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「身心一如」というなんとも難しいテーマを...う〜ん...
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投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 13 日 16:57:09:Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: もう少し絞りますね。 投稿者 オニオン 日時 2004 年 6 月 13 日 15:18:03)


オニオンさん、どうもです。

「今回あっしらさんにお伺いしたかったのは身心一如という考え方についてです。そしてその中でも特に、科学的思考力(抽象的思考?)、或いは技術力(具体的思考?)の土壌になる精神はどのようなものか、またその精神はどのような歴史を元に育成されるのかということです。

 なぜ急にこんなことを聞き出したかなのですが、日本人の技術力(匠的なもの或いは業)の源には日本的なアミニズム、つまり石ころも神様、川も神様、等のあれもこれもみんな神様的な思考が関係しているのではと最近考えたからです。」


「身心一如」とは、「梵我一如」にも相当する難しいテーマですね。

身は生物学的肉体という理解でとりあえず済みますが、心とは何かという問題が浮かび上がります。
人を構成するものは、身と心だけなのかという問いもできます。(霊の存在を意識した表現)

「身心一如」と提示されたのだから、心は、頭脳の働きのみを指すのではなく、体感・情念的揺らぎ(好きな女性に遭遇したときのときめきや悪を見たときに瞬時に出てくる心情など)・物事を判断する思考などといった非身体的なものすべてを包摂するものだろうと受け止めます。

このような意味での心は、頭脳や心臓といった特定部位に存するものではなく、ひょっとしたら身体も含む人そのものかもしれないと考えることができます。
(これ自体が「身心一如」に近い観念です)

ちょっと脇道にそれて、人(個)しか存在しない世界を考えてみます。

外的存在はまったくないのですから鏡も他者も存在しないわけで、自己の姿形を知ることさえできません。(目も耳も鼻も不要なものでその役割を果たすことはない)
日本の夏ならべたつきとして感じられる大気もありません。
空間が自己に限られているわけですから、身動きもできません。(身動きしたいという欲求すら生じない)
他者がいないので言語を修得することができないため、言語(概念)的思考もできません。
(食べ物さえないのですから、余命いくばくもない状況ですがそれは捨象してください)
このような状況にある人とはどのようなものなんでしょう。
確かに存在しているわけですが、自身の心臓の鼓動をはじめとする生体的脈動以外を感じることはありません。言語を修得していないので、感じることの“意味”を考えることはしないはずです。


ここに「身心一如」性の思念的根源があるととりあえずしておきます。

現実に戻ると、状況は一変します。人という生き物が持っている“力”が一気に開花する世界です。
大気だけではなく他者の暖かい手を体感し、自分の手でいろいろなものの手触りを体感します。
彩り豊かで多様なかたちをもった存在者を見ます。(自分自身を媒介的に見ることにもなります)
不快に感じたり心地よい音を聞きます。
不快に感じたり心地よい匂いを嗅ぎます。
口で味わう経験もします。
限られてはいますが動くこともできます。

聞く音のなかに“意味”があることをなんとなく感じるようになります。
感じるままに口から発した音に、他者が応じることも感じます。
自分の感覚・感情の変移や外的存在との関わりがある種の音と結びつく経験を重ねることで、音の“意味”を知ることになります。(言語の修得過程です)

次には、自分の感覚・感情の変移や外的存在との関わりに対して、自分が“意味”を付与することが始まります。
それが体系的なものにまで進むと、自分の内に「世界」が築かれることになります。

これが「梵我一如」が成立するとりあえずの根源的根拠だとさせていただきます。

このようなことを書いたのは、主観―客観構図という観念の虚妄を説明したかったからです。

(説明しなかった、外的存在のみの存在、すなわち、人(自己)の不在は「世界」を生成させないであろうという観念の正当性は、ここまでの説明でご理解いただけると思います。いわゆる客観的存在こそが“無”なのです。もちろん、思念的に想定した世界でわかるように、主観(主体)のみも、無明の世界であり“意味”もありません)


テーマの元になった「日本人の技術力(匠的なもの或いは業)の源には日本的なアミニズム、つまり石ころも神様、川も神様、等のあれもこれもみんな神様的な思考が関係しているのではと最近考えた」ことに移ります。

結論的に言えば、上述した意味での「身心一如」や「梵我一如」を思念としてではなく体得している(いた)ことが、日本人の技術力を高めていた一つの要因だろうと思っています。

主―客構造の意識であれば、外は対立するものとして受け止めることになります。
それからは、働きかける対象が持っている“美”や“機能”を存分に引き出す成果は生まれません。
「梵我一如」であればこそ、働きかける対象が持っている“美”や“機能”を存分に引き出すことができます。(針供養に見られるように、手段に対してさえ暖かい眼差しを向けてきたのが日本人です)

「石ころも神様、川も神様、等のあれもこれもみんな神様的な思考」も、対象に対する畏敬の念の現れですから、それらの存在“意味”を考えさせる意識につながります。
ただの石ころと考えるよりも、石ころも神様と考えるほうが、対象認識もより深まります。

※ 重いテーマですしちょっと所用もありますので、第一弾はこのへんにさせていただき、レスをいただいたり、自分の考えが進んだらまた書くというかたちで進行させていただきます。(説明不足であることは自覚しております(笑))


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