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「葬られたのは誰か?」――週刊朝日の“下山事件”真相追究報道をめぐって浮上した疑惑
http://www.asyura2.com/0401/war48/msg/963.html
投稿者 passenger 日時 2004 年 3 月 05 日 15:05:25:eZ/Nw96TErl1Y
 


これから紹介するのは、ドキュメンタリー作家・森達也氏が週刊朝日に、
同誌の記者と共同で連載していた下山事件についての調査レポートと、
その書籍化をめぐるトラブルについての考察である。

私自身は、ここで問題となっている下山事件をめぐる2冊の本をまだ
読んでいない。(先ほど知ったばかりなので……)

しかし、下山事件をふくむ昭和20年代前半に起きた「国鉄三大事件」に
ついては、米国の占領統治がらみの暗殺工作という観点から、過去の
出来事とは思えない“現実感”を感じている。

例えば……NHKが名付けた2001年9月11日の「同時多発テロ」の直後に
「自殺」した(という形で処理された)NHK解説委員・長谷川浩氏や、
イラクで「テロリストに襲撃された」(という形で処理された)CPA
占領当局に出張中の二人の外交官(奥克彦氏と井ノ上正盛氏)などの
事件につきまとう“闇”である。

これから紹介する週刊朝日の連載記事とその書籍化をめぐる悶着には
ジャーナリストの盗作問題や虚構デッチ上げ記述など、新聞記者が
はまりやすい落とし穴の問題も含まれているようだ。

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【Publicity】861:短期連載「葬られたのは誰か?」(その1)
 〜『葬られた夏』のナゾ/投稿『日本帝国の申し子』再紹介
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No.861(2004/02/25/水)
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        ◆◇今号の目次◇◆

【めでぃあ・オフノート】
▼葬られたのは誰か?(その1)
『葬られた夏』のナゾ

【投稿紹介】
▼『日本帝国の申し子』再紹介

        ◆◇     ◇◆
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【めでぃあ・オフノート】  

▼ちょっとカッコつけて、短期連載をする。

題して、「葬られたのは誰か?」、全5回(←予定)。
仮に目次までつくってみちゃった。

(その1)『葬られた夏』のナゾ
(その2)諸永裕司が森達也に会った日
(その3)「週刊朝日」連載開始顛末
(その4)コピー&ペースト
(その5)記者の仁義

さて、勢いに任せての実験、うまくいきますかどうか。


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短期連載
「葬られたのは誰か?」(その1)
『葬られた夏』のナゾ

▼2月22日、郵便受けに1冊の本が届いた。

森達也『下山事件〈シモヤマ・ケース〉』
(新潮社、2004年2月20日発行)。

戦後日本最大のミステリーと言われる下山事件の真相に肉迫し
て、「傑作」と言っていい。おそらく本書は、本職はテレビ・
ディレクターであり映画監督である森氏の、いままでの活字メ
ディアでの作品のうち、最高レベルに位置する。

なぜ、ここまで推せるのかといえば、本書が「下山事件を通し
て現代日本を照射する」という当初の目的を果たせており、そ
れと同時に、下山事件をめぐってどうしても欠かすことの出来
ない、日本社会にとっては下山事件そのものよりも深刻な問題
――日本のマスメディアの問題――が、ゴロリと取り出されて
いるからである。

しかもその問題は、【森氏が望んで、意図的に取り出したので
はない】、いわば、必然的に取り出さざるを得なかった、この
点が重要である。

あらかじめ一言で言えば、「1人のフリーランス記者の自由な
言論、自由な表現を、マスメディアはどのように扱っているの
か、扱うべきか」という問題である。


▼その夜ぼくは、午前4時ごろまでかけて――つまり2月23
日の払暁に――『下山事件』を読み終わり、その後すぐ、もう
1冊の本を【読み返し】、溜め息をついて、午前6時に寝た。

もう1冊の本とは、諸永裕司『葬られた夏――追跡 下山事件
』(朝日新聞社、2002年12月30日第1刷)。ぼくが持
っているのは、第2刷(2003年2月10日付)である。

▼『葬られた夏』の存在を知ったきっかけは、宮台真司・神保
哲生両氏の著作『アメリカン・ディストピア』。

両氏の卓抜した抽象力によって、「近代日本史における下山事
件の意義」が、最低限の分量で明示されている。

「下山事件」そのものに話が突っ込むと、際限がなくなるので
、必要上また便宜上、『アメリカン・ディストピア』の該当個
所を抜粋しておこう。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
宮台 確かに日本は、個人の自立と国家の独立を相互媒介する
近代的な民主国家になろうとしました。1945年の敗戦から
47年の日本国憲法施行まではそうです。しかし48年に冷戦
の深刻化を背景にしてアメリカは政策転換をします。

第一に、日本弱体化から戦後復興支援への転換。第二に、軍備
廃絶要求から再軍備要求への転換。そうした時代に起きたのが
、下山事件・三鷹事件・松川事件という一連の事件なんです。

神保 下山事件については、最近朝日の記者が本を書いたんで
す。『葬られた夏――追跡下山事件』(諸永裕司著、朝日新聞
社、2002年)というタイトル。雑誌の連載をまとめたもの
で、丹念に取材をしてよく調べてありますが、この本を読むと
、この事件がまさに戦後日本のターニング・ポイントだったこ
とがよくわかる。

アメリカが政策転換した翌年(1949年)、日本の経済をこ
れから立て直そうとするなかで、大きな問題のひとつは国鉄の
組合運動だった。国鉄が大量に、それも十何万単位で人を切ら
なければならないというとんでもない話になった。それをすべ
く、鉄道省次官から国鉄初代総裁になったのが下山定則氏。

かれは首切りを断行した翌日(7月5日)、出勤途中に行方不
明になり、15時間後、常磐線の線路上で礫死体となって発見
される。しかし死体にも不審な点があり、ほとんど血が出てい
ないとか、そこで死んだんじゃないことを示す証拠がいろいろ
あった。

宮台 僕も若い頃にNHKの『空白の90分』という下山事件
を扱ったTVドラマを見て、考えこんでしまいました。他の誰
かに殺されて運ばれたのは確かです。誰が殺したのか。いまで
こそ、キャノン機関というアメリカの特務機関であった可能性
が高いと言われていますが……。

神保 そこがミステリーなんですが、ここでは誰が殺したかと
いうことよりも、この事件の日本近代史における意味が重要だ
と思うんです。

つまり世の中の多くの人は、あれは労働組合側が、非情な人切
りに対して怒りを総裁にぶつけてやったんだ、共産党がやった
んだと思ってしまったわけです。実際には、いまだに犯人はわ
からないままですし、そう考える具体的な根拠は何もない。

しかし、この事件のために当時の共産党運動は、決定的な打撃
を受けた。その瞬間に日本は、戦後復興から高度成長へと邁進
する道に大きく舵を切ったことになる。

宮台 そのとおりですね、しかも、この事件ひとつではなく、
この後、三鷹事件、松川事件と、計3つの事件が連続して起こ
っていることが重要なんです。その結果、神保さんがおっしゃ
ったように、本当だったらゼネストにつながっていくような大
衆的な動きが、完全に封印されてしまったわけです。

その直後には公職選挙法が作られて、共産党の赤旗対策や組織
的運動対策で、文書頒布が禁止され、個別訪問が禁止されたん
ですね。


※三鷹事件
1949年7月15日午後9時23分(当時は夏時間。現在の
8時23分)、三鷹駅構内で無人電車が暴走し、道路を横切っ
て商店街に突っこみ、車両の下敷きになって6人が死亡、20
人が負傷した事件。

国鉄の人員整理に関係していると見られ、国家警察本部と東京
地検は、三鷹電車区の元執行委員長、同電車区元検査係をはじ
め10人(内、元検査係を除く9人が共産党員)を検挙した。
一審は元検査係の単独犯行として元検査係に無期懲役、他は無
罪。

二審は元検査係に死刑。最高裁は上告棄却。元検査係は再審請
求中に死亡した。しかし事件当時、元検査係を別の場所で複数
の人間が目撃しているとされるなど謎が多い。

※松川事件
1949年8月17日午前3時(同2時)、東北本線松川――
金谷川間で列車が転覆して機関士ら3人が死亡した事件。

福島県警は、国鉄の人員整理反対の計画的犯行として元線路工
手を逮捕。さらにその自白で労働組合関係者19名、計20名
を逮捕した。一審は検察の起訴事実を全面的に認め、死刑5名
を含む全員有罪判決だったが、最高裁で自白の信憑性が疑われ
、実行者とされた被告のアリバイも認められて全員無罪となっ
た。


結局、アメリカは、日本を冷戦体制下での極東の砦とすべく、
日本の戦時動員体制を破壊するのをやめ、積極的に利用するこ
とに決めたんです。その意味で、戦後の日本には、戦前と同じ
く、「産業化(戦後復興)があったけど、真の民主化はなかっ
た」。

にもかかわらず、左は、日本を民主国家になったと思いこんだ
あげく、日米安保体制を「アメリカは悪で、ソビエトは地上の
楽園」といった図式で理解する愚を犯してしまったんです。

宮台真司・神保哲生『アメリカン・ディストピア――21世紀
の戦争とジャーナリズム』p240−3
春秋社、2003年9月25日第1刷発行
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼下山事件は、如上の大きな社会構造のなかで起こされた事件
である。そのことを、話を進める前提として確かめておかねば
ならなかった。さしあたり両者の発言で、必要にして充分だ。


▼『葬られた夏』のナゾ

さて、神保氏が「丹念に取材をしてよく調べてあります」と評
価している諸永裕司氏の著書『葬られた夏』の巻頭にある、「
朝日新聞社書籍編集部」による但し書きを見よう。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
本書は、森達也氏と週刊朝日編集部取材チームによる週刊朝日
連載(1999年8月20日・27日合併号から5回)時の取
材などをもとに、諸永裕司が執筆したものである。

本書執筆にあたって、森達也氏の週刊朝日連載から、特別に明
示することなく引用している部分があることを、森氏への謝意
とともに明らかにしておきたい。

なお、この週刊朝日連載をもとに、森氏も、下山事件に関する
本を執筆中である。

朝日新聞社書籍編集部
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼この但し書きは、“第2刷から”載っている。つまり、第1
刷には載っていない。

この但し書きを素直に読めば、冒頭、「森達也氏と週刊朝日編
集部取材チームによる週刊朝日連載」云々とある。

「週刊朝日編集部取材チームと森達也氏による」、ではない。

順序は「森達也」の方が、「週刊朝日編集部取材チーム」より
も先にある。

であれば、「週刊朝日」での連載の単行本化は、森達也氏が行
うべきではなかったのか? という疑問が湧く。

しかし『葬られた夏』は、諸永裕司という人によって、200
2年12月30日に既に発刊されている。

諸永裕司とは誰か? 巻末のプロフィルを見よう。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1969年 スイス・ニュネーブ生まれ
1993年 東京学芸大学卒業
      朝日新聞社入社
      京都支局、つくば支局をへて
      「週刊朝日」編集部に
1999年 連載「下山事件――50年後の真相」を
      「週刊朝日」に共同で発表
現在    「AERA」編集部に在籍
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


朝日新聞社の正社員だね。

ではなぜ、『葬られた夏』は、わざわざ、先に挙げた冒頭の但
し書きを、第1刷からではなく、第2刷から入れなければなら
なかったのか? しかも、「本人の名前」でなく、「書籍編集
部」名で。

実は、その事情と経緯を明らかにすることによって(既に森氏
の本で明らかになっているのだが)、森『下山事件』、諸永『
葬られた夏』、この2冊の本の、それぞれの出自と特徴、両書
の関係性が明らかになる。

なーんて堅苦しく書いたが、コトは単純なのよ。

(この項続く)
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(以下略)
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【Publicity】862:短期連載「葬られたのは誰か?」(その2)
〜諸永裕司が森達也と出会った日
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        ◆◇今号の目次◇◆

【めでぃあ・オフノート】
▼短期連載「葬られたのは誰か?」(その2)
 諸永裕司が森達也と出会った日

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【めでぃあ・オフノート】  

▼ああ、暖かい2月26日だねえ。自衛隊は決起しないかね。


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短期連載
「葬られたのは誰か?」(その2)
諸永裕司が森達也と会った日

「事態はまさしく、このとおりに展開した」
(森達也『下山事件』p267)


▼「下山事件」のおさらい

「下山事件」について、もう一度おさらいしておこう。

1949年7月5日夜、下山定則・初代国鉄総裁が東京都足立
区、常磐線五反野ガード下の線路上で轢死体で発見された。こ
れを指して「下山事件」と呼称する。

翌6日夜、東大法医学教室は司法解剖の後、下山総裁の死体は
「死後轢断」だったと発表。死んだ後、電車に轢かれた、つま
り他殺だということだ。

いっぽう、その後、慶應大学法医学教室は「生体轢断」と発表
。生きたまま轢かれた、つまり自殺だ、ということ。

おいおい、なんで違うねん(^_^;)。

警視庁内でも意見が対立。「殺人を担当する捜査一課は事件を
自殺と見なしたが、知能犯を担当する捜査二課は他殺の線を捨
てなかった。メディアは朝日と読売は他殺、毎日は自殺を主張
」(森達也『下山事件』p21)。

捜査一課は自殺説の裏付けのため霊媒師まで使ったそうだ。霊
媒師ってあなた(^_^;)。いまだったら逆効果だろうが、当時は
説得力があったのかねえ。

とにかく、いまのノッペリしたメディア状況から考えると、と
んでもない状態。まー、当時の日本国民のほとんどが、この事
件を話題にしただろうねえ。

事件の翌年には「下山国鉄総裁事件捜査報告」が、「文藝春秋
」「改造」に掲載。これもすごいネ。「自殺(つまり事件では
ない)と公表した捜査側が、その捜査記録を商業誌に発表する
という異例の事態だ。警視庁は当初、何者かが捜査記録をメデ
ィアにリークしたと発表したが、組織ぐるみの既定路線たっだ
ことが後に明らかになる」(同書、p16)

▼結局、犯人は見つからず、事件は迷宮入りになる。「下山事
件」を探ることは、事件が「迷宮入りになる過程」を辿ること
でもあり、実はこの過程こそがムチャクチャ面白いのだが。

絶対に欠かせない背景として、GHQ内部における、「GS」
(幕僚部の民政局で、政治行政を担当)と「G2」(参謀部の
第二部で情報担当)との激しい対立があるのだが、やっぱりこ
んがらがっちゃうから今は止めとこう(^_^;)。

で、結局「下山事件」ってのは、何なのか。


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アメリカにとって最も都合がよい展開は、下山殺害の背景に共
産党の暗躍していたというイメージを日本人が抱くことだ。こ
れによって日本の共産化はくいとめられる。「日本を全体主義
の防壁とするために極東の工場にする」と宣言したマッカーサ
ーとしては、最も好ましい展開だ。

しかし警察が他殺の線で本格的に動けば、捜査の手がいつかは
真相に及ぶ可能性はある。最終的に警察や検察を抑えることは
できるとしても、メディアによってこの謀略が世に知れること
だけは、絶対に防がねばならない。なぜなら日本という国は総
体としての民意で動く。そしてその瞬間、アメリカは極東での
足場を失う。

だからこそ公式には自殺にして、捜査は中断させねばならない
。しかし総裁は殺されたのかもしれないという意識だけは、日
本中に根付かせたい。「何をするかわからない」共産主義によ
るテロの脅威を、しっかりと植え付けたい。

事態はまさしく、このとおりに展開した。下山の後に三鷹、松
川と事件が続き、実際に共産党員が検挙されたことで、日本国
民の不安と共産党への警戒心は充分に喚起された。裁判はどう
せ長引く。そのあいだに日本を変えればよい。ハリウッド映画
や野球やコカコーラで、アメリカナイズすればよい。

事件後、アメリカとの関係は強化され、日本はドイツや朝鮮半
島のように分断されることもなく、自由主義陣営の極東戦略の
一翼として重要な位置を占め続けた。生来の勤勉さも幸いして
、経済的な繁栄を謳歌した。

アメリカによるイラクへの侵攻が始まったとき、日本政府は日
米関係の重要性を理由にアメリカへの支持を表明した。

「何をするかわからない」北朝鮮の脅威を想定して、日米の同
盟関係を優先するとの世論が過半数を占めたことがその背景に
あった。

(中略)

もちろん下山、三鷹、松川における共産党の立場と、拉致問題
における北朝鮮の位置とを同列に扱えないことは当然だ。

ただ僕は、この国における組織共同体のメカニズムが、ずっと
変わっていないことにどうしても払拭できない不安を感じるだ
けだ。

その一極集中や付和雷同という属性が、後になれば取り返しの
つかない失敗を、僕たちに何度も反復させていることに、自覚
さえあるのならそれでよい。

なぜなら僕はもう、自覚や主体のないままにこの国の歴史を変
えられたくない。知らないよりは知ったほうがいい。

(同書p267−8)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼『彼』との出会い

この短期連載で取り上げている「下山事件」に関する物語の発
端は、森氏と『彼』との出会いである。『彼』の氏名は明かさ
れない。

『彼』の祖父の17回忌の際に、『彼』と、彼の祖父の妹、
つまり『彼』の大叔母とが交わしたという会話。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『彼』の祖父が亡くなったのは1970年。
「おまえは下山事件を知っているか?」
「昔そんな事件があったということくらいは知っているけど…
…」
「お前のお祖父さんはあの事件の関係者なのよ」

(同書p9から抜粋)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼この『彼』と森氏を会わせたのが、映画監督の井筒和幸氏。
今から10年前、1994年春のことである。「どこまでが本
当の話なのかわからんけどな、自分(竹山の註:『彼』のこと
)の身内が下山事件に関っていたらしいんや」

▼『彼』の祖父の知人の名は、矢板玄(やいた・くろし)。

東京日本橋に今もある、当時は通称「ライカビル」と呼ばれて
いた建物。彼は、この「ライカビル」に事務所を構えている「
亜細亜産業」(前身はアジヤ産業)の代表を勤めていた。

そして、ここに『彼』の祖父は働いていた。

「亜細亜産業」は「貿易と紙パルプ製造」が業務内容なのだが
、もちろん、やっていた仕事はそれだけではない。

もう一点、地理的に大事な点は、占領軍の特務機関であった「
キャノン機関」のジャック・キャノン中佐が、この「ライカビ
ル」に部屋を持っていた。

『彼』の大叔母の話。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
キャノンの部屋がライカビルにあったのよ。キャノン機関で知
ってる? 占領軍の有名な謀略機関(中略)鹿地(かじ)事件
(中略)亜細亜産業の総帥の矢板さんとは大の親友でね、いろ
いろ一緒に仕事をしていたのよ。

大きな声では言えないような仕事よ。密輸の片棒よね。キャノ
ンと一緒に、例えば朝鮮半島からゴムとかアルミとか、そんな
ものをこっそり輸入していたらしいのよ。キャノンの部屋があ
ったのはライカビルの確か3階か4階よ。

下山さんが三越から失踪したその日のことははっきり覚えてい
る。兄も矢板さんも佐久間も、とにかく誰も出社してこなくて
ね、確か次の日も誰も来なかったはずよ。

下山さんが行方不明になったというラジオのニュースを聞いて
私は妙な胸騒ぎがしていてね、次の日の朝、礫死体で発見され
たと朝刊で読んで直感したのよ、これはみんながやったんだっ
て。

(同書p26)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼ほんとなら、こりゃ大変な話である。

かくして、矢田喜美雄『謀殺 下山事件』、松本清張『日本の
黒い霧』、元毎日新聞記者の平正一『生体れき断』など、数々
の研究書を生んだ「下山病」に、森氏も加わることになる。


▼先輩記者・斎藤茂男

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
下山事件から3年が過ぎた1952年6月2日未明、大分県直
入郷菅生村の巡査駐在所がダイナマイトで爆破された。3名の
共産党員が起訴されたが、実際にダイナマイトを仕掛けたのは
現職の警察官だった。世に言う菅生事件だ。

共産党を弱体化させるために警察が組織ぐるみで画策したこの
謀略を暴く過程で、当時の共同通信社取材班は大きな役割を果
たし、その中心にいたのは、社会部の若手記者だった斎藤茂男
だ。

(同書p41)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


日本を代表するジャーナリストの一人である斎藤茂男の『現代
を歩く』(共同通信社、2001年5月)という分厚い本を、
ぼくもちらちらと読んだことがあって、広範な領域にわたった
内容で、面白いなあと思った記憶がある。シブイ顔っすよ。

で、この斎藤もまた、下山事件をリアルタイムで調べていた人
の一人なのである。先に使った「下山病」とは、森氏が斎藤か
らきいた言葉で、『下山事件』本文中のキーワードにもなって
いる。

森氏は斎藤茂男に電話する。「亜細亜産業」の一言が出た瞬間
、あまり乗り気でなかった斎藤の態度が一変。共に真相を探る
ことになる。

この斎藤茂男の存在が、森氏の『下山事件』そのものへ、微妙
な、しかし決定的な影響を与えることになる。あー、だいぶ長
くなるねえ。そこんとこに触れて今回は終わろう。

▼当初、森氏は下山事件を題材にしたテレビ・ドキュメンタリ
ーを作るつもりだった。番組の企画書をめぐる回想に、森氏に
とっての斎藤の存在が浮かび上がっている。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
各局の報道プロデューサーたちは皆、企画書を前に腕を組み、
首を傾げた。

要するに全て断られた。

(中略)

局プロデューサーの立場である彼らを一概に責めることはでき
ない。企画書を曖昧な形でしか書けなかったことに、彼らの消
極的な反応の一因はあるだろう。

『彼』や矢板玄の名前はもちろん、企画書における固有名詞の
ほとんどがイニシャル表記だ。リアリティに欠けるが仕方がな
い。渡した企画書がもしコピーでもされたら、取り返しのつか
ないことになるからだ。

斉藤茂男の名前を出すことにも、まさしく虎の威を借る狐その
ものだというためらいがあって、この段階では伏せていた。

この企画に同意してもらえるのなら、次の段階で具体的な情報
や固有名詞を明かすつもりでいた。しかしその同意を促すため
には、本来なら企画書に具体性を加味しなければならない。ま
さしく絵に描いたような二律背反だった。

しかし当面は、この中途半端な企画書を手にテレビ局を回るし
かない。他に策はない。

なぜなら僕は、テレビディレクターなのだから。

(同書p89−90)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


そう、森氏の表現者としての行動には、常に、何かに対する「
ためらい」がある。

その後、TBSの報道特集がノッてくるが、結局、挫折。その
過程も興味深いが、またの機会に。

そして、“その日”がやってきた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「週刊朝日」の記者である山口一臣と初めて会ったのは新橋の
駅前だ。連絡をとった旧知の朝日新聞記者、山本克也の紹介だ
った。

「デスクにはOKを貰いました」

中華料理店で腰を下ろした山口は、名刺交換直後にそう言った
。呆れるほどに早い展開だった。いかにも週刊誌記者らしい身
のこなしと手際の良さで料理をオーダーした山口に、僕はこれ
までの経緯を手短に説明した。

「要するにまだ何も形になってないに等しいんです」

「了解です。僕が森さんの担当ということになります。しばら
くは取材のお手伝いをさせてもらいます。取り寄せたい資料が
あれば言って下さい。領収書の宛名は週刊朝日です」

中華ちまきをもぐもぐと活発に咀嚼しながら、山口は今後の展
開をてきぱきと決めてゆく。

「具体的な掲載時期については、まだ決める必要はないけれど
、おそらく何週かの連載になると思います。編集部の若手がも
う一人アシスタントでつきます。森さんも忙しいでしょうから
細かな取材は彼に振ってくれてもいいですよ。次回の打ち合わ
せには連れて来ますので、今後は必要なことがあれば彼に伝え
てください」

(中略)

その翌週、朝日新聞本社7階にある「週刊朝日」編集部で、僕
はもう一人の担当記者である諸永裕司を紹介された。

「森さんの書いた企画書を机の上に置いておいたら、たまたま
こいつが読んじゃってさ」

名刺交換の後に、二人のあいだに立った山口が笑いながら言う

「どうしても取材に加わりたいって言ってきたんですよ」

ラフな服装が多い編集部では珍しく、諸永は常にスーツにネク
タイ姿だ。斎藤茂男への憧れと尊敬を控えめに口にする。

「いろいろ連絡もしてもらうことになるだろうし、できるだけ
早く斎藤さんを紹介するよ」と僕が言えば、「本当ですか?」
と目を輝かせた。

(同書p135−6)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼『葬られた夏』の「序章」を読む

諸永裕司『葬られた夏』の序章には、先に出て来た『彼』の話
とともに、諸永氏の斎藤茂男への憧憬の念が記されている。ぼ
くが付けた【】部分に注意。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
半世紀以上も前、日本がまだアメリカの占領下にあったときに
起きた下山事件。

いまなお「昭和史最大の謎」と呼ばれる事件の核心に触れるよ
うな【情報】を僕が耳にしたのは【偶然】だった。それは「彼
」という人物が遭遇したという、こんな話だった。

(中略)

僕には、生まれるちょうど20年前に起きたこの事件(竹山の
註:「下山事件」のこと)に忘れがたい記憶があった。

新聞記者として働きはじめた1993(平成5)年、初任地の
京都で一冊の本を手にとった。

『夢追い人よ/斎藤茂男取材ノート1』(築地書館)。元共同
通信記者の斎藤茂男さんの仕事をまとめた6巻組み全集の第1
巻。その冒頭で、下山事件が取り上げられていた。

(中略)

半世紀たっても真相がわからない事件の構造を解き明かそうと
する文章に僕は引きこまれた。以来、本棚のいちばん目立つと
ころに置いていた。

それから5年――。
「彼」(竹山の註:再三出て来ている『彼』のこと)の知人【
でもある】映像作家の森達也さんの【提案を受けて】、「週刊
朝日」編集部が取材班をつくったのは98年春のことだった。

異動して間もなかった僕もそこに加わった。こうして下山事件
に「再会」することになった僕(中略)僕もまた、この難問を
追いかけはじめた。

翌年の5月28日。取材に行きづまるたびに助言を求めてきた
斎藤さんが突然、胃がんで亡くなった。71歳だった。

(『葬られた夏』p7−9)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼この後、斎藤の文章の引用などが続く。

まあ、読者の皆さんは、これだけでだいたい予想はついたろう
し、敢えて誰かから憎しみを浴びる愚を犯すことなく、これで
連載を終わってもいいんだけど、ぼくなりの仁義をきらせてい
ただく。

▼森氏の文章からは想像もつかない、諸永氏の登場の仕方だ。

この序章には、大きく3つの話がある。

1つめは、先輩記者・斎藤茂男との「出会い」。

2つめは、「週刊朝日」での連載を開始したこと。

3つめは、再び斎藤を引用し、斎藤の「遺言」を胸に取材を進
めた話。

斎藤への「憧憬」と斎藤の「遺言」とに、「週刊朝日」連載を
挟みこむ構造になっている。

▼まず、「彼」の話を「情報」と書き、「彼」の話を知ったの
は「偶然」という。表現がよそよそしすぎないか? 

『彼』の話は、森氏が最初に聞いた話のはずである。

「若手」の「アシスタント」の諸永氏は、その話を「週刊朝日
」の同僚だった山口氏から、もしくは森氏から聞いたのが、最
初ではなかったか。

▼森氏のことを紹介するに、「「彼」の知人【でもある】映像
作家の森達也さん」と諸永氏は書いている。

「でもある」って何? 推測するに、この時点で諸永氏にとっ
て森氏は、「『彼』の知人」としての存在【でしかなかった】
のではないか? 「も」は、余計じゃないかね?

▼さらに、森氏からの【提案を受けて】「週刊朝日」が動き出
したことになっているが、森氏の文章を読むかぎり、森氏に確
認する前にデスクにOKをとった――動き出したのは、「週刊
朝日」の方ではなかったか? 「週刊朝日」編集部が受け身に
なっているのは不自然である。

要するに諸永氏の『葬られた夏』序章、彼が「下山事件」を追
いかけ始める直接のきっかけとなった「映像作家の森達也さん
」は、最も小さな後景として霞んでいる。

▼序章の続きをみよう。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
奇しくも事件から50年目と重なったその年の夏、それまでの
取材成果をもとに「下山事件――五十年後の真相」と題した連
載(5回)を「週刊朝日」誌上で発表した。

「彼」の話をきっかけに拾い集めた証言や事実の断片を、斎藤
さんのメモなどをもとにつなぎ合わせ、ある仮説を示したのだ

しかし、仮説は仮説でしかない。連載が終わっても、僕はあき
らめきれなかった。

(中略)

ひとりでも事件の影を追い続けよう。そう考えたのは、斎藤さ
んの「遺言」を連載で十分に生かしきれなかったという思いか
らだけではなかった。調べていくうちに、下山事件は、いまに
つながる戦後の日本の根っこにあるように思えてならなくなっ
ていた。

(同書p11−2)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼指摘したいところは、山ほどある。全体的に、あたかも一人
で取材を進めたかのような口振りであるが、これは『葬られた
夏』全編にわたって貫かれている最大の特徴である。

直感に任せていえば、

「奇しくも事件から50年目と重なったその年の夏」や、

「下山事件は、いまにつながる戦後の日本の根っこにあるよう
に思えてならなくなっていた」

などの表現には、ある迷いがうかがえる。それこそ、心の「根
っこ」から、本心から、そうは思っていないのに、何かを取り
繕うように拵(こしら)えたことばのように感じられてならな
い。

「50年目と重なったその年の夏」なんて、「50年目の夏」
でいいじゃん。なぜ、不必要にまどろっこしくなる?

「いまにつながる戦後の日本の根っこにあるように」云々、や
はりまどろっこしい、ほんとにそう思ってるのか諸永氏、真実
、「ひとりでも事件の影を追い続けよう」と決意した、それが
最大の理由なのかね? 何かが胸の奥に詰まっているのではな
いか? なーんて、アマノジャクの竹山は穿って見てしまう。


▼「斎藤式取材法」

敢えて、『夢追い人』は引かない。斎藤茂男『現代を歩く』、
インタビュー形式のプロローグ「わが故郷わが青春」、「斎藤
式取材法」を聞かれて、彼はこう答えた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
結局は人間の勝負だということになってしまう。

口が堅い人、たとえば官僚とか、警察関係の人とか、秘密をも
っているのだけれど絶対にしゃべっちゃいけないというたがを
はめられているような人の口を開けさせるのにどうするか、そ
れが新聞記者のいちばん難しいところなんです。

それはあれこれあれこれ手練手管を使ってみても、けっきょく
のところだめだ。

最後は誠心誠意、自分の人間性といいますか、自分をさらけだ
してその人間にほれてもらうしかない。

この男だったら危険を冒して秘密をしゃべって、心中してもい
いやというくらいに向こうに人間的な親しみを超えたものを感
じさせないと、ほんとのほんとのところは出てこないぞ、とぼ
くは言うんです。やっぱり結局のところ誠意ということじゃな
いかと思うんですけどね。

(中略)

いわゆるラインで出世するというようなことに興味がなかった
んです。それよりも自分が好きなことをこつこつやっていたほ
うが幸せだなと思っていました。

計算でそう考えたわけではなくて、実感としてそのほうが楽し
かったんです。

斎藤茂男『現代を歩く』p8−15
共同通信社、2001年5月23日第1刷発行
インタビュアー:判治秀雄
96年4月28日、NHKラジオ第一放送
「おはようラジオランター」で放送
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼1999年5月28日、斎藤茂男死去。その数ヶ月前、斎藤
は「教育評論」(99年2月号)に寄せた「“教師”にならな
い覚悟を」という文章の末尾を、こう結んでいる。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
若い人たちに、閉塞の世紀末を超えて、新しい生き方を勇敢に
選びとってほしい、と私は切実に願っている。

(同書p359)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


野暮は言うまいと思っているが斎藤が生きられなかった21世
紀、なおも続く「下山事件」追及、すなわち「戦後日本の根っ
こ」を抉る営為への参究において、斎藤の「遺言」を守ったの
は、「新しい生き方」に挑んだのは諸永氏か、それとも森氏か?

その「かたち」は、彼らがそれぞれ別個に世に問うた文章に示
されている。

(この項続く)
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(以下略)
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【Publicity】863:短期連載「葬られたのは誰か?」(その3)
         〜3度の裏切り(上)
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No.863(2004/02/26/木)

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        ◆◇今号の目次◇◆

【めでぃあ・オフノート】
▼短期連載「葬られたのは誰か?」(その3)
 3度の裏切り(上)

        ◆◇     ◇◆
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【めでぃあ・オフノート】  

▼キーボードの打ちすぎで、久々に手首が痛い。5回で終わる
予定が、さっそく6回になっちゃったよ(T_T)。

当初のタイトルを変えて、「3度の裏切り」前編の巻。


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短期連載
「葬られたのは誰か?」(その3)
3度の裏切り(上)


▼テレビか、雑誌か、自主製作映画か

森氏は最終的に、「下山事件」の映像化を断念することになる
のだが、ぼくは『下山事件』を読み進める間、彼の「下山事件
」の取材が、以下のような状況下での作業だったことを、しば
しば忘れていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
焦燥の日々だった。

オウム(真理教)や下山事件以外にも、放送禁止歌や動物実験
、日本で死んだベトナム王族の生涯や超能力者の日常など、こ
の頃に思いついたドキュメンタリー企画のほとんどは、視聴率
が望めないことやテレビメディアにおいてはタブーであること
を理由に、局からは拒絶されることが続いていた。

自分が興味を持つ素材やテーマは、テレビというマスメディア
の領域にはどうやら馴染まないらしい。そうつくづく実感しつ
つあった頃、オウムのドキュメンタリーを撮ることで僕自身が
メディアから排除されて、実感は確信へと変わっていた。

しかし、こどもを3人抱えて今さら仕事は変えられない。テレ
ビマンとしての適性はないのかもしれないが、家族は養わなけ
ればならない。超未熟児として保育器に入れられた長男は、ま
だ当分退院の目処が立ちそうもない。

オウムのドキュメンタリーの撮影を単独で続けながら、フリー
ランスになった僕は、ゴールデンタイムのクイズ番組や情報系
バラエティ企画(タレントが秘境に行ったり、旅館に泊まって
土地の名物を食べて悶絶するたぐいの番組だ)、政府広報番組
なども何本か演出した。

撮影や編集が始まれば、徹夜が何日も続く。おまけにいつも編
集に時間をかけすぎてしまうので、時間の余裕はますますなく
なる。

(森達也『下山事件』p93−4)
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▼TBS報道特集での取材がうち切られた森氏は、前回示した
通り、「週刊朝日」での連載を前提にした取材へと切り替える

「週刊朝日」のデスクが口にした「世紀のスクープです」とい
う一言に、「口にするたびに舌の先に拭えない違和感」を覚え
ながらも、テレビと比較した時の雑誌メディアのやりやすさを
、次のように率直に記している。

「読者に有料で記事を提供する雑誌は、テレビに比べればスポ
ンサーの意向を気にする傾向は弱いはずだ。もちろんテレビに
おける視聴率に相当する発行部数というレーティングはあるが
、その市場原理はテレビほど露骨には現れない。何よりも映像
を撮らねばならないという制約もない。停滞していた取材が一
気に進むだろうとの予感はある」(p138)

▼しかし森氏は、映画「A」のプロデューサー安岡卓治氏に、
映画の自主制作の相談を持ちかけている。

企画の危険性、方法論の不在、資金力の不足。様々な問題を抱
えたまま、あくまでも映像化へ向けての努力を続ける。

▼そうしたなか、森氏は斎藤茂男に、諸永裕司氏を紹介する。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
斎藤はロビーの長椅子に座って、手許の新聞に視線を落として
いた。相変わらず約束の時間より早く来ることを自分に課して
いるようだ。

背後では諸永が、「しまったお待たせしてしまった」と小声で
つぶやいている。

名刺を交換してから、緊張しきった表情の諸永が席を立った。
トイレにでも行ったのだろうかと思っていたら、数分後に「部
屋を取りました。移動しましょう」と言いながら戻ってきた。
たかだか2時間ほどの打ち合わせのためにホテルの部屋を借り
るというその判断に驚いたが、要するに彼の斎藤への敬意の表
れなのだろう。

お裾分けにありついたようなものだけど、でもぞろぞろと廊下
を歩きながら、自分が今、大新聞社の庇護のもとにあるという
実感は、実は悪いものではなかったことは事実だ。

(同書p140)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


しかしこの直後、「矢板玄」――その時点での、「下山事件」
の最重要人物――が死去。享年83歳。痛恨である。さらに。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「週刊朝日」と自主制作ドキュメンタリー映画という二段構え
の取材が始まった直後、斎藤茂男の訃報が届いた。

1999年5月28日。享年71歳。胃癌だった。

僕にとっては急死に近い。諸永裕司に連絡係を任せていて、最
近はご無沙汰が続いていた。入院の報せを聞いたときには、既
に見舞いに行っても会えない状況だった。気にはなっていたが
、まさか彼がこの世からいなくなることなど、その時点では想
像もできなかった。

(同書p162)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼しかし、取材は続く。矢板玄の弟、矢板康二氏とのコンタク
トは、「報道特集で放送が予定されている戦後半世紀の特集企
画で、戦争を体験した人たちにいろんな話を聞かせてもらって
いるのです」とウソをついて以来、続いている。

この康二氏の人格、人柄は、森氏の文章によって非常に魅力的
に活写されている。彼と森氏との関係が、『下山事件』を優れ
た作品たらしめた、最も大きな柱となっているように思う。

そして、その他の人物へのアプローチもまた、「取材を始める
と同時に、情報収集においては卓抜した能力の持ち主であるこ
とを証明した」(同書p193)諸永氏の奮闘により、着々と
進んでいく。


▼砂糖の甘さ

森氏の「下山事件」への基本的な態度は、次のようなものだ。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
僕らにとっての砂糖の本質は、何よりもまず「甘い」というこ
とだ。

その成分を事細かに分析して発祥の歴史や沿革を調べあげたと
ころで、肝心の甘さを感知できないのなら、そんな作業は徒労
でしかない。仮に今後の取材で、下山事件の真犯人や謀略の真
相を解明することができたとしても、この砂糖の甘さを実感す
ることは、僕には絶対にできないのだ。

事件の陰でうごめく組織や男たちの固有名詞を明かすことだけ
では意味がない。

真相を明かすことができても本質には届かない。

客観的な事実ではなく主観的な事実を、僕はこの手で掴みたい
。時代の体温を肌に感じ、殺された男や殺した男たちの、覚悟
や不安、昂揚や悔恨を実感したい。要するに砂糖の甘さを味わ
いたい。

……想像するしかないのだ。平塚の事務所からの帰り道、先を
歩く山口と諸永の後姿を眺めながら、僕はそう考えた。成分を
分析する行為に意味があるかどうかは想像力が決める。甘さを
この舌で味わうことは確かに不可能だが、あらゆる感覚を総動
員して想像することはできるはずだ。その瞬間に捉えた事実の
価値が決まる。そのためには徒手空拳よりも、材料はひとつで
も多くあったほうがいい。ひとりでも多くの人に話を聞くべき
だ。とにかく今はそう考えるしかない。

(同書p192)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


しかし、そんな考えこそが「甘い」ことを、森氏は思い知らさ
れることになる。どういうことか?


▼突然の連載開始

「世紀のスクープです」と話していた週刊朝日のデスクが、「
いつになったら連載が始まるんだ」とせっつき始める。その後
の展開は若干複雑だが、森氏の記述を引用しよう。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
なるほど。企画を持ち込んでから1年以上が経過していた。確
かに通常の週刊誌のペースではありえないテンポだろう。

しかし簡単には記事にならないと思いますと僕はいちばん最初
に言っている。半世紀前の事件なのだ。

「俺もそう思いますよ。でもねえ、そうとわかっていても、や
っぱり商業誌ですからねえ」

溜息をつく山口は、どうやらデスクと僕との板挟みになってい
るらしい。

(中略)

「実は」と山口が上体をテーブルの上にのりだした。

「『彼』がね、どうも自分が書きたいというようなことを言い
出しているんですよ」

予想外の言葉だった。でも言われてみればなるほどと腑に落ち
た。『彼』の本業はライターだ。

(中略)

そもそも「週刊朝日」との話がまとまった最初の段階で『彼』
は、「俺には書けないよ」と公言している。酒の席でも同じこ
とを口にしていた。しかし時間が経つにつれ、やはり自分が書
くべきだという思いを抑えられなくなったのだろう。物書きの
生理としてはある意味で当然だ。

(中略)

つまり二人が伝えに来たのは『彼』の意志だけでなく、編集部
の総意でもある。僕はそう直感した。その程度の洞察はできる

「森さんがなかなか書かないで、こうして撮影していることも
、僕には不満なんです」

諸永が言った。撮影を並行することの了解はずいぶん前にとり
つけたはずだが、今さらそれを言っても仕方がない。確かに矢
板康二への撮影がまだ終わっていないことを理由に、掲載を引
き伸ばしていることも事実なのだ。

「わかった、いいよ。『彼』が書くのなら僕は降りる」

同時に隣のテーブルの安岡が立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待て。何でおまえはいつもそう簡単に決めて
しまうんだ」

「僕には映画があるよ」

「しかし……」

頭を抱えて安岡は坐りこむ。順子はじっとそんな様子を眺めて
いる。

未練がないわけではもちろんない。しかしそのときの僕の心情
としては、誰が名前を出すかという功名心にうんざりしかけて
いた。

『彼』に対しての負い目も、微かではあるけれど実のところは
ずっとあった。そんな煩悶を終わりにできるのならそうしたか
った。(中略)すっきりしよう。これで映画に専念できる。

(中略)

確かに未練は燻っている。別れ際に諸永裕司は、「本音を言え
ば森さんに、この連載は渡せないと言って欲しかったんです」
と小声でつぶやいた。その瞬間に、「やっぱり僕が書くよ」と
の言葉が咽喉まで出かけたことは事実だ。

「もう一度考え直さないか? 今ならまだ間に合うぞ」

ホームで電車を待ちながら、視線を線路に据えた安岡が、ゆっ
くりと諭すような口調で言う。

「これでいいよ。書くのは『彼』だ。やっぱり僕は映像屋だか
らさ」

そう答えたとき、上りの電車が入ってきた。

(同書p211−5)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼「なるほどー、映像屋ねえ。『A』を撮った森さんらしいや
ね」と感銘を受けながら、ぼくは次のページをめくって「裏切
り」という小見出しに続く顛末に、唖然とした。件の『彼』か
ら森氏のもとへ、次のような電話がかかってきたのである。


▼1度目の裏切り


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「森さんはさ、これ知っているの?」
「何のこと?」
「知らないの?」
「だから、何のことかわからないんだけど」
「連載が始まるそうだけど」

ああそのことか。当り前じゃないか。原稿はもう書けたの?

「誰が書くんだよ? 俺は書かないよ」

『彼』のこの言葉に、僕はしばらく沈黙していた。事態がよく
わからない。連載が始まる。それなのに『彼』は書かない。

「……朝日から依頼があったはずだけど」

「あったよ。だけどそんなに簡単には書けないよ。当り前だろ
う。年内いっぱいは時間が欲しいって言ったら、いきなり来週
から連載が始まるのでご承知くださいだよ」

「悪いけど信じられない。何かの聞き違いじゃないかな」

「じゃあ自分で聞いてみたらいい。昨日、例のデスクと電話で
話したよ。訴えるなりお好きにどうぞって言われたよ。どうい
うことなんだよ森さん。二人でずっとやってきて、挙句の果て
がどうしてこうなるのか説明して欲しいよ」

(中略)

僕は山口一臣の携帯電話の番号をダイヤルする。

「……今、『彼』から電話があったのだけど」
「ああ、はい」
「連載が始まるって本当なの?」
「……本当です」
「ちょっと待ってよ、誰が書くの?」
「諸永と二人で原稿を作りました」

絶句する僕の耳許で、「連絡すべきだったです。すいません」
と山口が喋っている。

(中略)

その日の午後、新橋の喫茶店で僕は二人と会った。山口はおど
おどと落ち着きがない。諸永はむっとしたように押し黙ってい
る。

経緯については聞くまでもなく想像通りだった。これ以上はも
う連載開始を待てないというデスクの判断で、二人で記事を書
いたという。掲載を止めるようにとの僕の言葉に、二人は揃っ
て首を横に振った。掲載を延期できる段階は既に過ぎたという
のが理由だった。

「過ぎたってどういうこと? 印刷や製本のことはよくわから
ないけど、幾らでも方法はあるはずだろう?」
二人は沈黙したまま答えない。諸永がゆっくりと顔を上げた。

「僕は悪いことをしたと思っていないですから」

ここで激したら負けだ。必死に自分にそう言い聞かせながら、
僕は諸永の隣席に視線を移す。テーブルの上の一点をじっと睨
みながら、山口は彫像のように動かない。

「初回の原稿で亜細亜産業については触れているの?」
「触れています」
こうきっぱりと答えた諸永が、次の僕の質問には視線を一瞬だ
け宙に泳がした。

「矢板さん(竹山の註:矢板玄の弟、康二のこと)への連絡は
?」
「……していません」


僕は椅子に座り直した。考えがまとまらない。

これで撮影は頓挫する。映画は破綻する。何よりもこの数年間
、快く取材に往時続けてきた矢板康二を、結果として僕は裏切
ることになる。

いつかはこの日が来るとは思っていた。でもこんな形で、自分
が加担しないままに彼を裏切ることになるとは想像もしていな
かった。これだけは止めねばならない。どうすれはよい? ど
うすれば止めることができる? 山口が大きく吐息をついた。

「森さんが書きますか」

僕は顔を上げた。諸永がテーブルの上に身を乗りだしている。

「このまま連載を始めるという条件を森さんが飲んでくれるの
なら、原稿に手を入れてもらっても良いですよ。今回は大きく
直せる時間的な余裕はないけれど、二回目からは自由に書いて
もらいます」

2分ほど僕は考えた。もっと長かったかもしれない。選択肢は
他にない。冗談じゃないとここで席を立てば、矢板康二との関
係は、「週刊朝日」が店頭に並んだその瞬間に少なくとも断絶
する。映画も消滅する。編集部が勝手にやったことだと子供の
ような言い訳はしたくない。

初めて『彼』と出会ってからの5年間の軌跡を、こんな形で終
わらせたくない。少なくとも責任をとるべきは僕のはずだ。な
らばこの段階で、できるかぎりの修正を原稿に施すしかない。
要するに僕は手を汚さねばならない。

(同書p216−9)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼その日の夜、森氏は、絶対に裏切ることのできない人物、矢
板康二氏の自宅へ向かう。

(この項続く)
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(以下略)
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【Publicity】864:網野善彦氏、死去/
      「葬られたのは誰か?」(その4)〜3度の裏切り(下)
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「PUBLICITY」(パブリシティー) 編集人:竹山 徹朗
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        ◆◇今号の目次◇◆

【めでぃあ・オフノート】
▼網野善彦氏、死去
▼短期連載「葬られたのは誰か?」(その4)
3度の裏切り(下)

        ◆◇     ◇◆
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 (中略)

▼『下山事件』の紹介を、5回で終わるだろうから、と思って
短期連載と銘打ったが、どうしても6回以上になることがわか
り、全然短期じゃないね。でもそもそも、短期連載って何回ま
でを言うんだろう? よくわかんねえ。


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短期連載
「葬られたのは誰か?」(その4)
3度の裏切り(下)


▼「週刊朝日」誌上に「下山事件」について連載せざるを得な
くなったその日の夜、森達也氏は矢板康二氏の自宅へ向かった
。3時間待って、午後11時。

「あれれ。どうしたんだい、こんな時間に」


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「……そうか。家名を汚すなあ」
「申しわけありません」
「……ひとつ確認しておきたいけれど、森さんも最初からその
つもりだったのかい」
「最初から?」
「何年前かな。TBSの番組の取材とか言って来たのが初めて
だよね」

一瞬言葉に詰まってから、僕はもう楽になろうと決意した。

「……そのつもりでした」
「ずっと、俺や兄貴が下山事件の犯人かもしれないと思ってい
たのかい」
「思っていました。今もその可能性はあると思っています」

(中略)

「……信用した俺が甘かったんだよ。森さん、謝ることはない
よ。あんたはそういう仕事なのだろう。信用したのは俺なんだ
から。だけどさ、これだけは森さんに知って欲しいんだよ」

(森達也『下山事件』p220−1)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼この、「森さんに知って欲しい話」の続きは、本書を手にと
って、どうぞ(^_^;)。

▼結局、「週刊朝日」の連載は5週にわたって続いた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
二週目からは僕の名前が、タイトルの下にプロフィールと並ん
で掲載された。一週目は記事の最後に、山口一臣、諸永裕司と
並んで小さく表記されているだけだった。著者プロフィールも
まったくない。連載開始前の「週刊朝日」にとっての僕の意味
は、この小さな扱いに端的に現れている。

二週目から突然名前が大きく掲載され、更にプロフィールも加
えられた理由は、読者から「『僕』という一人称で書きながら
、誰が書いたのかよくわからない」という投書が来たからとい
うことらしい。

『彼』からは諸永に一度電話があったらしい。事の経過を説明
する諸永に、「もういいよ」と呆れたように言ったそうだ。

『彼』のその言葉を僕に伝える諸永は、おそらく半ばはほっと
していたのだろうけれど、『彼』の気持ちは僕にはよくわかっ
た。僕には連絡がない。たぶん今後もないのだろう。

(同書p222)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼怒ったのは、自主制作映画のプロデューサーである安岡氏だ
。彼とは一度だけ会ったことがあるが、あの人なら、そりゃ怒
ると思うよ。森氏との会話。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「わからないのか? 書くことは朝日のそのやりかたに加担す
ることになるんだぞ」

「遅いよ。もう書いてしまった」

僕の返事に安岡は溜息をつく。書けといえば拒絶するし、書く
べきではないと言えばもう書いてしまったと答える。つくづく
扱いづらい男だと思われたのだろう。歎息してぐったりと椅子
に座り込む安岡に、「そういえば思いだした」と僕は言う。

「何だ?」

「斎藤茂男さんにいちばん最初に会ったとき、この企画を盗ん
だり名をあげたりするようなつもりはないから安心しろって言
われたんだよ」

何を言いだすんだという表情で安岡が顔を上げる。

「そのときは斎藤さんのいきなりのその言葉に違和感があった
。そんな危惧は僕にはまったくなかったからね。でも今にして
思えば、下山を調べ始めて半世紀、斎藤さんはこんな体験や思
いを、自分も散々味わったし、目撃もしてきたんじゃないのか
な」

(同書p223)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼起きている事態への反応としては、あまりにも恬淡としてい
て、ページからは一種のユーモアすら漂っている。

森氏は次のように続ける。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
連載が始まったこの顛末でひとつだけ補足するとしたら、諸永
裕司は記者としては間違いなく優秀な人材だということだ。

「週刊朝日」で取材チームを結成してから、当時の関係者のひ
とりずつを丹念に洗いだし、存命の人物を見つけだしては取材
のコンタクトをとったのはほとんどが彼だ。ライカビルを見つ
けだしたのも彼だった。僕も斎藤も、実はもうとっくにライカ
ビルは取り壊されていると思いこんでいた。

(同書p224)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


そう、諸永氏は記者として優秀である。

下山初代国鉄総裁が礫死体で発見された後、当時の副総裁であ
る加賀山之雄(ゆきお)が2代目の国鉄総裁に就任する。

この加賀山から矢板家への年賀状を発見したのも諸永氏である
。誰も想像していなかった、「下山事件への加賀山副総裁の関
与」。この線をくっきりと浮かび上がらせ、「思い込み」とい
う目隠しを、見事に剥がしてみせたのだ。


▼「裏切り」は3度続く

ぼくは、「週刊朝日」への連載開始の顛末だけなら、「まだ、
わかる」と思って、読み進めていた。どっちにしたって、いつ
かは森氏は、矢板康二氏へ真相を打ち明けねばならない。

厳しくみれば、「週刊朝日」によってであれ、森氏の自主制作
映画によってであれ、どちらにしても、過去を明かされる矢板
氏の側からすれば、その時期が早いか遅いかの違いだけだ、と
言えるだろうからだ。

しかし、裏切りは3度続く。2度目までは、なんとかかんとか
、「無理矢理にでも理屈はこねられる」とぼくは感じたが。3
度目が、ひどい。


▼2度目の裏切りは、「週刊朝日」での連載が終わった3週間
後に持ち上がった、アメリカへの取材旅行にまつわっている。

キャノン機関のナンバー2だったビクター松井。彼がアメリカ
でまだ存命であり、会えるかも知れない、というのである。「
週刊朝日」編集部の山口氏から森氏へ持ちかけられたこの取材
旅行は、再来週に出発の予定。経費は自分持ち。バンクーバー
映画祭などとも重なり、余裕のない森氏はアメリカ行きを断念
する。

結局、諸永氏が単身アメリカへ行き、あとで山口氏も合流した
。「諸永の取材能力は僕も認める。結果を待つしかない」(p
247)。がしかし、森氏への連絡なく、アメリカへの取材は
、記事となるのである。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
山手線内回りの混雑した車両。「週刊朝日」最新号の中吊り広
告にふと目を止めた僕は、しばらくその場に釘付けになった。

追及下山事件米国編(上)
キーマンの大物スパイ直撃
伊藤律はキャノン機関の協力者!?

次の停車駅で降りて、キオスクに平積みにされた「週刊朝日」
1999年10月29日号を買った。中吊りに気づいたときは
頭に血が上ったが、ホームで頁を繰りながら、いつのまにか不
思議なほど落ち着いている自分に気づく。何だろう? やられ
たなという感覚。苦笑すらできそうだ。

記事の内容は、ビクター松井の証言として、除名された日本共
産党の政治局員、伊藤律が、キャノン機関の協力者だったとい
う疑惑を中心に展開されていた。

僕にとってはまったく初耳の話だった。記事中の書き手の主語
は「取材班」。最後に、「本誌・山口一臣、諸永裕司」と二人
の名前が記載されていた。もちろん僕の名前など影も形もない

(同書p251−2)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼その後、「伊藤律の遺族から記事に対して抗議があったらし
い。詳細は聞いていない。さすがにそんな気分にはなれなかっ
た。でも2000年5月19日号には、訂正文が掲載されてい
た」(同書p253)そうだ。

そして「裏切り」は3度に及ぶ。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
アメリカ取材が何の通告もなく掲載されたことに関して、僕は
「週刊朝日」編集部に正式な抗議はしなかった。しかし掲載以
降の諸永は、人が変わったようによそよそしかった。明らかに
僕を避けていた。彼なりに後ろめたさを感じているのだろうと
思っていた。

ならばそれで充分だ。

だからこそ「諸永がこれまでの経緯をまとめているようだ」と
山口一臣から聞かされたとき、「もしも彼がこの事件について
発表したいというのなら、それを止めさせることなどできない
」と僕は答えていた。

下山事件の謎を解明する権利は、言うまでもなく僕に独占排他
的に与えられるものではない。書きたいのなら書けばよい。た
だ、最低限の仁義はあるはずだ。

少なくとも僕は、連載については著者だし彼は編集者なのだか
ら、そのルールは守ってくれるはずだと思っていた。

後日、諸永がまとめたその資料は、山口を経由して僕に届けら
れた。さまざまな文献や資料、斎藤が残した取材メモから抜粋
した要点に、連載時に新たに取材した項目も含めた分厚いレポ
ートだ。

「なかなかあいつ、頑張ったよ」

渡しながら山口は言った。僕も頷いた。

新潮社の小林加津子から、「週刊朝日」の連載をベースにした
単行本を書いてみないかとの依頼があったのはこの頃だ。もし
もいずれ書く日が来るのなら、このレポートは確かに大きく貢
献してくれるだろう。

(中略)
(竹山の註:この間、下山事件の映像化を断念する様子が述べ
られる)

新潮社の小林加津子からは、今年こそ書きますよねと、年が改
まるたびに催促され続けている。このまま中途半端な形で終わ
らせたくない。ならば映像化とは別の筋肉を使うしかない。書
くことだ。やっとその気になっていた。

せめて年明けには初稿を上げて欲しいと小林に言われたばかり
の2002年末、家に書籍が届いた。

タイトルは『葬られた夏』。著書は諸永裕司。版元は朝日新聞
社。

玄関口で書籍を手に、僕は数分間立ちつくしていたと思う。

書いたことそのものを咎めるつもりはない。でもならば、その
決意が具体的になったとき、僕に一言知らせるべきだろう。何
の連絡もなかった。

一度だけ朝日新聞社正面玄関でばったり会ったときも、世間話
だけで本のことについては、彼はまったく触れなかった。時期
からすれば、既に書き始めている頃のはずだ。

山口一臣に電話を入れた。もちろん彼は、諸永の本が刊行され
ることは既に知っていた。自宅に本が届くまで知らなかったこ
とを僕が伝えると、電話口で数秒沈黙してから、それはまずい
なあと山口は吐息をついた。一カ月ほど前にゲラを見せられた
とき、森に連絡はしたのか? と山口は確認したという。

本当にひとことも連絡はなかったの? まずいなあ。「絶対に
連絡しろよ」と言ったら「わかりました」と言っていたのにな
あ。

この件について、僕は諸永に二度手紙を書いた。

返事は一度だけ来た。

連絡しなかったことについては謝罪すると書かれていた。謝罪
されてもどうなるものではない。それは僕にもわかっていた。

これからどうなるのだろう。

おそらく新潮社の件は、これで白紙ということになるのだろう

連載が終ってから3年が過ぎる。書かなかった僕も悪いのだ。

売れてくれればいいい。本音からそう思った。


小林加津子から連絡があった。新潮社としては方針を変えずに
出版することにしたという。

『葬られた夏』を読了したうえでの彼女の決定だ。意外だった
。内容的に二番煎じになることは明らかなのに。

森さんの視点は彼と全然違うはずです。確かに取材の経緯や顛
末は重複するかもしれないけれど、きっとまったく違った本に
なるはずです。

ありがとう。ならば作業を続けよう。僕は再び机に向かう。い
つのまにか2月になっていた。

(同書p255−7)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


「書かなかった僕も悪いのだ」――がしかし。ぼくは深夜3時
の焼肉屋で手に汗を握りながらこの個所に辿り着き、一人小声
で快哉をあげていた。よっしゃよっしゃ、勇気あるじゃん小林
さん。って会ったことないけど。

▼諸永氏が書いた『葬られた夏』では、この3度にわたる「裏
切り」の、どれにも触れられていない。

「あとがき」には、「取材の端緒となる情報をもたらし、連載
でお世話になった映像作家の森達也さん」への「感謝」が述べ
られている(『葬られた夏』p344)。

では、『葬られた夏』本編には、何が書いてあるのか。

(この項続く)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(以下略)
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【Publicity】865:投稿「コレアン・ドライバーは、パリで眠らない」/
       「葬られたのは誰か?」(その5)/三重でヘリ墜落
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No.865(2004/02/28/土)

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        ◆◇今号の目次◇◆

【めでぃあ・オフノート】
▼「葬られたのは誰か?」(その5)
 コピー&ペースト〜『葬られた夏』印象論・序説

【投稿紹介】
▼「コレアン・ドライバーは、パリで眠らない」

【転載】
▼神浦元彰(軍事アナリスト)の「J−RCOM」
三重でヘリ墜落 自衛官2名死亡

        ◆◇     ◇◆
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【めでぃあ・オフノート】  

▼「葬られたのは誰か?」、全然5回で終わりません(T_T)。

やっぱり長いのは読めないし、打ち込んでいるぼく自身も消化
するのに時間がかかるから、回数はあまり気にせずいく。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「葬られたのは誰か?」(その5)
コピー&ペースト〜『葬られた夏』印象論・序説


▼「正義」と、著作権と

諸永裕司『葬られた夏』と森達也『下山事件』との違いを示す
前に、「書く」という行為に対する、森氏の考え方を紹介して
おこう。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(竹山の註:『下山事件』を)書き進める段階で、『葬られた
夏』には「週刊朝日」連載時の僕の文章が、ほとんどそのまま
貼り付けられている箇所が幾つかあることに気がついた。

困った。このままでは後発の僕の方が盗作を疑われる。朝日新
聞社出版局に抗議の意を伝えた。

非を認めた出版局は、謝罪を含めて誠実な対応に終始してくれ
たと思う。しかし事情を知る友人や編集者たちのほとんどから
は、なぜ絶版回収などの強い態度に出ないのかと叱責された。
でもなぜか体が反応しない。

ここのところ、文章の盗用問題がよく話題となる。そのたびに
僕は、ずっと微妙な違和感を覚えていた。確かに文章をそのま
ま使われた著者としては、「ついうっかり」とか「このくらい
なら良いと思って」などの言訳で納得できるはずがないだろう
なとは思いながらも、文章なんてそもそもは、誰かのエピゴー
ネンじゃないかという感覚が僕にはある。

例えばこの本だってそうだ。資料や文献を参考にしながら、文
節の切った貼ったをくりかえして文章とした箇所は、10箇所
や20箇所のレベルじゃない。

もちろん原典とした文献や著作名などを明記すれば、盗用では
なく引用だ。でもその線引きが如何もルールそのもので、そん
な危ういバランスを自分自身がとっていることの不安と後ろめ
たさを、僕はどうしても払拭できずにいる。

盗用されたと主張することは、自分の抱えるこの矛盾や葛藤か
ら目を逸らすことと同質であるかのような気がして仕方がない

論理性はない。著者の権利をあなたは自ら放棄するのかと知り
合いの編集者からは叱られたが、でもその権利に、僕はどうし
ても後ろめたさを感じてしまう。

たぶん諸永は、編集者ではなく記者なのだ。ブン屋と書けばも
っとわかりやすい。ジャーナリストを志して新聞社に入社して
、憧れだった斎藤茂男と共に取材するという環境が突然現実と
なって、諸永はどっぷりと下山病に感染した。

症状としては彼のほうが、数年早く感染したはずの僕よりはる
かに重篤だった。誠実で一途なジャーナリストであればあるほ
ど、この症状は激しい。斎藤はそれを知っていた。僕はそれに
気づかなかった。

それだけのことだ。

(中略)

正しいか正しくないかの判定なら、僕の姿勢は正しくない。そ
のくらいは自覚している。

「正義」という概念に対しての潔癖度が、おそらく僕は普通の
人より低いのだろう。正義を行使することに、どうしても居丈
高になれないのだ。仕方がない。もって生まれた性癖なのだろ
う。

子供の頃からヒーローものには熱狂できなかった。勧善懲悪が
ダメなのだ。ヒーローにあっさりとやられる悪の結社の手下た
ちの日々の営みや心情を想像して、どうしてもストーリーに没
頭できなかった。

だからこそ、半世紀以上前に下山を殺害した男たちが、深夜の
線路脇の土手を遺体を担いで歩きながら、ふと見上げたであろ
う夜空を僕は想像してしまう。

p257−9
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼このくだりで、本連載のはじめに示した『葬られた夏』第2
刷からの「但し書き」の意味が、明瞭になったことと思う。

朝日新聞社書籍編集部は、これらの事情を知らぬまま出版に至
ったのだろう。これらの事情を予め書籍編集部に知らせていれ
ば、「そんな本、出すな!」とどやされて終わりだろうから。
たぶん……。

▼でも、「週刊朝日」での連載って、著者は森達也、編集者が
山口・諸永の両氏じゃなかったっけ? どうやって出版にこぎ
つけたんだろうね、ま、いいや。

▼ともあれ「甘いよ、森さん!」と、途中まで僕は怒っていた
。でも、如上の「それだけのことだ」の一言で、思った。

これは、武士の情けではないか、と。

「最後は誠心誠意、自分の人間性といいますか、自分をさらけ
だしてその人間にほれてもらうしかない」(斎藤茂男)、先輩
・斎藤の愚直な遺言を、生きざま晒して貫いてみせたのは、森
氏であった。

森氏はその後ろ姿で、諸永氏を斬らずして、斬っている。だか
ら、【斬られた方は、斬られたことに気付かない】、読者諸賢
は、そう思わないだろうか?

「弱い」と嗤う人がいるだろう、「自分の権利を踏みにじられ
て真っ当に抗議できぬとは!」

しかしぼくは、後発の二番煎じになる可能性を覚悟で、「言論
の自由市場」に傷だらけの一冊を投じた、「ヒーローものに熱
狂できない」森氏の側に立つ。

▼当然、著作権の問題と「正義」の問題とを一緒にして書いて
あるから、「あんた間違ってるよ」「そんなこと言うんだった
ら、偉そうにモノ書くなよ!」と論理的に怒っている人も、い
るだろう。

「心情的には森氏の意見に傾くが、でも法的問題は別だよ。ち
ゃんとすじを通さないと。日本では、ただでさえ著作権の概念
が正しく理解されていないんだから、悪例を残すことになる。
だから、森氏の態度を否定はできないが、肯定もできない」―
―これが、最大公約数的な感想だろうか、と思う。

しかし、『下山事件』『葬られた夏』の出自に即して敢えて言
う、言論が言論たりうる必要条件は「理」だが、言論が言論と
して人の胸を打つに到る十分条件は「情」である。

そうでなければ、なんで文章に、ただのことばに、読む者の、
いのちを動かす力が宿ろうか?

借問しよう、この荒れ果てた「ことばの砂漠」に生きながら、
「その『理』の奥底に『情』はあるか?」、と問い続ける契機
を、人は皆、その胸に抱いているのか?

不器用で愛しい「情の人」を、すなわち「時代の鏡」の存在を
、あなたは知っているか?

▼あー、なんか、もういいやって感じになるなあ。

わざわざぼくが紹介しなくても、勝負はついている、という感
覚が半分と、『葬られた夏』と『下山事件』とを比較して問題
を明らかにしようとしたら、とにかく比較すべき点が多すぎて
、単純に面倒なのが半分。

しかし最低限、いくつかのポイントを「かたち」にしておく。
それが、この2冊に縁したぼくが尽くせる「情理」だから。

諸永裕司『葬られた夏』、キーワードは「コピー&ペースト」、
神は細部に宿る。次号、彼の神を撃つ。

(この項続く)
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【投稿紹介】

▼『日本帝国の申し子』の投稿に関連して、以下のような投稿
をいただいた。ありがたいっすなあ。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(中略)
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【転載】
神浦元彰(軍事アナリスト)の「J−RCOM」
〜激動する世界の最新軍事情報を発信〜
http://www.kamiura.com/new.html
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■タイトル
三重ヘリ墜落 自衛官2名死亡 2名重傷、操縦ミスか 
(毎日 2月24日 朝刊)

■要約
三重県にある陸自・明野航空学校で、訓練中のAH-1対戦車ヘリ
同士が衝突し、一機側の2名が死亡し、もう一機の2名が背骨
骨折などの重症を負った。

当時、事故現場の風速は7メートルで、視界は良好だった。自
衛隊は操縦ミスの可能性があると見ている。

訓練は2機が上空からの統制機(おそらく観測ヘリ)とともに
離陸し、前後500メートル、左右200〜300メートルの
間隔で編隊を組み、地上3メートルから15メートルの高度で
行う「接敵機動訓練」だった。その訓練中に2機が前後を入れ
替わる訓練中に衝突したものと思われる。

なおAH-1対戦車ヘリは風速17、18メートルまで飛行に影響
はない。

■コメント
昨日の夕刊各紙を見て驚いた。ほとんどの新聞が風速7メート
ルの強風下で行った訓練と書いていたからだ。

強風を無視したための「無謀訓練」で発生した事故というニア
ンスである。

風速7メートルのどこが強風だ。(強風注意報が発令中と書い
た記事もあった)。これは新聞記者なら当然知っていていい常
識だ。

街を歩いていても、風速七メートルなら「ちょっと風が強いか
な」程度の風である。ほとんどの人は気がつかない風の強さだ
。。

私のところにもマスコミ各社から「強風下の訓練」の問い合わ
せ電話が殺到した。おそらくある記者が、強風が原因と先入観
を持ってしまった。それで適当な数字をあてはめたのだろう。
しかし新聞すべてとは情けない。

きちんと取材を行えば、事故原因は当然ながら、「見張りの不
足」「衝突回避動作(マニュアル)の不徹底」がでてくる。

そうなればこの事故は操縦ミスという言葉が、残念だが最も正
しい事故原因である。

この前のサマワの「迫撃砲」(本当はロケット弾)といい、最
近は新聞記者の基本的な常識が不足しているような気がしてな
らない。
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(以下略)

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【Publicity】868:「葬られたのは誰か?」(その6)
     〜コピー&ペースト『葬られた夏』印象批評(上)
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【めでぃあ・オフノート】
▼「葬られたのは誰か?」(その6)
コピー&ペースト『葬られた夏』印象批評(上)

【@編集室】
        ◆◇     ◇◆
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【めでぃあ・オフノート】  

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「葬られたのは誰か?」(その6)
コピー&ペースト〜『葬られた夏』印象批評(上)


「ひとりで下山事件を追いかけながら、それまで辛いと思った
ことはなかった」
(諸永裕司『葬られた夏』p143)

「何が起きたのかをきちんと聞き出し、記録することが僕の仕
事じゃないか」(同書p199)


▼網野善彦氏追悼の文章を綴っている間にも、短期連載(のつ
もりだった)「葬られたのは誰か?」をめぐって、いくつかの
メールをいただいた。

ここでまず、ぼくが以前、森氏が『下山事件』を出版した行為
は、諸永氏に対する「武士の情」ではないか、と書いた前後の
表現を、訂正すべきだと考え直したことを記しておく。

数人の読者から指摘をいただいたのだが、ぼくが森氏の文章や
振る舞いに強烈にシンクロし、親和性を感じ激高したがゆえに
、冷静さを失っていたように思う。

そもそも「武士の情」ってなんだ?ということもある。曖昧な
表現に、色々な感情を一緒くたに放り込むことと、竹中労が言
うところの「予断する」ということとを、どうも取り違えてい
て、冷静に読み返してみると、やはり勇み足だった。

▼前々号(866号、2月29日発信)でぼくは、網野善彦氏
追悼の文章の前に、


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
▼「葬られたのは誰か?」は、今回発信しようと思っていた(
その6)あたりまで2、3日前に一気に下書きを書き上げてい
たのだが、今、なんともやる気がない。前号までのテンション
が、腑抜けてしまった。

熱いエールや、冷静に盲点を突く鋭い指摘――共にありがたい
メールだ――をいただいているのだが。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


と書いた。

なかでもぼくの意見のあやふやなところを論理的に詰めていた
だいたのは、松文館事件報道に関して「エロの絶望」(本誌8
50号、851号に転載)を書いた松沢呉一氏であった。

▼網野氏追悼の文を書きながら、同氏と何回かメールのやりと
りを行い、その経緯も反映したかたちで、「黒子の部屋」に3
月1日付けで、「葬られたのは誰か?」と題された文章が掲載
されている。
http://www.pot.co.jp/matsukuro/index.html

そこでの結論の一つを要約しておく。

「森氏が朝日新聞社に強く抗議できなかったのは、正義感云々
とはなんの関係もないだろう。仮に森氏がさっさと原稿を書い
ていれば問題が生じることはあり得ず、スムーズに朝日新聞社
から単行本も出ていた。このことを考慮するなら、森氏が抗議
をためらうのは当然」

「にもかかわらず、ここで森氏が「正義云々」を持ち出してい
ることに、またその箇所に竹山氏が条件付きながら同調してい
ることに私は多大な違和感と反発を覚える」

▼さらに松沢氏の文章では、「編集者」と「書き手」との間の
「契約概念」のあり方や、出版の観点から見える日本社会の特
徴など、非常に普遍的なテーマが引き出されている。ぼくが2
冊の本を読み終わった時には思いもよらなかった視点であり、
非常にありがたい。これらの経緯は追々述べていこう。

▼「正義」について――。一つ、今までの流れから考えるとっ
かかりを記しておくと、『下山事件』(2月20日発行)では

「テレビディレクター、映画監督」

となっていた森氏のプロフィルが、

数日前にたまたま見つけた【朝日新聞社の月刊PR誌】「一冊
の本」3月号(2004年3月1日発行)では、

「映画監督・ドキュメンタリー作家」

と微妙に変化している(森氏は同誌に「下山病」と題する文章
を掲載している)。

テレビ・ディレクターから、ドキュメンタリー作家へ。

これは、映像にこだわってきた森氏にとって、決して小さくな
い変化だ。そして森氏は明らかに、事実関係の追及という手法
ではなく、「下山病」という概念を中心に据えて、今回の『下
山事件』発刊の起承転結を貫こうとしている。

その傾向は、『下山事件』本文にも見られたが、朝日新聞社「
一冊の本」掲載のこの文章で、さらに強く固められている。

松沢氏からの投稿を受け、さらに森氏の「下山病」を読んで、
ぼくの眼は覚醒したつもりだ、(その5)までのような書き方
ではない方法で、書けるはずだし、書くべきだった、と。

▼ぼんやりと予断しておこう。森氏もまた、あのメディアの世
界で必死に生き残ろうとしている、ということ。家族を養って
いかねばならない、ということ。

この「意志」が、下山事件取材顛末と密接に結びついている。

▼思えば彼の活字作品には常に、「この世界(メディアの世界
)で生き延びる、食っていく」というモチーフが常にあった。

この単純な事実を見逃すと、2冊の本の違いを見極める眼も曇
ってしまう。

これらの点を踏まえて、以下の連載を続ける。こりゃあ完全に
、長期連載になりましたナ(^_^;)。


▼ともあれ『葬られた夏』印象批評、まず、諸永裕司『葬られ
た夏』の章立てを挙げておこう。

「序章
/第1章 現場
/第2章 接点
/第3章 黒幕
/第4章 牽制
/第5章 布石
/第6章 秘密
/第7章 動機
/第8章 謀略
/第9章 対決
/終章」。

いっぽう、森達也『下山事件』の章立ては、
「プロローグ
/第1章 下山事件
/第2章 事件の連鎖
/第3章 テレビでの日々
/第4章 スクープへの予感
/第5章 決裂と挫折
/第6章 終幕
/エピローグ」
となっている。


▼食い違う描写

『葬られた夏』の出版が2002年の12月、『下山事件』の
出版が2004年2月。森氏の作品は、どうやって諸永氏の二
番煎じを逃れているのか?

細かく解説するよりも、以下、同じ取材を描写した箇所の違い
を見てみる。

「下山轢死は自殺」説を主張する、室伏憲吾氏との会話。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『葬られた夏』の描写

室伏の自宅の留守番電話に何度かメッセージを残し、手紙も送
ったが反応はない。無視を決めこんでいるのだろう。僕は室伏
が経営するという健康ランド近くの駅まで行って、そこから電
話を入れてみることにした。

「ああ、あんたかい、何度か電話をくれたのは。近くまで来て
るんじゃ、しょうがないなあ。駅からならすぐだから、いらっ
しゃい」

室伏はまるで何事もなかったかのように、そう言った。

(中略)

戦後の労働運動について教えていただきたいのですがと切り出
すと、室伏は早口で一方的に語りはじめた。

「民同が誕生したのはねえ

(中略)

「そういえば、児玉直三という人をご存知ないですか?」
「……いや、聞いたこともない」
きっぱりと否定する。でも、答えるまでにわずかな間が空いた

「ご存知ないことはないと思うんですが……、児玉さんは覚え
ていらっしゃいましたよ」
またも一瞬、言葉に詰まった。沈黙を埋めるかのように口を開
いたのは室伏だった。

「会ったのかい……。(中略)確か上野のほうだったかなあ。
彼はいま、どうしていますか」
あっさりと前言を翻した。持病はあるものの元気そうにしてい
たと伝えると、室伏は言った。
「まあ彼は、下山さんに情報を渡していたということもあるか
もしれませんね」

(中略)

「では、あの事件でいちばん得をしたのはだれでしょうか」
僕の問いかけに、室伏はすぐに反応した。

「加賀山さん(竹山の註:下山総裁轢死時の副総裁)にしてみ
れば、あの事件でだれもやりたがらなかった首切りが進み、こ
れだったはず」

室伏は両手を挙げてバンザイの仕草をしてみせた。

p239−248
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『下山事件』の描写

一度接触を果たした諸永が、その後何度も電話を入れたが、な
かなか電話口には出ないし言伝を頼んでも返信はない。居留守
を使っている可能性があると思うとの諸永の報告に、ならば3
人(竹山の註:山口、諸永、森の3人)で行ってみようぜと山
口が腰を上げたのは、連載(竹山の註:週刊朝日の連載)2週
めが終わった直後だった。

最寄りの駅から電話を入れたが、予想通り留守という返事だっ
た。タクシーに乗って健康ランドに向かい、その玄関先で3人
はしばらく時間を潰した。

出入りする客や、半纏を着た従業員のおばちゃんたちが、不審
そうにこの3人組に視線を送る。思い切って受付で案内を乞え
ば、こちらが名乗る前にいきなり当の室伏がロビーに現れた。

(中略)

1杯目のビールを飲み干してから、僕は本題に触れた。先週か
ら始まった「週刊朝日」の連載はもう読んでいるはずだ。なら
ば取材の狙いを隠す意味はない。単刀直入に聞くつもりだった

「連載、読んで頂きましたか」
「読んだよ」
「できれば室伏さんのご感想をお聞きしたいのですが」
「まだあれだけじゃわからないよ。でもさ、大きな前提として
下山さんは自殺だよ

(中略)

「児玉直三さんをご存知ですか」
諸永が口を挟んだ。「いや知らない」と室伏は否定する。

「へえそうですか。児玉さんは覚えてらっしゃいましたよ」

三杯目のビールを室伏のグラスに注ぎながら、山口が世間話で
もするかのように言う。常に直線的な諸永の取材に比べれば、
憎らしいほどに余裕たっぷりだが、これが彼のスタイルでもあ
る。

一瞬の間を置いてから室伏は、「児玉か。そういえばそんな奴
がいたなあ」と頷いてから、注がれたばかりのグラスをごくり
と飲み干した。

「彼は確か、下山さんに情報を提供していたはずだよ」

(中略)

「(竹山の註:下山事件によって)実際に共産党のダメージは
大きかったよ」
「民同としては千載一遇のチャンスですよね。でも室伏さんは
、事件当時から自殺だと思っていたんですか」
「思っていたよ。あれは自殺だよ」
そう即答した室伏は、じっとテーブルの一点を見つめている。

(中略)

僕は質問の角度を変えた。
「あの事件で得をした人は誰だと思いますか」
「それは、……加賀山さんだろうなあ」

言いながらふと顔を上げた室伏と視線が合った。ほんの一瞬だ
け停止した。同時に室伏は視線を逸らす。思わず口走ってしま
ったことを反射的に後悔した動作のようにも見えるが、ちょっ
とちょっとと片手を上げた室伏は、大声で給仕のおばさんにビ
ールの追加を注文した。

怪談話を聞いた後には土手の柳もお化けに見える。考え過ぎか
もしれない。そう重いながら両脇に座る山口と諸永に視線を送
れば、2人も無言で僕を見つめていた。

p234−7
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼あれあれ。一読してわかるように、「森氏の本は、諸永氏の
本の二番煎じか否か」という次元の問題ではなく、取材の事実
関係そのものが、まるで食い違っている。映画「羅生門」じゃ
ないんだからさ(^_^;)、なんでこんなに違うんだ?

▼まず室伏氏との接触だが、『葬られた夏』では、室伏氏が経
営している【健康ランドの最寄りの駅】から、諸永氏が【室伏
氏と電話で直接話し】、「ああ、あんたかい」と言われたこと
になっている。取材に行った人数は確定されていない。

しかし『下山事件』では、最寄り駅から電話した時には【室伏
氏は留守】と言われており、【3人で健康ランドの玄関先まで
行って】しばらく待って、会えたことになっている。

▼また、「児玉直三を知っているか」と問いかける場面を見る
と、『葬られた夏』では、諸永氏の問いにしらばっくれる室伏
氏に対して、「児玉さんは覚えていらっしゃいましたよ」と誰
かが聞いて(聞いた人の主語は書かれていないが、文脈から考
えると森永氏以外に考えられない)、「会ったのかい」という
ことで、話が進む。

しかし『下山事件』では、

「児玉直三さんをご存知ですか」と諸永氏がたずね、「いや知
らない」と室伏氏が否定した後、【週刊朝日の山口記者が】「
へえそうですか。児玉さんは覚えてらっしゃいましたよ」とた
ずねたことになっている。

▼さらに、「下山事件で、加賀山副総裁がいちばん得をした」
と室伏氏が口にする場面をみよう。

『葬られた夏』では、「では、あの事件でいちばん得をしたの
はだれでしょうか」と、「僕」――つまり諸永氏が問いかけた
ことになっているが、『下山事件』では、「僕は質問の角度を
変えた」とあるように、明確に森氏がたずねたことになってい
る。

さらに『下山事件』では、加賀山副総裁が得をした、と口にし
た室伏氏と森氏と目が合い、その後、山口、諸永両氏が森氏を
見つめているところまで、細かく描かれている。


▼さーて、どっちかがウソをついているはずだが、これだけじ
ゃわかんないよなー。

諸永氏は、後から森氏が本を出すことを想定していないはずは
ない、つまり森氏によって後から「それはウソだ」と暴かれる
ようなことを書くはずはないと思う。

「戦後史最大のミステリーに挑む記者、30歳」「1949年
7月5日。あのとき、何をしていたのか。僕には、どうしても
聞いておきたいことがあった。」(『葬られた夏』の帯の言葉
)、ハンパな気合の入れ方ではないのだ。

いっぽう、森氏は森氏で、ただでさえ「A」「A2」を撮った
ことによって社会的ハンディを負っているのに、さらにみすみ
すダメージを受けるようなウソは書かないだろうと思う。

しかしこの2冊の本には、同じ場面を描いているのに、まるで
事実関係が違う、または曖昧になっている箇所が、いちいちあ
げてられないほど多い。

もういくつか打ち込んでおいたのだが、整理するのも面倒で、
読む側にまわるとあまりに煩雑になるので、やめた。

ただ、主語や事実関係が曖昧になっている箇所が多いのは、圧
倒的に『葬られた夏』の方である。


▼時系列の混乱

次に、『葬られた夏』単独で気になった点をあげておこう。「
東京近郊の閑静な住宅街」に住む、「Y氏の弟」に会う場面。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
その“飛行機野郎”(竹山の註:Y氏の弟のこと)の自宅を初
めて訪ねたときに驚いたのは、79歳とは思えないほど立派な
風貌だった。(p255)

(中略)

(竹山の註:Y氏の弟の口調は)反論するというのではなく、
むしろ死者の名誉を守るため懇願しているような響きだった。
そのセリフを聞きながら、僕はY氏の弟とすごした、ある秋の
日の光景を思い出していた。(p258)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼ここには、一つの矛盾がある。

このp255〜p258に描かれているのは、諸永氏の記述に
よると、Y氏の弟の「自宅を初めて訪ねたとき」の会話のやり
とりである。

ここには「自宅を初めて訪ねたとき」であって、「Y氏の弟に
初めて会ったとき」とは書いていない。それまでに自宅以外の
場所で会っている場合もあるからだ。

ただ、この時、諸永氏は、Y氏の弟の「79歳とは思えない立
派な風貌」に驚いている。

つまりこの描写によれば、諸永氏は「自宅を初めて訪ねたとき
に、初めてY氏の弟に会った」、と考えるのが自然である。

「自宅を初めて訪ねたとき」が、Y氏の弟への2回目以降の取
材なのであれば、Y氏の弟の立派な風貌を忘れているはずはな
いからだ。

しかし、その後、「僕はY氏の弟とすごした、ある秋の日の光
景を思い出していた」という記述が続いている。

おかしい。初めて会った時に、それ以前のY氏の弟との思い出
を想起できるはずがない。

2、3回読み返してみたが、このくだりでは、諸永氏が行った
Y氏の弟への取材の【時系列が乱れている】のである。

「この箇所では、もともとの素材のコピー&ペーストを、やり
損ねた」、そのようにぼくは考える。

しかし、なぜ表現が不自然に乱れてしまったのか。ここに、「
時系列の混乱」という、『葬られた夏』の構造上の問題の一つ
があるように思う。

▼『葬られた夏』は、すべての章がアメリカ取材の描写から書
き起こされており、本書全体の重心は、アメリカでの取材に置
かれている。

「これは、その人物に出会うまでの12日間、全長5000キ
ロに及ぶ全米横断の旅をもとに、4年間の取材を再構成した記
録である」(序章)と諸永氏自身が書いているとおりである。

アメリカでの取材には、本誌連載途中で記したように、森氏は
同行していない。アメリカでの取材は、まさに諸永氏一人で行
ったものだと言っていい。

そして『葬られた夏』では、アメリカ取材の描写の合間に、日
本での取材の様子が挿入されているのだが、如上の観点から読
み直して気づいた。

本書の至るところに出てくる日本での取材の描写の多くから、
時系列が失われているのである。

取材過程の前後が曖昧だから、複雑な問題が、諸永氏自身の脳
裡で解かれ、また結ばれていく過程、すなわち【真相に迫って
いく足どり】がわからない。ゆえに、事件解明の全体像も、わ
かるようで、わからない。オムニバス作品のような読後感が残
ってしまう。

しかしこれは、“諸永氏自身の「下山事件」取材”から、森氏
の存在を消すために、必要不可欠な作業だったのだと思う。そ
して、力業で一書を成した。その力量は、半端なものではない

あー、だいぶ分量が多くなった。続きは次号。

(この項続く)
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(以下略)
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【Publicity】869:「テロの原則」/
  「葬られたのは誰か?」(その7)〜いくつかの投稿・ルールとルール違反
http://www.emaga.com/bn/?2004030009887139012116.7777

PUBLICITY
No.869(2004/03/03/水)

「PUBLICITY」(パブリシティー) 編集人:竹山 徹朗
E-mail:
freespeech21@infoseek.jp(こっちにどうぞ)
freespeech21@yahoo.co.jp(こっちはもうすぐ消えます)

※転送・転載自由です。ただ、転送・転載される時には、
登録申し込み先(↓)も必ず合わせて併記してください。
http://www.emaga.com/info/7777.html
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        ◆◇今号の目次◇◆

【めでぃあ・オフノート】
▼「葬られたのは誰か?」(その7)
いくつかの投稿・ルールとルール違反について

【転載】
▼神浦元彰(軍事アナリスト)の「J−RCOM」
シーア派祭典を標的−−「テロの原則」

        ◆◇     ◇◆
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【めでぃあ・オフノート】  

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「葬られたのは誰か?」(その7)
いくつかの投稿〜ルールとルール違反について


▼前回の続きで「コピー&ペースト〜『葬られた夏』印象批評
(下)」を発信しようと思っていたが、前号の後、出版関係の
仕事などをしている読者の方から匿名で以下のような投稿をい
ただいた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
随分前ですが、森さんが下山事件について取材をしており、
本になるらしいと聞きました。『週刊朝日』に載っていた記事
も見ましたが、当時は記事の署名云々まではまったく気にも
してませんでした。
  
ちょっとしてから諸永さんの新刊を見かけ、「あ、森さんの
例の本が出たんだ。朝日だし――と思っていたところ、妙な
噂を耳にしました。

「あの本は、本当は森さんが出すはずだったんだよなぁ……」

当時僕は「朝日に企画を横取りされちゃったのかなあ……、
なんかヤナ話だなぁ」と思っていました。

森さんが下山事件を追っていて映像化を企画しているという
話は聞いていたのですが、結局諸永本のせいで沙汰止みに
なってしまったものかと思っていたのです。

そして長いこと経過し、森さんの『下山事件』が出ました。
僕の印象としては、“忘れた頃に森さんの本が出た”わけです

同じチームで取材していたはずの本を、別々の版元から、
大きなタイムラグをもって出版されたわけで、不可解な
印象を受けます。

僕はまだPublicityの記事しか読んでおらず、
2冊の本は読んでおりません。
ですから両書の内容に踏み込む資格は
ないわけですが、取り急ぎ2冊の本が出版されたことで
感じた第一印象についてコメントしました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼いやいや、ありがたいことである。そういう噂があったとい
うことだが、2冊を読んだあとで過去を想像すれば、テーマの
大きさや経緯から考えて、そりゃあ少しは業界で噂になってて
も不思議ではないやね。

▼さらに、bk1のwebサイトで、森氏が『スプーン』を出版した
時のインタビュー記事が載っていた、という投稿もいただいた

そのインタビューでの森氏のプロフィルに、《現在「A」の続
編と、下山事件を題材にしたドキュメンタリー映画の撮影と並
行して、「下山事件」をテーマに執筆中。》とあるそうだ。

インタビュー日時は、2001年の4月6日。3年前!(聞き
手:宮島理/フリーライター・bk1ノンフィクション担当エデ
ィター)。そりゃ、古いわ。やっぱり原稿は、早く書かないと

▼既に紹介したが、「(週刊朝日の)連載が終ってから3年が
過ぎる。書かなかった僕も悪いのだ」と森氏自身が書いている

あらためて思うに、理由はどうあれ、森氏の原稿が遅れたこと
が、その後の出来事の要因になっていることは、まず間違いな
い。

▼ここで、くだんの松沢呉一氏「葬られたのは誰か?」から、
一部引用しておく。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
http://www.pot.co.jp/matsukuro/20040301_650.html

先日、ライターの知人から聞いたところによると、韓国の出版
界は契約社会で、雑誌の連載でさえも契約書を交わすそうです
。「出版社とライターは契約書を細かく交わすべき」とする人
たちから見れば理想郷なのでしょうが、私にとっては地獄です

これまで何度も書いてきたように、私は「出版界におけるさま
ざまに契約を持ち込むことに対しては積極的にはなれない」と
いう立場をとってすます。端的に言うなら、私自身が違約金で
破産するからです。

原稿料が安い出版界の現状を考えると、書き手は量産を強いら
れますから、そのすべての締切を守ることはほとんど無理であ
り、契約遵守ということになったら、書き手の方がより大きな
デメリットを受けることになります。

たとえば月に原稿用紙百枚書いて、原稿料は二十数万円、そこ
から経費を除いて残るのは十数万円といったライターが、原稿
が遅れるたびに何万円、何十万円も違約金を払っていたら、生
活できるはずがなく、安い仕事を量産することでなんとか生活
している層ほど、契約によって破綻することになるのです。

(中略)

今回のトラブルは、通常その権利を主張しない編集者が、書き
手として権利主張をしてきた極稀なケースということもできま
す。

なんらこちらにはメリットがないにもかかわらず、見ず知らず
の新聞記者が情報提供を求めてくることをしばしば体験してい
る私からすると、「新聞記者らしい」と思ったりもするのです
が、

この場合は、現に諸永氏も取材しているのですから、そこに自
ら表現していい資格が発生していると考えたとしてもそう不思
議ではないのかもしれません。

「現実に取材したのは誰か」「取材をした人間こそが書く権利
を一定有するのは当然ではないか」とも私は感じます。

仮に今回のケースで事細かな契約書が交わされて、「権利は誰
がもつのか」「誰の名義で公表するのか」といった取り決めが
確認されていたのなら、そもそもトラブルにはなり得なかった
のでしょうけど、

当然、原稿の納品日までが契約書には盛り込まれますから、い
つまでも原稿を書かなかった森氏はこの時点で契約違反になり
ます。

最初の話し合いで「締切はまだ決まっていない」旨を「週刊朝
日」は森氏に伝えてますが、週刊誌なんですから、「3か月後
か4か月後かは決まってない」という程度の話で、「1年経って
も原稿を書かなくていい」という話ではないでしょう。

実際には契約書はなかったのでしょうけど、それにしても、こ
こに森氏の決定的なミスがあったように思え、そもそも信頼関
係が壊れる契機を作ったのは森氏だったのではないでしょうか

森氏は同時に映画を制作することの承諾を「週刊朝日」から得
ています。よくはわからないのですが、「週刊朝日」としては
、「週刊朝日」のみが独占的に公開できるのでなく、森氏の映
画でもこの話が公開されることを承諾したに過ぎず、「そのた
めに原稿が遅れること」までを承諾したのではないのだと思わ
れます。

「映画のために原稿が遅れること」がもし前提となっていたの
であれば、森氏はなにも焦って連載の話を取り付ける必要はな
く、映画の制作以降に「週刊朝日」に話を持ち込めばいいから
です。

取材を進めていけば情報は漏れます。森氏自身、人を介してネ
タを得ているのですから、ここからさらに情報が拡散していく
可能性もあるでしょう。

となれば、「週刊朝日」側が焦りを感じていたことは想像に難
くなく、そこに費やしてきた人件費や経費を考えても、勝手に
原稿を書いてしまったことを一概には批判できないように思い
ます。書けるだけの取材を彼らは進めていたのですし。

それと、映画云々があったがために、「週刊朝日」は森氏を軽
んじたのかもしれないとも想像できます。

「映画のために原稿が遅れている。彼は映画がメインなのだか
ら、だったら雑誌に関してはこっちで進めてしまっていいだろ
う」と考えたのかもしれません。

週単位で動いている雑誌が、1年間原稿を書こうとしない森氏
に対して、「オレたちは森氏に軽んじられている」と判断する
のはやむなしで、軽んじた森氏が軽んじられるのもやむなしで
はないのでしょうか。

だからといって、「週刊朝日」なり諸永氏がなにをしてもいい
ということにはならず、「それにしたってスジの通し方がある
だろう」とは思い、「森氏を外して連載を開始するなら、それ
が決まった段階で一報入れてもいいだろう」とは思いますし、
単行本に関しても話し合いくらいあってもいいだろうとは思い
ます。

この世の中、スジが通らないことはいくらでもあって、たとえ
ば「今度新番組をやるのでスタッフをやってもらえませんか」
という話があって、ミーティングに何度か出たのに、いつのま
にか連絡がこなくなって、そのまま外されるなんて経験も私に
はあります。

「外すなら外すで一報くれよ」とは思いますし、それでいてア
イデアだけは使われていたりするとムカつきますけど、「次回
から来なくていいです」とは言いにくいのでしょう。私もこう
いう場合に「どういうことだ」とは言いにくいので、結局その
ままになってしまいます。

「だからいい」ということではなくて、このケースでも、森氏
に対して「森さんなしで進行します。それについては、ネタの
提供料としてこれだけ支払います」とか「金銭は出しませんが
、こちらの取材した内容は森さんが今後使用してもかまいませ
ん」ということでスジを通せばよかったのです。

なんにせよ、信頼関係がある限りは少々のルール違反があった
ところでさしたる問題にはならず、ルールなんてものがなくて
もうまく機能するわけですけど、今回のように、信頼関係が壊
れた時にどうしたらいいのか、「少々」ではないルール違反に
対してはどうしたらいいかってことです。

(中略)

すでに述べたように、私自身、事細かな契約を交わすのがいい
とは必ずしも思っていないわけですけど、契約以前に編集者と
ライターの関係は明確にしておくべきで、ルールが一般に曖昧
すぎて、そのためにトラブルが生じた時に収拾がつかないこと
になりやすいと感じます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼この松沢氏の文章の冒頭には、「森氏の作品に対する評価で
はまったくなくて、『編集者と書き手の関係』なり、『権利の
在処』に対する森氏および竹山氏の考えを批判的に論評したも
ので」あると書いてある。

ゆえに、もし本誌読者に、当事者、関係者の方がおられたら、
松沢氏の文章は、上記の定義とともに、「わからない部分にい
くつかの前提を想定した上で書き進められたものだ」というこ
とをご承知いただきたい。

ということを意識して引用したのだが、如上の意見に、すなわ
ち「これは、“書き手と編集者との関係の慣例”を逸脱した特
殊なケースである。どうすれば問題を解決できるか?」という
問題設定について、大きな異論を唱える人はいないだろうと思
う。

だからといって、なんでもかんでも契約すりゃあいいって話で
はなく、既に読んでおわかりのように、現状で編集と書き手が
厳格な契約を結んだ場合、間違いなく書き手にとって不利にな
る、と松沢氏の意見が書かれている。

はっ! すでに12kbを超えてしまった!

しかし、他にも投稿が来るかもしれないねえ。ちょっと待とう
かな。

(この項続く)
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(以下略)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

参考のため、松沢呉一氏が御自身のウェブサイトに発表した
「葬られたのは誰か?」を紹介しておく。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
黒子の部屋:松沢呉一が書く

お部屋650●葬られたのは誰か?
[2004年03月02日]
http://www.pot.co.jp/matsukuro/20040301_650.html

またまた「Publicity」(http://www.emaga.com/info/7777.html)の話ですけど、このところ、短期連載している「葬られたのは誰か?」を非常に興味深く読んでます。

昨年12月に出た諸永裕司著『葬られた夏―追跡・下山事件』(朝日新聞社)と、今年2月に出た森達也著『下山事件〈シモヤマ・ケース〉』(新潮社)にまつわる話です。

「Publicity」を読んで、少なくとも森氏の著書は買ってこようという気になりましたけど、今のところどっちも読んでいませんので、内容の良し悪しを論ずる資格はありません。

しかし、「Publicy」に書かれた、この2冊の本が出る経緯について読んで、竹山氏の森氏擁護に対して「ちょっと違うのではないか」との思いがあって、竹山氏にその旨メールしました。

それに対して、竹山氏が「Publicty」で一部紹介したいと言ってきたのですが、公開することを前提に書いたものではなかったので、改めて一文を書きました。でも、いつもの如く長くなってしまったため、「黒子の部屋」で公開してしまうことにしました。

これを読むと、あたかも私が朝日新聞社側に立っているかのように見えてしまいましょうが、竹山氏の見方に対して、「そうではない見方もあるよ」と提示することに主眼があったためで、どっちに分があるかと言えば、森氏にあると思ってます。その上での異論です。

竹山氏にしても森氏の言い分しか読んでいないわけで(諸永氏は経緯について著書で触れていない)、まして私はそうなのですから、ここはひとつ、諸永氏の言い分も聞きたいところで、竹山氏には「インタビューしてはどうか」と進言してます。

これだけ読んでも全然意味がわからないと思いますので、「Publicity」861号以降を必ず読んでください。読みたくない人は、今回は飛ばしてください。

以下、本文です。

現段階での感想を言うなら、「森氏に分があるとは思うが、その主張に同意しきることはできないし、竹山氏による森氏擁護の言葉にも違和感がある」というところでしょうか。

この問題は「編集者と書き手の関係」を考える上では非常にいいサンプルで、広く出版界全体が考えるべき普遍的なテーマにも関わってきます。

以下に論じているのは、森氏の作品に対する評価ではまったくなくて、「編集者と書き手の関係」なり、「権利の在処」に対する森氏および竹山氏の考えを批判的に論評したものです。

先日、ライターの知人から聞いたところによると、韓国の出版界は契約社会で、雑誌の連載でさえも契約書を交わすそうです。「出版社とライターは契約書を細かく交わすべき」とする人たちから見れば理想郷なのでしょうが、私にとっては地獄です。

これまで何度も書いてきたように、私は「出版界におけるさまざまに契約を持ち込むことに対しては積極的にはなれない」という立場をとってすます。端的に言うなら、私自身が違約金で破産するからです。

原稿料が安い出版界の現状を考えると、書き手は量産を強いられますから、そのすべての締切を守ることはほとんど無理であり、契約遵守ということになったら、書き手の方がより大きなデメリットを受けることになります。

たとえば月に原稿用紙百枚書いて、原稿料は二十数万円、そこから経費を除いて残るのは十数万円といったライターが、原稿が遅れるたびに何万円、何十万円も違約金を払っていたら、生活できるはずがなく、安い仕事を量産することでなんとか生活している層ほど、契約によって破綻することになるのです。

単行本の作業を進めていたのに、一方的な出版社の都合で反故にされることがあります。こういう場合、契約書があろうとなかろうと(後述のように、この段階で契約書を交わしていることはまずありません)、印税の一部を支払う出版社があります。

約束違反ですから、当然と言えば当然ですが、私はそういうことをしてもらったことはなく、「金寄こせ」とは言いにくいし、「契約書を交わすべき」とも言いにくい。

というのも、こっちの一方的な都合で本を出さないこともよくあって、約束期限を守れないこともよくあるためです。これで「金寄こせ」なんて言い出すと、いろんなところから、「おまえも金払え」と言われてしまうことになります。これも約束違反ですから、当然と言えば当然です。

つまり、厳密な契約社会になっていないことの恩恵は、間違いなく私の方が受けているのです。

単行本の契約書は、ほとんどの場合、原稿を渡してから交わします。しかし、契約条項を読むとわかるように、本来は「本を出しましょう」「いいですよ」と合意した時点で交わすべきもので、納品日を遅れたら、書き手は違約金を払わなければなりません。

なのに原稿を渡してから契約書を交わすのは、「契約書に書き込むべき発行部数、発行日などは原稿を見てから決めたい」という出版社の都合とともに、どうせ書き手は締切を守れないからです。

「出版社は契約書を交わすべき」と主張している書き手が、書き手に対する縛りを受け入れる覚悟で言っているとは思えず、「あんたたちは締切を遅れたら違約金を払う気があるのか」と問いたい。

どうも「表現者」というのは(あるいは「人」というのは)、自分の権利は最大限主張しながら、自分の義務に対しては無頓着になる傾向がありそうです。

権利関係が曖昧になっていることによって、書き手がメリットを受けている点はまだまだあります。

広く出版界で合意される考えではないのかもしれませんが、文章を書く行為に関しては、資料集めや取材を含めて著者の権利であり、義務であると私は思ってます。編集者は誰に何を書かせるかの判断をし、あとは本や雑誌にするための事務処理をすればよく、文章を書く行為に対するサポートなんてしなくてもいいのではないか(テープ起こしはやって欲しいけど)。

したがって、取材までを編集部に任せ、データ原稿を編集者やデータマンに書いてもらうのであれば、権利の一部を放棄したと見なされても仕方がない。

編集部が取材までやって、そのデータをライターに渡して、そのデータ原稿の文章をそのまま使用していても、通常、原稿の権利は100パーセント著者がもつのですけど、私の感覚としては、その慣習の方がおかしいのではないかと。

私自身、取材のセッティング、人物の選択を編集部に任せることはあっても、取材そのものはすべて自分自身でやってますし、資料もほとんどすべて自分で探してますけど、そのようなライターと、編集部にその部分まで依存しているライターとが、同じ原稿料を得て、同じ権利を主張するのはどうもバランスが悪い。

となれば、権利関係を厳密にしていくと、「この原稿では、データ部分を編集部が書いているので、権利の3割を出版社が持つ」なんてことにもなってきて、曖昧になっているからこそ、少なからぬライターが得をしているのかもしれません。

今回のトラブルは、通常その権利を主張しない編集者が、書き手として権利主張をしてきた極稀なケースということもできます。

なんらこちらにはメリットがないにもかかわらず、見ず知らずの新聞記者が情報提供を求めてくることをしばしば体験している私からすると、「新聞記者らしい」と思ったりもするのですが、この場合は、現に諸永氏も取材しているのですから、そこに自ら表現していい資格が発生していると考えたとしてもそう不思議ではないのかもしれません。

「現実に取材したのは誰か」「取材をした人間こそが書く権利を一定有するのは当然ではないか」とも私は感じます。

仮に今回のケースで事細かな契約書が交わされて、「権利は誰がもつのか」「誰の名義で公表するのか」といった取り決めが確認されていたのなら、そもそもトラブルにはなり得なかったのでしょうけど、当然、原稿の納品日までが契約書には盛り込まれますから、いつまでも原稿を書かなかった森氏はこの時点で契約違反になります。

最初の話し合いで「締切はまだ決まっていない」旨を「週刊朝日」は森氏に伝えてますが、週刊誌なんですから、「3か月後か4か月後かは決まってない」という程度の話で、「1年経っても原稿を書かなくていい」という話ではないでしょう。

実際には契約書はなかったのでしょうけど、それにしても、ここに森氏の決定的なミスがあったように思え、そもそも信頼関係が壊れる契機を作ったのは森氏だったのではないでしょうか。

森氏は同時に映画を制作することの承諾を「週刊朝日」から得ています。よくはわからないのですが、「週刊朝日」としては、「週刊朝日」のみが独占的に公開できるのでなく、森氏の映画でもこの話が公開されることを承諾したに過ぎず、「そのために原稿が遅れること」までを承諾したのではないのだと思われます。

「映画のために原稿が遅れること」がもし前提となっていたのであれば、森氏はなにも焦って連載の話を取り付ける必要はなく、映画の制作以降に「週刊朝日」に話を持ち込めばいいからです。

取材を進めていけば情報は漏れます。森氏自身、人を介してネタを得ているのですから、ここからさらに情報が拡散していく可能性もあるでしょう。

となれば、「週刊朝日」側が焦りを感じていたことは想像に難くなく、そこに費やしてきた人件費や経費を考えても、勝手に原稿を書いてしまったことを一概には批判できないように思います。書けるだけの取材を彼らは進めていたのですし。

それと、映画云々があったがために、「週刊朝日」は森氏を軽んじたのかもしれないとも想像できます。「映画のために原稿が遅れている。彼は映画がメインなのだから、だったら雑誌に関してはこっちで進めてしまっていいだろう」と考えたのかもしれません。

週単位で動いている雑誌が、1年間原稿を書こうとしない森氏に対して、「オレたちは森氏に軽んじられている」と判断するのはやむなしで、軽んじた森氏が軽んじられるのもやむなしではないのでしょうか。

だからといって、「週刊朝日」なり諸永氏がなにをしてもいいということにはならず、「それにしたってスジの通し方があるだろう」とは思い、「森氏を外して連載を開始するなら、それが決まった段階で一報入れてもいいだろう」とは思いますし、単行本に関しても話し合いくらいあってもいいだろうとは思います。

この世の中、スジが通らないことはいくらでもあって、たとえば「今度新番組をやるのでスタッフをやってもらえませんか」という話があって、ミーティングに何度か出たのに、いつのまにか連絡がこなくなって、そのまま外されるなんて経験も私にはあります。「外すなら外すで一報くれよ」とは思いますし、それでいてアイデアだけは使われていたりするとムカつきますけど、「次回から来なくていいです」とは言いにくいのでしょう。私もこういう場合に「どういうことだ」とは言いにくいので、結局そのままになってしまいます。

「だからいい」ということではなくて、このケースでも、森氏に対して「森さんなしで進行します。それについては、ネタの提供料としてこれだけ支払います」とか「金銭は出しませんが、こちらの取材した内容は森さんが今後使用してもかまいません」ということでスジを通せばよかったのです。

憶測を含めた以上の前提からすると、森氏が朝日新聞社に強く抗議できなかったのは正義感云々とはなんの関係もないでしょう。その躊躇は「自分のミス」に起因したものでしかなく、そうじゃなければおかしいとまで私は感じました。

仮に森氏がさっさと原稿を書いていれば問題が生じることはあり得ず、スムーズに朝日新聞社から単行本も出ていたのです。このことを考慮するなら、抗議をためらうのは当然です。

にもかかわらず、ここで森氏が「正義云々」を持ち出していることに、またその箇所に竹山氏が条件付きながら同調していることに私は多大な違和感と反発を覚えました。

竹山氏が引用していた文章を見る限り、森氏は「強く抗議することが正義である」という前提に立っていて、その上で「その正義を自分が選択できなかった事情」を述べているように思えるのですが、「回収・絶版」といった要求は、正義ではなく、個人の利益を求めた権利主張に他なりません。

「そうすることで新聞社の横暴に抗議し、書き手の権利を守る」という広く物書きとしての普遍的な正義を実現する主張であるとも言えなくはないでしょうけど、「下山事件の真相を広く社会に知らしめる」という正義からするなら、回収や絶版を求めることは正義に反する行為でもあって、二種の本が出たことこそが正義になかっているとも言えます。

つまりは、正義を掲げることに抵抗感を抱く森氏は、「回収・絶版」を求めなかったことで、もっともよく正義を実践することになっていると見えます。

そう考えると、諸永氏の本が朝日新聞社から出て、森氏の本が新潮社から出て、なおかつ諸永氏の本では二刷分から注釈が入ったのは、正義に合致し、なおかつ森氏の権利主張もなされているのですから、とてもバランスのいい結末だったようにも思えます。ゼニの点で見たって、森氏は新潮社からの印税を手にすることができるのですし。

にもかかわらず、森氏が「正義」云々を論じて自分の行動を説明していたのは、なんだか嘘くさい気がしました。森氏が「正義」をうさんくさく思うのと同じように、森氏の弁明もうさんくさく思えてしまったのです。

ここにおける「正義」とは何か、という定義がよくわからないのではありますが、権利を主張することを「正義」だとして、そこに躊躇があったのなら、二番煎じに思われる危惧をもって抗議したことの意味、注釈を本に入れさせたことの意味もわからなくなってしまいます。これも「正義」の実現に他ならないのですから。

現に抗議している森氏は、現に権利を行使しているのであって、その上なにを弁明したいのか理解に苦しみます。現実にやっていることは「自己の権利のために自分は抗議した」というだけのことであり、そうである限り、私はこの行動を支持できます。

書き手の権利以外に「二番煎じ」と思われるかもしれないことを防止する根拠などないと思います。これを否定するのであれば、二番煎じと思われることに甘んずればよかっただけです。

それ以前に、本を出したり、原稿を書いたりすることで金を得ている人が、あのようなことを書くことの意味がよくわかりません。どうして森氏は、原稿料や印税を受け取ることができているのでしょうか。

森氏は書き手の権利に基づいてメシを食えているということを普段は見ないようにしているだけなのではないかとの疑問を抱かないではいられません。

私もまた同様の立場になった場合、朝日新聞社に「回収・絶版」を求めたりはしません。ひとたび世に出た表現を消すことに対する躊躇があるためです。

その代わり、「自分が書いた文章まで使用されているので、その分の著作権使用料を払え。印税を寄こせ」って言うでしょう。ゼニをもらうためにも、回収・絶版は適切ではありません。

ただ、このような主張に対しては、森氏とはまったく別の躊躇が生じます。「だったら、おまえも原稿をいつまでも書かなかったことにつき違約金を払え」って言われたらどうしようって思うからです。

「契約書がないから、そこまで言う権利はあっちにはないよな。でも、そんなことを言ったら、原稿についてどこまで誰が権利を持つのかの取り決めもなかったんだから、本を出されてもしょうがないって話でもあるよな。連載時にも自分の名前と取材班の名前が併記されていたのだから、法的に言っても両者に権利があるって判断されるだろうな。となれば、せいぜい要求できるのは、自分が書いた原稿が、名前の明記もなく、無断で使用されたことについての著作権上の権利だけだろうな。しかし、これに金を出せと主張すると、今度は自分の本に対しても、朝日が権利主張してくるかもしれないな。でも、著作権上はデータを使用しても問題ないよな。そんなこと言ったら、ネタに著作権上の権利なんてないんだから、最初っからこっちにはなんの権利もなかったって話だな」

なんてことをあれこれ考えて、「あわよくばもらえるかもしれないこと」を想定して、その分の金を慎ましく主張し、それと同時に二刷以降本に名前を入れるように堂々要求することになりそうな気がします。

自分のミスをも考慮に入れて自分の権利を最大限主張しようとする私と、権利を主張すること、正義を主張することに躊躇する森氏がやったこととは大差がないのです。

私からするなら、十分に権利主張をしているにもかかわらず、それを肯定し得ずに、森氏が自己の「弱さ」を強調している点につき、私はうさんくささを感じてしまったわけです。「いい子ぶりっ子」と言ってしまってもいいかもしれません。そうすることによって、巨大な新聞社に潰されかねなかった弱い書き手の演出ではないかも疑います。

竹山氏の解釈はそれに乗っていて、どうも私は違和感を覚えるのです。

そもそも「ネタ」なんてものには著作権がありませんし、もとはと言えば、森氏自身、他者(井筒和幸監督)からもらったネタです。

ライターはしばしば編集者がもっているネタを元に原稿依頼を受けます。私は編集部からもらったネタであることを極力明示しますけど、人によっては、こういう場合でも、あたかも自分で発見、発掘したかのように書きます。

互いの信頼関係を元に、それを自分の手柄にしたり、他者に漏らさないようにしたり、編集者からもらったネタを他誌に書かないようにしているわけです。

これについては私もムッとすることはあります。たとえば私が原稿を書くことになって、編集者も取材に立ち会います。そこで会った私の取材源を編集者が別のライターにあっさり紹介していたり、その取材源を使っての原稿依頼を別のライターにしていたり。

しかし、こちらもまた編集者に紹介してもらった人物のことを他誌に書いていたりもするのですから、信頼関係のある編集者とライターの間では持ちつ持たれつってことです。こちらが提案した企画がボツになったにもかかわらず、のちに同じ企画を別のライターにやらせていたら、怒っていいでしょうけど。

なんにせよ、信頼関係がある限りは少々のルール違反があったところでさしたる問題にはならず、ルールなんてものがなくてもうまく機能するわけですけど、今回のように、信頼関係が壊れた時にどうしたらいいのか、「少々」ではないルール違反に対してはどうしたらいいかってことです。

すでに述べたように、私自身、事細かな契約を交わすのがいいとは必ずしも思っていないわけですけど、契約以前に編集者とライターの関係は明確にしておくべきで、ルールが一般に曖昧すぎて、そのためにトラブルが生じた時に収拾がつかないことになりやすいと感じます。

「創」とのトラブルもそのいい例でしょう。私としては「編集部が著者に無断で原稿を書き換えてはいけない」とか「連載に添えるために撮影している写真を編集部が勝手に外してはいけない」なんてことは、改めて話し合うまでもなく合意されているルールだと信じて疑ってませんが、「創」はそうは思っていなかったわけです。

出版界一般にルールがないことと同時に、個別の関係においても、事前の説明がなされないことに苛立ちがあります。

最近も連載を始める際に、「編集者はどこまで原稿に介入できるのか」といったテーマで延々と話し合いをするハメになりました。事前に合意のない直しを相手が求めてきたためです。

「つまらない」「文章が下手」「わかりにくい」「頼んでいた原稿と内容が違う」「名誉毀損に相当する」「著作権侵害に相当する」ということでの直しならいいのですが、これまで私は体験したことがなく、当然には想像し得ない内容の直しでしたから、「そりゃルール違反だろう」と。

事前に「当社では、こういう言葉を書いてはいけない。こういう内容を書いてはいけない。書いた場合は直しを入れる」と提示してくれていればよかっただけのことです。しかし、そうすることのルール自体が認識されておらず、「編集者は恣意的に直しを入れさせることができる」と思っている編集者が少なくなくて、その度私は抵抗するなり、「今後のために基準を明示して欲しい」と要求することになります。いかに理不尽な基準であっても、事前に提示がある限りは問題はありません。それがイヤなら仕事をしなければいいだけなんですから。

その提示がないまま原稿に介入するために、相手にルールを教えるハメになって、それを説明する文章を長々と書かなければならないことにもなりますから、「講義料くれよ」って気分になります。ギャラが高額ならそれも苦ではないんですけど、その連載は四百字で二千円台です。

森氏と朝日新聞社との関係においても、そのようなルールが明確になっていない中で(具体的には「森氏が原稿を書かなかった場合どうなるのか」「編集部が取材した内容について公開する権利は編集部にもあるのか」など)、信頼関係が壊れてもつれてしまったわけで、森氏としては「オレがもちこんだ話なのに、なんで勝手に連載を始め、本にまでしてしまうのか」と不満に思い、「週刊朝日」としては「自分で持ち込んでおきながら、どうしていつまでも書かないのか。取材までこっちは進めているんだぞ」と不満に思うのは、互いに十分な理があります(人の文章を勝手に使って本を出すことには理はないですよ)。

明確なルールがないのですから、互いにどう思おうと勝手と言えば勝手です。

そうならないためにはやはりルールの確立が必須で、出版界一般にルールが確立していないことの責は出版側にのみ求めるべきではありません。書き手もまたルーズにしてきたのですから、どっちもどっちです。

契約書を交わすことをよしとする人たちは、しばしば契約書を交わさない出版社を批判することになりがちですけど、そりゃ違うでしょう。契約は対等の関係でなされるのですから、契約書が交わされないのは両者の合意でしかなく、それがイヤなら書き手が自分で契約書を作って、出版社にサインするように求めればいいのです。

それをやらずして、出版社にのみ責を求めるのは、「出版社が主体であって、自分はそれに従うだけ」という下請け根性、弱者根性を露呈しているだけです。自分の義務には無頓着なまま、弱者であることを拠り所にして権利主張をしようとするのはどうなんかと。

では、すでにこうなってしまった現在、どうしたらいいのか。

「森氏が原稿をなかなか書かなかったことにつき、森氏は朝日新聞社に百万円を払う」「森氏の承諾なく原稿を進めたり、本を出したことにつき、朝日新聞社は森氏に百万円払う」ということで、すべて相殺してシャンシャンということでもいいんじゃなかろうかとも思います。森氏が新潮社から本が出せていなかったのならまた別でしょうけど。

あるいは「諸永氏の本は森氏の原稿をそのまま使用していて、それにつきなんの断りもなかったのだから、印税3パーセントを朝日新聞社は森氏に支払う」ということがあってもいいかもしれない。その程度の主張をする権利は森氏にあると思います。森氏が書き手の権利を肯定するとして、ですけど。

しょうもない結論のようにも思えましょうが、私も正義なんてものよりしばしば金を信用しますので、金で解決が一番わかりやすい。

ここから得た私個人の教訓としては「金にならないネットの原稿を書いている暇があるなら、ゼニをもらえる原稿を早く書かなきゃ」ということですね。バジリコの本を早く書こうっと。

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柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(祥伝社)のお勧め【まずは読んでから】
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