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岩井克人氏も今村仁司氏もレベルが酷すぎる(笑)
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/548.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 02 日 19:32:12:Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 初期社会主義者(スミス、オーエン、プルードン、ワルラス)岩井克人X今村仁司 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 01 日 17:33:17)


バルタン星人さん、どうもです。

読ませていただくだけにとどめようかとも思っていましたが、あまりにもなので少しコメントします。


「岩井:たとえばロバート・オーエンには貨幣はあらゆる害悪の根源であるとして、「貨幣という媒介をなくす社会」を実際に作り上げようとする意識がありました。全国衡平労働交換所をいうものを開いて労働貨幣をつくろうとした。マルクスも究極的には「貨幣のない社会」という理想的な共同体を目標にしてひとつの経済理論を打ち立てるために「資本論」を書いたわけですね。ところが「価値形態論」を書いているうちに、これはおそらくマルクスの意図に反してだと思うのですが、かれは貨幣の必然性、つまり「<貨幣>を抜きにした社会はありえない」ということを証明してしまった。じつは「貨幣」というのはこの世にあまねく存在している「媒介」というものの一つの形態だと思うのですが、その媒体を抜きにして人間社会はありえないということを、意図せずに証明してしまったということになります。それがわたしはマルクスにかんする最大の逆説だと思っているんです。」

岩井克人さんも寝言が過ぎる(笑)

「資本論」は、誤りを含むとはいえ、近代の生産様式を「資本化された貨幣」の“他者(資本)関係的自己運動”として論述したものであり、超歴史的普遍的な経済論理を論述したものではない。

「価値形態論」は、社会的に分化している“資本”が労働力を購入して商品(使用価値を有する物:財)を生産し、それを販売することで“資本”を増殖する経済循環のなかで人々が生きている「歴史的社会」においてのみ通用する説である。

価値ではなく、ストレートに使用価値を生産することを目的とする「歴史的社会」においては、「価値形態論」は通用しないだけでなく、意味(存在性)がないのだからそれを考える必要もない。

「価値形態論」をもって、「<貨幣>を抜きにした社会はありえない」ことを証明したのではなく、「<労働>を抜きにした社会はありえない」ことを証明したと岩井氏が主張するのら、「資本論」も理解しているし、「社会」も理解しているとは言えるだろう。

「今村:フーリエは別として、大勢いる初期社会主義者たちの中で経済について思索をこらした人をあげるとすれば、フランスあるいは大陸ではプルードンとかワルラスがいます。ワルラスというのは社会主義者とは思われていないようですが、私には彼は社会主義者だと思うんです。プルードンもそういう意味では市場社会主義者だと思います。両者は、実は論争もしていますが、もっと広い観点からいうと、基本的には18世紀のアダム・スミスの線上において二人は並んでいるのではないかというような気がするのです。アダム・スミスは経済的市民社会だけで十分で、国家はいらないということの最初の主唱者なんですね。そのへんが、プルードンなどにある種の共感を持たせたところです。」

今村仁司氏は、「社会主義」という重宝な概念を学問分析の概念として重宝に使っている。
言わば、1937年から1980年頃までの日本を「社会主義」と規定してもおかしくないレベルで「社会主義」という言葉を使っているために、言いたいことはわかるが、諸理論の違いが捨象されてしまうという好ましからざる言説になっている。

(「わりとと言えば烏も白い」に似た「社会主義」理解である)


アダム・スミスが、「経済的市民社会だけで十分で、国家はいらないということの最初の主唱者」というのは勇み足だろう。
国家の力による対外販売市場拡大が経済的市民社会が円滑に動ける基礎である。
スミスは、国家は国防や法的秩序そして生まれ落ちた子こどもが“市民”になるための教育など限定的な機能にとどめ、他は経済的市民社会に任せろと言っているだけである。
端的には、国家は“市民”が富を稼ぐためのサポーターたれ、それが国家支配層のためにもなるという論である。

「岩井:わたしもワルラスが一種の市場社会主義者だというのには全く賛成です。じつは私自身はそういうことを、ワルラス批判の立場ですが、書いたことがあるんです。ワルラスの一般均衡理論というのはわれわれの生きている「市場経済」のモデルだというふうに考えられているわけですね。そして、それをもとに現代のいわゆる新古典派経済学が成立したわけです。ワルラスは、膨大な数の商品を売り買いしているたくさんの市場を同時に均衡させるような価格システムが存在し、しかもそれはある意味で安定的であることを示すことで、市場経済の自己完結性を証明しようとしたんだと思うんです。それを後世の人はワルラスの言葉とおり受け取ってワルラスが実際の分権的な市場経済の自己完結性を証明したんだというふうに捉えてしまった。しかしワルラスのモデルをくわしく読んでみると、あれは「市場経済」のモデルではなくて、まさに「市場社会主義」のモデルですよね。」


ワルラスが土地国有を主張したことが、今村氏や岩井氏がワルラスは社会主義者だと思う最後の支えになっていると推測する。(土地国有は、地代や土地取得費がなくなることを意味するので、産業資本家にとって大きな利益である)

岩井氏は、後ろのほうでワルラスの「市場競り人」(オークショニア)を社会主義国における価格管理局と同じ役割をしているにすぎないと言っているが、「市場競り人」は市場経済における価格決定過程を説明するための概念的存在(幾何学の補助線のようなもの)にすぎないことはワルラスの理論を読めばわかる。

価格管理局が供給者と需要者それぞれの諸事情を勘案するとしても、社会主義国家では、供給者が何をどれだけ供給しなければならないかは計画決定されており、需要者も、事業体であれば決定された供給活動に必要なものを需要し、人々であれば国家が決定して供給したものを半割り当て的に需要することになる。


「岩井:それから、アダム・スミスの「道徳感情論」ですがそのなかに今村さんが言われたように「内にある公平な観察者としての正義の観念を持っている市民がおたがいに取引をし合って市民社会が生まれてくる」という発想があります。しかし「公平な観察者」が個人の中に生まれてくるような社会というものが、はたして市場社会として維持可能なのかどうか、わたしはいつも疑問に思っています。」

岩井氏が、スミスが国際金融家(国際商人)の巣窟である東インド会社のエージェントであるとわかっていたら、「公平な観察者」がまさに中央銀行(イングランド銀行)の所有者たちであることもわかったはずだ。

イングランド銀行が貨幣を貸し出すことで経済的市民社会は起動する。
そのようなイングランド銀行は、自分たちが損を食らわないよう、海外市場を含め経済状況をつぶさに把握し、貨幣コントロールを通じて経済市民社会を管理する。

そのようにして国際金融家の支配下にある諸市民は、その規定性のなかで、おたがいに取引をし合って市民社会を形成したのである。

引用部分のあとに書かれている「どこか、くりかえしおなじ人間同士が交渉しあう共同体的な社会の狭さというべきところがないと、抜け駆け的な行動が出たりはしないのか。ですからその場合、「社会の緊密さ」というのがどうしても必要となってくるのではないかと、わたしは考えるんです」については、“抜け駆け的な行動”というあまりにも幼稚な疑念は別として(家族のなかでさえ“抜け駆け的な行動”はある(笑))、同意します。

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