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「交換」・「貨幣」・「唯一者」そして「子どもを家畜と同じに見る眼」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/515.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 01 日 23:23:55:Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 羊=貨幣をめぐる冒険(脇道レス) 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 01 日 01:41:56)


バルタン星人さん、どうもです。

体調が万全ではないなかで出張?され、京都・興福寺の阿修羅像を拝観されたとのこと、ご利益があることを願っています(笑)
仏教信仰者が仏像を拝むことは嘲笑しますが、仏像を眺めるのは好きで、魂を感じることもあります。(製作者の思いや美意識を見ています)


【バルタン星人さん】
「マルクスは未来について語ることに禁欲的であったわけですが「ゴーダ綱領批判」で生産者の連合体としての「生産協同組合」を構想し「彼らは交換をしない」と言っていたと思います。「交換をしない」とは何なのか未だ考え続けていますが全く判りません。
プルードンの政治思想はともかく経済思想に関してはアダム・スミスそのままであり(貨幣道具論)貨幣を「労働証書」で簡単に置換できるとしていたわけですが、マルクスは「哲学の貧困」で「商品は欲しいが貨幣はいらない」という「妄想」を激烈に批判していたと思います。
つまり「交換」がある限り貨幣は不可避ではないかというのが前レスの文脈です。
岩井克人が言うように「物々交換などというのは神話」にすぎないのであり、その始源からすでに貨幣に媒介されていたのではないかということです。
「自存できる経済条件」というのはイメージが掴めませんが「他者依存的な産業連関」が社会的分業であるとすれば貨幣に媒介されない交換というのは何かと考えてしまいます。ただ私はシュティルナーの「唯一者」=「この私」は絶対にはずせないのでコミュタリアニズムは受け入れられません。もしかしたらその辺があっしらさんとの「差異」になるのかもしれませんが。」


「生産協同組合」構想で「彼らは交換をしない」の意は、(社会的)分業ではなく協業だから、生産したものを分配するだけだと言いたいのだと推察します。
協業は、「労働の交換」た「労働の分断」ではなく「労働の一体化」ですから、物々交換や労働の相互贈与とも異質のものです。

「物々交換などというのは神話」にすぎないのであり、その始源からすでに貨幣に媒介されていたのではないかという提示ですが、始源は、労働や労働成果物の贈与が相互的に行われていたと思っています。
「労働成果物の相互贈与」は“物々交換”と言えないわけではありませんが、タイムラグもあるわけだし、認識としても“物々交換”だとは考えられていなかったと推測します。自覚的“物々交換”には貨幣が媒介物として可能性が高いと思っています。


しかし、「生産協同組合」構想における分配をどのような基準で行うかという問題は残りますから、協業だから交換はしないで終わらせてしまうと、抽象論理に過ぎると言えます。

プルードンの「労働証書」は、貨幣ではなく、分配の基準でありその物質的な手段として考えるべきです。
この問題を突き詰めていくと、貨幣とは何ぞや?という説明をしなければなりませんが、ここでは、「蓄蔵性」が排除されれば貨幣ではなくなるというレベルで閉じておきます。

シュティルナーの「唯一者」=「この私」は、私が考えている「開かれた地域共同体」に住む人々の在り方だと思っています。

かつての農耕共同体は、共同体が先行的にあり、そこに個々の家族が位置付けられるというものです。端的には、多くの局面で、個が共同体に埋没させられることになります。

面白いのは遊牧共同体で、個々の家族が先行的にあり、その連合として共同体があります。そのため、戦争の是非を合議的に判断し、それでも戦争に参加するかどうかは個々の家族の主の判断であり、参加しなければ戦利品が分与されないというものだったとされています。

農耕共同体は城郭や都市が形成され支配―被支配関係も明瞭ですが、遊牧共同体は、実質的に観念としてしか共同体が存在しません―共同体性のみ―。


「開かれた地域共同体」は、「唯一者」=「この私」であるとの意識を必須とするわけではありませんが、「唯一者」=「この私」が自己実現のためには相互関係的活動が必要であることを理解し、そのために、他の「唯一者」=「この私」を口説き落とすことで動いていくものだと考えています。
我が歴史観に沿って言えば、「開かれた地域共同体」は、長期の歴史過程で角逐を展開してきた農耕共同体と遊牧共同体の歴史的融合(和解)とも言えます(笑)

自分以外の他者を、客体ではなく、間主観的協働的主体として理解することがベースになる共同体が「開かれた地域共同体」です。(「いいんだよ、オレはやらなきゃいかんことだけはやるけど、それ以外は寝てたほうがいい」という生き方も可です)

【バルタン星人さん】
「そこまではいいのですが、「家畜が倍になり失った子どもを上回る7人の息子と3人の娘をもうけ、幸福にくらしましたとさ、どっとはらい」で終わっています。
柄谷は「ちょっと待ってくれよ、死んだ子どもはどうなるんだ」と問うわけです。柄谷が良く引用しますが小林秀雄が「歴史とは母親が死んだ子を思うようなものだ」と言うのは「ありふれているが二度と生まれることがあり得ない子ども」、生の「一回性」に関わる話と理解しています。つまり「前と同じ数あるいは前より増えたからいいだろう」ではすまない問題があるはずです。
ここから先は柄谷の論旨(「単独性と個別性」)とずれてくるのですが、逆に言えばここには「子どもを家畜と同じに見る眼」があるのではないかということです。そんな「眼」があり得るのか、少なくとも「偽善」といわれようが私には内在化不能です。よく読むとヨブの家族(新たに生まれた子も含め)で名前で語られるのはヨブ一人です。唯名論と実念論ではありませんが、妻とか息子とか娘としか語られない。「固有名」が消去されているわけです。つまり(前振りが長いわりに簡単な話ですが)」


旧約聖書の全体に流れているのは、神は善悪を基準にして世界を動かしているわけではなく、ただ意のままに動かしているという観念です。
(イスラムもそれに似た観念です。神の慈愛は死後及び終末に訪れる最後の審判に対するものです(笑))

神を崇敬し神が啓示した律法に従えばいい目にあえるという判断は、半可通の信仰者がつい持ってしまう錯誤です。

私流の解釈ですが、半可通の信仰者は多く、「これだけ神を崇敬し律法を守っているのに、なんでこんな悲惨な生活なんだ」と祭祀階級にケチを付けるケースが続発したため、祭祀階級が、「こりゃあ、まずい」と考え、「神に従う(自分たちに従う)のはいい目にあおうとか酷い目を避けるためではなく、何があろうとも神(自分たち)の意を全面的に素直に受け容れることが信仰である」と説得するためにヨブ記のようなものを提示したと見ています。そこまで信仰すれば、いい目にあえることもある。それも神の御心次第である。祭祀階級は「そこまで信仰できるヤツはまずいないけどね。どっちみち神の御心次第だから嘘じゃないからまあいいか」と思ったでしょう。
(人知の目的はなんであれ、超越神信仰としては正しいものです(笑))


「「子どもを家畜と同じに見る眼」があるのではないかということです。そんな「眼」があり得るのか、少なくとも「偽善」といわれようが私には内在化不能です」については、内在化できるとは言いませんが理解はできます。

植物の恵みを糧にする農耕民には理解しにくい心性ですが、家畜の交配で財を増やしていく遊牧民であれば醸成される心性です。

旧約聖書には、神に我が子を生け贄に捧げる話やバールに人の生け贄を捧げる必要はないといったことがいくつか書かれていますが、それは、我が子を神に生け贄として捧げる風習があったことを示唆しています。
家畜に関しては、初子の生け贄が続きます。

これは、ただ動物か植物かの違いがあるだけで、豊穣を祈願して収穫した稲などを神に捧げるのと変わらない心性だと思っています。

家畜の増殖を祈願するために家畜の初子を生け贄に捧げるのなら、人の子の多産を祈願して初子を生け贄に捧げようと考えるまでに、それほどの距離があるとは思えません。

>あるもの(関係でもよい)から「固有名」を剥ぎ取ったものが「貨幣」ではないかと。
>たとえば   信用−「固有名」=貨幣  ではないのかということです。
>本来、「信用」は「この私を信じてくれ」「あの人なら信用できる」といった「固有
>名」と不可分なもののはずです。これは「もの」に関しても言えることです。


信用の基礎は財を所有していることで、財の「固有名」を剥ぎ取ったものが「貨幣」と考えたほうがすっきりするように思えます。

【バルタン星人さん】
「「この様式のもとでの諸使用価値の直接的把握は、時間の永続性という形式を持っていた。ものは永続性という形式をもっていた。物は永続を目的としてつくられる。家も家具も道具も織物もみなそうである。この永続性は単に生産力が低いからあまりひんぱんな新調が不可能であるという消極的な理由だけにもとづくものではない。むしろ、物が真の意味で使用価値であるためには、そうした永続性の形式が必要になるのである。物と慣れ親しみ、物を愛し、それらを単に機能性においてみるのではなく、時間の永続性の次元で物のうちにかくされたすべての側面を発見すること、それが物の使用価値の実現・把握なのである。この永続性の追及は、物質としての物の製作と使用だけに加えられるのではない。思想にも感情にも、そしてそれらを支える物質にも同じように加えられる。寺院や大聖堂は永遠を目指して建てられる。それは確かに、特殊宗教的な疎外の反映物ではあるが、同時にそれら記念物の永続性は、後代にそれらが持つ多面的な富を享受させるものなのである。」(サミール・アミン『帝国主義と不均等発展』     ちなみにアミンはシャリ・アティ(イラン人)らと並ぶ非西欧マルクス主義者(エジプト人)の一人。)

ここで言う「もの」とは祖父や曽祖父が水を飲み腰掛けた「この壷」であり「あの椅子」であり、物との濃密な関係は他で代替不能なものであるわけです。従って先ほどの式は
使用価値 −「固有名」=貨幣 とも言い換えることが可能かもしれません。」


使用価値を持つ物に時間概念を導入した論考ですが、ほとんどの消費財は、瞬時に消えてなくなったり経時的に劣化してみすぼらしくなるものですから、牽強付会の感を否めません。
使用価値を持つ物に時間概念を導入した論考は、機械装置など資本財(生産財)に対して行えば実りがあっただろうと思っています。

親や自分自身が束の間の存在性であることや、丹精込めて収穫したものや調理したものがほんのわずかな時間で消え去ってしまい、その繰り返しを強いられるということから、神に対するのと同じように、永続性や永遠性への憧憬が人々を壮大な記念碑的構築物づくりに向けさせるなのかもしれません。


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