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Re: テストしましょう!テストしましょうテストしましょう
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投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 6 月 24 日 17:00:20:SoCnfA7pPD5s2
 

(回答先: Re: テストしましょう!テストしましょうしましょう 投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 6 月 18 日 02:16:59)


奈具神社[(前:竹野郡、現:京丹後市)弥栄町船木、延喜式内社]

丹後風土記「比治山の天女」伝説に出てくる天女(豊宇賀能売命=豊受大神)が祀られている。風土記によると「ここに来りてわが心奈具志久なれり」とあり、奈具神社の由来はこの奈具志久(おだやかに)という言葉による。

【奈具岡遺跡(弥栄町)】

弥栄町の奈具岡遺跡では、水晶や緑色凝灰岩の玉作が短期間に盛んにおこなわれ、大量の玉が生産された。弥生時代中期(約2000年前)の大規模な玉作り工房跡である。この遺跡からは、水晶をはじめとする玉製品の生産工程の各段階を示す未製品や、加工に使われた工具類などが多数出土した。生産された水晶玉は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉である。ここでは、原石から製品までの一貫した玉作りが行われており、国内有数の規模と古さを誇る。大規模な玉造工房が稼動していたのである。

ここでは、鉄製の工具が使われ、玉の穴をあけるにも、鉄針を用い効率良く生産された。この生産と交易が丹後の経済力の基盤となった。鉄片が8kg発掘されているが、この鉄片は素材から作った製品の端切れであって、単純に計算すれば、平均的な弥生時代の鉄斧なら300個分はあろうという素材の量だという。玉造には鉄錐という加工道具を用いるがそれだけの為ではなく、広範な交易を目的に生産された証拠だと言う見方もある。しかし、それだけの鉄素材を一体どこから入手していたのだろうか。

水晶玉などの装身具は本来中国では高位の人々の習慣だった。紀元前一世紀頃、漢代に衣服に綴じ付けたり女性が着用する風習が生まれたと言われる。朝鮮半島そして日本海沿岸地域も、ほぼ時を同じくして同じ文化が移入して来たような感がある。稲作に鉄具が用いられる前に玉造りに鉄製工具が普及したという説は、ここ丹後半島においては妙に納得させられる。
弥生・古墳時代を通じて玉は至極の宝石であり、その風習は現代に至っても続いている点を考えると、古墳に多く残されているのも理解できる。

丹後では、紀元前から培ってきた内外の交易を結びつけるノウハウ、先進技術を駆使して素材を加工する技術などを基盤として、やがて弥生後期には、大宮町三坂神社墳墓群、左坂墳墓群、岩滝町大風呂南1号墓、峰山町赤坂今井墳丘墓など、豊富な鉄とガラスを副葬品に持つ首長墓を生み出す。弥生後期の首長墓のようすは、北部九州や畿内地域よりむしろ、出雲や因幡を加えた日本海中西部地域の首長層の方が、弥生後期の日本列島内では有力な存在であったように思える。

また後期には、畿内地域と東海地域で作られた巨大な銅鐸がともに丹後地域にも出現する。分布圏の中心から遠く離れた銅鐸の存在は、おそらく両地域から丹後の先進物資の入手のためにもたらされたものであろう。ただ、弥生中期後葉から後期にかけてこれほどの外来物資を集めることのできた丹後地域ではあるが、なぜか同時期の中国後漢代の銅鏡はあまり発見されていない。大陸交渉の門戸として発展した北部九州で多数の中国鏡が出土していることとは対照的である。この事実は、丹後地域にもたらされた鉄素材などの外来物資が、鏡の豊富な北部九州を経由したものではないこと、つまり丹後の首長層がいわば独自の大陸交渉ルートを持っていたことを示唆している。そしてその交渉先は、豊かな鉄資源を持ついっぽうで中国鏡は少ないという同じ特徴がみられる、朝鮮半島南部の伽耶地域に求められる。

奈具岡遺跡では、100点以上もの鉄製品が出土している。ここでは、堅くて加工が難しい水晶玉造りのために、鉄製工具を使用していた。そしてそれを自前で生産していた事が、鍛冶工房跡の発掘によって判明している。奈具岡遺跡は「玉造総合工場」であった。
こうした奈具岡遺跡の存在は丹後の中でも非常に特殊であり、この遺跡の先進性を示している。

奈具岡遺跡で確認された竪穴式住居の総数は約100軒で、丹後地方では屈指の規模であるが、この遺跡は工房であって居住空間ではなかったと言う説もある。ここでは水晶製と緑色凝灰岩製の2種類の玉造りが行われていた。緑色凝灰岩の玉造りの方が先に、弥生中期中葉頃に始まったとされ、後葉に水晶造りが始まったと考えられている。これらの製作された水晶玉はどこへ運ばれたのであろうか。
丹後地方で水晶玉を墳墓に副葬した例は、三坂神社墳墓群3号墓にしか見つかっていないので、丹後以外の何処かへ運ばれたのは間違いない。人によっては、前述の鉄資源の入手のために、朝鮮半島伽耶地域へ運ばれたと言う意見もあるが、今の所証明はされていない。
現時点では、丹後の玉の行方はわからないのである。

もうひとつこの遺跡の特徴として、奈具岡遺跡はガラス生産も行っていたのである。ガラス製勾玉の破片や、小さなガラス片が多出ている。丹後地方では、扇谷遺跡で中期初頭と考えられるガラスの塊が出土し、時期は不明だが途中が丘遺跡でもガラス片が出土している。しかし、具体的なガラス生産の様子がうかがえるのは、ここ奈具岡遺跡のみである。鉄器工具、玉、ガラスと、その生産活動の全てを工具製作から一貫して行っていた一大コンビナートが奈具岡遺跡なのである。


■ 竹野郡弥栄町奈具岡遺跡の玉作りと鉄製工具の導入

       


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