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尖閣問題早分かり【改行位置訂正、一部訂正】
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投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 3 月 26 日 22:40:12:WmYnAkBebEg4M
 

(回答先: 尖閣列島の名の由来 投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 3 月 24 日 22:48:52)

以下、1996年9月、ある掲示板に投稿した文です。現在領土問題をきっかけにナショナリズムを煽ろうとしているように感じられます。少しでもこの文が役に立てばと思います。

※それにしても、今読み返してみて、元資料を参照しながらですけれど、我ながらよく書いたと思います。確実に自分の脳細胞が萎縮しているのを感じます。


尖閣問題早分かり【改行位置訂正、一部訂正】

 尖閣問題(中国名、釣魚島)を考えるにあたり、中国人がどの様に考えているかを知るのも参考になる。ただカッカするだけが能ではない。
 以下、「釣魚台列島の領土主権の分析」(アメリカ東部「釣魚台ハンドブック」から) 1972年頃、やはり日中間で尖閣島(中国名、釣魚島)が問題になった時に出されたもので、中国人の留学生が書いたもの。

一、地理的環境
 釣魚台列島は八つの小島からなり、台湾の東北に位し、約北緯25度40分から26度、東経123度20分から123度45分の間にある赤尾礁、黄尾礁、釣魚島、飛瀬島、北小島、大北小島、南小島、大南小島で、その中の釣魚島は台湾省北部の基隆(キールン)港から僅か120浬しか離れていない。これらの島嶼は、中国大陸棚にあり、その周囲の沿海の深さはどこも100米に満たない。中国大陸に近づく程深度は浅くなっている。ところがこれらの島嶼は琉球からは250浬も離れており、しかも中間には水深2000米から4000米の深溝がある。
 1958年にジュネーブで開かれた国連海洋法会議で通過した大陸棚条約では、その15条で、沿海国家は「水深200米或いはこの深度を超えても水深が天然資源の開発を許す大陸棚に対して主権を行使することができる」と指摘している。
 国際司法裁判所が、1969年2月に下した西ドイツ、デンマーク、オランダ間の北海大陸棚の限界問題の判例も参考になる。この判例では、「大陸棚での主権の限界の画定は、沿海国家の陸地領土の自然延長の原則に合致すべきである」とのべている。中国台湾省及びその付属島嶼周囲の海域とその他中国に近接する浅海海域は、すべて悠久な年代を経てきた中国陸地領土の延長であり、みな中国の所有であり、これら浅海海域の地下資源は、ただ中国のみが測量調査と開発の権利を持っている。琉球列島は、千島列島、日本列島、フィリピン群島、大スンダと小スンダ群島からなる「花旗列島」の一部であり、釣魚台列島とは深い海溝で隔てられており、地理上から言って釣魚台列島とは全然関係がない。

二、歴史的背景
 釣魚台列島は、遠く明代にすでに中国の版図に入っており、中国のいくたの古書にもすべて記載されている。
 明朝嘉靖13年(1534年)に、中国中央の官吏陳侃が沿海州を巡察したときに、これらの島嶼を訪れたことがある。(「尖閣列島の名の由来」中、「使琉球録」参照。)嘉靖41年(1562年)中央の官吏郭汝霖が沿海を巡察したとき、5月1日に釣魚島を訪れており、3日には赤尾嶼を訪れている。これによって分かるように、釣魚台列島はみな中国の海域にあり、みな中国の領土である。
 清朝乾隆50年(1785年)に林子平(日本人)が製図した「三国通覧図説」も、釣魚台列島は琉球の範囲に属さないことを説明している。
 1941年、日本が台湾及び琉球を占拠していた期間に、「台北州」と「沖縄県」の間に「尖閣群島」(日本名、中国名は釣魚台列島)の漁場をめぐり訴訟が発生した。1944年、日本の東京の裁判所はこれらの島嶼は「台北州」の管轄に属し、これらの島嶼に出漁する漁民は「台北州」の許可証を要す、と判定している。これからも分かるように、釣魚台列島の行政管轄権は一貫して台湾省に属しており、たとえ日本が占拠していた時代でも変更されたことはない。
 1943年12月1日、中米英のカイロ宣言の中では「満州(東三省)、台湾および澎湖島のような日本国が中国から盗窃したすべての地域を中国に返還すること」と明示されている。
 1945年ポツダム宣言は「カイロ宣言の条項は履行せらるべし」と決定している。
 1945年、9月3日、日本はポツダム宣言を受け入れ、正式に無条件降伏した。 日本の降伏により、また台湾省が全部中国の版図に再び戻ったことにより、台湾省の付属島嶼は当然一緒に中国に返還されるべきである。いわんや、1951年にアメリカのサンフランシスコで調印された日米講和条約でも、琉球の行政範囲に釣魚台列島は含まれていない。だからアメリカが1972年に琉球を日本に「返還する」ことによって日本が釣魚台列島に対して何らかかわりを持つことはできない。
 昔から釣魚台列島の周囲海域は、中国人民の主要な漁場であり、風を避ける港である。毎年漁期には基隆(キールン)、宜蘭(イーラン)、蘇澳(スウオウ)等から出漁する漁船は3000余隻に達し、漁民は赤尾嶼などに小屋を建てて漁期に使用しており、一部の漁民は1年のうち2、3ヶ月は島に居住している。また、採薬商人もこれらの島嶼に特産の薬材を採取にきており、中国人民はさらに黄尾嶼には長さ300米に達するトロッコ道を建設しており、二棟の鉄製小屋を建て、長さ120フィート幅4フィートの鉄製桟橋を建設している。これらはすべて中国がこれらの島嶼に対して主権を行使している証拠である。
 つまり我々は、歴史、地理、地質等の各方面から、これらの島嶼が中国領土であることを完全に証明できるのである。

 ひるがえって日本がこれらの島嶼に対する主権を持ち出す証拠を見てみよう。
 1970年9月、日本側はこれらの島嶼は日本人古賀辰四郎が、明治17年(1884年)に発見したものであるといった。1970年8月に日本の記者が東京において古賀氏の子息古賀善次を訪問したが、彼の父親が最初に釣魚台を発見したとの説は彼も認めず、ただ彼の父親はかってこの島に行ったことがある、と言っただけである。たとえ古賀氏がこの島に行ったことがあったとしても、明朝の官吏がこの島を巡察した時および、正式に中国の版図に納められたときより2、300年遅れている。
 事実、日本側が使っている「尖閣群島」の名称は、甲午戦争(日本名では日清戦争)(1894年)、馬関条約(日本名では下関条約)(1895年)以降、日本が中国の台湾省を強奪した後、これらの島嶼に無理に押しつけたものである。※
 日本の古代史書の中にも、釣魚島、黄尾嶼……等の名称はないし、尖閣群島の名称もない。
 明治12年(1879年)日本で出版された「沖縄志」にのっている地図にも、釣魚台列島はない。
 1939年「大日本地理学会」出版の「大日本府県別並地名大鑑」の沖縄部分は、B5版で3頁を占めており、沖縄に所属する大小島嶼の市町村の街はすべて記載されているが、釣魚台列島はなく、尖閣群島の名も見当たらない。
 1965年の日本政府の「臨時国勢調査報告」にも、また釣魚島或いは「尖閣島」の地図や文章はない。
 これでも分かるように、釣魚台列島はいまだかって琉球に属したこともなければ、日本に属したことはない。

※ 実際に尖閣列島と名付け総称するようになったのは1900年(明治33年)、沖縄県師範学校教諭・黒岩恒が校命によりここを探検調査し、「地学雑誌」に発表したその報告論文中で、名付けたことを明らかにして以降のことである。

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