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日本とは何か
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投稿者 愚民党 日時 2004 年 5 月 15 日 02:03:24:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」村上龍『希望の国のエクソダス』 投稿者 東北原人 日時 2004 年 5 月 14 日 19:21:52)

書評:網野善彦対談集『「日本」をめぐって』(講談社)

小田 亮

http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/shohyou2.htm

 この本は、網野善彦氏が、田中優子氏(日本近世文学)、樺山紘一氏(西洋史)、成田龍一氏(日本近代史)、三浦雅士氏(文芸評論家)、姜尚中氏(政治学)、小熊英二氏(日本近代思想史)と行なった対談を集めたもので、講談社の「日本の歴史」シリーズ00巻として刊行された網野氏の著書『「日本」とは何か』をめぐる対談集となっている。『「日本」とは何か』という本が日本中世史という分野を超えたスケールのものであるのに対応するように、対談相手も日本史学を越える人選となっているだけではなく、各氏がそれぞれの専門を越えた仕事をしている人たちであり、二重の意味で超領域的な対談集といえよう。

田中優子氏、樺山紘一氏、成田龍一氏、三浦雅士氏、姜尚中氏との対談は、主に「日本の歴史」00巻『「日本」とは何か』の内容をめぐる対談となっている。すなわち、「百姓=農民」という誤った同一視に基づいた「日本は農村社会」という見方が虚像であること(成田氏との対談など)、江戸時代の「村」には都市と呼べるものが含まれており、「貧農」とされてきた「水呑」の多くは商人や職人、船持であったこと、しかし「江戸時代の社会は、農民八〇%の自給自足の農村でおおわれて」いた移動の少ない閉鎖的な社会だというイメージが明治政府の壬申戸籍によって創り出されたということ(田中氏との対談など)、いままでの狩猟採集から農耕へ、漂泊・移動から定着・定住へ、自給自足から商品貨幣経済へと「進歩」してきたという見方がもはや認められないこと(三浦氏との対談)など、戦後歴史学が囚われてきた、最初から日本を一体の存在と考える「一国史観」や、「生産重視・農村主義」に基づく「進歩史観」が批判されている。

そしてそのような視点から、江戸時代の村には「組」や「講」といった複合的な自立的組織があると同時に村を越えた広域的なネットワークを有していたことが見過ごされてきた(田中氏との対談)とか、土地を基盤にした生産中心主義が、土地を持たない人々の交易や流通などの活動の軽視につながっていた(姜氏との対談)という新見解も述べられている。さらにこの本では、古代の律令制崩壊の原因とされてきた「農民」の「浮浪逃亡」を困窮した農民の逃亡と捉えてきたが、「浮浪逃亡」のなかには海民の移動のように生活のための積極的に移動・移住が少なからずあったのではないか(樺山氏との対談)とか、江戸時代までの東日本と西日本が後進/先進という発展段階の違いではなく、異なった社会と見る方が事実に即しているにもかかわらず、「西=中心・先進、東=辺境・後進」という見方が、それを逆手にとった石母田正の「未開の東国にこそ、文明の京都を克服する野性的な力がある」という「辺境の理論」によって逆に定着していった(三浦氏との対談)といった興味深い指摘もなされている。とくに、辺境の理論は、中心と周縁という二元論にもとづいて周縁にこそ中心の秩序を転倒するような「反秩序」の力や「自由」があるという1980年代の記号論的な議論にもつながっていたものであり、「境界性」ということを、中心と周縁という二元論によって全体の中に位置づける図式から離れて、群島や地域の連鎖における動かせる境界線という捉えかたによって「ボーダー文化」を考える方向性と重なる部分があり、評者には興味深かった。

最後の小熊英二氏との対談は本全体の4割弱を占める最も長いもので、五〇年代前半の「国民的歴史学運動」とのかかわりからの、網野氏の歴史観の形成と変遷について、小熊氏が聞き出すという読み応えのある対談になっている。その全体を紹介する余裕はないが二、三興味深かった点だけを記したい。まず、八〇年代の『無縁・公界・楽』までは、日本中世での「未開」と「文明」との対立を進歩史観の尾を引き摺っている「中心と周縁」図式に近いところで考えていたが、そこでの「未開」―「無縁」の原理など―を「土着文化」というより民族を超えて普遍的に存在するものと捉えていたと述べている点である。網野氏はさらに、進歩史観をのりこえるには、それとは別の普遍的視野に立たなくてはならないと述べている。その別の普遍性とは、「無縁」や「自治」の原理などの「未開」の普遍性ということになろう。二点目はそれに関連して、「無縁の世界」は外の権力からは自立的だが、内部には年齢階梯秩序があり、それを評価することは天皇制の基盤でもある共同体主義にならないかという小熊氏の問いに対して、網野氏が、現実には年齢階梯の秩序があり、公界も都市共同体になっているが、むしろ国家や天皇を超える人間の結びつき方がそこに見えているのではないかということを主張したかったのだと述べ、また、民衆文化を重視する人たちは、連帯のためには「われわれ」というものが文化を共有している必要から、一枚岩の文化をもつ単一民族論になることが多いが、「民族」というものに対する距離をどのようにとるのかという小熊氏の問いかけに対して、地域の生活の上に成り立っている社会構成が人類社会全体の中でどう位置づけられるかを考える必要があると述べている。ここにも、地域の生活文化に普遍性を見出すという網野氏のモチーフがうかがえる。

これらの点に興味を引かれるのは、評者が文化人類学を専攻しているからかもしれない。他にもこの対談集が文化人類学の議論とかみ合うと思ったことは多い。たとえば、近年の人類学では、社会学者の考えているような「全人格的関係による閉じられた均質の共同体」など虚構であり、あらゆる共同体には網野氏のいう「都市的なるもの」や「資本主義」と言えるような開かれた関係性があると考えられ始めている。また、「民族」についても近代以前ないし植民地支配以前の「民族」は流れ者を受け入れ、複数的な帰属も認めるような関係の束としてあるとされている。つまり、前近代の閉鎖的で排他的な共同体や民族という常識は、それを解体した近代社会のアイデンティティを確立するための「オリエンタリズム」によって創られた虚構であるという論点や、「越境」が常態であったという最近の人類学の論点は、均質で排他的な「われわれ」などなしに広範囲の連帯が創造できるとする認識にもつながっていっている。それは、誰よりも網野氏の認識に近いものだろう。その意味で、このような超領域的な対談集に文化人類学者が誰も参加していないというのは、第一には文化人類学者の人材不足なのだろうが、評者が最も残念に思ったことであった。

http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/shohyou2.htm

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●愚民党コメント

 おそらく村上龍は近代主義者であろう。
日本とは複合である。何層にわたって形成されている。
「日本のことを考えることはない」この近代主義者の独白は
それ自体が日本の深層によって、憑き付けられる。憑かれてしまうのである。

三島由紀夫も近代主義者だった。

近代主義の言葉では日本とは何かを探求できず失敗してしまう。

日本とは何かを思索することは日本常民の課題である。
日本には何層にも渡って、「もうひとつの日本」が生成している。
その日本とは、村上龍「5分後の世界」である日本ではない。

古代、中世、近世からの呼び声が現代とリンクしている葦の原、沼である。

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