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北田暁大インタビュー 2ちゃんねるに《リベラル》の花束を Excite エキサイト ブックス
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投稿者 なるほど 日時 2004 年 4 月 30 日 19:06:20:dfhdU2/i2Qkk2
 

北田暁大インタビュー 2ちゃんねるに《リベラル》の花束を
スペシャルインタビュー Excite エキサイト ブックス

北田 暁大 (きただ・あきひろ) 

1971年生まれ。東京大学文学部卒。同大学大学院人文社会研究科博士課程単位取得退学。筑波大学社会科学系講師を経て、現在東京大学社会情報研究所助教授。専攻は理論社会学、メディア史。哲学的な思考を援用したクリアな議論展開は、社会学のワクにとどまらない広い射程をもつ。現在、最も期待される若手知識人の一人。著書に『広告の誕生』(岩波書店)、『広告都市・東京』(廣済堂ライブラリー)など。2003年10月最新刊『責任と正義――リベラリズムの居場所』(勁草書房)を上梓。
http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/index.html



「なぜ人を殺してはならないのか」という問いを退ける社会学への苛立ち

――10月に出た新著『責任と正義――リベラリズムの居場所』は、値段的には学術書価格ですよね。でも読んでみると、難しい本ではありますけど、ふつうの学術書とは違って、ガチガチな印象は受けませんでした。膨大な文献が参照されてるし、他の思想家の話も随所に登場する。でも不思議と、ぐいぐい読まされるんです。時折はさまれる、やんちゃなツッコミも楽しめました。

北田 ここ5年間ぐらいボケーっとと考えていたことを独白調に書いたものなので、紀要論文みたいなものとは違う印象を受けるでしょうね。学問的な精密さや文献の量よりも、とりあえず考えられることを自分のなかで考えていこう、いつ出版するとか決めずにやってみよう、ということで書き始めたものですし。

――「あとがきにかえて」によれば、「なぜ人を殺してはならないのか」という問いを社会学的な思考は安易に退けてしまう、そのことに対する違和感がこの本の執筆するひとつのきっかけになったと。

北田 ええ。社会学という学問は、世の中のどんなことでも社会の関係の所産であるという思考をしますよね。すると、倫理的にどういう立場をとるかというと、「関係性の所産であるにもかかわらず、あたかも本質のよう存在して見えるもの」の解体を目指すべし、というようになります。たとえば、「セックス」とか「ジェンダー」「国民国家」といった概念がそうです。つまり、あらゆる事象を社会的な構築の所産としてみていく社会学のスタイルは、すべてのものは関係性のなかにあるんだ、関係性を離れて議論を展開するのは暴力なんだ、という倫理(物象化論)と相性がいいわけです。
そのときに、社会学的な――というより関係論的な――思考は「なぜ人を殺してはならないのか」という質問にどう答えるか。おそらく、人は人との関係性のなかで生きているんだから、そんな問いは無意味な問いだ、とわりとつまらない倫理に落ちちゃうんですね。

――なるほど。人間はもちつもたれつなんだから、そんな問いは無意味だと。

北田 そうです。だから、あの問い自体に社会学者が答えようとした形跡はほとんどない。答えを出すべく真剣に議論していたのは、倫理学者や哲学者、評論家の人たちでした。結局、あの問いに対する社会学の考え方は、ここ数年間で社会構築主義といわれているものと同じ発想だと思うんですね。たとえば、「セックス(生物学的な性)」という概念は、非歴史的な本質カテゴリーではなくて、関係性や歴史的な構築物なんだと考える。それは正しいわけですよ。正しいんだけど、それをすべての倫理的な問題に対してあてはめていけるかというと、そうはならないんじゃないかと。

――すべての人が、「先に関係ありき」を受け入れるわけじゃない?

北田 ええ。「なぜ人を殺してはならないのか」という問いは、社会学が前提とする思考(関係論)の臨界点に存在する問いだと思うんです。だからこそ、社会学者は真剣に考えなければいけない。タルコット・パーソンズという社会学の巨人はまさしくこの野蛮な問いからスタートしていたわけですが、次第に「関係論」が自明化されてしまったように思える。社会学の思考は関係性の論理にしか行きつかないのだろうか、いやそうではないんじゃないかということを自分なりに考えてみたいというのが出発点だったと思います。

――当初の問題意識から始まって、「リベラリズム」というでっかいテーマにつながったんですね。

北田 その点も社会学業界の話になるんですけど、社会学のなかではリベラリズム(自由主義)は非常に評判がよろしくない。「ラディカル」な社会学者は次のように考えます。自由主義は、「自由」「平等」「人権」という概念を、非歴史的な本質的価値と見なしてしまう。しかし、個々人による自由な決定という名のもとに、いかに抑圧的な政治・社会体制が築き上げられてきたか、あるいは、西洋ローカルな「人権」概念がどれほど暴力的な帝国主義に加担してきたか。そういうリベラリズムの政治性を考察しなくてはならない、と。

――なるほど。

北田 そうすると、簡単にリベラリズムにコミットするなんていうのは、社会学としては禁じ手になっちゃうんですね。

――じゃあ、社会学は何にコミットするんですか?

北田 特定の倫理にコミットするというよりは、各々の倫理の限界を示す。答えはひとつではないという形の啓蒙の仕方を取ります。それでいいと思いますけど、じゃあ僕たちはリベラリズム的な概念を手放すことができるんだろうか。「自由」や「自己決定」という概念の政治的な帰結や問題性は分析していくべきだけど、にもかかわらず「自由」や「自己決定」は必要だ、とぼくたちははどこかで考えている。だったら、社会学とリベラリズムのつきあい方というものを、リベラリズムの歴史的な経緯だけを追うのではないやり方で考えてみる必要がある。そこが本書のもうひとつのラインとしてありました。
http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/p01.html



《リベラル》は誰を説得できるのか

――いま話していただいた二つのライン――「なぜ人を殺してはならないのか」という問いと、リベラリズムを手放すことができるのかという問題――とのつながりが、まさにこの本の読みどころだと思うんです。
他人と関わりたいとか、将来自分がいい思いをしたいという、フツーの人間ならもっていそうな欲求をまったく欠いた人をどのように説得すれば、他者に危害を与えないかぎり何をしてもいいという《リベラル》、さらに公的なルールを私的なルールよりも優先させるリベラリズムを受け入れるようになるのか。このあたりの議論がとてもスリリングでした。

北田 「なぜ人を殺してはならないのか」「なぜ道徳的でなければならないのか」という問いは、常に誤解されて届いているような気がしていたんですね。答えを与えることで、どんどん問いが変質していってしまう。 だとすると、仮に説得するという場面設定をしてみたらどうかなと。すると、「なぜ人を殺してはならないのか」を説得できる人とできない人が出てくる。ここではこれぐらいの人が説得できずにこぼれおちましたと段階を踏んで、最後にようやくリベラリズムに辿り着く。

――実際に読んでみて、リベラリズムに辿り着くまでには、ずいぶんといろんなハードルがあるんだなと。
北田 そうですね。だから、大勢の人をこぼしたという事実を無視して、リベラリズムの優位性を前提にすることはできない。むしろ、こぼれ落ちた人たちが、どういうふうにしてこぼれたのかを書き留めて、最後に残ったリベラリズム共同体と彼らとの関係の仕方を考えてみたほうがいいんじゃないかと考えたんです。

――リベラリズム(自由主義者)の人がそれ以外の人と、どうつきあうかってことですね。合理性や道理性をそもそも欠いている非《リベラル》とは誰か、という線引き問題に触れた件も、胎児や脳死患者といった具体的な問題を扱っていることもあって、ぐいぐい読まされました。

北田 この本は、理論書として書いたつもりでいながら、僕自身はわりとポリティカルな人間なので、随所にジャーナリスティックな話が出てしまってます。ただ非常に抽象的な議論ではあっても、当然、現実社会と無縁の話ではありませんよね。たとえば少年犯罪が起こるたびに、少年法の適用年齢引き下げが話題になる。「加害者が保護されすぎている、もっと厳罰にしよう」という論調もけっこう強い。現代社会において、「他者を罰する」ということに対するためらいが減じているような気がするんです。

そもそも責任を問うとはどういうことで、判断能力をもっているとはどんなことなのか。リベラルな法やルールに従うことを丁寧に考えていくと、そうそう簡単に「いっそのこと小学生でも罰してしまえ」とか、心身喪失者に対して「悪いことした以上、"普通の"犯罪者と同じように罰を加えるべきだ」とはいえない。感情論に傾いた因果応報的な捉え方を断念しなければいけないというのが、リベラルな社会のルールなんです。
http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/p02.html



自己の相対化に耐えられないナイーヴな2ちゃんねらー

――この本が書店に並ぶのとほぼ同じころ、「世界」という雑誌に掲載された小論が、一部ではありますけど、大きな話題となりました。

北田 2ちゃん界隈ですね(笑)。

――それだけじゃないと思いますが……。でもタイトルが「嗤う日本のナショナリズム――『2ちゃんねる』にみるアイロニズムとロマン主義」ですから(笑)。北田さんは、2ちゃんをよくご覧になっているんですか?

北田 昔に比べると少なくなりましたね。あの論文の話ともつながりますけど、やっぱり2ちゃんがつまらなくなっているように思うんです。2ちゃんの面白さって、もともとは、学級委員みたいな存在を嗤うようなアイロニカルなコミュニケーションにあったんじゃないかと。ところが、そういう皮肉さみたいなものが少しずつ摩滅してきて、《繋がり》の持続だけを求める形式主義的な傾向が強くなった。そこに「嫌韓」とか「反サヨ」とか分かりやすいロマン的課題が流れ込んできてしまって、いつのまにか自分が正義の人、学級委員長になってしまっている。他人の自意識をせせら笑う皮肉屋自身が、誰よりもナイーブに自意識を肥大させているという感じでしょうか。

――ヘンテコリンな自意識の肥大の仕方ですね。自分を相対化することができないと?

北田 「お前モナー」ばかりが増殖して、「漏れモナー」がない。自分もバカにしながら、アイロニカルに世界を嗤う、それをおもしろく繋げていくという回路がなくなってきているような印象を受けます。あの論文でも、ナショナリズム云々よりも、自分を相対化することに耐えられないことのほうが大きな問題だと言いたかったわけです。それはリベラルな精神の欠如でもある。リベラリズムというのは、基本的にはアイロニーの思想だと思いますし。このことは2ちゃんだけじゃなくて、若者文化全般の変化と関係しているような感じがします。

――東浩紀さんが言っている「動物化」にもつながる話ですね。

北田 ええ。「現在」だけを生きていて歴史感覚がない。大学で学生を見ていても、そう感じることが少なくありません。ベックは聴くけど、ジェフ・ベックは知らないみたいな。2ちゃんも若い人は携帯で書き込んでいる人がけっこう多い。そうすると、スレッドを見ているかどうかも怪しいですよ。たった5分間の歴史すら参照しないんじゃないかと。ただただ《繋がり》だけのために反射的に書き込む。あの論文についても、ほんとに動物的に受容されてしまって。発売前に、2ちゃんの「ニュース速報」にいくつかスレッドが立ってました。

――すごい……

北田 誰も読んでない状況なのに、「コイツ(北田)はバカだ」と(笑)。岩波書店の『世界』に掲載されてる」→「左翼である」→「左翼はアホである」→「北田はアホである」。ゆえに読む必要なし、以上証明終了。そういうすごい論理で終わり(笑)。で、発売になったころには、議論はなくなっているんです。悲しいくらいにこの論文に書いたことが実証されてしまったわけです。

――そこまでいくと、歴史感覚以前だという気もしますが。ただ一般的にいっても、たしかに、ルーツを尋ねようという態度ってなくなりましたね。

北田 2ちゃん情報をそのまま受け取る人すらいますからね。「2ちゃんを見てはじめて韓国の人間はヒドイ奴らであることが分かった」と大マジメにいう学生を見たときはビックリしましたね。そういう学生が、たとえば「メディア批判」の大切さとか言う。2ちゃんねるを素で受けてる人がそんなこと言うなよって。まずは2ちゃんを「嗤う」リテラシーを身につけなくてはならない。
http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/p03.html



「動物」に届く言葉はあるか?

――今回、北田さんに話を聞きたいと思ったことの一つに、同世代の研究者ということがあったんです。同世代ということでいうと、東浩紀さん、『趣都の誕生』を書いた森川嘉一郎さん、ポピュラー音楽を研究している増田聡さんという人たちがみな、同じ年なんですね。で、書いたものを読むと、うっすらと共有されているものがあるんじゃないかなと。
北田 僕自身が、彼らの本や論文を読んで勉強させてもらっているというのもあるんですけど、たしかに「共通感覚」みたいなのを感じることもあります。この世代は、大学に入ったときはニューアカの匂いがほんのちょっとだけ残っていましたよね。

――ええ。

北田 ニューアカに惹かれつつ、でも終わってるんだよなとか思いながら、受容していたような感じがします。柄谷行人が好きな人もそこそこいましたし。そこには、独特の世代的な共有体験はあるのかもしれない。多分、ニューアカをバサっと斬り捨てられない、なんか影響受けちゃったんだよなっていう感覚というか。

――いまの学生は柄谷行人はまったく読まない?

北田 名前もキツイかもしれないですね。宮台真司さんでギリギリセーフというのが一般的な大学生。ニューアカって背伸びの感覚じゃないですか。中沢新一の本を読んでいると、意味がわからない数式が出てくる。それはなんだかわかんないんだけど、すごいことかもしれないので、とりあえずわかった気になろうという背伸びの感覚があったと思うんです。

でも、四年ほど前に大学で教えるようになってから、そういう背伸びの感覚が学生からまったく感じられない。だから、昔のニューアカ的な語り――フランス現代思想の言葉をおりまぜて世の中を分析する語り――というのが、もはや通じません。東さんのいう動物を生きている人たちに届ける言葉というのは、別の回路が必要なんじゃないかと。ニューアカ的なものを自分はこだわったんだけど、もうそれが伝わらないときにどういう言語を選ぶのか。それを考えないと、動物化する現実の社会で言葉をしゃべることの意味がわからなくなってくる。そんな感覚が彼らにもぼくにもあると思います。そういう構造的なもの、形式的なところで共鳴している部分があるのかもしれません。勝手な憶測ですが。

――そのときにどんな言葉で語るのかというのは、非常に難しい問題なのでは?

北田 ヘタ、ウマイというより、どの水準で語るかということのほうが重要だと思います。たとえばいまの大学生に、サブカルチャーの歴史を示して、社会がこう変わったんだということを示すのは、なかなか通じにくい。サブカルチャー自体をそんなに強くは求めていませんから。むしろ、携帯電話のコミュニケーションがどんなものなのか、それによってどういう人間関係になっているのかということのほうがよっぽど関心を示す。

――それも「現在」を生きていますね。

北田 ええ。「動物化」というのは「馬鹿になった」というのとは全然違いますから、「お前ら人間になれ」と説教しても始まらないんです。重要なのは、動物化という現象を道徳的な予断なしにしっかりと分析したうえで、かれらに届く言葉を見つけ出していくことだと思うんですね。「歴史意識」の回復を説くだけでは、もう言葉が届かない時代になっている。ぼくは全然実践できてませんが(笑)。

――北田さんのこれからの「言葉」に期待しています。今日はどうもありがとうございました。

(取材・文 斎藤てつや/サイトー商会)
http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/p04.html

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