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[ナブルス通信]静かな──ラファでゆっくりと進行している虐殺』
http://www.asyura2.com/0401/war46/msg/152.html
投稿者 Kotetu 日時 2004 年 1 月 05 日 17:56:06:yWKbgBUfNLcrc
 

Subject: [aml 37247] FW:[ナブルス通信]静かな<ジェニン>──ラファでゆっくりと進行している虐殺』
From: 攝津正
Date: Wed, 31 Dec 2003 16:30:19 +0900
Seq: 37247

パレスチナ・フォーラムから転送します。


     ****以下、転送を歓迎します****

    
    ○○○ナブルス通信 番外編 2003.12.31号○○○
       http://www.onweb.to/palestine/

────────────────────────────────
◇『静かな<ジェニン>──ラファでゆっくりと進行している虐殺』

 文責:ナブルス通信編集部 ビー
────────────────────────────────

  258人が殺され、
  2472人が負傷し、
  1246軒の家が壊されたことで、
  1606家族、9159人が住む家を失った


◆ジェニンの虐殺

2002年4月、イスラエル軍はパレスチナの各都市に大侵攻し、なかで
もヨルダン川西岸のジェニン難民キャンプは、包囲され、報道陣や国際
赤十字も閉め出されたなか、軍用ブルドーザーが住民もろともキャンプ
の家々を押しつぶし、あるいはアパッチ・ヘリが無差別に攻撃を行うと
いう地獄絵を体験した。「ジェニンの虐殺」である。
 
 「兵士が住民にスピーカーで「裸で外に出て降伏しろ」と叫びまし
 た。そのとき隣人のアル・サッバーブが家の外に出ていきました。す
 ると兵士が道で彼を撃ち殺しました。彼は裸でした。その後、戦車が
 その遺体をひき潰し、道のようにしました。住民がその遺体を回収し
 ようとやってきたとき、残っていたのは小さな肉片だけでした。」
 (イマード・カーセム(30) *1)
 
侵攻が始まってから2週間後にやっと報道陣がイスラエル軍の監視をす
り抜けてキャンプ内に入ることに成功し、そこから伝えられた内容は世
界に衝撃をもたらした。
 
 「幅500メートルほどの、16万平方メートルに及ぶキャンプの居住
 区が塵灰に帰し、瓦礫はブルドーザーで集められて、10メートルも
 の高さに積み上げられている。いたるところに漂っている、腐ってい
 く死体の甘ったるい不快な臭い。それは、この瓦礫の山が人間の墓で
 あることの証(あかし)だ。」(フィル・リーヴス *2)
 
国連では特別調査団が結成された。(この間のイスラエル軍侵攻で、国
連によって調査団が作られたのは後にも先にもこの件しかない。)しか
し、最終的にはイスラエル政府によって受け入れを拒否され、国連もそ
れを受けて調査団を解散させた。(これではどんな虐殺でも調査できな
いだろう)。そして、その後、一部の人権機関や国連は「大虐殺はな
かった」という発表をした。(これを日本の各紙は「ジェニンでは虐殺
がなかった」と報じ、事実をさらに歪曲させた)
 
が、少なくとも200軒以上の家屋が密集する1区域が完全に破壊され、
住む家を失ったものは約5000人。2000人以上の人が拘束、数百人が
負傷、52人(確認された人数のみ。推定では90人程度 *3)が虐殺さ
れたのがジェニンでの出来事だった。*4


◆方針を転換したイスラエル軍

国連調査団は消え、虐殺の疑惑はあいまいにされたかのようだったが、
このジェニン侵攻がイスラエルに与えた打撃は大きかった。国際的な非
難が高まっただけでなく、国内でもこの事件は心ある人たちに衝撃と消
えない痛みを引き起こした。

イスラエルの詩人であり、ドイツ系ユダヤ人を父に持つイツハク・ラオ
ルはこの事件の後、こう記した。

 「しかし、これまでのところ──少なくとも、今しばらくの間は─
 ─、イスラエル国防軍(IDF)の冷酷非情さがどれほどのものなのか
 を知るために、IDFの残虐な歴史(1948年、あるいは1982年)をひ
 もとく必要はないでしょう。IDFの実態は、ジェニン難民キャンプや
 ナブルスの旧市街(カスバー)の悲惨な状況を見るだけで、あるい
 は、ベツレヘムの聖誕教会に対してなされている常軌を逸した行動を
 見るだけで、充分というものです。」*5
 
 「ジェニン難民キャンプでの残虐行為についても、破壊と殺戮に続く
 長い外出禁止令(連続10日間に及んでいます)と「封鎖」について
 も、実際には、この占領が「私たちに」何をもたらしているのかとい
 う点を理解しない限り、明確に語ることは不可能でしょう。私たち
 は、途切れることのない嘘の内で、それもこのうえなく堕落した嘘の
 内で、生きているのです。私たちは、みずからを「多数者に立ち向か
 う少数者」と呼び、ありとあらゆるトリックを使って、それを正しい
 ものに見せようとしています。」(同上)
 
ジェニン虐殺がもたらした余波はイスラエル軍の軍事作戦に方向変換を
余儀なくさせた。「米国政府がアフガニスタン爆撃を開始した尻馬に
乗って、好き放題するわけにはいかない」と。

しかし、それはより巧妙になっただけということかもしれない。つま
り、イスラエル軍は長期の侵攻をしない──1日、たいていは2、3日の
「急襲」作戦を仕掛ける──ことに切り替えただけなのだから。

この「急襲」作戦は大量の犠牲者を出さない。たいてい、数人。多くて
10数人。メディアが報じた頃には撤退している。(とはいえ、すぐに
侵攻できる場所に常に部隊は控えている)。マス・メディアでの扱いは
限りなく小さい。日本では掲載されないことのほうが多いくらいだ。

要するに、「目立たなくなった」ということだけなのだ。これを何度も
こまめに繰り返していけば……。その答えはこの文章の冒頭の数字にあ
る。冒頭の数字はジェニン虐殺時のものではない。ガザ最南端のエジプ
ト国境の町、ラファで2000年9月以来、引き起こされてきた状態を示
している。家を失った者が約1万人(ラファ市の人口は約13万人)。殺
された者が258人。短時間に行われていれば、ジェニンを上回る衝撃を
与えていたはずだ。


◆報じられないラファ

ラファがこの間、最も注目を浴びたのは今年(2003年)3月に米国人
のレイチェル・コリーさんが、破壊されそうになっている家の前に立ち
はだかり、イスラエル軍の特殊ブルドーザーでひき殺された事件が起
こった時だった。翌4月にも英国人のトム・ハンドールさんが、銃撃に
さらされている子どもを救い出そうとして、イスラエル兵に頭部を撃た
れ、植物人間にさせられ、意識を回復していない(医師団がトムさんの
生命維持装置を外す司法手続きに入っていると伝えられている)。

ラファの事態がひどいことはこの事件で少しは世界に伝わった。だが、
イスラエル政府は5月には外国人のガザ立ち入りを厳しく制限し、国連
関係者や一部のNGOを除いて、立ち入りを禁止した。

元々、ガザは細長い、小さな帯状の土地で、おおまかに3つの地域に分
けられ、イスラエル軍のコントロールによって、完全に地域を閉鎖、孤
立させることができる。ラファは最南端にあるため、イスラエル軍の意
向次第で、外から様子を伺い知ることが難しくなる。

レイチェルさんが殺される前も後もラファでは、エジプト国境沿いを中
心に絶え間なく侵攻があり、家が破壊され続け、銃撃と砲撃が止むこと
はなかった。*6

家が2軒、3軒と壊され、人が1人2人と殺される。それはラファだけで
なく、パレスチナの各所でそうであるように「当たり前の、日常的な」
出来事と化し、ろくに報道されることはなかったが、この10月のラ
ファへの大侵攻が始まってもその状態は変わらなかった。


◆いまも進行する「静かな<ジェニン>」

2003年10月中旬、いつもとはやや違う規模でイスラエル軍がラファに
侵攻した。検問所の完全封鎖により、完全に孤立した状況で、より激し
い破壊と残虐行為が行われた。それは3年間にラファが被ってきた家屋
破壊総数の約3分の1が10日間で行われたという事実からもよくわか
る。

しかも、小さなブロックを集中攻撃しては、小撤退し、また次のブロッ
クへ移るという手法で、イスラエル軍は被害を「分割」する作戦を採っ
た。そして、マス・メディアはそれに乗り、ラファの状況を大きく報じ
ることはなかった。(日本ではほとんど報道されなかった。いや、まっ
たくと言ってもいい)。

攻撃ヘリと戦車とブルドーザーが破壊を続けていくなか、遺体に近づく
こともできず、病院は負傷者で溢れ、重傷者を搬送する道も絶たれ、な
すすべもないまま、ラファの人々は10日間あまりを過ごした。

だが、ラファの人々が沈黙していたわけでない。侵攻下にあるラファか
ら細いが鋭い叫び声がインターネットを通じて届けられていた。

 「街なかに叫びが上がりはじめ、私たちはほとんど何も考えずに走り
 出していました。恐怖を忘れてしまっていた人たちをよけ、荷物を
 いっぱいに載せたロバをよけながら、道路の端を走っていくうちに横
 道に行き会ったので、そこに入り込み、大勢の家族や子供たちの横を
 走りながら、狭い道を抜けていきました。そこは、メインストリート
 からは離れていて、最悪の事態はまだ伝えられておらず、私たちが
 ニュースを知らせる先鋒となりました。そのニュースとは──『イス
 ラエル軍が戻ってきた』」(ローラ・ゴードン 10月14日 *7)
 
 「イスラエル軍は夜の間、姿を消していました。あとに残されたの
 は、すっかり裸にされた街です。骨格を叩き壊され、ねじれた体を天
 に向けて延ばしている家々。樹々も道路も、電線も水道管もことごと
 く破壊され、お互いにからみあい、根こぎにされた姿をさらしていま
 す。まさに、生命あるものすべての墓場です。実際に死んだ人たちの
 遺体はすでにストレッチャーで運ばれていきましたが、その多くは何
 時間もの間、路上に──外出禁止令下の恐怖のもとで閉ざされたドア
 と戦車の間に──放置されたままで、救急車が何とか遺体を回収しよ
 うと、軍と話し合いを続けているばかりでした。」(同上)
 
 「外国メディアは、ラファのパレスチナ人が置かれている苦境を報道
 していない。また各国政府は、イスラエルの軍事行動を非難していな
 い。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の支援は限られて
 いる。これは非常事態だ。緊急に何らかの行動がとられなければ…
 …。みなさん、受話器をあげて、自分たちの政府に電話をかけてくだ
 さい。自分たちの国が、ここで起きていることに対して反対する立場
 をとるように要求してください。誰か、イスラエルの戦争マシーンを
 とめて……。」(ムハンマド&ローラ 10月16日 *8)
 
 「心のない世界。大多数の人は感情を失っている。人間の意味を忘れ
 去っている。価値も規範も、もうどこにもない。僕の弟は、世界が沈
 黙しているさなか、冷酷に殺された。弟が家にいた時、イスラエル軍
 のブルドーザーと戦車が一帯にやってきて攻撃を始め、家々を壊しは
 じめた。あたりの様子は一変した。選ぶ道はふたつ。家もろとも押し
 つぶされて瓦礫の下敷きになって死ぬか、家から逃げ出して砲撃と銃
 撃を浴びて死ぬか。銃撃は、子供にも女性にもお年寄りにも見境なく
 向けられる。誰もがターゲットになる。
 
 弟のフッサームは17歳、高校生だった。フッサームは、瓦礫の下敷
 きになって死ぬのは選ばず、とにかく家から出て、身を隠せる場所
 か、どこか安全な場所を見つけようとした。家から出た途端、悪意に
 満ちた7発の銃弾が襲いかかった(年端もいかない子供たちを銃撃す
 るイスラエルを支援している国々の銃弾……病院の医師が話してくれ
 たところでは、フッサームが受けた銃弾はすべてアメリカ製だっ
 た)。イスラエル兵が7発のアメリカ製の銃弾をフッサームに撃ち込
 んだ時、ウェダード・アル・アジュラーミーという33歳の女性が、
 フッサームを助けて病院に運ぼうと走り寄った。だが、イスラエル兵
 は、そんな彼女にも銃弾を浴びせた。こうして、ふたりとも地面に倒
 れた。」(ムハンマド 10月27日 *9)

こうした声を黙殺したのは誰なのか。
緩やかに進行中の虐殺を許しているのは誰なのか。

10月の大侵攻がいったんは収まった後も、イスラエル軍はラファへの
侵攻を断続的に続けている。この12月22日にも10人が殺され、40人
以上が負傷し、家が破壊されたばかりだ(40軒という報告があがって
いる)。これはこの週、2回目の侵攻だった。


***

イスラエルの詩人、イツハク・ラオルは友人の言葉を引用して、次のよ
うに書いている。

「『私たちが、この(ホロコーストの)記憶を内面化して、そこに確
立させてきたものは、ホロコーストよりも小さなものはすべて「OK」
だという基準の枠内に置かれるということであるように思われる』」*
5

また、ガザ中部出身のあるパレスチナ人は手紙にこう書いた。

 「何にいらいらさせられるかといえば、何人のパレスチナ人を一度に
 殺したらそれが虐殺と呼ばれるだろうか、と考えてしまうことだ。昨
 晩寝ている時に父親と息子二人が殺されたことは虐殺と呼ばれないの
 だろうか。難民キャンプの通りで遊んでいる子どもが殺されることは
 虐殺と呼ばれないのだろうか。2週間の間に60人のパレスチナ人が殺
 されたことは虐殺と呼ばれないのだろうか?!」

数字のトリックに神経を麻痺させた世界は、繰り返される侵攻に、静か
に進んでいる虐殺に、ゴー・サインを出している。そして、後から言う
のだろうか、「知らなかった」と。
 
占領下のパレスチナで取材を続けるイスラエル人の新聞記者であり、ホ
ロコーストを生き延びたユダヤ人の子どもであるアミーラ・ハスの言葉
より。
 
 「私がガザ回廊に引き付けられているのには何か秘密があるのかと、
 何度か問われたことがある。1人のイスラエル人である私は、この2
 年間ガザ回廊で暮らしている。本当の理由の1つは、ここで多くの
 人々と会い、そうやって知り合うことを私は楽しんでいるからだ、と
 いうもの。開けっぴろげの微笑みの背後に悲しみを抱えた人々。
 (中略)
 ナチから生き延びた避難民の娘だからって、それでどうしたら良いと
 いうのか? 私が人間の行動パターンを解釈するとき、それが、この
 個人的な事実を踏まえた上での解釈となるのは当然のことだ。多分、
 この2番目の答えは私の子供時代に、もう出来上がっていたのだ。私
 は、自分がそこに居合わせたかと思える程に母の物語──ユーゴスラ
 ヴィアでドイツのゲシュタポ〔訳注:ナチの国家秘密警察〕に捕らえ
 られ、1944年の夏に西ドイツのベルゲン=ベルゼンにある強制収容
 所に送られた──を自分のものとしていた。
 母は、他の人々と一緒に家畜用の貨車から降ろされて収容所へ向かっ
 て歩かされていたときに、自転車に乗って気持ち良さそうに走るドイ
 ツ人の女性たちに気が付いた。後ろの荷台には食べ物のバスケットを
 載せて、そして引き立てられてゆく人々を何か珍しい物を見るかのよ
 うな目つきでぼんやりと、また冷淡に見つめていたという。
 私の父は、昔観た映画ではこうだった、と云う。ワルシャワ・ゲッ
 トーではユダヤ人蜂起の間に火事が起きていたのに、ゲットーの壁の
 アーリヤ人側にはポーランド人の子供たち用の遊園地があったんだ。
 こっちの側では煙が空に立ち上っていて、その反対側では子供たちの
 明るい叫び声が響いていた──。
 ガザ回廊と周りを取り囲むフェンスの外側、その道すがらには「ヤ
 ド・モルデハイ」がある。ワルシャワ・ゲットー蜂起のリーダーだっ
 たモルデハイ・アニーレヴィッツに因んで名前が付けられたキブツ。
 5分と離れていない場所なのに、まるでガザ回廊など、難民キャンプ
 や自由に飢えた人々など一切存在しないかのようだ。そのキブツの道
 路脇にある宿屋で、ナチから生き延びた避難民である両親の経験から
 引き継がれた反応は、私の内側に何度でも明確な貌をとって現われて
 くる。そう、自転車に乗っていたあの女性たちの側には絶対に立つも
 のか、と。」*10


****

2000.9.28からのラファの単純な事実

258人殺された
うち46人が子ども
(20人はこの10月)

2472人が負傷
110人が障害を持った
(122人はこの10月)

1246軒の家が壊された
(303軒はこの10月)

557軒以上の家が部分的に破壊された
(129軒はこの10月)

1606家族、9159人が住む家を失った

3503軒の家がエジプト国境沿いで日常的にイスラエルの銃撃と砲撃に
さらされている

214軒の店と作業場が壊された

3343ドゥナム(3343000平方メートル)の農地がブルドーザーでな
らされるか、接収された

85%の人が失業中


[ラファ地域の月間統計2003.10月より]
ISM(国際連帯運動)Rafahの「Rafah Lives」より邦訳。
※この数値は10月までのものなので、現在はさらに増えている。

────────────────────────────────
*1 土井敏邦『パレスチナ ジェニンの人々は語る──難民キャンプ
 イスラエル軍侵攻の爪痕──』(岩波ブックレット)

*2 フィル・リーヴス 『残骸の中の凄惨な戦争犯罪の証拠 ジェニ
ンからの報告』(インディペンデント紙)
http://www.onweb.to/palestine/siryo/jenin_Reeves.html

*3 A.N.S.W.E.R.派遣団  『ジェニン現地報告:大量虐殺の証拠』
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/4558/JENIN5-23.htm

*4 ジェニン虐殺についての証言集や記録。日本語では上記の土井敏
邦氏によるもの。英語では

"Remembering Jenin" <http://www.jenin.info/>

"Searching Jenin"(同タイトルの本も)www.searchingjenin.com/>

*5 イツハク・ラオル 『ジェニン以後』
http://www.onweb.to/palestine/siryo/laor.html

*6 レイチェルさん殺害後のラファの状況については、イスラエル人
ジャーナリスト、ビリー・モスコーナ=ラーマン『ガザでの「地獄」の
一夜』に詳しい。
http://www.onweb.to/palestine/siryo/onedayinrafah.html

*7 ローラ・ゴードン 『侵攻また侵攻──ラファに戦車が戻ってき
た』
http://www.onweb.to/palestine/siryo/laurabetween.html

*8 ムハンマド&ローラ 『ラファ、さらに侵攻が続く 「誰か、戦
争マシーンを止めて! 」』
http://www.onweb.to/palestine/siryo/laurareinvade.html

*9 ムハンマド 『弟の死』
http://www.onweb.to/palestine/siryo/mohtoday27oct03.html

*10 アミーラ・ハス 『ガザ回廊:和平の貌』 1996年 岡田剛士

http://homepage2.nifty.com/tokada/chun-pon/amira-kao.html


※参考 2003.12.30付 ナブルス通信 『ダブル・スタンダード!』
は、この間のラファを含めた報道の問題を扱っている。
http://www.onweb.to/palestine/siryo/nab-double30dec03.html

※※『壁/密室の暴力:パレスチナ 弾圧の秘密研究室 』(ジュリア
ナ・フレッドマン 益岡賢訳)は同時期に書かれ、ジェニンとラファを
対比の中に語るという類似したテーマを持つ文章。現地にいるジャーナ
リストの眼がとらえた光景が「密室」のなかで行われているかのように
なっているラファの惨劇を描いている。
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/palestina0312.htm

────────────────────────────────
※この文章は
http://www.onweb.to/palestine/siryo/nab-sj31dec03.html
に掲載。
────────────────────────────────
掲載内容の印刷物・ウェブ上での無断複製・転載はご遠慮ください(ご
相談下さい。連絡先は下記サイトに)。お知り合いやMLへのメールで
の転送は歓迎です。
(編集責任:ナブルス通信 )
『パレスチナ・ナビ』 http://www.onweb.to/palestine/
『P-navi info』http://blog.nettribe.org/btblog.php?bid=nekokabu


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