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認識方法における現象論と特殊現実論は統一的に把握される
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投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 06 日 17:54:47:0iYhrg5rK5QpI
 

社会的存在としての人間は日々発生するできごとについて認識し、思惟することによってなぜできごとが発生したのか、マスコミ報道や他人の意見を聞き、また歴史を紐解くことにちょって真相を理解しようとする。自然科学を含むあらゆる分野において一般的に用いられている基本的な認識方法だ。

近代科学においては、ものごとを理解するためには主観主義を排除して客観的な分析が為される。これが一般に言う実証主義であって、観念論を排除した結果としての法則性、つまり事実にもとづく学問的体系を樹立する上では捨てることのできない方法である。

このような態度を堅持して日常生活を送ること、これを生活信条=哲学として人は生きているのであり、政治についても同様の立場から国家権力の誘導によって社会が誤った方向へ進む虞のあるときは警鐘を鳴らす草莽の人々がより多く輩出することになる。

したがってもし理解ができない(認識能力に欠けるがゆえに)事象については「学ぶ」という作業を必要とする。学んだ上でも理解できないからと言って思考作業を放棄して説明しようとすると大概は「誤解」「誤認」「早とちり」などという「誤謬・思考の破産」というお粗末な結果をもたらす。

中核派についてはその主張や行動から30年以上も学んできただろうし、「内ゲバ」の真相があきらかにされてきているが、多くの労働者や学生が階級闘争という実践を通じて教訓化してきたし、一市民としての私も過去の70年安保闘争の体験を通じて中核派や「内ゲバ」の真相に対する認識をもってきた。

にもかかわらず、真実に目を向けようとせず、理解をしても意図的に問題をすりかえることに躍起になる人たちが存在しているのも否定的な現実である。

今目の前で現実が出来していることについて、それなりの捉え方をするが、これは現象論として即自性が付与されている。ただそれだけの繰り返しでは現象論のみに終始し、本質的な理解は得られない。

人が何かを言うのであれば、なぜそう言うのか(イデオロギーの把握)、と問う。そしてこのイデオロギーの持ち主である実体についても現象論的な分析がなされるが、イデオロギーと実体とは密接不可分のものであるがゆえにここで発見された法則は、実体の利害や組織、展開してきた運動を検証して「この実体はこういいつつこういう行動を取る」という結論が導かれたもの、これが「実体論」である。

そこで思惟活動の結果、現象を規定する本質的なものを見出す努力をする。
残念ながら、このような思考方法はマスコミに欠けているし、一歩踏み込んだ探究は成されない。それ以上やると国家権力が介入するからである。
したがって実体論を進めてゆけば国家権力(支配階級の意図)の分析も必要となる。国家権力と批判対象としての実体との関係も当然分析されることになる。国家の本質も(その暴力装置としての自衛隊の分析も、さらには世界的な規模で進められるアメリカによる各国権力機構の再編活動も)分析される。

しかし認識過程においては、この本質論だけで目の前の現実を理解しようとしても現実にそぐわない結論しか見出せない(言論がピンボケしてしまう。いわゆる革命主義者ってやつだ。「自衛隊は死ぬな」というのはいいじゃないか、と思うこと)結果としては現象論の領域から一歩踏み込んだ本質的理解は得られても目の前の複雑な現実について本質論を対置するだけに終わり、この本質論は一般論としてしか意味がなくなる。

そこでよりシビアに本質論を適用しつつ眼前の事実(A---現象論レベル。「自衛隊は死ぬな」)が本質論によって媒介された分析対象としての実体の特殊な段階(わかりやすくいえばケースバイケース)にあることが把握され、ここから分析対象の特殊な現実(A‘・・・特殊現実論「翼賛運動の第五列」)が演繹される。

(「自衛隊は死ぬな」という叫びに共鳴する人々が今なお存在するということは、認識過程においては、この特殊現実が目にはいらないから、現象論の領域から一歩も超え出ていないとう思想状況を表している。こういう人々にとっては「翼賛運動の第五列」と揶揄されることに肉体的な反発を覚える程度の反応を示すだけであり、それ自体国家権力に飲み込まれた存在であることを表明しているのである。)

この時点において初めて(もちろん時間的に区別された段階があるわけではない)AとA‘は統一的に理解されるのであって、Aという現象論がA’という特殊現実論に止揚されたことになる(A=A‘)。

そこで認識された論理的な帰結は「自衛隊は死ぬな」(A)と叫ぶ党派の特殊な現実「翼賛運動の第五列」(A‘)となる。

以上の論理から現実を見直してみると「自衛隊は死ぬな」と叫ぶ意味がわかるのではなかろうか。

http://marukyo.cosm.co.jp/KANAGAWA/maru/maru1.html

http://marukyo.cosm.co.jp/BBS/OLD-LOG08/1188.html

http://marukyo.cosm.co.jp/BBS/OLD-LOG08/1261.html


中核派の思想的腐敗はここ(1999年7月)

http://www.jrcl.org/liber/l1579.htm

これが2001年8月の「公安調査庁スパイ工作集」の発刊で、中核派がスパイに牛耳られていたことが判明(宮崎学が公安調査庁のスパイであったことが暴露された)。中核派は運動(闘争資金が必要)をやってゆく上でも組織運営(アジトの手配と家賃の支払い)をやってゆく上でもスパイ宮崎にすがっていたことが歴然としている。

「公安調査庁スパイ工作集」
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/46-8.htm

これに対する中核派のコメント
http://www.zenshin.org/f_zenshin/f_back_no01/f2019sm2.htm

「宮崎糾察サイト」
http://miyazaki_kyusatsu.tripod.com/

富永さとる氏コメント(れんだいこ所収http://www.marino.ne.jp/~rendaico/index.html
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/sahasaisei._spymondai.htm

革マル派ビラ
http://www.jrcl.org/topics/misumi.htm


以上の結果としての唯物論的現実は、「自衛隊は死ぬな」(敵=イラク人民に襲われたら防衛せよ、撃ち殺せ、あるいは弾除けとしての黄色い横断幕と黄色いハンカチで見送るという恐ろしく右翼的な千人針思想を表明している)と叫ぶ「国家権力の思惑」(その延長は英霊の靖国への合祀)をそのまま体現している。それゆえにこの現実を捉え返すならば、いかに左翼的に言辞や行動を装うとも「翼賛運動の第五列」としてしか機能していない、という中核派の「特殊現実」が認識できるのである。

したがって「自衛隊は死ぬな」という言葉に左翼性を見出して共鳴し、それを批判することは「敵視だ」と言って反発する立場は、上述した認識方法とは無縁のものであり(認識方法にはじめから狂いが生じていることを物語る。そうでない場合は政治主義。)、結果として翼賛運動の第五列を補強する第六列に陥る。

私は細々と零細企業を営んでいる身だが、わざわざ面倒くさい認識論など持ち出さなくとも、歴史的に主張を調べるだけで、別に党派性など持たなくとも上記の主張(「自衛隊は死ぬな」にケチをつけることは敵視だという主張)の誤りは見えてくるのものである。

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