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原理主義のアメリカに追従する日本(拡大EUの意義)
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投稿者 鷹眼乃見物 日時 2004 年 6 月 23 日 06:32:28:YqqS.BdzuYk56
 

 メルロ=ポンティ(M.Merleau=Ponty/1908-1961/フッサールの現象学に大きな影響を受けたフランスの哲学者)は、著書『眼と精神』(滝浦・木田共訳、みすず書房)のなかで、「時間性の『超出』」ということについて次のようなことを述べています。(なお、「時間性の『超出』」とは、普通の言葉でいえば「時間の次元から抜け出して、時間の流れから自由になる」ということです。)・・・我われは、この「おのずからなる
『世界の定立(あるものごとの内容を抽出し固定する思考作用)』を“それに加わることなく”眺めるわけであるが、これは“真であろうと望む”どんな思想にも必要な条件である。・・・(途中略)・・・確かに、“現実世界とのあいだに交わされた”契約である「現象学的還元」は、我われの思考と我われの個性的な物理的・社会的状況とのあいだの、生によって設定された裂け目ではあるが、だからといって我われは、いわば時間に割れ目を作ったり時間を超えたり、純粋理論や純粋思考の領域に移ったりさせて貰えるわけではない。フッサール(Edmund Husserl/1859-1938/ドイツの哲学者、現象学の創始者)が認めているのは、ただ、時間を生きるにもいろいろな生き方があるということである。時間を生きる受動的な生き方があり、そのとき我われは時間の内部に属し、時間を押付けられることになる。これが「内時間性」と呼ばれるものである。また、反対に、我われは時間を捉えなおし、自分で時間を展開させることもできる。が、いずれにしても、我われは時間的に存在するのであって、時間の彼方に移れるわけではない。伝統がおしえるとおりに、なるほど哲学は永遠の真理の学問だといってもよ良いかもしれないが、むしろ正確には、フッサールがその生涯の最後の時期にいったように、哲学は時間の秩序をまったく脱してしまうような真理の学というより、「偏時間的」なものについての学、つまり、常にすべての時間に妥当するものについての学である。つまり、時間性を深めるということはあっても、「時間性の『超出』」ということはありえないのである。・・・
 「現象学的還元」とは、フッサール現象学の出発点となる重要な概念であり、それを一言で表現するのは困難です。しかし、敢えて乱暴な言い方をすれば、それは“実在する対象を持つ表象(実在する対象から離れられない表象)”と“実在する対象を持たない表象(実在する対象から離れている表象)”を区別して意識し、前者の視点まで自分の現在の意識を引き戻す(還元する)ということです。言い換えれば、フッサールは、“今、その瞬間における”前者のような「直接的・主観的」光景こそが人間の「根源的な現実体験」だと考えた訳です。無論、我われが日常生活を送る場面では、ほとんどの場合、後者のような派生的な「客観性」を帯びた光景として周辺世界を見ているはずであり、だからこそ前者に対して「還元」という言葉が使われているのです。フッサールの現象学は、このような〈純粋意識〉で現実世界を見るように我われのものの見方を転換し、そこから多様な意味の形成体が成立する過程を分析的に記述しようと試みたのです。そうすることによって、フッサールは、20世紀初頭の論理実証主義的及び心理主義的手法ゆえに行きづまっていた諸科学のなかに〈新しい意味と価値〉のカテゴリーを回復し、新たな哲学の役割を創造しようと試みたのです。しかし、メルロ=ポンティが指摘するように、フッサールの「現象学的還元」は時間性までを「超出」する(還元できる)ものではありません。同じく、メルロ=ポンティによればフッサールは次のようなことも述べています。・・・我われの「思考の法則」とは、我われにとっては「存在の法則」(現実的な物象が時間とともに千変万化してゆくという意味での因果律)なのであり、しかもそれは、我われが神などの前人格的思考と交流するからではなく、むしろそれらの法則の及ぶ範囲が、我われにとっては、我われがその存在を肯定し得るすべてのものの範囲とまったく相い覆うからである。そして、たとえ我われがそれとは別の、それに矛盾するような法則、たとえば神とか天使のような何か超人間的な思考を想定しようと思っても、この新しい原理に何らかの意味を認めるためには、我われはそれを「自分の思考法則」のもとに包摂しなければならないであろうし、そうだとしてみれば、結局、そうした超人間的思考など、我われにとっては無きに等しいものなのだ。・・・
  ここでメルロ=ポンティが説明しているのがフッサールの「現象学的実証主義」という立場です。それは、<事実>に先立つ何らかの<権利>によって合理性や多数の人々の一致とか普遍的論理といったものを基礎づけることを拒否する態度です。つまり、我われの思考の普遍的価値は、事実を離れた<権利>にもとづくのではないのです。そして、実はこのような考え方の原型は13世紀のスコットランドの神学者、ヨハネス・ドウンス・スコトウスの「神と人間の自由意志についての考察」(2004.6.15〜16付けBlog「現代人の『自由意志』についての誤解」http://blog.nettribe.org/btblog.php?bid=9816b255425415106544e90ea752fa1d、参照)のなかにあると考えられます。誤解を恐れずにスコトウスの考えを端的に言えば、小賢しい「人間の知性・理性」は単に「純粋な論理可能性」であるに過ぎず、そこに「実質的な核となる内容」(生きた現実の人間が納得できる意味)が初めから存在することはあり得ないということです。また、近代における自我の基盤である「人間の自由意志」にしても、それは、ただ「自由である」ことだけを根拠とする能力であり、それ以外の根拠は何も存在しない空虚なものなのです。だからこそ、「人間の自由意志」はそれを正しい方向へ導いてくれる「聖霊」(神の意志と理性の現れ)の助けが必要になるのです。そして、キリスト教の歴史のなかには、このような謙虚で敬虔な信仰心を実践した人々の痕跡が残っており、それらは細々ながらも現代のキリスト教各派の中に残存しています。例えば、それは16世紀ドイツ・プロテスタントの一派である「キリスト教敬虔主義」であり、同じく16世紀にネーデルラントから北フランス一帯に広まっていた「カトリック・福音主義」の立場です。これらの立場の大きな特徴は、謙虚な信仰心を実生活のなかでバランスよく実践するということです。そして、彼らは様々な人間の生き方や多様な文化を受け入れるだけの寛容な態度を身につけています。このように見てくると、フッサールの「現象学的実証主義」、ヨハネス・ドウンス・スコトウスの「自由意志の神学」(この「スコトウスの誤解」が近代の一部を創ったことも事実であるが・・・)、「カトリック・福音主義」、「プロテスタント・キリスト教敬虔主義」などが宗教「原理主義」的な立場とまったく異なることが理解できるはずです。
  ところで、フッサールは「現象学的還元」を説明するために“この瞬間における人間の根源的な現実体験”、つまり直接的・主観的な光景のことを「本質直観」(Wesensschau)と名付けています。同時に、フッサールはこの「本質直観」(Wesensschau)という言葉に神秘的な意味やプラトン主義的意味を与えてはならないと言っています。フッサールの「本質直観」という用語は、実生活の経験とまったく無縁な、したがって例外的条件のもとでしか働かないような超感覚的な能力(例えば狂信的、カルト的などの)の使用を意味してはいないのです。大事なことは、我われが自分たちの具体的な経験のなかでの「本質直観」によって、そこにある偶然的な事実以上のものに関する、ある一定の「知的な構造」、つまり「一つの新しい認識」を手に入れる(発見する)ということです。このようにして、我われは自分たちの特殊な内輪の生活に閉じこもることなく、あらゆる人々に開かれ、妥当する知識や認識にに近づくことができるのです。我われの意識が、単なる一定の事実や出来事に尽きるのではなく、そしてこれらの出来事がすべて意味のあるものである限り、我われは自分だけの特殊性を乗り越えることができるのです。つまり、「本質直観」の目的とは、「偏時間的」(絶対に我われ人間は時間の流れから超出できないこと/これが現実(リアリズム)ということの条件でもある!)な人間の生き方において未だ主題化されていない「未知の意味」を発見することなのです。このように考えてくると、フッサールの現象学が、現代世界の混迷を突破するための有効な手段の一つであることが分かるはずです。
  我われ人類は、ヨハネス・ドウンス・スコトウスの「自由意志の神学」、「フッサール現象学」、「カトリック・福音主義」、「プロテスタント敬虔主義」などのように優れた英知に恵まれていますが、一方では「原理主義」という名の愚昧な精神の誘惑にも絶えず晒されているのです。特に、現在のアメリカブッシュ政権における政治・軍事・外交など「一国主義」の推進は、ネオコン(Neoconservatives/新保守主義者たち)と呼ばれる「原理主義的政治哲学者」たちが牛耳っています。ネオコンの思想的背景はシカゴ大学の政治学者、レオ・シュトラウス(Leo Strauss/1899-1973・・・後継者はアラン・ブルーム(Allan Bloom)教授)を信奉するシュトラウス学派(政治学分野で唯一の学派を形成)であり、レオ・シュトラウスはシカゴ大学でカール・シュミット(Carl Schumit/1888-1985/ナチズムの思想家だがユダヤ人であったため、後にナチから排除されシカゴ大学へ移った政治学者)と研究上の交流があり、シュミットもシュトラウスもユダヤ教徒です。このため、ネオコンを「シオニズム+ナチズム」から誕生した、危険で異常なアメリカの右翼思想家たちであると短絡して捉える向きもあるようです。しかし、レオ・シュトラウスの出発点はハイデッガー、ヴィットゲンシュタイン、ホッブズ、中世イスラムとタルムード(ユダヤ典範)の研究であり、さらにソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの古代ギリシア哲学まで遡っており、極めて奥が深く、そのように単純なものではないようです。
 彼らの立場は、迷路に嵌まり込んだ《近代》を2千年にも及ぶ壮大な思想体系を背景に《根底から批判して、古代ギリシア時代の古典的政治的合理主義を再生しようとする》という意味では、前代未聞の《新しい保守の立場》であるとも言えるでしょう。強いて言えば、ネオコンは、深遠でエソテリック(esoteric/秘教的)な表現を好んでラジカルなほど批判的な姿勢を貫いた難解な政治哲学者レオ・シュトラウスを、自分たちに都合がよくなるよう解釈しているのだと思われます。
 冷戦構造が崩壊した後の世界は、IT技術やグローバリズムが進展する中で今まで世界の基盤となっていた構造が流動化しつつあり、その傾向が2001.9.11「N.Y.同時多発テロ事件」以降、特に顕著になったのは確かです。そこで、現代までの発展史観を前提にして、私たちが進むべき方向を大きく整理してみると三つの道筋が考えられます。
@近代啓蒙思想の出発点となった自然権・自由・平等など「人間の基本的権利」について根本から再検討して“新しい中央集権的な観点”から状況の変化に見合う着地点を模索し、アメリカン・スタンダードを受け入れて早急な「構造改革」に取り組む。日本の現政権はこの道を進んでいます。(ワシントンコンセンサスに沿った新自由主義的な方向)
A@と同じスタート・ラインだが、原理主義的に無理な着地点を求めず、地方分権と地域条件や歴史的条件などに配慮しながら、多極分散・連携・弱者救済を重んじて漸進的な改良・改善に取り組む。(アンチ・ワシントンコンセンサスの新しい人権重視主義、ヨーロッパ型の環境・福祉重視主義の方向)
B何よりも安全と安定を最優先して、従来の路線を慎重に進んでゆく。(旧来を墨守する伝統的な保守主義) 
 シュトラウス(及び、その影響下のネオコン)の近代批判は、これらの三つと根本的に異なります。それは、まず近代主義の出発点となったホッブズまで一気に遡り、ホッブズの最も重要な著書『リバイアサン』を再解釈・再検証することから始まります。その結論を端的に言うと、理性の根本を支える哲学的パラダイムを《性善説》」から《性悪説》へ転換するということです。『リバイアサン』には「人間の自己保存の問題」(=正当防衛の権利)という論点があります。ここを出発点として近代啓蒙主義の発展過程の全体を根底から批判します。また、シュミットの影響も受けているネオコンの考え方の根本には「悪を見逃す中庸・寛容=悪、憲法の番人としての独裁=善」というものがあります。どうやら、この辺りがネオコン(=ブッシュ政権)の“発想の異質性”を私たちに印象づけているようです。
  もう一つ厄介なことがあります、それはブッシュ政権がもう一つの原理主義、つまりキリストの「福音」を曲解した米国プロテスタント保守派の「宗教原理主義(狂信的カルト)」の虜となっていることです。(アメリカのキリスト教原理主義についての詳細は2004.06.01当Blog「『福音』を曲げたプロテスタント保守派に追随する日本」、参照)そして、ブッシュの「先制攻撃論」(テロとの戦い)の根拠は、この米国プロテスタント保守派が主張する「救済暴力論」です。これは、新約聖書の「ヨハネの黙示録」に由来する「千年王国論」に基づき、悪に支配された世界を最終的に救うには、「暴力(戦争)による破壊」が必要だとする考え方です。「千年王国論」には二つの考え方があり、それは「前千年王国論」と「後千年王国論」です。前者は“キリストの再臨とそれに続く戦争の時代が来ない限りキリスト教徒の世界支配は実現しない”という考え方で、後者は“キリスト教徒は、キリストの再臨の前に戦争に勝って世界を支配する”という考え方です。いずれにしても、戦争で悪の枢軸を抹殺しなければキリスト教徒が考える世界の平和は実現しないという、まさにイスラム原理主義にも劣らぬ“狂信的な考え方”です。このようなキリスト教原理主義の特徴は、聖書に書いてある神の国がリアルな実在のもの(現実)と考える点にあり、そこには、フッサールの「本質直観」に見られるような、人間の社会(世界)で未だ主題化されていない「未知の意味」を発見するという、時間とともに生きる人間としての柔軟な視点がまったく欠落しています。
  このような二つの「原理主義」が合流して「ブッシュ政権のシナリオ」が作られていますが、その特徴を見るため下記著書(●)の要点を再録します。(詳細は2004.01.25当Blog「和主義は誤った道徳的孤立主義か?(1/2)」、参照)著者フラムは、2002.1.29に行われたブッシュ大統領の一般教書演説に盛り込まれた「悪の枢軸」(axis of evil)の名コピーを作ったネオコンの論客です。彼は、共著者のリチャード・パールとともに、ともかくもバグダット制圧とフセイン大統領拘束が「テロとの戦い」のメルクマールとなったと断言し、次の段階の重要ステップとして以下の諸点を掲げています。●David Fram『An End to Evil:How to win the Wa on Terror』(Random House)
(1)イランのイスラム保守派体制を打倒し、シリアのテロリスト政権を追放する
(2)サウジアラビアの現政権はアメリカの国家安全保障にとって危険である(もはや役に立たないということ)
(3)ヨーロッパ諸国の中で、特にフランスは同盟相手というより危険なライバルである
(4)アメリカの希望どおりの国連憲章改編が不可能なら、アメリカはテロから身を守るため国連を脱退する
(5)北朝鮮の核問題の外交解決が破綻したら、武力制圧に備え北朝鮮を封鎖する
(6)パレスチナ国家の独立はアメリカの安全保障にとって害になる
(7)アメリカへの入国管理を強化し、米国民総IDカード化を実現する
(8)米軍を対テロ戦争用に近代化する、またCIA、FBIを国防総省の下に統合・改編する(米軍に対する国務省の支配を終わらせる)/例えば、太平洋では軍事協力を枢軸とした日米同盟強化を併行させ、座間(神奈川)など日本の米軍基地を増強し、横須賀港に原子力空母を配備する
  ここに見られるイデオロギーを一口で言えば、「世界の現実から意図的に目を逸らした、あまりにも硬直化して非人間的な統制・管理・軍事国家アメリカの実現」ということであり、もし、このとおり計画が運ぶとするなら米国内の民主主義体制は名ばかりとなり、その異質性ゆえにアメリカ自身が世界の「悪の枢軸」化することになるでしょう。これでは、まるで三流SFの悪夢の世界ではありませんか!このような、いわば狂気のイディオロギーに引きずられるアメリカ・ブッシュ政権に追従するばかりの日本政府のトップ・リーダーたちは何を考えているのでしょうか?(何も考えていないのかもしれませんが・・・)少しは、人間そのものを理解するために「フッサールの現象学」でも齧ってみて欲しいものです。
  一方、ヨーロッパに目を転じると、拡大EU(欧州連合)では、生みの苦しみを味わいながらも、着々と新たな国家像への模索が進んでいます。去る6月18日の夜に、EU首脳会議は、25カ国からなる大欧州の基本法、「EU憲法」を全会一致で採択しました。EU憲法が目指すのは経済・防衛・外交・司法に及ぶ広範囲の連繋と協調です。同憲法は、今後、各国議会や国民投票による批准にかけられ、すべての加盟国の承認を経て発効することになり、2009年までの発効を予定しています。また、その中では国旗と国家(ベートーベンの歓喜の歌)もが制定されています。この憲法は前文、本文(4部)、付属文書の構成です。その前文では、分断と対立の歴史を乗り越えて再統合を果たした東西欧州が、“多様性のなかの統一”の名の下に平和と繁栄への道を進むことを宣言しています。また、第1部では、民主主義、人権、法の支配の原則などの原則規定とともに、地球環境の保護、持続的経済発展、社会的市場経済主義、文化・言語等の多様性の尊重などEUらしい価値観を強調しています。また、第2部には、死刑の廃止を定めた基本憲章が盛り込まれています。なお、基本的な問題点としては英国が代表する「連合的国家」(ゆるい国家協力組織)と独仏などが代表する「連邦的国家」の基本的な立場の違いなどがあります。従って、まだまだ前途多難が予測されますが、それにもかかわらず、我われアジア諸国も、EUが本格的に取り組み始めた新しい国家関係や、新しい政治・経済・社会政策のあり方などには大いに注目しなければなりません。その他の「EU憲法」の特徴を列挙すると次のとおりです。
●新たな多数決ルール(閣僚理事会の意志決定方式)
・・・加盟国の少なくとも55%が賛成し、賛成国の人口がEU人口の65%以上となることを可決の基本条件とする。全会一致方式では迅速な意思決定ができないという認識を持つ。
●市民参加と民意の十分な反映の促進(準立法機関としての欧州議会の権限の強化)
・・・民意を十分反映させるために、直接選挙で選ばれる「欧州議会」に欧州委員長の選出権を与える。100万人の市民の要求があれば、「欧州委員会」に法案作成を求める権利を定めた。
●大統領、外相の創設
  このようなEUによる欧州統合の理念の根本には、人類の戦争と殺戮の歴史に謙虚に学びながら、新たな民主主義と市民参加の政治の仕組みを創造しようとする意志があります。そこには、フッサールの「本質直観」に見られるような、人間の社会(世界)で未だ主題化されていない「未知の意味」を発見するという、時間とともに生きる人間としての柔軟な視点が明らかに存在しています。そして、これとまったく逆の道を進もうとしているのがブッシュ政権のアメリカと、それに追従するばかりのアナクロニズムに取り憑かれたような今の日本です。我われ日本人は、何のために日本や世界の歴史を学校教育で学んできたのでしょうか?また、明らかに、現在のブッシュ政権は“時間の次元から抜け出して、現実の時間の流れ(歴史)からさえ自由になれる”という、絶対にあり得ない狂信的イデオロギー(プロテスタント保守主義&ネオコン)に囚われています。このような観点から見ると、現在の日本人は歴史的にも未経験の危機の瀬戸際に立たされているのです。最新のル・モンド・ディプロマティック紙(フランスの保守系新聞)が、きわめて辛辣な日本政府に対する批判記事を載せたという情報がありますが、欧州諸国の日本(超反動化している)に対する見方が厳しくなりつつあることも自覚すべき時なのかもしれません。
我われ日本人は、アメリカのイラク攻撃の前夜にエジプト・カイロでサイードとスラーニの次のような対談が行われたことを想起し、新たに記憶すべきです。
●2003.5.6、AM10:00〜11:00NHKBS-2/BSプラスタイム『サイードとラジ.K.スラーニの対話』
・・・この対談は、アメリカのイラク攻撃の前夜にエジプト・カイロのアメリカン大学で行われサイードの講演の直前に行われたものです。
 両人ともパレスチナ人で、スラーニはパレスチナに家族と住みながら、パレスチナ人の人権を守るために、命をかけて、地道で厳しい弁護士の仕事に日々取り組んでいる人物です。サイード(アメリカ国籍)はニューヨークのコロンビア大学教授(67歳)(父親がアメリカ軍の戦争に従軍したため「アメリカ国籍」を入手)で、帝国主義の本性を抉った、あまりにも有名な『オリエンタリズム』の著者ですが、彼は惜しくも、その後に死去しました。サイードは、長く白血病と闘いながら、健全な民主主義を実現するという立場で精力的に仕事に取り組んできたのです。この対談(番組)の中で、現在のアメリカの軍事力による「一国覇権主義」は新しい帝国主義であり、アメリカ国民の全てがこれを支持しているわけではないと、サイードは強調していました。
 対談の結論は、南アフリカのアパルトヘイト闘争で平和的に勝利したマンデラの活動に学ぶべきであること、つまり強圧的な権力(軍事体制)への抵抗は、テロリストのような武力に訴えるのではなく、言論活動と市民ネットワークの構築が大切だということです。ポイントは、知恵・知識・情報とペンを武器にして人権と倫理重視の姿勢を貫くこと、そして、民主主義の原則である“国民一人一票の選挙権”を大切にすることだと強調していました。(この理念は、ほとんどがEU憲法に取り入れられています!)・・・サイードが引用したA.グラムシ(伊/1891-1937/思想家、対ファシズム活動で獄死)の言葉(後記)が印象的です。[A.グラムシ:《知性の悲観主義と意志の楽観主義》]

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