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クルド地帯に15万人の帰還ユダヤ人受け入れバラック建設中情報の裏づけ計算。
http://www.asyura2.com/0401/war46/msg/188.html
投稿者 木村愛二 日時 2004 年 1 月 06 日 13:08:15:CjMHiEP28ibKM
 

クルド地帯に15万人の帰還ユダヤ人受け入れバラック建設中情報の裏づけ計算。

統計は不正確だが、以下の情報から、仮に「3000万人」の「2/3はイスラム教スンニ派。その他にイスラム教シーア派、キリスト教、ユダヤ教など」として考えると、「偽」イスラエル国家が「ユダヤ人」に認定してイスラエル国籍を無条件で与えるす「ユダヤ教徒」の数は、「3000万人」の1/3、1000万人の内の何分の1かになる。

その1000万人の内、仮に、シーア派が9割の900万人、キリスト教が50万人とすると、残りの50万人はユダヤ教なのかもしれない。すると、「15万人の帰還ユダヤ人」の数字は可能であり、つまりは、そのほとんどが、イスラエルの兵役経験者だとすれば、かなりの戦力なのである。しかも、凶暴この上もないのである。

http://www.peace-winds.org/jp/F4/kurd.html
クルディスタン 研究室 Peace Winds Japan
目次

イラクの社会と経済
イラクによるクルド人迫害
イラク・ファクトシート
クルド人自治区・ファクトシート
イラクの歴史
クルディスタン基礎情報

クルディスタンとは
クルド民族の住んでいる地域は、クルディスタンと呼ばれ、イラン領・トルコ領・イラク領・シリア領などにまたがっています。勝又郁子氏は、クルド民族について「アッシリア・アラブ・トルコ・モンゴル等様様な民族の混血であり、この民族にアイデンティティを与えているのは、クルド語とクルド民族意識と言える」(「クルド・国なき民族のいま」、新評論)としています。クルディスタンは政治的・文化的・言語的に1つのまとまりとみることのできる9つの地域(主にクルド人が住むイラン・トルコ・イラクに各3地域)に分けることができます。社会生活には、部族社会の性格が色濃く残っています。
 
クルド民族は、「国を持たない世界最大の民族」といわれ、人口は2000万人とも3000万人以上とも推定されています。勝又氏によると中東地域ではアラブ人、トルコ人、ペルシャ人に次ぐ大きな民族です。
クルディスタン・ファクトシート
 
一般事情
面積: 約50万平方キロあまり。日本の約1.4倍
人口: 2000万人とも3000万人を超えるともいわれる。
勝又郁子氏によるメヘルダット・R・イサディ著「A Concise Handbook THE KURDS」の引用では、1990年の統計でトルコ全人口の24.1%(約1,370万人)、イラク全人口の23.5%(約440万)、イラン全人口の12.4%(約660万人)、シリア全人口の9.2%(約130万人)がクルド人で、
旧ソ連の独立国家共同体(CIS)諸国には約30万人が居住しているという。

同書ではクルド人が各国人口に占める割合は、2020年にはトルコ全人口の36.9%、イラクで24.5%、イランで12%、シリアで9.8%に増えると予想している。
言語: クルド語
宗教 2/3はイスラム教スンニ派。その他にイスラム教シーア派、キリスト教、ユダヤ教など。
スーフィー教団(スンニ派の一部で神秘主義、イスラム教とキリスト教の折衷)が社会生活で重要な役割を果たしてきた
クルド民族をめぐる政治状況
汎クルド主義: クルド民族運動のなかで、「クルド民族(が)・・・1つの国民国家を建設しなければならないという主張」は「民族の悲願を達成する政治目標としてそれなりの説得力をもち、支持者も多かった」(坂本勉著「クルド民族運動の系譜」1980年2月)と分析される。しかし、険しい山岳地帯であるクルディスタンは谷によって各地域が相互に隔絶。

クルディスタンという地理的、民族的な総称・区分が存在するとしても、実際の生活・行政・民族運動は各地域ごとに独自に行われてきた。クルド民族運動の歴史をみても、各運動は汎クルド主義を掲げることがあったとしても、現実目標は各地域におけるクルド民族の自立にしぼってきたと坂本氏は指摘する。
トルコ: トルコ政府は共和国建国以来、公式にはクルド民族の存在を認めてこなかった。クルド人は「山岳トルコ人」と呼ばれ、クルド語教育の禁止等、徹底した同化政策が国家政策として推進されてきた (中川海月「トルコのクルド人問題」、エコノミスト 1997年1月27日)。

1984年にトルコからの分離独立を主導する非合法政党クルド労働者党(PKK)をオジャラン議長が組織して以来、PKKゲリラおよびその支持者と政府・軍との武装闘争が続いた。

しかし2002年8月にはEU加盟の準備段階として、クルド語による教育と放送の解禁を容認し、死刑制度を廃止した。1999年に国家反逆罪で死刑判決をうけたオジャラン議長は死刑制度の廃止にともない終身刑へ減刑された。

国内での独立運動の再燃を懸念するトルコ政府は「(イラク領のクルド人がたとえ)連邦の一部としてでも、クルド国家を作ることは許さない」(2002年9月26日エジュビット首相)と警告している(朝日新聞2002年10月2日8面)。
イラン:
宮田律氏は、イラン政府とクルド民族の関係は「政府とKDPI(イラン・クルド民主党)の闘争に集約」されるという(「イランのクルド人問題」、エコノミスト1997年1月27日)。KDPIは、北西部クルド地域の自治、イランとの連邦化を求めているが、イラン政府は分離独立の動きを警戒しているとみられる。
イラク: イラク政府は、1921年のイラク国家建国以来、北部のクルド人と闘争を続けてきた。

1988年に終了したイランイラク戦争中には、イランの支援を受けたクルド人政党のKDPとPUKへの報復として、クルド人に対し空爆や毒ガス攻撃、虐殺、強制移動を行った

1988年2月から翌年9月まで、イラク政府はゲリラや非戦闘員を含むすべてのクルド人を空と地上からの攻撃や強制連行の対象とするクルド人掃討作戦「アンファル・キャンペーン」を行った。
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イラクの社会と経済
イラクによるクルド人迫害
イラク・ファクトシート
クルド人自治区・ファクトシート
イラクの歴史
クルディスタン基礎情報

PWJの活動 -イラク-

イラクという国
世界四大文明の一つ、メソポタミア文明発祥の地でもあり、近代以降は豊富な埋蔵量を誇る石油の大産出国となったイラク。サダム・フセイン大統領と与党、バース党による強力な統治の下、1980年以降、イランイラク戦争、クウェート侵攻にともなう湾岸戦争と戦争が続き、湾岸戦争後は国連による経済制裁を課されて国民生活に大きな影響が出ていました。一方、北部を中心に生活するクルド人は独立や自治拡大を求めて運動を続け、政府から厳しく抑圧されてきました。
 
91年の湾岸戦争終結後、クルド人や南部のシーア派住民が蜂起しましたが、政府軍によって鎮圧され、弾圧を逃れようとした多くの国民が難民化しました。

2003年3月20日、アメリカなどはフセイン政権がテロ組織を支援し大量破壊兵器を隠しているとしてイラク空爆に踏み切り、イラク戦争が勃発。4月9日、フセイン政権は首都バグダッドの統治能力を失って実質的に崩壊し、5月2日にはブッシュ・アメリカ大統領が戦闘終結を宣言しました。

戦闘終結後、イラク国内では社会システムが崩壊し、公共サービスがまひ状態に陥っています。住民の生命を守るための病院も機能していません。電気や水道などのライフラインの復旧もいまだ途上です。

クルド人自治区
クルド人自治区は、1992年に成立しました。91年の湾岸戦争後の大規模な蜂起で多数のクルド人が難民となり、避難途中で多くの犠牲者が出たことにより、クルド人保護区(セーフヘブン)が設置されたことが自治区成立につながりました。しかし、自治区成立後も、苦難は続きました。イラクに対する国連制裁と、自治区に対するイラク中央政府の締め付けという「二重の制裁」の中で、住民たちは不自由な生活を強いられました。

約400万人の自治区人口のうち、70〜80万人が国内避難民だといわれています。イランイラク戦争やアンファル・キャンペーン、湾岸戦争、クルド内戦などで、もともと住んでいた村を離れ、その後も村に帰れない人たちです。避難民の帰還をはじめ、夫を連れ去られたり、失ったりした女性たちや、親を亡くした孤児たちの支援、将来への希望を持てない子どもたちの自立促進などの問題は、イラク戦争終結後も大きな課題として残っています。

(更新:2003.07.15)
イラクの社会と経済

 
イラクは1990年のクウェート侵攻以降、国連の経済制裁下に置かれ、物資の流入が制限されていました。湾岸危機以前の生活水準とは大きな格差があり、国民生活は概して困窮を極めていました。
 
96年12月以降、国連安保理決議986に基づいた「オイル・フォー・フード・プログラム」(石油食糧交換計画)が始まり、イラク石油の輸出が可能になりました。約72%の石油収入がイラク内の人道支援事業に使われるようになり、59%が中央部と南部、13%が北部のクルド人自治区で使われてきました。計画に基づきイラク中央政府は中央部と南部15県での支援物資の配布を管理・実施し、クルド人自治区では国連が管理・実施にあたりました。99年に採択された国連安保理決議1284により石油輸出限度枠が撤廃され、食糧、医療品にとどまらず、輸入対象品目の拡大、輸入手続きの簡略化が図られてきました。しかし、国民生活は厳しく、国連食糧農業機関(FAO)、世界保健機関(WHO)などの国際諸機関が共同で発表した2000年5月−6月の報告書によると、5歳以下の子どものうち約80万人が慢性的な栄養失調にあるとされました。

一方、クルド人自治区では、国連のイラクに対する経済制裁と、イラク中央政府によるクルド自治区の締め付けという「二重の制裁」下の状況が続いていました。国際機関の活動も限定され、政治・治安情勢が不安定なため現地で支援活動を行うNGOの数も非常に限られていました。
 
イラク戦争後、フセイン政権の崩壊を受けて国連は経済制裁の解除を決定しましたが、社会システムは大きく混乱したままで、国民生活の危機がなお続いています。

(更新:2003.07.15)
イラクによるクルド人迫害


1980年から88年まで続いたイランイラク戦争の末期、イラク政府はイランの支援を受けたクルド人勢力への報復として、クルド人に対し空爆や毒ガス攻撃、虐殺、強制移動を実施しました。88年2月から翌年9月までは、非戦闘員を含むすべてのクルド人を空と地上からの攻撃や強制連行の対象とするクルド人掃討作戦「アンファル・キャンペーン」を行いました。
 
正確な数ははっきりしませんが、クルド人たちは、こうした行為によって4000〜5000の村が破壊され、18万人が殺害または連行されたといいます。国際的な人権保護NGOヒューマン・ライツ・ウォッチは犠牲者数について、少なくとも5万人、おそらく10万人前後と推計しています。

100以上の村、あるいは200の村が化学兵器で攻撃され、イラン国境に近いハラブジャの町では一瞬にして5000人の命が失われたとされます。クルドの人たちは、市民に対する無差別攻撃を深く心に刻み、広島や長崎での原爆被害と重ね合わせて「ハラブシマ」とも表現します。化学兵器の攻撃を受けた地域では、今なお多くの人が、後遺症とみられる症状を訴えています。

アンファル・キャンペーンで夫を連れ去られた女性たちは「アンファル・ウィドウ」(アンファルの未亡人)と呼ばれることもあります。女性が外に出て働く習慣のない地域だけに、残された家族の生活は困窮を極めました。男たちの消息も、まったくわからないままです。

湾岸戦争後もイラクでは、クルド人を含むイラク国内の少数民族の国籍を強制的にアラブ人として再登録するなどの動きが続き、キルクーク周辺などから自治区内へ逃れてくるクルド人たちが少なくありませんでした。

(更新:2003.07.15)
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イラクの歴史はこちら
イラク・ファクトシート

 
*イラク戦争後、イラクをめぐる情勢は大きく変化し、サダム・フセイン政権は崩壊。
暫定政権の樹立などが検討されており、政治体制などをはじめ不確定の部分が多い。
一般事情
面積: 約43万8000平方キロ
人口: 約2400万人(2002年推定:国連)
首都: バグダッド
人種: アラブ人(約75〜80%)、クルド人(約15〜20%)、
その他(トルクメン人、アッシリア人他、約5%)
言語: アラビア語(公用語)、クルド語、アッシリア語、
アルメニア語など
宗教 イスラム教(約97%<シーア派:約60〜65%、
スンニ派:約32〜37%>)、その他(キリスト教など、約3%)
クルド人自治区 イラク北部の3県(ドホーク県、アルビル県、スレイマニア県)には湾岸戦争後の1992年、クルド人自治区が成立し、フセイン政権から事実上独立した統治が続いた。
政治・経済
政体: 共和制(一院制)
元首: サダム・フセイン大統領(1997年7月〜)
主要産業:
石油関連産業
国内総生産(GDP): 297億米ドル(2000年、OPEC)、
676億4000万米ドル(1989年、IMF)
一人当たりGDP: 1286米ドル(2000年、OPEC)、
2230米ドル(1989年、IMF)
経済成長率: -
物価上昇率: -
総貿易額: 輸出 122億5000万米ドル(1999年、OPEC)
輸入 81億3000万米ドル(同)
貿易品目: 輸出 原油、石油製品(2001年、EIU)
輸入 食料品、医療品、消費財(同)
難民・避難民: アメリカ難民委員会(U.S.Committee for Refugees)のホームページ(http://www.refugees.org/)によると、2001年には12万8100人以上の難民と約70万人の国内避難民がイラクに滞留していた。

難民の内訳は、イランから2万3700人(主にクルド人)、トルコから1万3100人(主にクルド人)、パレスチナ人約9万人、その他1300人(エリトリア人、ソマリア人、スーダン人、シリア人)。
※外務省ホームページなどを参考に作成
更新:2003.07.15
クルド人自治区・ファクトシート

 
*イラク戦争後、イラクをめぐる情勢は大きく変化し、サダム・フセイン政権は崩壊。
暫定政権の樹立などが検討されており、政治体制などをはじめ不確定の部分が多い。
一般事情
地域:
イラク北部の3県 (ドホーク県、アルビル県、スレイマニア県)

チグリス河の支流である大小ザーブ河を境界として
3地域に分けられる:
(1)Bahdinan地区:大ザーブ河の北の地区。ドホーク、Amadiyah, Zakho, Aqrah,の町がある
(2)Soran地区:大小ザーブ河にかこまれた地区で、アルビルが中心都市。
(3)Baban地区:小ザーブ河より南にある地区でスレイマニアが中心。油田地帯であるキルクークをひかえイラク・クルド文化の 先進地域。

人口: 約400万人
首都: アルビル
人種: 主にクルド人。他にトルクメン人、アッシリア人など
言語: 主にクルド語
宗教 主に、イスラム教スンニ派。その他にキリスト教、ユダヤ教など
政治・経済
統治: 西部および中央部はクルディスタン民主党(KDP)、東部はクルディスタン愛国同盟(PUK)が実質統治しているが、両政党の合意により自治政府への統合プロセスが進行している
議会: クルド自治政府議会(民族議会、Iraqi Kurdistan National Assembly)が存在。2002年10月、統合プロセスが進むなか、ほぼ6年ぶりに議会を開いた。
首相:
KDP首相=ネチルバン・バルザーニ
PUK首相=バーハム・サリー
政党:
クルディスタン民主党(KDP):マスード・バルザーニ党首。
自治区西部および中央部(アルビル県とドホーク県)を拠点。
クルディスタン民族主義運動指導者 ムスタファ・バルザニが
創設
クルド愛国同盟 (PUK):ジャラル・タラバーニ書記長。
東部の地域(スレイマニア県)を拠点。
イランとの関係が深いといわれる。

勢力: イラク戦争前、KDPの勢力は約1万5000人、PUKは約1万2000人ともいわれた。両政党はそれぞれ独自の兵力(ペシュメルガ)を持ち、朝日新聞(2002年10月2日朝刊8面)によると、合わせて8万〜10万人の兵力の動員が可能とされた
難民・避難民: イラク戦争前、クルド人自治区内には約80万人の国内避難民がいるとされていた。
アメリカ難民委員会(U.S. Committee for Refugees)によると、2001年の自治区内の国内避難民数は推定60万人。
なお、イラク戦争終結後、旧中央政府側地域出身の国内避難民の一部に帰還の動きがある。
更新:2003.07.15

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