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琉球弧北端から 昆布の道/解放の舞台裏 TUPの場合/サバニの結ぶ海
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投稿者 なるほど 日時 2004 年 12 月 09 日 10:29:12:dfhdU2/i2Qkk2
 

(回答先: 琉球弧北端から 水惑星の血脈に触れて/次の一歩は前へ/海を渡る記憶 [星川淳氏/琉球新報] 投稿者 なるほど 日時 2004 年 12 月 09 日 10:27:16)

「琉球弧北端から」第4回
琉球新報 2004年4月3日掲載


■昆布の道■

 北の海の産物である昆布の消費量で沖縄が国内一、二を争うことは、海洋民としてのアイヌ民族を取材したとき知った。ただし、アイヌとウチナンチュが日本列島の南北に分かれた縄文・先住系の血を共有するから、味覚も似ているという単純なつながりではない(それも関係がありそうだが、きちんとした研究を見たことはない)。

 前回に続いて、話は古代の潮路に遡る。アイヌといえば北海道、しかも狩猟採集民のイメージが強いけれど、かつて北はクリル(千島)列島を通じてカムチャツカ半島、西はサハリン(樺太)経由でアムール川(黒龍江)流域まで、漁労と交易の輪を広げる海の民でもあった。いや、多毛や二重まぶたなど、むしろ南方系と思われる遺伝形質からして、もともと南にルーツをもつ海洋民の末裔なのかもしれない。環太平洋地域の先住民文化に触れてきて、私はアイヌとオーストラリアのアボリジニ(原住民)との近縁を直感した。とりわけ十九世紀の古い写真など見ると、二つの民族の似姿に驚くはずだ。

 アイヌが海を渡った舟は、「イタオマチップ」(板綴り舟)の名のとおり、丸木舟の舷側に何枚もの板を綴り合わせて高くしたもの。興味深いのは、車櫂[ルビ=くるまがい]と呼ばれるオール式の漕法で、アムール地方を通じて取り入れた中国伝来らしい。もちろん、サバニと同じく遠出には帆も使う。近年、このイタオマチップを復元して、航海にも挑戦しようという気運が高まり、元気なアイヌ青年たちがカナダ先住民の伝統カヌー復活祭「トライバル・ジャーニー」に参加したりしている。梅雨明けの恒例となった座間味・那覇間のサバニ帆漕レースにも、いつかゲスト参加してもらってはどうだろう。

 さて、アイヌがアムール交易から持ち帰って愛用していたものの中に、トルコ青(ターコイズブルー)系の美しいガラス玉と、きらびやかな絹の錦織があった。後者は、辺境少数民族が中国朝廷に献上する貢物への返礼として流出した官服で、アイヌ首長たちが好んで着用したという。江戸の鎖国時代、長崎の出島に限定された表の対外貿易窓口とは別に、北の蝦夷地(北海道)と、南の(薩摩経由)琉球が、大陸との二大密貿易ルートとして台頭すると、ガラス玉は「蝦夷玉」、絹の官服は「蝦夷錦」の別名で内地和人の人気を博した。蝦夷玉はいまでも骨董の煙草入れ根付に見られるし、華やかさから陣羽織に使われた蝦夷錦は、西陣織の銘柄に名を残す。中国からの密輸品であることを隠すため、漢方薬原料などとともに、これらを「蝦夷物」と偽称したのがおもしろい。

 いっぽう代価として中国へ持ち出されたのが、いわゆる俵物三品(干ナマコ、フカヒレ、干アワビ)のほか昆布や毛皮で、江戸後期、対中貿易の支払いに使う金銀銅が不足し、それをバーター交易で補うようになって物流が増えた。南ルートの密貿易でも、蝦夷地を含む北日本の産物を長崎へ運ぶと見せかけて、琉球へ横流しする「抜け荷」が流行る。一六〇九年の薩摩侵攻によって幕藩体制に組み込まれながら、従来の冊封体制を通じて中国の服属国でもあるという二重帰属状態の琉球王国は、形式上、徳川幕府から対中貿易を黙認されたのだ。ここで活躍したのが薩摩と琉球の船乗りたち。十六世紀に環東シナ海地方を席巻した倭寇のネットワークも、海路密貿易の担い手を育てたことだろう。

 アイヌが採った昆布をウチナンチュが食べる習慣は、こうして生まれた。その背景には、海洋民としてのアイヌ交易圏のほか、琉球王国が薩摩支配に甘んじつつ、大陸とヤマトの両政権を相手に、絶妙かつしたたかなバランス外交を展開していたことなど、これまでの鎖国像におさまらないダイナミックな日本列島民の営みがうかがえる。また、薩摩藩の財政が、かなりの程度まで琉球経由の密貿易で支えられていたであろうことを考えると、明治維新の人的・政治的・経済的・技術的パワーも、蝦夷―隼人―琉球の先住系コネクションに隠れた淵源をたどれるかもしれない。

 じつは、沖縄を押さえて昆布消費のトップは富山である。蝦夷地と琉球を結ぶ航路が主に日本海側を通り、その中心地が北前船のメッカ北陸だったためだろう。「蝦夷物」と偽って流入した中国産の漢方薬が富山の薬売りを育て、全国津々浦々を行商する彼らが、しだいに政治経済を動かす諜報ネットワークを築いた。薩摩藩内で例外的に営業を許され、北日本から薩摩・琉球への抜け荷を管理調整した富山売薬の特殊組織「薩摩組」の存在は、その象徴ともいえる。おそらく、江戸から明治へ向かう激動の中で、こうした知られざる人脈と情報と資金の果たした役割は小さくない。沖縄に薩摩組の足跡をたどってみたら、琉球弧の交流史が奥行きと広がりを増しそうだ。



「琉球弧北端から」第5回
琉球新報 2004年5月1日掲載


■解放の舞台裏 TUPの場合■

「今井くんがイラクで拘束されたぞ!」翻訳グループの仲間から電話があったのが、テレビ画面の端に速報テロップが流れた数分後。それから解放まで、書斎のパソコンが緊急対策室になった。日本中、いや世界中で、そんなミニ緊急対策室が無数に生まれただろう。

 四月八日、ファルージャ近郊で武装組織に拘束された三人のひとり今井紀明くんは、二〇〇三年三月の米英によるイラク侵攻直前、私が呼びかけ人となってインターネット上で結成した「TUP」(Translators United for Peace=平和を求める翻訳者連合)の最年少メンバーでもある。TUPはマスコミが無視したり見逃したりする海外の記事や論考から、イラク問題を中心に世界が平和を取り戻すために役立ちそうな情報を翻訳し、「TUP速報」というメールニュースの形で無料配信している。結成以来一年あまりで、三〇〇本近い速報を送り出してきた。国内だけでなく世界各地に散らばる実質三〇人ほどのメンバーは、もちろん全員ボランティア。今井くんはたまに書き込む程度だったものの、高校生(当時)とは思えない深みと幅の問題意識を持ち、何本かユニークな配信記事を書いてくれた。とりわけ、私を含め多くのメンバーがイラクやパレスチナ、あるいはアメリカの軍事帝国化と小泉政権の追従といった視点に偏りがちなのに対し、「アフリカを見落としてはいけない」と、エイズや飢餓の現実に注意を促す真摯な姿勢が印象に残っていた。

 TUPメンバーは彼のイラク入りを知らなかったので青天の霹靂だったが、まず大手新聞のネット速報と前後して三人の拘束に関する「臨時ニュース」を配信し、救出への模索を開始した。手はじめは、とにかく三人が自衛隊や占領関係者ではなく、それに反対しながらイラクの人びとを助けようとする一市民でありジャーナリストであることを、犯人グループに伝えなければならない。事件を報道したアラビア語衛星放送アルジャジーラの英文サイトにそのことを説明するメールを送り、なるべく多くの人がそうするよう呼びかけた。同時に、三人の解放と彼らの人道的な活動内容を訴える英文アピールを、手分けして世界中に発信した。また、国内では政府・国会議員に自衛隊撤退も視野に入れた救出努力を求め、TUP中心メンバーのひとりは、逢沢副外相ら外務省チームと別働隊でヨルダン入りした民主党救出チームの支援に全力投球した。この事件で小泉政権が実質的な救出に役立たないことは、当初から予想がついたからだ。実際、逢沢チームは各国政府に電話で協力要請するほか、ほとんどなすすべなくテレビを見ていたという。

 その他、TUPとしても私個人としても、英日双方向の翻訳作業を次々とこなし、同じく考えつくあらゆる手を尽くそうとする国内外のさまざまなグループと連携しながら、(1)イラク国民、ひいては犯人グループに三人はイラク人の友であることを伝える、(2)事件の引き金となった米軍によるファルージャ虐殺など、引き続きイラク情勢の実態を日本に伝える、(3)三人の安否確認と具体的な救出の可能性を探る――という三面作戦を続けた。TUPが特別だと主張するつもりはない。政府情報を垂れ流すばかりのマスコミの裏で、無数の人びとがインターネットを主な媒体に、文字どおり寝食を忘れてこのような努力を行なっていた事実を記したいだけである。今回三人が、また続く二人が無事解放されたのは、第一に彼ら自身の日頃の活動と誠意が犯人を含むイラクの人びとに通じたこと、第二にこうした国際的なNGOと市民、そして何よりもご家族の必死の努力がアラブ圏のマスコミや世論を動かしたことにより、最終的にはイスラム聖職者協会の説得と保護が可能になったおかげであって、無策どころか救出の足を引っぱり、最後には愚劣な自己責任論で三人と家族に恐喝同然のいやがらせをした日本政府の手柄ではない。それは、イラクの現場、ヨルダンを含む外務省の動き、首相官邸に近い報道関係者からの情報で裏づけられる。

 真相はむしろ単純で、犯行グループや聖職者協会が主張するとおり、人質事件は対米追従の自衛隊派遣と直結しており、それが政権の命取りになることを恐れる首相周辺は、ネット風説にすぎない三人の自作自演説に飛びついて、犯罪者扱いに向けた世論誘導を目論んだのだ。その後の二〇億円などという法外な救出費用請求論と併せ、無条件の国民庇護義務もわきまえない小泉政権が国際社会を仰天させる浅ましさをアピールしたのと、高遠さんら五人が新しい日本人像を全世界、とりわけイスラム圏に印象づけたのと、どちらが本当の「国益」に寄与したかは明らかだろう。拘束時より解放後の精神外傷に苦しむ先の三人が元気を回復して、のびのびと事実を語り、それぞれの活動を続けられるよう心から願う。不法な戦争と占領によるイラク人の窮状は、まだまだ終わりが見えないのだから。

今井紀明著「黄色いハンカチが舞う『銃後』の町で」
http://www.n-and-h.co.jp/archive/imainoriaki.html
TUP速報
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/



「琉球弧北端から」第6回
琉球新報 2004年6月5日掲載


■サバニの結ぶ海■

 ここ数年、沖縄で梅雨が明ける六月下旬には、座間味・那覇間「サバニ帆漕レース」の観戦に通っている。今年五回目になるこのレース、各地恒例のハーリー(糸満はハーレー)競漕と違い、名称どおり昔ながらの帆かけサバニを使うところがユニークだ。私はただの野次馬で、運営に関わるわけでも、乗り手として参加するわけでもないが、レース創設前夜にポリネシア、ミクロネシア、北米北西海岸の伝統カヌー復活を取材し、サバニや種子島の丸木舟など、琉球弧古来の海路交流についても調べてきたため、サバニの帆走技術を未来へつなぐことへの共感は強い。

 屋久島がトビウオの水揚げ日本一だという事実はご存知ないだろう。二隻一組で魚群を囲い込み、最後に片船から一人が海に飛び込んで親船に網の端を届ける漁法は、沖縄の匂いがする。それもそのはず、戦後の屋久島でトビウオの追い込み漁を開拓したのは、少年時代に「糸満売り」(イトマンウイ)という契約奉公で沖縄へスカウトされ、糸満漁師に叩き上げられた奄美の与論島出身者だった。太平洋戦争の兵役が終わったあと、沖縄と同じく米統治領になった故郷に帰れず、何人かが屋久島に住み着いたのである。

 漁師志望だった愚息が、この与論出身者の第二世代に師事した関係で、第一世代の老漁師から昔話を聞く機会があった。それによると、帆かけサバニを駆って琉球弧ばかりか遠くは四国や山陰方面まで、自由に往来したものだという。糸満漁師の出稼ぎ拠点の一つだった長崎県の五島列島に、自然分布とかけ離れたガジュマルの大木があるのは、こうした人びとが持ち込んだのではないか。屋久島南部の集落にも、川辺に鬱蒼とガジュマルが立ち並んでいて、琉球文化圏との古い交流を物語る。

 いっぽう隣の種子島にも、糸満漁師の父親がサバニでふらっと立ち寄り、気に入って移り住んだという老人がいる。やはり独特の漁法で海産資源を掘り起こし、地域に貢献したそうだ。種子島は昔から沖縄との絆が強い。島主・種子島家の後継ぎが成人儀礼として、ひと冬を沖縄ですごす「琉球旅」の伝統などもその一つだ。どうやら前身は、秋に吹くアオギタ(青北)でいっきに沖縄へ渡り、翌年の梅雨明けに吹くアラバエ(新南風)で戻る、男子通過儀礼の冒険航海だったらしい。数人のベテランと帆かけ丸木舟で出かけ、半年以上滞在するあいだに琉球の歌舞音曲を習い覚えたり、場合によっては女性の初体験もすませたりして、無事帰還すれば一人前の男と認められた。

 また最近では、一九九五年にミュージシャン喜納昌吉率いる「サバニ・ピースコネクション」が、帆かけサバニで沖縄県内全域をめぐったあと、琉球弧づたいに広島の原爆投下五〇周年式典へ平和の願いを届けた。帆走サバニが沖縄とヤマトを結んだのは、これが戦後初だったかもしれない。今年はサバニ帆漕レース直後、オーシャンアスリートの荒木汰久治らが、沖縄から南伊豆まで双胴仕立ての帆走サバニによる列島縦断をめざす。近年、ヨットやシーカヤックでの琉球弧走破は珍しくないが、サバニのような伝統船が蘇らせる海の道には、縄文から未来へ続く歴史の深みが覗く。いつか石油資源が絶えたとき、潮路の主役はふたたび有機材料の帆走船に移るだろう。

 主役といえば、悲惨な沖縄戦の中で、サバニが主役を果たした不思議なエピソードが忘れられない。米軍の猛攻で沖縄守備軍司令部が首里から摩文仁方面へ撤退しはじめていた五月三〇日、陸軍作戦参謀の神直道中佐と部下の藤田忠雄曹長、それに沖縄防衛隊の糸満漁師六人を乗せたサバニが、密かに糸満名城海岸を船出する。参謀みずから東京の大本営に赴き、航空部隊の支援を直訴するため、米艦船が埋め尽くす海を突破して奄美へ脱出する決死行だった。のちに「隠密サバニ隊」と呼ばれる八人は、悪天候や米軍の哨戒艇・哨戒機を衝いて東海岸を北上。昼間は海辺の洞窟などに隠れ、夜闇にまぎれて文字どおり必死の帆漕だ。米艦に見つかりそうになったときは、サバニを転覆させて身を潜めた。そして六月七日、みごと与論島に到着し、そこから一行は軍の動力艇で沖永良部へ、徳之島へと移送される。神と藤田は、応急修理した特攻機で鹿児島へ飛び、十五日には大本営への直訴を果たした。しかし、本土決戦=沖縄切り捨ての既定方針を覆すことはできなかった。

 この作戦で漁師のリーダー格を務めた高嶺正戸氏は、そのまま徳之島に住み着いて糸満出身の女性と結婚。息子の正行氏はヨットマンで、サバニ帆漕レースの仕掛け人でもある。沖縄では有名な逸話かもしれないが、慰霊の六月に改めて記したい。(参考=高嶺正行氏談、真久田正著『隠密サバニ隊』、神直道著『沖縄かくて潰滅す』他)

http://blog.melma.com/00129310/?of=6
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