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ユダヤ民族歴史物語  塙 友雄 2001,Apr
http://www.asyura2.com/0403/bd34/msg/162.html
投稿者 乃依 日時 2004 年 3 月 09 日 05:39:38:YTmYN2QYOSlOI
 

http://www.ksnaj.or.jp/K-Senior/DOC/judea/#33



    ユダヤ民族歴史物語  塙 友雄 2001,Apr





     目 次
1 はじめに.
2 ユダヤ民族の現況
2.1 ユダヤ民族とは
2.2 イスラエル
3 創世期(500万年前-BC4000年)
3.1 地球環境(2億年前-1万年前)
3.2 人類出現−石器時代
3.3 エデンの園、ノアの洪水
4 イスラエル・ユダ国(BC1400-AD70年)
4.1 太古の民族移動とメソポタミアの歴史
4.2 武装遊牧民アブラハム(旧約聖書検証)
4.3 建国・繁栄・滅亡
4.4 地元宗教バール神との闘争
4.5 再興、破滅
4.6 旧約聖書
4.7 感想
5 離散民(デイアスポラ)の話し
6 「パレスチナ問題」の歴史(前編)
7 「パレスチナ問題」の歴史(後編)
8  おわりに
  参考文献



israel5.jpg
      Fig.1 イスラエルの首都エルサレム




























1 はじめに
 過年、 世界史のユーラシア大陸を東奔西走した「トルコ民族」の物語を書き
ました。今度は、世界中を放浪し、歴史の主役を演じた「ユダヤ民族歴史物語」
を披露します。最近、ユダヤ人に関する書物はかなり発刊されていますが、宗教
的で読み難い物もあれば、興味本位のものもあります。ここでは、末尾の参考文
献を整理し、中正な内容になるように要約します。字数を減らすため、多少端折
るところがありますが了承下さい。
 昨秋、イスラエルの大統領選挙で、タカ派のシャロンが新大統領に選ばれまし
た。これで、中東和平は再び遠ざかるのではないかと云われています。20年前の
「イスラエル」と「PLO」の対立が、 近頃は「西欧諸国」と「イスラム原理主義
」の対立へ変貌してきているようです。「トルコ民族物語」の中で記述したイス
ラム原理主義が、ここにも現れてきました。「無差別テロ」が想定されて不気味
です。平和解決の途はますます複雑になってきたようです。本文を読んで、国際
情勢を判断する上の参考にして下さい。チェチェン、アフガニスタンのことも併
せて考えてみて下さい。

2 ユダヤ民族の現況
2.1 ユダヤ民族とは





tizu1.jpg

                Fig.2 現在の西アジア

 現在、ユダヤ人の数はイスラエルに約500 万人、アメリカ合衆国に約 600
万人、旧ソ連領に250 万人、ヨーロッパ諸国、そのほかの地域に約250 万人
、計約1600万人である。イスラエルのユダヤ人はセファルデイム系、アシュ
ケナジム系の二つに分けられる。セファルデイム系とは、15世紀末までイベ
リア半島(スペイン、ポルトガル)に居住したユダヤ人のことを意味したが、
その後、広くイスラム圏のユダヤ人(その子孫を含める)のことを云うように
なった。アシュケナジム系とは、当初はドイツ語圏内のユダヤ人の呼称であ
ったが、広く欧米系ユダヤ人の呼称となった。人口数は前者が後者を上回る
が、アシュケナジムの方が、社会的、経済的エリート層が多く、建国当時は
彼等が優位に立っていた。しかし、最近はセファルデイム系の人口が増加し
、その勢力が強まった。そして、世論が大衆的な傾向を帯びるようになり、
政府の舵取りが難しくなってきている。
 今日のユダヤ人は人種的には多種多様、生物学的な、また身体形質的な特
徴は一切ない。白色人種からモンゴロイド、黒人まで様々である。これは、
世界各地のユダヤ教徒が、1948年の建国を機に、パレスチナへ集合したから
である。同一民族でもないユダヤ人(ユダヤ教徒)が、現実に強固な団結を続
けているのは、ひとえに宗教を共通にする故である。それほどユダヤ教は強
烈な宗教なのである。







2.2 イスラエル

国情
 約500万人の人口は、いまも新移民(ユダヤ教信者)を受け入れて増大中。この地域はユダヤ民族の故郷であり、また、人類文化発祥の地である。1948年、独立を宣言し、4次に亘る中東戦争を戦い抜き、外はアラブ諸国に取囲まれ、内にはパレスチナ問題を抱え、爆弾テロ、インテイファーダが絶えず、国民の緊張度は常に高い。近代武装の精鋭軍隊と、核兵器も保有し、国外ユダヤ人の送金、アメリカの援助があるにしても、軍事費が経済をたいそう圧迫している。その割には物価もそう高くない先進国である。
地形、風土
 国土は南北418km、東西に14-104kmと南北に細長く、地形は4つに区分される。
(1)レバノン国境からガザ地区に伸びるテルアビブ、ハイファなどの商工業中心地と農耕地帯を含む地中海沿岸平野部。海岸線188kmに殆ど出入がなく、カルメル山地を除き起伏がない。
(2)北部ガリラヤ高地からヨルダン河西岸のサマリア、ユダの高地に接し、南部のネゲブに繋がる中央丘陵地帯の果樹栽培地域である。首都エルサレムもこの高地にある。
(3)ヨルダン地溝地帯で、海抜-212mのガリラヤ湖からヨルダン河を通り、海抜-397mの死海へ繋がり、さらに南の紅海、アカバ湾に達する。この地溝はシリア・アフリカ大陥没溝の一部である。東アフリカ、ビクトリア湖まで続く地球の裂け目である。
(4)南部ネゲブ乾燥地帯で、砂岩質の丘陵と黄土質の砂漠の間に峻険な岩山と涸れ川が走り、シナイ半島の砂漠につながる。
気象
 地域によって異なり、ヨルダン地溝とネゲブ乾燥地帯は年間降水量200mm足らずで乾き切っており、年間を通じて気温は高く38゚Cを超えることが多い。これに反し沿岸平野部、中央丘陵地帯は温暖な地中海性気候で、5-10月の乾期と11-4月の雨期とに分かれ、テルアビブで年間降水量761mm、8月の最高気温は30゚C、2月の最低気温は10゚Cとしのぎやすい。エルサレム等中央丘陵地帯の高地では冬はかなり冷え込み1-2度降雪をみることもある。


isurael.jpg
           Fig.3 イスラエルの地図








3 創世期 (500万年前-BC4000年)
 ユダヤ民族を論じるには旧約聖書の創世記にならって、創世期を語らなければならない。まず、天地創造を略述する。

3.1 地球環境(2億年前-1万年前)(Fig.4参照)
 地球上では約 2億年前からプレートテクトニクスに起因する大陸移動が始まった。ヒマラヤ、ピレネー、アルプス、地中海等が変動、造形され、ユーラシア大陸西側から分離した北米は地球を半周移動してベーリング地峡に繋がった。その拘束力により大陸移動は終息した。100 万年前の出来事であった。その後は火山噴火、局地地震が起こるようになった。大陸移動中も、寒期や温期が訪れたが、約 200万年前から右表に示す氷河期時代が到来した。5回の氷期(湿潤)、間氷期(乾燥)が繰返され、約 1万年前に終結した。氷期時、海面は低下し、ユーラシアは北米、アフリカ、東南アジア島嶼と地続き、間氷期は各所が砂漠化、環境激変、生物は壊滅的な被害を受け、絶滅の種も多岐に亘った。けれども、哺乳類の進化の時期でもあった。特に氷河期と時機を同じくして誕生した人類は、厳しい「地球の悪環境」をバネとして氷河期終結まで、信じられないような進化を遂げた。正に神の仕業と云っても過言でないだろう。


Hyou1.jpg
      Fig.4 氷河期の表





















3.2 人類出現-石器時代 (Fig.5参照)





kaseki2.jpg

                  Fig.5 人類化石の世界分布図






 猿から枝分かれした最も古い人類はラマピクテスと云われる。 アルプス変動
の最中に東アフリカに出現し、500万年位前アウトラロピクテス(猿人)に進化
した。 アウトラロピクテス達は明らかに人間の始祖で、その化石がアフリカ大
地溝帯(地球の割れ目)で多く出土している。 その中で1951年、オルドバイ峡谷
(ケニア、ビクトリア湖の東)、175 万年前の地層中から、石器と共に出土した
ものが有名である。 1972年、さらに古い時代の化石( 250万年前)も見付かった
。猿人達は未だ火を使うことを知らず、彼等はドナウ氷期(200万年前)、ギュ
ンツ氷期(100万年前)、200万年間の長期間を余り進化せずに棲息した。アフリ
カ大陸以外へは進出しなかった模様である。 そして、ミンデル氷期(50万年前
)が到来すると初めてホモエレクトウス(原人)が現れた。原人の化石は Fig.4
に示すように、 欧州、ジャワ、北京等、北寒地を含めた広い地域で発見されて
いる。 彼等は洞窟に住んで寒さを凌ぎ、石器で狩猟をし、火を使用していた。
火を使えるので、大陸奥深く進出できたのであった。 リス氷期(20万年前)に
はアフリカ、欧州、西アジア、 中央アジアに旧人( デュッセルドルフで発掘
されたネアンデルタール人の名で代表される)が出現した。 そしてウルム氷期
( 7万年前)にホモサピエンス(新人)が現れ、 ベーリング地峡を超えて世界
全域に行き渡る。 人種的差別(白人、黒人、黄色人) もかなりはっきり現れて
きた。 弓矢、槍、銛、漁網、縫針、繊維、衣服、土器、舟、新鋭道具(石英、
獣骨を混用)が考案された。芸術性ある絵画、彫刻が遺された。 彼等の能力は
現代人と同等、狩猟・採集と云う獲得経済の枠内で最高の社会を創出し、 氷河
期、雨期の環境下によく適応し生活にも余裕が生じたようである。
 






3.3 エデンの園、ノアの洪水(自然環境激変、農耕の始まり、大洪水
Tizu3.jpg
                  Fig.6 古代メソポタミア及びエジプト






Tizu2.jpg
           Fig.7 古代シュメル地方(前2000年)






(Fig.6,Fig.7参照)
 氷河時代、北アフリカ、アラビア半島はカンブル雨季の最中で一面に緑の草原
に覆われていた。当時、人々は狩猟・採集の獲得経済の枠内で、最高度の文化を
営んでいた。遺された遺跡の絵画から伺えるように、生活には精神的ゆとりさえ
が感じられる程であった。ところが、氷河時代が終わり、自然環境の大変動が訪
れた時、人々は生存を根底から覆される程の厳しい衝撃を受けた模様であった。
その故か出土される遺物等から優美な絵画等が 1万年前を境に蔭を潜めてしまっ
た。氷河終結直後の気温は現在よりも2- 3度上昇し前4000年頃ピークに達した。
ナイル、チグリス、ユーフラテス諸河の周辺では大雨が降り河を氾濫させたが、
一方、サワラ草原、アラビア草原では乾燥による砂漠化が始まった。そして人々
の生活圏は次第に大河の畔や海辺に狭められ、ストレスが高まった。アフリカ地
方より気象変化が激しかったメソポタミア地方では、人々の生活不安は相当なも
のであったようで、遺されている神話が陰惨であることから推してそのように伺
える。それだけに、人々は生活刷新へ努力を傾注し、遂に農耕・牧畜(生産経済
)を発明した。前7000年前頃には現在のイラン西部、イラク、シリア、パレスチ
ナを結ぶ、いわゆる「肥沃な半月地帯」において、既に農耕・牧畜が始められて
いた。イラクのチグリス河、中流に遺されたカリム・シャヒル文化が世界初の農
耕・牧畜文化と云われている。これ以後、歴史は坂道を降る車のように急速に発
展した。それから 1万年もたたぬ間に今日のような成長の限界まで到達した。も
しこの時、生産経済(農耕・牧畜)が発明されなければ、人類は自然環境の下で
、未だささやかな生活を営んでいたであろう。そして科学・技術の進歩、農商工
業の発達、人口増加、自然環境破壊等は起こっていなかったであろう。旧約聖書
では「生産経済の発明」を「エデンの園」と称し、極めて抽象的な教えとして述
べている。「アダムとイブは狡猾な蛇にそそのかされて、自制できず「禁断の木
の実」を食べてしまう。そして神の怒りを買って、「エデンの園」(氷河時代の
平和な生活)から追放され、汗を流して、自分が生まれた大地に食物を求める暮
らし「生産経済」へ入る。生めよ殖やせよで人口が増加。そして競争、闘争の業
(ごう)の中を生きるのが神の思し召しである。シュメール時代、ペルシャ湾に
面するチグリス、ユウフラテス両河の河口付近は最良の耕地でシュメル語でグ・
エデイン(平野の首)と呼ばれた。「エデンの園」の名は、これに由来すると云
われている。
 イスラエル第二の都市ハイファの近くにカルメル山がある。丘の斜面に多くの
洞穴がある。ナトーフ人(新人)と呼ばれる人達が1万年前頃ここに住付いていた
。彼等は素晴らしい新石器を使い、既に鎌を持っていた。「羚羊(かもしか)」の
大量の骨が出たので、当時の草原が乾燥し始めていたことが解った。1958年死海
の近く海面下300mの低地に旧エリコの城壁が発見された。年代測定の結果前7000
年であった。前述のカリム・シャヒル文化と同様、パレスチナでも、この大昔に
、既に都市が存在し、当然、農耕も行われていたことが判る。発掘の結果、前
3000年頃、シュメール地方に大洪水があったことが解る。旧約聖書のノアの大洪
水の話しは事実であった。当時、ペルシャ湾は現在より約200 km北西へ大きく伸
びていたが、地層測定で確かめられた太洪水は奥行き 500km,幅170km、東部メソ
ポタミアの殆ど全域が水没する程の規模であり、当時の初期村落は全滅した。






4 イスラエル・ユダ国 (BC1400-AD70年)

4.1 太古の民族移動とメソポタミアの歴史
ノアの大洪水後、新たな大洪水発生は収まったが、アラビア半島の砂漠化は激し
さを加えた。水と緑の土地を求めた民族移動が四方から波動的に肥沃なメソポタ
ミア平野へ押寄せた。先住民族は防衛も行わなければならず、城壁を備えた都市
が続々と建設され、「闘争と平和・同化」が、その都度歴史を塗り替えた。栄枯
盛衰を繰返し、小都市が王国に、王国が統一されて大王国へと成長した。

(1) 「セム」族の民族移動
 民族移動の主役は「セム」族(アラビア半島を故郷とする遊牧民 )であった。
旧約聖書のノアの子セムに由来して名付けられた。セム語(アッカド語、カナン
語、アラム語、ヘブライ語、アラビア語、エチオピア語、以上は古代から年代順
に使われたセム語である。ヘブライ語がユダヤ民族の言語である。)を母国語と
する人々を意味する。
 前3500年頃、セム族の民族移動の波がメソポタミア東北部へ向い、彼等はアッ
カド人と名付けられ、シュメル人と混住した。前2500年頃からアムル人、カナン
人(セム族)の遊牧民がシュメル地方はもとよりシリア、パレスチナへ進出した。
そして、先住民族と攻防を繰返しながら同化した。キシュ、ウルク、ウル、ウンマ
、ラガッシュ、エリドウ、ニップール等有力な都市国家が出現した。(Fig.6,7参
照) 前2400年頃からはそれらが統一された。 セム人アッカド朝(前2350-2150)、
シュメル人ウル第三王朝(前2110-2000頃)、セム人古バビロニア王国(前1900-1600
頃)が栄えた。最終的にセム族が権力を握った。バビロニアのハンムラビ王は後に
旧約聖書「モーゼ律法」の基になる「ハンムラビ法典」を制定した。
 カナン人は後年、「海上貿易の民」フェニキュア人となった。フェニキュア人
は世界で初めてアフリカ大陸周航に成功したことで知られている。
 次ぎに前1500-1200 年頃、セム族アラム人、ヘブライ(イスラエル)人が進出し
、前500 年頃、ナバタイ人が民族移動した。アラム人はアルファベットを発明、
文化の東方伝達に貢献、ヘブライ(イスラエル)人はイスラエル・ユダ王国を建国
した。そして最後に630-650 年にかけてイスラム教徒のアラビア人による民族移
動が行われた。このように「セム」族はその時代毎に世界の歴史を塗替えるよう
な大きな役割を果たしたのであった。「セム」族と同様、旧約聖書に由来した名
を持つ「ハム」族がある。これはエジプト人のことである。エジプトはその立地
条件の優位さからメソポタミアより早く統一国家を形成した。「ハム」族も早く
から、隣接したシリア、パレスチナへ進出していたことは言をまたない。

(2)北方、印欧族の民族移動
 民族大移動の波は南方からだけでなく、東方、北方、西方からも押し寄せた。
今度は印度・ヨーロッパ族であった。すなわち、前2000年頃、南ロシアの草原か
ら、おそらくカフカス山地を経由して、印欧族がアナトリアへ進入し、先住民を
制圧してヒッタイト王国(前1700-1200年頃)を建設した。そして 古バビロニア(
セム族)を滅ぼし、北シリア方面も制圧した。ヒッタイトは鉄器製法を発明した
。同国はこれを国外秘密、また武器としては余り使わなかったが、やがてヒッタ
イトはカッシト人に滅され、鉄の製法は広く近隣騎馬民族に知られるようになり
武器革命を起こした。そして、ヨーロッパ(ケルト族)、中央アジア、東アジアの
北方騎馬民族へ急速に伝播し、ユーラシア大陸の戦国時代を引き起こした。ヒッ
タイトは旧約聖書で「ヘテ人」と表現されている。次ぎに前1900年頃、印欧騎馬
族フルリ人はメソポタミア北部に侵入し、ミタニン王国を建国した。旧約聖書で
は「ホリ人」と呼ばれている。民族移動の混乱の中、印欧族と先住人達が結束し
たハビルも現れ、 群雄が割拠した。前1600-1500年頃、擾乱は最盛期を迎え、混
成軍団ヒュクソスはエジプトのデルタ地帯へ雪崩込み、前1730-1570年間、 これ
を占領した。前1200頃ヒッタイトを滅ぼしたカッシト人も、また、印欧系戦士で
あった。

(3)西方、印欧族の民族移動
 農耕はメソポタミアで始まったが、国家統一、文明形成はエジプトの方が早か
った。これは立地条件に恵まれ、闘争が少なかったからである。 クレタ島、 サ
ントリニ島は海路、エジプトに近く、地続きの氷河期から高文化伝達の街道筋で
あった。したがって情報伝達が早く、メソポタミアの刺激を受けて、クレタ文明
(ミノス文明)は前3000年頃から発達し前2000-1550年にピークを迎えていた。 と
ころが、前1400年頃、ギリシャ方面の印欧系、アカイヤ族がクレタに侵攻、ミノ
ス王国は滅亡した。その直後、サントリニ島は火山爆発で水没したものと想像さ
れる。クレタ島も津波で大被害を受けた模様であった。当時、メソポタミアの都
市ウガリットも地震・津波で壊滅したことが確かめられた。サントリニ島、クレ
タ島クノッソスの遺跡から絢爛豪華な壁画等の遺品が発堀されている。アカイア
族は前2000年頃、北方より南下した部族でギリシャ族の先祖の印欧族であった。
地震の大被害により、アカイア族はクレタを捨て、エジプトを襲ったが撃退され
た。そして、矛先を変えてパレスチナ海岸に上陸し定住した。これが旧約聖書で
云う「ペリシテ人」で、エジプトでは「海の民」と呼ばれた。今使われている「
パレスチナ」の語源である。




















4.2 武装遊牧民アブラハム(旧約聖書の検証)(Fig.8参照)
kodai2.jpg
                          Fig.8 アブラハムの移動






 次ぎに記述するのは史実に基ずいた旧約聖書の粗筋である。前1800年頃、シュ
メル地方の都市ウルにテラと云う名の男性が住んでいた。彼はノアの末裔でハビ
ルの指導者であった(神話)。「ハビル」とは都市に定住せず、移動を繰返し、
厄介で破壊的な存在、諸国を巡り傭兵等を買ってでる武装集団の総称であった。
つまり民族移動の尖兵であった。その時、第三ウル王朝は既に滅亡し、古バビロ
ニアの天下であった。ハムラビ王の先代のシン・ムバリット王の時代にウルで大
虐殺があった。テラが子供アブラハムと一族を率いてウルを逃れたのは、この故
ではないかと云われている。集団を引連れたテラは、バビロンへ、そしてマリ王
国のマリを経て、更に北方のハラン(マリ王国)へ移動した 。 ( 勿論、この街
道を数多くのハビル達が利用したことだろう、テラ達はそれらを代表した集団で
あったと解釈した方がよいかも知れない。) そしてテラはハランで没し、後をテ
ラの子、アブラハム( ユダヤ教の族長)が引継いだ。 アブラハムの一族はハラ
ンを第二の故郷とし、アブラハムの子イサク、孫ヤコブは、共にハランに住むア
ラム人(セム族)の女性を妻にした。アブラハムは一定期間ハランで居住した後
、再び西方、パレスチナのカナンへ旅立った。それは、マリ王国が古バビロニア
に滅ぼされ、ハランも陥落寸前の時のことであった。700 kmの道程を経て、カナ
ンのシケムに到達した一行は、人数の多い先住人(ヘテ人)を警戒し、町中に入
らず、さらに南下、ジプトまで行ったが、アブラハムの妻サラを強奪されそうに
なり、引返してカナンの地、ヘブロンに到着した。アブラハムは其処で先住人(
ヘテ人、ヒッタイト人)からユダヤ人として最初の土地を買い取り、よそ者寄留
者として定住したのであった。今、エルサレムから南に約40kmのヘブロンの町、
銀4.5kg で買った、その洞窟の中にアブラハム達の遺骸が葬られている。棺と称
するものが、今もヘブロンのモスクの中にあり、アラブ人達が日夜祈りを捧げて
いる。族長アブラハムはまた最初の回教徒と云うことになるからである。アブラ
ハムは生存中、部族の神をエルと呼んで礼拝していたと云う。族長の神「ヤハウ
エ」という名前は後年の指導者が付けたのである。






4.3 建国・繁栄・滅亡

 前1600年頃、パレスチナへ定住したヨセフ率いる一族がエジプトへ移動した。
旧約聖書には「アブラハムの孫ヤコブ(イスラエル)に12人の子供があり、その
うちのヨセフは、兄弟から妬まれ、エジプトへ追いやられる」と書かれている。
これは、「イスラエル12部族が互いに啀み合い、一族がエジプトへ移動した」と
解釈すればよいだろう。当時、エジプトはヒュクソス(パレスチナから侵入)が
統治中で、ヨセフ一族は同じハビル仲間と云う関係から重用され、落ち着いた生
活を続けることができた。ところが、前1580年、エジプトに新王朝が樹立され、
ヒュクソスは滅亡した。これにより、ヨセフ一族の運命は暗転し、奴隷・賎民に
され、強制労働を強いられることになった。 前1400年頃、 彼等は遂に耐えられ
なくなり、カナンの地へ脱出を企てた。聖書の「出エジプト記」である。指導者
モーゼに率いられ、数千人のヨセフ族は追手を逃れてシナイ半島へ脱出した。二
つの説がある。その一つは地中海沿岸の海辺を経由したと云う説。その時、サン
トリニ島火山が爆発、海岸を大津波の引潮が襲い、モーゼ達は干潟を渡って逃げ
たが、追手の軍隊は津波、満潮の波に飲まれて壊滅したと云う説。もう一つは紅
海、「芦の海」湿地帯に逃込み、追手軍隊の戦車は止むなく引揚げたと云う説で
ある。いずれにしても、脱出には成功したが、パレスチナはエジプトの支配下に
あり、モーゼ達は直ちにカナンの地に入ることは出来ず、長い間、苦労をしなが
ら砂漠の中を放浪した。モーゼはシナイ山中で神から「十戒」のお告げを受け、
皆にそれを告げる。そして、全員がヤハウエ神を信仰し、結束した。死海の東、
ネボ山でモーぜは死し、幕僚ヨシュアがあとを継いだ。そして神の導きを得た彼
等は古都エリコを攻略する。パレスチナ制覇の橋頭堡ができたのであった。これ
を契機に、パレスチナのユダヤ人は徐々に合流し、前1200年頃から12部族がそれ
ぞれの部族神の上に共通神としてヤハウエを崇拝しながら連合した。部族連合時
代は約200 年続き、ペリシテ人との闘争がはじまった。当時、ペリシテ人は既に
鉄の製法を習得し、鉄の武器を持った強敵であった。部族連合軍は、その侵攻に
悩まされ、争覇を繰返し、ようやく前1020年頃、ユダヤ民族国家が建設された。
ベニヤミン族のサウルが初代イスラエル国王となっが、間もなくペリシテとの戦
いに敗れ自害した。そしてユダ族の武将ダビデが国王に即位(前1013-960)、古都
エルサレムを攻略し、これを首都として、シリア(北朝)、カナン(南朝)を統
合、統治した。信仰はユダ族のヤハウエ神に結束し、地元宗教バール神を排除。
遂にペリシテ人を制圧し、国民的英雄として崇められた。 そして、その子ソロ
モン(前960-930)の代に「南北朝連合、12部族結束」の黄金時代が到来した。 彼
はフェニキアのテイルス王国と通商活動を盛んにし、エルサレム、「シオンの丘
」に神殿を建設、最重要な聖地を構築した。そして「ソロモンの栄華」、豪華な
宮廷生活を繰広げた。しかし、労役、重税の負担から住民の恨みを買い、北朝、
イスラエル王国(首都ソマリア)と南朝、ユダ王国に分裂してしまった。 両王国
は約200年間、力を競い合ううちに、イスラエル王国は前721年、アッシリアに滅
ぼされ、ユダ王国は前 586年、新バビロニアに攻撃され滅亡した。数万人のユダ
ヤ人はネブカドネザル王によりバビロンに強制連行され、解放まで約半世紀、捕
囚として苦難の道を歩まされた。
 こうしてユダ王国は滅びたけれども、イスラエルの歴史は、唯一神ヤハウエの
宗教思想を実現したことで燦然と輝いたのであった。イスラエル民族がアッシリ
ア、新バビロニア両大国に侵略され、滅亡の危機の中で、この宗教思想はより発
展した。捕囚としての生活は、かえって民族の結束を強くし、宗教信仰を強固に
した。「試練に耐えれば、偉大な民族になる。将来仲間の中から救世主が現れる
」と云うメシア思想が育まれた。この苦難の時代に「旧約聖書」の編纂が始まっ
たのであった。

4.4 地元宗教バール神との闘争
 当時、メソポタミアでは、各民族の族長はそれぞれ自己の神を有していた。例
えば太陽神(エジプト)、月神(バビロニア)、女神(バビロニア)等がそれである。
一族は族長の神を崇め、団結を図る習慣があった。農耕が盛んになるにつれて「
豊饒」と「生殖」を同一視して、女体を崇めるようになり、その偶像として、女
神が誕生した。バビロニアで生まれた女神イシュタールにならって、フェニキア
系では女神アシュタルテが創られ、これがキプロス島に渡り、ギリシャへ伝わっ
て女神ビーナスが生まれたと云われる。この農耕民族の宗教はカナンの地に根を
張り春の蘇りや豊作を祈って、酒を飲み踊り狂い神の前で男女乱交する習慣が生
れた。イスラエル人もカナンへ定着後、この影響を受けない訳には行かなかった
。一方、モーゼを初めとするユダヤ民族の指導者達はヤハウエ神を族長の神とし
、この神に従うことで全部族の意識統一を図った。ユダヤ族全員はヤハウエ神を
信じ、各々は祖先は共通であり、同じ過去、同じ運命を経験していると意識し結
束するようになった。ところが一行がカナンの地に着いたとき、先住の支族達は
農耕化し、既に地元の農耕豊饒の神、バール(アシュタルテと対をなす神)の影
響を受け、男女間の秩序が乱れていた。これでは、姦通、乱婚、血族婚を導く恐
れがあった。「十戒」で男女の不義を戒めているヤハウエ神の信仰はこれと相容
れない。ユダヤ民族結束のため、「バール神との闘い」が始まった。換言すると
、遊牧の父神と農耕民族の母神との激突であった。 この宗教闘争は、「外敵ペ
リシテ人との闘い」と同じく、大きな試練であった。紀70年、ローマ軍に滅ぼさ
れるまで「バール神との闘い」は続けられた。ちなみに、ソロモン王没後、北朝
イスラエル王国は南朝と決別したが、北朝の民衆は農耕者が多くバール信仰、こ
れに対し南朝はユダ族が主体、ヤハウエ神信仰であった。このことが両朝の不仲
な関係を助長したものと思う。 バビロニア捕囚の時、 バベルの塔で繰広げられ
た神官と巫女、また、巫女を装った女達の淫らな行為を目前にして、その反感か
らユダヤ人は結束を深めた。(しかし、後年、ユダヤ自体も乱れ、エルサレムで
も神官と巫女の淫らな行為が行われたと歴史の書に述べられている。)また、ギ
リシャ統冶の時代、ギリシャは農耕の国、裸体美を賛美する。体操競技は全裸で
行なわれるのが普通であった。エルサレム神殿横の広場で、ギリシャ人の全裸の
集団競技をみせられて、ユダヤ人は悲嘆にくれた。その嫌悪感が今も残っている
故か、現在、 エルサレムに住むユダヤ正教徒(彼等は第二次大戦前にポーランド
から移住した)は黒の長衣に身を包んで、他人に肌を見せない。 そして「嘆きの
壁」に祈りを捧げるのである。

4.5 再興、破滅
 歴史は遡り、ヒッタイトが衰え、シリア、メソポタミアで、ユダヤ、ペリシテ
両民族が闘争を繰返していた頃、アッシリア帝国は既に成立していた。セム族に
よって建国され、長い年月に混合民族となっていた小国であったが。前1000年頃
より急速に台頭、前8 世紀に至ってイスラエル王国を滅ぼし、シリアからバビロ
ニアに亘る広大な帝国に成長した。しかし、軍事力が衰えた前612 年、メジア(
印欧族)、新バビロニア(セム族)連合軍に首都ニネベが襲撃され滅亡した。戦
勝の新バビロニアは前 586年、ユダ王国を攻め滅したことは既述のとおりである
。前550年、アケメネス朝ペルシャ が興り、メジア、リビア、新バビロニア、エ
ジプト4 国を滅ぼしてペルシャ大帝国を建国した。バビロンに捕囚として捕らわ
れのユダヤ人達は許されて帰国し、エルサレム神殿を再建した(第二神殿)。や
がてペルシャの威力が内部崩壊から弱まるや、前 334年、マケドニア王、アレキ
サンダーがギリシャ・マケドニア連合軍を率いて、ペルシャへ遠征し、連戦連勝
、アケメネス、ペルシャは滅亡した。そして広大なアレキサンダー帝国が出現し
た。アレキサンダー大王は13年後の前323年、病没し、 大帝国はアンチゴノス朝
(マケドニア)、プトレマイオス朝(エジプト)、セレウコス朝(シリア、パレ
スチナ)の3国に分裂した。そして、いずれも前1世紀末までにローマ軍に滅ぼさ
れたのであった。
 ギリシャ時代の初め、パレスチナはプトレマイオス朝の配下で、信仰、習慣等
の自由が認められたが、前 2世紀、セレウスコ朝の領有となりユダヤ教徒迫害が
始まった。ギリシャ人、アンチオコス四世はユダヤ教を禁止、エルサレム宮殿に
ギリシャ神像を建て、ユダヤ教徒が嫌がる豚を犠牲に捧げ、これに従わないもの
は殺害した。 前168年、ユダヤ教徒は、たまりかねて反乱し、 エルサレムを占
拠、マカバイオス・ユダヤ王国を興し、 80年後のローマ軍到来まで国を持続させ
た。ローマ時代に入ると、ユダヤ・ヘロデ王はエルサレムに壮大な神殿を建立し
たが、残忍な性質で、ローマの傀儡となり、民衆を虐待した。ヘロデの死後、王
家分裂、国内混乱、ローマ総督の下、評議会が設けられ、自治を認められたが、
会構成の議員がサドカイ派(神殿際司等、富裕階級、ローマと妥協派)、バリサ
イ派(学者、思想家等、民衆の指導者と自負、反ローマ派)に分かれて対立、圧
政、腐敗、堕落の行政が続いた。紀66年、全パレスチナのユダヤ人が蜂起、全盛
期のローマに対して宣戦布告、翌年ガリラヤの野で大敗、紀70年、エルサレムに
半年の籠城の後、神殿炎上と共にユダヤ人全員が虐殺された。 その後、3年間、
死海を囲む山の一つマッサダ山に立籠もり、ゲリラ戦を続けたが、これも包囲攻
撃され、婦女子を含む1000人が全員玉砕した。 紀132-135年、バル・コフバ率い
るユダヤ軍が立上がったが ローマ軍に敗れ、ユダヤ民族2回目の離散(デアスポ
ラ)が始まった (第一回目はバビロンの捕囚)。 現在、イスラエルにテイシュ
ア・べ・アーブ(アーブ月の9日)と云う祭日がある。 アーブ月はイスラエル暦
では夏。二つの意味があり、 その第一は前586年、新バビロニアのネブカドネザ
ルがユダ王国を滅ぼし、 エルサレム第一神殿が焼け落ちた日。 第二は紀70年、
ローマ軍の攻撃で第二神殿が焼け、大殺戮が行われた日。この両日が奇しくも同
じアーブ月の9日で、これを記念する祭日である。

4.6 旧約聖書
 旧約聖書はユダヤ教の聖典と同時に世界不滅の宗教文学である。歴史書、文学
書、予言書等が含まれている。歴史書は資料をもとに、前 900年頃から、長い年
代にわたって作成され、バビロニア捕囚時代に大部分が編集された。メソポタミ
アの史実とよく適合していることが確かめられている。「モーゼの十戒」はユダ
ヤ教精神の基本。その10ケ条の内容は次ぎのとおり。

1 神はヤハウエ神だけである。偶像崇拝は行わないこと。
2 みだりに神の名を口にしないこと。
3 7日目に安息日を設けること。
4 父母を敬うこと。
5 人を殺さないこと。
6 姦淫しないこと。
7 盗みを犯さないこと。
8 隣人にたいし偽証しないおこと。
9 隣人の家庭をむさぼらないこと。
10 隣人の妻、召使、家畜その他を奪わないこと。

旧約聖書を日常生活に応用するための注釈書として「タルムード」がユダヤ教徒
の重要な教典となっている。ユダヤ教のもうひとつの特色に選民思想がある。そ
れはユダヤ民族は神の選民で、ユダヤ教はユダヤ人のための宗教であると云う意
味である。曖昧さや、妥協を許さない民族気質があり、これが度々他民族の反感
をかった原因かもしれない。キリスト教はこの選民思想を外し、世界中のすべて
の者が神の恩恵を受けられるものとし、世界宗教として普及したのである。

4.7 感想
4.7.1自然環境
(1)「人類の歴史」を一言で述べると、氷河、洪水、乾燥、砂漠に振り回され
、右往左往しながら歩んできた観がある。とにかく、人間は自然環境には勝てな
い。「エデンの園」の「禁断の木の実」を食べて以来、人は「技術」の発達に助
けを求め、人口を増やし続け、紀2000年以降、人口増加は明らかに、「成長の限
界」に到達してしまった。人口増と「科学技術の進歩」は比例する。科学技術の
進歩も、最早、限界到達である。その証拠にオゾン層が破壊され始めている。人
類の生活規模と自然環境のバランスが崩れていることの証しである。人が自然環
境に勝てないことは、冒頭に述べたとおり。このままで推移すれば、次ぎは人類
自身と生物が破滅される番である。人口増加の抑制と共に科学技術の善・悪の性
質を今こそ見極めて、破滅から脱出する。それが「人の英知」であろう。「ロー
マクラブの警告」と同じですが、本文を書いて感じる事柄です。

(2)人類発祥の地はアフリカ地溝帯であった。最初の文化発生が、その延長線
上のヨルダン地溝帯、ユダヤ教もキリスト教も、この地球の割れ目で創られた。
そしてここは地震の巣である。何か因縁付けられているようで不思議な感じがす
る。

(3)我々造船屋はエポキシタールを船に塗り、土木屋はアスファルトで道路を
舗装する。今から6000年以上の大昔、ノアの方舟はアスファルトで水密を保ち、
都市は乾燥粘土をアスファルトで固めて造られた。今行われている方法と大して
変わらないではないか。アスファルトは地球から与えられる宝である。迷わずこ
れを使うようになったのも、神の教えだったのだろうか。

4.7.2 ユダヤ人の気質
 ユダ族は、「ボール神との闘争」に苦しんだ。 ユダ族側が異常に「この闘争
」にこだわったからである。闘いは常にユダ族から仕掛けられた。ボール神信仰
は春の祭典で男女乱交を許す。だからと云って、それ程目くじらを立てなくても
よいと思う。それほどこだわる位だから、ユダ族の男女間は秩序が整然としてい
たかと云えば実は反対であった。南のユダ王国の国土は山地、住民は遊牧民が主
体であった。遊牧民は動物が好きで、男女共、性行動が奔放になる気質をもって
いた。獣姦、近親姦等がかなり行われ、恥知らずであったようである。だから、
社会秩序を維持するため、習慣を改める必要があり、旧約聖書に次ぎのような戒
めが書かれた。例えば 「女もし獣蓄に近ずき、これと交わらば、 その女と獣畜
を殺すべし。これらは共に必ず殺さるべし...。(レビ記、20章)」。だから
、「この上、男女乱交まで流行っては国は滅びる」と云うのが本音だったと思う
。聖書の記述によれば、 国王ダビデは、部下の将軍の妻が入浴中、 その裸体姿
を見て欲情し、自制できずに妊娠させてしまう。慌てて、出征中の夫に休暇を与
えて帰郷させ、生まれ出るのは将軍の子であるように取計らった。ところが、出
征期間中の夫婦の性行為は禁止されており、将軍は真面目にこれを守った。格好
付かなくなったダビデ王は、今度は将軍を最も危険な戦場に送込み、生きて帰れ
ないようにし向けてしまった。王様でさえ欲情を押さえきれなかったのである。
ダビデはこう云う面では「悪(わる)」であった。他民族ならば、為政者のこう云
う破廉恥なことは隠すだろう。ところが旧約聖書では、社会的地位に関係なく、
良いことも、悪いことも、隠さずに両方が示されている。これは凄いことだと思
う。アブラハムの子孫には、優者もいれば、劣者もいる。神には善神と悪神がい
ると云う。ユダヤ人は真実に目を背けないのである。( すべてに悪と善の両者が
存在すると云う思想は古代ペルシャのゾロ・アスター教の影響と云われる。この
宗教が出た丁度その頃、旧約聖書が書かれた)。 ユダヤ人には、あいまいなこと
に納得せず、論理的に物事を追究すると云う気質がある。男女関係を戒める必要
を感じれば徹底して、それを実行する。そのために他者との闘争を厭わない。こ
のように自己の思考に拘り続けるから、他の民族から嫌われた。4000年間「迫害
された歴史」がそれを示していると思う。砂漠の中の生活がそう云う気質を育ん
だのか、ユダヤ人の血統の故( DNAの中に伝達物質が隠されている )のか解らな
い。 今まで、 ユダヤ人は守銭奴であると云う西欧の誤ったイージが我々にも先
行したきらいがある。島国根性を離れて世界の荒波へ飛び込まなければならない
日本民族は、進んでユダヤ人の根性を研究し、よいところを見習わなければなら
ないと考える。



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