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「合理性」と「文化」について
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投稿者 律 日時 2004 年 7 月 07 日 11:08:46:yVvnimQRLLslo
 

(回答先: Re: 「善」の主張は止められるか? 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 06 日 15:55:08)

あっしら様、ありがとうございました。

先にここに書いていることの要約をしておきます。
@ 中産階級と下層階級の言語コードのあり方と、コミュニケーション能力の問題について。(基本的にあっしら様のご見解に対する了解の表明です)
A ご提示いただいた、合理性概念に対する疑問。
B 「正常」「異常」の区別、意味づけ方は「ヒューマニズム」というより「文化」の問題だと思うが、「文化」についてはどう考えているのかという疑問。
以上の3点のみです。

私ごときがやり取りしてもらっているのが申し訳ないので(あっしら様、皆様、ご迷惑かけてすみません)、早めに収束させたいとずっと思っているのですが、ついつい更にたずねてみたくなってしまい、すみません。
A、Bの点だけ、簡単にでもお答えいただければ幸いです。


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私はこれまで、信仰者を念頭に置きすぎていたかもしれません。
彼らは、経済的苦労や家族的葛藤を乗り越えるため(あるいは逃避するため)、またはなにか達成しがたいことを成し遂げるために「意味」や特定の「世界観」をよりどころとして人たちであり、それゆえに強烈なストーリーを持っていたりします。それで、やっぱりそういうものを求めてしまう人は多いのだろうか、と体験的に思っていたためです。

しかし、最近読んでいるリチャード・ハーベイ・ブラウンの『テクストとしての社会』の第一章に書かれていることから、あっしら様の言おうとしていることが大分腑に落ちてきたように思います。

どういうところかというと、バジル・バーンスティンの精密コード(中産階級)と限定コード(下層階級)との言語使用のあり方についての議論を引きながら、バーンスティンが下層階級の言語のあり方を「論理性」「抽象性」にかけるものと評価していることを批判している箇所です。
H・ブラウンは、自身の経験から、労働者階級の人のほうが懸案事項に取り組む上でよほど雄弁であり、現実的な因果的説明をしているのに対して、銀行マンのほうは無口でステレオタイプ化された表現や概念を用いており、柔軟性に欠けてており、「自分たちの実践を支配する原則を反省することには抵抗した」、とのべています。
また、こんなふうにもいっています。「洗練された発話の、まさにその洗練性は、コミュニケーション能力を高めるかもしれないし、高めないかもしれないが、そのイデオロギー機能だけは間違いなく高める。このことは、たとえば、法の言語のうちに見出される。それはおそらく洗練されたコードの典型であり、洗練されていればいるほど、コミュニケーション能力に欠ける例である」。
抽象的・論理的(とみなされる)コードは、コミュニケーション能力の欠如を意味する、というわけです。
それで、バーンスティンの中産階級の言語コードを評価し、下層階級の言語コードを低く見る見方は、「自民族中心主義的であり、それゆえ、イデオロギー的である。というのも、それは中産階級の子供たちの劣ったコミュニケーションを、かれらの認知的な優位性の記号として解釈するものであり、他方、下層階級子弟の用いる直接的でいきいきとした言語は「純粋にリズムとキャッチフレーズに過ぎず、大人に対する反抗である」と記されるからである」と批判しています。
また、下層階級は指示される側にあるため、直接的に序列と権力を経験するので、彼らは共同的・個人的役割を表現する差異に率直な言い方ができる(ただし、率直さゆえにその権力構造の複雑な問題からは目をそらしがちで、かえって体制迎合的だったりもする)。一方で、中産および上流階級の人々は、指示・指導をする側であり、肉体労働ではなくイデオロギー的労働を行っている。それで、「中産階級のひとびとは、自らの利害に大いに奉仕してくれる規則のシステム内で習慣的に働くことによって、背景的仮説を自明なものとしがちであり、権力を神秘化・物象化する専門家になりがちなのだ」と述べています。

中産階級がコミュニケーション能力に欠如をきたしてしまう理由は、ついている職業の多くが観念やシンボルの操作を扱うものだからであり、それに対して、労働者階級の職業は多くモノの操作にかかわっているので、おのずと集合的、実際的になっていく。

(私自身も結局のところ、「シンボルや観念の操作」を扱うような仕事でお金をもらっている人間ですので、あっしら様のいうことが理解しにくいのかもしれません。もっと柔軟にならなければ!)

ところでハーベイ・ブラウンはこのような例を引きながら、下層階級に対して教育的な配慮をしようというのならば、そうする人間がまず、自分が異なる社会秩序の対立に巻き込まれている状況を自覚すること、中産階級もまた教育され、政治化されなければならないこと、救おうとする相手に危険を強要するのと全く同じく、自らもまた身体的、文化的危険を引き受ける覚悟が必要であること、を述べています。
この点は、あっしら様は「救う」という観点を否定されていますから、違ったご意見をお持ちかもしれません。

以上のようなことから、もっぱら「シンボルや観念」を扱うことが本性的な「相互作用的な関係」の実現を阻害するということ、関係のあり方を「支配−被支配関係構造」の枠の中に位置づけてしまいがちであること(下層階級の発話を論理性の欠如と捉えるなど)についてなんとなく理解できてきました。それで、あっしら様のおっしゃろうとしている問題点の一部はイメージとして見えてきたようにも思えます。間違っていたらご指摘ください。そうでもなければ、この件について、とりあえず、これ以上煩わせないようにしたいと思います。

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ただし、2つの反論があります。

「合理性」については、ハーベイ・ブラウンの中でも、概念の再検討が行われています(合理性概念の捉えなおしということでこの本を紹介されていたのですが)。

あっしら様********************
「合理性」とは、目的を達成できる思考や判断であるかどうかが基本の基準で、できるだけ少ない労力でとか、できるだけ材料を少なくとかの付加条件により、より緻密な思考を要請されるものです。
**********************

その「目的」について「楽しい時間をすごせたかどうか」など「価値」「意味づけ」の問題が入ってくると、「より少ない労力で」「できるだけ材料を少なく」などのコスト面での問題を「合理性」概念に含めることが、困難になってしまうように思います。
(それが悪いといっているのではなく、私自身も「合理性」概念にそのような「目的」が入っても良いだろうと思っていました。それが捉えなおしという意味ですが)。

なぜなら、「合理性」というとたいていは経済的(技術的)合理性のことを指すわけで、「意味づけ」「感情(心理)」の面は、通常は「非合理」なものの範囲に位置づけられています。また、経済合理性は、目的に対して取りうる手段が比較考量できることが前提としてあります。そして、たいていは、実際取りうる手段は限られています。

(以前に、ドメスティック・バイオレンスの話では、切り捨てられてしまいましたが、問題はこの点にもありました。ドメスティック・バイオレンス状況の中にいる人がとりうる手段として「比較考量」すべき手段が自分に複数提示されるとその当事者が受け取れているのかどうかの問題です。耐えるしか道はないと考えている場合がありえます。だから、むしろ、現実的な場面でDVにあっている人からなにか助けを求められた場合にすべきことは、社会的な経済的状況の改善に取り組むよりは、その人がとりうる手段の選択肢がもっと多いことに気づいてもらうことなのかもしれません)。

つまり、現実的な生活における選択の場面では、文化的な障壁を理由として、そのような経済的合理性を追求することができない場合がありえます。
ハーベイ・ブラウンが出している例では、伝統的なヒンズー教徒は、経済的合理性から考えると老親を老人ホームに預けたほうがよい場合でも、文化的障壁から、そのような選択を「経済的理由」から行うことはないだろうとしています。これは経済的合理性からみると合理的な判断ではないが、しかししっかりとした理性的な判断であるわけです。(ポパーは「技術的−経済的合理性は応用合理論の全体である」と述べたそうですが)。

ゲーム理論なんかでも、もっとも合理的な手法と経済学者が考えている戦略(これは支配層とは関係なくてゲーム的な計算合理性)よりも、学生が直感的に取った戦略のほうが成績が良い(結果的に合理的)という結果が出ていたりしますが、合理的行為(いわゆる経済的合理性にもとづいたもの)の非合理性についてはエスノメソドロジーなどによってもあきらかにされています(ガーフィンケルは合理性は過去に取った行動を合理化するためのレトリックとして整えられるものと捉え、ホルクハイマーとアドルノは目的=手段の合理性はテクノクラート支配のための合理性と同じく、道具として仕えるものであった、と述べているそうですね)。

それで、ハーベイ・ブラウンは、「合理性には修辞的機能が現れることが避けることができない」、といい、「特殊なプロセスを公的構造によって言い換えることこそ、合理的行為を構成するものなの」だといっています。
結論としては「合理性は、個人、組織人、科学者といった人々の生活を教導する規則ではなくて、レトリックとして極められたもの−それ自体としては非合理な発話と行為を媒介に構築される象徴的な産物−である」というものです。
つまり、合理性もまた象徴的産物であり、「合理的行為」と「非合理的行為」の二分法は成り立たなくなるというわけです。
それで彼は「修辞的実践としての理性」、修辞的なものとしての合理性として合理性概念を捉えなおそうと試みています。

お答えいただいた合理性概念は、純粋に経済合理性の追求ではないが、コスト面を比較考量するという点では「経済性」を考慮するというあいまいなところが残されているようですが、この点はどうお考えなのでしょうか。

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もうひとつの多少の違和感としては、「正常」「異常」として意味づける行為についてです。
こういった認識の仕方は、文化人類学の観点でも検討されているもので(たとえばメアリー・ダグラス)、多くの時代、社会、文化にみられる現象です。人の認知構造は節約的に、また危険回避的にできているから、「わからないもの」を排除したり、認めようとしないという傾向があるのではないかと思っております。
普遍的な「人間」というものはないというのは、おっしゃるとおりだけれども、それぞれの文化において、「これ」と「あれ(もしくは「これ」でないもの)」を区別し、それぞれに意味づけるという構造は、簡単に解消できるものとは思えません。
そしてそのような認知行動のあり方の偏差は、それぞれの土地の「文化」となっているのであり、無視できないものなのではないでしょうか。文化差を埋めることは、もちろん不可能ではありませんが、困難でもありますよね。そうであったほうがいいと思っているけれど、「簡単だ」といわれると違和感があるというのは、この点です。
国民経済やその他のプランについては、他のご投稿から学ばせていただきますが、「文化」の問題について、どのように捉えていらっしゃるのか、簡単にでも教えてください(これについてもお書きになっていると思いますが、要約的に教えていただければと)。

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