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Re: アショーカ王の功罪(保存用関連投稿資料)
http://www.asyura2.com/0403/lunchbreak3/msg/162.html
投稿者 M 日時 2004 年 4 月 15 日 14:21:01:VPdJQY7Yqhnm.
 

(回答先: どうも 投稿者 まっくす 日時 2004 年 4 月 11 日 02:14:27)

とりあえづ、ここで後ほど引用し投稿するための保存用関連資料です。

特に注視されなくても結構です。


アショーカ王の功罪

http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/00_01_04.html

質問

 インド仏教はアショカ王によって全国土に広められ、それにより戒律や教義上の対立を引き起こしたとありましたが、これについてもう少し詳しくしりたいです。
 なぜ広く広まったことが衰退の原因になったのですか。やはりその土地の文化や風土と関わりあって仏教もそれぞれ変化していったのでその土地ごとの教義の差が生まれ、対立に結びついたということですか?  お願いします。

2000/1/4

返答

 仏教にとってアショーカ王は教えの実践者として、また法を広めた聖王として、大功労者であるのは間違いないのですが、その業績が多大だからと言って、決して問題が起きなかったわけではありません。
 しかし問題点を述べる前に、その偉大な業績を称えるのが順序と思いますので、まず後世に聖王とされる程になった、王の足跡を追ってみましょう。
◆ アショーカ王の足跡

 アショーカ王が、マウリア王朝第三代の王位に就いたのは、西暦前268年のことと言われておりますが、即位8年目にインド史上最大の統一帝国を建設する野望を果たします。しかし、その最後の仕上げであるカリンガ(当時非常に裕福だった)を征服する戦争は悲惨をきわめ、10万人の戦死者を出し、15万人が捕虜となってインド各地に送られ、その数倍の人々が戦禍を被ったとされています。
 悲惨な現状を目の当たりにし、アショーカ王は、武力による征服から、法による征服へと政策を転換します。また、統治の理念や事業を法勅として岸壁や石柱に刻み、謎の多いインドの歴史に、ようやく光の当たる事跡を残したわけです。

 それによりますと、まず、人間や動物に対する不殺生、不障害を述べ、武力行使の中止を宣言します。また、バラモンたちの行う動物を犠牲にする儀式への疑問と、楽しみのための狩猟も差し控えるように述べられます。

 次に、両親や長上への尊敬と従順、友人親族への尊敬と正しいとり扱い、宗教者に対する敬意と布施、貧者や身寄りの無い者など弱者の保護、使用人の正しいとり扱いなど、人間関係の倫理の強調します。
 そうした他人に対する慈悲の心は、アショーカ王自らも実践し、並木道、休息所、井戸、薬草や施療院の設置、囚人の特赦等を行います。

 そして、万人が自らに課すべき自制、柔和、報恩、信仰、ダルマに対する敬意を述べます。つまりアショーカ王は「ダルマの征服」という法治国家を目指したわけで、そのため、『法大官』の制度を設置し、ダルマが各地の行政面に生かされているか監視し、王自らも各地を巡行してその促進に努めたといいます。

 また、自らは仏教に帰依し、熱心な仏教徒であることを明言し、師と仰ぐ仏教僧がいたことが知られています。
 王は仏教の聖地を巡礼し、比丘・比丘尼の理想、実践の道在家者の守る七種の法門も示しています。特に教団の本拠地には、教団の和合を乱す者は還俗して教団を追放するよう警告までしています。
 その他、「ブッダ最後の旅 E」でも書きましたが、仏舎利塔を開き、あらためて舎利を分け、八万四千の仏塔を建てたといいます。

 アショーカ王が仏教を保護したもうひとつの理由としては、インド統一によって多くの民族・種族を抱え、また他国との公益・交流も進めていたため、その必然として国家理念を確固とした教えにする必要があったためと思われます。部族や血族のみで結束していた時代は、その土地独特の宗教や慣習に従えば事済みますが、多様な価値観が入り乱れるようになると、それらを超えた普遍性が求められる訳です。
 逆に言うと、仏教が不必要な国家や弾圧する権力者が出てきた時というのは、その国がきわめて極小の価値観で済む体制であり、普遍性を持たない狭い文明であったということを表しています。

 ただし、アショーカ王は仏教を国民に押し付けたりはせず、ヒンドゥー教、ジャイナ教、アージーヴィカ教などにも布施し、外護しています。
◆ 波紋を呼んだ統一政策

 このような偉大な業績を果たしたアショーカ王でしたが、その理想を追う行動が、様々に波紋を生んだことも確かです。
 例えば、経典の第三結集の経緯について、南方伝承が伝えるところによりますと――
アショーカ王は八万四千の精舎を建立し、僧院に多大の供養をなして自ら教法の相続者であるという。しかし、モッガリプッタ・ティッサ長老は、資具の寄進は教外者のなすべきことで、自身の後継者を出家せしむるものこそ、教法の相続者であると説く。そこでアショーカ王は、子のマヒンダと娘のサンガミッターを出家せしめ、二人は具足戒を受ける。アショーカの仏教僧伽に対する供養のために外道らが七年間精舎に住して布薩を行っ た。しかし長老らはその布薩に出席しなかった。仏滅二三六年に賊住比丘は六万に達し、阿育園に住して教法を損なった。アショーカは僧院の混乱を収拾するために、アホーガンガ山に引退していたモッガリプッタをパータリプトラに招く。彼は一千比丘を招集し、分別論者を正統として、他の異端論者を還俗せしめ、『論事』を編集した。

とあり、王の仏教への傾倒、多大の供養が、結局僧院の混乱を招いてしまいます。

 この論事の編集は『第三結集』と呼ばれるものですが、南伝では、こうして国王公認の正法が確立されて、インド各地に伝道師を派遣させたという伝承が残っています。特に南方仏教教団はこれを重要視し、今でもこれを歴史的事実として敬い、これこそ正統性を持った教法という主張をするのですが、北伝その他の伝承とも食い違いがあり、このあたり、教団の分裂がかなり進んでいた、という見方ができるわけです。

 これはどういう訳かというと、当時、インド各地で地道に仏教の開教に努めていた高僧が多くいたが、仏教の特徴として、教えには広範な内容があり、その地方に受け入れやすい、もしくは布教に従事した僧の傾向が強く出ていたものと思われます。
 そこにインド全般を政治的に統一したアショーカ王が出現したため、上座部系と有部系がこれを自派の正統性を主張する材料にしたかったため、伝承に違いが生じ、結果として、分裂を決定的にしてしまったようです。
 つまり、政治の統一を、仏教界の統一にまで浸透させたかったアショーカ王の野望が生んだ計算違いの分裂と言うわけです。

 しかし、アショーカ王によって、仏教は飛躍的な発展を遂げ、世界宗教としての文化的な基礎が形作られ、マウリア王朝が滅びた後も、その文化は進展を続けます。そして仏教教団は、僧院の建造・開窟、経済的安定、教学の整備、造塔が行われ、仏教美術や仏像製作へと文化が開花してゆきます。

 ということで、教義上の対立を決定的にしてしまったアショーカ王ですが、結果として仏教の発展に多大な寄与があったことは確かです。

 蛇足になりますが、現代社会の国際化、グローバル化も同じような危険を孕んでいて、全体を無理に統一させることが、必ずしも平和への道とは限らず、発展の裏にむしろ世界各地で内乱を招いている現状は、歴史を超えた警告のように思われます。

【参考: 世界宗教史叢書7仏教史T/奈良泰明著/山川出版社 ・ 世界の歴史6古代インド/佐藤圭四郎著/河出書房新社叢 ・ 大法輪選書18絵図入り仏教入門】

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浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)


アショーカ王の変身   インド史06
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/02_indo&SAasia/02-06_ashoka.html
「インドが統一国家であったのは2度しかない。アショーカ王のときとイギリスのヴィクトリア女王のときである」

インドの多様さを物語るとき、皮肉めいていわれる言葉である。ヴィクトリアはさておき、マウルヤ朝第3代国王アショーカ王(位前268頃〜前232)は確かに強大な支配者として君臨したようである。

インドの多くの王と同じように、彼の生まれや即位までのことはあまりよくわかっていない。流血の王位継承争いののち、99人の異母兄弟を殺して即位した、とも伝えられている。

「国王となったアショーカは、彼を軽視して命令に従わなかった500人の大臣と、彼を侮辱した500人の宮女とを自分の手で殺した」

「初め無憂王は即位の後、行い甚だ乱暴で、地獄(牢獄)を作り人々を殺害した……諸種の責め具を用意し、様子を冥途になぞらえ、凶暴な人を募集して獄主の役につけた……ここに来るものはみんな死んでしまい……」

即位直後の王は、力づくの統治をしたようがうかがえる。

凶暴な王は、チャンダ=アショーカ(暴悪阿育)と恐れられた。即位後8年、アショーカ王は、インド南部のカリンガ国と戦った。王はこの戦いで殺戮のかぎりをつくし、勝利した。

「……(カリンガ国征服の際)、15万の生類がその地から移送され、10万がその地で殺され、その幾倍かが死んだ。……」(『磨崖法勅』第13章)

このカリンガ戦争の後、王は武力による領土拡張政策を放棄し、ダルマ(法)による平和的統治を宣言する。

「天愛(アショーカ王)は、熱心なダルマの遵奉、ダルマに対する愛慕、ダルマの教導に務めている。……それゆえ、カリンガ国を征服したとき殺され、死に、移送された人民の100分の1あるいは1000分の1の者が同様の不幸に遭っても、天愛は今や悲痛と感じるのである」(『摩崖法勅』第13章)

これ以後、王は、ダルマ=アショーカと呼ばれるようになる。

ダルマによる統治理念の普及のため、各地に王の政治の基本方針を刻ませた石柱や磨崖碑を建て、通商路を整えて宿駅を設け、貨幣を流通させて商工業を保護し、貯水池などの灌漑施設の建設を奨励して農業の発展にも努めた。さらに、各地に巡行して民衆と接したり、貧者・病人のための施設をつくるなどの政策を行った。チャンダ(暴悪)からダルマへ(法)へ、王は見事な政治的変身をとげたのである。

王はまた、仏教への信仰を深めていった。第三結集をパータリプトラで行い、ブッダ入滅のときに8ヶ所に分けられた舎利を再発掘して、これを分骨し、8万4000のストゥーパ(塔)をつくった。仏教が全インドに広まったのは、彼の功績である。

「変身」前の王の残虐な行為が、すべて史実を描写したものであるとは考えられない。仏教に改宗したことを際立たせるための強調表現であるとする解釈が一般的である。

しかし、カリンガ征服によって、マウルヤ朝のインド支配はひとまず完成した。征服の時代が終り、内政の時代に入ったのである。しかも、マウルヤ朝が征服・支配した地域には、実に様々な種族が含まれていた。

マウルヤ朝にとって、ヴァルナを否定し、すべての人が守るべき普遍的な法を説く仏教は、統一国家の宗教としてふさわしいものだったにちがいない。伝承によれば、36年間にわたる長い治世の後、王は幽閉され、悲劇的な死をとげたという。

王の死後、半世紀してマウルヤ朝は崩壊した。 

  

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