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「支配−被支配関係構造」から抜け出す方策とは?
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/571.html
投稿者 律 日時 2004 年 7 月 03 日 08:54:25:yVvnimQRLLslo
 

(回答先: Re: 家族と国家とフェミニズム(つづき) 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 02 日 18:10:58)

あっしら様。お忙しいところありがとうございました。


あっしら様***************
国家よりは社会のほうが可視的で具体的な概念です。
国家は社会の政治的法的統合形態ですから、より抽象的なものです。
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機能的な側面を見ると「国家」のほうが、具体的機能が示しやすいかなと思ったのですが。
「社会」っていうだけだと、一体どこのどういう社会をさしているの?というところがあるので。端的に、空間的に相互的に人々がより集まっている状態を社会と指しているなら、個人にとっては、範囲は漠然としているけれども「社会」の方が具体的といえなくもないです。

あっしら様*********************
他の家族(人々)との相互依存関係性は、現実では濃淡がありますから、相互依存関係性をきちんと理解すれば、国家の「中間制度」も浮上してきます。
国家は、観念的な枠組・場でしかありませんから、大きさを云々する実体的なものではありません。(それを大きいとか崇高な価値があるといったように実体化することが問題だと思っています)
私は、将来的な話として、「家族」→「開かれた地域共同体」→「地域共同体連合としての国家」→「国家連合としての世界」という世界像を望ましいと考えています。
どのレベルであっても、あくまでも個々の「家族」が実体的な基礎であり、個々の「家族」がより良く生きることを目指せるようにすることが本旨であるべきだと思っています。
(個々の「個人」がどの段階で新しい個々の「家族」として巣立つかは、現在と違うかたちになるかもしれませんが、「個人」を出発点として考える立場ではありません)
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あっしら様******************
個別の家族(構成員)でできることは限られているので、相互依存関係的活動を行なうのではありませんか。
それでも、実現したのは、個別の家族(構成員)の活動力なのです。
中間集団や国家というものが相互依存関係的活動の主体になれるわけないのですから、個別の家族(構成員)の活動力以外になにかを達成する力は存在しないのです。
概念としては必要でも、家族(構成員)を超えた存在を実体化することは厳に慎まなければなりません。
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国家の中間制度ということではなくて、私が言いたかったのはあっしら様が「開かれた地域共同体」と呼んでいるようなレベルのものです。つながりとして家族内だけで自足するわけにはいかないので、具体的な他者と相互的関係を日常的・直接的に持つ必要があるだろうということです。それもある程度のまとまりを持って。「中間集団」というと固定され、閉鎖されたイメージが強いかもしれませんね。この概念は使わない方がよいかもしれません。
ところで、段階として「開かれた地域社会」→「地域共同体連合としての国家」というレベルを考えておられるなら、「国家」をある程度包括的な概念と考えているのではないでしょうか。「大きい」という言い方が「実体化」というなら、この状態はどのように表現されるのでしょうか。


あっしら様********************
何に喜びや充足を感じるかは人それぞれの問題です。
「人はパンのみにて生きるにあらず」を語るような人間は“犯罪者”だと思っています。
“パンを得るためのみで生きてもいい”の共通了解が基礎だと思っています。
そして、やったら罰を加えることを明示し、こんなことをやったら楽しいしんじゃないといろんな人が呼び掛けそれに賛同することが一緒にやるでいいのだと思っています。
そのために、「できるだけ楽にパンを得られる条件」をみんなで智恵と活動力を出し合ってつくるのです。
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わたしも「パンを得るためにのみ生きてもいい」と思っています。むしろ、現段階でも、人は皆、基本的には「パンを得るためにのみ生きている」と思っています(どんなに偉業をなした人でも!)。
ただ、それに対して、個人個人の人は自分の人生に「意味」「価値」を見いだそうとしますよね。現実的に、多くの人がそうしていますよね。
私が、「人生に意味や価値は基本的にはない(ただし、その人自身が自分に意味を見いだすことは私は否定していません)」と述べると、たいていの場合は反発が来ます。
そして、そうした「価値」や「意味」は「ひとそれぞれ」ではまず済まなくて、「宗教」「主義」「思想」として、あるまとまりを持った集団がお互いの価値観を確認しあい、正当化しあうことで保たれるものでもあります。
また叱られそうなので言っておきますが、私がそう考えているわけじゃなくて、現実的にそういう人たちが多いのではないですかということです。

あっしら様は「心情主義」と名付けたような方々、「平等」や「平和」や「民主主義」や「正義」「善」という正当化装置に乗っかって、自分の信じる道を推し進めようとする人々を警戒しておられますよね。その意図はよくわかります。このような人々が過去、もっとも残虐で冷酷なことをしてきたと思われるからです。私は信仰者とお話しする機会が多いのですが、彼らは「信じる道」がある故に、他の人のそれぞれの状況というのが見えなくなる側面があると実感としても感じています。

けれども、あっしら様。このような人々を「カス」とカテゴライズして、危険(というくらいはいいけど)思想と断定して、切り捨てるようなことをおやりになられるのであれば、「できるだけ楽にパンを得られる状況をみんなで知恵と活動力を出しあってつくる社会状態」を「善」として主張し、推し進めようとする態度と、相似形に見えてきます。
それは、あっしら様がおそらく意図しておられることとは逆の事態を引き起こすのではないですか?多くの絶対的真理を信じている宗教は、反発されればされるほど「これは心理だから迫害を受ける」と認識するようです。同じようなプロセスが生じているとは考えられませんか。

あっしら様********************
※ 家庭内暴力問題については、「あなたが幼児虐待問題で把握している「問題の基」は親の「私物化」意識なんですか?」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/538.html )を参照してください。
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これについてもいくつか違和感がありますが、別稿で。

あっしら様*********************
私は差異主義者(差別主義者)です。
平等ではなく、個の差異性にこだわることがもっとも重要な視点だと思っています。
そして、違う個が、関係的活動や相互依存関係のなかで生きていくために、法的平等を含めどのような統合形態やルールにしたほうがいいかを詰めていくなかで展望が見えてくると思っています。
「支配―被支配関係構造」の一部である企業の例を出して、あれこれ言うのが頓珍漢なのです。
「総合職」も「一般職」も、「男性社員」も「女性社員」も、「一般従業員」も「経営者」も「支配―被支配関係構造」に汲み込まれた囚われ人なのです。
「総合職」になれば、「経営者」になれば、「支配―被支配関係構造」から抜け出せるわけではないのです。

あなたのような論は、性差も人種も宗教も捨象して、みな平等の奴隷(手段)にしたいと考えている世界支配層(国際金融家)が大喜びするものです。
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>ところで、「他者を“手段”や“客体”と考える意識」を変えるために「経済状況の
>改善」だけで足りるとお考えなのですか?
あなたも理解力が欠如していますね。
「経済状況の改善」は、当座の家庭内暴力をある程度軽減する策として提示していることは理解できるはずです。
「他者を“手段”や“客体”と考える意識」を変えるためには、「支配―被支配の関係構造」を解消しなければならないと一貫として説明しています。
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ふふふ。私も「カス」の仲間入りですねえ。
まあ、それは別にいいんですが。
差異を認める視点は重要です。みなフラットだと考えることが欺瞞です。
おっしゃることはわかります。そりゃそうでしょう。
しかし、「差異=差別」とされていますけどそれを保持しながら「支配−被支配関係構造」から抜け出すというのはどういうことなのですか?
それがさっぱりわからないのです。
私の質問がストレートでなかったので、ご理解頂けなかったようですが、私が聞きたかったことは
「差異・差別を残しながらなおかつ、「支配−被支配関係構造」から抜け出すにはどんな方策が必要なのか」
ということです。
あっしら様は次のようにもおっしゃってます。

あっしら様**********************
>個々人は具体的な生活状況の中で生きています。それにはわかりやすい区分や境界が
>あったほうが動きやすい。以上にあげたような要素はまさにそのようなものです。そ
>してそれは「支配」の道具として使われてきました。これについては同意していただ
>けるものとおもっているのですが、どうでしょうか?
多いに同意しますよ。
だからこそ、「支配―被支配の関係構造」を解消すべきといい、解消できる条件を人々はすでに持っているとも言っているのです。
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あっしら様は「できるだけ楽にパンを得られる状況」をそのような条件と考えておられるのかな、とおもったので、「経済状況の改善」で足りるとお思いですか?と聞きました。
しかし、お怒りになられたようなので違ったようですね。
私は本当に純粋にそのような方策があり得るならお聞きしたいと思っているのです。

なぜなら、これまで私がまなんできた「支配−被支配関係構造」は差異・差別を基盤にして作り上げられているものばかりだからです。

この点を説得的に教えて頂ければ納得できるものと思いますが、そういう記述は残念ながらありませんでした。また、考え無しだとか、カスだとかお叱りをうけるかもしれませんが。

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「男らしさ」「女らしさ」

あっしら様**********************
ある歴史状況に置かれて生きている「男らしさ」や「女らしさ」としてはそこそこ理解できますが、あまりにもステレオタイプというか、表面的なものでつまらないものですね。
(おいおい、それが今の男性や女性の特徴かよ、と突っ込みたくなるものも少なからずある。「男らしさ」に大人っぽい、「女らしさ」に子どもっぽいを割り振っているのを見て爆笑しました)
今という歴史状況で考えれば、性差よりも個人差として説明したほうがいい内容が多いと受け止めています。
男であれ、女であれ、個人をあるポジションに置けば、しばらくするとそうなると思われる“特徴”がほとんどです。
(そうなりたくない個人を置いてもムダでしょうが...)
ちなみに伊田広行氏の表で採点すれば、私なんかばりばりの女ですよ(笑)
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今の特徴というよりも、区分してみるとこうなるんじゃないのか、というところなのでしょう。そして、男性がやってみても「ばりばりの女」になったり、女性がやってみても「ばりばりの男」になったりするのを発見して、女性性・男性性というラベリングのいい加減さに気づこうという趣旨だと思われます。
心理系統では「男性性」=「論理性・冷静・能動性・合理性・知性・自立性・創造性・人工性」、「女性性」=「感情、直感、非合理なものを理解する力、受身の姿勢、他人と関係を築く能力、自然なもの、身体性」などが対比されていることが多いようですが。

これまた怪しい感じ・・・・・・

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