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Re: 貨幣や共同体についてあれこれ
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投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 12 日 16:08:51:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 貨幣や共同体についてあれこれ 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 09 日 00:03:36)

あっしらさん いつもレスいただきありがとうございます。 バルタンです。

適宣引用は前後します。

>このあたりの問題は、現段階であれこれ論じても意味はなく、ぎくしゃくしながらもそこに生きる人
>たちが問題を解決していくと確信しています。
>「資本の増殖」のための奴隷から解放されるだけで、とりあえずは、今とそれほど変わらないことが
>出発点でもまったくかまわないと思っています。
おっしゃるとおりです。こういう議論は細部にわたり緻密になるほど現実と離れていく宿命
があり、やましさ、むなしさを感じますが、落とし前?はつけなければなりませんのであっしら
さんの提議された重要なことに絞って書きます。(脇道にそれるのは私の常ですがご容赦ください。)


>自然条件の差異もあるし、どんな生存様式であっても「余剰」もあれば「不足」もあるものです。
余剰という言葉は適切でなかったのかもしれませんが、人間の身体組織、および「人間は何を愛し何を
求めるかという誠実な思考」(坂口安吾)を含んだ「差異」です。あっしらさんの論に即して言えば
「何を余剰とし、何を不足と考えるか」に現れる差異と言えば大意ははずれていないと思います。
「生命維持」に関わる最低線についてはある程度の線が引けるかもしれませんが、それも老人、
子ども、成年男子では一様でない、むしろ時代、地域により著しく異なるのではないかということです。
成人男子の一日の必要エネルギーを1500Kcalとしても極論すれば1000Kcalですぐ死ぬわけではない。
栄養不足で寿命は縮むかもしれない。しかし平均寿命が30才でも生殖し子どもを成体化(捕食と生殖が
可能)できれば「共同体」(という言葉でよいのかはともかく)としては十分「持続可能な社会」と
言えます。(それより汚染されていない水や食糧を強靭な胃袋で吸収しつくしていたかもしれませんが。)
そう考えないと狩猟、採取生活で十分なカロリーや余剰生産物?など考えられない未開人(モンゴロイド)
がベーリング海峡を押し渡って南米まで到達しマヤ、インカ文明を築いた驚異的な移動能力は理解不能です。

日本でいえば落語に出てくる江戸時代の「ご隠居」と言うとえらい年寄りの様に考えますが、実証的には
40代後半かせいぜい50代だったはずです。人生は短い、「下天のうちに比べぶれば、夢まぼろしの
如くなり」です。息子に嫁をとり家督を継がした親はサッサと隠棲し、息子が自分自身の人生を生きる事を
願う潔さ(社会的規範)をもっていたわけです。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が明治初期の日本の原風景の一つとして書いていますが「馬が引くような
山の様な荷を積んだ大八車を引く筋骨隆々とした車夫が握り飯と漬物の粗末な食事しか取っていないこと」
に驚嘆しています。むしろ近世(江戸時代)に白米食が普及したことで日本人の体躯が中世より脆弱になった
という説さえあります。(これについては後述)
「たそがれ清兵衛」の生活については膨大な資料が現存していますが武士という支配階級でさえ一日二食
だったわけですし。
http://www.sohaku-nikki.com/

一日三食は欲求ではなく「文化」ですが、余寿命の延長に効果があったと思います。しかしそれが
新たな疾病の要因ともなったはずで、「長く生きる意味」が問われるにもなりました。
(ですから「家族」「老人介護」について考える場合、平均寿命の推移と死亡原因(率)の変遷に
ついての実証的な考察が不可欠であろうと思います。)
宇野弘蔵をもじれば「人が一日3回飯を食うのは重要な問題だが、原理論では扱えない」わけです。
マルクスは「労働力再生産費用は社会的に決定される」とポンと書いて放り出します。ようは
「市場では決まらない」ということでしょう。上を見たら青天井、何が適正かなどというものは
無いわけです。基準はないが、周りと比べたり「今」より低下すれば抵抗する、つまり差異として
しかない。ケインズのいう労賃の下方硬直性というのも同じことではないかと思います。 

回帰志向には反対といいましたが、逆に近代的価値観で過去を裁断して「飢えていた、貧しかった、
悲惨だった、蒙昧だった」というのもある種の「オリエンタリズム」ではないかということです。
人間の自然的身体性は思いのほかフレキシブルで、過酷な自然条件への適応性を持っていたはずです。
過去の歴史に現れた「剰余」は以前のレスで書いたサミール・アミンの言う「宗教的建造物」やギザの
、ピラミッド、万里の長城の様に非常に巨大なものです。民はそのために三度の飯を二度につめたかも
しれない。しかし「暴君の圧制で飢え死」したわけではないわけで、柄谷が『トランスクリティーク』で
書いている略奪−再分配 という「交換」の一形態であるわけです。(若干言いよどみますが、これも
ある種のポトラッチ=蕩尽と言えないことも無い。 デタラメばかり書いていると、そのうち罰が当たる
というのは認識しています。(苦笑))
むしろ「近代」が飢餓や貧困をまねいたのではないか。高岩仁監督の映画「教えられなかった戦争 
フィリッピン編」はへきえきするイデオロギー臭を持っていますが、商品作物の単一大規模栽培
(米資本ドール社によるパイナップル栽培)が生態系という自然的富をいかに修復不能なほど損傷して
いるかを理解する上では貴重な資料です。


>金本位制のみならず純然たる貨幣に対してもそう言えるのですが、ペーパーマネーを超えて数値化
>された貨幣単位の増減で交換もできる現在の貨幣経済が、果たして貨幣経済なのかという問いです。
その認識に異存はないつもりです。しかしなぜそうした「仮象」が成立し、「生きる循環論法」として
現前しているのかということです。
本質を露呈させるための「例外状況」を敢えて想定すると「世界の終わり」という概念を導入すれば
良い事になります。人々は貨幣を捨てて使用価値に殺到します。紙幣は燃やして暖をとる位の用途
しかないわけです。つまり貨幣は時間に関わる観念です。岩井はハイパーインフレーションにおいて
「世界の終わり」が実現すると言っていますが。
ついでに言えば例外状況において宗教は「如何にに生きるか」ではなく「如何に死ぬか」のために
あることが判ります。これも時間性つながります。


>「貨幣=金(きん)=「金の発掘に要する社会的労働」というマルクスの実体論」は、それが利得に
>とって邪魔だと判断した“彼ら”によって、ほんとうに葬り去られました(笑)
>それでも、リカードや「資本論」の「労働価値」は葬り去られていません。
岩井克人は「モノが、貨幣として流通することによって、モノを超える価値をもってしまうのである。
無から有が生まれているのである。ここに神秘がある」(「貨幣論」p67)と言っています。私は
血の巡りが悪いので3回ぐらい読んで気が付いたのですが、岩井は慎重に言葉を選んでいますが
「モノを超える価値」とは「モノが本来持っている価値を超える価値」と同義です。つまり「モノが
本来持っている価値」=「労働価値」なわけで、出だしから間違っている。
確か一万円札の「原価」は15円、唯一、表象価値が製造原価を下回っているのが一円玉だというのは
有名な話ですが、「給料は全部一円玉でくれ」という話にはなりません。(笑)
磁気情報としての貨幣は、UNIX やメインフレームで ユーザープロセスのCPU占有率*時間 
で課金するようなイメージで考えると
システムの維持、管理コスト*(ユーザー情報が占有するシステムリソース/システムリソース)
みたいな物かもしれません。

>「コーヒーが10円、鉄が20円と貨幣を媒介にして自明のごとく数値に還元」されるのなら、
>それよって既に分配の問題も解かれているということになります。
>交換は、現象としては「物の交換」ですが、実体は「労働の交換」です。
しかしそれは市場において貨幣を媒介に交換が成立した事後的な世界を自明なものとする錯視では
ありませんか? リフレインになりますが異なる使用価値=異なる有用労働の差異が「需−給」
市場の均衡というブラックボックスを通して、数値(量)に還元されるという「神秘」に震撼
させられるわけです、マルクスは。
リカードの比較生産費説を逆から読めば「自分が作らなくても市場を通じて供給される」という
根拠の無い思い込みです。本当にそんな過剰がどこかにあるかは誰も知らないわけです。
つまり「市場経済」が真の意味で貫徹した近代における歴史的事実が、あっしらさんのいう
究極の「他人依存性」の原因と言える訳です。世界市場は外部性としてある「他者」を未知の
使用価値−商品の所有者として、あるいは商品そのものとして「交換可能性」という虚構を媒介に
「内部」に吸い込み続けるブラックホールの様なものです。まさに「人間と人間の関係が物と物の関係」
として現前する歴史性、出来事性が経済学の出生の秘密であり、「経済学」は世界を数学的規則性
に還元しようとする「錯視」ではないかと。

>法や宗教と同等の観念的存在ではないかという提起です
>ある人たちが、“人為的采配経済”として悟られないために、過去の遺物となった貨幣が今でも
>生きているかのように見せているだけという見方です。
>それは、貨幣の本源的な機能の一つである価値尺度機能や価値保存性が喪失している現実を手掛かり
>に考えれば見えてくると思っています。
あっしらさんの論議が「本来の機能の喪失=死せる貨幣が生きるが如く踊る」とすれば異論が
あります。赤面するようなヘーゲル主義むき出しで言えば上記のように産業資本主義=世界市場の
成立いう歴史性においてその本質が実現されたとも言えるわけです。
問題は貨幣ではなく「市場経済」が物質代謝を実現する歴史的特殊性が、人が何を欲望し何を断念する
のかを組織するという確たる「現実性」にあります。まさに市場を司るものが神になるわけです。

単刀直入に言えば「市場の均衡」は貨幣のあらゆる商品に対する交換可能性(しかも「永遠」という
時間性を持った)によって決済を先送りされた仮象ではないかということです。
つまり不足や過剰は市場に媒介され調整されるという錯視(幻想)は貨幣の時間性(永遠)が 
不均衡を先送りしている、解決ならざる解決であるが、現実に商品には価格が設定され(売れようが
売れまいが)モノのフローとしては成立している「現実的な」根拠があるわけです。
貨幣という特殊な商品が無ければ市場は成立しないとすれば、貨幣はカント的な「超越論的仮象」で
あり啓蒙で否定できない「宗教」です。宮台信司氏の言を借りれば「嘘であるが必要な嘘」になります。

あっしらさんの「法や宗教と同等の観念的存在」であり「電線」であることには深く同意します。しかし
市場なしに貨幣なしにどうやってやっていくか、前出のように「商品(市場)は欲しいが貨幣はいらない」
(プルードン)は成り立たないのではないか。

私は市場にあるスイカの価格を見てその希少性を理解して「断念」するが、リンゴが安いのに気づき
購入します。限界効用説ではありませんが、安いといっても100個も200個も買うわけでない、
そんなに食べられないから。しかしジャムにして保存すると考えれば話は別です。買い時かも
しれません。しかし本来はスイカが食べたかったのになぜジャムになるのか? だったら夏みかんの
方が保存がきくから価格(Kgあたり)が同じなまとめ買いしてもいい。でも保存性だったらジャガイモ
の方が良い。
しかし主食ではなく趣向品を買いに来たはずだ。第一ジャガイモなら家に沢山ある.....。
ぐちゃぐちゃと何が言いたいのかといえば「スイカを欲し貨幣をもつ買い手」と「スイカを
持ち貨幣を欲する売り手」の均衡というのは本当か?ということです。
市場が欲望を組織すると同時に断念も強いるということです。貨幣はあらゆる商品との交換可能性
をもっていていつでも行使することができる永遠性を持っているわけです。リンゴの様に一週間で100個
を食べきる必要もジャムに加工する必要もありません。スイカは今買えないが価格が下がるのを待って、
結局なにも買わずに帰ることも可能です。最後には「流動性選好」が勝利するかもしれませんが
貨幣退蔵を道徳的、理性的に批判できないわけです。
自然的条件の差異は絶対的ですからスイカとリンゴと夏ミカンを同時に収穫できる条件はまず
ありえません。そんな欲望自体間違いだ、「地産地消だからそんなものは食べなくてよい」という
価値観も当然ありますが、資本の論理はテクノロジーによる「解決」で断念を許さないかも
しれません。
http://www.el-lob.com/top_measure.htm

たとえば前レスの農家のご主人ですが「飛行機で**に行ってきた」と言うので旅行ですかと
たずねたら「XX県のスイカの作付け状態を見てきた。」そうで、当時航空会社が行っていた
「気象情報サービス」も利用していたと思います。需要−供給は経験的にある程度の予測は付き
ますが変動要素は排除できないのです。暴落すれば「油代もでない」価格で出荷することになり
ますが、「時間とともに腐敗するナマモノ」という商品を持って市場から退場するのは不可能な
わけで、スイカをブルトーザーで踏み潰して作付面積を調整するわけです。
食糧自給率の問題で言えば「模範国」イギリスにおいても
ギリスにおける農業的土地利用の変化
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~sekido/uk/agriculture/change.html
余剰生産物は「政府の買い上げ」という「外部性」により処理されるしかないわけです。
(それが過去において宗教的祭事において「神人共食」という形で蕩尽されたわけです)

あたかも「貨幣は商品群によってる価値であることを保障される、商品は貨幣により交換可能性
を保障される」ように見える「宙吊り構造」として現前しているわけです。
不兌換紙幣が原価15円で輪転機から刷きだされようがそれはかわらないわけです。
ワルラスを引いたのは「巨大な欠乏」と「巨大な過剰」がどう相殺されるのかという「生成の論理」
は説かれていないのではないか、さらにむき出しの言葉で言えば「なにを、どこで、どれくらい
つくるのか?」という問題は「どこの、誰がなにを(どのくらい)欲求あるいは欲望し断念するのか
を巡る「人間は何を愛し何を求めるかという誠実な思考」に関わる物語でもあります。
しかも、マルクスをもじって言えば「人間は所与の条件を元に生産を行う、しかし思った通り
ではなく」です。「これをあれくらい作る」といってもその通りできる保障はありません。

私は市場−バザールの様なものはどうしても必要だと思います。ヘーゲル主義丸出しで情けなく
なりますが経済と政治の分裂を止揚する祭事的空間という意味で。そのときだけ流通可能な
「時間とともに価値を失う貨幣、ナマモノ(羊)の様に腐っていく貨幣」によって媒介される....


>情報の「交通」という面では、軍隊・宗教家・学者が果たした役割が大きいと考えています。
産業資本主義=世界市場と「医学・衛生思想」との関係は重要だと思います。「バランスの取れた
食生活」「衛生的で健康な生活」という言説を無根拠に信じているわけですが、それが真理なら
人類が生き延びてきたこと自体奇跡です。(笑)
マラリア、テング熱、黄熱病、ねむり病、ナイル(日本)脳炎などの伝染病が実は世界市場(交通)
によってもたらされたものであり、白人入植者自体が未開人が耐性を持たないウイルスのキャリア
であり、偏在していた未知のウイルスの生息地を攪拌し、伝播させたことは隠蔽されています。
シュバイツァー、野口英世の「人道主義」は「入植」のための道を掃き清めるためのものであり
未開人を病から救うものではありえなかったわけですから。「医学・衛生思想」という言説装置
はキリスト教とともに植民地支配の強力なテコとなったわけです。共同体の祈祷師が引導を渡した
病人が白人のマジシャンが針を刺しただけで「生き返って」しまうわけですから。奇跡を目撃した
彼らが白人の神を信じ、共同体が崩壊するまでにはたいした時間は要りません。
自国内でも「善き人」は「病める人を救う」=植民地支配という言説に絶対抵抗できないわけです
から(フーコーやソンタグの仕事はそうした観点から見ていく必要があると思います。)
まさに究極の「自作自演」ですね。


>まず、「市民」は、近代経済システムにおける経済主体ではありません。その市民が自営業者であれば
>経済主体と言えますが、そうでなければ、「所有されない奴隷」であり、消費主体としてのみ経済の連関
>に位置付けられるものです。
あっしらさんの別のスレにからめますと...
「産業主義近代」の終焉:産業資本家と労働者は本当に対立(敵対)関係にあるのか?
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/690.html

階級闘争という文脈ででマルクスが言っていることは新興ブルジョワジーが国王と結託して封建諸侯と対抗
するとか、ブルジョワジーが租税の徴収と処分を巡る裁量権で国王と対決する、あるいは宗教改革という形
で都市の商工業者が経済的自治を要求するとか「持てるもの同士」の闘争=分捕り合戦です。
「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」を読むと、階級と言っても赤や青や黄色に塗り分けられた人間
がいるわけではない。むしろ分捕ることを正当化する言説によってリプリゼントされる、形成されると言って
いるわけです。
マルクスは冷徹、冷酷だからスパルタカスの反乱の様に「貧民が棒切れもって立ち上がり、軍隊になぎ
たおされる」ことに万感の思いを込めて賛辞(共感)を寄せるけど、そんなものが「歴史の原動力」になる
とは毛筋ほども信じていないと思います。(支配者層のシステム変更?への動機付けにはなるかもしれない)
パリ・コミューンにも「負けるから止めろ」と反対したはずです。事実その通りになったし。

高校生のころマルクス(エンゲルス?)を読んで「奴隷制は進歩だ」とか書いてあって動転しましたが、
要は一人の人間の生産が他人を養える余剰生産物を生むようになったから奴隷制が成立した。その前は
ブッ殺されるか文字通り「食い物」にされてたわけです。「おれはそんなのは嫌だ、戦って死ぬ」とか
言っても「そんな事したら、お前のとうちゃんや、じいちゃんや、ひいじいちゃん、ひいひいじいちゃんは
この世にいないだろ」と言うでしょうマルクスは。
しかし奴隷制というのは結構コストがかかって効率が悪いわけです。死なない程度に餌を与えたり、逃げない
ように見張ったり、時々鞭でたたいてモチベーション?を高めて、あれこれ指図する監督も必要です。使えなく
なった(死んだら)捨てに行かないと腐るし。その割にはモノを引っ張るとか、運ぶとか「言葉の通じる牛馬」
程度の簡単な仕事しかできないわけです。最大の問題は使っていくうちに磨耗しますから補充しなくては
ならない。高い金を払って買ってきてもコストパフォーマンスの悪いのもあります。いっそ「つがい」にして
繁殖させるということも考えますが、牛馬と違って使い物になるまで時間がかかり過ぎる....
こう考えると産業労働者(プロレタリアート)がいかに過去の問題を解決した「画期的な奴隷」かが判ります。
所有などしなくてよい、逃げるのを見張るどころか、向こうから勝手に歩いてくる。(笑)
(相対的に)わずかな餌を与えるだけで勝手に繁殖して、どれを使うかはお望みしだい、当たりはずれが
少ないわけ上に、要らなくなったら処分する手間もいらない、まさに支配層の改善努力のたまものです。

マルクスは「自由とか平等とかのお題目はこうして出てきたんだ。それ以外にあるか?」という
「アモラルなモラル」(坂口安吾)で歴史を見ていると思います。マルクスを信奉する人も批判する
ひとも「善き人」は目を背けますけど。
労働力という退蔵できない生モノを売る労働者は商品(貨幣)や生産手段という形で「過去の労働」を退蔵
できる資本家に依存しなくては生きていけない「対立しつつ依存する」歴史上初めて出現した奴隷なわけです。

前レスで「歴史を自然史的過程ととらえる」と書きましたが、以前あっしらさんとこの件について
議論した覚えがありますが「歴史には意味も目的もない」つまり善悪の彼岸を越えており、目的、意味
はカント的な当為(かくあるべし)という倫理としてしかない。
「目的論的に世界を構成する」のが「唯物史観」なら「神の再臨」はキリスト教的唯物史観です。
わたしは唯物論=マテリアリズムは放棄しませんが「唯物史観など馬に食われてしまえ」です。

本題に戻しますと贈与−互酬制の中での返礼を期待する信用と、売り手/買い手という絶対に入れ替え
不能な他者があつまる市場での大文字の「信用」は分けた方がいいというだけです。
(前者には「利子」という考えは絶対に出てこないわけですし)


>「労働力の担い手」問題は、多くの人が忌避する労働をどのような方法で実現するか
>(遺体の焼却は遺族が基本的に行うとか、忌避される労働に従事する人は忌避した人から報償
>を受けるとか)ということに集約されると思っています。
まさに親鸞のいう「機縁」ですね。機縁を隠してきたのが近代とすればそれを顕にする、「べてるの家」
で言えば「苦労を取り戻す」ことになるわけですが。
大杉栄と一緒に殺された伊藤野枝が「共産社会では誰が便所の汲み取りをやるか」というような
のどかな論文を書いていました。確か「子どもがやるのが良い」という結論だったと思いましたが
詳細は忘れました。

またしても「構成力」がないので尻切れですが、いい加減長くなったので終わりにします。

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