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資料編 パート2 死の商人、ご存知 西のグラバーとご存知ない東のスネル
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/600.html
投稿者 Q太郎 日時 2004 年 1 月 22 日 18:42:17:4V2zl9FyN7Ano
 

(回答先: 怪しいのはむしろ岩崎弥太郎ではないでしょうか 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 1 月 21 日 21:25:51)

<再び、資料編です。
流れのわからない方はこの下にあるレス「南北戦争関連」を先に見てください。
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/596.html

日本の内戦で使われた武器とアメリカ南北戦争の接点を探しているうちに
興味深いものを見つけました。>

http://homepage1.nifty.com/jshoda/jshoda/essay/essays37.htm

死の商人、ご存知 西のグラバーとご存知ない東のスネル

戦争には、当たり前ですが武器の需要があり軍需関連の商売が活発になります。そして武器の斡旋をする「死の商人」が現れます。戊辰戦争頃には、対抗する東北諸藩と西南諸藩に肩入れした死の商人がおりました。

懐旧談(益田孝男)に、「其頃日本に来ていた外国商人は、皆な大したものではなかった。本国に立派な根拠を持った商人はいなかった。オリエンタル・バンク、ホンコン・シャンハイ・バンク、ジャーデン・マジソン、ネイズルランド・トレーディング・カンパニー。この四つの外は皆食い詰め者ばかりのやうであった。諸藩に武器や船などを売込むのが商売で、茶や生糸の商売を大きくやるやうになったのは、余程後のことである。」

ものの本によると、亜米三といわれたアメリカ三番館のR・スミスや蘭八と言われたオランダ八番館のヘッセ・リリアンタル、それに日本語が達者と言われる楠正兵衛ことイギリスの横浜甲九十番の総支配人ウォーターらが武器で大いに儲けた口のようです。

現在、手元にある資料では、主な死の商人として、東北諸藩にはスネル兄弟、西南諸藩にはトマス・B・グラバが目につきます。グラバは長崎のグラバー邸で有名ですが、スネル兄弟は残念ながらあまり知られていないようです。

懐旧談では「其頃日本に来ていた外国商人は、皆な大したものではなかった」とありますが、スネル兄弟、トマス・B・グラバは単なる「死の商人」として片づけられないものがあるようです。

彼らの「死の商人ぶり(軍艦、武器等の取扱量、売り込み方法など)」がどの程度だったのか、興味がありますが、このお話は別途としまして、このページでは、彼らが「単なる死の商人」ではないと言われる面を集めてみました。

まず、スネル(シュネル)兄弟から始めますが、まだ分かっていないことが多々あるようで、参考資料@では、兄のヘンリー・スネル(平松武兵衛)と弟のエドワード・スネルの二人が出てきます。二人兄弟のように思えます。参考資料Aでは、兄のエドワード・スネル(新潟の山木商会、アカハネ・スネル、平松武兵衛)と弟のコンアート・ガルトネル(箱館の商人でかつプロシャ領事)、そしてエドワードの兄(名は不明)がいたようです。三人の兄弟が日本へ来たのです。

日本名平松武兵衛を名乗ったのがヘンリーなのかエドワードなのか特定できませんので以下、平松武兵衛とします。
高嶋米吉氏の調査(参考資料@)によると平松武兵衛はヘンリーのようです。

この平松武兵衛の印象を米沢藩士甘粕継成が文書で残しております。

「時にスネル、深く米会(米沢、会津)の義挙を悦び、専ら尽力する心得にて髪をきり、日本製の袴、羽織を着し姓名を改めて平松武兵衛と称する。…・そもそも平松年頃三十歳前後、眉目清麗、会老侯(松平容保)より賜りし小脇差を帯し来る。実に一箇の美男子なり」。

彼は会津に屋敷を買い、日本人女性を妻にしたのです。そして、越後方面軍の軍事顧問に就任しております。そしてもう一つ、戊辰戦争の終わり以来、姿を消していたエドワードかヘンリーが明治二年四月、アメリカの新聞に登場するのです。彼はサンフランシスコの北東、アメリカン・リバーに近いエルドラド郡コロマ村で農場建設に励む日本人移民の指導者として紹介されています。この日本人移民は会津藩士たちだと言われております。やはり「単なる死の商人」ではないのです。

さて、もう一人の有名なトマス・B・グラバーですが、薩摩や長州という西南諸藩を主な取引相手としておりまして、これもまた、日本人女性を妻としております。
その名を「ツル」と言いましたが、このツルさんは、有名なオペラ「マダム・バタフライ」の蝶々夫人なのです。グラバーは長崎の欧米人のための英国教会の建設、日本人専用の教会建設(出島に建設)、出島の長崎聖公会神学校建設など多大の協力をしております。トーマス・グラバーは「営利の商人」でありながら、「信念の実現のためには営利の範囲も逸脱せざるをえなかった」と記録にあるようです。 彼は武器の需要がある前から商売をしていたことでもあり、「単なる死の商人」として片づける訳にはいかないでしょう。

それにしても武器の調達が容易なご時勢であったのです。
文久元年(1861)に始まったアメリカの南北戦争が文久3年、ゲティスバーグの決戦で北軍が勝利して終わりましたが、用がなくなった武器が日本へ流れ込んできて、戊辰戦争に「活用」されたのです。

参考史料:@幕末に踊った死の商人 歴史への招待 NHK、幕末・維新の日本(近代日本研究会、年報 1981)、Aやまがた幕末史話、グラバー夫人(野田平之助)等


<そしてもう一つの謎。坂本竜馬です。このエッセイを書いた人も
リーマンさんとすみちゃんの行き当たった疑問にたどり着いた様子。
岩崎弥太郎はかなりあやしい。>

http://homepage1.nifty.com/jshoda/jshoda/essay/essays37.htm

No.38 密約・薩長同盟の素地、そして坂本龍馬の斡旋開始
慶応元年(1865)5月1日、薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀、大山彦八そして坂本龍馬、高松太郎らが薩摩藩船胡蝶丸で鹿児島に入りました。彼らは薩摩の藩論を第二次征長阻止にまとめるためでした。

鹿児島滞在中、坂本龍馬は西郷隆盛や小松帯刀の家にやっかいになりながら、第二次征長阻止の具体策である薩摩藩の征長出兵拒否、そして薩長和解を議論したようです。

薩摩藩の征長出兵拒否は薩摩藩内の決定事項ですから、第三者がとやかく言う筋合いのものではありません。しかし、薩摩と長州の和解はしかるべき第三者の仲介が要求されます。
ここに第三者としての坂本龍馬の出番がありました。
鹿児島を離れた坂本龍馬は筑前太宰府の延寿王院にて三条実美に謁見し薩長和解策を説いております。
なぜ薩長和解策をとらなければならないのかは別途としまして、この時から、坂本龍馬が公然と薩長和解に乗り出したようです。東久世通禧(みちとみ)が坂本龍馬を「偉人なり、奇説家なり」と驚いておりますから、坂本龍馬の薩長和解策はセンセーショナルなものだったと思います。

坂本龍馬が筑前太宰府で三条実美に謁見できたのは薩摩の渋谷彦助の斡旋があったからですし、ここ太宰府で長州藩士小田村素太郎(楫取素彦)と知合いになってもおります。どうも筑前太宰府ではすでに薩長和解の素地ができていたようです。
また、第二次征長阻止に関連して、半年ほど前に薩摩の西郷隆盛は、征長軍の解兵後に五卿を福岡藩に移すという妥協案で長州を納得させたようですから、薩摩は五卿の取扱、第二次征長阻止を通じて長州藩の救済にあたっていたのでしょう。

薩摩と筑前太宰府の意向を把握した坂本龍馬は、下関で病気静養、それから備前に寄り、慶応元年(1865)6月24日京都に入ります。

京都で坂本龍馬は、長州藩が幕府の再征に備える武器購入を希望していることを西郷隆盛らに伝え、薩摩藩名義で長州藩のための外国製武器購入が承諾されております。すなわち薩摩藩名義で英国商人グラバーから銃約7000丁を購入し、長州へ融通することが決まりました。坂本龍馬はどこから長州藩の武器購入の情報を得、確認したのか、坂本龍馬の情報ネットワークが知りたいところです。
坂本龍馬と西郷隆盛らの間で長州藩のための武器購入がまとまりましたが、これを長州へ報告する使者が三条卿衛士楠本文吉でありました。筑前太宰府チームの人間がここにも出てきます。仲介役としてうってつけの第三者の役割に筑前太宰府チームの人間が有効に働いたようです。

そして、慶応2年(1866)1月21日、薩長同盟が成立しました。

この同盟は一部の関係者しか知らないのです。

薩長同盟は密約です。一部の権力者による密なる約束です。密約でも動く政治システムがここにあります。「俺は聞いてなかった」と言う藩内の異論者を力で押さえる、あるいは上意を利用して押さえることにならざるを得ないと思います。

いつの頃か薩長同盟の芽が出て、発芽の後、筑前太宰府で大きく育ったようです。そして、坂本龍馬によって、実利を伴って具体的になったと言われております。

文久3年(1863)8月18日のクーデターの頃は薩摩と長州は犬猿の仲なのですが、それから3年ほどの短い間に密なる同盟を組むのです。長州藩には、背に腹は替えられない事情(第二次征長への対応策)があったのですが、薩摩には同盟に関してどんなメリットがあったのでしょう。

東北諸藩においても会津・庄内藩の密約があり、会庄同盟と言われますが、この二つを比較して勝者と敗者について考えてみるのも面白いかもしれません。


<また、こういうものも。
アメリカ南北戦争後の武器や軍艦の払い下げが
明治期以降の日本の軍国化とリンクしているようです。
そして今の日本はまた同じ事をさせられているのでは?>

http://www.warbirds.jp/ansq/21/B2001363.html

363  1361の質問で思い出したのですが。
 幕末の新政府側の軍艦「甲鉄」は、当初、南部連合海軍が建造していたのを、
南北戦争の終結に伴い、北部(米国)が接収し、日本に高値で売り飛ばしたとい
う話を聞いたことがあるのですが、本当でしょうか。ストーンウォールという艦
名から、南北戦争で、南部側の将軍として名高いストーンウォール、ジャクソン
将軍に由来するのでは、と思って、いろいろ調べたのですが、分からずじまいで
した。どうか、よろしくお願いします。
山家

1.  ストーンウォールは完成後フランスを出航、南北戦争の終結した1865年にキューバに入港、そしてそのままキューバに売却されています(売却価格は2万ドル弱?なんでも乗員へ支払う給料を得るためだったとか)。
その後、アメリカが売却価格で買い戻しますが、戦争後に海軍を縮小するのにあわせて日本に売却しました。
で、そのときの売却価格は40万ドルだったそうです(資料には当時の平均的価格と書いてあったような?)。
名前の由来についてはわかりませんでした。
人見 忍

2.  甲鉄は、アメリカ南北戦争の南軍がフランスに発注しボルドーで建造、当初の艦名をスフィンクスといいました。その後ストーンウォールと改名され南軍が受け取る前に南北戦争が終結して中に浮いたところを、幕府がアメリカ政府から購入することになりました。 その時の艦名のストーンウォールはご指摘の通りストーンウォール・ジャクソン将軍からとられました。
そして日本まで来たところ、アメリカ政府は急遽、明治新政府側に売り渡し軍艦甲鉄となりました。
1868年11月に幕府軍の開陽丸が江差沖で難破した後、1869年3月に榎本幕府軍の土方歳三が宮古湾でこの甲鉄を奪取しようとして失敗(宮古湾海戦)しました。
その後改名され、日本海軍の軍艦東になり、明治21年に解体されました。
ここらのいきさつはインターネットで検索したら国内のサイトが幾つかでてきますが、海軍関係もありますが幕末史が強いところも面白いです。

クフという姉妹艦(クフ王とスフィンクスの組み合わせ)もあって、1866年に完成してプロシアに売却されてPrinz Adalbertとして海防艦任務につき1878年には解体されたようです。
masaki ogasawara

3.  どうも、ありがとうございます。私の聞いて覚えていた話と、全くと言ってい
いいほど違っていて、びっくりしています。私の聞いて覚えていた話だと。
1、南軍が姉妹艦を含めて2隻を建造していたが、南北戦争終結に伴い、北部が
接収し、建造代金の埋め合わせのため、外国に転売しようとし、プロイセンと
オーストリア(しかも両国は交戦中)に、売込みを掛けた。
2、プロイセンは、買い取ったが(多分、クフのことだと思います)、オースト
リアは、敗戦に伴い、購入をキャンセルした。そのため、別の国に売り込もう
と北部(米国)はした。
3、日本は、戊辰戦争中であり、ここなら高額で買い取ってくれるだろう、と北
部(米国)は考え、売り込んだ。本当は2万ドルもしないのに、40万ドルの
ものだ、と吹っ掛けたら、軍艦の値段に当時、明治新政府はうとかったので、
いろいろ新機軸を盛り込んだので、これぐらいはするという口車に簡単に乗っ
てしまい、そのまま購入してしまった。

と以上のように覚えていました。本当に、きちんと調べて覚えないといけない
ことが分かりました。あらためて、自らの肝に銘じたいと思います。
本当にありがとうございました。
山家

4. 甲鉄について私が調べた範囲では、おおまか masaki ogasawara さんの記述に合致しますが、1864‐65年、フランス、ボルドーでアメリカ南軍向けに同型艦2隻を建造。フランスと南軍の仲違いによって輸出を禁じられ、スフィンクスはデンマークに、Cheops はプロシアに売られた。
ステルコダー Sterkodder と名を変えたスフィンクスが、デンマークへの到着する直前にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争が終わり、スフィンクスはキャンセルされ、オリンダ Olinda と名を変えてフランスに戻る。

途中、南軍によって奪取され(茶番劇の可能性がある)、スペインへ遁入。ストンウォールと改名して北軍の軍艦に監視されながらキューバへ向い、現地に到着後16,000ドルで売却された。
戦後、北軍は同額で艦を買い取っている。海軍の縮小と江戸幕府の買取交渉が噛み合って400,000ドルで売却。←回航費込みの可能性がある。

アメリカ東海岸から南米ホーン岬、サンフランシスコ経由、8カ月かけて横浜へ1867年到着。すったもんだの末、明治政府に引き渡される。

ところで masaki ogasawara さま、Cheops の読み方は判然としなかったのですが、これで「クフ」と読むのでしょうか。出典をご教示願えるとありがたいのですが。
志郎

5. そうですね、CheopsはKhufuとも表記してクフ王(エジプトの大ピラミッドで有名)のことなので、そのままクフと発音するものと思っていました。
研究社のリーダース英和辞典で調べると、Khufuと表記した場合はクフに近い発音のようですが、Cheopsだったらキオプスでしょうか。
masaki ogasawara

6. 追伸、英語の発音、自信がないです。
masaki ogasawara

7. 元々、ケオプスはヘロドトスの『歴史』に出てくる人名で、クフのギリシア語形です。ダーラヤワウがダレイオス、クシャヤールシャンがクセルクセスになるのと同じです。あと、クフという発音も便宜的なもの(エジプト象形文字は子音だけで表記するので、本当はどう発音したかよくわからない)。
ノースバーグ

<それから、日本での明治維新に関する位置付け。>

http://www.fitweb.or.jp/~nkgw/german00.htm
ドイツと日本

<成熟した民主国家への指針>

「高度に成熟した民主主義国家」と呼ばれる国々があるようである。我が国もその中に入るのかどうか、問われれば苦しい部分がある。米国政府内でもかなり我が国へのフラストレーションが蓄積されてきているようである。「日本は外圧が無ければ変れない国なのか」即ち自己変革能力が欠落しているのでは。人間は生まれてから自己を変革しながら一人前になっていく。国もそうであろう。それを阻んでいるのは霞ケ関の官僚達による中央集権であり、それに馴らされてしまっている国民だといわれる。今まさに自己を変革し真の民主主義を達成すべき時を迎えたようである。ただ第2次大戦後、我が国では見習うべく紹介されるのは一にアメリカ、二にイギリス、その他に見習うべき外国の無きが如き感がある。

現在の中央集権、それは明治維新の廃藩置県に始る。明治維新は世界史的一面ではイギリスとフランスの代理戦争であった。文部省の教科書にはそのような記述はされていないようだが幕府軍にフランス軍将校が派遣されていたのは紛れもない事実であり、イギリスが薩長を応援し使われた兵器の主なものはアメリカの南北戦争終結後に不要となった南軍のものであった。

1867年の大政奉還、1868年の王政復古により日本は中央集権を強力に推進する。欧米列強との力の差、なかんずく軍事力の差を如何に縮め追い付き植民地化の恐れを払拭し、不平等条約を解消するためには当然であったであろう。税の大部分を国税として徴収し大蔵省の金庫を水源とし、それに繋がるパイプと末端の蛇口の間の幾つものバルブ、バルブ操作に携わる人間関係、これが中央集権の実体であろう。

(後略)

<この後に日本はドイツを見習えという話が出てきますが、
それは今回重要ではないのでカット>

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