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「合理性」の判断はすべて“主観”的なものです。
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/666.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 08 日 16:04:47:Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 「経済的・技術的合理性」のみを「合理性」とみなす人びと 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 08 日 10:06:34)


律さん、どうもです。

律さんはなかなかの「近代人」ですね(笑)


● 合理性の基準

>「経済的・技術的合理性」のみを「合理性」とみなす人々にどう対処なされるのか、
>ということだったわけです。

>そんなんで、「修辞的合理性」とか「感情的合理性」とか「主観的合理性」とか、区
>別した概念を使用しなければならなくなったりするのかもと。


合理性の基準は、狭くとか広くとかという話ではなく、「合目的性」以外にはあり得ないと考えています。

何かを達成(実現)したいと目的を定めて、それを達成する方法を考え、その方法に従って活動する。その結果が目的に適うものであったかどうか以外に合理性を判断する基準はないということです。

「技術的合理性」は、このような意味の合理性によく合致するものと言うことができます。

しかし、ひとが合理性の判断をするものである限り(コンピュータなどを使って判断するものひとの判断)、すべての「合理性」判断は“主観”的なものです。
単独行為であればその人の“主観”的判断であり、他者関係的行為であればその人たちが論議して得られる“間主観”的判断になります。

(「修辞的合理性」・「感情的合理性」・「主観的合理性」は、“主観”作用に対する表現の違いですから、“主観”的なものとまとめることができます)

「経済的・技術的合理性」の判断なら“客観”的なものであるというのは錯誤です。
それは、貨幣表現や物にまつわる判断だから“客観”的だと思い込んでいるだけの話なのです。せいぜいが、それらは判断しやすいと言えるものでしかありません。
ひとの“主観”に関わらない貨幣表現や物というのは、不在であり無意味であり無なのです。(逆に、“客観”的存在のない“主観”も不在です)


※ この問題は説明が長くなるので下記の投稿をご参照ください。

「認識における「主―客二元論」の超克:「純粋主観」・「純粋客観」そして「純粋感覚」の不在」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/228.html

「技術的合理性」に限らず、はたまた自覚しているか自覚していないかは別として、ひとは、そのような判断基準(“主観”作用)に拠りながら生きています。

だからといって、すべての人が達成するための方法をよく考えているわけではなく、同じ目的を達成する方法の案出においてもバラバラで、うまく達成できる方法もあれば、やっとなんとか達成できる方法もあれば、まったくダメな方法もあれば、逆にとんでもない害を被ってしまう方法もあります。

定めた目的が自分の手に余るものであると判断して、行為することそのものを断念するのも合理的判断です。

それでも、予め頭のなかで“結末”を考える目的的活動(行為)に取り組むひとは、合理的な思考や判断を行う(行わざるをえない)ものなのです。
(経験豊富な活動や習い性になった行為は、そのような思考に要する時間が無に近いほど短縮されるだけの話です)

自分自身が設定する目的が採用されない日常が続けば、ひとは、目的そのものを定めなくなり、目的を定めないのですから合理的(合目的)思考もしなくなり、ただ指示に従って行為をするだけになりがちです。
(目的が天から降ってくる「近代」のワーカーや児童・生徒・学生の多くがそのような状況に置かれているとも言えます)

「近代人」の多くがそのような日常にうんざりしているからこそ、限られたお金と時間を使っての「自由行為」に高い価値性を見出しているのです。(支配層や経営者など日常のなかで、“天”の役割を果たすひとは仕事にも高い価値性を見出します)


「経済的合理性」が“客観”的でありそうで実はそうでないことは、現状の日本経済を眺めればすぐにわかることです。

「技術的合理性」もおうおうにして同一目的の他の技術を知って自己満足でしかなかったことがわかるものですが、所定の目的を達成できたことにおいて合理性があったと言うことはできます。

しかし、「経済的合理性」は、ある時点で確かに「経済的合理性」であったはずなのに、それが実は「経済的合理性」ではなかったことがわかるような合理性です。
私なら、「経済的合理性」を声高に叫ぶ人と30分も話せば、その人の「経済的合理性」がどれほど不合理なものでしかないかを指摘する自信があります。(なぜなら、産業の「経済的合理性」は、「経済的合理性」そのものを無意味にしてしまう自滅への道であり、それは、個々の「経済的合理性」追求者(企業)の連関的活動の総和が引き起こすものだからです)

今を生きている人たちは、「合理性」や「主観―客観」という概念を疑いをもって今一度考え直させなければならないのです。


>あと、もっと正確に言うと先の例は「喜ぶだろうな」という感情面・倫理面の話だけ
>ではなく、もしそのようなことをした場合、その家族は「親不孝者」とか「不信仰」
>という烙印を周囲からおされる憂き目に会い、その精神的・社会的コストは多少の経
>済的合理性によって得られる経済的利益より大きかったりするわけで、実質的な選択
>肢としては選ぶことが不可能だというのがポイントです。それなので、この記述につ
>いては、ちょっと問題をずらされたかなという感じは持っております。合理性の判断
>基準の問題でもありますが、文化的・状況的に選択肢の幅が狭められているというと
>ころの問題です。

ある歴史的共同体(国家社会)の間主観的価値観(判断)には「合理性」が潜んでいるはずだという観点がまず必要だと思っています。

自分が元気でありながら親を養老院に送ることを「親不孝者」や「不信仰」と謗るのは、それなりの意味(「合理性」)があるのではないかと考える必要です。

一つには、ひとは余生であればなおのこと密接な関係性を築いた気の置けない家族や近隣の人たちと暮らしたいものであるという間主観的認識。(親にそうするあなたは喜んで養老院に生きたいですか?という疑義)

一つには、あなたがそうすることは他の誰もがそうする可能性を示唆するのだから、そのような条件を共同体が満たさなければならないとも言える。今は職があまりないから安いお金でひとを割り当てられるかもしれないが、その人たちにもあなたと同じような経済条件を許すなら、あなたにとっても「経済的合理性」は喪失しますよ。


「親不孝者」や「不信仰」と謗られることも含め、こういったことも考慮してなお、現在の「経済的合理性」や自分の気持ちを主要な判断基準として、親を養老院に送ることを決定するのなら、それはそれでいいんだと思います。
(親を養老院に送る人は、「私がそうすることでお金に困っている人を一人か二人助けることになる」と正当化することもできます)

>つまり、「合理性」という概念を用いることによって、「経済的・技術的合理性」の
>みを「合理性」とみなす人びとから、かえって「利用」「悪用」される危険を引き込
>まないのか、ということです。この点は、あまり危惧してはおられないのでしょうか。
「合理性」を盾にあれこれ言い募る人が支配的地位にいる限り、その「合理性」の狭隘性や不合理性を突くことに大きな意味があると思っています。

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