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↑大変長いので,ここだけでも読んで!【アメリカナイゼイション(グローバリゼイション)VS亜細亜主義(コミュニタリアニズム)】
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/464.html
投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 1 月 31 日 18:45:37:Sn9PPGX/.xYlo
 

(回答先: 題名:No.597 グローバリゼーションの本質  From : ビル・トッテン 投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 1 月 31 日 12:46:06)

◆グローバリゼーションとアメリカナイゼーション
 私が「亜細亜主義」という言葉を書き綴るようになったは、一九九九年の「WTOシアトル総会」がきっかけです。当時は「亜細亜主義」という言葉を大量に売れる刊行物の中に表立って書く事には勇気がいりました。ところが実際には拍子抜けで、何の反発もありませんでした。「あ、みんなもう知らないんだ」ということがよく分かりました(笑)。
 今年(二〇〇三年)私は朝日新聞に、憲法改正についての論説と、亜細亜主義についての論説を載せました。両方ともデスクが突っ返してくることを期待したんですが、これまた何の抵抗もなくスルーしたんで、「ありゃ、ありゃ」という感じです。「民度が上がった」ので受け入れられるようになった──なんてことは、ありえないでしょう(笑)。
 むしろ、何もかもが忘却の彼方にあるということなのです。とすれば、忘却の意味を理解するためにも、なぜ私が「WTO総会」の後に「亜細亜主義」の見直しを提案したのかをお話ししたい。それは追って話すとして、私の提案にアジアの留学生たちが反発してきたので、誤解を回避するべく「盟主なき亜細亜主義」という言い方をするようになりました。すると留学生の方々も、驚くほどすんなり納得してもらえるようになったのです。
 盟主なき云々の問題は、「亜細亜主義」の弱点とも密接に関ってきますので、後で触れるでありましょう。いつもそうですが、私は事前に何の準備もしてきてないので(笑)、皆さんの顔色を見ながら話の方向を変えていきます。ですから、話が嫌な方向になったときは、みなさん、嫌な顔をして下さいね(笑)。
 まず最低限の基礎知識から始めます。今日グロバリゼーションと言われるものと、帝国主義時代のグロバーリズムとは根本的に違います。そこから始めましょう。WTOへの反発を理解するためにも大切なことです。帝国主義的グローバリズムとは、簡単に言えば、軍事力を背景にした経済的覇権追求です。とりわけ九〇年代以降には、それまでの「国際化」(インターナショナリゼーション)という言葉に替わり、「地球化」(グローバリゼーション)っていう言葉が出てきました。
 その背景にあるものは何か。問題をグローバリズムには還元できません。グローバリゼーションっていうときに最も重要なのは、「自発性」──「服従者の自発性」──です。「服従者の自発性」という問題を北一輝も意識しているんですけれが、先の「WTO総会」につながる直接の概念的ルーツは、私の記憶の範囲で言うと、スーザン・ジョージ、あるいは師匠筋にあたるレイチェル・カーソンでしょう。
 分かりやすく言うと、こうなる。貧乏な南側の国がある。豊かになろうとする。そのために「近代化」しようとする。キーワードが出てきました。「近代化」。そのためには外貨を獲得しなければいけない。それゆえに換金作物に作付けを換える。すなわち一次産品を輸出して得た外貨で「近代化」する。抽象的にいうと流動性から収益をあげようとする。
 すると国際市場で買い叩かれて構造的貧困に陥る。それに気付いて後戻りしようにも、土地には農薬がぶち込まれてスカスカ。マングローブは破壊され、森林は砂漠化している。つまり伝統的な自立経済圏を支えるインフラはズタズタ。だから永久に近代的システムに従属しつつ「構造的な貧困」に甘んじるしかない。ここにあるのは、軍事力を背景とした経済的覇権追求というより、「幸せになるために近代化しよう」いう「自発性」です。
 当初は一次産品だけが問題でした。今やWTOというスキームにまで関係しています。要は自由貿易を前提に、国際的な部品調達ネットワークから収益をあげる仕組みです。かつてNIESと言われた諸国も含めて、工業化を遂げようとすれば、国際的な部品調達ネットワークに組み込まれるしかない。流動性から外貨を獲得する以外にないので、WTOスキームに組み込まれるわけです。
 その結果、先進諸国、というより、アメリカ一国に対して従属的立場に陷ってしまう。これが「WTOシアトル総会」が、アンチ・グローバリゼーション=アンチ・アメリカニズムを起爆させた理由です。象徴的なのが、今や世界社会フォーラム(WSF)で活躍しているジョゼ・ボベのマクドナルド打ちこわしです。彼の行動についてはフランスの世論調査では六割の国民が「理解できる」としています。すごい民度だと思いませんか。もし私が日本でマクドナルドを打ちこわしたとしたら「気が狂った」で終わり(笑)。
 こうした欧州の民度には二つの背景があります。一つは、自立経済圏やそれに結びついたコミュニティー的なライフスタイルが現に存在して、「グローバリゼーションによって失われるものがある」という痛切な感覚を抱いているという事実です。グローバリゼーションによって破壊される伝統があるという感覚であるとも言える。日本には、維新以降の近代化や戦後復興の図式ゆえに、こうした感覚は昔も今も全くと言って言いほどありません。
 もう一つ、それにも関係しますが、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)からEU(欧州連合)にいたる思考伝統があります。第二次大戦後ひたすら流動性から収益をあげるようになったアメリカという国を睨んだ、欧州の相互扶助的な連合構想の伝統です。むろんアンチ近代ではありません。
 「近代化」は不可欠としつつも、やり方次第では「対米従属」してしまう。それは回避せねばならない。エネルギー安全保証、食糧安全保証、技術的安全保障──今日ではIT安全保障──、文化的安全保障などの観点から、ある種の「近代化」を回避し、別種の「近代化」を遂げねばならないとの発想が、長く抱かれてきています。
 それらの伝統が、アメリカン・グロバリゼーションを背景に、九〇年代の末に噴出したわけです。そのことをもって、まさに日本人たる者は、そこに「亜細亜主義」の本義を見なければいけないという思いを私は抱いたんですが、そう思った人が他にもいるはず──思ったところが、どうやらオッチョコチョイな私だけだったようであります(笑)。
 ところが最近、「亜細亜主義」関連のイベントが随所で開かれるようになりました。本日もまた然り。こういうイベントに私が呼ばれるようになったところを見ると、9・11からイラク攻撃に至るアメリカの行動ゆえに、皆さんがようやくヨーロッパに比べて数十年遅れで、「近代化」に対して単に「反近代」を掲げる「ノーテンキ左翼」を脱する機会がやってきたように感じて、感無量です(笑)。
 すなわち、「近代化」のやり方次第ではヒドイことになるがゆえに、「近代化」のやり方を熟考しなければならないだという発想が出てくるようになった。確かにアメリカの野蛮な行動は、世界にとって不幸なことではあります。しかし、転んでもただでは起きず。不幸は最大限利用しなくてはならない。そういう観点からすれば、我々は新たなるステージに立つに至った、という風に私は思いたいんです。まさしく願望。I hope。
 むろんどうなるかは分かりません。正直申し上げると、むしろ日本の民度はこれからどんどん下がるであろうというのが私の観測です。それは北一輝が、日本が新たなるステージに立ったと考えた『支那革命外史』から、国民の天皇が望んでおいでであるとの幻想を利用しようとする『日本改造法案大綱』に移行せざるを得なかった深いニヒリズムと、同種のものである可能性すらあります(笑)。
 事実は、私は昨年『絶望から出発しよう』という本を上梓いたしました。そのタイトルは、実は、北一輝の──私は別に法華経の信徒ではないんですが──法華経的な「絶望を背景とした現世極楽浄土主義」になぞらえたものであります。などと言うと、抹香臭いヤツだと思われるでしょうから、やはり今の話は取り消しましょう(笑)。まあちょっとはヒントになったかなというくらいにしておきましょうか。

◆亜細亜主義の本義と多様な方向性
 亜細亜主義をどう理解したらいいか。ここまでの話でご賢察の通りであります。「近代化」には幾つかの異なる方向性がありえます。その「オルタナティブな近代」を構想する思想が「亜細亜主義」であったというのが私の理解です。その理解によれば、亜細亜主義の本義なるものは恐らく三つあると思います。
 第一に、日本は徹底的に「近代化」せねば欧米列強に屠られるより他ない。よって「近代化」を徹底すべし。第二に、しかし「単純欧化主義」を頼るのみでは、──先のスーザン・ジョージ思想の嚆矢と言える発想ですが──欧米に従属的たらざるをえなくなるばかりか、──岡倉天心に発し且つ三島由紀夫の文化防衛論にも通じる発想ですが──日本は「入れ替え可能な場所」になってしまう。ゆえに「単純欧化主義」たらざるべし。言い換えれば、近代化にもかかわらず護持すべきパトリがある、とする発想です。
 ちなみにこのパトリたるや、岡倉天心のようにインドから西南アジアまで含むような構想もあれば、北一輝や宮崎滔天のように中国革命と日本革命を重ねる立場、中国を除いた極東アジアの連合を構想する立場、日本一国を構想する立場、藩レベルの範囲を志向する立場など、範囲は論者によって防縮自在であることに注意する必要があります。亜細亜主義という場合、パトリを一国範囲よりも広く取るというだけの話であります
 そして、亜細亜主義の本義の第三は、日本一国より大きく取られた範域で、欧米列強に屠られざるべく、あるいは「近代化」の一定のやり方から来る害悪を取り除くべく、軍事・経済・文化的なブロック化を志向するべし、というものです。私の書物にあるような現代的言い方では、国家を超える範囲にも国家より小さな範囲にも通底する「マルチレイヤー化した異主体システム」ということになるでありましょう。
 金融・財政レイヤーは最大の行政単位、軍事・外交レイヤーはそれより小さな単位、エネルギー供給や食料供給レイヤーはもっと小さな単位、ゴミ処理レイヤーはさらに小さな単位、教育・文化レイヤーは最小単位という具合。要は、過剰な流動性を遮断して、多様性を護持するということです。近代に特有の流動性によって均一に塗り込められてしまわないうにしようというわけですね。
 ご存じの通り、近代は流動性と多様性を共に上昇させてきました。すなわち流動性から収益をあげるべく、外国人労働者の流入や、帝国化──帝国主義化ではありません──に見るように、域内多様性を深化させて来ました。ところが、近代が一定の成熟度に達すると、流動性と多様性を共に上昇させることが困難になる。結果、流動性からの収奪を優先させるべく、ノイジーな多様性を粉砕しようという志向が強くなります。それが先進各国で80年代に生じたネオリベ化であり、それに引き続くネオコンの変質──多様性優位から流動性優位への──で、今日のアメリカン・グローバリゼーションにつながる。
 つまり、亜細亜主義を嚆矢として今日のEUにも見出されるオルタナティブな近代化構想とは、一口で言えば、「流動性から多様性を護持する」あるいは「収益よりも共生を重視する」ものだと言えます。亜細亜主義というと、大陸侵略正当化思想という具合に思い込まれて、今ではいかにも聞こえが悪い。実際、そのように機能した歴史的事実もあろう。しかし、西郷隆盛に発する亜細亜主義の本義は、まさしく「流動性から多様性を護持」し、「収益よりも共生を重視」する、オルタナティブな近代構想にあると言えるのです。
 政治思想史に詳しい向きは、七〇年代のアメリカでなされたリベラル対コミュニタリアンの論争以降の論争史を想起するべきです。当初リベラリズムは多様性を無視して流動性に加担する思想だとしてコミュニタリアニズムの側から攻撃されていました。もちんろ今では馬鹿を除いては両者が対立する思想だと思う者はいません。自由を利用して流動性ではなく多様性を選択する。自由を利用して収益価値ではなく共生価値を志向する。まさしくオルタナティブな近代と称しうる所以です。
 こうした発想は社会学に馴染みやすい。なぜなら社会学には「あらゆるものには前提がある」とする思考伝統があるからです。「自由には、自由にならない前提がある」。かかる思考はヒュームの黙契思想に遡りますが、社会学ではデュルケームの「契約の前契約的前提」という概念に結実します。他方マンハイムの言うように、近代社会ではもはや伝統主義は「反省された伝統主義」──再帰的伝統主義──である他ない。伝統主義と言っても、伝統とされるものをあえて選択するという近代的な人為の営みがあるに過ぎない。
 これを総じて、自由の護持には共同体的な前提が必要であり、共同体の護持には自由の護持が必要である、との循環が見出されます。自由と共同体は互いに前提を供給し合う関係にあるとするのが、前提を遡る使命を自らに課す社会学の見解であります。社会学では、これを「自由と秩序の問題」として議論して来ました。馬鹿は、自由が増えると秩序が減り、秩序が増えると自由が減ると見倣す「自由と秩序のゼロサム理論」をとります。これが全くの出鱈目であることは拙著『自由な新世紀・不自由なあなた』に詳述しました。
 素人に分かりやすく言うと、「君が代斉唱」を強いる自称ナショナリストたちの振舞いがあるとする。しかしそれはいかにも脆弱な「ナショナリズムもどき」です。むしろ先生が「お前たち、無理に歌わなくても良いのだぞ」と呼びかけても、子供たちが「先生、私たちは歌います」とすっくと立ち上がるときにこそ(笑)、つまり自由なのにコミットメントするときにこそ、ナショナリズムは強固な実質を持つことになるのです。
 この発想は、もちろん若き北一輝の『国体論、及び純正社会主義』に見出されるものです。ことほどさように、九〇年代に爆発したグロバリゼーションの中で、元来は別々のルーツや系譜を持つはずの、まったく別の時代、別の地域の、思想の流れや行動原理の流れが、皆さんの頭の中では接続可能になってきた──少なくとも私の頭の中では接続可能になってきた──わけです。だからこそ、今や亜細亜主義が見直されるべきであり、北一輝が見直されるべきなのであります。
 近代には、多様性よりも流動性を優位させるアメリカンなタイプと、流動性よりも多様性を優位させる──収益よりも共生を重視する──オルタナティブなタイプがあると言いました。政治思想がどうたらこうたらということよりも、亜細亜主義の政治的実践者や、欧州主義の政治的実践者が、こうした対立を明確に念頭に置いていた歴史的事実を参照せよというのが近年の私の呼びかけです。
 むろん一筋縄ではいかない。たとえ教養なき誤解曲解や、意図された誤用濫用があったにせよ、それを防遏できなかった責めの一部は、亜細亜主義者や欧州主義者に帰せられるべきであり、さらにそうした問題をはるかに超えた内在的弱点があることも事実です。それについては、リベラリズムの限界とも関わる論点でもあり、大問題ですので、機会を更めるとし、ここでは一つだけ本質的な補足を加えておきましょう。
 それは、オルタナティブな近代が許容する「多様性」なるものには限界があるということです。要は近代というシステムに乗っかり得る限りでの「多様性」を許容するということ。近代内部の共生原理に合わないものは、いかに多様性が重要なりといえども、許容すべからず。これです。この一点において、文化的多元主義──近代と両立可能な多様性のみを許容する立場──と、多文化主義──近代と両立不可能な多様性をも許容する立場──とが分かれる。これはもはや周知の事実でありましょう。
 私自身ははるか以前から主張してきたように、オルタナティブな近代を賞揚する「近代主義者」であります。よって、近代の枠組みと両立可能であるような「多様性」以外は根本的には認めません。と申しますと、「亜細亜主義とそんな宮台思想が両立するんか?」と思われるかもしれません。両立どころか、論理的に思考すればぴったり重なるんですね、これが(笑)。まあ、いずれ皆さんにもお分かり頂けるときが来るでありましょう。

◆「流動性」と「多様性」
 さて、亜細亜主義を見直すに際して不可欠な事柄ですので、復習しておきます。一九七〇年代以降の政治哲学において、流動性と多様性のどちらを優先するのかということが最重要課題となりました。これは、どっちが論争的に強いかといったフニャケた話ではなく、体制選択──アメリカンな近代かオルタナティブな近代か、あるいは単純グローバリゼーション型近代か屈折グローバリゼーション型近代か、あるいは単純欧化主義か屈折欧化主義か──に直結する立場選択だということを、再確認しておきます。
 日本には馬鹿が多いので、ネオリベラリズム(新自由主義)というと「小さな政府」とか「自助努力」といったクリシェしか想起できない輩で溢れています。そこから「自己決定論批判」などをホザク輩もいる。そんなことはどうでもいいんです。本質はむしろ、「社会政策の遂行」──再配分に象徴されるような──よりも、「法的意思の貫徹」──重罰化や排除──を優先させるオリエンテーションにこそあります。これを一気に縮めて表現すると、「流動性と両立不可能ならば多様性を抑圧せよ」という命令文となります。
 だからこそ、ネオリベはある種の保守主義や共同体主義と結びつくのです。政府を小さくするから民間のセクターに頼らざるを得ないというだけでは、古典的な性別分業肯定や同性愛否定を説明できません。むしろ、社会内部の多様性の温存やそのための少数者への再配分こそが効率の妨げになり、かつこれらの排除こそが範域内部の同質性を健全に保ちうるという「一挙両得」的発想の然らしめるところです。範域を国内にとれば英国的なネオリベですが、範域を国際社会に取れば米国的な変質ネオコンとなる次第です。
 これに対して、流動性よりも多様性を、収益価値よりも共生価値を優先する、オルタナティブな発想があります。この立場は私が取るところですが、「社会政策の遂行」と「法的意思の貫徹」のバランスを、飽くまで重視します。七〇年代ならばコミュニタリアン的と称されたであろうこの立場は、今日ではリバタリアン(自由至上主義者)を相手にリベラル(自由主義者)が取るべき立場であると考えられています。
 憲法学者であり且つネットの公共性を担保しようとする『コード』『コモンズ』の著作を持つローレンス・レッシグに象徴的です。かつてインターネットに関わる者といえばサイバー・リバタリアンが相場だったのに、今やサイバー・リベラルとでも称すべきレッシグ的立場が影響力を持つに至っています。サイバー・リバタリアンは、かつての米国リバタリアンと同じく、フロンティアが無限に拡がっているという前提に立って、ネット空間を「公共財」──非排除的で非競合的な空間──だと見倣していました。
 ところがフロンティアが限られた範域しか持たないことが明らかになるにつれ、ネット空間は非排除的ではあっても競合的な──誰かが取れば誰かが失う──「共有財(コモンズ)」だと見倣されるようになります。すなわち、自由至上主義的な価値を主張するだけでは、失う者は失うがままに放置され、共生(コンビビアリティ)と両立しないことがはっきりしてくる。
 「市場の限界(飽和)」や「資源の限界(枯渇)」や「環境の限界(汚染)」がある中でヨリ多くの人々が自由であるためには、公共財視点から共有財視点への移行が──リバタリアン視点からリベラル視点への移行が、流動性優位から多様性優位への移行が、収益価値から共生価値への移行が──必要不可欠になります。
 リベラリズムは、共生価値を担保する前提にコミットメントするべきだとの価値観を主張し、この価値観に基づいて自由至上主義的な行動への介入の必要を主張します。これは一つの価値的な立場選択です。先に近代が再帰的(反省的)たらざるを得ないがゆえに、伝統主義もまた再帰的(反省的)なのだと言いました。これを拳拳服膺すべし。近代(計画や人為)に対して伝統(自然や非人為)を対置できるという発想を排除するべきです。
 分かりやすく言えば「為すも人為、為さざるも人為」。要は「伝統も選択、伝統破壊もまた選択」。「共同性もまた選択、共同性軽視もまた選択」。人為も不作為も横並び。伝統も伝統破壊も横並び。共同体主義も共同体軽視も横並び。いずれかが本来的で、余りが非本来的だ、などという素朴な潜入見を排除せねばなりません。各人が人為によって──すなわち自由を行使して──共同体(とされるもの)や伝統(とされるもの)を護持するか否かを、常に選択しているわけです。
 亜細亜主義は、流動性よりも多様性を、収益よりも共生を重視する、近代思想です。いや、そういうもの「だった」んです。しかしある時期から全然違うものとして理解されるようになる。例えば、満州事変(昭和六年)以降の大陸進出で忸怩たる思いを抱いていた知識人らは、日米開戦(昭和一六年)で一転元気になります。当時の朝日新聞一面に中野正剛が勇ましい署名入り記事を書いていたりするのが典型です(笑)。
 それまで大陸進出が亜細亜主義の大義に悖る──「アジアを列強から護持する」よりもむしろ「列強と競ってアジアを侵略する」──ように見えて困っていたところに、対米宣戦布告で、15年戦争の全体が「欧米列強からアジアを守る」亜細亜主義の大義に基づくと信じられるようになったというわけですね。開戦から随分時間が経って、ようやく重光葵外相の下で大東亜憲章が出され、大東亜戦争の目的が厳格に定義されたのと同じこと。
 ことほどさように亜細亜主義は、体よく「跡づけの理由」に利用された。「中国大陸に侵略なんてしていいのか?」「いいのだ。これは亜細亜主義に基づくものなのだ」「ウソつけ、この野郎!」という感じですな(笑)。そういう次第で「亜細亜主義」なるものが、アジアの人々にとって、そして何より戦後の日本国民にとって、タブーの思想になってしまう。これはこれで当然なことなのであります。
 加えてこういう事情もある。三一年の満州事変以降、まず「日支連合」の構想があり、それを日満支連合に拡げた「東亜新秩序」の構想があり、さらにそれに印度と東南アジアとオセアニアを加えた「大東亜共栄圏」の構想が生まれてくる。人呼んで亜細亜主義というと、まずもってこの流れが想起されてしまうわけですよ。「亜細亜主義」と「大亜細亜主義」という言葉が互換的に使われてしまうのも、そうした事情を背景とします。実際、多くの亜細亜主義者がかかる構想を支持した事実もある。
 皆さん、私が「亜細亜主義を見直せ」と言うからといって、そんな事前的・事後的な正当化スキームを再評価するべきだ、なんて言うわけないじゃありませんか(笑)。くれぐれも誤解やご心配のないように。私が「亜細亜主義」という言葉で申し上げたいのは、本来の亜細亜主義者とは、「近代」と言いつつその実「欧米近代」に過ぎない実態を見抜いた上、オルタナティブな近代を構想する者の謂いだということです。今日の「マルクス主義者のなれの果て」に見るような稚拙な「反近代主義者」ではなかったということですよ。
 「亜細亜主義の本義」について考えるにつけても問題になるのは、その都度の情勢判断です。アジアでいち早く「近代化」をとげた日本こそがアジア各国に近代革命を輸出すべきなのか。それとも近代化を遂げたと見えた日本が明治新政府の腐敗と堕落の渦の中に留まる以上、辛亥革命などを契機として大陸の革命を日本に輸入する方向で考えるべきなのか。むろん前期の北一輝は後者の線で考えたわけであります。後期の北になると、そうした革命輸入の可能性すらありえないほど日本の民度は低いという発想になっていきます。
 遡れば、『脱亞論』の福沢諭吉のように、亜細亜主義なるものの本義はよく心得てはいるものの、日本以外のアジア諸国にはいかんせん近代化の芽すらなく、近代革命の輸出などにかかずらわっていては、単に足手まといになるだけ。ゆえに日本一国がまず欧米列強に屠られないレベルへと近代化を遂げるべし、と考える立場もありました。
 実際に、アジアが欧米列強帝国主義の草刈り場となり果てる中、さてアジアがそもそもどういう状況にあり、その中で日本がどういうポジションにあるがゆえに、一体何を為しうるのか。そういうことについての情勢判断の分岐が、亜細亜主義者の内部で相当に鋭く、また一人の思想者の中でも大きく揺れたわけです。それが現実政治における闘争とも結びつき、重要な人間たちが処刑されていく歴史もありました。この対立軸を、今日もう一度きちんとなぞり直しておくことが必要だと思われますが、今日はスキップします。
 抽象的な話に戻して、亜細亜主義の本義たるオルタナティブな近代構想、すなわち「流動性からの多様性の護持」「収益価値からの共生価値の護持」というとき、私が想起するのは、明治では西郷隆盛・岡倉天心の二名、昭和では北一輝・大川周明・石原完爾の三名です。北一輝については、思想というより、むしろその思想遍歴が参考になります。
 北一輝はデビュー作から物凄い事を言っています。『国体論、及び純正社会主義』という早稲田大学の聴講生の時に書いた文章があります。要は、社会主義者たる輩が、なぜ自らの主張が国体論に抵触することを明確に言わず、あたかも社会主義と国体──天皇中心的な国家体制──とが両立するかのごとき欺瞞的メッセージを発しているかとコキおろす。そして、むろん北自身は、国体と両立せざる純正社会主義の立場を採ると言うんですね。
 天皇についてはもっと面白いことを言う。「万世一系の皇室を奉戴するという日本歴史の結論はまったく誤謬。雄略がその臣下の妻を自己所有の権利において奪いし如き、武烈がその所有の経済物たる人民をほしいままに殺戮せし如き、後白河がその所有の土地を一たび与えたる武士より奪いその寵妾に与えし如く…うんぬん」。こんな、悪辣なことをする皇統のご先祖さまなるものは、日本人にとって戴くに足らずということを宣言している。
 「もとより、吾人と言えども最古の歴史的記録たる『古事記』『日本書紀』の重要な
る教典たることは決して拒まず…うんぬん」から始まる文章では何を言うかと思えば、神話のごとき非科学的な妄念によって天皇を正当化するなどとんでもないと言うのです。時間はないので朗読はやめますが──実は後で言うように朗読が大切なのですが(笑)──神話ならざる何によって天皇を正当化するのかというと、中大兄皇子によってだと言う。
 要は、天皇が革命家天皇である限りにおいて──まあ辛うじてそういう歴史もあったりするんで──、国民は天皇を尊崇し、天皇自身は中大兄皇子をモデルとして行動すべきだと。天皇がそのように行動したときに限り、「国民の天皇」──これは『日本改造法案大綱』の中で使うようになる言葉ですが──でありうるのだと言う。
 初期に北一輝が考えていたことは、当時日本の社会主義者が考えていたことを、圧倒的にラディカルにしたものであると言えるでしょう。例えば、彼は、暴力革命を否定し、投票主義を挙げています。プロ独だろうが何だろうが国家による強制を一切否定するかわりに、民衆によるある種の自治能力、これを強固に信頼するというわけです。
 しかし、残念ながらと申しましょうか、初期の北一輝に存在するある種の「民衆ロマン主義」は、後期になると「崩れていく」ように見えるわけです。私自身は北一輝に実存的にコミットメントするところがあるので(笑)「崩れていく」とは思わないんです。私の読み込みと言ってもいいのですが、「民衆ロマン主義」の素朴さだけでは残念ながら本懐を遂げられないという風に考えるようになっていく。その本懐とは何かというところにこそ、北一輝の「亜細亜主義者」としての志を見出すことができるんです。
 北一輝は孫文が大嫌いでした。なぜ嫌いか。理由は、西郷隆盛が大久保利通以下明治政府の重臣たちを批判して決起をする──というか決起をさせられてしまうんですが──経緯と、同一の問題に関係しています。つまりは孫文が「単純欧化主義者」だったからです。単純欧化主義者の明治政府重臣たちが、国粋とは名ばかりに権益にぶら下がる形で私腹を肥やす腐敗堕落ぶりを、西郷に倣って知っていた北一輝は、単に西欧産の「近代化」を目指すだけでは、この国は、アジアは、駄目になるという明確な意識を持っていました。
 同じく、西欧近代の産物たるマルクス主義に単に従うことも、日本国民の魂の何たるかを心得ない振舞いだとして退ける。だからこそ「革命」ではなく「維新」だと言うのです。北によれば、「革命」は虐げられたる者どもの怨念がベースになるが、「維新」にはそれのみならず、革命によって保全されるべき入替え不可能な本質に対する意志がある。「革命」と「維新」が対立するのではなく、「革命」だけでは足りないと言うのです。
 それは、「近代化」と「亜細亜主義」が対立するのでなく、「近代化」だけでは足りないという発想とパラレルです。単に「近代化」するだけでは、我が地は入替え可能な場所になる。同様に単に「革命」するだけでは、我が魂は損なわれる、と。この入替え不可能な本質、損壊を許さぬ魂を、ご都合主義的に実体化する辺りから、北の思想が馬鹿者どもに利用され、戦中国体論の翼賛思想だと思われていくのでありましょう。

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