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Re: 続・民俗芸能ウオッチング ほし ひかる
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投稿者 乃依 日時 2004 年 6 月 11 日 12:14:21:YTmYN2QYOSlOI
 

(回答先: 続・民俗芸能ウオッチング ほし ひかる 投稿者 乃依 日時 2004 年 6 月 11 日 12:10:00)

続・民俗芸能ウオッチング


ほし ひかる


 


★今日(12/6)の雑学大学は、今年で9回目の登板、ほし ひかるさんの『続・民俗芸能ウオッチング』の講座でした。 ほしさんは某製薬会社の広報室長をお勤めですが、歴史散歩を趣味として1年間の調査・研究の成果を、お忙しい中、年末に発表する講座を続けておられます。今日は、昨年好評だった『民俗芸能ウオッチング−私だけの旅』の続編でした。


  ☆私は歴史が好きで、時々そうした関係の名所旧跡の小旅行をするわけですが、結果をエッセイにしたり、こうしてお話しさせていただいたりしています。 一言で言えば、「観る、書く、話す」の「るくす」の1年だというわけです。


 「民俗芸能」に関心を持ったのは、2年前にこちらの講座で『自分のルーツの求め方』を話したことがきっかけです。


 やり始めたのは5年ぐらい前ですが、本格的に始めたのは去年からです。


 歴史が好きな者にとっては、現地へ行って調べたいことがあるわけですが、どうせ行くならば、何か祭事があるとき行った方がいいと思ったのです。


 それからもう一つ、私は蕎麦が好きなので、どうせ行くなら蕎麦の美味しい店を探すのも楽しみのひとつにしています。


 それが、ある雑誌社の編集者の耳に入って、蕎麦のエッセィの依頼がきたのです。 ところが、蕎麦の話は、のど越しの美味さとかで済んでしまうので、依頼の2頁はとてもこなせるものではありません。 そこでもうひとつの民俗芸能の話題を入れて書くことにして、やっと話を付けたのです。


☆民俗芸能とは?


さて、「民俗芸能」とは何だろうということです。


 たとえば、一口に「神楽」といっても、宮中で行う神楽は「御神楽」といい、民間で行う神楽は「里神楽」です。 歌舞伎は、職業的専門家のものは別として、民間で上演するものは「農民歌舞伎」があります。 能にも流派を構える職業集団以外の、地方名がつく「民間能」があります。


 これらが「民俗芸能」といわれるものでしょう。


 これまでに自分が見た民俗芸能を表にしてみましたたが(34件の詳細は省略)、その中の1)埼玉・鷲宮神社の「催馬楽神楽」、2)板橋・北野神社の「徳丸田遊び」、3)千葉・光町の広済寺の仏教劇「鬼来迎」、4)上野・報恩寺の「まな板開き」の4つを、今日はお話することにします。


 


☆「田遊び(たあそび)」


 「遊び」とは一つの芸能を表す言葉である。神楽のことを「神遊び」ともいう。 「遊び女(あそびめ)」は、江戸時代には遊女(ゆうじょ)の意味を表したが、本来は芸能人の意味を持つ言葉だった。


 


「徳丸の田遊び」は、東武練馬駅の近くの北野神社で、2月11日に催される。 夕方から行われるが、昔は真夜中に「田遊び」が催されたという。


 農作業の一連、種まき、草刈り、代かき(しろかき)など、今は我々の目の前から消えてしまった農作業が、数人の演者によってパントマイムで演じられる。日本人の原点である米の収穫についての儀式だとも言える。しかし、この「田遊び」はそれほど古くはなく、鎌倉時代に始まった。


 民俗芸能の主要なものに「延年」というのがある。


 寺で法会を行ったあと、宴会芸の芸能を総称する名称であるが、その「延年」から独立して「田遊び」や、「田楽」という芸能が出来た。 


徳丸の田遊びを自分のエッセィによって披露すると、まず、北野神社の拝殿の前に、4メートル四方に青竹を立てて、注連縄(しめなわ)を張る。これを「もがり」という。


暗くなって午後6時30分、もがりの中に梅鉢紋散らしの白丁姿の諸役が勢揃いする。


前列の烏帽子(えぼし)の二人が、リーダー役の<大稲本>と補佐役の<小稲本>である。19人の<鍬取り>が、田に見立てた大太鼓の周囲に並び、近くには、<早乙女>に扮した4人の子供も控えた。


 「田遊び」は「町歩調べ」から始まった。まず、苗代田の数を調べようというのである。大稲本が唱え声を張り上げた。「よう、よなんぞうどの」。「よう」。一同も、接骨木(にわとこ)の枝の先に丸餅をつけて鍬にしたものを両手に持って、応じた。


 つぎが「田打ち」である。以下、1年間の農耕の様が模擬的に演じられる。 「田うない」からは歌になった。「よう、神で田からうない申す」。歌は二拍子、農耕民族の特徴を表わしている。一同は歌いながら、鍬をかついで太鼓のまわりを廻る。土を耕しているのである。


 「代掻き」で牛が出る。牛の顔を描いた板を額にあてて、四つんばいになって太鼓の周りを廻った。「種蒔き」では、稲本が「福の種をまーこうよ」と印象的な節廻しで歌いながら、ザルの中の種子を四方に蒔いた。


 「鳥追い歌」「田廻り」「田うない」の歌が続く。


 「田植え」で、早乙女役の子供が太鼓の上で胴上げされる。子供を苗に見立てて成長を促しているというのである。


 「呼び込み」が今夜の山場であった。<よねぼう>と呼ぶ穀物の種子を象徴する人形を持った男と、飯櫃を持った男が、主務所から腰を振りながらやってくる。


 続いて、黒い翁面の<太郎次>と白い女面の<安面>(やすめ)が連れ立って現れる。女の腹は大きくはらみ、苦しそうである。稲の穂ばらみを促す所作であろうか、その身振りが滑稽で観客は大喜びであった。


 続く<清めの獅子><馬><破魔矢>で稲虫や悪霊を追っ払う。


 「田の草とり」「田廻り」「穂ばらみ」と続き、いよいよ「稲刈り」である。


稲本が左手に松の枝を持って、稲刈りの真似をする。


最後は「稲むら積み」を歌って、「手打ち」で約1時間半の「田遊び」は


「目出度候」と和やかに終了した。


 


 「崇神紀」の箸墓伝説に「昼は人が作り、夜は神が作った」とある。


 上代では、「昼は人間の領域、夜は神の領域」という一種の節度、あるいは、<作る>ことに尊さがあったような気がする。いにしえの「田遊び」が真夜中に行われていたという意味は、米作りの尊さということにある。


 


 


☆「催馬楽神楽(さいばらかぐら)」


 埼玉県鷲宮神社の「催馬楽神楽」は、関東地方各神社の神楽の祖となっているものである。


 そもそも、鷲宮とは平安時代に土師( はじ)氏が土着しており、それを祭るハジの宮 がなまって、ワシの宮になったといわれる。


 赤坂ARKヒルズは、ローマ字のAKASAKA、ROPONIGI、KIOIZAKAの頭文字から採っている。そのなかの紀尾井坂の名は、紀伊、尾張、井伊のご三家の頭文字から発している。 「はじ」から「わし」に変化したとしても、あながち不思議ではない。この変化も歴史のうちだ。


 鷲宮の「催馬楽」は、歌から来たことまでは判っているが、その歌が何かは判らない。記録が何も残っていないのである。民衆が歌っていたのを、雅楽が取り上げたもののようだ。喩えて言うと、歌謡曲をクラシック音楽にしてしまったようなものである。


 宮中の「雅楽」は、当時最高の文化であった高麗と唐の音楽を演奏するもので、国内民衆の音楽などは歯牙にもかけなかったのであるが、これだけは特別に雅楽の演奏曲目に取り上げられた。それが「催馬楽」である。その音楽伴奏で神楽を舞うのが、関東一円に伝えられた「催馬楽神楽」である。


 神楽は、第一座から十二座まであり、番外を入れて十四曲まである。かなり難解であるが、国造りの筋書きもある神楽で、観て感激した。 ご当地の鷲宮中学校に伝統芸能クラブがあって、20名の中学生が神楽の練習をしている。合言葉は「やれば出来る」。中学の校庭にその言葉の石柱が立っている。


伝統芸能クラブの第一回目の発表のあと、ある生徒がつぶやいたのが「やれば出来るんだ」であった。それを聞いて感激した校長が、「その言葉だ!」と石柱に刻んで校庭に建てたという。 最近、コミニュテイが失われているが、こんなことがコミニュテイ回復の足がかりになるのではないか。


 神楽は冒頭にも触れたように、宮中で行う神楽は「御神楽(みかぐら)」といい、民間で行う神楽は「里神楽」である。


 里神楽には「出雲流神楽」と「伊勢流神楽」「獅子神楽」「巫女神楽」の4つの種類がある。


 出雲流は神話を題材にした劇を上演する。


 伊勢流は吉凶の占いを行う(箱根の湯立て神事など)。


獅子神楽は獅子舞である。獅子舞には2人(頭と尻尾)で舞うのが、唐から伝わった正式な神楽舞である。1人で獅子頭を付けて舞う獅子舞は、鎌倉時代に生まれた民俗芸能としての里神楽である。巫女神楽は巫女が鈴を持って舞う。よくあちこちの神社で目にする神楽である。


神社には、鈴が付き物である。何の意味があるのか、何時か調べてみたいと思う。


 「催馬楽神楽」は、江戸時代(18世紀)に時の領主・大内国久が伝承由来をまとめて記録をしたことによって、神楽の源流となった。記録はあらゆる伝承に勝り、やがて事実となることは「古事記」によって証明されている。


 これがまた、歴史の面白いところだ。日本の歴史家が、異論は色々あっても結局、記紀(古事記と日本書紀)の呪縛から逃れられないのは、厳然たる書き物が存在するからである。簡単にいうと、書いたら勝ちだ。


 


  ☆「お囃子(おはやし)


神楽に付き物は笛や太鼓、鉦のお囃子である。「民俗芸能」「歌舞伎」や「寄席」にも囃子はあるが、基を糺せば一つであると思う。


 偶に耳にすると思うが、「葛西囃子」「神田囃子」などがある。葛飾領の葛西神社のための囃子を、伊奈という代官が作ったのが、源流である。


 神田神社の祭りにも、葛西神社から人が来て囃子方をやっていたが、ある年の祭りの日に葛西が大嵐か何かで、来られなくなった。そこで、神田神社の器用な人たちが代わりに、うろ覚えながらやって見た。どうやら、らしいものが演奏出来た。これで今後はやろう、と出来たのが「神田囃子」である。


 葛西囃子とどこが違うかというと、うろ覚えのところは合っているが、覚えてなくて適当にやったところが違うのだそうな。神田神社は自分達の祭りの囃子に神田囃子と命名した。


 その他、囃子には屋台囃子とか道中囃子とかがある。


 駒込・天祖神社で、松本源之助社中という囃子方の演奏を聞いたことがある。


囃子の曲は、組曲になっており、「屋台」から始まって「昇殿」「鎌倉」「玉打ち」と演奏して、また「屋台」に帰るという本格的なものだった。 素人の耳には、玉打ちだけは際立って派手に目立ったが、すべて同じように聞こえる。


  ☆「農民歌舞伎」


去年、農民歌舞伎の「桧枝岐歌舞伎」を見た。ここは女の役は女性がやる。今年は秩父の「小鹿野歌舞伎」を見た。ここでは男性が女形で出演する。 職業的歌舞伎は、女形は日常も女の立ち居振る舞いをして、女性よりも女っぽく表現するというが、ここではそうもいかず、見て吹き出す場面もあったのはご愛敬だった。


 歌舞伎は出雲の阿国が1600年頃に始めたといわれている。当時はやった「念仏踊り」に、「寸劇」を入れた程度のものだった。女だてらに腰に刀を差し、またバテレン風のズボンをはき、異様ないでたちで演じた。カブキとは「傾(かぶく)」から転化して歌舞伎となったが、もとは阿国の異形に発している。


 しかし、やがて「女歌舞伎」が流行ると、なかには春を売るものが現れ、風紀を乱すかどで幕府が禁止したため、「若衆歌舞伎」が生まれ、それも禁止されて今の「野郎歌舞伎」になった。


 始祖、出雲の阿国の墓は出雲大社の近くにある。出雲へ行ったとき、食堂のおばさんに「阿国のお墓はどこですか?」と尋ねると、「阿国さんはあそこ」と、まるで最近亡くなった身近な人みたいに答える・・・・・。


 


☆「鬼来迎(きらいごう)」


さて、次は千葉県光町広済寺の重要無形文化財「鬼来迎」。


 登場人物は閻魔大王、書記、家来、死人、鬼婆の五人で仮面劇を行う。 途中、今年生まれた赤ん坊を、鬼婆の前に差し出す「タイム」がある。鬼婆に抱かれた赤ん坊は火のついたように泣く。泣き声の大きい子が元気に育つという。


地獄に落ちた人を、仏が救い出すという筋書きであるが、近隣では有名とみえ、赤ん坊を連れた夫婦が二十数組も並んで待っていた。


 仮面劇であり、無言劇である。後ろの席で、「子供に先立たれるのは、辛いもんだ」と会話する二人連れの老婆の声が聞こえた。


 鬼来迎には、浄土宗の劇による仏教の理解を進める狙いがある。「壬生狂言」の流れを汲むようだ。近隣の寺で、法要のあとには盛んに行われたとのことだが、現在は仮面だけが残って、僅かに痕をとどめるだけで、実際に鬼来迎を行うのは広済寺のみである。


 民俗芸能としては、小鹿野歌舞伎同様に ぜひ一見をお勧めしたい。


 常々思うが、国立劇場の舞台ではなく、このような草深い田舎のお寺や、神社で、土地の匂いや、観衆の方言の会話などを聞きながら見ることに、民俗芸能の価値があるのだ。


 


 ☆「包丁開き」


上野の報恩寺には「包丁開き」(「まな板開き」)がある。 毎年1月12日に行われる四条流の鯉さばき(手を触れずに包丁だけで料理する)である。お寺は、親鸞の一番弟子の性信房が開基した寺である。もともとは千葉の水海道に報恩寺があった。


あるとき、性信房が信者を前にお説教をした。一人のお年寄りが黙って聞いていたが、その夜、性信房の夢枕に立っていわく、ご坊の話に目が覚めた。お陰で悟りを得ることができた。お礼にうちの池の鯉を進ぜようといった。


 そして翌くる日、性信房のもとに大きな鯉が届けられた。性信房が付近を調べると、そんなに大きな鯉は天満宮の池にしかいない。 驚いた性信房が、神前に拝礼して見上げると、なんと、夢枕に立った老人は、天満宮の御神体と同じ人物であったという。


その後、戦乱で寺が焼かれて、上野に移った。以来七百年に渉って毎年水海道の天満宮から、上野報恩寺に鯉が届けられるようになった。天満宮は、大宰府に追いやられて憤死した菅原道真の怨念を鎮めるための神社である。天満宮はあちらこちらに分社し、多いに道真人気が高まった時期でもあることが、この物語の背景にある。


  そんな歴史と土地の人たちの願いを肌で感じながら民俗芸能を見ると、まことに興味は尽きない・・。


 


終わり


(文責 三上卓治)


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