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真珠湾奇襲はペリー来航の脅迫の復讐だった 岸田 秀
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1077.html
投稿者 TORA 日時 2004 年 6 月 18 日 16:02:53:CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu73.htm

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岸田 秀(著)「日本がアメリカを赦す日」
真珠湾奇襲はペリー来航の脅迫の復讐だった

2004年6月18日 金曜日

◆第一章アメリカの子分としての近代日本

そもそも近代日本はアメリカの子分として出発しました。一八五三年、ペリーが浦賀にやってきたとき、最初のうちは、一部の日本人は、尊皇撰夷を唱えて低抗しました。一部の藩や、勤王の志士たちは、今の言葉で言えば、「反米」だったわけですね。しかし、十数年前のアヘン戦争で中国が惨敗した情報も伝わってきていたし、ペリーは強硬だったし、彼我の戦力差を知っていた幕府としては、江戸の町をアメリカ海軍の砲撃に晒すわけにもゆかず、親米路線を取らざるを得なかったわけです。

そこで、翌年には日米和親条約を結びました。言うまでもなく、この条約は、不平等条約でしたから、この条約を結んだということは、アメリカの属国、植民地になったということです。言ってみれば、アメリカの子分の位置に収まったということですね。日本では、一般に、アジアで植民地にならず、独立を保ったのは、タイを別にすれば、日本だけだと考えられているようですが、そして、そのことは日本民族の優秀さの根拠とされているようですが、これは自己欺聴ではないかと思います。独立国とは主権をもっている国のことで、主権には裁判権や関税自主権が含まれています。不平等条約はこのような主権の不可欠の一部を放棄しているのですから、不平等条約を結んだということは独立国ではなくなったということです。

◆被害者から加害者へ

しかし、やむを得なかったとはいえ、幕府のしたことは人々の誇りを大いに傷つけ、そのため幕府は国民の支持を失い、人気を失い、減びるべく運命づけられました。そのうち、尊皇撰夷を唱えていた連中が不人気の幕府を倒して政権を取り、明治政府を打ち立てましたが、国を運営してゆかなければならないとなれば、明治政府も、幕府の政策を引き継がざるを得ませんでした。すなわち、親分のアメリカ(および他のヨーロッパ諸国)に気に入られて、友好的に付き合おうとしたわけですが、そうするしかなかったわけです。

それがよくわかるのが、かなりあとになりますが、一九〇〇年の義和団事件です。当時の欧米諸国はみんな暴力団(「西欧の重荷」とか何とか言って正当化していましたが、スキがあれば武力で他民族、他国を侵略し搾取しようとしていたのですから、暴力団以外の何ものでもありませんでした)のようなもので、世界各地を荒らし回って今や中国という大きな餌食に襲いかかっていたわけです。

義和団事件は、欧米諸国による中国の植民地化と搾取に対して中国の民衆が反乱を起こした外国人排撃の事件で、言わば、中国の尊皇撰夷運動のようなものでしたから、まさに欧米諸国の植民地主義の被害を受けている日本としては、むしろ心情的にも道義的にも、反乱している中国の民衆の側に立ちたいし、立つべきところです。

しかし、日本は地の利もあって、諸外国のなかで一番多数の、二万もの兵隊を出しました。それで、主として日本軍が反乱を鎮圧したんです。そのときの日本軍は非常に勇敢で規律正しかったそうですよ。言わば、子分として立派な働きをしたわけで、親分の覚えめでたく信任を得たのです。とくに、イギリスとアメリカが日本は子分として使い物になる、頼りがいがあると信用し、好意をもったようです。

日本の一部には、同じく欧米諸国の植民地主義の被害者であるアジア諸国と手を組んで、欧米諸国に対抗しようとする動きもありましたが、当時の日本の指導者は、中国も朝鮮も頼りなくて、被害者たちと手を組んでいると、共倒れになるのではないかと恐れたのでした。日本は、義和団の鎮圧で得た信用と好意を足場にして、搾取される植民地のアジアから脱出し、搾取する暴力団の仲問に入れてもらおうとするわけです。被害者の一員であることをやめ、加害者側に回ろうとするわけです。つまり、脱亜入欧ということです。

そこで、暴力団同士のあいだに対立があることに目をつけ、英米暴力団にすりより、イギリスと同盟を結びました。南アフリカでポーア戦争に足を取られていたイギリスとしては、義和団事件を機に満州に居座ったロシアがさらに南下するのを恐れ、ロシアの押さえとして日本の軍事力が利用できると考えたのでしょう。日本は、ロシアが朝鮮に勢力を伸ばすことを恐れたということもありましたが、何よりも、世界の一等国と同盟できたことを喜びました。そして、イギリスとその友好国アメリカを後ろ盾にして、ロシア暴力団に敵対し、ロシアと戦争を始めたわけです。

日本は日露戦争に辛うじて勝ちましたが、はっきり言って、勝ったのは英米のお陰でした。日本人はいまも日本が日本のために戦争を始め、日本の実力で勝ったと思っているようですけれども、観点を変えれば、イギリスが、日本を援助し、日本を使って、ロシアと戦わせたと見ることもできます。日本はイギリスに便われたんですよ。少なくとも、イギリスはそう見ていたでしょうね。そして、アメリカも。

イギリスは、さすがに世界最大の植民帝国を築いただけあって、できるだけ自国兵を使わず、外国人を使って外国人と戦わせるのがうまいんですよ。インドのセポイの反乱(一八五七-五九年)をネパールのグルカ兵を使って鎮圧したように、日本を使ってロシアを撃退しようとしたのです。日本はその期待に応えたわけです。

大体、当時のロシアは革命勢力がはびこり、国は乱れていて、ロシア軍の士気も高くありませんでした。そういう幸運な条件がなかったら、日本は勝てなかったでしょう。幸運な条件はそれだけではなく、イギリスとアメリカは資金的にも日本に協力してくれました。当時のお金で二十億円ぐらいかかった軍事費の半分以上がロンドンとニューヨ-クの公債で得たものです。それから、日本海海戦に参加したロシア海軍の軍艦はすべてロシア製でしたが、日本側は、旗艦三笠を初め、戦艦はすべてイギリス製でした。ほかに、オランダ製の艦船もありました。日本が自力で勝ったわけではないんですよ。

日本は、一九〇五年三月、奉天会戦でようやく奉天(今の藩陽)を占領したものの、兵員も弾薬も消耗し、陸軍は力が尽きかけていました。日本陸軍がもうこれ以上は戦えないというギリギリのときに、幸運にも海軍が五月に日本海海戦で圧倒的勝利を得たわけです。それをきっかけにして、ちょうどいいときにアメリカが戦争を止めに入ってくれました。日本が講和の仲介を依頼したからですが、アメリカが引き受けてくれたことは、まさに好都合でした。日本からロシアに戦争止めましょうと言い出すわけにいかなかったわけですから。日本から言い出せば、弱みを見せ、負けを認めたことになり、ロシアを図に乗らせますからね。

アメリカは十年前の日清戦争のときにも講和を仲介してくれているんですよ。下関の講和会議です。今度はアメリカはポーツマスの講和会議。アメリカがそういうことをやってくれたのは、もちろん、対等な関係での友情や親切心からではなくて、親分として配下の子分の面倒を見たというこどですよ。そこで結ばれたポーツマス条約は、下関条約のときと違って賠償金はなく、,領土も樺太(ザハリン)の南半分をもらっただけだったので、国民の不満が爆発し、講和反対国民大会が日比谷で開かれ、各地に焼き討ち事件が起こりました。

日本政府が国民に嘘をっくようになったのは、いっからか知りませんが、このときすでに政府は嘘つきの体質をもっていました。要するに、明治政府は国民を信用していない政府でした。民衆は愚かだから、真実を知らせれば、馬鹿なことをしでかすかもしれない、適当に騙して導いてやるしかない、それが国民のためでもあると考えていたようです。

この嘘つき体質が明治政府以後の政府にも受け継がれ、日本の方針を誤らせた第一最大の原因です。結局、その後の歴史は、政府自身が、馬鹿にしていた民衆より馬鹿だったことを証明しました。とにかく嘘つきの明治政府は、国民に大勝利の宣伝ばかりしていて、もはや戦う余力はないことを隠していましたから、多大の犠牲を払わせられた国民がもっとやれという気になり、賠償金のない講和に反対するのは当然でした。政府は自分がついた嘘のしっぺ返しを受けたわけです。

日露戦争の勝因についても嘘で固めた物語が作られました。さっきも言ったように、この戦争に勝ったのは、主としてイギリスやアメリカなどの外国の協力、財政援助、武器援助のおかげです。敵のロシアについての情報も、日本自身、懸命に集めようとしましたが、そういう点でははるかに進歩していたイギリスからの情報は貴重でした。また、伊藤博文が恐露病患者と言われていたことからもわかるように、ロシアを非常に恐れていて、日本軍は、敵を侮らず、おのれの力の限界を知り、作戦や補給に関しては慎重な上にも慎重でした。それらの条件が揃って初めて、辛うじて勝ったのです。

ところが、そういう現実はあっちのほうへ追いやられ、日露戦争は、死を恐れぬ日本兵の勇気、巖難辛苦をものともしない攻撃精神、おのれをむなしゅうして公のために尽くす献身と自已犠牲、それに加えるに、天佑神助のゆえに勝ったということになりました。実際には、日露戦争のときの日本兵は、それほど勇敢でも自已犠牲的でもなく、かなり捕虜も出たと聞いております。

ついこのあいだまで百姓だった人がほとんどでしたから、当然ですがね。のちに、戦陣訓ですか、「生きて虜囚の辱めを受けず」なんて無茶なことを日本陸軍が掲げたのは、日本兵があまりにも簡単に捕虜になったので、それを警戒するあまり、反動が逆方向へ行き過ぎたのではないかとも考えられます。いずれにせよ、日露戦争の実際の勝因を隠蔽した結果、「死を恐れぬ勇敢な日本兵」という神語ができあがりました。

しかし、世の中に死を恐れぬ勇敢な人というのはたまにはいるかもしれませんが、もしいるとしても、めったにいるものではありません。めったにいない者を標準とするような、このような非現実的、誇大妄想的神話に縋ったということは、当時の日本がどれほど惨めな状況に追い込まれていたかということを示しています。

幕末にペリーに強姦されて以来、強姦されて、しかも、強姦犯人の男についてゆかねばならなかった女のような境遇にあった日本は、屈辱感、敗北感、劣等感に坤きつづけてきました。その屈辱感から逃れるためには、日露戦争は、外国の助けによってではなく、日本人自身の勇敢さや自己犠牲などの優れた資質、日本人自身の能力と努力によって、つまり日本民族の優秀さのゆえに勝ったのだというこの神話を是が非でも信じる必要がありました。この神話が、その後の日本を誤った道へと引きずり込んだ元凶であると僕は考えています。のちの日米戦争の惨敗の原因は、この神話です。いかなる場合でも、不愉快な現実を無視し、都合のいい神話を信じた代価は、本人の想像を絶するほど、高いものにつくのです。

◆敵意の醸成

日本が日露戦争に勝つまでは、とにかくアメリカは日本に対して好意的でした。アメリカは遅れた野蛮な日本を国際社会へと、近代文明へと導き入れてやったつもりだったし、そのことで当然、日本に感謝されていると思っていたし、さっきも言ったように、今後も日本を可愛い子分として面倒を見てやろうとしていたわけです。アジアにおけるアメリカの権力の拠点としても役立つしね。

日本が強姦された屈辱に呻き、アメリカを恨んでいるとは夢にも思っていませんでした。アメリカという国は、自分が相手のプライドを傷つけたことに鈍感で無神経です。これには歴史的理由があります。先住民のインディアンのプライドを奪い、虐殺して成り立った国なので、そういうことに鈍感で無神経でないと、身が持たないのです。

一九九七年から九八年にかけて、すなわち、ベトナム戦争後、二十数年を経て初めて、当時の国防長官であったマクナマラら、アメリカ軍関係者と、グエン・ザップ将軍ら、当時のベトナム軍の要人とがこの戦争について検討し討論するという画期的な会談がハノイで開かれましたが、マクナマラは、アメリカと戦えば多大の死傷者が出ることはわかっているのだから、ベトナムはすぐ降伏すると思った、そうしなかったのはベトナム当局が国民の犠牲を気にしていなかったからに違いないと無神経な発言をしてベトナム側をえらく怒らせました。

「費用対効果」を正確に計算するコンピューター言われたマクナマラも、ベトナム人が多大の犠牲を払っても(大東亜戦争の日本人の死者数とほぽ同じ、三百万のベトナム人が死にました)プライドを守るために戦うという可能性を計算に入れなかったのでした。これは多くのアメリカ人の対人知覚の冒点ではないかと思われます。自分以外の人間の行動におけるプライドという動機が見えないのです。

「一寸の虫にも五分の魂」があることがわからないのです。この盲点のため、アメリカは国際関係で、起こさなくてもいい悶着をたびたび起こしているようです。日米戦争のアメリカ側の原因の一つはここにあったかもしれません。アメリカは日本があれほど死にもの狂いになって刃向かってくるとは予想していなかったようです。

しかし、日本側にも盲点がなかったわけではありません。僕は、ずうっと以前から、とくにアメリカとの関係において、近代日本が、外国を崇拝し憧憬する卑屈な外的自已と、外国を嫌い憎む誇大妄想的な内的自己とに分裂していると主張してきましたが、日露戦争に勝つまでは、日本は、内的自已を押し隠し、外的自已を前面に出し、身の程をわきまえてアメリカの期待に沿い、子分のように振る舞っていました。

しかし、日露戦争に勝って、その真の勝因を見ず、自分の実力のみで勝ったと已惚れてしまった日本は、それまで抑えていた内的自已を表に出し始めます。親分のつもりのアメリカは非常に癩に障ったのではないかと思います。なんだ、子分のくせに威張りやがって、自分で勝った気になりやがって、と。ちょっと甘い顔を見せてやれば、いい気になりやがって、と。そこで、アメリカは日露戦争の二年後、一九〇七年にはもう上下両院で日本移民制限法を可決するんですよ。日本はびっくりしました。

一九世紀の終わりから二〇世紀の初めにかけて、アメリカは米西戦争に勝ってグアムやフィリピンを獲得し、日本は日清・日露の両戦役、さらに第一次大戦に勝って朝鮮、台湾、満州、南洋諸島に地歩を固め、両国が太平洋で向かい合う形になったことが、両国の対立の背景にありました。

一九〇九年に、アメリカから満鉄(南満州鉄道)の共同経営の申し込みがあったでしょう。日本はそれを蹴るんですよね。アメリヵは露骨に嫌な顔をしました。もちろん、後知恵ですが、当時の日本の経済的・軍事的実力、国際関係を考えれば、受け入れるべきではなかったかと思います。受け入れていれば、満州開拓の資金にそれほど困ることもなく、ロシア・ソ連に対抗するための軍事力もそれほどは要らず、さらに言えば、のちの日米戦争もなかったかもしれません。

しかし、舞い上がっていた当時の日本としては、自分の実力で勝って、権利はすべて自分にあると思っていましたから、なんだ、アメリカは、一人として血を流してもいないくせに横から乗り出してきやがって、とんでもない図々しいやつらだ、というふうに思ったのでしょうね。日露戦争で日本は、二十万人くらい戦死者を出し、大量の血を流したわけですから。大東亜戦争の三百十万人に比べれば少ないけれど、その前の日清戦争では二万人足らずだったわけで、その十倍は死んだのですから。日本としては、大変な犠牲を払ったという意識がありました。一人も死者を出していないアメリカとなんで共同経営なのだ、ということになっちゃうよね。日本からはアメリカが傲慢で厚顔無恥に見えたわけです。

他方、アメリカから見れば、子分のくせに日本は生意気だとなります。白人でもないのに植民地をもとうなんて、そもそも生意気過ぎるわけです。だから、ここでちよっと懲らしめておいたほうがいいと、いろいろ嫌がらせをする。そのあと、一九二四年には、以前の日本移民制限法どころではない排日移民法が制定され、目本人以外のアジア人は受け入れるけれど日本人だけはだめだということになりますね。

そういうふうにますます差別的になってくるわけです。それから、日本近海に大艦隊を派遣して軍事演習をしたりしてね。アメリカは、イラクがどうしたとか、中国がどうしたとか、何かがあると、アラビァ海や台湾沖で今でもそういうことをやるけれど、大艦隊の派遣は昔からの癖ですかね。とにかく、日本の神経を逆撫でするようなことをいろいろやります。

しかしまた、日本が無神経でアメリカの神経を逆撫でした面もあるんでしょうね。しかし、日米で、そのやり方は違っていたように思います。アメリカは意識的・意図的に日本をイライラさせ、日本はつい気づかずにアメリカをイライラさせたというふうに。日米の軍事力には格段の差があるし、アメリカを怒らせれば大変だということはわかっていますから、日本には意図的にアメリカをからかうほどの度胸はなかったですよ。

いま言った、日本近海でのアメリカ艦隊の軍事演習のときも、日本を威嚇しようとするアメリカの意図などに全然気がつかないふりをして、艦員の上陸を懇願し、大歓迎のパーティを開きました。日米友好のしるしにしようというわけです。もちろん、そのようなことでは日米関係は好転しませんでしたが……。

このように関係が敵対的になっていくときは、おたがいに双方がエスカレートしていくものです。反日と反米、嫌日と嫌米が。だから、おたがいさまのところもあり、どっちが悪かったかというのは難しいけどね。しかし、日本がアメリカに何もしないうちに、さきにペリー艦隊を寄越して日本を脅迫したのはアメリカですから、日米が平等に悪いわけではないですが:…・。いずれにせよ、日本はアメリカに対して実力的には圧倒的に弱いんだから、弱いほうが自分の力の限界を認識して、相手の気分を害し過ぎないように配慮すべきじゃなかったかなとも思うんだけど、しかし、プライドのこともあるし・・・。

◆真珠湾の意味

しかし、結局、日本はがまんしきれず、真珠湾奇襲ということになります。真珠湾を攻撃したのは、軍事作戦的には成功だったかもしれませんが、政治的にはもちろん大失敗です。しかし、心情的にはわからないでもない。

ハル・ノートなんて、日本を非常に馬鹿にしたもので、わざわざ承諾できそうにない厳しい条件を突き付けて日本をからかったのでしょうね。東京裁判で、インドのパール判事は、このようなものを突き付けられれば、「モナコ王国やルクセンブルグ大公国でもアメリカに宣戦しただろう」と言ったそうですが。

しかし、僕は思うんですが、日本も、アメリカの魂胆をよく理解して、アメリカと同じレベルに立ち、真剣に検討するようなしないような、承諾するようなしないようなあいまいな態度でアメリカをからかえばよかったんですよ。それでどうにかなったかというと、保証の限りではありませんがね。しかし、そもそも、日本政府にはそんな余裕はなかったんでしょうね。政権を握っていたのは、まじめで純情な(これは褒め言葉ではありません)軍人たちでしたからね。本気で怒ってしまった。

真珠湾奇襲には、アメリカに挑発された面もありますが、日本の側にも、こういうことは是非ともやってみたいという動機があったと思います。僕は、以前から、真珠湾奇襲はペリーの脅迫に対する復警だったのではないかと言っています。ご存じのように、ペリーは戦艦四隻を連れて浦賀にやってきて、言うことを聞かなければ江戸の町を砲撃するぞと脅かしました。そして、戦さになれば日本が負けるに決まっているから、降伏するときは、これを掲げればよいと、白旗を二本渡しました(松本健一『白旗伝説』)。このときの脅迫に屈した屈辱と恨みが、無意識的にせよ、日本人の心に底流し、八十八年後、真珠湾奇襲となって噴き出したというのが、僕の説です。

連合艦隊は、第一次攻撃で敵の戦艦四隻を撃沈し(ほかに、戦艦、軽巡洋艦、駆逐艦などにも損傷を与えていますが、主な戦果はこれです)、まだ十分、余力があったにもかかわらず、なぜか、第二次攻撃を中止しました。これは、戦史の不思議の一つとされています。僕に言わせれば、不思議でも何でもなく、日本を代表する連合艦隊は、かつて日本が江戸湾でペリーに戦艦四隻をもって脅迫されたということがあったので、真珠湾で戦艦四隻を沈めてこれでペリーに対する復讐は成ったと満足したから、取りあえず、それ以上の攻撃をやめたのではないかというわけです。これは、半分冗談ですがねえ。(P9〜P22)


岸田 秀(著)「日本がアメリカを赦す日」(文春文庫)
http://books.rakuten.co.jp/infoseek/NS/CSfLastGenGoodsPage_001.jsp?GOODS_NO=1679931

(私のコメント)
私は連日のようにアメリカの手先となっている政治家や官僚を攻撃していますが、いざアメリカの当局者と直接相対すると、どうしても過去の歴史のトラウマが出てきて弱腰になってしまうのでしょう。冷静に利害計算をして対応すれば怖くはない相手なのですが、自らの神話を作り上げてそれにとらわれると、引っ込みが付かなくなって暴走してしまう。

日露戦争で勝てたのは当時の日本政府も軍人達もアメリカやイギリスのおかげだとわかっていたのですが、日本国民に対しては日本軍が優秀で独力で勝ったと宣伝したからなのですが、その神話の為に日本人達は誇大妄想的になり真珠湾奇襲まで突っ走ってしまった。

当時の日本国民もどうして日露戦争を冷静に見る事が出来なかったのだろう。ポーツマス条約で講和が出来なければ日本軍はロシア軍に負けたのは間違いない。無敵日本軍の神話を勝手に作り上げ国際情勢を冷静に見る目を失ってしまったのは、当時のジャーナリズムのせいだ。

そのような癖は現代でも治ってはおらず、戦後の高度経済成長は大蔵省や通産官僚の経済政策が優れていたからと言う神話が作られ、アメリカが陰に陽にバックアップしてくれたことを忘れている。バブル崩壊以降の日本経済の低迷もアメリカの政策が「日本叩き落とし戦略」に変わったからですが、大蔵省や通産官僚が優秀だったのならとっくに経済は立ち直っているはずだ。

これからもアメリカの対日政策は厳しさを増す一方だろう。戦後の一時期は政治家や官僚にとっては天国のような時期で、アメリカの言いなりになってさえいれば万事順調だったのですが、その事が忘れられずに日本の権力者達は親米でありさえすればすべて上手く行くという神話にとらわれている。

かといってアメリカと敵対せよというわけではなく、是々非々で付かず離れず面従腹背で、したたかな計算と打算でアメリカと協力していかなければならない。しかし日本の政治家や官僚にそれだけしたたかな外交ができるかというと無理かもしれない。以前の日記でアメリカはヤクザの親分と思えばいいと書きましたが、忠誠を尽くすように見せかけて自己の利益を図るしたたかさが必要だ。

状況からすれば日本は明らかにアメリカの植民地なのですが、日本の為政者達は日本が独立国であると国民を騙し続けているのだ。国民に植民地であることがばれてしまうと国会議員なんか必要ないではないかということになり、800人あまりの国会議員は失業してしまう。常にアメリカの許しがないと何も出来ない日本政府は単なる飾りなのだ。

戦前の歴史を見ても日本はどうしてもっと柔軟な対応が出来なかったのだろう。特に日露戦争後の対米外交は双方が挑発しあって引っ込みが付かなくなってしまったが、出したり引いたりの駆け引きがまるで出来ない。国民も強行一点張りになり為政者もブレーキが利かなくなり太平洋戦争の開戦責任は軍部より国民と国民を煽ったジャーナリズムにある。

このような状況をどのようにしたら打開できるかは「日本がアメリカを赦す日」を読んでいただくとして、現代の日本の状況を次のように指摘している。

◆現実の否認

だから、本釆なら、日本は非常な屈辱を感じているはずなのです。ところが、それほど屈辱を感じているようには見えません。日本は屈辱を感じてはいるが、それを抑圧していると、僕は見ていますね。外から見ればアメリカの子分であるのは明らかなのに、日本人だけがそう思っていない。あるいは、心のどこかでは知っているのだが、見て見ぬふりをしています。

要するに、自己欺瞞しているわけで、自已欺瞞が戦後日本の最大の特徴です。戦後日本は、いろいろな問題に直面するたびに、解決を見出す手前でこの自已欺瞞の壁にぶつかって跳ね返され、未解決のままにしておかざるを得なくなっています。この壁をぶち破ってその向こう側に出れば、解決の道が見えてくる可能性があるのですが、それができないのです。そのため、イライラと欲求不満が溜まりに溜まっています。

戦後日本人の不安定感、閉塞感、抑鬱、居心地の悪さなどの多くは、この自已欺瞞のせいではないかと思います。では、どうすればいいのでしょうか。僕に言わせれば、被占領国なんだから被占領状態にあることを認識することがまず第一歩ですね。そして、この被占領状態を解消する力があれば解消する方向に向かえばいいし、被占領状態を解消する力がなく、どうしようもないのであれぱ、被占領状態であるという現実を認識した上で、それを甘受し、時機を待つべきですよ。(P40)


(私のコメント)
日本の政治家や世論をリードすべきジャーナリズムは日本国民のいらいらと欲求不満の現状を気付こうともしないで、テレビなどの3S政策で愚民化することで誤魔化そうとしている。だから森前総理のように選挙でも「家で寝ていてくれたほうがいい」という発言が出たりする。ジャーナリズムも戦前と同じく政府の広報機関となって御用記事しか書かなくなった。

だからテレビと新聞だけでは世の中がどうなっているのかわからずイライラばかりが募ってゆく。いずれ沸騰点に達して集団ヒステリーになるかもしれませんが、戦前のような間違いはしてほしくない。イラクへの自衛隊派遣もイケイケムードで行っていますがアメリカの罠であることに気付いている国民はほとんどいない。

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