家テクノクラートは日本語そ
のものを制御するのです。

 例えば20世紀のヨーロッパに誕生した詩的言語としてのダダイズム・フランスのシ
ュールリアリズム・ドイツ表現主義の複合意識としてあるコラージュは、日本の場合、
和歌の誕生にすでに表れています。それは鉄と馬を戦闘形式にもつ騎馬民族特有の徹底
した部族闘争による、大王の継承をめぐる権力闘争と内戦として表出した、7世紀大化
の改新前後から、壬甲の乱。7世紀とはアラブにユダヤ神話から分派しキリスト教批判
としてイスラム共同体が動的世界の中心として出現し、キリスト教ヨーロッパはいまだ
蛮族の部族社会にしか過ぎませんでした。東アジアの動的世界の中心は「唐」であり、
朝鮮南部の「馬韓・辰韓・弁韓」の騎馬民族国家は部族の徹底した戦争によって自解し
百済・新羅へと統合されていきました。古代朝鮮南部と島としての九州は鉄と馬を生活
の動的中心にした部族国家集団として戦闘に明け暮れていたと思われます。われわれは
古代を柔らかな自然と人間の関係としてノスタルジア的に考えてしまいますが、その実
態は極めて固い物質を握りしめていたのです。第一自然である森林から草原・川原・海
辺に歩きだした人間は、第二自然を作りだしました。「形」の誕生です。その「形」は
「数」の意識を誕生させました。材木から住居を形成し、石から道具を造る。やがてそ
れは鉱物から鉄を抽出し、人間は思考力と想像力のイメージにしか存在しなかった形を
加工行為として具現化することに成功したのです。古代部族社会において母権と女の身
体がシンボルとなりまつりごとの中心に据えられたのは、女が子供を生む能力への男の
畏怖意識とともに、固い物質を道具として狩猟の緊張にあった男たちの救済として女の
身体はあったのだとおもいます。男たちの狩猟は不確実のギャンブル形態にあり、確実
に部族の飢えを日常的に救ったのは女たちによる採取経済であったのです。それは女た
ちのほうが生命維持本能が強い理由であるのだが、採取経済から農耕経済は女たちによ
って作り出された形態であると思われます。しかしながら鉄の誕生は狩猟にも農耕にも
部族闘争にも革命的事態をもたらしました。人間の思考力と想像力のイメージに浮かん
だ形を誕生させることが出来る鉄の加工行為は、女への畏怖構造を取外し部族の権力を
男たちは女たちから奪取していったのです。

 古代中国に誕生した漢字は、おそらくその造形力と造語力から見て鉄の誕生によって
形成された文字であろうと思われます。7世紀大化の改新後「倭」は百済を支援すべく
軍隊を送り出し新羅・唐連合軍との戦争で敗北しました。その後「倭」の大王継承をめ
ぐる内戦として壬甲の乱をえて、唐帝国との強大な他者関係性から「倭」そのものの記
憶を消却し「日本」を誕生させるのです。朝鮮・韓での「百済」「新羅」「高句麗」こ
の三国で展開されていた壮絶な戦争と動乱をみすえ、日本はこの三国の集団としての政
治亡命者を受入れ、中国から漢字・通貨・仏教・政治体制としての律令制度を取り入れ
、模倣造形しながら国家形成していくのです。その場合高度技術・高度情報をもった政
治亡命者が国造り部として活用されていくのですが、逃亡者・亡命者・漂流者がもつあ
る絶望ある断絶ある自己喪失が日本誕生には孕まれていたのです。それゆえに加工の想
像力としてある偽史の歴史叙述「古事記」「日本書紀」は律令国家形成の動的中心をに
らう神話物語として誕生したのです。これは朝鮮半島からイベリヤ半島までのユーラシ
ア大陸においては通用しない歴史叙述の方法であります。まさに工作者としての人間の
あるさざれ石の理想が偽史の形態において自己実現した神話物語を、この20世紀末ま
で動脈化した理由は、騎馬民族の制服者・漂流者にとってこの極東の島が、統治管理す
るのに手頃な空間であり理想の島だったのです。彼らが7世紀の朝鮮半島の動乱と唐帝
国との敗戦から総括したことは、王権権力闘争と部族闘争に明け暮れていては律令制度
国家体制が崩壊してしまうということでした。そのために現人神は必要であり、現人神
と連結連動する偽史の歴史叙述は誕生したのです。民衆の記憶・記録を消却して国家官
僚の偽史の想像力が、自己欺瞞・他者欺瞞として生成するのは、日本語としての表記記
号を建築の形態として反革命の王朝が鉄を加工するがごとく成しとげたからです。

  ある固有の自然言語におのれの感情を複合的重層的に入力する倭歌の発生は、ダイ
レクトにおのれの感情を表記して、それが他者に読まれれば王朝部族権力闘争に利用さ
れ、おのれの政治的死滅を招くという、構造と意識にあり、王朝歌会とは腹の探り合い
であったのです。何処までもゼロの記号に接近させることが優秀歌であり、自然生成的
に純化させ磨ぎ澄まし、言語にいかにうまく己の感情を表記し当事者に読了させるのか
、但しそれは他者が読んでもわからぬよう隠蔽されていなくては成らない、この暗号の
ような歌を王朝部族に教えるものが、歌の加工職人であった宮廷詩人でありました。2
0世紀末の宮廷詩人とはもちろんコピーライターであり、ある言語にコンプレックス形
式をかけその複合・重層によって、おもしろおかしくさせるCMメディアこそ日本文化
の伝統に存在しているのです。彼らは古い構造にベッタリと貼り付きながら新しさを装
い、日本語のリアリティと口語文体の建設に血を吐きながら格闘してきた主体構造を明
るく軽やかに破壊しながら、消費管理社会たる天皇企業文化の独裁を隠蔽するゼロの記
号をメディア・レイプとして推進しているのです。

 日本文化の発生とは意味の闘争であるコラージュだったのです。王朝権力闘争と部族
闘争は内戦としての戦争形態として戦国時代まで続きますが、常に昇華されぬ「怨」の
構造が蓄積されてきました。この「怨」の構造が現在に幽霊が物語る日本の伝統演劇た
る「能」を表出させました。意味の闘争をめぐるコラージュと幽霊仮面が物語る怨の構
造こそが騎馬民族の部族闘争が発生させた詩歌と演劇の根源的な磁場なのであります。
それは繊細なやわらかな感受性とは反対の固い物質である鉄を握った感受性であり、馬
が疾走するスピードに乗った動的中心の移動感受性が、その仮面の裏に隠蔽されている
のであります。演劇の「船」的構造とは動的中心の移動感受であり、それはわれわれが
馬とともに生活形態をとっていた遺伝子を呼び起こすのです。

 PERFORMING JUNKの文体とコラージュはヨーロッパ文様でありながら
日本の歴史的伝統的な表出構造に存在していたのです。われわれの前衛的実験の空間と
は古代の磁場と連結連動しているのかもしれません。さらにそれは言葉と身体言語の再
建にあったと思います。断章で演じたLumiere Noireにおける池野一広の
舞踏、金属音と鋼鉄物質、固い鋭利な感触としての身体的言語は未来を暗示していると
ともに極めて古代的なのです。つまり古代から近代まで人間は石や金属の固い感触とと
もに生活してきたのであり、現在も鉄筋コンクリート・鉄骨建築群に囲まれて生活して
います。しかし世紀末の高度管理消費社会は人間から固く鋭利な感触を奪い真綿で首を
絞めるかのごとくやわらかな構造によって隠蔽した日常に囲い込みます。私は世界史が
転換する89年頃、よく感触のある夢を見ました。それは自己の現実世界への感触が稀
薄化し、感性が薄っぺらと成っていく予告であったのだと今思っています。 性的人間
である私は2年前まで土木作業員でありましたが、建築工事現場で大量の生コンを型枠
に流し込むコンクリート打ちの労働をするたび、狂おしく女性のやわらかな身体に触れ
抱きしめたい衝動に駆られました。女の肌が救済であるかのごとく。生コンはまるで精
液でありポンプはきんたまでバッスン・バッスンと巨大な音を反復する光景は恐竜の性
交でありました。バブル経済の過程で表出し現在も光景を変貌させ、人間の記憶をなし
崩しのままに消却し、空間変貌の落差を無意識に蓄積する魔天楼ビルディングの誕生と
無機質でやわらかなデジタル情報空間はおそらく物質の動的中心である磁場でセックス
をしているのであります。もはや世界経済のネットワーク・システムと地球に網のごと
く張りめぐされ飛び交う電子回路に、物質の意識は人間から学習し誕生しているかもし
れない、私は妄想しています。

 東欧・ソ連邦崩壊によって弁証的唯物論は残酷な夢の残骸として敗北しましたが、他
者関係としての物資とはなにかをめぐる妄想は人間存在とはなにかをめぐる演劇的思考
なのです。気がフレおのれの人生を棒に振った私は、でくのぼう・あほだら・愚者・性
的人間として演劇的思考にこもっていこうと思います。核兵器は物質の動的中心である
磁場の原子・中性子を破壊することによって、爆発させるビック・バンであります。そ
れは物質の磁場が持つ協働的世界形成の欲望を自爆させることによって、恐れるべき破
壊エネルギーを引き出すことにあります。アインシュタインの相対性理論思考は物質の
磁場に巨大なエネルギーが存在していることを発見し、そのエネルギーを取り出すため
には磁場そのものを破壊すればよい、破壊するためにはウランを燃やして抽出するプル
トニウムが必要である、そのミクロ的構造の発見は時間と空間・物質をめぐる宇宙存在
の探求によって具現化されました。アインシュタインはなぜその発見を封じ込めなかっ
たのか? おそらく協働的世界形成の絶望と切断アトミズムの執念がUSAの世界戦略
に回収されていったのです。

 協働的世界形成が解体・崩壊し絶望によって自己喪失した人間は、武器をとって昨日
までの隣人と戦い血を流す民族内戦を促進する旧社会主義国の自己運動のアトミズム欲
望は世界政治経済システムの私的所有の欲望形態に回収され、ここでは兵器をたれ流す
死の商人があらかせぎ、眠りから醒めた戦争屋が画策する構造にあり、民衆はいつでも
ほんろうされ傷つき、故郷を追われ難民へと落とされていくのです。現代世界の絶望形
態は人間と物質世界の破壊として進行しているのです。民衆による協働的世界形成の欲
望の再建にこそ救済の道は存在しているのであると思います。自分に絶望することは世
界に絶望することなのですが、それでも私は絶望する人間を信じ、一握りのみすぼらし
い希望の存在を信じたいと思います。

 演劇の宇宙船は何処に帰還するのか? それは持久的な反復訓練としての協働的世界
形成の場所であると思われます。PERFORMING JUNKの空間と時間に挑発
され、おもいつきのままにワープロをうってみました。長い手紙になったのは性的人間
である私がPERFOMING JUNKの可能性のある若いエネルギーに対決せんと
したからです。ginger cafe´の今後の実験欲望と未知との遭遇に期待して
います。


 追伸  8月9日(日)NHK教育テレビ芸術劇場、蜷川幸雄演出オペラ「さまよえ
るオランダ人」を見ました。ワーグナー世界と対決し、ヨーロッパオペラ歌手と日本オ
ペラ歌手の協働による劇世界の構築は感動しましたが、巨大な貿易航海船とオランダ人
が乗る幽霊船が現出し、蜷川がもつ充満的エネルギーとダイナミック躍動空間は表出し
ていましたが、それは演劇の「船」的構造ではありませんでした。建造の空間と時間で
ある物語の構造にあったのです。
 続いて15日、劇団DreamDrunkersの「夜の秋」を体験しました。結語
の回収のされかたに注目しましたが、ナルシズムとマザー的愛の構造から脱出し、衛星
通信電話回線都市の構造と、そのデジタルドームの内部で無防備のまま生成する青春像
の等身大・生の現在を観客に投企する結語でありました。私は嬉しくなりました。
 若い集団的創造力のたくましい飛躍と他者との回路が開かれた主体形成を発見したか
らです。

 『想像力の起源は舟である。洪水と舟の伝承は、古代から世界各地に埋もれていた』

                 1992-8-11
 


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